Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2011年3月までの「きのうの話」へ





 

2011.3.26
 ずいぶん長く京都を留守にしていた。札幌へ出かけたのが2月19日で、帰ってきたのが3月19日。まる1ヶ月不在だったことになる。
 あきれたことに、帰ってきたとき、マンションのドアを開け方を忘れていた。かみさんに家のなかから開けてもらおうとすると、これが留守。暗証番号の4桁の数字を、なかなか思い出せなかったのだ。

 水曜日は、糖尿病の定期検診で病院へ行ってきた。これも当初の検診日を3週間延ばしてもらったため、3ヶ月近い間が空いた。懸念した通り、結果はそれほどよくなかった。1ヶ月運動ぜろ、食事も外食が大半だったのだから、これでいい数値の出るわけはない。

 帰途は歩いて、鴨川河畔へ出てみた。川辺の景色が、すっかり装いを変えていたのに目をみはった。
 しだれ桜が咲きはじめていたし、柳も萌葱色の新芽をなびかせていた。スイセン、レンギョウ、ユキヤナギ、ボケ、ハクモクレン、ジンチョウゲが咲き、ウメやツバキはもうお終い。
 ここしばらく、草花に目を向ける余裕がなかったから、軽いショックを受けた。
 人間の世界になにが起ころうと、季節は規則正しく巡ってきて、草花はそれに合わせて自分の営みを繰りひろげている。右往左往しているのは人間ばかりだ。

 しかし安全なところに身を置いて大地震のニュースを見るのは、やはりうしろめたい。京都で見る限り、乾電池こそ少なくなっていたが、棚が空っぽというほどではなかった。食品も豊富。あらためて京都と東北との距離を感じるのだ。
 いまいちばん気がかりなのは原発の帰趨だろう。子や孫が首都圏に住んでいるから、人質を取られているようなもの。案じはするものの、どうすることもできない。

 とはいえ京都が絶対安全というわけでもなく、原発の密集地である敦賀からだと、わずか80キロしか離れていないのだ。
 日本海は地震の多発地帯ではないせいもあって、高さ2メートル程度の津波しか想定せず建設されていると聞いて、えーっと、いまさらのようにおどろいている。そういう想定がまったく通用しなかったのが、今回の大震災だからだ。

 日本列島はさながら1隻の船。それに乗り合わせている以上、なにが起ころうと、すべてわが身で引き受けなければならない。その覚悟ができているとは言えないが、あきらめくらいは身につけざるを得ないようだ。


2011.3.19
 気がついたら1週間たっていた。それなのに、まだ東京でのそのそしている。なにをしているかというと、なにもしていない。1日黙然と、テレビを見たり、ブログを見たりしている。

 今週はとうとう仕事上のメールが1通も入らなかった。親しい友人や仕事仲間からだけ。だれもが、なにも手につかないと言っている。みな無力感に浸っているのだ。
 勤めに出ている人、仕事を持っている人も、おおかたそういうことではないかと思う。義務としての仕事を背負わされている分、よりつらいかもしれない。

 自分に意味が見出せなくなったのだ。これまでいったい、何をしていたのだろう。今回の災害くらい、この痛切な疑問を投げかけてきたものはかつてなかった。

 よくぞ仕事が一段落ついていてくれたと思う。執筆の最中だったら、大変なことになっていた。それまでの意欲や気力を、以後も引きつづき持続させることなど、絶対にできなかったと思うからだ。

 関東大震災のような大災害が、いつかまた起こるだろうということは、疑っていなかった。ただそれが、まさか、自分の生きている間に起き、この目で見届けることになろうとは。

 これまで70数年生きてきた。おもしろいといえばおもしろい、大変といえば大変な時代だった。戦争と敗戦、ぜろからの再出発、その挙げ句の、空前の繁栄とバブルの崩壊、最後がこの大地震だ。
 それこそ、ないものがない時代を生きてきたことになる。見るべきものはすべて見た。もういらない、というのが正直ないまの気持ちだ。
 無力感と脱力感、ものを考えたり、あらたなものに立ち向かおうとしたりする気力が、いまはまったく出てこない。津波で打ち砕かれた家屋同然、自分まで粉々になってしまった。

 とりあえず明日、京都へ帰る。
 今回ばかりは、立ち直るのに少々時間がかかるかもしれない。


2011.3.13
 今回の大地震。日本人がはじめて経験する大災害となったが、みなさんは無事にお過ごしだったのだろうか。

 何世紀に一度という大災害であることはまちがいなく、わたしたちはこの記憶を、子孫に正しく伝えていかなければならない義務を負ったと素直に思う。

 昨日は用があって高崎まで出かけていた。地震が起きたときは戸外の、車のなかにいたから気がつかなかった。かみさんが携帯で伝えてきたからわかったものの、当初はまだ高をくくっていた。
 停電で信号が消え、交通渋滞が起こりはじめたのが、はじめての実感。列車がすべて止まったと知ったときも、在来線のほうは、夕方には動くだろうと楽観していた。

 高崎駅まで行って、事態の深刻なことがようやく呑みこめてきた。ひょっとすると、帰れなくなるかもしれない、と思ったからすぐさまホテルに駆けこんだ。
 そしたらすでに、ホテルは受付を停止していた。満員ではない。非常事態ということで、受付そのものを停止してしまったのだ。どこのホテルも泊まれなくなっていた。
 高崎へ行ったのははじめて。JRが止まってしまうと陸の孤島同然、脱出する方法がまったくない街だとわかって、愕然としたのだ。

 一緒に出かけていた息子が、インターネットカフェを見つけてきてくれた。とりあえずそこを確保し、列車が動き出すまで、いたらいいじゃないかと言う。
 それもそうだというので、そこに入った。これもほんの一歩の差。手続きをしている間に、あとからあとから人が押しかけ、たちまち全室ふさがってしまった。
 おかげで朝まで、暖かいところで過ごすことはできた。しかしとても、宿の代用になるようなものではない。朝まで一睡もできないまま、ひたすらテレビを見ていた。

 翌朝、電車が動きはじめたのを確認してから、そこを出た。9時10分、新宿経由小田原行きという列車に乗れた。普通列車だったが、とにかくこれで、新宿までは乗換なしに帰れるとほっとした。

 ところが途中で、行き先が大宮止まりになった。しかも終始のろのろ運転。一駅すすむごとに何十分も停車する。
 1時間、2時間ならまだいい。4時間近い13時前になっても、まだ岡部に止まったまま。高崎から駅にして、たった5つしか来ていないのだ。
 そのうちつぎのアナウンスがあり、隣のホームに上野行きが入ってくるが、当駅からの発車は、そちらが先になるという。なんだよ、とみなぶつぶつ言いながら、ほとんどのものが乗り換えた。
 列車は朝のラッシュみたいな状態で発車した。しかしふたつ先の篭原で5両増結したため、そちらへ移って、さいわい座ることができた。
 以後はほぼ順調。大宮で埼京線に乗り換え、15時に新宿へ着いた。高崎を出てほぼ6時間後だった。
 最後に乗った京王線も普通だけの運行。新宿で昼めしを食ったから、自宅に帰り着いたときは17時になっていた。わずか百キロほどの移動に8時間かかったわけで、さすがにくたびれ果て、じつはさっきまで寝ていた。

 ふだんの用意がいかに大切か、今回ほど思い知らされたことはない。ひとつは携帯の電池が切れかけ、大あわてをしたことだ。
 電池の残量を示すインジケーターが、3レベルの2になっていることは、出かける前からわかっていた。しかし日帰りだったから、そのまま充電せずに出かけた。高崎で泡を食って、充電器を買いに走り回らされた。

 花粉症の薬も、予備を持って行かなかった。今年はこれまで、比較的順調だったのだが、それは症状が出る前から、飲み薬を服用していたからだろうと思う。
 今回も予備を入れて、3回分は持って行った。まさか泊まりがけの旅になるとは思っていない。夜からはなしになった。
 マスクも同じ。一日中列車に乗っていたから、ないまますごした。列車内ではそれほど意識することもなかったのだ。このような天変地異の前に出ると、さすがの花粉症もかすんでしまうのかと思ったくらいだ。
 どういたしまして。家に帰ってからくしゃみと鼻水が出はじめ、いまでは垂れ流しというありさま。これまで順調だったのが、1回の油断で台無しにしてしまった。

 それよりもなによりも、帰ってくる列車のなかから見たおだやかな風景が忘れられない。一方で家や肉親を亡くした人がいれば、一方ではゲートボールを楽しんでいる人がいる。あらゆる風景が同時に存在していることを、これほど思い知らされたことはない。

 そして東京の輝かしく、誇らしいみたいな、堂々たる風景。ここを大地震が襲ったらと、つい考えてしまわざるを得なかった。人間の栄華といい、幸福といい、いかに無力で、はかないものか、これからはもっと神妙になれるのではなかと思う。


2011.3.5
 嵐のような1ヶ月がやっと終わった。原稿を仕上げたのが1日。すぐ出版社に送り、翌日東京に帰ってきた。今日はそのゲラを出版社まで出向き、校正してきた。

 今回は札幌で11泊した。すべてビジネスホテル泊まり。これまでホテルでは、短期間籠もることはあっても、長期の滞在はしたことがなかった。ホテルのデスクや椅子が使いにくいからだ。
 むかしから姿勢が悪く、椅子に腰かけて仕事するのが大の苦手。編集者時代も、椅子の上であぐらをかいて仕事をしていた。
 それを自分では椅子が悪いからだと、ずっと思い込んでいた。坐り心地が悪いから精神集中ができないのであって、よい椅子さえあればいくらでも仕事ができると。

 札幌へ住まいを移したとき、かみさんに内緒で、アメリカ製のITなんとか椅子というのを十数万円出して買った。長年の夢が実現、これで椅子の苦労から解放され、ばりばり仕事ができるはずだった。
 ところがいざ使ってみると、ちっとも具合がよくない。とどのつまり、これはアメリカンサイズなので、躰の小さい自分には合わないのだと思うしかなかった。
 この椅子は現在、かみさんがパソコンをやったり、メールを書いたりするとき、ちょこんと腰かけて使っている。

 京都へ行ったとき、その年は「行きずりの街」が売れ、作家生活はじめてのバブルを経験したときでもあったから、今度こそはとばかり数十万円出して北欧製なんとかチェアを買った。
 これで椅子選びからは永遠に解放されるはずだった。それなのにこの椅子は、現在ウオッチングTVの観客席と化している。

 こういう椅子遍歴を経てようやくわかったことは、要するにわたしはあぐらをかいて、ちゃぶ台にしがみついていたらいいということだった。

 いまどんな恰好で仕事をしているかというと、ロッキングチェアに腰を下ろし、前にベニヤ板を渡して、その上に載せたパソコンを叩いている。
 つまりだらしなく横たわり、パソコンを抱えているみたいな恰好。部屋が狭いうえ万年床、坐る場所も座卓を置く場所もないからだ。

 昨年暮れ、飛騨の温泉に籠もったとき、はじめはいつものように和室で仕事をしていた。ところが最終日、宿の都合で部屋を変えさせられ、ツインの洋間に移された。
 当然ろくなテーブルや椅子がない。ところがティッシュの台だったか、平たい盆みたいな板があって、これにパソコンがぴったり載った。
 それでベッドにもたれて足を投げ出し、膝の上にその台を載せて仕事してみると、なかなか具合がよいではないか。あ、これならベッドでもかまわないや、とはじめて気がついた。膝に載せる板さえあればいいのだ。

 今回札幌へ行くとき、できればいま使っているベニヤ板を持って行きたかった。ところが大きすぎてスーツケースに入らない。
 それでホテルにチェックインすると、真っ先に東急インへベニヤ板を買いに行った。ところが思わしいものがない。店がそれほど大きくないから、種類が少なかったのだ。
 困って、それに代わるものを店内で探したところ、文具売り場で厚紙製クリップボードを見つけた。厚さが3ミリくらいあり、少々力を加えたくらいではびくともしない。
 これなら使えそうだというので買って帰り、フォークの柄で金具を剥ぎ取ると、ただの紙になった。これにパソコンを載せ、ベッドに寄りかかって膝に載せてみると、まことに使い勝手がよい。マウスも使えるし、なによりも軽い。
 サイズが縦28センチ、横38センチ、うれしいことにぎりぎりスーツケースにも入る。結局これを使って11日間仕事をしていた。

 終ったとき、このボール紙は執筆用最強ツールに昇格していた。これさえあればビジネスホテルでも平気、場所を選ばないということになったのだ。

 なんのことはない。散々回り道してたどり着いた結論は、1枚の厚紙だったというお話です。


2011.2.26
 今週は札幌で仕事をしている。はじめは信州に行くつもりだった。前回温泉三昧で味をしめたから、今回もそのつもりで用意をはじめていた。

 しかし今年の花粉症は性悪で、すでに兆候が出はじめている。この分では信州の山のなかへ逃げ込んでも、時間の問題、いずれ追いつかれる。
 月末のいちばん大事な時期に、くしゃみと鼻水たらたらでは仕事にならない。だったらいっそ、花粉症とは無縁な北海道のほうがいいんじゃないか、ということになったのだ。
 要は仕事にかこつけ、どこかへ逃げてしまいたかったということ。家から離れられるのであれば、どこでもかまわなかった。糸の切れた凧。こうなったらビョーキというしかない。

 到着以来、ビジネスホテルに籠もっている。1日に1回2時間くらい外へ出て、そのとき昼めしを食い、帰るとき晩めし用の弁当を買ってくる。今回も朝めしは、京都からお気に入りのパンを持ってきた。
 札幌だからデパートはそろっているし、なかに入っているパン屋も同じ。なのだが、やはり品物がちがうのだ。あまり売れないパンは種類が少ないし、品物も微妙にちがう。だからこれは、持ってきて正解だった。

 パンにつけるオリーブ油とか蜂蜜とかも用意していったのだが、いまのところ使ってない。ホテルの部屋が小さすぎ、ひろげる余裕がないのだ。
 仕事用の資料、地図なども、置き場所やひろげるところが全然ない。全部床へじか置き。部屋の掃除もシーツの交換も、そのため断っている。
 今週末からホテルを変えるが、そこはややクラスが上。もうすこし使い勝手のよい部屋だろうと期待している。

 来た日は大雪だった。新千歳空港も真っ白なら、札幌へ向かう列車も雪原をすべるように走った。おお、これぞ北海道、帰ってきたぞー、と大感激したものだ。
 ところが翌日から様変わり、連日5度6度という気温で、今日などは9度。強い風が吹いて埃が舞う始末だ。雪解け時期の、いちばん汚い札幌がはじまってしまった。

 しかししかし、3年ぶりの札幌へきて、真っ先に感じたのは、寂れたなー、ということだった。なにがというほど、目に見えるものはないのだが、どこか元気がないのである。
 中島公園まで行けば、無垢の雪景色が堪能できるから、今日はそこで昼めしを食ってこようと、園内にあるコンサートホールまで出かけた。すると、たしかロードヒーティングされていたメインの遊歩道が、大量の雪で埋まっている。
 ふつうの靴で来ているから、歩きにくいのなんの。おっかなびっくり。ザラメ雪のところはまだいいが、溶けて水溜まりになっているところは、とても歩けたものでない。帰りはわざわざ雪の深いところを選び、迂回して帰った。

 レストランの従業員に聞くと、数年前から通電されなくなったという。ロードヒーティングというのは、人が通ろうが通るまいが、電熱器のスイッチを入れっぱなしにしておくわけだから、費用がばかにならないはずだ。
 札幌にいたときは、わずかな人しか通らない公園内にこんな金を使って、もったいないことをするなあと思っていた。が、いざやめたとなると、こんなところにも元気のなさが現れているんだなと、妙な納得をした。

 今回は間に合わなかったが、3月中旬には大通りと駅前との連絡地下道が完成する。これで人の流れはまちがいなく変わるだろう。地下街のなかで、シャッター通りになってしまうものが出てくるのではないかと、複雑な気持ちである。


2011.2.19
 今週は京都でおとなしくしている。まだ花粉が飛んでいないみたいで、どこかへ避難しなければならないほど症状が出ていない。家にいるのがいちばん安全だ。

 できたら毎晩1時間くらい運動したいのだが、これもやっていない。花粉のせいでなく、締め切りが迫ってきたのでその余裕がないのである。
 これまで外出らしい外出というと、書店に1回行ったきり。仕事で必要な地図が、どこを探しても見つからないので、仕方なく買いに行った。

 小説の舞台をあっちこっちに設定することが多いため、20年ばかりまえ、20万分の1地形図を全国すべてそろえた。
 分県地図とちがって周辺の地勢まで把握できるし、地形の高低がよくわかるから、資料としてこれほどありがたいものはない。
 全国を6つのブロックに分け、地域ごとにファイルへ納めてナンバーを振り、どこの地図でも欲しいときはすぐ取り出せるようにしてあった。そのころはけっこう前向きに整理整頓をしていたのである。

 ただしこの収納法は、使ったあと元通りにもどしておかないと意味をなさなくなる。そのうちだんだんいい加減になり、とりあえず地図入れに放り込んでおけばいいや、みたいなことになると、ぐじゃぐじゃになってしまうまで時間の問題だ。
 あえて弁解すると、必要な地図というのは使用頻度が高いから、いちいち出したり入れたりするのは面倒くさいのである。一方で出番のない地図になると、いつまでたっても用がない。

 気がついたときは元の木阿弥。どこかの地図が必要になるたび、部屋中を引っかき回して探す、ということを繰り返しはじめた。探してないとなると、気持ちがそっちに取られてしまうから、仕事どころではなくなってしまうのだ。
 昨年の暮れ、業を煮やしてもう1回総点検を行い、すべての地図を調べ直した。その結果、いくつかの地図が行方不明になっていた。
 かと思うとまったく同じ地図が何枚もあった。ひどいものは同じものが3枚ある。1枚320円とそれほど高くないから、下手に探し回るより、買ってきたほうが早いことはたしかなのだ。
 今回また同じものを買い足したわけで、これから先も、同じことを延々と繰り返すにちがいないのである。

 数ヶ月まえ、カードをなくし、どうしても出てこないためほとんどのカードをつくり直した、という話を書いた。
 スイスへ出かけたときのことで、愚かにも思いつきでどこかへ隠してしまい、その隠し場所を忘れて、どうにも見つからなかったのである。
 それがこのまえ、ひょっこり出てきた。留守宅に行ったせがれがたまたま見つけたもので、電話で呆れかえって教えてきてくれた。今回東京へ行って、それを回収してきたところである。

 隠してあったのはデパートのカードばかりではなかった。家電量販店のカードから京都地下鉄のカード、PASMOカードなど、思いもよらないものまで隠してあった。
 家電量販店のカードなどは、京都にあるとばかり思っていたから、これまで何度も探し回って、途方に暮れていた。かみさんはとうとう自分用のカードをつくった。

 どこに隠してあったかは、あまりに恥ずかしいから白状しない。おかげで地下鉄からPASMOまで、同じものが2枚というカードが何種類かできた。いつまでたっても、変わらないものは変わらないのである。


2011.2.12
 やっとインフルエンザが治まってくれた。まだすこし咳は出るが、一昨日から平熱にもどり、昨日は十日ぶりに風呂へも入った。

 これでやっと京都へ帰ることができる。かみさんが感染症禁物の病気持ちなので、帰るに帰れなかったというのが実情だ。
 おりもおり、インフルエンザの発生が峠を越したと昨日発表された。するとピークに合わせて発病したことになるのか。まさか流行の最先端を行くなんて思いもしなかった。
 この間2週間、友人編集者もふくめ、だれにも会わなかった。出かけないのが礼儀だからだ。乗物のなかで、妙な咳をするやつが隣に坐ったりすると絞め殺してやりたくなるが、やむを得ず出かけてきたのだろうとは思うものの、けっして気持ちのいいものではない。

 したがって外出は病院へ行ったときと、食いものの買い出しに行ったことぐらい。あとはひたすら家に籠もってパソコンに向かっていた。
 というといかにも仕事をしていたみたいだが、微熱がつづいていたから原稿書きのような、エネルギーを要する仕事はとてもできない。
 もっぱらつぎの作品のプロットづくりをやっていた。思いつきを入力するだけだから、これならなんとかできる。すこし気分がよくなってくると、それをつなげてストーリーにした。

 10日にはほぼ完璧と自賛したくなるようなプロットができあがった。で、昨夜から書きはじめてみたところ、わが頭の杜撰さをただただ思い知らされただけに終わった。
 だいたいが行き当たりばったり、出たとこ勝負型の人間だから、いくら精密なプロットをつくったつもりでも、いざ具体的な肉づけをはじめてみると、すかすかの穴だらけ、とても使いものにならないのだ。
 とはいえこれは、いつものこと。要するにいくら時間を与えても、助走期間をいくらたっぷり取っても、なんの甲斐もない人間がいるということである。

 明日一旦京都へ帰るが、どのみち来月また出てくる。20日たらずで往復するくらいなら、いっそこのまま仕事をかかえて信州へ籠もったほうがはるかに能率的だと思うのだが、そうもいかない事情がある。
 来週は京都に来客があり、まえから決まっていたことなので、外すわけにいかないのだ。また仕事の資料も、大方は京都にある。住むところがあっちこっちすると、こういう無駄がじつに多いのである。
 この際ジャケットなどは残して行くことにした。来月もう一度着なければならないし、どうせ着た切り雀。先月着用した上着を知らん顔してまた着て出ようという算段だ。

 いまどうするか迷っているのが、今回信州へ行くために買い求めたタジン鍋をはじめとする諸道具だ。はじめは宅配便で送り返すつもりだったが、まとめてみるとそれほどの量でもなかった。
 前回持って行った荷のなかでいちばん嵩んだのは、じつは食いもの。9日分のパンだけで手提げ袋ひとつが一杯になった。ライ麦パンのようなものは、現地で手に入らない。次回もまた持参することになるだろう。

 今日は東京も朝から雪が降りつづいた。できたら信州には、もっともっと降りつづけてもらいたい。理由はただひとつ。雪が降ったら花粉が飛ばないからである。


2011.2.5
 今週も東京。来るなり花粉症が現れはじめ、あわてて薬を買いに行ったが、すでに後の祭り、その後ひどくなるばかりだった。たまりかねて医者へ行ったところ、なんとインフルエンザだと診断された。

 躰がだるい、咽が痛い、唇が乾いてかさかさ、躰の節々が痛い、寒気がする、ついには熱まで出てきたから、とりあえず病院に行ってみたのだ。
 インフルエンザが流行っていることは知っていたが、自分がかかるなんて夢にも思ったことはない。というのもこの十数年、風邪はただの一度も引いたことがなかったからだ。とはいえけっして油断していたわけではなく、外出から帰ったら必ず手を洗い、うがいをするくらいのことは実行していた。

 信州で9日間、東京へ来てからも29、30日の週末、ぎりぎりまで執筆に専念して31日、なんとか1月一杯で長編を完成させ、出版社に手渡した直後のことだ。
 体力的にかなり消耗していたことはまちがいなく、しかも半月、まったく運動していなかった。それがインフルエンザを引き入れた最大の原因だろうと思っている。

 薬局で6種類もの薬を渡されたときは仰天した。インフルエンザ用のタミフルだけが朝夕2回、あとはすべて1日3回。このうち解熱剤だけは、以後微熱になったので飲んでいない。
 咳止めも病院へ行った日は出なかったから飲まなかったところ、昨日から急に咳き込みはじめた。あわてて飲み出したが、これ、咳が出ないときでも飲んでおくべきだったのだろうか。

 おかげでインフルエンザ用の薬が毎食後3回。花粉症の薬が食間に3回。1日6回も薬を服用しては水をがぶ飲みしている。腹がだぶだぶでこれでは健康にいいわけない。
 微熱がつづいているし、咳も出るとあっては人前に出ることもできず、今週の約束はすべてキャンセル。家に閉じこもって、治ってくれるのをひたすら待っている。

 しかしはじめて病院へ行ったとき、熱のある人、咳の出る人は、マスクなしでの来院お断りみたいな掲示が出ていたのにはびっくりした。遅ればせながら、インフルエンザがどれくらい流行っているかはじめて知ったのだ。

 ほんとはいま、のんびりと風邪治療などしているときではないのである。今月は雑誌連載の中編を書かなければならない。28日と日数が短い上、もう4日間、なにもしないまま無為に過ごした。
 残り24日で200枚の原稿を書くのは、かなりきつい。いまの躰の状態では、まだしばらく仕事ができるとは思えないからだ。

 一方インフルエンザになって、信じられないことがひとつ起こった。花粉症の症状がほとんど出なくなったことだ。咳が出て咽は痛いのだが、あれほど出ていた鼻水がぴたっと止まってしまった。
 インフルエンザとわかるまでは、今年の花粉症の状態だと仕事ができそうもないから、2週間ぐらい北海道か沖縄へ逃げて行こうかと本気で考えて、ネットで下調べをはじめていたところだった。

 インフルエンザは花粉症まで併呑してしまうということだろうか。それともこれをきっかけに一大変化が体内で起こり、花粉症が消滅してしまうのだろうか。この際そちらのほうを期待したいのだが。


2011.1.29
 昨日から東京にいる。多摩のわが家へ久しぶりに帰ってみると、郵便物の山。おまけに気温はプラス5度。うへー、信州並みの寒冷地だ。以後ヒーターとエアコンを併用、なんとか18度を確保している。
 しかし東京の暖かいこと。「寒いですねえ」と人は言うが、こんなのそよ風。昨日は氷点下の中を出てきたから、およそ10度の気温差があった。

 信州では合計9泊した。その間仕事づけ。ただし温泉は入り放題。30回ぐらいは入浴しただろうと思う。今度行ったときは統計を取ってみよう。
 布団敷きはもちろん、浴衣もタオルもなしのウイークリーマンションみたいな宿だから、完全自炊。コーヒー一杯飲むにもいちいち台所へ足を運ばなければならない。

 泊まり合わせた夫婦は3月までここにいるんだ、といってニンニクの匂いをぷんぷんさせながら餃子をつくっていた。黒姫に住んでいるが、この時期は雪かきが大変なので毎年避難してくるのだと言う。
 こちらはとても、そんな手の込んだ料理などできない。肉と根菜を鍋にぶっ込んでチンするだけ。それをシチュー風にしたり、ぽん酢で食ったり、チーズ味にしたり。保存できない魚はとうとう一回も食わなかったし、外食もしなかった。

 朝食は京都から持って行ったパン。日持ちのするライ麦パンなど4種類を用意し、9日かけて食い切った。果物はミカン、バナナ、宿のおばさんからもらったリンゴ。
 要するにうまいものはなにも食わなかった。しかし栄養的には十分だったのではないかと思う。これで外を歩けたら最高だったのだが、道路が圧雪状態だったから外風呂と駅を往復しただけで終わった。

 仕事はほぼ予定通りすすんだ。一応書き終えた550枚の原稿を持って出かけ、手直しに専念したもの。
 その結果、めでたく完成したかというと、そうならなかったのがつらい。書いても書いても、あとひとつ、なにかが足りないのである。
 この週末にもう1回読み直してみるつもりだが、場合によってはさらに時間をかけるようになるかもしれない。ここまできたら気のすむまでやるしかない。

 いまはそれより、目と鼻の具合がもっと気がかり。昨日の夜から妙に目がおかしくなり、咽もいがらっぽくなった。風邪を引きかけたかと思ってあわてて重ね着などしたが、今日選考会で都心に出かけていたところ、さらにひどくなった。

 それでようやく思い当たった。花粉症がはじまったのだ。今年は昨年の10倍と言われているから、いまからこの分だとえらいことになりそう。明日は早速薬を買いに行くつもりだ。


2011.1.22
 信州の温泉へ来ている。今日で5日目だが、はじめて晴れた。気温1度。気温がプラスになったのは、今日がはじめてである。

 中央道を通って信州入りしたときは、雪が少ないのでびっくりした。関ヶ原のほうがはるかに多かった。それが長野をすぎ、標高が上がりはじめるにつれ、あっという間に豪雪地帯となった。
 いまでも道路は圧雪状態である。来た日はふつうの靴だととても歩けなかった。現在は道路の端っこのほうを歩ける。宿の外へ出るときは、備えつけの長靴が借りられる。

 仕事はいまのところ順調。ただしだんだん疲れてきて、3日目あたりから目に見えてペースが落ちた。いつものパターンだ。
 それで4日目の昨夜は、睡眠薬を飲んでむりやり寝た。欲をいえばあと数時間眠りたかったが、深い眠りが取れた分、今日はだいぶ回復している。

 しかし初日は、えらいところへ来てしまったと猛烈に後悔した。部屋の気密度30パーセントぐらい。暖房は石油ヒーターひとつ。廊下はガラス戸。音筒抜け。
 ヒーターは臭いし、換気が必要だし、つけっ放しにすると、ある程度時間がたったところで勝手に止まる。すると気温がたちまち10度以下に下がってしまう。
 生存適温は20度から25度までのわたしにとって、まさに化外の地。セーターを2枚を着込んでも寒くて震えあがった。

 ところが恐ろしいもので、翌日はもうなんともなくなっていた。
 長男が信州大学へ行き、松本での冬をはじめて経験したとき「寒さには慣れる」と名言を吐いたがその通り、1日で躰があらたな環境を受け入れてしまった。以来ずっとセーター1枚で機能的に過ごしている。

 温泉はなかなかいい。宿の隣と路地をひとつ渡った先に町の共同浴場があり、町の住人と温泉宿の客は無料で入れる。入り口に鍵がかかっているから、ほかのものは入ることができないのだ。
 鍵は常時宿の玄関先に置いてある。これを持って行って自分でドアを開け、勝手に入る。なかは無人。朝夕はほかの客が来るかもしれないが、日中は貸し切り状態。この贅沢感がなんともいえない。
 ただし湯は猛烈に熱い。わたしはかなり熱湯好きのほうだが、それがひーひー言うくらい熱い。人がいないときは水で薄めてもいいそうだが、そういう邪道はきらいだから、気合いを入れて、えい、やっ、と入る。
 はじめのうちは針で刺されているみたいに痛い。これがそのうち、快感になってくるのだから不思議。ほとんどマゾである。

 食うほうはあきらめた。はじめの2日はタジン鍋を使って料理したが、やはり面倒くさいのだ。
 部屋に電子レンジがあるわけではないから、そのたびに廊下を行き来しなければならない。ほかの客の手前、夜の9時を過ぎたら台所は使いにくくなる。
 結局野菜をゆでてかじったり、餅を焼いたり、コンビニでおにぎりを買ってきたり、補食として果物とヨーグルト、シンプルかつ健全きわまりない食生活になった。

 外食は一度もしていない。外に出るとそこそこ店はあるのだが、雪に埋もれた状態で、やってるのかどうか。第一人がまったく歩いていない。
 外出は2回。いずれも食料の買い出しに出かけたもので、いまのところ食いきれないくらいある。これからは日程に合わせ、残さないよう食い尽くさなければならない。

 それより仕事だ。日程内に終えられるかどうか、いまのところ微妙。とにかく努力するしかない。ということで、今日はこれにて。


2011.1.15
 信州のせがれが親孝行の押し売りにきて、1泊でかみさんを旅行に連れ出してくれた。

 わたしのほうは昨夜1時過ぎから起きて仕事をしていたのだが、4時ごろふたりが出かけてしまうと、なんだかもったいなくて、それからは寝るどころでなくなってしまった。
 眠れないまま朝めしを食い、雑用をこなし、散髪に行き、昼のラーメンを食って帰ったきたら午後の3時。
 それから寝たから、つぎに目が覚めたら夜の8時だった。結局1日の日課がめちゃめちゃになっただけ。とうとう今夜はジョギングにも行けなかった。元日以来休んだのははじめてである。

 とにかく、かみさんがいなくなるというのは、亭主にとってそれくらいうれしいものらしい。もちろんその逆もあり。わたしがいなくなると、今度はかみさんがにこにこして、腹も立たないのだそうだ。

 来週は月曜日から、いま手がけている長編を仕上げに、信州の温泉へ籠もる。ほんとはもっと早く行きたかったが、宿が満員で取れなかったのだ。
 月末は東京で選考会があるため、26日に多摩へ帰る。それまでは温泉三昧の独身生活だ。

 前回の1泊2食つき温泉旅館に懲りたから、今回は完全自炊の宿にした。つまり温泉宿は泊まるだけ。食いものはすべて、自分で工面しなければならない。
 あれこれ考えると、それがいちばん自分向きだという結論に達したのだ。もう食いものに執念を燃やす年ではないし、糖尿病という持病もあるから、食うということは、とうからあきらめている。
 それより、食いたくないものを食わなくてすむ、というのがはるかにありがたいのだ。腹が減ったら、食いたいものをつくって食う。寝たいときに寝て、起きたいときに起きる。合間合間にざぶんと温泉。これが理想でなくてなんだ。

 それで向こうへなにを持って行くか、今週はわくわくしながら準備にかかりきりだった。とくに今回は、せがれが車で宿まで送ってくれるから、いくらでも荷物が持って行ける。残ったものや、余ったものは、向こうから送り返せばよい。
 だからマグカップからお椀、皿、箸、ナイフ、フォーク、スプーン、簡易まな板、コーヒーフィルターと、なにもかも取りそろえた。
 調味料は塩、香辛料、オリーブ油、ゆず酢。嗜好品はコーヒーが2種類、紅茶が4種類。あとは前日パンの買い出しに行き、1週間分を用意して持って行くだけ。ね、楽しそうでしょう。まるで小学生のサマーキャンプだ。

 じつは今回、そのための調理器具として、電子レンジ専用のシリコーン製タジン鍋まで買ったのだ。
 ただし現品を見る機会がなかったため、ネットで取り寄せたところ、フランス製のはずがフランスはデザインだけ、原産国はチャイナだった。チャイナと聞いただけで、シリコーンからなにか染み出してきそうで、はなはだ気分がよくない。

 今回行くのは、はじめての温泉。自炊のできる温泉は各地にあるが、いろいろ条件をつけると、お眼鏡にかなう温泉は意外と少ない。田舎すぎて、肉、魚、野菜が手に入りにくいところが多いのである。
 都会すぎず、田舎すぎず、小さくてよいから、歩いて行ける範囲にスーパーがあること。という条件にかなったのが、来週行くところだ。吉と出るか、凶と出るか、そのご報告は、いずれ機会をあらためて。


2011.1.8
 あっという間に1週間たった。溜息が出るくらい時間のたつのが早い。

 元日から今日まで、いったいなにをしていたかというと、ひたすら本を読んでいた。候補作を読むという、義務としての読書だ。
 1日1冊で6日。作品そのものは5作だったが、上下巻本が1冊あったので、これがまる2日かかった。やっと昨夜、読み終えたところだ。

 この数年、正月というと同じパターンをつづけている。選考委員を6年やったから、6年同じ正月がつづいたことになる。ようやく今年でお役ご免。来年からはちがう正月を過ごせそうだ。とはいえどうせ、ろくなことはしないだろうが。

 毎晩やっていたスロージョギングも、休んだのは雪が降った大晦日と、元日だけ。2日からはふだん通り走りはじめた。というのも5日が定期検診だったから、気をゆるめることができなかったのだ。
 おかげさまで、この3ヶ月走りつづけてきた効果が、今回やっと出た。ヘモグロビンの数値を、半年前のレベルまでもどすことができたのだ。
 体重も下がり、躰も軽くなってきて、こちらも一安心。とはいえこれで、軽度ながらもれっきとした糖尿病患者。気を抜かず、今後も走ろうと思っている。

 家に籠もりきりというのもつまらないから、4日に外出、宇治まで行ってきた。宇治上神社という小さなお宮があるのだが、日本最古の神社建築とかで、世界遺産になっている。これを一度見てみたかったのである。
 宇治へ行ったのは、今回がはじめて。電車を乗り換えて終点だから、すごく遠い感覚しかなかったが、四条からだと30分しかかからない。東京の乗り物のことを考えたら楽なものだ。

 宇治上神社は、下にある宇治神社とペアになっており、どちらも村の氏神さまか、部落の郷社みたいに小さい。建物は拝殿と本殿のふたつきり。ゆっくり見ても10分とかからない。
 神社建築に詳しいわけではないから、ふーん、なるほど、で終わり。宇治川の景観がすばらしかったから、今度は暖かくなったころ、もう一度行って付近を歩いてこようと思っている。

 そのあと宇治川を渡り、対岸にある平等院の鳳凰堂へ寄ってきた。ここもじつははじめてだ。
 鳳凰堂の形からもっと華やいだイメージを持っていたが、いまでは壁画も彩色もすべて失われ、なんとなくみすぼらしかったのでがっかりした。かみさんは二度目だったが、以前来たときよりたしかに古びたとかで、同様にがっかりしていた。
 これがふつうの寺院だと、色褪せたら褪せたで、わび、さびにつながるのだろうが、鳳凰堂はなんといってもあの形そのものが華。それが色なしのモノクロでは、みすぼらしさが先に立ってしまうのである。
 今後も大修理は繰り返されるだろうが、どうして色彩まで復元しないのだろうか。平等院の鳳凰堂は、そうしたほうがよい寺院だと思うのだが。

 雪の初詣で転び、傷めた右手首は、どうやらただの打撲ですんだようだ。いまでは痛みもなくなり、ほっとしている。もうちょっとで下鴨神社を恨むところだった。

 京都へ来て3年。はじめて初詣に行ったのが下鴨神社で、その年した怪我がまだ治りきっていない。つぎの年はかみさんが足をひねり、2年連続して初詣に行けなかった。根が不信心なのは棚に上げ、下鴨神社は縁起が悪いとぶつぶつ言っていたのだ。


2011.1.1
 あけましておめでとうございます。おかげさまで、あたらしい年を迎えることができました。本年もよろしくお願いいたします。

 それにしても、よく降りました。京都へ来てはじめてという大雪。朝から夕方まで、止むことなく降りつづけた。
 午後カメラを持って鴨川まで出てみたところ、どこもかしこも真っ白、下はぐじゃぐじゃ。橋の取りつけ部にできた坂で、車のタイヤが空回りするなど、雪に不慣れな都会の光景があちこちで見られた。
 気象庁の発表では、京都の積雪は9センチとなっていたが、ところによってはとてもその程度でなかった。ふつうのシューズをはいて行ったから、かえってきたときは靴の中まで濡れていた。
 家に帰ると、物置から札幌時代の靴を取り出した。この靴、京都へ来るとき、もういらないから捨てようとしたのだ。かみさんが京都は雪が降るから、といって持ってきたもの。捨てなくてよかった。

 午後の11時半からかみさんを連れ、知恩院と八坂神社へ出かけた。除夜の鐘と初詣、雪見を兼ねての深夜ウオークだ。
 夜になって雪は止んだが、気温が低かったから木々に積もった雪がそのまま残っており、目に入ってくる木々はすべて樹氷状態、電線まで結氷していた。
 木屋町や白川通りは、桜が満開かと思うような光景だったし、知恩院の三門もライトアップされて息を呑むような美しさ。こういう景色を見られただけでも、無理して出てきてよかったと思った。
 雪のせいで、人出がきわめて少なかった。それが正解だったと、いえなくもない。ところによっては足下がつるつるになり、危険な状態になっていたからだ。

 あいにく知恩院の除夜の鐘は、午後12時前に一般客の受付を終えたとかで、鐘楼まで行くことができなかった。
 それで八坂神社へ向かったところ、やたら交通規制をして遠回りさせるうえ、いざ入ろうとすると、長い行列ができて、それがちっとも動かない。どうやら入場者数まで制限していたみたいなのだ。
 だったらいいや、というのでここもパス。すでに午前1時だったが、それから電車に乗って下鴨神社へ向かった。これも初詣というより樹氷見物が目的だ。
 あれやこれや歩き回って、家に帰ってきたのは午前2時半。かなりくたびれたが、二度と見られないと思う雪景色を堪能して、大満足しながら帰ってきた。

 それはいいが、ひとつ失敗をした。下鴨神社の手前で、滑って転んだのだ。坂というほどのところでもない。歩道とふつうの道との境目が踏み固められて、滑りやすくなっていた。
 よそ見をして、足下をまったく見ていなかった。軽率の極み。あっと思ったときは、見事にひっくり返っていた。
 30分ほどまえ、知恩院でご婦人がひっくり返ったのを見てにやりとしたのだが、まさか自分がやるとは思わなかった。しかもスパイクつきの靴をはいてだ。
 そのとき、右手首で躰を庇おうとしたらしく、以来手首がづきづき傷むのが気がかりだ。先の怪我をしたとき、骨折した右の手首である。

 調子に乗るとすぐこういうことをする。どうやら今年も、平穏無事とはいかないかもしれない。


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