Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2013年12月までの「きのうの話」へ




 

2013.12.28
 前歯がだめになった。残念ながら手遅れ。抜かなければならないという。
 札幌にいるとき、1年半通院して歯周病を治した。徹底的に治してもらったから、これで一生保ってくれるだろうと思った。
 それで安心したのが悪い。京都に来てからは6年間、1回も歯医者に行かなかった。
 すると2年ほど前から、下の前歯2本がぐらつきはじめた。
 虫歯は何本かあるが、歯そのものは、まだ1本も抜いていない。なんとかしていまの歯をまっとうさせてやりたいと、以後注意はしていた。
 ところがこの夏、うっかりがぶっとやって、しまったということになった。
 以来、ぐらぐらどころか、左右の歯に支えられて、やっと立っているありさま。医者に行かざるを得なくなった。
 それでもまだ、接着剤のようなもので固定したら、なんとかなるんじゃないかと楽観的に考えていた。
 医者の見立ては冷酷非情。とっくに死んでいると宣告された。
 そればかりか、ほかにも2本、瀕死の歯があるという。都合4本。
 親からもらった歯を、いまになって抜かれるとは、なんとも面目ないし、第一口惜しい。未練たらたらなのである。

 今年もあと数日。
 本来なら仕事に追われているはずだが、今週はなにもできなかった。
 かみさんの年賀状づくりが難航し、この数日つきっきりだったのだ。
 これまでずっと、パソコンに入れてあった年賀状ソフトを使っていた。
 ところが秋にパソコンを替えた。ふつうの機種変更ではない。頓死したから、あわてて買い換えたもの。
 メールアドレスは、予備を取ってあったからことなきを得たが、はがきソフトまで気が回らなかった。
 いざ年賀状をとなってみると、ぜろだったのである。
 こんなものに金を使うのはもったいないから、無料ソフトを導入して、それですまそうとした。
 そしたら機能がいまいち、いまに。あらたな住所録をつくるだけでひと苦労した。
 結局業を煮やし、最後はあたらしいソフトを買ってきた。一文惜しみせず、はじめから買いに行けばよかったのだ。
 と、いつものことながらドジな年の瀬であります。
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 本日は、草津宿の本陣をご紹介する。
 江戸を出発した東海道と中山道が合流するところ、それが草津。この先は大津、京都しかない。
 その草津で、ほぼ完全に残っているのがこの本陣。数年前に修復工事が終り、一般公開されている。
 明治天皇や皇女和宮が昼食を取られたことも、新選組の土方歳三が31名の隊士を引き連れて泊まったこともある宿。


写真@ 左右の部屋の真ん中にある畳廊下。殿様が宿泊する部屋は左のいちばん奥にあるが、ふだんはこの廊下にも襖が入れてあり、大人数のときは、ここでも寝泊まりしていたという。


写真A 台所。これが全部ではありません。


写真B 模型で見る当時の草津宿。四という旗の出ているところが本陣。参の旗はつぎの写真の、道標が立っている高札場。
 すなわちこの四つ角が、東海道と中山道の合流地点だった。
 中山道は左から真っ直ぐ前方へ。東海道は右へ直角に曲がっている。
 かたわらに見えている川は草津川。
 しょっちゅう洪水を起こした暴れ川で、そのたびに堤防の嵩上げをしたから、いつしか川のほうが町より高くなった。
 江戸時代末には、もう天井川になっていたらしいが、現在は川を付け替えたので、水は流れていない。
 草津市民が洪水の恐怖から解放されたのは、平成になってからのことである。


写真C 高札場に立っている道標。「右東海道いせぢ」「左中山道みのぢ」とある。
 後に見えている高架のようなものが草津川の堤防。


2013.12.21
 今週は湖東3山を巡ってきた。まえまえから行きたかったところだが、あいにく足の便がないので、なかなか行けなかったのだ。
 今回は取材ということで、タクシーをチャーターしてもらったから、この際欲張って中山道の宿場町も5箇所、まとめて回ってきた。

 今回行った中山道は、美濃から近江に入って最初の柏原(60番目)から64番目の高宮まで。
 この地域、現代の地理状況からいえば完全に取り残されている。それだけ宿場町の面影がよく残っており、得がたい歴史教材になっている。


(1番目の醒ヶ井宿を流れている川)
 源泉は何カ所かある湧水。澄みきった流れには梅花藻が密生し、夏になると梅の花に似た白い花が咲く。
 50年まえに一度来ているが、川のたたずまいはいまも変わらず。それがなによりうれしかった。


(番場宿から摺針峠を越えたところにある茶屋の跡)
 和宮も明治天皇も休憩された茶屋だそうだが、平成になって火事で焼けた。いまの家はその後に建てられたもの。ただし営業はしていない。ここからの琵琶湖の眺めが有名だったという。


(摺針峠から鳥居本へ下る当時の中山道)
 わずか数百メートルしか残っていないが、それもごみだらけ。産業廃棄物の処理場まであって、ひどい状況になっている。
 あいにく翌日は天候がくずれ、冷たい雨の一日になった。条件としては最悪だったが、反面観光客はぜろ。古寺の侘びさびを堪能するには、こちらのほうがよかったかも。
 湖東3山は、いずれも比叡山延暦寺を総本山とする天台宗の寺である。おかげで信長に攻められ、すべて焼き払われる苛酷な運命に見舞われた。


(いちばん北にある西明寺)
 本堂と三重の塔は、山の奥深くにあったため、奇跡的に焼き討ちを免れた。ともに国宝。ごらんのように、溜息が出るほど優美な姿である。


(金剛輪寺の本堂。これも国宝)
信長によって火を放たれたが、寺僧らが必死になって消し止めたという。
 最後の百済寺は、近江でも最古の寺。しかも最大。1300名を越える僧兵がいたというから、寺そのものが巨大な城だった。
 したがって信長のはげしい攻撃を受け、全山ことごとく焼き払われた。
 いまの建物はすべて17世紀、慶安以後の再建。残念ながら文化財も灰になったため、同寺には国宝が残っていない。本堂が重文。
 参道の周囲に累々と残っている石垣は、かつての坊の跡。最盛期300を越える坊があったという。


(百済寺本堂と、そのかたわらの菩提樹)
 この菩提樹は創建当時からのもの。
 本堂が焼き払われたとき、その炎を受けてこの木も焼けた。だが残った株から生えてきたひこばえが成長し、いまの木になった。根元にある株が、当初のものだという。


 周辺の坊のうち、小さい石を積んだ石垣だけは、いまも残っている。
 大きな石はすべて持ち去られ、安土城の石垣にされた。このとき石を運んだ情景が、額絵となって残されている。小さい石は、見逃されたのである。
 すなわち百済寺城こそ、戦国時代最後の山城だった。そしてつぎの時代に生まれた最初の平山城が、安土城になるわけである。


 百済寺庭園から見た近江平野。あいにくの雨で視界が閉ざされているが、天気がよかったら真ん中に比叡山、右方に安土山が見える。安土城まで十数キロ。

 こういう寺を見てもわかるように、近江という国は、いまでこそ新幹線をはじめ、なにもかも素通りしているが、かつては国の真ん中、最先進地だったのである。
 その証拠に、国宝、重要文化財の建造物は、京都(291)、奈良(261)に次いで3番目(181)。4番目の兵庫が105件だから、いかに多いか、これだけでもわかるだろう。


2013.12.14
 まえから行ってみたかった観音寺山、別名繖山(きぬがさやま)界隈へ、まとめて行ってきた。

 この山、じつは安土城がある安土山と地つづき。東海道線はその間を、トンネルで潜り抜けている。
 安土城へ行ったとき、余裕があればこちらへも登りたかったのだが、かみさん連れでは無理とわかったから、今回ひとりで出直したもの。

 京都からの新幹線に乗ると、彦根の手前で左車窓に山が見えてくる。これが観音寺山で、山腹に観音正寺が見えると言えば、ああ、あの山か、と気づかれるはずだ。
 この山に惹きつけられたのは、麓から400メートルを越える標高まで、延々と石段が延びているからである。それがじつに3本もあるのだ。
 新幹線を挟んで、観音寺山の反対側にある、箕作山の瓦屋禅寺へ先月行ってきたのも、麓から山上のお寺まで、石段が一直線に延びていたからだ。

 地図でこういうものを発見すると、だったら登ってやろうじゃないかと、むらむらせずにはいられない性分なのだ。
 ほんとは山登りなど、大嫌いなのである。これ見よがしの長い石段が記入されているから、ついその挑発に乗り、登っているだけなのだ。

 ということで今回も出かけて行ったのだが、案の定、登りはじめて5分もしたら、大後悔になった。
 いやあ、きつかったこと、きつかったこと。
 なんでこんな意地を張らなきゃならんのかと、つくづくわが性分が情けなかった。
 それこそ20歩上がっては息を継ぎ、30歩上がっては5分休みと、ふつうの倍の時間がかかった。


 見てください。こういう石段が延々とつづくのである。
 石段の数も、700あまりまで数えたが、それまで。疲れてくると、とてもそんなことなどやってられない。
 上がりきったところに、観音寺城址がある。戦国時代最後の城で、安土城の直前。したがって天守台はない。この城には信長がやって来たこともある。


 搦め手から本丸へ出るところにある門の址。
 全山いたるところ、石垣だらけなのだが、規模が大きすぎるのと、管理が行き届いてないのとで、少々の時間では、とても全貌がつかめない。


 城内の石垣のひとつ。自然石をそのまま積んだ野面積みだから、高さはそれほどない。


 昭和45年に調査されたとき、掘り出された本丸への石段。
それまでまったく埋もれていたらしいが、いままた生い茂る草に没しようとしている。


 観音正寺の麓にある、紅葉の名所教林坊。白洲正子がいたく気に入った寺。


 そこから歩いて10分のところにある老蘇森。

 古来から多くの歌人に歌われてきた有名な森だが、いまではずいぶん狭くなっている上、新幹線と国道8号線が端のほうをぶった切っている。
 新幹線ができたとき、この森を横切っているのを知っておどろいたものだ。名前くらいは知っていたからである。
 堆積した落葉で、足下がふかふかするくらい鬱蒼とした森なのだが、静寂だけは、かけらもないのである。
 現在だったら、鉄道や道路が、こういう森を横切ることなど許されていただろうか。

 このあとさらに箕作山へ急ぎ、標高300メートルのところにある13仏という磨崖仏まで上がってきた。
 ただ日が暮れないうちにと、先を急いだから写真を撮っている間がなかった。
 この日、山中で出会った観光客は、教林坊をのぞくと、観音寺城址へ、車で上がってきた夫婦だけ。いつもひとりぼっちなのだ。

 さすがに疲れ果て、よれよれになって帰ってきた。万歩計が久しぶりに25000を記録した。


2013.12.7
 また12月。いつものことながら、あっという間に1年がすぎてしまった。

 残念ながら来年の春を目途に、京都から引き上げることにした。
 東京へ帰るというよりは、千葉に住まいを移したせがれのところへ行くもの。半分は末期対策だ。
 ほんとは、京都に未練たっぷりなのである。まる6年。実感では3年ぐらいにしか思えない。
 札幌が8年だから、合わせて14年の地方都市暮らし。
 どちらの街も気に入っていたので、こんなに長くなったのだが、内心はまだ、九州や北陸に住みたかったのである。

 口惜しいことに、それには年を取りすぎた。住むだけなら、いまでもできる。引越しに耐えられなくなったのだ。
 札幌に行ったときは、60代前半だったからなんともなかった。京都へは70をすぎてから来た。

 躰の衰えは意識していたから、引越はなにもかもやってくれる「おまかせパック」にした。
 たしかに、なにもしなくてよかった。ただしすべての場面に立ち合い、指示を与えなければならなかった。
 本棚だと、棚ごとにパックし、引っ越し先で元通り入れてくれる。しかし本の順序、並べ方まで元通りになるわけではない。
 あとで、ひとりで、使い慣れた棚にもどさなければならないのだが、これがうんざりするくらい面倒で、時間がかかった。

 本のことを考えただけで、二度と引越しはしたくないと思うくらい、気の重い、労役なのだ。
 もっともこれは、わたしが年取ったという証拠なのかもしれない。
 融通の利かない、気むずかしやになっていることは、自分でも認めている。自分の領域や痕跡を、他人に掻き回されたくないのである。
 したがって今度も、憂鬱な引越になるはずで、いまから考えても気が重い。

 一方で、京都暮らしもこれで終わりかと思うと、なんだかあせってきた。
 6年も住んだにしては、あそこにも行ってない、ここも見てないと、知らないことだらけなのだ。
 この年で去ってしまえば、もう関西へ来る機会はない。来るとしても、せいぜ1、2泊の旅行程度だ。
 というわけで、このところあっち、こっちと、めまぐるしく出かけているのも、いまになって、あわてているからである。
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 今回は、先週登った笠置山の写真をお目にかける。
 奈良との県境に近い木津川沿いにある笠置山は、かつて山岳信仰の聖地だったところ。花崗岩に刻まれた磨崖仏を本尊とする笠置寺が有名だった。
 ところが、後醍醐天皇が鎌倉幕府に反旗を翻し、この山に立て籠もったから(元弘の乱)事態が一変した。
 天皇は捕らえられて隠岐へ流され、寺は焼かれ、そのときの炎で磨崖仏は剥離して、弥勒菩薩像は永遠に失われた。
 と思ったら、現代の最新科学が、こののっぺらぼうの石から、過去の像を読み取って再現していた。すぐ脇のお堂の中へ、ネガ風の写真で展示してあったのだ。
 とにかく標高にして300メートル足らずの山が、全山巨岩だらけ。
 こんな大岩の前に立ったら。人間は、おのれの小ささを恥じ、拝みたくもなるだろうし、佛も刻みたくなるだろうと、なんとなくうなずけるような山なのである。


その磨崖仏。手前にある石造の十三重塔は、鎌倉時代のもので重要文化財。


この岩に刻まれている磨崖仏はまだ残っているが、石が大きすぎて、全体写真が撮れなかった。左下に写っている人を見て、石の大きさを察してください。




周回路を一周するのに30分かかるが、こういう楽しいところがたくさんある。


もう終わりかけていたが、紅葉の名所でもあります。


2013.11.30
 京都はただいま紅葉シーズン真っ盛り。

 永観堂の紅葉がじつにきれいだった。ただし大変な人。
 とかみさんが報告してくれたから、それではと当方も、翌日出かけてみた。
 人間は見たくないから、朝5時半、地下鉄の始発に乗って出かけた。

 南禅寺に着いたのは6時。びっくりしたことに、まだ真っ暗だった。
 毎日徹夜しているくせに、カーテンを閉めて籠りきりだから、外は見たことがない。
 いまの時期は、6時でも真っ暗なんて知らなかったのだ。
 写真は6時半の南禅寺山門。やっと夜が白んできたところ。


 つぎは天下の永観堂。日中だと拝観料が1000円必要だが、まだ受けつけていない。これは無料地域の写真。


 ついでに真如堂の紅葉も掲げておきます。


 こんな早朝でも、けっこう人が出ている。その大方が、カメラを持ったじいさん。こちらもそうだから、悪口は言えないんだが。

 27日も出かけた。
 まず朝6時の建仁寺。こういう気持ちのよい境内を、ただで、自由に歩けるのが京都のいいところ。


 清水寺は朝6時半から受けつけ開始(300円)。ただし数日の差で、紅葉はわずかに遅かった。


 7時から裏の東山に登った。将軍塚から知恩院へ抜けたのだが、朝まだきのうす暗い山中。
 多分だれにも会わないだろうと思っていたら、意外にも反対方向からひとり登ってきた。同じ年頃のじいさんでした。
 最後の写真は円山公園。


 前回は2万歩近く歩き、最後は腹が減ってひもじかった。こういう時間にやっている店は、そうないからだ。
 やっと河原町で、モスバーガーを見つけた。札幌以来だから7、8年ぶりのハンバーガーだった。
 あとになって、イノダコーヒーの朝食セットがあったのを思い出した。
 というのでこの日は、はじめから朝めしはイノダと決めて出かけていた。
 すると朝の8時半という時刻なのに、押しかけた客が店内に入りきれず、道路まで並んでいた。

 これだから観光シーズンの京都は……即刻退散するしかなかった。


2013.11.23
 京都水族館に行って来た。
 かみさんが大ファン。年間パスポートまで持っている。わたしははじめてだ。

 水族館はきらいじゃない。しかし各地にできている昨今の巨大水族館は、大都市が金にあかせて覇権を競っているみたいで大嫌いだ。
 それに比べたら、去年行った東尋坊の小さな水族館のほうが、はるかに楽しかった。
 中味はたいしたことないのだが、見せる工夫を懸命に凝らしており、大人でも楽しめた。そのまえに行った男鹿半島の水族館もよかった。

 京都水族館も、巨大水槽やイルカショーがあるところは、ありきたり。イワシの大群がぐるぐる回遊しているのが、まあまあ新鮮だった。

大水槽のイワシの群れ。ほかの魚の餌にもなるということで入れられたのだろうか。
群れから離れた1匹を、エイが食ってしまったところを目撃した。


 水族館計画が発表されたとき、なぜいまさら京都に、と反対の声が高かった。それを意識したのか、淡水魚の展示や保護に力を入れ、京都ならではの水族館をつくるということだった。
 事実鴨川に棲息しているオオサンショウウオが、展示の目玉になっていた。1メートルもある巨大なのが30数匹集められていたから、これは壮観だ。
 ただわたしなどは、子供のころ何回も本物を見ている。もちろん山深くまで行かないといなかったが、それほど珍しい生きものではなかった。
 むしろ西日本の、限られたところにしか棲息していない、と今回知っておどろいたくらいだ。
 淡水魚の保護育成も、たしかにやっていた。戸外につくられた里山では、フナやメダカがあたりまえのような顔をして泳いでいた。

屋上につくられた疑似里山。流れのなかにフナやメダカのいるのが、
じつはいちばんうれしかった。

 ああ、むかしはこうだったんだと、思わず涙腺がゆるんだ。
 これに混じって、ウナギの稚魚がひらひら泳いでいたら、まさに若かりし日のかの川なのだが、そういう時代はもう夢なのだろうなあ。


屋上から見た梅小路公園。前方にそびえているのは東寺の五重塔。

公園の一角につくられている庭園。この奥には自然の森がつくられ、
鬱蒼とした木立になりかけている

ここ、どこだと思いますか。梅小路貨車操車場の跡地なのである。
公園化が図られ、まだ20年たっていない。



2013.11.16
 夕方ジムに行ったところ、休みだった。5のつく日は休日なのである。
 昨日の段階では、明日はジムが休みだな、と思い出していたのだ。それが今日になるところっと忘れ、なんの疑問もなく出かけてしまった。
 それで自分に腹を立て、こういうときはうまいコーヒーを飲むにかぎると、ときどき行く珈琲店へ行き、アップルパイまで食って機嫌を直した。
 ところが勘定を払おうとしたら、財布がない。持ってくるのを忘れたのだ。
 あわてて弁明をして、すごすご取りに帰った。自宅から2分くらいのところだったから、まだ苦笑いですませられたが、最近この手の物忘れが多くなったから気色がわるい。
 飲み食いをして、勘定を払う段になって、財布を忘れていたのは、今年2回目だ。
 そのときは大阪へ行くつもりで家を出て、電車に乗るまえ、腹を満たしておこうと立ち寄ったレストランだった。歩いて5、6分のところである。
 風采の上がらないじいさんなんだから、無銭飲食とまちがえられないよう、せめて服装くらいきちんとしておこうと、あらためて思った次第である。

 今週も山科から北へ上り、東山の山中に分け入って、最後は日向大神宮という隠れた名所に出て、蹴上へ抜けてきた。
 全山快適な森なのだが、標識がほとんどないから、初心者向きではない。今回も道をまちがえ、小一時間ほどむだに歩かされた。
 まえの遭難で懲りているから、まちがえたとわかった段階で、迷わず引き返したのだ。
 結局2時間ばかり歩いたが、この間、だれにも会わなかった。万歩計が久しぶりに2万歩を超えた。

 写真は日向大神宮の山上にある伊勢神宮遙拝所。ごらんのように、鳥居がぽつんと立っているだけ。ここから伊勢神宮の参拝をするわけである。
 このまえ、女優と男性タレントが、京都案内をするテレビ番組で、この神宮が紹介されていた。
 そのときこの遙拝所も出てきたのだが、そろそろ老年にさしかかっているふたりは、代理のものを差し向け、自分たちはここまで登ってこなかった。

 これは本殿。伊勢神宮と同じように外宮(手前)と内宮(奥)がある。


 すこし離れているが、こちらも同じ山のなかにある新島襄と八重の墓。ただし撮ったのは1週間ほどまえ。
 地図には、新島襄之墓という文字が記載されているのを、まえまえから知っていた。どうしてこんな山のなかに、と思っていたのだが、行ってみてようやく納得した。
 同志社の共葬墓地だったのである。
 新島襄之墓、という文字の揮毫は勝海舟。八重之墓の揮毫は徳富蘇峰。
 哲学の道のとっつきにある若王子神社から上がって行くが、標高にして100メートルくらい登らなければならないから、そう楽ではない。それがテレビのせいで、昨今は訪れる人が引きも切らない。

 だがお参りをしたら、もとの道を引き返す人ばかり。南禅寺の水路閣へ抜けるその先へは、やはりだれも歩いていなかった。


2013.11.9
 安土城址へ行ってきた。
 かみさんがはじめてだったから、連れて行ったもの。わたしは二度目だ。
 とはいえそれは、20代の話。かれこれ50年もむかしのことだ。
 城址の大方はかつてのまま。いまでも石垣しか残っていない。

 しかし環境は激変した。城山が見渡す限り田圃に囲まれ、平野のなかの小山となっているのだ。
 もともとは琵琶湖に突き出した、半島だったのである。昭和の干拓で、6キロぐらい先まで農地になってしまった。

 かつての琵琶湖は、交通や物資輸送上の大動脈だった。だからこそ、その真ん中を扼すかたちで、ここに城が築かれたのである。
 麓にあった村落も、水辺に葦が茫茫と繁り、農家の庭先には船着き場があって、水郷の面影をよく残していた。

かつての水郷のいまの姿

 いまでも辛うじて形骸は留められているが、いかにも今風に整備され、知らないひとにはわからない疑似公園と化している。
 城址も山麓は、その後の発掘調査で判明した石垣が復元され、きれいな遺跡公園になった。
本丸へ通じる石段

 しかし石段と石垣しかない城址へ入って行くのに、入場料を徴収された。上にはなにひとつ無いのである。トイレすら設けてない。

山頂にある織田信長の本廟



さすがは信長というべきか。石段に数多く地蔵石が使われている。
この仏足跡は、くずれた石垣から出てきたとか。
薬師寺の仏足跡は国宝に指定されているというのに。

 天守台まで、高度差にして100メートル。それを段差のある石段で一気に上がるから、かなりハードだった。

天守台の跡

 50年ぶりに上がり、こんなにきつかったのかと、体力の衰えを痛感させられた。


2013.11.2
 秋たけなわ。このところ、連日のように出かけている。
 山歩きを再開したのだ。

 今週は近江の里山と、京都の東山を歩いてきた。
 近江のほうは、山のなかの、さる寺を訪ねたもの。山裾から2000段の石段が、切れ目なくつづいているというから、野次馬としては見逃せない。
 ところが、こともあろうにカメラを忘れた。したがって写真はなし。

 むかしのひとが、敬虔な気持ちで、一歩一歩上がったであろう石段には、1丁ごとに標石が立てられていた。
 8丁上がったところで本堂に出たから、山の、いわゆる合目の標石とはちがうようだ。
 石段はさらに、山の上の墓地までつづいていたが、それでも2000段はないような気がした。
 この石段、いまはまったく往来するひとがない。だれにも会わなかったし、途中で引き返したくなったくらい荒れていた。

 そのはず。本堂まで車を乗りつけられる舗装道路が、別途に設けられていたのだ。
 東山では大文字山に登ってきた。
 南禅寺から上がり、銀閣寺へ下りたが、道中のほとんどは鬱蒼とした森。展望は数カ所しかなかった。
 いつも感じることだが、関西の里山では、めったにひとと出会わない。山歩きを楽しむ層が、そんなに薄いのだろうか。

 写真は五山の送り火の舞台である『大』文字の炉台。
 山の頂上から100メートルあまり下の、標高300メートル前後のところに設けられている。


 『大』のいちばんてっぺん。ほかの炉台より大きい。


 中央の炉。ここで最初の火がつけられる。


 『大』の左の跳ねのところ。石段に沿って炉台がのびている。

 なおいちばん登りやすく、距離も短い銀閣寺・大文字間は、さすがにひとが多かった。


2013.10.26
 あたらしいパソコンを買った。
 かみさん専用のデスクトップが、寄る年波で、ものすごく調子がわるくなっていた。買って8、9年になろうかというXPである。

 インターネットになかなかつながらないし、すぐフリーズする。
 このまえお助けマンに見てもらったところ、そろそろ寿命でしょうといわれた。よく保ったほうだというのだ。
 それが先々週、いきなり使えなくなった。スイッチが入らなくなったのである。
 ディスプレイは異状ないが、本体が応答しない。電源はまちがいなく入っている。
 仕事には使ってなかったから、用途はかみさんのメールとインターネット、あとは写真の収納ぐらい。しかしないと、やはり不便だ。

 仕方なく、わたしの古いノートを使わせていた。こちらもXP。このごろものすごく使い勝手がわるくなっていた。
 第一かみさんのメールアドレスが入っていない。まさかこんな事態になるとは思ってないから、控えを取ってなかったのだ。

 となると、あたらしいのを買うしかない。
 お助けマンにアドバイスしてもらい、性能を選んで注文すると、2日で製品が届いた。
 それを今日設定してもらった。

 今回選んだのは、いちばん基本的な、つまり安価な、WINDOWS8の一体型。ご覧のようにずいぶんシンプルである。
 おかげでパソコン裏のごちゃごちゃした配線がなくなり、見た目にもすっきりした。
 画面は21・5型。これもまえより横長で、見やすくなった。

WINDOWSの待ち受け画面。これまでとまったくちがいます。

 じつは注文して数日後に、WINDOWS8・1が発表された。こちらは画面に手を触れるだけで、操作できるという。
 無料でバージョンアップできるそうだが、インストールに2時間ぐらいかかるというから、あきらめた。
 いつも操作をまちがえては、おかしなことにしてしまうから、触らぬ神に祟りなし、当分必要なこと以外しないつもりだ。


2013.10.19
 世界遺産となっている御室の仁和寺裏山に、御室88ヶ所霊場というのがある。
 これまで2回足を運んでいる。
 地図で見つけたから、どんなところだろうと思って行ってみたのがはじめて。京都に来て間もなくのことだった。
 2回目は雑誌の取材。
 変わったところで写真を撮りたい、というから連れて行ったところ、いい撮影ポイントがなくて一周してしまった。
御室88ヶ所霊場
(3キロのコースに88のお堂だから、間隔はかなり詰まっている。写真では
わからないが、向こうにまだ2つのお堂が見えているのです。)


 東京の日野市、高幡不動の裏山にも88ヶ所があった。
 といっても小山なので、置いてあるのは石仏。30分もあればひと回りできる。

 御室のほうは、標高236メートルもあるまるまるひとつの山だ。
 一周3キロ。ふつうの足で1時間の行程。ウォーキングにはもってこいなのだが、便利なところではないせいか、それほど人に知られていない。
 今回はかみさんが希望したから、連れて行った。
 お堂はほぼ1間四方。それぞれ寺のご本尊の雛型が安置してある。
 残念ながら、深い木立のなかを行くから、眺めはあまり期待できない。
 山頂部で2ヶ所、眺望が開けるだけである。
仁和寺裏山最高地点からの眺め
(最高地点からの眺め。肉眼では京都タワーが見えます。
手前修復中の仮屋がある緑地は妙心寺。その右の小山は双ヶ丘。)


88ヶ所目の結願寺
 (一周して下りてきたところにある88ヶ所目の結願寺。坊さんがいるのはここだけ。)


2013.10.12
 今週も奈良へ出かけていた。

 ただし今回は、大失敗。
 1日で3つの美術館を訪ねる予定だったのだが、うちふたつまでが休館だったのだ。
 月曜日が休館日なのは、事前に調べてあった。だから木曜日なら問題あるまいと思っていた。まさか展示替えのために休館するとは、思いもしなかった。
 さいわい3つめの、女流画家上村松園の作品を収蔵している松伯美術館が開いていたから、なんとか面目は立った。

 ただおかげで時間が余ってしまい、この際ついでだから、生駒山へケーブルカーで登ってきた。
 生駒山へ登ったのははじめて。
 これまた大失敗だった。
 ケーブルカーを降りたところ、目の前には遊園地しかなく、それが休園日だったのだ。
 そういえば関西は、木曜日休業の店が多いのである。
 ゲートは開いており、中に入ってもかまわないというから入ってみたものの、人っ子ひとりいない。施設は全部閉まっており、どこにも立ち入れない。トイレまでシャッターが降りている。
 せめてどこか、小高いところから大阪方の景色を見下ろしたかったが、上がれるところがない。
 滞在わずか数10分。ほうほうのていで、帰ってきた。
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 このバリカンみたいな道具。なんだと思いますか。
 じつは栗の実を剥くための鋏。栗々鋏と名づけられた代物だ。

 せがれが今年の春から住みはじめた千葉の家に、10本くらい栗の木がある。この秋、かなり大量の実が収穫できた。
 売りものにはともかく、周囲へ配ったらよろこばれるだろうと思っていたところ、虫食いだらけで、とても他人様に差しあげられるような栗ではないという。
 それで仕方なく、親のところへどかっと送りつけてきた。
 一見なかなか立派な栗で、茹でて食ってみると、なかなかうまい。完全無農薬の栗なのだ。
 とはいえ実体は、なんにもしてないということ。ほったらかしにされた木が、律儀にも実をつけてくれただけである。
 だから虫が食い放題。あとになってあわてて調べてみたところ、花のうちからついた虫らしいという。
 また地に落ちて、取り入れるまで間があったのか、傷んでいるものもかなり多い。だいたい3つにひとつくらいの割合で、食えないものが混じっている。
 これでは親のところくらいしか、もらってくれるところはないわけだ。
 かくてわが家が、この栗の実を剥くための、専用鋏を買う羽目になったのである。
 この鋏で実を挟み、皮を剥く。

 使ってみると、力も、こつも必要なく、なかなか便利。とはいえ2650円もの値打ちがあるかと問われたら、返事に窮する。

 これから毎年、何キロもの栗を食わされる身にとっては、重宝な道具ということで、とりあえずご紹介しておく。


2013.10.5
 今週も奈良へ出かけていた。

 今回の目的地は明日香村の隣にある高取城趾。日本一の山城だというから、まえから一度行って見たいと思っていた。
 この城のすごいところは、標高583メートルの山上にあること。しかも明治20年ごろ自然崩壊するまで、天守閣以下主要建造物がすべて残っていたという、まことに希有な城だったことだ。

 ネットで見ると、再現された往事の姿を忍ぶことができる。たかだか2万5000石の大名の城とは思えない壮大な曲輪なのだ。
 むろん建物はもう残っていないが、全長3キロに及ぶという石垣は、ほぼそのまま残っている。
 ただ残念なことに、いまでは鬱蒼とした山林になっているため、数時間うろついたくらいでは、とても全容がつかめない。

 写真も撮りようがないくらい、なにもかも広大すぎる遺跡なのだ。
 今回も横着をして上までタクシーを使い、帰りのみ歩いた。それでも急坂を400メートル下らされ、下りたときは足がすっかりがくがくになっていた。

 麓には趣のある城下町が残っている。
 この町の旧名を土佐と言い、いまでも上土佐、下土佐の地名が残っていた。
 土佐に係わりのある名かなと思っていたところ、やはりそうだった。
 そのむかし、藤原京の造営に駆り出されてきた土佐のひとたちが、造営後に住みついてつくった町だというのだ。
 高取町にはほかにも、兵庫、薩摩、吉備という地名も残っている。
 写真は城内にある櫓のひとつ。天守閣は木に邪魔され、どうにも全体を撮せなかった。


 つぎは国見櫓という石垣の上から見下ろした大和平野。

 写真が小さくてわかりにくいかもしれないが、平野のなかに3つの小山が、島のように浮いているのが見分けられると思う。
 中央から右へ畝傍山、耳成山、天香具山。藤原京の中心地である。
 また左先方遠く、波形になっている山は二上山。
 その右裾野には、肉眼でも、林立している大阪市内の高層ビルが何10棟も見分けられる。大阪に詳しい人が見たら、あれは何ビルだと、ほとんど指摘できるだろう。
 さらに角度を変えると、奈良、京都までが視野に入る。こういうところに城を築いたわけが、うなずけるような眺望なのだ。


 高取町城下町と、明日香村との分かれ道に据えられていた猿石。
 この形からなんとなく想像できるように、麓の古墳から運んできたものだろうと言われている。猿石を載せた礎石は、明らかに古墳に使われた石だと推測できるらしいのだ。
 数100年もむかしから、古墳の破壊と石の転用が、ごくごく当たり前に行われていたということである。







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