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2012.3.31
東京から孫が来たので、今週はそのお伴であっちこっち出かけていた。
小学校を卒業したら、通過儀礼として、ひとりで京都へ来させることにしている。今回がふたり目だった。
とはいえ子どもだから、来てもひとりで外へ出すわけにいかない。どちらかがお伴をすることになる。
今回は宇治の平等院、伏見稲荷、三十三間堂、銀閣寺、哲学の道などに連れて行った。
今回の旅行で、いちばん印象に残ったのはなにかと聞いたら、伏見稲荷の赤鳥居のトンネルだったそうだ。
千本鳥居の先の奥社奉拝所まで行き、これでいいだろうと思ったら「ぼく、まだ登れます」とはじめて前向きなことを言った。
それで仕方なく、もっと奥までつき合って登った。
お山の一周まではしなかったが、東福寺の方へ下りたから、この日は1万歩以上歩いただろう。
三十三間堂にはあまりいい思い出がない。いつ行っても寒くて、やりきれなかった印象しか残っていないのだ。
今回もあいにく寒い日で、風が吹き、おまけに雨まで降るというさんざんの天気だった。
待合室へ先にもどって待っていたのだが、ストーブに火が入っていないのだ。これでますます嫌いになった。
銀閣寺へは一度しか行ったことがない。何年かまえ、2度目の機会があったけれど、修復中だったから入らなかった。
だから今回が修学旅行のとき以来、60年ぶりのことである。
ここは人が少なかったせいもあり、こぢんまりと落ち着いて、思いの外よかった。
雪の日とか、しっとりと雨の降る日とかに、朝いちばんに駆けつけてみたい寺である。
そのあと哲学の道から南禅寺へ出て、煉瓦造りの水路橋に上がり、水路伝いに蹴上げのインクラインへ抜けた。
ふつうの観光客はまず歩かない穴場だが、小学生のお気に召したかどうかは不明。
今日元気に帰って行き、じいさんと、ばあさんは、ほっとしている。
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2012.3.24
暖かくなってきたせいか、あれほど苦しんだ咳があまり出なくなった。春なればこそのありがたさだ。
春の到来を端的に感じるのは、街に観光客が増えてきたことだ。あと半月もしたら逆にうんざりするが、今年の冬が寒かっただけ、いまのところ寛容な目でながめている。
今日全国の地価が公表された。わが郷土高知県は、ここでも下落率が全国最高。どう見方を変えてみても、いいところがひとつとしてない。
先週高知から帰ってきたとき、はりまや橋からバスで空港に行き、飛行機に乗り換えて伊丹からまたバス。
京都駅でバスを降り、地下鉄に乗り換えるため地下道へ入って行ったとき、なんかすごい大都会へやって来たような気がした。
かみさんもそう思ったと言うから、高知での人の少なさがそれくらい印象的だったのだ。
その前日、山の温泉からの帰り、工事で道路が全面通行止めになってしまい、あきれるくらい待たされた。
いくら道路が狭いとはいえ、1時間のうち50分が通行禁止で、10分通行可というのだからすさまじい。
それが単にNTTの電柱架設工事だったのだ。一民間会社が、これほど強圧的なことをやっていいのかと憤然としたが、現地の人はこんなのしょっちゅうだと平然としたもの。
やっと通行時間になり、工事現場を通りかかったところ、トラックが3台と5、6人の人間がいるだけ。全面的通せんぼまでしてやらなければならない大工事にはとても見えなかった。
しかし50分もストップさせられ、その間待たされていた車が10台くらいだったのだから、より切ないのである。
そのまえの週、東京へ行ったときは都心に用があったから、何回も地下鉄を乗り換えた。
ホームで列車を待っているとき、なにげなく時間表を見て目を剥いた。
8時台の列車本数が、欄の右端まで埋め尽くして書ききれず、9時台の時間帯へ折り曲げて記載してある。
数えてみたら30本あった。1時間に30本、2分に1本である。これが毎日平然と行われているのだ。
東京では30数年暮らしたが、そのころはまだこれほどになかった。それがいまや2分に1本走らさないと、都市機能が円滑に行かなくなっている。
こういう異常が、正常な状態になっているということだ。
なんという過密。なんという精緻。
こういうシステムが一旦破綻してしまうと、どういうことになってしまうか。去年それを見たばかりである。
東京にはますます住めない人間になってしまいそうだ。
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2012.3.17
今回の原稿は郷里の高知で書いている。
母の17回忌法要のため帰ってきたもので、きょうだい5人と連れ合い、叔母らとも久しぶりに顔を合せた。
そのあと14人で、山のなかにある温泉施設へ行って宿泊してきた。宿がマイクロバスによる送迎サービスをしてくれたからだ。
叔父が93歳、叔母が87歳と85歳、わたしが75歳で、いちばん下の弟が65歳、従弟妹も何人か来てくれたが、最若年が55歳。
すさまじいまでに年寄りばかりそろってしまい、ある意味壮観としか言いようがなかった。
いまさらとはいえ、みな老いてしまった。若かりしころの記憶は、ひとりひとり鮮明に残っているのだ。
人生は短い。これから先が大切だなとつくづく思う。
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それにしても、高知県の道路にはおどろいた。
県の東部まで出かけたのは高校生のとき以来だったが、それから60年たったいまも、基本的に当時のままの道路だったのだ。
すなわち、海岸線に沿って、片側1車線の国道が1本走っているきり。
ほとんどが追い越し禁止区間で、車の流れが切れ目なくつづく。なにかあると、大渋滞を起こしてしまうのも当然だろう。
高知では、いまでも「吉田茂は偉かった」ということばが、いくばくかのアイロニーをこめて語られている。
あれほど長い間首相を務めていながら、地元のためには、道路1本つくってくれなかったのである。
高知はすこしも変わっていない。と妙なところで認識をあらためたのだった。
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2012.3.10
確定申告のため東京にもどってきた。
それは無事に終わったのだが、日野へ帰ってきた途端、猛烈にくしゃみが出はじめた。花粉症が爆発してしまったのだ。
京都を出るまでは、なんの兆候もなかった。
寒かった今年冬の、最大の贈り物が、花粉症を遅らせてくれたことだと感謝している。
それでも用心はして、目薬とか鼻薬とかは用意してきた。
息苦しいからマスクが嫌いなのだ。それでしてこなかったが、新幹線のなかではまだなんともなかった。
家に着いてからだ。くしゃみが出はじめ、以後水っ鼻の垂れ流し。
おかげで窓も雨戸も開けていない。閉め切った家のなかで、エアコンとガスヒーターのお世話になりながら、ただ閉じ籠もっている。
食いものは、途中で買ってきたパンと冷凍食品。昨日はそれを食いつないで生きていた。
すぐ帰りたいのだが、土曜日までいなければならない用がある。滞在日数が短いから、煮炊きする食品を買うわけにいかないのである。
ところが昨日の夜半過ぎから、嘘みたいに鼻水が出なくなった。くしゃみも減った。
もしやと思って外をのぞいてみると、しとしと雨が降っているではないか。
嬉しかったのなんの。花粉が叩き落とされてしまうから、花粉症患者にとって雨くらいうれしいものはないのだ。
それにしてもこれほど劇的にちがうものか。今日は何度も外をのぞいて、まだ降りつづいているのをたしかめた。
夜、外に出かけ、ようやく人並みのものを食ってきた。
天気予報では明日も、東京は雨になっている。雨が降っている間に、帰ってしまおうと思っている。
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2012.3.3
週末になると、身体の調子がおかしくなる。
先週金曜日の夜中、いきなり耳が痛くなった。どうにも表現しがたい鈍痛だった。
いつまでたっても治まらないから、仕事をやめた。あきらめて寝ようとしたのだが、痛くて眠れない。
飲んだり食ったり本を読んだり、気の紛れそうなことをいろいろやってみたが、効果なし。
明け方からはネットで、区内にある耳鼻科を懸命になって探した。
土曜日の午前中なら診察してくれるところを見つけ、あとはそれが唯一の望み。一睡もしないまま夜を明かした。
朝食がすむといちばんに出かけた。もちろんはじめて行った医院だ。
ところが耳には異常がなかった。
風邪の影響かもしれないというので、いろいろ調べてくれたが、これはという明確な原因はわからずじまい。
とりあえず4種類の薬をもらって飲みはじめた。その日は痛み止めを飲んで寝たけれど、いくらかましというくらいの効き目しかなかった。
それでも3日間薬を飲みつづけると、まだ芯が残っているような気はするものの、痛みはひとまず治まった。
もらった薬のなかに咳止め薬もあったから、以後はそれだけを飲んだ。
今日でまる1週間。とにかく効いたのか、いまは完全に治っている。
ただ咳がいまだに止まらない。いかにも風邪をこじらせたみたいな、年寄り臭い、妙な咳が出つづけているのだ。
それはいいとして、一昨日、カードの整理をしていたら、あきれたことに、その医院の診察券が出てきた。
今回つくってもらった診察券とまったく同じ。診察ナンバーまで同じだ。
はじめてどころか。3年まえに行っていたのである。
あわてて日記を調べてみたら、たしかに花粉症で、診察を受けていた。
ビルの2階にある瀟洒な医院で、階段が凝っていて、待合室も洒落ている。だがひとりしかいない医師も含め、すべてのものに、まったく記憶がなかった。
昨日は万年床の枕につまずき、ドタッと横倒しにひっくり返った。下が布団だったからなんともなかったが、ちがうところだったら怪我をしていたかもしれない。
年寄りにとっていちばん危険なところは、自分の家だとよくいうが、これまでは他人事だとばかり思っていた。
自分もまちがいなくそれに該当しはじめたということ、老化が確実に進行しているということがわかり、今週ははなはだショックだった。
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2012.2.25
『北斎展』に行ってきた。
生誕250周年を記念して開かれたもので、京都では2月と3月、2期に分けて展示される。
今回の作品は、ハワイのホノルル美術館から里帰りしてきたもので、その大方は作家ジェームス・A・ミッチェナーの収蔵品だという。
ミッチェナーという人は、戦後のベストセラー作家だったことは知っているが、作品は読んだことがない。
浮世絵のコレクターだったなんて、むろん知らなかった。ただ眼力はたしかなもの。北斎の代表作「冨嶽三十六景」がすべてそろっている。
数年前、東京で開かれた北斎展にも行ったが、そのときは十重二十重の行列。会場に入るまで1時間以上かかった。
京都でそういうことはまずなく、すんなり入れ、列の後についてさえいれば、1時間ほどで全作品を見ることができる。
ところが大きなミスを犯した。
作品はすべて版画。サイズが小さいから、じっくり見ようとすると、前にへばりついて、のぞきこむくらいにしなければならない。
パソコン用の、近距離用眼鏡をかけて行くべきだったのだ。それをうっかり、外出用の眼鏡で出かけてしまった。
だから近寄ったらピントが合わない。ピントが合うところまで下がったら、人が割り込んできて頭が邪魔になる。
悪戦苦闘したあげく、あとは家でじっくり見るしかないと、カタログを買って帰った。
数日後、今度はかみさんが出かけた。それも雨の日、開館時間に合せてだ。
前売り券を持っていたため、すこし待たされたが、前から3番目に入場できたそうだ。十数分もしたら満員になったが、それまでが得がたい時間だったと満足していた。
それで3月からはじまる後期では、とびきり天気の悪い日を選び、10時ジャストに着くよう出かけるつもりだ。
会場まで徒歩で10分足らず。都心に住んでいればこそのありがたさである。
この北斎展は京都のあと、東京、福島でも開かれる。
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2012.2.18
親戚に不幸があったため、1泊2日であわただしく高知へ帰ってきた。
何年前になるか、前回帰ったのも葬儀に出席するためだった。この年になると、こういう用の帰郷しかなくなる。すこしもうれしくない帰省である。
前回は往復の航空券が取れず、帰途はやむなく列車にしたが、今回は予約なしで帰りの席が取れた。
よろこぶべきことではない。座席数50あまり、旅客機としては最小機の座席がいつでも取れるほど、空路が輸送機関の主役から遠ざかってしまったのだ。
関西などいまや日帰り圏、それも大方は車を使うから、地元の人間ほど航空機や列車に見向きもしなくなったのである。
こういう社会の出現をわれわれは本当に望んでいたのだろうか。その前日、沖縄といつもビリを争っていた高知県民の年間所得額が、昨年度はとうとう全国最下位になったというニュースを目にしたばかりなのだ。
空港とホテルと斎場と火葬場とを往来しただけだが、街に活力がなくなっている印象は拭えなかった。
一方で街は際限なく拡大しており、斎場のあったところなど、一度も足を踏み入れたことがないところだった。かつては一面田圃だったのである。
車で走ったらなおさら、どこにいるのか見当もつかなかった。故郷を出て49年、いまやほとんど見知らぬ街と化してしまった。
しかしそういう過去と、いまとを変わりなく結びつけてくれるものが、まだ唯一残っている。食いものだ。
今回も空港へのバスを待つ間に、馴染みのちくわやてんぷら、蒲鉾などを買い求めてきた。これさえあれば、ほかのおかずはいらないのだ。
もうひとつ、高知へ帰ると必ず買ってくる菓子がある。手結山の餅というきわめてローカルな名産品だ。
もとは高知から20キロばかり東の、山の茶屋で売られていた餅だ。歴史そのものは古く、江戸時代からある。
祖母がそこの町の出身だったせいもあり、子どものころからここの餅が大好きだった。なんの変哲もないあんころ餅で、餡に今風のシナモンとはちょっとちがうニッキが入っている。
かつては、佐賀の乱で敗れた江藤新平が阿波へ逃れる途中、この茶屋に立ち寄って餅を食ったという話が必ず伝えられていた。
江藤は一旦薩摩へ逃れ、西郷らを説いたが入れられず、つづいて土佐の同士を頼ったがここでも賛同を得られず、失意のうちに土佐を去ろうとして、国境まで行ったところで捕まったのだった。
餅屋はいまでも支店すら持たず、地元で営業している。そこの餅をなぜか、高知でははりまや橋のたもとの洋品店で買える。10個600円。
ただ現在の手結餅からは、江藤新平のエピソードは消えてしまったようだ。明治がそれだけ遠くなったということだろう。
わたしの故郷高知も記憶の彼方へだんだん没しようとしている。
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2012.2.11
週末にとんぼ返りで東京へ出かけていた。
12月に亡くなった内藤陳の追悼会に出席したもの。彼とは同い年だったのである。
それはともかく、ほとんど治りかけていた風邪をまた引き直してしまい、最悪の状態で帰ってきた。
さいわいインフルエンザではなかったものの、身体の節々が痛い、咳が止まらない、水っ鼻が出ると、完全な逆もどり。今週はずっと半病人だった。
それだけ体力が落ちているということだろう。風邪ひとつ直すのに、これまで考えられなかったほど長い時間がかかりはじめた。
こうなると否応なし、老いを意識せずにいられない。5年まえ、10年まえの肉体とは、断じて同じでないのだ。その自覚ができていると言えない。
今日は大阪まで行く編集者が京都へ寄ってくれたから、会って1時間ばかりおしゃべりしてきた。
出かけるまえは、どちらかと言えばいやいやだった。咳はともかく、鼻水がところかまわず出るから、人前には出たくなかったのだ。
それで思いきり厚着をして、ポケットをティッシュでいっぱいにして出かけた。
ところがその間、鼻水が一度も出なかった。治ったのか、と一瞬ぬか喜びしたが、そんなわけはなく、家に帰ったらすぐもとにもどった。
人前へ出たのがよかったとしか思えない。久しぶりにしゃべったことで、気分が変わり、血の巡りがよくなって、風邪の症状が引っ込んでしまったのだ。
いろんなところへ出て、いろんな人とおしゃべりしなさいと、かみさんからしょっちゅう言われている。そんなことぐらいわかっているのだが、自ら機会をつくろうという気にはなかなかなれない。
高慢と言われても仕方がないが、性格がより狷介になり、見ず知らずの人を相手に、感情を抑えてまでつき合おうという気になれないのだ。
それこそが年寄りの、いちばん悪いところだとわかっていながら、なかなか変えられない。嫌味たっぷりなじいさんになりつつあるみたいで、いやな気分なのである。
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2012.2.4
厳冬まっただ中。各地で最低気温が更新されているようだが、京都も昨日今日、マイナス3度4度を記録した。
自室の暖房が電気ヒーター。水蒸気は出ないはずなのに、窓の結露がすごい。朝夕丹念に拭き取っているのだが、それでもサッシの溝からあふれ出した水滴が、廊下まで流れ出してしまう。
防止用のタオルを窓の外に当てていても、それをびしょびしょにして、したたり落ちてしまうのだ。タオルをしょっちゅう取り替えていながらである。
そうやって流れ出した水が、今朝はすっかり凍りついていた。うっかり足を載せたら滑りそうなくらい盛り上がっている。
さすがにこれほど冷たくなると結露が防げなくなるのか、ほかの家からも、何条か水滴が流れ出して凍っていた。
数軒先に、同じような当て布をしている家があると、以前書いた。その家は布を取り替えたことがない。だからいつも水が垂れっぱなしだ。
昨日見たらその水が凍りつき、長さ20センチもの氷柱になっていた。
今日はさらに大きくなり、あと数センチで廊下へ届こうか、というところまで成長していた。太さもひと晩で、鉛筆大から胡瓜大になっていた。
こうなるとどこまで大きくなるか、むしろ楽しみだったのだが、夕方見ると途中で折れてなくなっていた。子どもがいたずらでもしたのだろうか、
それにしても街中のマンションの廊下で、これほど大きな氷柱が育ってしまうとは思ってもみなかった。
ジムへ行きはじめて10日。だいぶ躰がなれてきて、体力も回復してきた。
いまのところ無理をせず、ストレッチと筋力アップを中心に、だいたい1時間くらい。ウォーキングをつけたしにしている。
腱鞘炎はほとんど変わらない。熱と腫れこそ引いたが、痛みは相変わらずだ。
これまでずっと、ギプスは夜だけにして、昼間は湿布や塗り薬ですませていた。ところが逆だ、と医者から言われた。
夜は外していいのだそうだ。
「だって寝ているとき、無意識に動かして、痛めてしまいませんか」
と言うと、寝ているときは、痛いとその場で動きを止めてしまうから、とくに保護しなくてもいいのだという。
言われてみるとその通り。起きているときのほうが、これくらいならいいだろうと、無理をしがちなのである。
ジムではギプスの代用としてサポーターを使っている。
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2012.1.28
左手首の痛みは腱鞘炎だった。腫れて熱を持っていたが、指摘されるまで気がつかなかった。腱鞘炎になったのもはじめて。思いもよらない病名だった。
患部に添え木を当ててもらい、湿布薬と塗り薬をもらって帰ってきた。半ギプスのようなものだ。昼間は外して湿布薬を貼っているが、夜は添え木で固定して寝ている。
要するに応急の手当てなのだ。しばらくようすを見ようということだが、骨が出張って患部を刺激しているので、完治はなかなかむずかしいという。
いまは我慢できないほどの痛みではないが、ひどくなるようだと注射で散らすか、最悪の場合は手術して骨を削るしかないと言われた。
骨折した右手首もまだ痛みが残っており、これ以上よくなる見込みはない。かといっていまさら手術を受けるほどのこともないだろうから、この先もだましだまし、つき合っていかざるを得ないだろう。
だが両手首に痛みを抱えるというのは、思いの外不便である。ものを持つ、身体を支えるといった、いちばん基本的な動作に響いてくるからだ。
腕に体重をかけられないから、腕立て伏せのような姿勢をとることができない。朝起きるとき、どうやって身体を起こすか、毎回苦労しているのだ。
ジムへ行くようになり、これから筋力アップをはかろうと思っていたが、これで当分無理となった。
仕事には差し支えない。パソコンのキーボードを叩くくらいなら、なんの障害もないからだ。
腱鞘炎は特定の部位を使いすぎることによって起こる炎症だそうだから、すると仕事のしすぎということになるのか。名誉な病気だなあ。
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2012.1.21
咳が出はじめて収拾がつかなくなったため、とうとう病院へ行った。水曜日のことである。以来病人に逆もどりだ。
いつ痛めたか、自覚症状のない左手首もますます悪くなり、このごろはタオルさえ満足に絞れなくなった。
それで仕方なく、ネットで病院を探して診てもらいに行った。ところがうろ覚えで出かけたものだから場所がわからず、歩き回ってやっと探し当てたら休診日だった。
こちらは来週もう一回出直す。
身体がこういう具合だから、意気がまったく上がらない。今週は寝たり起きたり、せっかくのジムも週はじめに1回行ったきりだった。
本もあまり読めないのである。
正月にじっくり楽しもうと、年末に翻訳物のミステリを3点6冊買ってあった。いずれも上下巻の分厚い本ばかり。文庫6冊で8000円を超える代金になったからびっくりした。
今週その4冊目をようやく読み終えたところだ。
肉体が元気でないと、読書のほうも一気呵成とはなかなかいかない。本を読むということは、あれでけっこうエネルギーが必要なのである。
それにしても、今回選んだ作品は、いずれも女性作家の書いたものだった。ストーリーテリングということでは、女性が男性をはるかに凌駕してしまったこと、洋の東西を問わず変わりないようである。
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2012.1.14
手足の筋力があまりにも衰えたので、またジムへ通うことにした。
最近はふつうに歩くことさえままならなくなっていた。ちょっとした道の凹凸につまずき、よろけるのである。
足を見てみると、太ももがひと回り小さくなっている。筋肉がまるでなくなってしまったのだ。
こうなったらジムで、すこし鍛えたほうがいいのではないかと、先ごろから思いはじめていた。
たまたま、通りすがりにジムがあったから寄ってみた。家から5分足らずのところだ。
施設の内容を聞いただけで、入会する気になった。大好きなサウナと浴室を備えていたからだ。
東京と札幌では、通っていたジムにどちらもそれがあった。京都へ来たときも、じつはそういうジムを探した。そのときはなかったのである。
それに鴨川が近く、ウォーキングにはいい環境だったから、歩くようになると、ジムの必要を感じなくなっていた。
しかし老衰防止という点でいえば、ただ歩くだけではだめなのである。なんらかの筋力アップをしなければ、衰えはどんどん進行する。
頭ではわかっていても、ふだんの暮らしでそれを実行するのは、なかなかむずかしい。それで何回かステップ運動をした以外、まったくやらなかった。ストレッチすらしたことがない。
かみさんの腰痛を機に、生活環境が一変し、家に引き籠もることが多くなった。ウォーキングもしなくなった。その影響が、ここにきて顕在化してきたということだったのである。
入会したばかりだが、今週はもう2回行った。いまはまだ、自分の肉体がいかに老化したか、チェックしている段階だ。
あきれたことに、ストレッチひとつ満足にできない。躰が硬化して、ゴチンゴチンなのである。
足は45度くらいしか開かないし、頭を膝につけようとしても、びくとも下がらない。膝までまだ10センチある。
体成分検査をしてもらったら、手足の筋力が平均をかなり下回っていた。右手の握力がもどっていないことは自覚していたが、いまでも左手にだいぶ及ばない。
それより隠れ肥満と言われたのにはびっくりした。太ってないから大丈夫と思っていたところ、体脂肪率が平均よりかなり高めだったのである。
いまは1回ストレッチ30分、ウォーキング30分ぐらいにとどめ、ようすを見ている。張り切りすぎてやりすぎないように、気をつけながら慣らしていくつもりだ。
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2012.1.7
明けましておめでとうございます。
久しぶりにのんびりした、穏やかな新年を迎えました。
これで健康だったら申し分なかったのだが、あいにく風邪を持ち越してしまい、体調がいまひとつ。とくに足が痛いので、ほとんど出かけなかった。
結局三が日はテレビでスポーツ中継を見てすごした。サッカーの天皇杯決勝に京都が残ったから、東京にいたらむりをしてでも会場へ出かけていたことだろう。
正直に言うと京都ファンではないのだ。しかしいまは地元、しかもJ2。これでは応援せざるを得ない。準決勝の延長で横浜マリノスを破ったときは、快哉を叫んだくらいである。
残念ながら優勝はかなわなかったが、それでも最後まで希望を失わず観戦していた。ある意味でJ1を凌駕した試合だったといって過言ではないと思う。
決勝戦がJ2同士のチームで戦われたことと、箱根駅伝の東洋大の圧倒的完勝とは、従来の価値観を根底から覆した出来事だったと、わたしは受け取っている。既成概念が吹っ飛ばされてしまったのだ。
動きがままならないので、今年は初詣に行かないつもりだった。しかしそれでは淋しすぎるから、どこかないか探したところ、歩いて10分くらいのところに、菅大臣神社があったから行ってきた。
菅原道真の屋敷跡と伝えられる地にある神社だ。本殿は明治の初めに下鴨神社の社殿を移築したとかで、なかなか豪壮である。
それが現在は参道ぎりぎりまで人家が建ち並び、2日の昼だったとはいえ、参拝客はちらほら。巫女さんひとりいない寂れようだ。
古木の残っている庭もいまでは立ち入れなくなっているし、これほど立派な神社が、なぜこうまで痩せ細ってしまったのか、ちょっと残念だった。
かみさんもこの初詣はもの足りなかったとみえ、4日に八坂神社まで出かけている。こちらは相変わらず大変な人出だったとか。
わたしのほうは4日からつぎの仕事にとりかかった。とはいえまだなにも具体的イメージはなく、いまは手探りで、本を読んだり資料に目を通したりしている段階。
サッカーと駅伝からいい刺激をもらったので、頭のなかを空っぽにするところからはじめたのである。
ということで、本年もよろしくお願いいたします。
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