Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2012年12月までの「きのうの話」へ





 

2012.12.29
 今年の冬はことのほか寒気が厳しい。

 一昨日はみぞれが降った。昨日は昼の12時で、気温がまだマイナスだった。
 先週末、所用で東京へ出かけていた。1泊で帰ってきたが、東京のほうがよほど暖かかった。
 多摩は都心より3度くらい気温が低い。それが、そんなに寒いと思わなかった。

 日が暮れてから京都へ帰り、外気に触れた途端「こりゃ寒い」と思わず首をすくめた。
 気温そのものは、多摩とそれほど変わらないはずだが、肌で感じる寒気の厳しさが、全然ちがうのである。
 夜の間に、窓枠から廊下へ流れ出した結露の水が凍りはじめた。下手に足を載せると滑るから、人が外を通るたびにひやひやする。
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 今週は40年来の友人の訃報を受け取った。
 以前から、いつそのときが来てもおかしくない状態だったし、本人も覚悟していたから、おどろきはしなかった。
 蝋燭の火が燃え尽きるみたいに、苦しむことなく逝ったのであれば、本人のために喜んでやろうと思っていた。

 ところが実際はベッドから転げ落ち、ヘルパーが発見したときは半日たっていたという。
 そのときは昏睡状態。以後意識がもどらなかったそうだが、それまでどう経過したかは知る由もない。苦しみはなかった、と思ってやりたいのである。

 通知をもらったのは今週だが、亡くなったのは月の半ば。本人の意志で葬式はせず、近親だけで野辺送りをすませていた。

 それはいいが、墓はいらない、骨は海にでも散骨してくれ、という本人の遺言には、残された息子が悲鳴を上げていた。
 どこかへ納骨でもしてくれたほうが、なんぼよかったかと、だいぶぼやかれたのだ。
 海に撒いてくれと言われたって、そこらの浜へ、好き勝手に撒くことはできない。しかるべき船を雇い、そこそこ沖まで出て行かなければならないのだ。

 東京から駆けつけてきた息子にとって、たしかに迷惑な話だろう。残されたもののことは、考えてなかったと言われても仕方がないのである。

 じつはそれを聞いて、いま大いに反省している。わたしもふだんから同じことを、口走っていたからだ。
 言うだけ。実際はなにもしていない。つまり墓地も、納骨堂の手当てもしていない。
 骨は適当に撒いてくれなんて、考えてみたら、無責任きわまりない台詞だった。自分のすべきことを、なにもしていないのだ。

 いまぽっくり逝ったら、家族が大迷惑することは必至。年の終わりに、冷や水を浴びせられた。
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 今年もあと3日。長い間お付合いくださって、ありがとうございます。
 どうかよい年をお迎ください。


2012.12.22
 またひとつ齢を重ねた。
 しかもつぎの日が、かみさんの誕生日。
 76歳と、70歳の老夫婦になってしまった。

 結婚した当初、あるいはする前、自分たちにこういう状況が訪れるとは、夢にも考えたことがなかった。
 まあだれでもそうだろうけど、独身時代の状況が、なんとなく、そのままつづいて行くような気がしていた。
 いまや見る影もなくなったかみさんを見ると「詐欺じゃー」と言いたくなる気分になりかねないのだが、これはお互いさま。そういう老け方をさせてしまった責任の半分は、いやそれ以上が、自分にあるのだ。

 これでまだ、金婚式まで、あと何年もある。
 いまの健康状態を考えたら、なんとか、それくらいは、保ってくれるだろうが、自信はない。誇らしい老人になれるとは、とても思えないのだ。

 ふたりとも、いまの京都暮しを、かなり気に入っている。しかし借家住まいだし、それも期限つきだから、あと2年したら、つぎの住まいを探さなければならない。
 じつは入居したときから、つぎはどうするか、ずーっと考えてきた。これはと思うところがあると、遠路を厭わず、見に行っている。

 しかし、なかなか決めることができない。
 今度こそ、終の棲家になると思うから、慎重にならざるを得ないのだ。

 だがこれも、よくよく考えてみると、これでお終いとなってしまうことが、いやだから決められないのだ、という気がしてならない。
 終の棲家が決まったら、それこそがっくりしてしまいそうで、それが怖くて、決められないのだと。

 何度でも言うが、老いている実感がないのである。さも覚悟しているみたいなことを口先では言いながら、根はものすごく甘い。
 それこそこのまま、なんとなく、ずるっずるっと、いつまでもつづいてしまうような気が、最近はしている。

 一生根無し草で終ってしまう公算が、いちばん大なのだ。性格からいっても、それが自分相応だという気はする。


2012.12.15
 月曜日に初雪が降った。
 雪化粧した金閣寺の写真が、いつものようにテレビやネットで紹介されたが、京都には金閣以上に雪の似合いそうな寺がたくさんある。
 雪が降るたび、見に行きたいと思う寺が少なくないのだ。
 しかし一度も出かけたことがない。京都の雪がはかなすぎ、わたしの起きるころは、たいてい消えているからだ。

 今回も目覚めたのは11時すぎ。地面がしっとり濡れていたから、ああ降ったんだな、と察しただけ。
 いつになったら雪見に行けるか、この分では当分だめだろう。

 毎年この時期になると、北野天満宮の山門に、来年の干支の絵馬が掲げられる。
 かみさんはそれを写真に撮って、年賀状の絵柄にしている。今年も巳の絵馬が架かったというので、撮影に行った。
 すると近くの千本釈迦堂で、大根炊きをやっていたから、いただいてきたという。

 なかなかおいしかったというから、翌日ウォーキングがてら、4キロの道程を歩いて出かけてきた。
 もとはといえば無病息災を願って、信者に振る舞ったものだそうだが、いまでは完全な観光イベント。けっこうな人出だ。
 どういうものかというと、厚く輪切りにした大根3切れに、油揚を添えた煮物といえばいいだろうか。
 いくつかの寺がやっているようだが、千本釈迦堂のがいちばん有名。2日間で5000本の大根を炊き上げるという。

 無料で振る舞う寺もあるそうだが、ここのは有料。1000円。
 境内の床几で食うから、熱々の大根はたしかにご馳走だ。
 しかし早く言えばそれだけのこと。不信心者を代表して言わせてもらえば、大根は1切れでよいから、卵とこんにゃく、ついでに辛子があればなおよかった。

 今週は糖尿病の定期検診にも行ってきた。
 結果はわずかながら数値がよかった。ほんのわずかである。
 ふだんは野菜中心の食事を心がけ、それも野菜から、できるだけ噛んで食う、ことを実践しているのだが、その割に効果が現れなかった、という見方もできる。

 これは今回、3週間もイランへ出かけ、その間かなり偏ったものを食っていたから、それが災いしたのだろうと思っている。
 例えば朝食は、ナンとチーズ、それと蜂蜜でほとんどすませていた。
 切り刻んだ野菜のサラダが出てくるのだが、水道の水が信用できなかったから、躰が慣れるまで手を出さなかったのだ。

 次回はもっといい数値が出るよう節制するつもりだ。


2012.12.8
 あっという間に冬が来た。
 冬の風景は嫌いじゃないから、今週も鴨川へ2回出かけた。

 先週と様相が一変、木枯らしが吹きつのり、鳥ばかりが元気に飛び回っていた。
 トーストの残りがあったから鳩か鴨にやろうと思い、持って行ったが結局持ち帰った。上空で舞っている鳶に襲われそうだったからだ。

 昨日は気温が今年最低だったうえ、風が強く、体感気温は4、5度くらいまで低く感じられた。
 それを覚悟してマフラーはして行ったのだが、手袋を持って行かなかった。これがまちがい。あとで思い知らされた。
 風が強かった分、視界がよく、大文字山や比叡山が、引き寄せたみたいにくっきり見えた。周辺の山々すべて、隅々まで見届けられたのである。
 夏は気がつかなかった八瀬から登るケーブルカーの軌道が、肉眼ではっきり見えるのにびっくりした。
 距離にすると5キロぐらいしかなさそうなのだが、夏期は木立が繁っているから気がつかなかったのだ。
 それで、ケーブルカーが通るのを見届けようと、双眼鏡片手に待ちはじめた。ところがいっこう姿を見せない。
 15分ぐらいベンチに座っていただろうか。とうとう躰が冷え凍ってしまい、あきらめて立ち上がったときは、手の指がすっかりかじかんでいた。
 帰って調べてみたら、今冬の運行は12月2日で終わっていた。これではいくら待ったって来るはずがない。

 今週はエルミタージュ美術展へも行って来た。
 ルネッサンス期から20世紀初頭までの作品400点あまりが展示されており、なかなか見応えがあった。
 レオナルド・ダビンチのモナリザが、多くの作家によって模写されたのは知っていたが、裸体にした模写まであったとは知らなかった。珍品です。


2012.12.1
 今年の秋は、京都を留守にする機会が多かったせいで、紅葉をあまり見ていない。

 それでも先週は、清水寺にある別院の庭園を見に行った。期間限定の、このときしか見ることができない名勝だ。
 本来はこぢんまりとした庭なのだが、背後の東山をそっくり取り込んで、スケールの大きな庭になっている。
 林のなかに、石灯籠がひとつぽつんと置かれているのだ。
 それが景観に奥行きと、視点を与えているわけで、素人目にもうまい演出だなあと感心した。

 また先週は府立植物園へも、台湾から渡来したフウの紅葉を見に行ってきた。
 いまでは植物園一の大木になっており、葉が鮮明な赤に染まることで、毎年多くの観客を集めている。
 帰途は鴨川河畔を歩いて帰った。ここの紅葉も彩り豊かで、なかなかきれいなのだ。

 それで今日、ウォーキングを兼ね、もう一回歩きに行った。
 桜と銀杏はほとんど葉を落としていたが、カエデは赤黒くなった葉をまだ残しており、低い雲の垂れ込めた空に映え、思いのほか美しかった。

 今年の鴨川は例年以上に鳥が多い。しかも活発に飛び回っている。
 とくに鳶が大量に集まっており、数十羽が空を舞っているさまは壮観だった。
 その鳶がねぐらにしている木を、府立医大病院の周辺で何本か見つけた。
 以前五条大橋のそばで、白鷺がねぐらにしている木を見つけたが、なぜか翌年は、その木に寄りつかなかった。

 だから鳶のねぐらも、一時的なものかも知れないとは思うが、黒くて、大きな塊が、木の枝のなかに、はめ込んだみたいに止まっているのは異様な眺めだった。

 その直後のこと。Vの字を描いて飛んできたガンの群れが、頭上でぐるぐる旋回しはじめた。
 はじめは風に進行を妨げられているのかと思ったが、ちがう。上昇気流をつかまえ、より高空へ上がっていたのだ。
 ベンチに寝転がり、双眼鏡をあてて最後まで見届けていた。
 群れは見る間に肉眼で見えなくなるほど高く舞い上がり、編隊を組み直すと、北の方へ飛んで行った。

 一度双眼鏡を外すと、二度とその姿を捕らえることはできなかった。
 わずか数分の出来事だったが、いいものを見て、得した気分になって帰って来た。


2012.11.26
 3連休を利用して、次男一家の家族旅行につき合い、越前まで出かけていた。

 ところが前日に、いちばん下の孫娘が風邪で38・5度の熱を出し、一時は旅行そのものまで危ぶまれた。
 幼児がいるときには起こりがちなことで、長男一家が札幌に来たときも、次男が発熱して即入院、3日間母親と病院暮らしをした。

 サラリーマン家庭だから、家族旅行となると、こういう連休を利用するほかない。
 中止という話が出た前日の夜は、真ん中の小学校3年の子が、行きたいといって泣きわめいたそうだ。
 結局孫娘と母親は不参加。次男と孫ふたりの旅行になった。祖父母はそれに同行したのである。

 決まったのがぎりぎり金曜日の朝。
 新幹線で下ってくる3人と米原で落ち合ったから、こちらもそれなりにあわただしかった。

 ブログの更新をころっと忘れてしまったのである。
 3日間遊び回り、今日まで思い出しもしなかったのだから、お恥ずかしい。

 ともかく7人そろうはずが5人とやや淋しくなったものの、あっという間の3日間だった。
 行き先も水族館、恐竜博物館と、じいさんにはおよそ興味の持てないものが主だったが、いまどきの施設は見せ方に工夫を凝らしているから、けっこう楽しめた。
 いちばん楽しんだのは、じいさんだったかもしれない。

 ただ小学生ふたりの動きにはとてもついていけず、体力差を思い知らされた。
 階段の傾斜が垂直に近い丸岡城天守では、付属のロープにつかまらなければ上がり下りできず、しかも必死の思いで、動きにまったく余裕がなかった。

 男子孫のいちばん下が中学生になったら、4人を引き連れてしまなみ海道の尾道、今治間をサイクリングで走破しよう、というのがじいさんの夢なのだが、この分だとだめだろうなあと、いまは少々悲観的になっている。


2012.11.17
 信州へ行く用があったので、ついでに日野へ帰って来た。今回は用足しのみ。日曜日には京都へ帰る。

 中央線から見た車窓が、冠雪した八ヶ岳や中央アルプスと、紅葉とのコントラストが見事で、溜息が出るくらい美しかった。
 イランから帰ってきた直後だけに、色彩の豊かさが新鮮だったのだ。

 そうして久しぶりのわが家へ帰ってみると、風通し抜群で、いつものことながら冷え冷えとしていた。
 早速翌日、暖房対策のためのカーテンを買いに行った。
 春に来たとき、東急ハンズをのぞき、どうすれば簡単にできるか、あれこれ検討して、結論は出していたのだ。だから今回は迷うことなし、あとは実践するだけだった。
 要は天井にバーを取りつけ、そこから床までカーテンを垂らし、部屋の暖気が外へ逃げないようにするだけの話だ。

 取りつけた箇所は玄関と、2階への階段。
 階段の開口部がやや複雑なので、バーを2箇所に取りつけ、カーテンを一度折り曲げることで隙間が出ないようにした。
 見栄えはともかく、カーテンで仕切られた密室らしいものがなんとかできた。

 夜になって効果を測ってみた。
 エアコンをつけた階下の温度が22度のとき、2階は16度しかなかった。
 たった1枚の布で、これほど劇的にちがうとは思いもしなかった。こんなことなら、もっと早くつけるべきだった。
 これまではエアコンとガスヒーターを併用して、真冬は、20度にしかならなかった。24時間つけっ放しにして、ガス中毒も起こさなかったのである。

 この際台所のカウンターもカーテンで仕切ることにしたが、これはカーテンの在庫がなく、土曜日に届く。
 それを取りつけたら、わが家の暖房は完備となる。ちなみに費用は2万円あまり。
 工具は、伸縮自在のバーを袋から取り出すとき、鋏を使っただけ。なんとも便利な世のなかになったものだ。

 これほど快適な環境ができたのだから、遊ばせておくのはもったいない。年が明けたら、仕事と称して籠もりに来ようと思っている。


2012.11.10
 3週間の旅を終え、無事に帰ってきた。それほど疲れたつもりはなかったが、体重が1キロ減っていた。

 行ってよかったと思う。いくらか視野を拡げられたし、7000キロに及ぶ砂漠の旅をこなしたことで、体力にも自信が持てた。
 とはいえ年齢を思い知らされたことは何度もあった。今回のツアー客の中で、最年長だったようなのである。

 はじめは、いまのイランに行くのは危険だと思っていた。友人からも大丈夫かと心配された。
 世界を敵に回し、核開発を強行しているからきな臭い噂がつきまとっていた。敵対国がイスラエルだからなにをするか知れたものではなく、旅行中に奇襲攻撃を受ることもあり得ると思っていたのだ。
 その程度の覚悟はして行ったのである。
 ところが現地で感じた空気はまことにのんびりしたもので、緊張のかけらもなかった。
 イラン人は人なつっこく、親切で、ホスピタリティにあふれ、不愉快な人物にはお目にかからなかった。

 いちばん意外だったのは、治安がきわめてよかったこと。いまの世界で、もっとも安全な国のひとつだと言ってまちがいない。
 女性の一人歩きでも、襲われたり荷物を奪われたりする危険は、まずないと思う。それくらい秩序がよかったのだ。
 気むずかしそうな顔をして、こちらをにらみつけているじいさんでも「サラーム(こんにちは)」と呼びかけると、胸に手を当てたり、笑顔になったりしてきちんと応えてくれた。

 女性はことのほか愛想がよく、じつに愛くるしかった。女子中学生の一団に取り囲まれ、日本語のサインをせがまれたこともある。
 日本に何年かいたという男性からは日本語で話しかけられたし、バザールをうろついていたら、なにかお困りですかと英語で声をかけられたこともある。
 着いて間もなくのことだったから、なにか魂胆があるのではないかと、はじめは腰が引けた。
 そういう企みや下心はなく、純粋に懐かしかったり、助けてやろうとしたりしただけだとあとでわかり、素っ気なく対応した自分を反省したくらいだ。

 これまでの外国旅行で得た知識や経験が、まったく通じなかったのである。
 むろんこれはいまのイランが経済制裁を受け、一種の鎖国状態にあることと大いに関係している。
 他国の人間と触れあう機会が少ないから、情報に飢えているのだ。
 べつに外国人を拒否しているわけではないそうだが、外国からの観光客はおどろくほど少ない。
 革命によってパフラビィ王朝を倒し、宗教と政治が一致するイラン・イスラム共和国が建国されて30年。
 そのころ700万人くらい来ていた外国からの観光客が、いまではたった1万数千人。これ、年間の数字ですぞ。
 日本からの観光客は、独仏伊に次いで4番目に多いというが、それでも年間1000人あまり、月に100人程度なのである。
 したがってイランでは、有名観光地に各国の観光客が押しかけるという風景はまず見られない。

 今回は、世界遺産に登録された12箇所の遺跡を巡る旅に参加したのだが、ほかの団体客を見かけたのはわずか1度、ペルセポリスだけだった。
 あとはほとんどわれわれのみ。人っ子ひとりいない遺跡が何箇所もあった。

 これでは観光客目当てのお土産屋も成り立たない。ペルセポリスの絵はがきすら、現地の国営売店に行くまで手に入れることができなかったのだ。
 外国でバス旅行をするときは、いつも詳細な地図を用意して行く。ところが今回は品切れとかで、持って行くことができなかった。
 それで現地で手に入れようとしたのだが、ホテルで不満足なルートマップが買えただけ。

 はじめは街に着くたび、本屋を探し回っていた。だが事情がわかると、以後はあきらめた。
 英語表記の地図など、需要がまったくない国だったのである。
 だいたい英語そのものが、めったに表示されていない。中小の都市へ行くと、HOTELの看板ぐらいなものなのだ。
 商品の値段もすべてアラビア文字で書いてあるから、1から9までの数字をなんとか読めるようになるまでは、買物ひとつするにも、ガイドの手をわずらわさなければならなかった。
 そういう状況だから、街では片言の英語すら通じない。

 経済制裁を受けて孤立している国だからそうなったのではなく、国の政策として、外国に目を向けようとしていないとしか思えないのである。
 国民に、外国を知らせようとしていないのだ。
 ペルシア語による外国からの衛星放送は、VOAやBBCの放映時間帯になると、妨害電波が出て受信不能になるという。
 インターネットもFACE BOOKなど一部コンテンツには接続できない。
 外国旅行も、自由にはできない。外国へ行く場合は、相手国からの招待状のようなものを提出しなければならず、その手続きが1ヶ月くらいかかる。

 今回のわれわれも、入国するためにはヴィザを取らなければならなかった。それも眼鏡を外した写真をあらたに撮影して、提出させられた。
 どういう理由があってそんな要求をするのか、理解できなかった。わざわざ手続きを煩瑣にして、入国を思い留まらせようとしていると、勘ぐりたくもなるのだ。
 独裁王朝を倒し、理想の国家を目指して発足したはずの共和国が、いまでは政教一致という名の独裁制によって支えられているのである。

 はじめのうちこそ、見るもの触れるものすべてが目新しく、旅の醍醐味に浸れたのだが、そのうちだんだん気の滅入ることが多くなった。
 景気が悪い上、仕事がないから、若い者がぶらぶらしている。ことに地方の街の寂れ方は尋常でなかった。
 シャッター通りならぬ戸を閉ざした店がじつに多いのだ。工事中のビルというビルが、軒並みストップして鉄さびをさらしていた。
 いまのイランの若者で、将来に希望が持てる層がどれくらいいるのか考えると、気の毒でならないのである。

 だいたい経済構造そのものが、シルクロード時代とそれほど変わっていない。街の中心はいまでもバザールだが、これは小売商の寄せ集めである。
 バザールを支えていたラクダやキャラバンサライが、いまでは車に替わっているだけ。
 マニュファクチュア時代にも到達していない、疎放な農業国のままなのである。

 なにしろイランの輸出品目の第1位が石油、第2位が天然ガスで、第3位がピスタチオナッツだというからお話にならない。
 その石油とガスが、経済制裁でいまは日本、中国、韓国ぐらいしか買ってくれなくなっている。
 加えてひどいインフレ。
 革命前に比べると、物価は500倍から700倍になっているというから、いくら物価が安いとしても、これでは庶民の暮しが楽なわけはない。
 この間の物価の移り変わりがどのようなものだったか知らないが、いまは10000リアルが20円。ただし軽油ならこれで1リットルが買える。

 というわけで、イランが核開発を強行するから国際緊張が生み出された、といった既存のマスコミの論調は、現地に入ってみると、だいぶちがうのではないかという気がしてきた。
 ものものしい鉄条網や、2連装の高射砲陣地で守られた核開発工場の傍らを通り抜けたこともあるが、砲の先端には埃除けのキャップが被せてあって、ぴりぴりした雰囲気ではけっしてなかった。
 イラン革命そのものが、これまで聞かされてきた話と、だいぶちがうのだ。
 簡単に言ってしまえば、すべてアメリカの思惑の産物。

 政治と宗教を一致させたホメイニ政権を、当初わたしは壮大な実験だと見ていた。そこに感じられる一種のピューリタニズムを、厳格で清潔なものだろうと好意的に受け取っていたのだ。
 しかし実情はまったくちがっていたらしい。あらたな特権階級が生み出されただけで、いまや国民の1、2パーセントが、富の90パーセント以上を握っているとか。
 不労階級はますます富み、働くものはますます貧乏になる構造が、がっちりと根を張ってしまった。
 むろん真相は闇だ。
 しかしホメイニ自体がアメリカによって担がれたという見方もあることを考えると、国際政治でのイランの翻弄のされ方がなんとなくうなずける。

 駆け足で走り抜けてきた程度の観光客にも、イラン国民が強いられている辛苦は、かなりのものだという印象を覆すことはできなかったのだ。
 何十年先になるか知らないが、いずれまた大きな変革を迎えなければならない国だと思ったのである。


2012.10.13
 いま手がけている仕事と関連があったので、デパートで開かれている日本伝統工芸展を見に行ってきた。

 展示されている作品は人間国宝や、将来の人間国宝を約束されているような人たちのものが大半。
 わたしの生活とはなんの接点も持たない作品ばかりなのだが、日本伝統工芸のレベルの高さ、裾野の広さが存分にわかって、大きな感銘を受けた。
 国の文化というものは、物づくりに尽きるといって過言ではない。こういう手仕事が脈々と受け継がれている限り、わが国の未来はけっして廃らないと断言できるのだ。

 物づくり文化が存続していれば、世の中がどう変化しようが、いつでもシフトすることができる。
 300年近い鎖国を経て、いちばんあとから国際社会に出て行った日本が、短時間で先進国に追いつけたのは、時代の変化に適応できるだけの技術の素地が分厚く蓄積されていたからだ。
 手で物をつくることが、ともすると軽視されがちの現代社会だからこそ、あえてこういう命題を振りかざしておきたい。

 と前置きを述べたところで、今週の日曜日から3週間ほど、ペルシア、つまり現在のイランへ行ってきます。

 首都テヘランにはたった1日しか滞在しない、徹底した遺跡探訪ツアーである。
 遺跡巡りが好きなのは、それを手がかりに過去を思いやることができるからだ。過去を現代に照射して、未来を考える手がかりにするのである。

 アメリカをバスで横断したときは、はじめのうち戸惑った。過去を忍ぶものがなんにもなかったからである。そのうちこれまでとはちがうおもしろさを見つけ、以後は興味津々になれたが。

 今回行くイランは、国中が遺跡だらけ。それも年代幅が2000年以上と、とてつもなくスパンが大きい。
 それを駆け足で巡ってくるだけだから、どれくらい想像力が働かせられるか自信はないのだが、人間の歴史というものを考える上で、大きな契機になるのではないかと期待している。
 機会があったら、今回もなんらかのかたちで、考えをまとめてみたい。

 とにかくそういうわけで、しばらくお休みをいただきます。


2012.10.6
 文化博物館でシャガール展が開かれていたので見てきた。
 家から歩いて10分。いつものことながら人波に邪魔されず、ゆったり見られたのがなによりありがたかった。

 シャガールというと、郷里の高知県立美術館が彼の作品をかなり収蔵している。
 油絵は5点だが、版画は1000点以上あり、これは国内の美術館でも一番ではないだろうか。
 こんな田舎でなぜシャガールなんだ、とはじめて見たときはびっくりした。
 しかしこれは、作品収集を一任された人の見識の結果だろう。それを許しただけでも、県の役人も偉かったと評価してやりたい。

 地方の美術館というと、有名作品を何十億円もかけて購入、それだけが目玉の、一点豪華主義みたいなところが多い。そういう美術館に比べたら、はるかにましだと思うのだ。

 この間奈良の正倉院へ行ったとき、できたら大和文華館に寄ろうと思っていた。
 しかし時間が足りず、今回も見送らざるを得なかった。まえまえから行きたいと思いながら、いまでに果たせないでいる。

 この美術館は近鉄が創立50周年だかの記念事業としてつくったもので、館の運営から作品の選択収集まですべてを、美術史家の矢代幸雄に一任したことで知られている。
 矢代幸雄は戦前の松方コレクションの作品収集に同行したことがある人で、有名な『ゴッホの寝室』やルノアールの『アルジェリア風のパリの女たち』は、彼が稀代の傑作だからと強く薦めて松方に買わせたものだ。

 戦火を避けるためパリ郊外に疎開させていた作品を戦後フランス政府が押収。ゴッホのほうは返してくれなかったが、ルノアールはいま上野の近代美術館にある。

 大和文華館はその矢代が、日本と東洋の美術から、気に入ったものを集めてきた美術館なのだ。
 40数年前、出版社にちょこっと勤めていたとき、ここの収蔵作品について語った彼の本を作ったことがあるのだ。
 以来一度訪れてみたいと思いながら、いまだに果たせない。

 来年の春はなんとしても行こうと、今回あらためて思ったのだった。






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