Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2011年9月までの「きのうの話」へ





 

2011.12.31
 今週もいろんなことがあった。

 咳がだいぶ治まってきたので、やっと散髪に行った。人前で咳き込むのはいやだから、年内は無理だろうとあきらめていたのだ。おかげですこしすっきりした。

 パソコンがずいぶん遅くなっていたので、お助けマンに来て直してもらった。
 ほんとはプリンターが動かず、お手上げになっていた。かみさんの年賀状を印刷してやろうとしたところ、できない。パソコンがプリンターを認識しないのである。
 思いつく限りのことをやってみたが、どうしても動かない。それで仕方なく、プロに助けてもらおうとしたもの。

 ところがその前日、あっさり解決してしまった。合点がいかないから、その後もなんだかんだやっていたのだ。マニュアルを引っ張りだし、逐一読むことまでやった。
 すると、インクは純正インクを使ってください。ちがうメーカーのものだと、パソコンが認識できない恐れがありますと書いてある。
 たしかに1色、サードメーカーの安いインクを使っていた。それで半信半疑純正インクに取り替えてみたところ、すんなり動いて、印刷できたというわけだ。

 そういえば以前、デジカメで同じような体験をしていた。買って数ヶ月で動かなくなったから、販売店に持ち込んだ。保証期間中だから、ただで直してくれる。
 何日かたって受け取りに行った。すると、故障はしていなかったと言われた。予備バッテリーに純正品でないものを使っていたため、本体が機能しなくなった、ということだったのだ。

 お助けマンにその話をしたところ、よくあることなので、ぼくもできるだけ、純正品を使うようにすすめていますとのこと。
 わずかの金を惜しんでトラブルを招き、原因の追及と事態の収拾にどれほどの時間とエネルギーを費やしたことか。それを考えたら、高くても純正品を使ったほうがはるかにましだったと、ようやく悟ったのだった。

 昨日はガス会社が、給湯機の取り替え作業に来てくれた。今度の住まいは床暖房つきだったのだが、機器の調子がわるくて作動しなかった。
 どうやら耐用年数が尽きていたということだったようで、中味を取り替えたらちゃんと働くようになった。床暖房とはどういうものだったか、遅まきながら知ったのである。

 ついでにいうと、いまの家には食器洗浄器も装備されている。だが一度も使ったことがない。
 年寄りふたりだし、機械で洗わなければならない料理もしていないから、必要を感じないのだ。多分このまま、使わずに終わってしまうのではないだろうか。

 今年の暮れは、いつもとだいぶようすがちがう。持ち越す仕事がないばかりか、文学賞の候補作品を読む、という選考委員の任期も終わったからだ。
 早く言えば失業状態で年を越すということだが、それにしては解放感のほうが大きい。来年のことは、来年になって考えればよいということ。

 とにかく今年一年ありがとうございました。
 みなさんもよい年をお迎えください。


2011.12.24
 風邪がよくならない。咳が止まらないし、ときとしてはげしく咳き込む。いきなりの発作だから、防ぎようがないのである。

 今朝も食後のミカンを食っているとき、いきなり咳き込んだ。口の中のものがそこらじゅうに飛び散ったわけで、これくらい情けない老醜もない。老いとはつくづく惨めでしかないのである。
 微熱のほうはようやく治まった。今夜は1日遅れのゆず湯をつくってもらい、久しぶりの入浴をした。京都へ帰ってきてはじめての風呂だった。

 外出はほとんどしなかったが、出かけたくなる陽気でもなかった。ただいま寒波のまっ最中。連日10度以下の気温がつづき、今日は6度までしか上がらなかった。

 天気そのものは、からっと晴れているのだ。だから家のなかにいる限り暖かい。居間などさながらサンルーム。床暖房は一度も使っていないのである。
 そのかわり結露がすごい。窓のサッシの下が水を流したみたいに濡れる。かみさんが毎朝乾いたタオルで拭き取っているのだが、1枚ではとても足りない。
 室内ばかりか、外の廊下側までずぶ濡れになる。放置しておくと、サッシからあふれ落ちた水が廊下を流れはじめるから、窓の隅にタオルをあてがって押さえている始末である。

 それで改めて周囲の家を調べてみた。同じようにタオルを当てがっている家が、ほかにも一軒あった。
 その家だけだ。使っていないのか、結露のまったくない家のほうが多い。ということは、構造上の欠陥でもあるのだろうか。

 廊下に面したわたしの部屋は6・4畳。冬期は電気ヒーターのみで暖を取っている。出力を最小の600ワットにして、常時22度が確保できる。
 数時間使わなくても、20度以下になることはない。そういう気密性はありがたいのだが、するとこのおびただしい水分は、わたしの呼吸や肉体から発散したということになる。それもなかなか信じがたいのだ。

 わたしに引きつづき、今週はかみさんが誕生日を迎えた。それで近くにある店まで出かけ、かたちばかりの祝膳を囲んできた。
 わたしのときは夕食の献立が一品増えた程度。夫婦の誕生日が1日しかちがわないと、たいていどちらかが割りを食ってしまうのである。


2011.12.17
 今夜京都に帰ってきた。
 風邪をこじらせてしまい、咳が出て、悪寒が去らない。多摩にいたらますます悪くなるばかりなので、それなら家で静養したほうがましと思い直したのだ。

 今回ははじめから体調がよくなかった。微熱が出ると、躰の節々がたちまち痛くなってしまう体質なのである。足の運びさえままならなくなり、道では女性に追い抜かれる始末。
 しかも毎日のように出かける用があった。郵便局ひとつ行くにしても、電車に乗るか、20分歩かなければならないところなのだ。

 国保の切り替えでは、市役所に2回足を運んだ。わたしとかみさんとで、これからは所属する国保がちがうからである。
 後期高齢者という差別化で頭にきたところへ、手続きまで煩瑣になった。多摩の家は、それなりにいい面もあるのだが、暮らしという点では不便きわまりないところなのだ。

 とうんざりしているところへ、とあるマンション広告が目に飛びこんできた。駅から徒歩2分。日常のすべての用が、自宅周辺で足せる。
 というので発作的に、現場とモデルルームを見に行ってきた。つい昨日のことである。

 先々のことを考えたら、この便利さはなにものにも代え難い。と、かみさんを説得するつもりで京都へ帰ってきたところ、たちまちその考えがぐらついてしまった。

 駅から自宅まで、たった20分しかかからなかったからである。
 タイミングよく電車が来たとはいえ、新幹線のホームから、地下鉄に乗り換えて2駅乗り、わが家まで歩いてドアを開けるまで、正味20分しかかからなかったのだ。
 一方東京のマンションは新宿から20分。この差をどう評価したらいいのか、しばらく悩まなければならない。

 本日から後期高齢者となります。


2011.12.10
 忙しい忙しいといいながら、それでも遊ぶべきときは遊んでいて、先週は箱根の温泉に行ってきた。

 久しぶりの東京だから、いつもの仲間に会えるようお膳立てしてくれ、と旧友に頼んであったところ、いきなり日にちと宿を指定してきたのだ。
 こちらはそこまで考えておらず、適当に集まって賑やかに飲み食いできたらそれでいいという腹だったのだが、温泉となると2日がかりだから、それなりにやりくりが大変なのである。

 ときあたかも年末。案の定、都合がわるくて来られないものが続出し、いつもの半分以下の6人しか集まらなかった。
 いずれも同じ職場にいたものばかり。いちばん若いやつで70と、みな後期高齢者の予備軍である。
 それでも一旦飲みはじめたらあとは同じ。その夜も3時まで大いにしゃべった。これくらいの人数のほうが、座が分かれないからかえって話がはずむのである。

 その夜いちばん面白かったのは、横浜で育った男の小学校時代の回顧談。
 わたしよりひとつ下だから、2年生で終戦を迎えているのだが、彼の体験談たるや、田舎で育ったわたしなどには想像もできないような内容ばかりだった。

 横浜の小学校では、すでに戦前から給食があったなんてこと自体、はじめて聞いた。敗戦直前のあの食糧難の時代でも、真っ黒でなかになにが入っているかわからない代物だったが、それでもパン給食が行われていたというのである。
 これには東京の神田神保町で焼け出された男まで、目を丸くした。東京都とも雲泥の差だったからである。

 戦前の日本というと、とかく悲惨さばかり強調した話で一括りにされてしまいがちだが、まだこれくらい多様性があったということだ。
 横浜や横須賀は、海軍のお膝元だったからよそとは明らかにちがっていたのだろう。こういう話を聞き書きにしてまとめたら、面白い本ができると思う。

 それはいいとして、猛烈に寒い日と暖かい日が繰り返されるものだから、東京へ来て引いた風邪がいっこうによくならない。
 微熱がつづくばかりか、咳まで出はじめた。かみさんが感染症に弱い躰だから、風邪を持って帰るわけにいかないのである。
 それでも連日人に会い、昨日で今回の懸案だった用件はすべて終わった。
 また今週は来春発行予定の文庫、蓬莱屋シリーズのゲラが出てその校閲もした。

 来週は京都へ帰れるのだが、まだ家の片づけや、洗濯、掃除、庭の草むしりといった気の重い仕事が残っている。


2011.12.2
 運転免許証の更新をしてきた。

 前回から、事前に高齢者用の講習を受けなければならなくなり、教習所へ行かされるようになった。
 それが今回からは75歳以上の、特定高齢者用の講習に変わった。
 ふつうの講習のほかに、認知機能検査と称する、いわゆるボケの進行度を見るような検査が加わり、なんと3時間半もやられたから閉口した。

 ペーパーテストばかりか、教習所構内の走行講習までさせられたのである。
 走行テストではないから、ミスしたからといって減点、失格になるわけではないが、久しぶりの運転だったし、初めて乗った車だったから、一時停止を無視したり方向指示器を出し忘れたり、結果は散々だった。

 全部終わって終了証明書をもらったのが12時半。それからめしを食って、試験場へ更新に出かけたから、あたらしい免許証を手に入れたのは3時半。まる1日がかりの大仕事になった。
 教習所の講習が長くなった分、試験場での手続きは簡単になった。つまりこれまで試験場でやっていた講習を、教習所へ丸投げしたということだったのである。

 次回は3年後。このつぎあたりからは、免許証返上の肩たたきならぬ呼びかけが強くなると思うが、たとえよぼよぼのじいさんになろうとも、返上するつもりはない。
 今回も歩くのさえ杖をついてやっと、娘さんが教室まで付き添って講習を受けにきたばあさんがいた。
 いくつか聞かなかったが、どう見ても80は過ぎている。こんな人が運転するのかと思うと、正直暗然とした。
 ところが本人はもう運転するつもりはないとかで、走行講習のときも、車には乗ったが見学に回り、実際にハンドルは握らなかった。
 要するに運転免許というのは既得権。望めばだれでも更新できるわけで、国が強制的に取り上げることはできないのだ。

 わたしも怪我をして以来、車は手放し、運転もしなくなった。京都市内で暮らしている限り、必要ないからである。
 それがなぜ更新するかというと、田舎に引っ込んだりしたら、車なしでは暮らせなくなるから、そのときの権利を確保しておくためだ。
 そうなると、七面倒くさい手間と安くない費用をかけ、数年置きに手続きを強要するいまの免許更新制度というものが、いかに無駄なものか、もっと声高く議論されていいのではないだろうか。

 ちなみに今回かかった費用は、教習所と試験場で合わせて8550円だった。


2011.11.26
 東京へ帰ってきたのを待ちかまえていたみたいに、あたらしい保険証が送られてきた。その名も「後期高齢者医療被保険者証」。

 75歳以降の国民は、すべてこの国保に入らなければならないらしい。それにしても後期高齢者とは、なんと嫌な名称だろう。
 これは端的に言うと、従来の健保組合から切り捨てられたことにほかならない。これからは「東京都後期高齢者医療広域連合」なるものが受け皿になる。

 これまでは日本推理作家協会に所属していた。そこの国保が「文芸美術国民健康保険組合」。
 これがなかなか優良な組合だったらしく、保険料が安いことで有名だった。しかも保険料は一律。はっきりいうと、保険料が安いから推作協に加盟していたようなものだ。

 文芸美術という名はついているが、所属団体はびっくりするぐらい多い。
 作家のほかにも画家、音楽家、イラストレーター、カメラマン、書道家、歌人、特殊印刷技術団体など、出版や美術関連事業に従事する人の組合が、すべて加入している。
 ところが75歳になって後期高齢者になると、これら文芸美術国保の組合員資格を失ってしまうのだ。むろんかみさんも自動的に失う。

 かみさんの場合は、「被保険者資格喪失証明書」というものを送ってくるから、それを持って市役所に申請、あらたに国保への加入手続きを取らなければならない。
 後期高齢者保険なるものが、まさかそういう仕組みになっていたとは、迂闊にもまったく知らなかった。しかも保険料は収入割り。早く言えば値上がりするのである。

 70歳まで据え置き、やっともらいはじめた国民年金からも、気がついたら「介護保険料」なるものが天引きされるようになっていた。
 年寄りの懐からいかにして金を掠め取るか、国のやることは、江戸時代の悪徳代官の比ではないのである。

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 人と会うのがほとんど来週以降になってしまったため、今日はじめて新宿へ出た。
 用をすませたあと、ジュンク堂へ寄り、2時間ほどかけて本を5冊買った。

 問題はそれからだ。京都だと、あたらしい本を買うとまず喫茶店に入り、コーヒーを飲みながら、1時間ばかり拾い読みをするのが習慣になっている。わたしなどには、それが至福のひとときなのである。

 ところがいまの新宿には、わたしの入って行けるような喫茶店がない。唯一頼りにしていた中村屋は、ただいま改装中。

 ほかに思い当たるところもないまま、もの足りない思いをしながら帰ってきた。東京にはもう喫茶店文化がないのだろうか。


2011.11.20
 久しぶりに京都を離れ、東北まで出かけていた。ただし、たったひと晩。先ほど多摩の自宅へ帰ってきたところだ。

 考えてみると東京は、東北大震災以来ということになる。約8ヶ月ぶりだ。春先の節電騒ぎが吹き荒れていたころの東京に比べると、まったくちがう都になっていた。

 東北はすこし標高が高くなるともう雪化粧しており、気温もそこそこ冷たかった。それでシャツの上にベストを着込んで行動していた。
 ところが帰り着いた東京は、雨模様。晩秋にもかかわらず、夕方の電車は蒸し風呂状態。暑すぎて汗だくになってしまった。

 時期的にやや遅かったせいもあって、東北の紅葉は期待したほどでなかった。全体的に色がくすんで、冴えなかったのだ。
 地元の人に言わせても「今年の紅葉は汚かった」と散々。とくに赤の発色がよくなかった。

 京都も、わたしが見てきた限り赤がきれいでなかった。夏が暑すぎて、長すぎて、季節転換がうまくいかなかったのだ。今年は紅葉の不成り年、ということになるのかもしれない。

 今回の東北は、ある人の温泉取材に同行したもの。わたしのほうは完全な息抜きだった。
 ここ数ヶ月、それなりに殊勝な暮らしをしてきたから、これはまあご褒美。ちょうど東京へ帰る用があったから、この際便乗させてもらったのだ。

 仕事の邪魔をしたらわるいから、行った温泉の名前までは明かさない。朝までに都合4回入浴した。帰りのバスを待つ間にも、地元の共同浴場へ。
 帰途も鳴子温泉で途中下車し、ここでも2カ所共同浴場に立ち寄った。つぎの列車の時間をにらみながらだから、1回の平均入浴時間は10分、烏の行水みたいな温泉巡りだった。

 とはいえ、それぞれ源泉の異なる温泉に入ってきたもの。その効果あらたかだったみたいで、いまもまったく疲れが残っていない。昨日は東京で新幹線を乗り継ぎ、9時間もの大旅行をしたのである。

 今回は、20日ぐらい東京にいるつもりだ。この際あえて長期間自宅を留守にし、かみさんに慣れ、耐えてもらう経験を積んでもらわなければと思っているのである。


2011.11.12
 今週は天気がよくなかったので、奈良へ出かけることができなかった。

 その代わりというわけでもないが、ひとりで伏見へ行ってきた。まえから足を運んでみたいと思いながら、これまで機会がなかったのだ。
 いまでは京都の一部になっているが、伏見はれっきとした、ひとつの城下町である。最盛期は人口6万を数え、京、大坂と肩を並べる繁華を誇った。

 伏見の繁栄は、秀吉が伏見城を築いたときからはじまる。古地図を見ると、なぜこの地が選ばれたのか、すぐにわかる。
 水運、つまり良好な港があったからだ。江戸と大坂を結ぶ、交通の一大要衝だったのである。

 意外に知られていないことだが、西国の大名は、参勤交代で江戸へ向かうとき、京都には立ち寄っていない。伏見で船を下りると真っ直ぐ山科へ向かい、追分から大津へ抜けている。
 同じことは安土城についても言える。いまでは平野のなかの小山でしかないが、もとは琵琶湖に突き出した半島だった。つまり物流の動脈であった琵琶湖水運の、死命を制する位置にあったのだ。

 現在の伏見は、鳥羽伏見戦争の際町の大半が焼かれたため、遺跡はほとんど残っていない。戦争跡も石碑でようやくわかる程度だ。
 薩摩軍が陣を敷いた御香宮神社と、新選組が籠もった伏見奉行所とは、指呼の間しか離れていなかった。ただし標高は、奉行所のほうがだいぶ低い。
 薩摩は近くの山に大砲も据えたというから、これでは狙い撃ちだ。新選組が得意の白兵戦に持ち込もうとしても、戦争にならなかったわけである。

 奉行所の跡地は、明治後陸軍工兵隊の駐屯地となり、戦後は一時期進駐軍に接収されていた。いまは団地になっている。
 その一角で『常盤就捕処』なる碑を見つけた。裏に漢詩が刻んであったが、碑の設立者は工兵第16大隊長の名になっている。
 常盤御前に関係があるのかなと思い、帰って調べてみたら、やはり牛若丸の母親常盤御前が平家に捕まったところだった。むろんただの伝承である。

 ついでに碑を建てた人物を調べてみると、最後は少将にまでなった人で、日露戦争にも従軍していた。
 このような人物の建てた碑が、占領軍の目を潜りぬけて今日まで残されてきた、というのがなによりのおどろきだった。
 本来はべつの場所にあったらしいが、ひょっとすると、占領軍の目をかすめて、隠されていたのだろうか。

 さらにまた、秀吉時代にできたと思われる町の名が、いまでも使われていることにもっとおどろいた。
 伏見城の周囲を取り巻いていた大名屋敷の名が、そのまま町名となって残っているのである。

 桃山羽柴長吉中町、桃山福島太夫南町、桃山毛利長門西町、桃山町金森出雲、桃山筒井伊賀東町と、数え上げたら10をきかない。
 羽柴長吉とは、初代鳥取藩主になった池田長吉のことではないかと思うのだが、家康に臣従してからは、羽柴の名は使わなかったはずだ。
 じつはほかにも多くの、というよりほとんどの大名が、秀吉と養子縁組をしたり、羽柴の名をもらったりしているのである。
 しかし関ヶ原以後はみな捨ててしまい、だれひとり名乗らなかった。

 だいたい徳川幕府は、秀吉の遺構や痕跡となると、これでもかこれでもかと徹底的に消してしまい、豊国廟の秀吉の墓でさえ、明治になるまで荒れ果てて名ばかりのものになっていた。

 しかしこういう町名は残っている。見逃されたのか、それとも町民との間になんらかの駆け引きがあったのか、大いに興味をそそられる。
 その点、京都人というのはまことにしたたかなのだ。たかだか260年の寿命しかなかった徳川幕府より、白洲正子が「千年のすれっからし」と形容した京都人の知恵のほうが、はるかに上ではないかと思うのである。
2011.11.5
 このところ25度前後の、暖かさを通り越した日々がつづいている。
 11月に入ってまだ夏日とは、なんという不埒さだ。晩秋はいったいどこへ行ってしまったのだろう。

 今週は来客があって、最近にしては変化に富んだ週となった。
 まずはじめに、信州のせがれがやって来て、1泊した。今年取れた新米を持ってきてくれたものだ。
 ありがたい話だけど、じつは去年からの古米が大量に残っている。ふたりして1日1合しか食わないから、何十キロもの米はなかなか消化できないのである。

 週初めには、かみさんの50年来の友人が、東京から郷里への帰りがてら、立ち寄ってくれて夕食をともにした。

 水曜日は、この3年かかっていた病院での、最後の糖尿病検診日だった。
 平重盛邸の跡、という言い伝えがある病院の庭を、この際じっくり散策してきた。広さ3000坪あまり、樹齢数百年になろうかという古木がまだ何本か残っている。
 むろん往事のままではなく、江戸時代の手が入っているそうだが、素朴ながら雅趣に富んだ泉水は、昨今のつくられすぎた庭にはないすがすがしさがある。
 今度できるホテルがこの庭を生かしてくれ、もっと多くの人に知られるようになるのはうれしいが、いままで通りアオサギやシラサギが来てくれるかどうか、それがちょっと心配だ。

 一昨日は岡崎の市立美術館へ『ワシントンナショナルギャラリー展』を見に行ってきた。
 ゴッホ、マネ、セザンヌ、スーラなど、印象派画家の作品を集めた展覧会で、初来日の名品が少なくなく、見ごたえがあって堪能した。

 これは京都だからこそ、おぼえられる満足だろう。なんといっても、観客が多すぎないのだ。絵を見るのには適切。ゆっくり見て歩けるのである。
 これが東京だったら、立錐の余地がないまで観客が詰めかけ、とてもこうはいかないだろう。ほどほどという意味で、京都の住みよさは、こういうところにもある。

 膝を痛め、長いこと休んでいたステップ運動も、先月から再開した。
 鴨川が遠くなったため、どうしても外を歩く機会が減り、足腰が弱くなってきたという不安が、このところますます増していた。
 高さ20センチの踏み台を、上がったり下りたりするだけのステップ運動なら、家のなかでできる。
 とはいえ、それをやりすぎて膝を痛めたのだから、はじめはおっかなびっくりだった。
 いまはまだ慎重に、ようすを見ながらやっている段階。今度こそやりすぎないようにと、固く戒めているのである。

 運動量も、朝夕2回、1回20分を限度として、これを守っている。
 ほんとは高さを上げたり、負荷を増やしたりしたい誘惑に、もう駆られはじめているのだが、今回ばかりはノーである。


2011.10.29
 木枯らし第一号が吹き、その冷たさにふるえあがった。

 今度の住まいは、廊下側に窓がないのである。エレベーターを下り、玄関まで50数歩あるのだけど、これが吹きさらし。
 しかも北向き。ふだんでも強いビル風が吹きつけてくるくらいだから、冷たいのなんの。真冬の寒さが思いやられる。

 とはいえ冷たかったのはたった1日。翌日からまた暖かくなり、とくに今日は温暖そのもの。快晴で、風もまったくなし。
 ときたから、早速2回目の山の辺の道歩きに行ってきた。

 今回は天理の先の長柄というところで電車を降り、大和(おおやまと)神社を起点に、崇神天皇陵、景行天皇陵を経て、三輪の大神(おおみわ)神社まで歩いてきた。
 距離にしたら10キロ足らずだと思うが、休み休みだから4時間かけ、秋の大和路を満喫してきた。山の辺の道でもいちばんいいところなのである。

 この界隈、古墳の多いことはおどろくばかり。こんもりした繁みがあったら、まず古墳と思ってまちがいない。
 前回も小高い丘の墓地があり、妙な地形だなと思ったら、これがそっくり前方後円墳だった。今回も柿畑になっている前方後円墳があった。
 崇神天皇陵はきれいに整備され、宮内庁の職員らしいものまで常駐していた。その一方で、庶民の暮らしに取り込まれてしまった古墳。大変な落差だが、その取り合わせが面白いともいえる。

 一応今回で、さわりのところは歩いたことになる。しかしいずれまた、3回目に出かけることになりそうだ。
 というのも大神神社の摂社である狭井神社というところから、三輪山へ登らせてもらえることがわかったからだ。
 三輪山といえば大神神社のご神体になっている神聖な山。それに参拝客として登ることができるらしいのである。
 あいにく今日は、われわれが着いたときもう受付は終わっていた。しかし所定の手続きを踏んで入山料を払えば、だれでも登れるという。
 正確には、山上にあるお宮への参詣ということで、立ち入れるところが制限されているうえ、決められたコースを往復してくるだけ。

 写真撮影も許されないなど、きびしい制約があるのだが、それでも天下の三輪山へ登ることに変わりはない。となればなんとしても、出直してこなければならないだろう。
 とはいえ標高500メートル近い山、往復2時間。いまのかみさんにはどうかなと思ったら、本人はふたつ返事、登りたいと即答した。

 もうひとつの楽しみだった今回の買い出し成果。柿2袋、ミカン2、黒豆の枝豆2、万願寺唐がらし1、鷹の爪1、レモングラス1。
 ほかにも青物野菜で買いたいものがあったけれど、道中の前半だったから、買い控えたところ、その手の店にもう出会えなかった。けっこうタイミングがむずかしいのだ。


2011.10.22
 秋の一日、好天に誘われて奈良へ出かけ、山の辺の道を歩いてきた。

 フルに歩くと20キロくらいの距離になるのだが、いまのかみさんにはちょっと無理。さいわい並行してJRが走っているから、行けるところまで行って、疲れたらそこから引き返そうということにして、気軽に出かけた。

 京都から天理まで、近鉄の直通電車が走っている。当面の目的地となる石上神宮まで、駅から2キロたらず。そこから南へ下って、桜井のほうへ向かうコースを選んだ。

 話には聞いていたが、山の辺の道は期待を上回る、まことに美しい道だった。
 風景がこよなくやさしく、おだやかなのだ。小高いところを通るから眺望が開け、目障りな建物や、どぎつい色彩がまったくない。
 子どものころ慣れ親しんだのとそっくり同じ光景が、すこしも損なわれることなく残っていることに、なによりも感激したのだった。
 あいにく彼岸花は終わっていたが、田圃では稲穂が黄金色に輝き、稲刈りがはじまっていた。畑という畑には、赤く色づいた柿の木が、こぼれ落ちそうなほど枝をしならせている。
 文字通り「やまとは国のまほろば……うまし国ぞ……」と言いたくなるような風景がひろがっているのだった。

 さらにもっと、うれしいことがあった。道のところどころに野菜の無人売店があって、いまは柿が最盛期。柿好き人間のわたしにはこたえられなかったのだ。
 歩きはじめるやいなや、たちまちあった。大ぶりの渋抜き柿が4個入って200円。安い! ってんですぐさま買った。
 ところがこれは、あわてる乞食。あとからあとから、いくらでもいい店が出てきた。しかも以後はすべて100円。名産の刀根柿が4個から5個入って100円なのである。
 結局帰るまでに柿を3袋、枝豆を2袋、インゲンとモロッコと里芋を各1袋買い、うんうんいいながら背負って帰った。柿以外の野菜もすべて100円。まるで買い出しに出かけたようなものだ。

 ウォーキングのほうは、かみさんのようすを見ながらだったし、久しぶりだったから無理はしなかった。JRの駅で2駅行ったところから引き返したので、距離にして8キロぐらいしか歩かなかっただろう。
 あとは次回のお楽しみ。道もよかったが、買い出しの成果にもっと満足。味をしめたから、近いうちにまた出かけるつもりだ。

 次週あたりからは、ミカンが並びはじめそうなのである。今度ははじめから覚悟して、もっと大量に背負って帰るつもりだ。

 わたしという人間は、食いものだけは、いくら背負ってもけっして重く感じないのである。


2011.10.15
 秋もだいぶ深まってきて、河畔の緑が色づきはじめた。キンモクセイが芳香を放ち、ヤマブキに似た花が咲きそろっている。
 これが正確にはなんという花なのか、調べてみたがわからなかった。ヤマブキは春の花だし、よく見ると花弁がすこしちがう。外国から入ってきた園芸種ではないかと思う。

 鴨川河畔には四季とりどりの花が植えられている。それはまことにけっこうなのだが、これほど多種多彩になると、とても名前を覚えられない。
 ところどころ花の名を記した標札が添えてあるのだが、全部はカバーされていないのか、それともいたずらでなくなったのか、知らない花ほど表記がないのである。

 二条大橋のたもとに、ある瀟洒なシティホテルがあった。それが外資系ホテルに買収された、というニュースを聞いたのはたしか昨年のことだ。
 その後間もなく営業を停止し、今年の夏ごろまで無人状態がつづいていた。このまえ久しぶりに傍らを通ったら、フェンスで囲われ、取り壊し工事がはじまっていた。
 それから数ヶ月、いまではなにもなくなり、なかまで見えないものの、もう更地状態になっているみたいだ。来年中にもあたらしいホテルができるのだろう。

 じつはそれと同じことが、わたしのかかっている病院でも起こっている。ホテルが買収されたとき、この病院も、やはり外資系ホテルの買収対象になっていると発表されたからだ。

 以前にも何回か書いたことがあるが、病院は東山の妙法院と隣り合ったところにあり、平安時代の遺構と伝えられている日本庭園を持っている。
 あまり手を加えられていない素朴な庭だが、古木が茂り、池にはアオサギがやってくる。季節ごとに表情を変えるこの庭が、とても気に入っていた。
 買収話は、その後なんの音沙汰もなかったからどうしたのだろうと思っていたところ、このほどようやく正式発表があった。

 身売りしたのは、やはりほんとうだったのだ。それで病院のほうは、年内いっぱいで閉鎖することになったという。
 病院側の話によると、建物や設備が古くなっているため、病院としては建て替えたかった。ところが歴史風致地区なので、病院としての改築は許可が下りないのだという。

 ホテルだけが例外。国際観光都市として、京都は慢性的なホテル不足がつづいているから、ホテルならこういう地区でも建築が認められるのだとか。
 そんなところへなぜいまの病院が建てられたかというと、ここはもと専売病院で、国の建てた病院だったのである。
 公社の民営化によっていまの病院に払い下げられたもので、わたしの持っている2005年版の都市地図には、京都専売病院として載っている。

 いまの病院は市内にいくつも病院を持っているから、かかりつけの患者は、最寄り病院で責任を持って引き受けるが、転院を希望する人は遠慮なく申し出てくれという。
 それでこの際、転院させてもらうことにした。今度の住まいからひとつ裏の通りに、同じくらいの規模の病院があって、歩いて2分で行けるからだ。
 その名が京都逓信病院。専売病院と似たようなものだと思うが、こちらは同じ名でまだ存続している。

 東山のほうは来月、もう1回行ってお終いになる。あたらしいホテルができたら、庭がどうなったか、すぐにも見に行くつもりだ。


2011.10.8
 引っ越してまる1ヶ月、ようやく暮らしが落ち着いてきた。探しものでときどきペースが狂うことはあるものの、生活のリズムが、だいたい平常にもどった。

 散歩がてら、買い出しがてら、毎日のように出かけている。行動範囲もだいぶ拡がり、今週は鴨川河畔も2回歩いた。

 今日は今出川までパンを買いに行き、ついでに北野天満宮まで足を延ばしてきた。
 時間にして1時間半歩いたが、帰って道程を計ってみたら、4キロしか歩いていなかった。街中は信号があるから、距離の割りに時間がかかるのだ。

 北野天満宮には、これまで3、4回は行っている。ところが今日は最後まで、その感覚が当惑しっぱなしだった。
 はじめて来たみたいな気がして仕方がなかったのだ。まったくといっていいくらい、記憶が残っていなかった。
 このまえ行ったのはいつのことだったか。たしか初詣だった。つまり参拝客が大勢いて、人混みのなかをぞろぞろ歩いたことしか覚えていない。
 これまではいつ行っても、参拝客でいっぱいだった。ところが今日はがらがら。ぱらぱらとしか人が歩いていない。昨日お祭りがあったばかりだったのだ。

 こんな天満宮ははじめて。これまで知らなかった天満宮に出っ食わした、ということだったのである。
 それにしても、国宝の本殿を見ても、境内をひと回りしても、知っているお宮という気がすこしもしない。なにもかもはじめてみたいな気分につきまとわれたのは、いささか情けなかった。
 要するにこれまでのことは、なんにも覚えていなかったということだからだ。何回も来ている、知っている、という思い込みしかなくて、実体としての記憶はなんにも残っていなかった。

 そのあと、以前この近所のどこかで「あぶり餅」を食ったことがあるのを思い出し、できたらそこまで行ってみようと思った。ところが今度は、そのお宮の名が思い出せない。
 著名な神社仏閣なら、どこでも行けるつもりだから、地図は持ってこなかった。人に尋ねたら簡単だろうが、お上りさんみたいな真似をするのは名折れもいいところ。結局あきらめて帰ってきた。
 帰って地図を見たら、あぶり餅が名物なのは今宮神社だった。北野天満宮とは全然ちがうところなのだ。

 一度通った道は絶対に忘れないとか、地理感覚には絶大な自信があるとか、それを最大の売りとしていたのに、なにもかもごっちゃになったり、欠け落ちたり、だいぶ怪しくなっている。というより明らかに退化している。

 プライドが傷ついて、しゅんとしているところである。


2011.10.1
 あっという間に半袖シャツを見かけなくなった。気温の上では夏の終わりなのに、長袖や真っ黒な服装がこうも増えてしまうと、年寄りの半袖姿はみすぼらしくていけない。やむを得ず袖まくりしたシャツに着替えた。

 今週は御所へ行ってきた。ふだん見せてくれないところを公開してくれるとかで、かみさんが申し込んであったのだ。
 京都御苑には、京都御所、大宮御所、仙洞御所、迎賓館があり、ふだんは京都御所の一部しか見ることができない。
 ほかのところは、年に何回か公開される。ただし発表があるつど、申請しなければならない。そして許可が下りると、指定された日の、指定された時刻に、出向いて行く。

 わたしひとりだとこういう面倒くさいことは絶対にやらないのだが、かみさんのおかげで、これらすべてを見ることができた。
 今回はなかでも特別な公開だった。ほかのところは、見学といっても外をざっとひと回りするだけだが、今回は御所に上がって、内部を見せてもらえたからだ。

 つまり天皇の住まいだった清涼殿や、即位礼や公式行事が行われる紫宸殿、天皇が武家と対面する小御所などの内部を、一通り見せてもらえたのである。

 そのせいだろう。これまでは申請者が身分証明書の提示を求められただけだが、今回は同行したわたしまで免許証を見せなければならなかった。
 御所を見学したのは、これが2回目。中学の修学旅行のとき以来だから。60年ぶりということになる。
 そのときのことはほとんど覚えていない。紫宸殿の大きな建物の前を、ぞろぞろ通り抜けたことぐらいしか記憶に残っていないのだ。

 今回とくに興味深かったことは、紫宸殿の内部から外が見られたこと。白砂を敷いた南庭の、左近の桜、右近の橘が、文字通り左と右にあった。
「天子南面す」ということばがあるように、南庭に参内した文武百官は、これを左右逆に見るわけである。つまりわたしはそのとき、天子の目線と同じ高さから、南庭を見下ろしていたのだった。

 その日の体調がよかったので、翌日もかみさんは平安神宮へ行った。保護者だからわたしも同行した。ほんとは神宮より、さる店のスイーツがお目当てだったのだが、あいにくタイミングがわるかった。
 秋の3連休の翌日の月曜日だったのだ。動物園から美術館、みんな休み。その手の店が開いているわけはない。すこし考えたらわかりそうなのに、調べもせずのこのこ出かけたほうがわるかった。
 平安神宮は休んでなかったから、ついでに庭をひと回りしてきた。人が少なくてゆったりできたものの、萩をはじめ多くの花が終わっていた。

 かみさんがいくらか歩けるようになり、ミーハー精神が甦ってきたことが、いちばんの収穫だったといえよう。






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