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2009.12.26 ただいま、蓬莱屋シリーズの第6話を書いている。来月出る小説誌に載せるものだが、まだ下書き段階で60枚。前途遼遠だ。
締切は正月明けの6日。それまでほかのことはなにもできない。3ヶ日も仕事づけになるだろう。
この数年、ある文学賞の選考委員をやっているので、正月はその候補作を読むのが恒例になっていた。1月の末に選考会が開かれるのである。
今年も候補作が5本、とっくに送られてきているが、まだ積みあげたままでページも開いていない。すべて後回しになった。
今回の原稿は、12月末締切ということで引き受けた。しかしこれは建前。年末に渡したって編集者の机のなかか、印刷所の担当デスクのなかで年越しするに決まっている。印刷所が仕事をはじめるのは、1月6日からなのである。
なまじそういうことを知っているから、ぎりぎりになるまで仕事ができない。3ヶ日くらいはのんびりしたいし、候補作も読まなきゃならないから、今回は早めに仕事をしようと、12月にはいるとすぐ執筆に取りかかっているのだ。
毎日ああでもない、こうでもないと、プロットづくりに専念していた。試しに書いては構成を立て直すという繰り返し。20枚くらいの原稿を何回書いたかしれない。
それが全然使いものにならなかった。まだ時間があるとどこかで思ってしまうせいか、真剣味がいまひとつ足りなかったみたいなのだ。
これでいけそうだ、とやっと構成がまとまり、書きはじめたのが20日。
しかもそのストーリーは、これまでひねくり回してきたものとは、まったくちがうものだった。登場人物からキャラクターまで、全然ちがうものになっていたのである。
こうなると、いったい20日間もなにをやっていたんだろうということになる。ありもしない知恵をしぼり、資料に目を通したり本を読んだり、苦しみながらひねり出したストーリーや登場人物が、本番では雲散霧消して跡形もなくなっていたのだ。
それくらい苦しんでまとまらなかったストーリーが、最後はもつれた糸がほどけるみたいに、たった1日ですーっと出てきた。
前半の苦しみがあるからこそ、目から鱗のときが生み出されたのだ、と思うことにしているものの、こうなると、自分という人間の根幹を疑わざるを得ないのである。
150枚の原稿というと、物理的にどれくらい時間がかかるか、ほぼわかっている。
下書き、書き直し、推敲、完成と、すべての時間を足して、その最後を1月6日だとすると、いつから書きはじめなければならないか、起算日が割り出せる。それが12月20日だったのである。
要するに、締切に合わせて頭が働きはじめたということだ。それまでは本気になっていなかった。働いている振りをしていただけ。
なんともいやな性格ではないか。
ということは、なまじ時間など与えてもむだ、ということになる。締切がないとできないのだから、むりやり拘束し、強制して書かせたほうが、結果としては仕事ができるということになってしまう。
この秋にはできあがるはずだった長編が、いまだに影も形もないのは、そのせいである。つまり制約がないから、仕事に身が入っていないのだ。
わたしのような人間は、信義に訴えたってだめだとつくづく思う。飴より鞭にものを言わせるべきなのだ。
来年からやり方を変えよう。
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仕事をのぞくと、ほかはすべて快調だ。毎日せっせと歩いている。
寒くなってきたので、ウォーキングはこのところ休止。スロージョギングとステップを交互にやっている。
外を歩くのはもっぱら夜。1回にたっぷり2時間かけている。とはいえウォーキングより遅いジョギングだから、距離はたった8キロ、歩数にして15000歩でしかない。汗をかかないジョギングである。
その点ステップは30分で汗まみれになる。ただしこれもだんだん躰が慣れてきたので、先月から下に本を敷いて台を3センチ高くした。現在23センチ。これを1回に40分から80分やる。
仕事より足の鍛錬に時間をかけていることはたしか。これも音楽を聞きながらという、これまで知らなかった楽しみをおぼえたからにほかならない。
ウォークマンの曲の出し方がようやくわかった。小さな表示窓にいろいろなものが表示されるのだが、そのなかに丸い円盤のような記号があったのだ。どうやらディスクの意味だったらしい。
このディスクが表示されているとき、早送りボタンを押すと、ユニット単位で曲が移動するのだ。わかってみればいとも簡単なことだったが、記号が小さすぎて見えなかった。ゴミみたいなマークにまで意味があるとは思わなかったのである。
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京都の街も観光客が減り、すっかり静かになった。鴨川河畔の明かりに、夜消えるところが出はじめたのはどうかと思うが、ジョガーは夜遅くまでけっこう走っている。
五条大橋のたもとにある大きな木をねぐらにしていた白鷺が、どこかへ引っ越して1羽もいなくなった。
敷地内に入れないのでなんの木かわからないのだが、夜になると100羽前後の白鷺が集まってねぐらにしていた。
鴨川河畔のほかの木でも、何羽かがねぐらにしているのは知っていた。下を通ると糞が落ちていたからだ。
五条大橋のほうは知らなかった。葉の茂っていた夏の間は見えなかったからだ。秋になって葉が落ちはじめ、はじめて気がついた。白い綿帽子のようなものが、なにかの果実みたいに鈴なりとなっていた。気づいた人は必ず足を止めるくらい、特異な眺めだった。
その鷺の群れが、このまえ東京へ行っている間に姿を消していた。木の葉がすべて落ちてしまったからだ。丸裸の木では、安心して眠れないということだろうか。春になったら帰ってきてもらいたいものだ。
長い冬がはじまります。
今年も一年、本欄に目を通してくださってありがとうございました。
どうかよい年をお迎えください。
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2009.12.19
70数回目の誕生日を迎えた。
とはいえ、もうあまり意識したくない。また1年たってしまったという狼狽のような、焦りのような気分と、いまさら心を改めたって三日坊主、なにも変わりはしないという敗北感のような、挫折感のような気分とが得られるだけで、すこしも楽しくないのである。
いま蓬莱屋シリーズ6回目の原稿に取りかかっているところ。はじめて半月になるが、いまだに冒頭の20枚を、ああでもない、こうでもないとひねくり回している。
締切が正月明け。時間があるせいか、どうにも身が入らないのだ。追いつめられなければできない、いつものパターン。これまでずーっと同じことを繰り返してきた。これからも繰り返すに決まっているのである。
今日はかみさんの誕生日だったので、プレゼントというほどではないが、ラジカセのあたらしいのを買ってきた。これまでのものがCDを再生できなくなり、どうやら寿命が尽きたみたいなのだ。
先週は壁掛け時計がだめになった。このまえ帰った日野でも、時計がひとつ動かなくなった。先月は掃除機を買い換えた。
いろんな機器の耐用年数が、尽きるときはいっせいに尽きる。今週はプリンターまでインク切れで動かなくなった。
掛け時計は居間に置いてあったからないと不便だ。それですぐさま買ってきた。時刻を自動的に合わせてくれる電波時計とやらを奮発した。多分これで、時計はもう買う必要がないだろう。
ところが壁に掛けるフックが、まえのものでは合わない。あたらしいのを探さなければならなくなった。
京都の都心にいて困ることは、こういう日用雑貨がなかなか買えないことだ。大型スーパーや東急ハンズのような専門店がないからである。
デパートをはじめ何軒か探したが、ぴったりのものがない。なんとか合いそうだ、というものをふたつ選んできたものの、試してみると合わなかった。
うんざりしていると、時計の裏をのぞきこんでいたかみさんが「これ、フックがついていたんじゃないの」と言いはじめた。付属フックの取りつけ方が図示してあるというのだ。
あわてて見てみると、たしかにつけ方を指示した紙が貼りつけてある。「箱に止めてあるはずよ。箱はどうしたの?」と問いつめられたときは返事ができなかった。
買ったあとカウンターで本体だけ取りだし、バッグに入れて「箱はいらない」と捨ててきたのだ。小さなフックだから、ビニール袋に入れてテープで止めてあったのだろうが、たしかめもせず捨ててしまった。
だいたい小さな鞄に入る大きさのものを、なんであんな大きな箱に入れなきゃならんのだ。
というわけで、掛け時計はいまだに置き時計となっている。
それで今日買ったラジカセは箱から出さず、袋に入れてもらって素直に持ち帰った。
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2009.12.12
東京へはゴミの始末をしに行ったようなものだった。週明け早々に京都へ帰ってきた。
月曜日が不燃ゴミと瓶類、火曜日が可燃ゴミと雑誌。庭の落ち葉や引き抜いた雑草もこのとき出した。
雑誌の束が8つ、ビラやチラシなど雑紙を詰めこんだ袋がふたつ。これらの整理をするだけで週末2日がまるまるつぶれた。
空き家なのだから、ほんとうは郵便物など受け取りたくないのである。
必要な郵便物はきわめてわずか。大半は勝手に送りつけてこられる雑誌類で、これでも不景気で大幅に減った。かつては1ヶ月に30冊を超えていた。
それに輪をかけて、ビラ配りが、いい加減ぎゅうぎゅうのポストへ、これでもかこれでもかとさらに詰めこんで行く。読んでもらえるかどうか、なんてことは関係ない。とにかく枚数を減らすのが彼らの仕事だから、むりやり押し込んで行くのである。
雑誌は文芸関係がほとんど。商売柄、かつては一通り目を通していた。いまはとてもそんな余裕がない。ただの1冊も開いたことなし。配達された瞬間から即ゴミと化している。
物書きとしては、たとえ雑誌でも印刷物を捨てることには抵抗があるのだが、置くところがない以上捨てるしかない。しかし読みもしないまっさらの雑誌を、そのままゴミに出してしまうのは、いつものことながらいやな気分である。
とにかく郵便物を減らそうと、昨年からは照会があるたび、マスコミ関係の住所録から、名を削除してくれるよう申し入れている。京都のほうは住まいを公開していないせいか、まだこのような状態になっていない。
いまや公開するより閉鎖する時代か。
しかしつぎからつぎへと、不必要なものを送りつけて成り立っている昨今の経済システムは、基本的に無理があるとしか思えないのだが。
帰ってみると、かみさんが虫の息で生きていた。冷蔵庫が空っぽ。出歩くのが困難なため、残りもので食いつないでいたらしい。
まるっきり役立たずの亭主だが、買い物に行くだけでも存在価値があるみたいで、以後恩着せがましく足代わりをつとめている。
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2009.12.5 東京へ帰ってきた。
といっても帰ってきたのは昨金曜日のこと。それまで4日間、伊東に滞在していた。行きつけの温泉宿で仕事をしていたのだ。
京都からなにもわざわざ伊東まで、とは思うものの、ほかに代わるところがないのである。西日本にだっていい温泉はたくさんあるのに、お眼鏡にかなうところがまだ見つかっていない。
ずいぶん探したがないのである。ひとり客を受け入れてくれ、冷暖房完備、24時間いつでも本物の温泉に入れ、しかも1泊6000円。伊東のホテルは、こういう条件をすべて満たした貴重な宿なのである。
温泉地はいまどこも寂れ、閑散としている。伊東も例外ではない。50年まえの最盛期を知っているだけに、いまの状況は目をそむけたくなる。
大きなホテルが倒産して廃墟になり、荒れ果てたまま数年間放置されていた。3年ほどまえに解体され、更地になった。昨年行ったらおどろいたことにそれが宅地になり、大売り出しが行われていた。
それから2年たつが、いまだに1箇所も売れた形跡がない。こういう状況を、逐一見てきたのである。
温泉旅館というのはどこも似たような客あしらいで、温泉大好きのわたしだが、行きたいと思うところがない。料金によって設備や食いものに差がつくだけで、中味はまったく画一的なのだ。
客であるこちらに、宿でどう過ごすかという選択の幅がまったくないのである。向こうが考えているサービスなるものに、客のほうで合わせるしかない。
それくらいだったら、まだしもB&B方式の安価な温泉宿のほうがはるかにありがたい。自分なりの好き勝手な過ごし方や、滞在ができるからだ。
こういうホテルの需要はもっとあると思うのだが、いっこうにふえないのはどうしてだろうか。業者の思い違い、ないし不勉強だとしか思えないのだが。
帰ってみると、庭は落ち葉だらけ、雑草だらけ、いつものことながらうんざりする光景が待っていた。土日の間にそれを片づけ、外出して用もすませなければならない。
かみさんの客も昨日は帰ったとかで、今日からひとり。近くにある小さなスーパーくらいなら買い物に行けるが、デパ地下まではむり。亭主の足が必要なのである。
というわけで、今回は週明け早々には向こうへ帰ります。
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2009.11.28 年を取ってくるとなにが起こるかわからない。かみさんが怪我をした。
どこやらの寺へ紅葉見物に行き、写真を撮ることにばかり気を取られ、足下がおろそかになっていた。脇の溝に気がつかなかったというから不注意にもほどがある。
タクシーで帰ってきたが、土曜の午後とあって病院はもう休診。あいにく連休のはじまりだったから、火曜日まで診てもらえないのである。
とりあえず家にあった湿布をしてようすを見ることにした。するとだいぶ腫れも引いてきたし、痛みもなくなってきた。どうやら軽くひねったぐらいですんだらしい。これなら医者に行かなくてもいいんじゃないかと、本人も楽観的なことを言いはじめた。
じつは来週、かみさんの友人ふたりが東京から遊びにくる予定になっていたのだ。とにかくこの際一度診てもらったら、ということで近くにある外科医院へ行かせた。引っ越ししてきた日に、わたしが親指を切って世話になった医院である。
なにがひねったくらいだ。レントゲン写真を撮ったら踵だかどこかの骨が折れていた。膝から爪先まで、ギプスをはめられて帰ってきたからおどろいた。
大怪我といったものではないものの、場所が場所だから完治するまで6ヶ月かかるとか。ギプスの取れるのが正月明け。
家事くらいできるが遠出はむり。おかげで以来、食料の買い出しはわたしの役目になってしまった。とんだとばっちりだ。
問題は遊びにくる友人のこと。数日後のことだから、中止にしたら向こうだってがっかりするだろう。タクシーで回るという手もあるし、ふたりで出かけるという手もある。この際来てもらったほうがいいよ、とつよくすすめた。
じつはもうひと本音があって、女性たちが来たらそれを口実に家を明け渡し、わたしはどこかの温泉に籠もろうと考えていたのだ。来客をいちばんよろこんでいたのは、なにを隠そうわたしだったのである。
とにかく話し合った結果、予定通りふたりとも来てくれることになった。中学生のころからつき合っているいちばん気のおけない仲。ボランティア代わりに家事もやってくれるだろうから、わたしだって留守をしても安心なのである。
それにしても年を取ってくると、なにが起こるかほんとうにわからない。今日電話がかかってきたかみさんの友人にその話をすると「えっ、わたしの周辺で骨折した人、これで6人目よ」と言われたそうだ。
お互いに気をつけましょう。
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2009.11.21
京都はただいま秋の観光シーズン真っ盛り。鴨川河畔を歩いていてそれをもっとも実感するのは、沿線に建っているホテルの窓が、夜になるといっせいにあかあかと灯ってしまうことだ。連日満室なのである。
札幌もホテルの多いところだったから、豊平川の河川敷を夜ウォーキングしていると、ホテルの客室稼働率が一目でわかったものだった。だがこれほど全室に明かりが灯ることはなかった。春と秋の京都は極端なホテル不足なのだ。
今週はかみさんのお伴をして、大津の石山寺と三井寺へ出かけてきた。石山寺は30年か40年まえに一度訪れている。ところが電車を降りて寺までかなり歩いたことはおぼえているものの、ほかの記憶はまったくない。
子どものころならいざ知らず、成人になってから訪ねたところなのだ。名前からもわかるように大岩のあることで知られている寺だが、その奇岩を見ても全然思い当たるものがないのだった。
だいたい滋賀県には縁が薄く、これまで訪ねたところというと、安土城址と彦根城くらい。このふたつは見たくてわざわざ出かけたくらいだから、それなりに記憶している。
石山寺は最後までなにも思い出せなかった。このごろ物忘れがひどく、記憶力の低下ぶりはことあるごとに思い知らされているから、今回もその類か。これでは時間と金をかけてどこかへ出かけたってむだ、ということになりそうである。
だいたい寺というのがいけない。日本人は修学旅行でまず社寺見学の洗礼を受けさせられるが、おとなになっても記憶しているものは少ない。だったらどこかの工場とか、流通市場とか、最新のゴミ焼却場などを見せてやったほうがまだおどろきが得られるはずだ。神社仏閣巡りなんかやめようという学校がそろそろ出てきてもいいと思うのだが、教師の頭というのは思い込みでがちがちだからなあ。
残念ながら今回訪ねた両寺とも、紅葉はまだすこし早かった。どっちの寺だったかもうおぼえていないが、境内に楓を2000本だか植えるための寄進を募っていた。
紅葉は観光客が呼べるということにほかならない。昨今はどこの寺でも、この手の観光資源育成のための先行投資を盛んにやっている。紅葉ばかりでなく、桜を増やしたり牡丹園をつくったり、四季を通して観光の目玉になるものをつくりだそうと躍起なのだ。
しかも昨今はインターネットで桜の開花とか紅葉のすすみ具合だとかを、リアルタイムでたしかめることができる。かみさんなどは毎日のようにそれを見て、今日はどこへ行こうかと頭を悩ましている。
一方で入場料の出費がばかにならないらしい。寺の維持費を考えたら、金を稼がないとやっていけないという事情はあるものの、これほどいとも簡単に、観光観光ということばにのせられてしまうのもいかがなものか。境内を埋めつくした人の群れを見に行ってなにがおもしろいのだろう。
石山寺でスダジイの実をすこしばかり拾ってきた。小豆よりは大きいものの大豆よりは小さい実ばかり。ほんとは粒の大きなマテバシイの実を拾いたいのだが、いまのところまだその木を見つけていない。
持って帰った実はフライパンで炒って食った。小さすぎて面倒くさいだけだったが、子どものころの郷愁を食っているのだからそれでもいいのである。
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2009.11.14
このところ何日か大雨が降り、鴨川がめずらしく50センチくらい増水した。わたしの知る範囲では、京都に来てはじめてのことだった。
鴨川で感心するのは、その日こそ水が濁っているものの、翌日になるときれいに澄んでしまうことだ。水源になっている上流の森や山が、いかに安定しているかという証拠だろう。
そのたびに思い出すのが、北海道の河川である。一雨きたらたちまち濁流と化してしまい、1週間たってもきれいにならない。上流のどこかでいつも土木工事をやっているからで、途切れる間がないのだ。北海道の河川くらい、自然とほど遠いものはない。
今日の鴨川は水量こそだいぶ減っていたが、一部の中洲はまだ水浸し状態だった。そこへ鴨類がずいぶん集まってきていた。水に洗い流されて、柔らかい草の根っこなどが出てきたのだろうか。さかんにくちばしを突っこんでいた。
上流では鳶の大群が輪を描いていた。もともと鴨川は鳶の多いところだが、50羽を越える数を一度に見たのはじめてだ。鷺類もふだんよりはるかに多かった。
大雨が降ると餌が増えるということなのか。それとも数日餌にありつけなかったので、飢えて必死になっているだけなのか、ごぞんじだったら教えていただきたいものだ。
朝晩の冷えこみがきびしくなり、本格的な紅葉シーズンがはじまった。河畔を歩いても日々色彩がちがう。おかげで出て行く回数が増えっ放し。家のなかで辛気くさいステップ運動をやっているより、戸外のほうが気持ちいいに決まっているからだ。
ただしこれは、ウォークマンを使いはじめたからでもある。音楽を聞きながらジョギングすることが、これほど楽しいとは思わなかった。まさに目から鱗。こんな快適なことをこれまで知らなかったなんて、ものすごい損をしていたとやっと思い当たったのである。
CDもすでに5枚買った。ほかに道楽もないんだからと、自分に言い訳しながら買っているのは、こういう出費に罪悪感をおぼえているからだろうか。好みの曲さえあれば10枚でも20枚でも買っていただろう。探しているけど見つからなかっただけである。
だいたい自分の聞きたい音楽がどういうジャンルなのか、知らないから説明できないのだ。ジョギングするとき聞くんだと店員に言ったくらいでは、なかなかぴったりなものを見つけてくれない。
あとは、これはと思うものをいちいち試聴してたしかめるほかない。これがけっこう面倒だし、時間を取られる。しかしCDのバーコードを試聴機にかざすだけで曲が聴けるなんて、知らなかったなあ。
好みからいえばヴォーカルやラップなど、声が入るものはすべてだめ。クラシック音楽をアップテンポにしたものが理想なのだが、探してみると案外ないものなのだ。
だいたい京都にはそれほど大きなCD屋がない。こうなったらいっそ東京へ帰ってこようかと、本気で思いはじめている。なにか入れ込みはじめるとよそ見できなくなるタイプなので、ほとぼりが冷めるまでこの状態がつづきそうだ。
ただそうなると、本体の容量を2ギガにしたのがなんとも情けない。すでにいまから、すこしでも空きをつくろうと気に入らない曲を削除しはじめている。
聞きたい曲の出し方や、ジャンル別の分け方も、いまもってわからないままだ。いくらマニュアルを読んでもわからない。ときにはうまくゆくときもあるからよけい腹立たしい。たいていは聞きたい曲が出てくるまで、早送りボタンを延々と押しつづけているのである。
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2009.11.7 いやーおどろいた。11月3日の雪というのは、これまでの記憶をたぐり寄せてもないような気がするのだ。かなり広範囲に降ったみたいだから、各地で話題になったのではないだろうか。
雨も、風も、相当なものだった。
よりによってそんな日に、丹後半島まで出かけていた。せがれが親孝行の押し売りに来たからつき合ったもの。なにも混雑する連休や、天気のわるい日に出かけなくてもいいのだが、本人の休日に合わせるとなると、こういうスケジュールにならざるを得なかったのだ。
寒くなるとわかっていたからそのつもりで出かけたのだが、まだ中途半端だった。このところ23度前後の暖かい日がつづいていたから、いきなり11度になると言われてもぴんとこなかったのである。
手袋とダウンパーカが必要だった、と出かけてから気がついたものの、すべてあとの祭り。標高1000メートルに、はるかに満たない山の頂が白くなっているのを見たときも、すぐには雪だと気がつかなかった。
丹後半島には以前から興味を持っていた。おりを見てゆっくり歩いてみたいと思っていたから、今回はその小手調べ。ざっとひと回りしてきたのである。
歴史に興味があるものには、イメージを刺激してくれる材料に事欠かないところだ。得体の知れない古墳がたくさんあるし、地形もいまではずいぶん変わっている。現在いくつかある湖はみな海の名残り。かつては大陸からやって来る人の玄関口だったところなのである。
それがいまや近畿でも有数の僻地になっている。道路際を悠々と歩いている猿に出っ食わしたし、鹿も2頭、車の前を横切った。かみさんは狸を見かけたというし、熊が出没中という標識も見た。
それだけ自然が残っているということになるだろうか。海岸線には松林があり、人の手が入っていない砂浜もまだ存在していた。家はほとんど今風となってしまったが、壁にスギの羽目板が当たり前に使われているのは、見るからに気持ちがよかった。
人家や町のたたずまいが、昭和30年頃の面影をまだ残しているのである。
1階が舟のガレージになっている伊根の家並みにしても、家そのものはまだ3百数十軒残っている。急激な社会変化から取り残されたことで、奇跡的に保存されてしまったのだ。
もっとも舟そのものは、漁船が大型化したため舟屋へ格納することができなくなってしまい、むかしながらの、舟屋からそのまま漁に出て行く使い方をしている家は、もう5軒しかないそうだ。
帰途は播磨へ回り、これもまえから見たかった竹田城址へ登ってきた。
知る人ぞ知る有名な城址だが、近年は映画『天と地と』をはじめいくつかのロケで使われ、だいぶ知られてきたみたい。
どういうところか。百聞は一見にしかず、写真を1枚お見せしておく。
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2009.10.31
このところ秋らしい好天気がつづいている。一方で朝夕はだいぶ冷えてきたし、日も短くなった。今週は半日かけて夏物と冬物の衣替えをした。
衣替えをするたびにいらない衣類が出てくる。もう着なくなったもの、これからも着そうにないものは、捨てるほかない。去年思いきってまとめて捨てたところ、気分がずいぶんすっきりした。この年になったら、こういう身辺整理はこまめにしておくべきかもしれない。
私生活では、いまや健康おたくになりかけている。ウォーキング用ジョギング用CDをその後も何枚か買ったから、そうなると今度はそれを聞きながら歩きたくなる。とうとうあたらしいウオークマンを買ってしまった。
家電店でためつすがめつして大いに迷った。ほんとはかっこいい ipod が欲しくてたまらなかったのだ。しかしどうあがいても、使いこなせそうにない。
携帯電話だって使いこなせていないのである。非常用として持ち回っているだけ。ふだんはスイッチを切ったまま。使うときだけ入れている始末である。
そういう年寄りだから、ここは分相応に、再生装置にラジオがついている、いちばんシンプルなものにした。クリップを装着すれば、襟やポケットに取りつけられる小型タイプである。
容量が2ギガ、4ギガ、8ギガとあって、これも最低の2ギガにした。そんな大容量など必要ないと思ったからだが、これが大失敗だった。
2ギガでも500曲入るというから、それだけあれば十分だと思ったのだ。早速家に帰ってあれこれ入れてみたところ、CD10枚くらいであっという間に半分になってしまった。
唖然。恥ずかしながら、500曲をCD500枚と勘違いしていたのである。
こんなことだったら、せめて4ギガにしておくべきだった。たった2000円しかちがわないのに、貧乏根性の情けない性、ついついそれを惜しんでしまったのだ。
でその夜から、というよりもじつは昨夜から使いはじめたのだが、これまたなかなかうまくいかなかった。同じ曲ばかり何回も出てきて、すこしも先へすすんでくれないのだ。
曲の出し方にもいろいろあるみたいなのだが、マニュアルをろくに読んでいなかった。それにいまがどういう再生になっているかは、窓に記号で表示されているのだが、小さすぎて判別できないのである。
帰ってから必死になってマニュアルを読んだ。すると7通りもの再生方法があるとわかった。ところがそれの、どこがどうちがうのかが、よくわからない。とにかく必要な記号だけをおぼえ、これからはそれを出すしかないということである。
しかし夜の鴨川河畔を、音楽に合わせて歩いたり走ったりするのは、なかなか楽しいものだ。いままでそういう楽しみを知らなかったというのが、そもそも情けないことかもしれないが。
これからはCD屋をのぞく楽しみもできた。
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2009.10.24
桂離宮へ行ってきた。
御所のなかに宮内庁の窓口があって、そこまで行って申し込めば許可がもらえる、と今回はじめて知ったからだった。
近くまで出かけていたかみさんが早速申し込みをし、その場で日にちまで決めてきた。
ただしこれから紅葉シーズンとあって、10月21日から12月中旬までは満員。20日以前しか空きがなかったのだった。
桂方面にはふだん足を運ぶことがないから、電車で行って、あとは歩いた。そのため離宮の外側をぐるっと大回りしてしまったが、おかげで桂垣という、自然の竹を折りまげてそのまま垣根にした珍しい塀に沿って歩くことができた。
見学は20数名単位で引率され、宮内庁職員と思われる係官の説明を聞きながら、離宮内の苑路を一周するだけ。古書院のなかには一歩も入れず、外から見るだけである。
時間にして1時間あまり。後から皇宮警察の私服警官がついてくるから、立ち止まることもままならず、そういう意味では少々窮屈な見学となる。
離宮そのものは、これまでハイビジョンで放映されたものを見ていたから、とくに新しく得られた知識はなかった。
風雅の極みとはいえ、建物そのものは意外に簡素である。しかも夏の離宮。住むことは当初から考えていないわけで、冬はさぞさぞ寒いだろうといったくだらない感想しか持てなかった。
建設以来400年間変わらずその姿を留めていることは感銘ものだが、樹木が茂りすぎているのは気になった。つくったころは借景にしていたはずの嵐山や比叡山が、いまではどこにも見えなくなっているのだ。
そのころの庭師が生きていたらどうしただろうかと考えると、離宮そのものがいまや観光用の見世物と化してしまい、離宮としては生きていないことに気がつく。
前世から受け継いできた財産を後世に伝えて行くことが現代の使命だろうから、こういう変質くらいはやむを得ないことかもしれない。
残念ながら紅葉にはやはり早かった。
メールプラザで『行きずりの街』の映画化を取りあげてくださったが、じつは全然知らなかったのだ。
今週わたしの友人が同様の知らせを友人間にばらまいたらしく、お祝いのメールが来たからはじめて知ったような始末。それでも半信半疑。「なんのこっちゃ?」というメールを返信したくらいだった。
むろん作者が許可を出したから映画化されたわけで、そのこと自体は百も承知だった。面倒くさいから、あとはすべて出版社にまかせていたのである。
これまで3回シナリオの改稿が行われ、そのつど作者の意見を求められたから、感想を述べたことはある。しかし以後はそれっきりだったから、すっかり忘れていた。
というよりはじめから当てにしていなかった。これまでにも何回か、同じようなことがあったからだ。
監督や配役まで具体的に決まっていながら、それっきり立ち消えというのが映画化話の常で、これくらい当てにならない話もないのである。
だから今回もてっきりそれだろうと思っていた。ところがどうやらほんとうに進行していたらしい。「へー、やっていたんだ」というのが、偽らざる感想なのである。
だが10月にクランクアップするものが、公開は1年先、というのはやはり怪しい。ほんとにできてしまうまでは信用できない、と作者はいまでも疑っております。
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2009.10.17
京都へ来てデスクトップを使わなくなった。邪魔になるからデスクごと居間に遠ざけ、かみさん専用のパソコンにして、好きなように使わせている。
かみさんもはじめはメールをやる程度だった。それがいまではだいぶ慣れ、インターネットで行事や催し物などを調べて出かけられるようになった。
だがメールひとつ打つにも時間がかかる。キーを見ながらぽつんぽつんと打っているからだ。もうすこし楽に打ちたいというから、タイピングのフリーソフトをダウンロードしてやった。
なかなかよくできたソフトで、指を置く位置からはじめさせられる。
まず中央の列だけを打ち、それから上、下へと指の範囲を広げてゆく。どれくらいできるようになったかは、合格点が設けられているから、それで自分のレベルは判別できる。
はじめのうちはできない、できないと言って、ぼやいていた。だからどれ、貸してみろと身を乗りだし、模範タイピングなるものをやって見せてやった。
ところがわたしもできなかったのである。合格点レベルにほど遠かったのだ。それではじめてわかったことは、自分のタッチタイピングなるものが、いかに我流の、めちゃくちゃなものでしかなかったか、ということだった。
とくに練習をしたわけではない。見よう見まね、ただがむしゃらにやって、キーを見なくても打てるようになっていただけ。指の置き方もくそもあるか、で押し通してきたのだ。
だからすこし慣れてくると、合格点は簡単に取れるようになった。しかしやたらとミスが多い。正答率が8割を切るときさえある。つまり10回のうち2回は打ちまちがえているということだ。
これはふだんから自分でも痛感していて、仕事をするたびにいらいらしていた。とくに疲れてくると、1語ごとにまちがえてしまうくらい、精度が落ちる。
要は下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるにすぎなかったのである。ミスってもミスってすぐ打ち直すから、なんとか結果が残せていたということ。そういう自分の欠点を、今回はからずも認識させられたのだった。
そこでいたく反省。遅くてもよいから、正確な打ち方をしよう、ということへ心構えを変えた。自分のモバイルパソコンにも同じソフトを入れ、毎日何分間か何回か、練習することにしたのである。
まだ合格点が取れるレベルには達していない。しかしそういうことには惑わされず、正確なタッチタイプを心がけ、とにかくミスが少なくなるよう目標を変えたのだ。
おどろいたことにたった2週間で、目に見えて効果があらわれた。ミスタッチが大幅に減り、そこからくる苛立ちやストレスが嘘みたいに少なくなったのである。いったい、いままでなにをしていたのだ、といいたくなるほどの激変だ。
考えてみるとわたしという生きものは、基礎というものがまったくできていない人間だった。なにもかも我流。それをがむしゃらに押し通してきて、なんとかかたちにしているだけ。地味な繰り返しばかりさせられる基礎練習は、子どものころから大嫌いだったのである。
70をだいぶすぎてそれがわかるというのも情けないが、問題はこれからよ。気づいただけでもよしとしよう。ということで、今週は基礎がいかに大事か、というお話になりました。
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2009.10.10
台風一過、急に涼しくなった。先週までクーラーをつけて仕事していたのが嘘みたいだ。とくに朝夕は冷えこんできて、昨日からは家のなかでも長袖シャツを着はじめた。
今週あたらしいウォーキングシューズを買った。いままでの靴は北海道へ行った直後に買ったものだから、かれこれ10年履いたことになる。雪道以外はどこでも使えたし、履き心地もよかったから気に入っていたのだが、さすがによれよれになっていた。
東山で転落したとき履いていた靴である。そのときは脱げてどこに行ったかわからなくなっていたが、レスキュー隊員が見つけてくれたおかげで、まだお役に立っていた。
しかしぶかぶかになっていたから、すぐ石ころがなかにはいる。靴べらなしでサンダルみたいに履けるのは便利だが、街歩き用にはいささかみすぼらしくなっていた。そろそろ買い換えどきだったのである。
買ったのはふつうのウォーキングシューズ。それも第2か第3候補。気に入ったものが何種かあったのだが、あいにくサイズがなかったのだ。24か24半という足なので、そこまでサイズをそろえてくれているメーカーはなかなかないのである。
女性ものもいくつか試してみたが、足のしっくり感がいまひとつだったから見送った。とはいえ買ったのは25サイズ。ふつうなら大きすぎるのだが、幅が狭くて足全体をしっかり包んでくれるから、それほど大きい感じはしない。履き慣れてきたときどれくらいゆるんでくるか、それがちょっと気がかりだが。
早速その晩スロージョギングをやってみた。すると右の膝に微妙な痛みが走った。歩いたときは感じない違和感なのだ。それで軽めに切り上げた。
戸外を走ったのは久しぶりだったが、走るのと、歩くのと、踏み台を上がり下りするのとでは、それぞれ使っている筋肉のちがうことがよくわかった。疲れ方がちがうのだ。できたら今後は、この3つを組み合わせてやろうと思っている。
さらに昨日はCD屋に行き、ウォーキングミュージックなるものを買ってきた。音楽そのものはなんでこれがウォーキングなの、といいたくなるような代物だったが、ビートが刻んであるから使いやすいことはたしかである。
恥ずかしながら、包装してあるCDを、再生装置にかざすだけで数分間視聴できるなんて知らなかった。店員に「エクササイズをやるときの音楽みたいなものはありますか」と尋ねるだけでも恥ずかしかったのだ。
今日この音楽を再生しながら、早速40分ステップをやってみた。ところがそうなると、今度はこれを聞きながら外を歩きたくなる。ソニーのウォークマンなら持っているが、持ち運ぶのはちょっと邪魔になる大きさだ。
なんというのか知らないが、アップルのちっちゃなやつが急に欲しくなった。といって、どうやって使ったらいいか、まったく知らないのである。今度電気屋に行ったら、勇を鼓して聞いてみることにしよう。
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2009.10.3
昨日から雨が降りつづいている。京都にしては珍しいお天気で、やっと気温が下がって秋らしい気配が漂いはじめた。
先週遊びすぎたので、今週はどこへも行かず、家にこもって仕事をしていた。河原町へ2回買い物に出かけたきりである。
とはいえ気持は出歩きたくてたまらない。それで外へ出ない日は、このまえ買い求めた踏み台に遊んでもらっていた。上がったり下りたりのスローステップを1回10分。これをそのときの気分次第で3回から5回やっている。
かれこれ3週間。その成果が出てきたか、からだがだいぶ軽くなってきた。はじめのころはドシンドシンという音をたてていたのに、いまではほとんどたてなくなっているのだ。
ところが使用感のほうは、危惧した通り、だんだん不満が大きくなってきた。
台が安っぽすぎて、快適さに欠けるのである。たっぷり汗をかいた割に、終わったあとの充足感というものがない。
添付されている音楽もチープ。なんという器具の音か知らないが、インターネットからダウンロードしたと思われる童謡が10曲入っているだけ。これを繰り返し何十回も聞いているわけだから、いい加減うんざりしてくるのである。
ジムのスタジオで使われている音楽、とまでは要求しないが、やっていることは単純な反復運動だから、それに近いレベルのものが欲しいのだ。
いちばん手っ取り早いのは、CD屋に行って適当なものを買ってくることだろうが、音楽に関してはまるっきりの門外漢。CD屋には行ったことがないから、どうやって探したらよいかわからない。音楽を買ったことは、50年まえのレコード時代以来ないのだ。
とりあえずインターネットからなにかダウンロードしようと思ったが、これまたどこから引っぱってきたらよいのか、その窓口がわからなかった。あれこれやって自分で探し当てた音楽は、理想にはほど遠いものばかりだった。
今日は1日そんなことばかりやっていた。おかげで仕事になんかなるもんか。業を煮やして、最後はかみさんからメトロノームを借りてきた。カッチカッチという単純きわまりないリズムで運動しているほうが、まだしも精神衛生にはよいのだった。
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