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2011.9.24
ようやく、台風一過の爽やかな天気になった。気温も今日は25度。朝夕は寒いくらい冷涼となり、昨日までの暑さが嘘みたいだ。
今回の台風、日本列島に大きな被害をもたらしたが、京都は風雨ともたいしたことはなかった。
先日の長雨台風のときもそう。かなり降ったはずなのに、ふつか後に鴨川河畔を通りかかったときは、わずかに水位が増えている程度だった。
岸辺でなぎ倒されている雑草を見ても、ふだんより1メートルぐらい水位が上がっただけ。河川の安定していることが、京都のなによりの強みだろう。
それに盆地だから、風も強くない。東京や札幌が、一旦吹きはじめると数日吹き荒れるほど風の強かったところだっただけに、この風の少なさは、京都暮らしをはじめたときいちばん強く感じた。
その分暑い。今回の住まいも、はじめはそれほど思わなかったが、だんだん暑くなってきて閉口した。
ベランダが1・7メートルと、やや広めにつくられているのだ。方角が南向きだから、かんかん照りになるともろに日が当たる。その照り返しがすごいのである。
それでも注文してあったカーテンが届いてくれたおかげで、だいぶしのぎやすくなった。わたしの部屋もあらたな収納ボックスを何点か入れ、より片づいてすっきりしてきた。
ところが書棚の整理をしていて、同じ本が3冊出てきたのにびっくり。3点とも今年になって買った本。うち1冊は図鑑だ。
まったく同じ図鑑を2冊も買い、そこそこ使っていたのに、書棚の整理をするまで気がつかなかった。その惚け具合にショックを受けたのだ。
あとは居間に、サイドボードがひとつ欲しい。手近なところは見て回ったが、なかなか手頃なものがない。
それで今週はかみさんを連れ、大阪のイケアまで行ってきた。しかし会場が広すぎるのと、子どもがはしゃぎ回る騒がしさに恐れをなし、1時間いただけでなにひとつ買わずに帰ってきた。
こういう店は、われわれのような老人所帯向きではない、とわかったことが最大の収穫か。まだほかに心当たりがあるから、来週はそこへ探しに行ってみよう。
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2011.9.17
もとのような暮らしに、なかなかもどれない。板につかないというか、どこか落ち着かないのである。
原因はわかっている。あるべきものが、まだすべて元通りになっていないからだ。どこになにがあるかわからなくて、しょっちゅう探しものをしている。
一昨日もノートが見つからなくて、探し回った。カードのナンバーから各種データ、パスワード類などを控えたノートで、仕事上なくてはならない元帳みたいなものだ。
なくすと困るから、パソコンとともにリュックへ入れ、引越のときも手放さず持ち歩いていた。それがいざ必要になって取り出そうとすると、ないのである。
ほかの部屋には絶対ないから、あるとすれば自分の部屋だ。どこかへまぎれこんだのだろう、というので狭い部屋のなかを2時間も探し回った。いつものことだが、腹の立つような状態で見つかった。
習慣というものはおそろしいもので、あるべきものがないと、それだけで落ち着かなくなって、仕事どころではなくなる。引っ越して2週間になるが、なにかしようとするたび、まず探しものをしなければならない、というのがつづいているのだ。
ものを探すことくらい、精神の安定を乱すものはない。引越の煩わしさとか、負担になるとかいった大元の原因は、この、必要なものが見つからない、というところから生まれているのである。
窓から見える風景も、気になりはじめたらきりがない。
たとえばかなり遠いビルの屋上に、いつも日章旗がはためいている。いまどき毎日国旗を掲げるというのは、特別な理由があってのことだろう。あの辺りにそういう団体や、会社があったかなあ、と不審でならなかった。
気になりはじめると、たしかめてみずにいられないから、この際ついでに、窓から見えるビルの正体をすべて調べてやろうと、くそ暑いのにのこのこ出かけた。
日章旗の正体はすぐにわかった。四条通に面した9階建てビルの屋上だった。ビルの持ち主は、なんと旗店だったのだ。
今回はじめてわかったことは、わが家の窓から見えるすべての建物が、四条通からこちらに立っているビルだということ。
四条烏丸の交差点まで、直線距離にしてわずか400メートルしかない。つまりわが家の窓から見えるものは、半径400メートル内のものばかりだったのだ。
唯一の例外が、どこかのビルの上へ、ちょこんとのぞいているタワーの先端みたいなもの。調べてみると、これは京都タワーのてっぺんだった。距離にして約2キロ先だ。
これまでいろいろなところに住んできたが、いずれも眺めだけは抜群によかった。30年住んだ東京の池袋からは真正面に富士が見えたし、札幌でも旭岳から十勝連峰、日高山脈を一望することができた。
それが今度は、視界たった400メートルである。それもビルの屋上にある小汚い施設ばかり。これから先、こういう視界に、わたしの感覚は耐えられるだろうか。なんだか心配になってきた。
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2011.9.10
あっという間に1週間が過ぎた。やっとすこし落ち着いた。ほんのすこしである。
体力が落ちているから、なにをするにしても時間がかかる。転居通知ひとつにしても、メールはともかく、はがきを作成するのに2日もかかってしまった。
ソフトを入れてあるのだが、使い方を忘れているのだ。使いこなせるようになったときは、もう終わっていた。やるたびに同じことを繰り返している。
夜っぴてつくりあげ、ポストへ投函しに行ったのは一昨日の早朝。そのついでに、はじめて界隈を散歩してきた。
鴨川へ出るまで20分かかった。信号を無視できる早朝でこの数字だから、日中だったらもっと時間がかかることだろう。
今日は本棚を買ってきて、それを組み立てた。壁に半端な隙間ができたので、それを埋めるための棚。幅は60センチしかないが、高さは180ある。
できた棚に本を二重に詰め込むと、部屋に積み上げてあった段ボールの本があらかた収納できた。
ほんとはもっと大きな、きちんとした書棚を買うつもりだったのだが、これで間に合わせてしまうかもしれない。この際ものはできるだけ増やしたくないからだ。
ありがたいことに台風のあと、空気が乾いてしばらく快適だった。朝夕の冷気は寒いときもあったくらい。おかげで一度も冷房のスイッチを入れることなく過ごせた。
しかし一転、今日は蒸し暑さがもどり、日中の気温も上がった。窓を開け放すと風が通ってくれるが、そうもいかない事情がある。
というのもわたしの部屋は廊下に面している。705だから端から5つめ。それほど多くはないものの、人が通る。カーテンを閉めざるを得ない。
ブラインドだったらもっと風を通せるのか、いま考えているところだ。これまで使ったことがないから、なにがよいか、わからないのである。
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2011.9.4
台風のさなかの引越しという、最悪の結果になってしまった。滅多にないことだとは思うが、二度とやりたいものではない。
女性スタッフによる荷物の箱詰めは1日からはじまった。同日、NTTも光通信用機器を取り外しに来て、その段階で電話もネットも使用できなくなった。
翌日は引っ越すからいいようなものも、新しい機器は郵送で送りつけてきただけ。取付けと設定は、自分でやらなければならない。
2日は引越でとてもそんな間がないだろうから、今回は1日早くブログを更新しておくつもりだった。その予定が全面的に狂ってしまった。
引越当日の荷積み現場は見ていないが、ときおりのはげしい風雨でだいぶ苦労をしたようだ。午後3時には終わっているはずが、5時過ぎまでまる1日かかった。
終わったときは疲労困憊。口もききたくないくらい、げっそりしていた。
全面的なお任せパックとはいえ、指示はしなければならないから、つきっきりで立ち会うことに変わりはない。そのうえで、いるもの、いらないものの選別までする。出ずっぱりで働いているのと同じなのである。
あれやこれや、合わせると相当な労働量になっていた。4年前、二度としたくないと懲りたはずの悪夢を、また思い知らされたことになる。
しかも今回の住まいは、更新ができない。4年たったらさらに越さなければならないのかと思うと、考えただけでぞっとする。
昨夜は疲れ果て、買ってきた弁当をむりやり腹へ詰め込むと、シャワーも浴びずごろ寝した。
一眠りしたら、夜中になっていた。だいぶ元気を回復したから、それからNTTからきた梱包を開き、あたらしい機器の設置と設定をはじめた。
電話はすぐ使えるようになったが、ネットになかなかつながらなかった。無線のところが、うまくいかなかったのだ。
LANケーブルを使って、直結してみることまで試みた。どこで成功したのかよくわからないのだが、使用できるようになったときは、朝の4時が近かった。
そのまま眠れず、今日を迎えた。10時には一昨日のスタッフがふたたび来て、梱包を開きはじめた。
この間わたしはマンションの管理人のところへ行き、説明を受けたり館内の案内をしてもらったりした。
30分ほどしてもどってみると、自分の部屋の荷ほどきはもう終わっていた。本棚にあった本が、ほぼ元通りの位置にもどされているのを見たときは、さすがだなあと感心した。
残念だったのは、あたらしい書棚を買いに行く暇がなかったため、ほかの本は並べられなかったこと。これは段ボール箱のまま、部屋のなかへ積み上げてある。
とにかく曲がりなりにも、なんとか無事に引っ越すことができた。かみさんにも重労働をさせたが、いまのところわるい影響は出ていない。
あとは急がず、日々の暮らしをつづけながら、すこしずつやっていこうと思っている。とりあえず引越が終わったことだけ報告しておきます。
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2011.8.27
友人から、かつての職場の後輩が、癌で亡くなったという知らせをもらった。年がだいぶちがったし、向こうは定年まで勤めたから途中で交流は途絶えていたが、ひところは一緒に仕事をしていた男だ。
数年前、われわれの集まりに呼んでやったとき会ったのが最後になった。退職して間がなかったときで、これからやっと好きなことができると張り切っていたのを、いまとなってはなまなましく思い出す。
昨年は仕事仲間のひとりが亡くなった。今月末がその1周忌で、その集まりに呼ばれていたのだが、引越しと重なったため、申し訳ないが欠席させてもらう旨返事をした。
春先には知り合いの元編集者が亡くなった。3人とも死因は癌。年齢も60そこそこ、いまでは若死といっていい部類だ。
案外60という年齢は、男にとってひとつの境目になっているのかもしれない。規則的なサラリーマン生活が途切れた反動か、この時期に亡くなる人はけっこう多いのだ。
それさえ通過したらあとはだらだら坂。わたしと同年配の仲間となると、まだみんなぴんぴんしている。先月の高校時代の同窓会へは2年ぶりに顔を出したのだが、この数年ひとりも欠けていなかった。
じかに会って話しはじめてみたら、やれあっちが悪い、こっちが悪いと持病自慢になってしまい、それぞれ故障は抱えているのだ。しかし根が丈夫なのか、楽天的なのか、みなたくましい。
早くいえばふてぶてしいのだ。昭和11年生まれといえば、戦前戦後の食料事情のいちばん悪い時期に成長している。飢餓を経験している世代だ。たくましくなかったら生きられなかったことはたしかである。
酒は1日も欠かしたことがないという酒豪の男が近況報告をして、医者からとうとう酒量制限をせよと言い渡されたとか。
それで本人、必死に考え、苦肉の策を思いついた。毎日の晩酌はやめない。その代わり、ノンアルコールビールからはじめる。
最後は必ず焼酎になってしまうのだが、そのころは腹もはり、多くは飲めなくなって、酒量も減るという理屈だ。ノンアルコールビールも飲み慣れたらけっこううまいぞ、と言っていたが、こういう執念こそ長生きの秘訣かもしれない。
わたしはもともと飲めなかったし、かみさんも飲まないから、わが家ではアルコールが食卓に上がることはない。酒というものがなくてもいっこう困らない人間だ。
その代わり食うことには執念を燃やす。なにを食ってもうまいし、なんでも食える。また食ったものは、きちんと消化してくれる胃腸にも恵まれている。
この消化器が元気なうちは、わたしの寿命もまだまだつづくだろうと楽観しているのだ。
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2011.8.20
新住居の契約が終わり、予定通り来月はじめには引っ越せることが決まった。距離はいくらも離れていないが、区が変わるせいか、電話番号も変更になる。
昨日は部屋の寸法を取りに行ってきた。カーテンをはじめいくつかの家具備品を、あらたに用意しなければならなくなったからだ。
今度の住まいは、マンションの典型的な3LDKである。機能的にできているが、部屋の延べ面積はいまのところより狭い。わたしが使う洋間も6・3帖と、1帖あまり狭くなる。
いまの住まいは、ドアの外にかなり大きなトランクルームがあり、本を入れた段ボール箱がびっくりするぐらい積み上げられた。今回はその収納力も劣る。
したがってものの配置をよく考えないと、すごく窮屈なことになりかねない。この際、背の低い本棚などは処分せざるを得なくなった。
上にものを載せられない棚なので、上のほうががら空きだったのだ。そういうむだはもったいないから、ここは天井まで本が詰められる書棚に変えるつもりだ。
またパソコン用品やCD等を収納していた戸棚も処分する。これも中途半端な大きさ。CDそのものがUSBに置き換わった現在、こういう収納そのものが必要なくなってしまった。
それやこれやで、あれこれ思い巡らしてみると、いくら越したところで、暮らしのスタイルはいまとまったく変わらないだろうと推定できる。
すなわちロッキングチェアに寄りかかり、膝の上でパソコンを抱え、周囲には本や資料を拡げ放題。まん中のわずかな隙間へ万年床。人さまに見せられるような部屋には、絶対ならないのである。
居間のほうでいうと、これまでずっと座卓でめしを食っていた。しかしかみさんに腰痛が出はじめた以上、ダイニングテーブルにしたほうがよいということになり、座卓もこれでお役ご免になりそうだ。
もともとが分譲マンションなので、エアコンは各部屋に、照明もすべて取りつけられている。これは変更不可。いまのところで買い入れたエアコンや照明は持って行けない。
いくらも使っていないものを廃棄処分にしなければならないわけで、あらたなごみを出してしまうことには大きな抵抗を覚えるが、やむを得ない。これを機会にシンプルで、簡素な暮らしに転換できればと思っている。
京都でやや不便を感じるのは、家具とか、生活備品とかを扱う専門店がないことだ。ロフトはごく小規模な店しかないし、東急ハンズもない。そういうものを探そうとすると、どうしても大阪まで行くしかないのである。
ということで、来週は大阪のイケアへ行ってみようと思っている。
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2011.8.13
暑い、暑い。36度強の日が2日もつづいた。並の日で35度、それ以下になった日はたった1日しかなかった。
こうなると、年寄りは家のなかに閉じ籠もっているほかない。それしか対抗手段がないからだ。
かみさんの腰痛がだいぶよくなった。今週は病院や友人との集まりに、4日も出かけた。早くは歩けないが、帰りに買物もしてこられるようになったから、その分わたしの外出は減った。
炊事も手伝いや後片づけくらいでよくなり、暮らしがほぼ平常にもどった。ただし家のなかは、ただいま引越準備で足の踏み場もない状態。家からはみ出したものが玄関前にまで積み上げてある。
わたしのほうは本の片づけにかかりきり。捨てることにした本のなかで、いちばん多いのは自分の本だった。これだけで50冊近くあるだろう。
京都へ来て4年になるが、この間文庫になったものまでふくめると10冊近く本が出ている。新刊書が出るたび、出版社からは著者献呈として10冊送られてくる。
増刷になったらなったで、そのつど最新版が届けられる。「行きずりの街」などいま50何刷りなので、この本だけで50数冊送られてきた計算になる。とても全部手許には置いておけない。
友人知人らに贈呈する本は、出版社からじかに送ってもらうから、わたしのところへ来た本は、いわばどこへも行き場のない本。知人も知り合いもいない京都では、もらってもらう人とてない。
今回の「夜去り川」は、先月大阪で高校時代の同窓会が開かれたから、3冊持って行ったらみんなよろこんでもらってくれた。あとから2冊送ったから、5冊はけたことになる。ただこういう機会はまれ。毎回大量に残ってしまう。
70平米そこそこの家に住んでいると、本はとても無尽蔵に置けない。引越すたびに数冊残し、あとは処分するほかないのである。
いまの住まいには、廊下に物置があったから、使わないものは全部そのなかに押し込んでいた。札幌から持ってきて、一度も開けていない本の段ボール箱だけで10くらいあったろう。
その中味を今回すべて改めたのだが、いくら心を鬼にしても、捨てられないというものが、どうしてもいくつかある。
初期の創作ノートなどがそれ。構成を立てたり、調べものをしたり、試し書きをしたりしたノートで、表題がついていないからどれがどのときの作品の跡なのか、全然わからないのだが、かつては相当こまめにノートを取っていたことがわかる。
この間世田谷文学館で講演をしたとき、現代はハードディスクがいらなくなった時代、ということから話をはじめた。
ネットの普及でなんでも簡単に調べることができるようになったおかげで、ものごとを記録したり、メモしたりして残す必要がなくなったのが近年の最大の変革だと。
これらのノートは、そういうネット時代以前の産物である。いわばアナログ時代の、自分の論理や世界を構築するとき絶対必要だった格闘の跡、きわめて個人的なメモリアルの残骸ということになる。
そういうノートだけで20冊から残っている。またデビュー前の、手書きの原稿もだいぶ残っていて、合わせたらそれだけで段ボール箱にまるまるひとつある。
いま見ても、わけのわからないものばかりだし、将来なにかの役に立つというものでもないのだが、いざ捨てるとなると、自分の過去を否定するみたいで、なんだか蛮勇をふるう気になれないのだ。
ちなみに現在は、まったくノートを必要としていない。執筆にはATOKを使っているが、そのソフトが備えているメモ機構でなにもかもすませているからだ。
キー操作ひとつでぱっと画面を呼び出せるから、なにかを書き留めたり、思い出したことを控えたりするにはまことに便利。
プロットはじめ、制作進行記録などもすべて同じ画面ですませるから、紙やペンの出る幕はない。終わったら、きれいさっぱり、消してしまえる。したがって今回の作品は、制作過程の痕跡はゼロということになる。
べつにそれをどうこういうつもりはないが、そういう時代になったからこそ、手書き時代の痕跡は、まごうことなき自分の足跡として捨てるに忍びないのだ。
段ボール箱に詰まった古ぼけたノートは、どうやら今回も、つぎの住まいまで持って行かれる公算が強いようだ。
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2011.8.6
またまた、あっという間の1週間だった。変化があまりにめまぐるしくて、ほかのことはなんにもできなかった。作家業のほうは完全にお休み。追いつめられた年寄りがうろうろしていただけだ。
さいわいかみさんの腰痛は、その後すこしずつよくなっている。今週は近くへ、何回か用足しにも出かけた。2週間ぶりの外出だった。朝食の支度をしてくれるようになっただけでも、朝の苦手なわたしにはありがたかった。
それで今週は、家探しに専念していた。そして昨日、つぎの住まいを見つけ、手付を打ってきた。順調にいけば、9月のはじめに引っ越しとなるだろう。
つぎの移転先は中京区。いまのところから、1キロくらいしか離れていない、より街の中心地になる。10階建てマンションの7階。むろんエレベーターつきだ。
暮らしの便利さだけを考えて選んだから、スーパーまで徒歩3分、大丸や地下鉄の駅へ5分と、さらに近くなった。
南向きの3LDKだが、街の真ん中にしては前が開けているのが気に入り、その場で決めた。
ただし、見えるのはビルばかり、お世辞にも心和む風景とはいえない。いちばん残念なのは、窓から山々はもちろん、緑は木の1本すら見えないことだ。鴨川へもずいぶん遠くなった。
それであらためて口惜しかったのは、すぐ近くで、鴨川に面した物件もあったことなのだ。ところが築後25年と古かったからためらってしまい、数日後、一度見てみようとしたときはもう決まっていた。
部屋が決まると、つぎの瞬間からべつの忙しさがはじまる。昨日は家にもどってくるなりいまの管理会社に電話し、引っ越すと告げた。すると今日はもう引っ越し会社が2社、そこの紹介で見積もりにやってきた。
とにかく今回は、おまかせパックで、自分たちはなにもしないですむ引っ越しにしようと思っている。ついでにこの際、思い切って身軽になろう、ということで、明日から荷物の総点検をはじめる。
けっこう愛着のあった登山用品だとか衣類、靴なども、もう処分せざるを得ないだろう。2度と使う機会はないと思うからだ。
本も大量に捨てる。札幌を引揚げるとき、相当思い切って処分したつもりだが、まだ生ぬるかった。こちらまで持ってきたものの、物置に入ったまま、一度も開いていない箱が大量にある。これももうゴミでしかない。
今回の一連の出来事は、老人所帯がいずれ直面しなければならない現実の問題だった。それをいま気づかせてくれたことを、むしろよろこばなければなるまいと思っている。
これからまだ、仕事どころではない日々がしばらくつづきます。
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2011.7.30
本が今週発売になったようだが、じつをいうと、それどころではなかった。かみさんの腰痛がよくならず、きりきり舞いさせられていたからだ。
天気さえ回復してくれたらと、脳天気な期待をしていたころはまだよかった。あれからますます悪くなり、週のはじめのうちはまったく動けなかった。
その後すこし回復し、なんとか躰を動かせるようになったが、それもそろそろ歩ける程度。あとは起きて腰かけているか、寝ているか、自分の身の回りのことをするのに精一杯である。
おかげで現在は、わたしが専業主夫となっている。日々の買い出しから洗濯、掃除、炊事、ゴミ出しまで、家事の一通りをなんとかこなしている。
べつに苦痛ではないけれど、いまは仕事が一段落しているからできることで、これが締め切りに追われている状態だったら、かなり悲惨なことになっていただろう。
老人所帯というものが、これほどもろいものだとは、想像したことすらなかった。ひとりが病気になってしまうだけで、ユニットは簡単に壊れてしまうのである。
いったいどうしてこんなことになってしまったのか、いくら考えてもわからない。ふたりとも、まるっきり納得できないのだ。これでほんとうに、もとの状態にもどれるのだろうか。かみさんもだいぶ自信をなくしているみたいだ。
それではたと困ったのが、いまの住居である。出入りするたび、48段もの階段をいちいち上り下りするのは、腰痛持ちにとってやさしい住まいとは断じて言えない。
この際背に腹は替えられない。エレベーターのあるところへ引っ越そうと、今日決心したところだ。
4階くらいは、階段を上り下りしたほうが健康にいい、などというのがそもそも見栄だった。
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2011.7.23
祇園祭りが終わり、ワールドカップの女子サッカーが終わり、祭りのあとの静けさも一瞬、今度は大型台風がやって来た。
ところが四国の直前まできて、いつまでたっても足踏み状態。だいたい台風というのは接近してくると速度が上がるものだが、今回は逆に遅くなった。こんな台風も珍しい。
さいわい京都は、被害らしい被害もなかった。ときどき叩きつけてくるような風雨はあったが、降り止みがけっこうあったから、その間買物ぐらいには行けた。傘なしで外出できたのである。
わが家はそれより、かみさんの腰痛が悪化したことが、はるかに被害甚大だった。今回はかなりひどく、3日ほどほとんど動けなかったくらいだ。
おかげで家事の一切を代わってやる羽目になった。洗濯はともかく、めしの支度から買い出し、後片づけまで、すべてやらせていただいた。
とはいうものの料理といえるほどのものはできない。サラダや炒めもの、タジン鍋を使っての煮込みなど、決まりきったものを並べただけ。
たまたま水曜日は、カレーにしょうということになっていたから、この際とばかり大量につくり、今日まで食い延ばしていた。
毎日材料を継ぎ足し、ルーやカレーフレークも補充して、夕食は3日間カレー。タマネギを40分炒めるなど、手間はかけたからまあまあのものができ、あと2日ぐらいは食えたと思うが、あいにく今日でなくなってしまった。
その間なにげなくネットをのぞいていると、台風が接近して気圧が下がってくると腰痛がひどくなる、と書いてあるブログを見つけた。
それではたと、思い当たった。かみさんの腰痛が急に悪くなってきたのが、台風の接近と符合していたからだ。ほかに思い当たる理由はないのである。
台風が去ってからも、症状はそれほど好転していない。これも、台風一過の晴れ間といかず、以後もぐずついた天気がつづいているからと考えれば納得できる。
晴天がもどり、からっと晴れてくれたら、薄紙を剥ぐみたいによくなるかもしれない。と望みをかけているのだが、天候と腰痛との相関関係については、これから気をつけて見守ってゆこうと思っている。
『夜去り川』は今週見本が送られてきたところ。昨日の段階では、まだ書店に並んでいませんでした。
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2011.7.16
京都へ帰ってきた。たちまち連日36度。日中はとても外へ出られたものじゃない。唯一の救いは、施設のなかへ入ると、ほどよく冷房が効いていること。つくづく首都圏の人は気の毒だなあ。
東京からつまらないお土産をもらってきた。帰ってくる前日、朝の4時すぎから庭の草むしりをした。そのとき、有毒の雑草に触れたのか、腕がかぶれてしまったのだ。
何年もほったらかしにしてあるから、このところだんだん質の悪い雑草が生えはじめた。ママコノシリヌグイが1メートルも枝を延ばしていたくらいだから、こうなるともう野っ原と変わらない。
それにしてもママコノシリヌグイとはよくぞ名づけたもの。ごぞんじない方はネットで調べてごらんなさい。金平糖みたいな可憐な花をつける草だが、葉と茎は棘だらけ。素手では絶対触りたくない雑草なのである。
名を知らない怪しげな草がほかにもあったから、どうやらその葉液に触れてかぶれたのかもしれない。京都へ帰ってきてからひどくなり、二の腕が発疹だらけになって、しかもかゆい。とうとう今日は医者に行って薬をもらってきた。
子ども時代はともかく、植物にかぶれることなど、これまで考えられなかった。いっぱし自然児のつもりだったが、すっかりやわになってしまったようだ。ヤブ蚊に刺された痕も腫れ上がり、3日たったいまでも猛烈にかゆい。
帰ってみると、京都は祇園祭の真っ最中だった。
山鉾の巡行は日曜日だが、14日からは宵山という前夜祭がはじまり、毎晩大勢の観光客で賑わう。それでいつもの野次馬根性。日が暮れてから見物に行ってきた。
烏丸通りや四条通りが6時から歩行者天国となり、人であふれていた。山鉾のある通りは露店が並び、通り抜けるのにひと苦労。
ただし観光客というより、がきが圧倒的に多かった。その喧噪にくたびれてしまい、1時間ほどで帰ってきた。
ただ京都の夜は、日中の暑さが嘘みたいに過ごしやすくなる。山に取り囲まれているせいで気温が下がりやすく、大通りを歩いても、照り返しがなくて気持ちよいのである。
明日は宵宮。鷺舞いなど芸能の奉納があるから、もう一回気合いを入れてのぞいてこようと思っている。
ただし17日の本番は遠慮する。この炎天下に出かけるほどお祭り好きではないからだ。
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2011.7.9
講演がなんとか終わった。はじめは上がって、声が裏返っていた。それでもカンニングペーパーのあったおかげで、順序通りにはしゃべれた。
だがあとで見たらだいぶ抜けていた。話が飛んでしまったわけで、聞いていた人には、筋のつながらなかったところが、いくつもあったのではないだろうか。
1時間足らずで終わってしまいはしないかと、それをいちばん恐れていた。それで多めに内容を用意していたのだが、そこまで踏みこむ必要もなく、一応70分はしゃべったようだ。
その夜かみさんに、自己採点で何点ぐらいかと聞かれたから、40点と答えた。60点が目標だったのだから、はじめとしてはこんなものだろう。
しかし二度とやろうとは思わない。たったこれだけのために、2週間以上を費やした。翌日は疲れて、なにもできなかった。
それでも後味が悪かった。あのときは、ああ言うべきだった、こう言うべきだった、みたいなことがいくらも出てきて、頭がなかなか忘れてくれないのだ。わたしという人間が、基本的に話術型ではないという証拠だろう。
5日は箱根湯本温泉へ1泊旅行に行き、その憂さ晴らしをしてきた。集まったのは、もう50年近いつき合いになる旧友ばかり。今回はかみさんや娘を連れて来たものまでいたから、総勢16人になった。
なかには十数年ぶりという顔もあって、久しぶりに楽しかった。むしろ1泊では、時間が足りなくて話し尽くせなかった不満が残ったくらいだ。
一方で集まるたび、耳にする物故者の名前も増えてきた。いつも集まる仲間内からは、いまだにひとりも欠けていないのが奇跡みたいに思えるのだ。
今回も最後はそういう話になって、おれたちが死んだときは、だれも知らせない、だれも呼ばない、ことにしようという申し合わせになった。
自分の死に顔を旧友に見せるのはいやである。それに暑いとき、寒いときの葬式くらいはた迷惑なものはない。
それだったら1年ぐらいたって落ち着いてから、時候のいいときを選んでみんなに集まってもらい、思い出話に興じながら、酒でも飲んでもらったほうがはるかにいいということになったのだ。
どういうわけか、最後まで生き残るのはわたしだと、みんなから決めつけられている。べつにかまいはしないものの、最後のひとりというのは、もう話の肴にしてくれるものがいないわけで、それも淋しいなあ。それがわたしの役回りということかも知れないけれど。
それにしても暑いこと。
来週は京都へ帰ります。そのまえに、孫娘に会わなければならない。
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2011.7.2 東京の暑いこと。建物の中のほうが、外より暑いのだからやりきれない。しかも暗いのである。
関西も節電の呼びかけはやっていたが、半分は東京へのお義理でやっているようなものだから、とてもこれほどではなかった。仕方がないこととはいえ、東京の人はよく我慢していると感心している。
久しぶりに東京へ出てくると、やはりなんだかんだ、けっこう忙しかった。
まず月曜日は、今月末刊行予定の、新作のインタビュー取材を受けた。
翌日は某作家のパーティ。先に受賞したなんとか賞が東北大震災と重なったため、祝賀会が延びていたものだ。
会へ出るのはかまわないとして、このごろはわたしが最年長ということが多くなった。だから長老扱い。作家も3分の1くらいは顔を知らない、ということがよくある。
若いころ、こういうパーティに出てくると、名前しか知らない年配作家の顔をよく見かけた。へー、この人、まだ生きていたんだ、みたいな顔もときにはあって、まるで珍しいものでも見たような気になったものだ。
いまではわたしが、若い作家からそういう目で見られているのだろうか。長老といったって、デビューして30年。年なら10以上若いが、作家デビューはわたしより早いというものもけっこういるのである。
この日は深夜のカラオケまでつき合った。このごろの作家の達者なこと。わけのわからん昨今の歌を、よどみなく高唱するからあきれる。こんな歌をいつおぼえるんだろうと、穴から這い出してきたモグラみたいな長老はきょとんとするばかりだった。
翌日から講演原稿の仕上げ。これが全然できていなかった。いざしゃべってみると、しどろもどろ。話がまるでつながらない。話しやすい原稿になっていなかったのだ。
パソコンを会場まで持って行き、壇上でひろげてときどきのぞきながらしゃべればなんとかなると思うが、それでは講演と言えないだろう。
それで話の順を追い、つなぎ方の手がかりになる見出しをつくることにした。そいつをテーブルにひろげ、ちらちら見ながら話しすすめようという魂胆だ。カンニングペーパーである。
その見出しをつくるだけで昨夜ひと晩かかった。あとはぶっつけ本番。恥をかくのはかまわないのだが、わざわざ来てくれた人に、500円も払って聞きに来た甲斐がなかった、とは思われたくないなあ。
さていかなることに相成りますか。これからもう一回練習してみます。
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