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2010.6.26
仕事の大苦戦がつづいている。ただいま130枚。そこで止まってしまい、どうにも先へ進めなくなった。
こうなるともう一度ストーリィの改変をして、一から書き直すしかないだろう。このシリーズはじまって以来の苦戦だ。今回はあまりいいものができないかもしれない。だんだん自信がなくなってきた。
おかげで昨夜のワールドカップも、せっかくの歴史的勝利だというのに、まったく見ず。ひたすらパソコンのキーボードを叩いていた。
深夜の試合だったし、かみさんも寝てしまったから、そのまますぎてしまうはずだった。
そしたらいきなりかみさんが入ってきて、ただいま日本が1点取った、と言うからびっくり。
寝てなかったのかと聞くと、試合開始には間に合わなかったが、自然に目が覚めたのだそうだ。60ン歳のばあさんまで起こしてしまう一大国家的イベントだったのである。
わたしのほうは遅ればせながら、6時すぎからゴールシーンをまとめて、何十回も見せてもらった。
テレビのチャンネルというチャンネルでやっていたから、何十回でも見られた。何十回見ても見飽きなかった。
おかげでボルテージが上がりすぎてしまい、以後まったく眠れなくなった。
昨夜は完徹。そしていま午後3時をすぎたところだが、睡眠を司る機能がどうかなってしまったのか、まったく眠くならない。
仕事は今夜からが最後の勝負どころなので、ここで眠っておかないと困るのである。こんなときワールドカップを開催するのが、だいたい迷惑きわまりないことなのだ。
これまでテレビ中継を見なかったのも、試合の結果次第では、自分の精神状態がどうなってしまうか、自信が持てなかったからである。
年を取るにつれ、こらえ性がなくなってくることはたしかで、このごろは野球中継を見ても、文句ばかり垂れている。
あまりに罵声を浴びせるものだから、ときどきかみさんに、うるさいといって追い払われている始末だ。
ワールドカップとなれば、ボルテージの上がり方は野球どころの比ではないだろう。試合の結果次第では、絶望したり怒り狂ったりして、仕事どころではなくなってしまう。それが怖くて、見なかったというのが真相なのである。
来週は果たしてどういうことになっているだろうか。
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2010.6.19 今週は「はやぶさ」の帰還という感激で幕を開けた。ネットでは早くから騒がれていたが、贔屓のあまり擬人化され、だんだん子どもっぽいコメントが多くなってきたのでへきえきしていた。
それが次第に引き込まれてしまい、お終いのころはこちらまでミイラ取り。毎日夢中になってパソコンの画像を追いかけていた。
それにしても帰還当日、TVがあれほど完全無視するとは思わなかった。どこのチャンネルをひねっても、うんともすんとも言わないのである。
それであわててパソコンに切り替えたのだが、取りかかりが遅かった分、探し当てるのが遅れた。
和歌山大学の画像で大気圏に突入してくるシーンはなんとか見届けたが、もうひとつ鮮明な散りぎわのシーンは、リアルタイムで見ることができなかった。
ただの物体にすぎない金属の塊が、燃え尽きながら地球へ帰ってくるシーンを見ていると、こちらの目頭までじーんと熱くなってくる。こういうものにまで感情移入してしまうところは、やはり日本人だなあ、とそのメンタリティにあらためて感心したのだった。
しかしはやぶさが帰還してからのマスコミの取り上げ方や、政局のドタバタを見ていると、ほんとに日本はだめになったなあと思わざるを得ない。
マスコミが正常に機能しなくなっていることを、今回ほど如実に見せつけられたことはなかった。NHKなどいまやどこの国の放送局かわからないありさまだ。
と、ここまでは枕である。
ただいま執筆中の雑誌原稿が遅れに遅れている。今月も早めに取りかかったのだが、30枚書いたところで根底からの疑問に突き当たり、その段階でご破算。
あらためて書きはじめたのは、はやぶさが地球へもどってからのことだ。
はやぶさくんに生きる勇気をもらったとか、僕もがんばろうとかいったネットの書き込みを見て、こちらもそれにあやかろうと、気合いを入れ直したのである。
だから実質的にスタートしたのは、月曜日ということになる。タイムリミットぎりぎり。以来パソコンにかじりつき、家から一歩も外に出ていない。
ただいま70枚。今朝方2回目の懐疑に突入、以後1枚も書けていない。
おかげでせっかくのワールドカップも、見ない、読まない、聞かないのサンナイ状態。日本がカメルーンに勝ったのが、アウェイではじめてだったこと、まさに歴史的勝利だったと知って、え、そうだったの、とおどろいている始末だ。
来週もこの状況に変わりはないだろう。むしろいまよりひどくなっている。せっかくのワールドカップだが、われ関せずのまま終わってしまいそうだ。
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2010.6.12
今週はこの秋刊行予定の、蓬莱屋シリーズ第2作目のゲラが出た。
今回の作品に収めたのは、第5話から7話までの3作。第1作に比べたらひとつ少なくなっているが、作品ひとつひとつは長くなっているから、すかすかという印象はないと思う。
はじめてのシリーズものだし、愛着のある人物も多い。わたしとしてはこの先もずっと書きつぎたい作品なので、毎回最大限の精力を注いでいる。今回も水準以上の作品には仕上がったと思うから、どうかお楽しみに。
ゲラ読みはこの週末で終わり。今月はこのあと、シリーズの第8話を書かなければならない。なんとかアウトラインが決まり、数日まえから書きはじめたところだ。
この先順調にすすむかどうかは、いまのところなんともいえない。すべて手探り。いまは白紙に近い状態だ。
毎度のことながら、作品を書くたび、かなりのプレッシャーにさらされる。30年もやってきた商売だからいい加減慣れていいはずなのに、今回もうまくできるかどうか、まるで新人みたいな不安に毎回つきまとわれるのである。
理屈は不要、結果がすべて。毎回毎回が真剣勝負だから、ストレスも毎回更新されてしまうのだ。とにかく来週は、ここでどんな感想を書いているだろうか。
7月はじめに海外旅行へ行きますと、先に公表していた。それが先週取りやめになった。ツアーの成立するほど、参加者が集まらなかったらしいのだ。
1ヶ月前の中止決定とはいえ、こちらはそれに合わせ、仕事のやりくりをし、だれにも迷惑をかけない状態で、晴れて旅行を楽しんでこようと、せっせと働いていた。
それがいまになって中止では、二階に上がってはしごを外されたようなもの。仕方がないとはいえ、釈然としないのだ。
こうなったらなんでもいい。なにがなんでもどこかへ行きたい、というので、それから目を皿にしてほかのツアーを探しはじめた。するとほぼ同じ日に、同じくらいの日程で、出かけるツアーが見つかった。
問い合わせてみると、いまなら間に合いますという。それでたちまちその気になり、あんまり乗り気ではなかったかみさんを強引に説得、急遽そちらへ鞍替えすることにした。
ただし行き先は180度変わった。はじめに申し込んでいたのは、アメリカ横断バス旅行だった。それがスイスのトレッキング旅行になってしまった。
つながりも脈絡もない。要するに憂さ晴らしに、どこかへ行けばよいだけ。行き当たりばったりの、わたしにふさわしい旅行になりそうだ。
というわけで、これからスイス旅行へ出かける前段階としての仕事に、気合いを入れて取りかかります。
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2010.6.5
つぎの作品の下準備をはじめ、このところ連日のように出かけている。
週のはじめに高野山へ出かけた。ところが想定外の大雨に遭遇、ろくに動けなかった。
大台ヶ原という日本一の多雨地帯のお隣で、しかも標高1000メートル近い山上。
これくらいの天候急変はあっておかしくないところだったとはいえ、1泊2日でようやく出かけたものにとっては、災難としかいいようがなかった。おりを見て出直すしかないだろう。
今日は大坂へ出かけていた。こちらも期待していたほどの成果なし。がっかりして帰ってきた。
2万5000分の1地図の、古いものを見たくて国土地理院へ行ったのだ。ところが調べたい地域の地図は、いちばん古いもので大正時代しかなかった。
明治になって埋め立てられ、地形が変わったところだから、それ以前の状態を知りたくて出かけたのである。国土地理院へ行きさえすれば、なんでも見られるというものではないようだ。
こうなると、古書店で古い地図を見つけたときは、とりあえず買っておくしかないということになる。とはいえその地図が必要になるかどうか、そのときはわからないのだから始末がわるいのだ。
昨日は先日パソコンの設定をしてもらったお助けマンにまた来てもらい、一部手直ししてもらった。
今回のパソコン、思った以上に使いやすくて、気に入っている。軽くて薄いということが、これほど負担を少なくしてくれるとは思わなかった。
なにしろアダプター込みで800グラムしかない。いままでのは1・6キログラム。ちょうど半分なのである。
一方でメールアドレスの並び方がめちゃめちゃだったり、土曜の夜になるとインターネットがつながらなくなったり、いくつか不具合が出てきた。それをひとつずつチェックしてもらったのである。
その結果、直ったものもあれば、我慢するしかないものもあった。あとはこちらがそれに合わせ、慣れるしかないということだ。
たとえばメールアドレスだが、めちゃめちゃではなくて、ちゃんとアイウエオ順に分類されていたのだ。
ところがその読み方のひどいこと。「羽……」を「う」、「荒……」を「こう」と音読みして分類していたのだ。
いまさら直すには数が多すぎるということで、これはそのまま手をつけないことにした。音読みで仕分けされていることに、こちらが慣れるしかないわけである。
インターネットの無線も調べてもらったところ、この地区は12もの回線が輻輳しているとわかった。
あとはできるだけ重複の少ないチャンネルを選び、TVや電子レンジなど妨害波を出すものとの併用を避ける、ということくらいしか対策がないようなのである。
映画「行きずりの街」の公開が11月20日に決まったという知らせをもらった。
じつは昨年の暮れに試写会があり、そのとき招待されたのだが、忙しかったこともあって欠席した。
忙しくなくっても出かけはしなかっただろう。これまで映像化されたものは、DVDをもらっても見たことがない。
活字と映像とはまったくちがうものだと思うから、原作にそれほど意味があるとは思わないのだ。
それなのに、なんとなく聞いたことのある台詞が出てきたり、既視感のある場面が出てきたりする。恥ずかしくて、とても正視できないのである。
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2010.5.29
相変わらず気温差のはげしい日がつづいている。今週も真夏日があったかと思うと、この2日間は、最高気温が20度に満たないありさまだった。
今朝郵便局へ出かけたとき、近いからつい半袖シャツ1枚で行ったところ、寒くて震えあがり、鼻水を垂らしながら帰ってきた。
おまけに天候も不順。いくつか取材に行きたいところを抱えているのに、次週以後へ延期せざるを得なかった。
週明けには、京都で珍しい大雨が2日つづけて降った。鴨川もこれまでになく増水し、4日たったいまでも水位はもとにもどっていない。
上流のほうへ行くと、川を横断できる敷石が数カ所設けられているのだが、昨日の段階では、そのうちのいくつかの石はまだ水をかぶっていた。
以前鴨川の水は、大雨で濁っても翌日は清流にもどると書いたことがある。今回ばかりは、4日たっても濁りが完全に取れていない。これもはじめてのことだ。
この数日、産卵にやってきた鯉が水草の間を活発に動き回っている。それを鷺が物欲しそうに見ているのだが、50センチからある大きな鯉ばかりなので、さすがに手が出せないみたいなのだ。
去年アオサギが1尺前後もある鯉をくわえ、呑みこもうと四苦八苦しているところを見かけたことがある。鯉が大きすぎ、どうあがいても呑みこめない。とうとうあきらめて放してしまったが、気のせいでなくそのときのアオサギは悔しそうだった。
鴨川の河畔に植えてある草花は地域ごとに種類を変え、いつでも何らかの花が絶えないよう工夫されている。
現在は四条大橋周辺が、芳香を放つ白い花で満開だ。この花がなんなのか、ずっとわからなかった。
クチナシに似ているが、木がちがうのだ。通りがかりのご婦人が、卯の花でしょうと教えてくれた。「卯の花の匂う垣根に……」の卯の花である。
ああ、そうだったのか、とはじめて合点がいき、確認するため、ひと花切り取って持って帰った。ところが調べてみると、ぴったり合わないのである。
それでわかったのだが、卯の花という呼び名そのものが厳密ではなく、幾種類かあって、種まで多岐にわたっているみたいなのだ。
鴨川河畔の花も、ウツギに代表される卯の花の一種らしいとは言えるものの、正確にはちがうかもしれない。調べてわからないというのは悔しいもので、後味がいまひとつすっきりしないのである。
上流に行くとハリエンジュ、いわゆるニセアカシアも数本植えてあって、これもただいま満開。
ところが木にわざわざ立て札が掲示されており、外国から持ち込まれた木だが、生命力が強すぎ、放っておくとどんどん増殖して日本の在来種を駆逐しかねないから、安易に植えることはつつしみたい、と書いてあったからびっくりした。
北海道では札幌を代表する街路樹だったからである。何年も親しんだ花だからそれなりに好きだったのだが、そういう見方がされているとは、まったく知らなかった。
東京でも日野市の外れの多摩川河畔に、この木の群落がある。するとあの木も、自然繁殖したものだろうか。そういえば、わざわざ植林したとは思えないところなのだ。
昨年はここの花が散る時期、たまたま通り合わせたから単純によろこんだ。ニセアカシアは粒形の花だから、桜みたいにひらひらとは散らない。アラレみたいにザーザーと降りかかってくる。たしかに日本の風情とは異質な散り方である。
これからはいままでとちがう複雑な気持ちで、この花を見ることになりそうだ。
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2010.5.22
今週は注文してあった古書がつぎつぎに到着、目を通すのに追われつづけた1週間となった。
買ったのは昭和40年代から50年代にかけての歴史論文集。これから手がけようとしている作品の資料として購入したのだが、想像していた以上に中身が濃く、あたらしい発見やヒントがつぎからつぎへと出てきた。
それはいいが、事実や歴史を知れば知るほど世界がひろくなり、これまで考えていたストーリーが通用しなくなってきたのには参った。
複雑多岐で膨大な背景がわかってくるにつれ、頭で考え出したフィクションがみすぼらしくなり、根底から考え直さなければならなくなってしまったのだ。
歴史を描こうとしているのではない。おもしろい小説を書こうとしているだけだから、いい加減なところで切りあげないと、ミイラ取りがミイラになって、書けなくなってしまう。
昨年の長崎取材がまさにそうだった。行くまえは、すでに大まかなストーリーができていて、現に書きはじめていたのだ。その肉づけの足しにしようと、現地へたしかめに行ったのだった。
ところが収穫がありすぎ、こちらの考えたストーリーが、どうにも当てはまらなくなった。結局それ以上書きすすめることができなくなり、もう一回考え直そうということで、お蔵にしてしまった。
いずれ時間を置いて、とは考えているものの、まだ調べなければならないことがいくつかあるから、それをやっているとまた地獄に堕ち、書けなくなってしまうのではないかと思う。
そういう意味で、調べものは諸刃の剣。事実にとらわれすぎると、書けなくなるばかりか、物語まで精気を失ってしまいがちである。だいたい史実に忠実な正しい小説というのは、だれが書いたものであれ、おもしろくないものなのだ。
また昨日は、今回の下調べの延長として、弁才船の実物模型を見に、大阪まで行ってきた。江戸時代のいわゆる千石船を忠実に復元したもので、実際に大阪湾で何回か航海したあと、いまは博物館に展示されている。
全長30メートル、現代風の規準でいえば100トンたらずの木造船だが、現実に目のあたりにし、なかへ乗りこんでみると、その巨大さにおどろく。帆ときたら200畳分あるとかで、帆柱の高さが27メートル、想像の域を超えている。
単に大きいだけではない。がっしりと、頑丈そのものに造られていて、これほどの船を、設計図ひとつ引かず、造りあげていた日本の船大工の腕は驚嘆に値する。
西洋の帆船に比べても、和船は堅牢という点では、すこしも引けを取らなかった。ところが悲しいかな、甲板というものがなかった。
ちょっとでも海が荒れると、舷側を乗りこえてきた波は、遠慮会釈なく船のなかへなだれ入った。密な甲板ぐらい簡単に造れる腕がありながら、水が入らない船は最後まで造ろうとしなかったのである。
荷役最優先。荷の積み下ろしの便と、載せられるかぎりの荷を積もうとしたからにほかならない。それが日本人の一方の特性かもしれないと、最後は複雑な気持ちになって帰ってきた。
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2010.5.15
あたらしいパソコンを買った。といっても注文したのは先月のことで、それが今週届いたのである。
いま使っているXPがだめになったわけではない。文を書くだけならいたって快調、よく働いている。
それでも寄る年波には勝てなくなったか、このごろはインターネットを使うたび、すぐフリーズするようになった。動きそのものが鈍くなってきたのに、それを使っている人間のほうはますますせっかちに、わがままになっている。
ひとつの命令を出し、パソコンがそれを懸命に実行しようとしているさなかに、もうつぎの命令が飛んでくる。気が変わったり、命令が180度変わったりといったことはしょっちゅうだ。
おかげでパソコンのほうが混乱してしまい、処理しきれなくなって、パンクするみたいなのである。
また重すぎるのも、苦になっていた。アダプターまで入れると、2キロ近い重量になるのではないだろうか。
東京へ帰るたび、デイパックに入れたり、キャリーバッグに入れたりして持ち回んでいたのだが、その嵩と重さをいつも持てあましていた。
それやこれや考えると、ここらであたらしいものを、ということになったのだ。
とにかく今回は、軽いことを第一の条件にして選んだ。その結果お眼鏡にかなったのは、重量800グラム弱のソニーVAIO。ソニー製品を使うのははじめてである。
厚さが1センチちょっと。薄いし、まるで紙のノートみたいに軽い。アダプターが、従来品の半分以下の大きさになったのもうれしかった。
ただしその軽さを実現するため、装備のほうはかなり省略されている。CDドライブはもちろん、ハードディスクもないのだ。
ワード、エクセルとも入れなかったから、費用は思いのほかかからなかった。いまのところ入っているのはATOKとエディターだけ。とにかくシンプルに使うつもりだ。
要するに執筆専用機なのである。それにインターネットと、メールができればよい。保存はUSBメモリーで十分だ。
セキュリティや無線LANの設定など基本的なことは、いつも来てもらっているお助けマンにやってもらった。
ただし、そのあとがひと苦労。使いこなすための設定に手間取り、本格的な仕事をはじめる段階にまだ達していないのだ。
人間というのはなんとも保守的なもので、パソコンは変わっても、画面は以前の通りになってくれないと、落ちつかないところがある。
マシンが変わると、これがなかなかうまくいかないのだ。ふたつのパソコンをそっくり同じ設定にしても、ディスプレイに出てくるものは、色合いといい、見栄えといい、けっして同じにはなってくれないからである。
どこか微妙にちがう。眼鏡を取り替えた直後みたいに、借りものみたいな不満足感につきまとわれるのだ。
またCaps Lockキーは不要なので、これをCtrlキーとして使っている。そのキー配列は、ダウンロードしたソフトによって変えているのだが、これがどうやってもうまくできなかった。
なんとか成功するまで、半日もかかった。要は出所不明のフリーソフトだったため、セキュリティがガードして、開かせてくれなかったのだ。無視して強行してしまえば、どうってことはなかったのだが、それがわかるまで頭を掻きむしっていた。
とにかくこれで、一応使えるようになった。いまのところ、今回の機種が使いやすいかどうか、評価は微妙なところ。じつはこれまで使っていたFMVは、その点で選択ミスだったと思っている。
キータッチが固すぎたのだ。強く押し込まないと印字できないため、しょっちゅうタイプミスを起こしていた。これも取り替えようと決意した、大きな原因のひとつになっている。
とにかく使っていて、いちばん気になるのは、キータッチなのだ。これが手に馴染むかどうかで、印象はがらっとちがったものになる。今回のVAIOは、そこに一抹の不安を残してのスタートとなる。
それにしてもIBMのTHINK PADは名機だった。ああいうキータッチは、いまの製品には望めないらしい。コストをぎりぎりまで落としているため、以前のものと方式が変わってきているという。
鉛筆で原稿を書いていた時代は鉛筆に、ペンで書いていたときはペンにいつもこだわっていた。
パソコンも同じ。使い勝手のよいパソコンに巡り会いたいと、いつも熱望している。今回のソニーで、主なメーカーの製品はすべて使うことになるから、ひとつの回答が出るだろうと期待している。
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2010.5.8
週の初めまで夜はヒーターを入れていたのに、いきなり29度、31度、29度という日々になった。わたしの部屋は西日がさんさんと当たる。とうとうクーラーまで入れてしまった。
今週はどこへも行かないつもりだったが、古書展をやっていたから仕方なく出かけた。ゴールデンウイーク中しかやってない催しだったのである。
関西と中国地方の古書店が連合して開いたもので、関西では最大規模のものではあるまいか。みやこめっせという施設のなかでやってくれたから、いつぞやの下鴨神社のときのような暑さもない。
それでこちらも気合いを入れて見て歩いた。
いま探しているテーマに目標をしぼり、ほかは目もくれず、ということに徹したのだが、なんせ店が多い。行けども行けどもお終いまでたどりつけない有様で、一巡するのになんと4時間半もかかってしまった。
この間1回も休まず、腰も下ろさず、トイレにも行かず、ずっと立ちっぱなし。さすがに最後はくたびれた。
結果は、というと探していたテーマにぴったり、の本は見つからなかった。きわめて近いものが1冊、関連のあるものが5冊。まあまあの戦績だろう。リュックを背負って行ったが、疲れたから配送してもらった。
ひとつ失敗をした。2冊ほど、これは買っておいてもいいなという本があったのだが、大型本で重かったから、後回しにしたのだ。こんな本は絶対売れないだろうから、最後にレジへ行くとき、持って行けばいいやと高をくくった。
ところがあとになって探しに行くと、見つからないのである。本屋の名前も覚えていない。なんとか1冊は見つけ出したものの、もう1冊はとうとうわからずじまい。こういうものはその場で決断して籠に入れ、持ち回るしかなかったのだ。
昼めしを食ったから、帰りは家まで歩いた。新京極通りにさしかかると、まるでお祭りみたいな人出。なかなか前へ進めなかった。
時間かまわずの暮らしをしていると、日にちという観念がなくなってしまう。昨日の明け方、寝ようとしたところ、暑苦しさもあってなかなか寝つけない。通常の夜明けの感覚ではないのだ。まる一日ずれている。
それでにわかに思い立ち、久しぶりに歩いてみることにした。このところ膝の具合もよくなり、階段を上がり下りしても痛みを感じなくなっていた。
朝の5時に鴨川河畔へ出て、下鴨神社まで往復してきた。1時間半、14000歩。わが足はよほど性懲りもないようにできているらしく、くたびれたけれど痛みはなかった。
それにしても鴨川河畔は、時間かまわず人が歩いている。朝歩いているのは、ことごとく年寄り。向かいから来る人とすれちがうたび「お早うございます」と挨拶を交わさなければならない。
夜は年齢層がまちまちなせいか、無言でよい。どっちがよいか、一長一短だなあ。
充実した独身生活も、今週で終わる。
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2010.5.1
あっという間に5月だ。
萌える新緑、爽やかな風、まことに気持ちのよい季節だが、よくよく考えてみたら、こんなものをのんびり愛でていられる身分ではなかった。
それだけ残り時間が少なくなっているということだからだ。ゴールがそこに見えているのである。
とはいえ、いつまでたっても切実感は全然ない。どうやら最期まで、こういう調子で行ってしまいそうだ。
今週はひとり暮らしをしている。かみさんが東京へ帰ったからだ。おかげで気分すっきり、悠々自適。まことに充実した日々を過ごしている。
ただしいつものことながら、時間帯はめちゃめちゃになってしまった。制約がないから、すべての時間が好きなように使える。翌日のことを考えて、夜もどこで切りあげようか、といったことに頭を使う必要がないのである。
したがって連日徹夜つづき。はじめのうちは朝めしを食ってから寝ていたが、そのリズムまでずるずるずれてしまい、今朝など布団に入ったのは午前11時だった。
先週までは大阪へ出かけていたが、今週はぴたりとやめた。もったいないのである。とにかく明日からの連休中は、どこへも出かけず、家で仕事をするつもりだ。静謐と自由がわがものとなっているこの時期くらい、仕事に専念していよう。
と、かっこよく見得を切ったのにも、わけがある。7月ごろ海外旅行をすることにしたからだ。そのためにも、やるべきことをしておかないといけないのである。
今回かみさんが東京へ帰ったのも、パスポートの有効期限が7月で切れるのを発見して、あわてて更新に行ったのだ。
念のため、わたしも自分のパスポートをチェックしてみておどろいた。2008年に更新して以来、1回も出かけていなかったのである。
何回か出かけようとしたことはある。かみさん抜きで、単身参加のツアーを申し込んだこともある。だがこの間怪我で1年あまりを無為にすごしたし、希望したツアーにはことごとく振られた。
1週間やそこらの短い旅行には行きたくないのだ。行くからには少なくとも2週間以上の旅をしたい。異国の風土に躰が馴染んでくるのは、どうしても10日くらいかかってしまうからだ。
ところが日数の長いツアーになると、行ける人が限られてしまう。昨今みたいに景気が悪いとなおさらだ。勢い中止になってしまうものが多くなる。昨今は日数の長いツアーそのものがめっきり減った。
今回も一応申し込みはしたが、参加希望者はまだ5名に留まっている。成立しなかった場合は、月をずらせるしかない。
いちばん快適な旅ができる6月のツアーだと、催行が決定しているのだが、こちらはわたしが、つぎの雑誌連載原稿の締切月とあって無理なのだ。なかなかうまくいかないのである。
ぐずぐずしていたらわたしのほうが、海外旅行に行ける体力を先になくしてしまうかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられなくなり、今回こそは何としてでも行くぞ、と熱望しているのだ。
とにかくそのためには、まず仕事をしておかなくてはということ。やっぱり一生働くしかなさそうである。
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2010.4.24
今年の春は近年にない天候不順だ。雨が多いばかりか、気温まで低い。食料の買い出しにはかみさんと代わる代わる出かけているから、青物野菜が高いのを日々実感している。
ただし一方で雨天は、花粉症患者になによりの贈り物。この数週間は、先月が嘘みたいに気持ちよく過ごせている。
病院でもらった薬もあと5日でなくなってしまうが、この分だともう行かなくてすむかもしれない。今日などマスクなしで出かけても大丈夫だった。
昨日も大阪へ出かけていた。冷たい雨が一日中降りつづいた日だ。
仕事とは関係のない用だったが、そのあとで、人と会う約束をしていた。それで前日の夜中、確認のメールを送ったところ、折り返し返事がきた。先方が当惑している。
またまたというか、例によってというか、わたしのほうが日時をまちがえていた。約束していたのは今日だったのである。
ところが今日はわたしのほうがだめ。京都を離れることができない。結局平謝りに謝るしかなかった。
こういうミスは人に迷惑をかけるから、卓上カレンダーに記入して毎日のようにチェックしているのだが、日にちを取り違えて覚えこんでたんでは話にならない。
というわけで、大阪まで出かけはしたものの、用はすぐに終わり、昼前には時間が空いてしまった。
そのときは大阪港へ出かけ、ある博物館に保存されている実物大復元の檜垣廻船を見てこようと思っていた。
しかし地図を見ると、地下鉄の駅を下りて10分くらい歩かなければならない。雨は強いし、風も吹いている。
昼めしを食いながら外を見ているうち意気が萎えてしまい、また出直してこようということにして、そのまま帰ってきた。
帰ってからよくよく考えてみたら、その用は、なにもその日に行かなくてもかまわないものだった。人と会う予定ができたから、そのついでに組みこんだのだった。
いま発売中の小説新潮掲載の蓬莱屋シリーズ第2冊目が、この秋、単行本化されることになった。
前巻は4話を1冊にまとめたが、今回はやや長めのものが2話入っているので、3話で1冊ということになる。
量としては十分ということなのだが、3話で1冊というのは、なんとなく水増ししているような気がしないでもない。しかし今年はそれしか出そうにないから、やむを得ないのである。
しかし、年に1冊ではやはり少ないかなあ。
今週はさる出版社からも、編集者3人が打ちそろって京都まで押しかけてきた。来なくていいと言ったのに、有無をいわさずご馳走責めにされた。
この年寄りをまだ働かせるつもりらしいのだ。
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2010.4.17
調べものと各種資料を集めるため、今週は2回大阪へ出かけていた。
大阪へ行くのは、正直に言うとあまり好きではない。道をまちがえたり無駄に歩かされたりして、行くたびに疲れ果ててしまうからだ。
若いころ2年住み、自転車で市内を走り回っていたから、地理は完璧におぼえている。ところがそれは50年まえ、つまり半世紀前の大阪にすぎず、あえて言うなら紙に描いた二次元の大阪でしかなかった。
いまみたいに高層ビルが林立し、堀という堀に高速道路が張り巡らされた立体的な大阪とは完全な別物。むかしの知識は邪魔にしかならないのだ。
今回も梅田の地下道でまごまごしていたら、道案内のおじさん(らしい人物)から声をかけられた。
それで本屋へ行きたいのだと答えた。以前行ったことがある旭屋を頭に置いていたのだが、どこをどう行ったらよいのか、まったく思い出せなかった。
教えてくれた店に行ってみると、それはブックファストだった。どうやらあたらしくできた店のようだが、ひょいと見ると、通りを隔てた真向かいに旭屋がある。
それでブックファストはざっと見て、旭屋へ向かった。ところが道路を渡ろうと、行けども行けども交差点や横断歩道がない。
いつもだと、こういうときは車の間隙を縫ってさっさと横断してしまうのだが、高いフェンスが巡らしてあって、どこも横切れないのである。
仕方がないから地下道へ入ったところ、今度は出口が見つからない。あげくの果てはとんでもないところへ出て、だいぶ歩かされた。
結局本はブックファストにまたもどって買った。一事が万事こういう調子、一度で用が足せたためしがないのである。
数日おいて、今度は大手町にある大阪歴史博物館へ出かけた。江戸時代の船場の町並みが再現してあるというから、それを見たかったのだ。
場所は大阪城の真ん前。10Fからの眺めは大阪城の天守閣より高いみたいで、180度視界が開けてなかなかよい。
この辺りは官庁街だから、建物こそすべて入れ替わっているものの、区画、地形等は変わっておらず、新旧の記憶をつき合わせるにはいいところなのだ。
じつはこの近くに住んでいた。だからいやでも50年まえを思い出さざるを得ず、しばらく感慨に浸っていた。
目の下が馬場町の交差点である。いまは更地になっているが、以前はここにNHKがあった。
教育の塔というモニュメントができている先には米軍のライフル試射場があり、防音装置をほどこした建物だったと思うが、それでも試射をはじめると、腹に響いてくるような音がこだましてきた。
その先にあったのが日生球場。当時はまだプロ野球に使われていなかったから、ここは一度も行かなかった。
大阪城の北半分は陸軍歩兵工廠の茫々たる廃墟。日本アパッチ族なる鉄泥棒が出没する前のことだから、ここもとうとう行かずじまいだ。
大阪府警が拳銃射撃場として使っていた空堀には、仕事をさぼってよく足を運んだ。
新米警官が5発ずつ実弾をもらい、5分かけてじっくり狙うようにとこんこんと諭されながら、いざ「撃ち方はじめ」になると1分足らずで全員終わってしまい、多くのものが「弾痕不明!」と叱られているのが、石垣の上から見物できた。
馬場町の隣の法円坂では難波宮跡の発掘調査がはじまったばかりで、これほど大きな遺跡が出てくるとはだれも思っていなかった。難波宮の実在を疑う声もつよかったのだ。
いまの大阪市を東西に貫いている中央大通りの大動脈となると、当時はただの道路予定地。草ぼうぼうの原っぱにすぎず、こんなところがほんとに道路になるんかいな、と疑ったものだった。
こういう話、いくらでもできる。20世紀の後半というのは、そういう意味でもけっして半端な変化をもたらさなかったのだ。東京と大阪の経済力の差ひとつを取ってみても、そのころはまだ55対45くらいだったはずなのである。
大阪が大大阪と呼ばれ、大正末期には人口も東京を抜いて日本一の大都市になっていた、という時代のあったことを今回はじめて知った。
世はすべてうたかた、万物永遠なるものなし、と今夜はひとしお感傷的になっている。
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2010.4.9
週末に孫が京都へ来た。4月から中学生になるから、そのお祝いということで招いたところ、東京から普通列車を乗り継いでやって来た。初の単身旅行だ。
男の子だから、ガイドはわたしということになる。どこへ行きたいか聞いてみると、梅小路蒸気機関車館だという。鉄道マニアなのである。
とにかく連れて行って、向こうで2時間、好きなようにさせた。わたしのほうは係留されている客車のなかで休んだり、適当に散歩したりして、これまた勝手にすごした。
梅小路蒸気機関車館に行ったのははじめてだが、動態保存された機関車にはすこしも興味をそそられないのである。
鉄道といえば機関車しかなかった時代に育っているし、高校生のときは汽車通学も経験した。その記憶が躰に染みこんでいるから、保存されている機関車を見ても、囲いの中の馬を見ているようなもので、おもしろくもなんともない。
とにかく昼めしを食い、午後、さあ今度はどこへ行こうということになって、嵐山のトロッコ列車を思いついた。
保津川沿いの旧山陰線を走る保存鉄道で、これならわたしも乗ってみたい。それでのこのこ出かけてみたところ、保存鉄道の駅舎はごった返していた。その日の切符なんかとっくに売り切れ。
考えてみたら当たり前だ。4月はじめの週末で、しかも桜が満開の京都だった。ずっと家に籠もっていたから、そんなこともわからなくなっていた。
翌日は清水寺と比叡山へ連れて行った。清水寺は大変な人混み、比叡山はひっそり。そのはず、標高800メートルを超える山上は早春、花はまったく咲いていなかった。
3泊4日のスケジュールだから、翌日はもうお帰りだ。ところがしばらくしたら、付き添って行ったかみさんから電話がかかってきた。デジカメのバッテリー充電器を、ソケットに差しこんだまま忘れてきたという。
仕方がないから7時前の京都駅へ届けに行く羽目に。それでわれわれ夫婦に思わぬ時間ができた。
せっかくだからと銀閣寺まで行き、哲学の道を歩いて帰った。桜が満開の季節に歩いたのははじめてだ。
平日の朝の8時。それほど観光客はいないだろうと思ったら、とんでもない。そこそこが、見る見るあれよあれよになり、9時ごろはもうぞろぞろ、あっちこっちで中国語まで飛びかいはじめた。
途中法然院へ寄り、前回見落とした谷崎潤一郎の墓を尋ねてきた。
ここは人ぜろ。
山裾のひときわ閑静なところで眠っていた。自然石をふたつ据え「空」と「寂」の文字が刻まれているだけ。寂のほうに谷崎潤一郎夫妻が入っていた。
墓石の上へ、かぶさるように1本の紅しだれ桜。7分咲きだったが、周りに花をつけた木がないから、なんとも艶やかで、いかにも谷崎潤一郎らしいと感服した。
それはいいが、だんだん足が痛くなってきた。我慢していたが、そのうち音をあげざるを得なくなった。
このところ、歩いたり走ったりステップしたり、とひところ得意満面だった記述が全然ないことにお気づきだろうか。
じつは膝が痛くて、それどころではなくなっていたのである。はい。やりすぎ。学習能力ゼロ。なんといわれようが、口答えできません。
結局最後はタクシーに乗って帰ってきた。
膝なんか、何度も傷めている。だが今回は長びくかもしれない。痛さがこれまでとちがうのである。
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2010.4.3
ようやく仕事が終わった。今日の昼前、原稿を送ったところだ。3月末締切を2日遅れた。
ほんとはもっと遅らせたかった。だが気に入らなかったのは作品の密度ではなく構成の問題だったから、これ以上時間をかけたところでよくならないとわかり、見切り発車したのだ。
つぼにはまった作品が書けたときというのは、最後は作品に没入して無我の境地となり、終わったときは「やった!」と快哉を叫びたくなるものだが、今回はそういう満足感が得られなかった。
毎回毎回、今度こそと思って書いているのだが、意気込みとか、かけた時間だとかが、そのまま出来栄えにつながらないのが、この仕事のつらいところなのである。
人前に出して、恥ずかしくないと自負できる作品となると、どう見ても3割くらいしかない。つまり7割の作品は、後味のわるい、悔いの残る、うじうじした気分で送り出している。
仕事をするたび、7割方まで鬱に陥ってしまう商売なんて、そうざらにあるものではないだろう。
仕事さえしなかったら幸福なのが作家です。って、これはまちがいなく自分のことだろうな。
今回も最後の10日くらいは、家から一歩も出なかった。病院へ行った日以外、外出していない。
花粉症の薬も、病院に行く間がなかったから、かみさんにもらってきてもらった。
前回の薬があまり効かなかったので、つぎは眠くなってもいいからもっと強いのをくれと注文をつけ、朝夕2回服用という薬をもらってきた。
以来きちんと飲んでいるが、その後外出していないから、効果のほどはわからない。家にいるかぎり、そこそこ効いているような気はする。
じつは10日ほどまえ、東京でお医者さんをなさっているファンの方から、メールをいただいた。
その方も10年来の花粉症に苦しんでいるとかで、いろいろな対策を試みておられた。その一端を、ご参考までにと、わざわざ書き送ってこられたのだった。
それを読んでみると、お医者さんだから特別な薬が手にはいる、ということではなかった。市販の薬をはじめ、よいと思われることはなんでも試して、自分に実効のある花粉対策を会得されたということだった。
「すでにこのようなことはなさっているかもしれませんが……」
と書いてあったが、とんでもない。わたしはなんにもしていないのである。
外に仕事を持っていれば、花粉症だからって、泣き寝入りしているわけにいかない。社会生活を維持しようとすれば、病を克服するほかないわけで、医師のような職業ならなおさらだろう。要するに、前向きに、戦闘的に、花粉症と闘っておられるのだ。
それに引き替えこのおれは……と恥ずかしくなってしまったのである。
なんの努力もしていないからだ。薬を1種類飲んでいるだけ。それで、やれ鼻水が出るだの、目がかゆいだの、泣き言ばかり並べている。
最大の防御法が、できるだけ外へ出ないようにすること。商売柄それができるからとはいえ、姿勢としては後向き、負け犬の対策なのである。
努力しない人間は、泣きごとを言う資格もなかった、と今回はじめて気がついたのだった。
いたく反省、これからはあまり愚痴をこぼさないようにします。
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