Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

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2009.6.27
 水曜日に日帰りで高知へ帰っていた。

 叔母が亡くなったからである。母と苦楽をともにしてきたすぐ下の妹だった。わたしも物心両面であり余る思い出をもらった。
 叔母は乳飲み子と3歳の女の子を連れ、戦後身ひとつで満州から引き揚げてきた。叔父はそのときシベリアに抑留されていた。ふたりの歩いてきた道は、まさに戦後日本がたどってきた道程でもあったのだ。

 先に叔父が逝き、今度その叔母が逝った。ひとつの時代が終わったのを痛切に感じる。
 享年87。一昨年会ったのが最後になった。
 せめてひと晩くらい、そばにいて伽をしてあげたかった。それができなかったのである。知らせをもらったのが午後で、今夜がお通夜だといわれても、それからでは駆けつけようがなかったのだ。

 おどろいたことに、大阪と高知を結ぶ航空便が、急場の用をなさないほど減っていた。1日わずか6便しかない。
 それもほとんどは、胴体着陸で有名になったボンバルディア機である。乗客70数人の中型機だから、1日合わせても500人くらいの輸送力しかないことになる。
 これでは切符が取れないわけだ。このときも翌朝の始発便こそ取れたが、帰りの便は手の施しようがなかった。
 あいにく仕事に追われていた。ゲラ読みが終わっていなかったし、木曜日には約束がふたつあって、時間のやりくりがつかなかった。結局日帰りになってしまったのである。

 それにしても、高知というところは、空路だけは潤沢だと思っていた。
 四国四県のなかでいちばんの僻地だから、本州へ行くときもいちばん時間がかかる。貧乏県なのに割高な航空機を使うほかなく、おかげでかつての高知空路は航空会社のドル箱路線と言われていた。
 それがいまや高速道路も連絡橋もでき、自分の車で出かけられるようになった。格安な選択肢がいくつもできた。
 今回の葬儀にも東京の妹は夜行バスで、名古屋の弟は車で帰ってきた。高知のきょうだいが関西へ来るときは、いつも1台の車に乗り合わせて来る。

 社会構造が変わってしまったのである。
 わたし自身伊丹から乗ったのは何年ぶりか。久しぶりの高知空港は、おどろくほど閑散としていた。朝早くだったからではなく、土産物屋や食堂街が大幅に縮小され、見る影もなくなっていたのだ。寂れた地方の空港に逆戻りしてしまったのだった。

 帰りは5時間かけてJRに乗った。ゲラを読みたかったからそれでもいいと思っていたところ、これが大失敗。土讃線の特急は、カーブの多い路線でもスピードが出せるよう、振り子特急という特殊車両を使っている。
 揺れが大きいのだ。ゲラを読んでいたら、1時間もしないうちに気分がわるくなってしまった。以後げんなり。結局仕事はできずじまいだった。
 こんなことなら宿を取るべきだった。翌朝の始発便にすれば、昼前には帰ってくることができた。いつものことながら、あとにならないと気がつかない。

 いくつかの条件が重なるときはとくにそうだ。頭がパニックを起こし、当たり前の思考ができなくなってしまうのである。


2009.6.20
 今週もゲラが出た。早いもので『青に候』が出てもう3年になるのだ。この秋、文庫にしてくれるというのである。

 おかげで2週つづけてゲラを読む羽目になった。さすがにげっそりする。『ラストラン』のときは古いものだからあえて手を入れなかったが、最近のものになるとそうはいかない。いまの自分を世に問うているわけだから、機会があるかぎり手は入れるべきだろう。疲れるわけである。
 ということで、週半ばまで手をつける気になれなかった。やっと読みはじめたところ、今度は頭を抱えたくなる問題が山ほど出てきた。

 ことばの問題である。
 作中に出てくる単語がいつごろから使われているか。時代小説だから、明治以降にできた近代語は使いたくない。その使い分けに、いつも悩んでいるのである。
 あることばが日本語のなかではじめて登場してくるのはいつか。その初出が調べられる辞典はいまのところひとつしかない。小学館の『日本国語大辞典』である。全13巻もある大辞典だ。
 小生は小学館の本をあまり信用していないのだが、この辞典を出してくれたというだけで、無限に許せると思っている。物書きにとって、というより日本文化にとって、それくらい画期的なありがたい本なのだ。

 『青に候』を書くとき、徹底的にこの本のお世話になった。といっても13巻もある分厚い辞典をいちいち引くわけにいかないから、利用したのは全3巻の精選版のほうである。
 これを手許に置き、これはと思うことばが出てくるたび、その初出を調べた。したがってこの作品の執筆には、ストーリーを書く以上の手間がことばの初出調べに費やされている。

 分厚くて重い辞典を出したり入れたりするのはたいへんな肉体労働だった。その手間をすこしでも省こうと、あれこれ試行錯誤した末単語帳をつくった。
 ことばの身元をひとつ調べるたび、これは使える、これは使えないと、専用ノートに発音順に書きだしたのだ。一種の早見表というか、虎の巻である。
 主要な単語はそのうち覚えてしまうつもりだった。ペンで原稿を書いていたころは、漢字の97、8パーセントまで辞書を使わずに書けていたからだ。おそらく本を三冊も書き終えたころには、マスターしているだろうという自信があった。

 ところが昨年、この精選版大辞典がカシオの電子辞書に入ったのだ。時代小説を書くものにとってこれほどうれしい朗報はなかった。出先だろうが旅先だろうが、大辞典を鞄に入れて持ち歩けるようになったのだ。
 ただし電子辞書を使いはじめた途端、それまで覚えていたことばはたちまち忘れた。苦労してつくった単語帳も以後出る幕なし。デジタルの前にアナログは歯が立たなかったのだった。

 それはそうと、今回3年ぶりに読み返しておどろいたのは、あれほど厳密に調べたつもりが穴だらけだったことだ。翻訳語をはじめ明治以降につくりだされた近代語が、田圃のなかのオタマジャクシみたいにうじゃうじゃ残っていた。
 むずかしいことばよりふだん何気なく使い、それなしでは文章が成りたたなくなる基本語に、見逃しが多かった。調べてみようという気を起こさせないほど、文章の中に深く入りこんでいたということだ。
 近代語を見つけた場合、できるだけ江戸時代に使われていたことばで言い換えようとしている。しかしそれができないことも少なくない。適当な言い換え語がないときだ。

 例えば今回も、一言でいえば「敵視」「反感」「反発」「敵愾心」「敵意」といったことばで表現できるところを、適当な言い換え語がないため苦労した章がある。これら「」内のことばはみな近代語なのである。
 基本語ほど言い換え語が少ないといって過言ではない。「必要」「原因」「理由」「結果」「表情」「複雑」「要求」「関心」などその代表。個々の品物を「表現」することばはあっても、それら全体をあらわす「商品」という語は明治になるまで生まれていないのだ。

 どうしても言い換えができないときは、仕方ないから目をつぶってそのまま使っている。今回も気のついたかぎり直しているが、見落としは少なくないと思う。気がついても見逃してもらうほかないのである。


2009.6.13
 今週は糖尿病の定期検診に行ってきた。ところが予想以上に悪い数値が出て、ちとあわてている。

 この1ヶ月あまり、かみさんと離れ離れだったのをよいことに、食いたいものを食っていた。報いはてきめん、体重が増えてきたから、まずいぞと警戒はしていたのだ。
 だが先週かみさんが京都へもどり、正しい食生活に引きもどしてくれたから、なんとかなるんじゃないかと期待していた。そう甘くはなかったのだった。

 この1年、穏当な数値を維持していたからそれなりに信用され、2ヶ月に1回の定期検診でよいでしょうということになっていた。今回がそれを台無しにした。当分1ヶ月毎にもどしましょうと言われてしまったのだ。
 今度悪かったら、おそらく薬を飲めと言われるだろう。それだけは避けたいから、ここは心を入れ替えて、鋭意節制節食に努めるつもりだ。

 とりあえず果物の摂取をやめることにした。むかしから果物に目がなく、毎日なにか食わずにいられなかったのだが、しばらくゼロにするつもりだ。
 そんなにむずかしくはないだろう。というのも、すでに食う量や頻度が大幅に減っているからだ。理由は簡単。以前ほど食いたくなくなってしまったのだ。
 昨今の果物が、あまりに甘すぎるからである。まるで砂糖水を食わされているみたいな甘い果物ばかりで、風味も爽やかな酸味もあったものではない。
 食う方つくる方がそういう果物をよしとして、日本中がさらに糖度を高めようと血眼になっている。そういう果物に嫌気がさしてしまったのだ。
 例えば今年は、メロンや葡萄を1回も買っていない。食う気を起こさせる果物ではなくなったからだ。

 食生活はかみさんにまかせるとして、残るのは運動だ。残念ながら膝が痛くて、まだ出歩く気にならない。こっちはもうすこし時間がかかるだろう。

 今週はゲラが出て、その手入れと校正にかかりきりになっていた。昨年4回に分けて小説新潮に連載した、3作目の時代小説だ。怪我をしていなかったら、とっくにできあがっていたはずの本である。
 刊行は8月。小生初のシリーズものとして、今後もときどき雑誌に書き継いでゆくつもりだ。

 一方新しい書き下ろしも、ようやく構想が固まって、今週から書きはじめた。
 この年になって、うんうん呻りながら、なにかひねり出すのはただただ苦しいのだが、これも自分が選んだ道、とにかく走るしかないでしょう。


2009.6.6
腕の定期検診に行ったらもう来なくてよいと言われた。

 完治したわけではない。医者としてはこれ以上することがないから、あとは自分で直せということだった。かなり不服。一方的に三行半を突きつけられたようなもので、ぶすっとしながら帰ってきた。

 実際はだいぶ以前から、レントゲン写真の結果を見ることと、手首の曲がり具合を分度器のようなもので測る以外なにもしてくれなくなっていた。
 しかしそんなことはどうでもよかった。女医さんに会えるのが楽しみで行っていたのだ。それができなくなる。考えてみると事故後7ヶ月になろうとしている。女医依存症になっていたみたいなのだ。

 現状はようやく拳が握れるようになったところで、それもまだ痛みを伴っている。握力が今回の測定で13。前回が8だったから、いくらも回復していない。
 膝の痛みはすこしも取れず、歩くとびっこを引いてしまう。
 さる人とその件で話していた。スクワットがやれるくらいまで回復していたというと「ひょっとするとスクワットのやりすぎじゃないですか」。

 下手なスクワットは膝を痛める、というのだ。ぎょっとした、なんてものじゃない。はたと思い当たってしまったのだ。なぜこんなに痛いんだろうという疑問が、一瞬にして氷解したのだった。
 例によって調子に乗り、やりすぎてしまったのだ。そういえばしゃがむたびに、膝頭がぴりぴりしていた。それを「おっ、効いてる効いてる」とよろこんでいたのだからおめでたいにもほどがある。

 今週はパソコンのお助けマンに来てもらった。執筆用に使っているモバイルの起動が、あまりにも遅くなってきたからだ。
 とくに思い当たることはないのだが、便利だと思って入れたソフトが役に立たなかったり、思いつきでダウンロードしたゲームがごみになったりで、それらが積もり積もって消化不良を起こしていた。
 スイッチオンから使えるようになるまで、6分もかかるのだからいらいらする。デフラグをかけたくらいではなんの効果もなかった。こうなったら専門家の助けを借りるしかないのである。

 不要になったソフト類をひとつずつつぶしていったから思いのほか時間がかかった。しかしおかげでもとのようにすいすい動きはじめた。起動時間も半分になった。
 昨年買った13インチのノートパソコンは持ち腐れになっている。膝に載せて使うには重すぎるうえ、キーピッチが19ミリとわたしの指には大きすぎるのだ。それだけ手をよけいに動かさなければならないわけで、肩が凝るくらい使い勝手が悪い。
 モバイルの17ミリキーに慣れすぎたせいもあるが、とにかくこれで、19ミリキーにはもどれないことがはっきりした。

 今後は13型を保存用に、モバイルを執筆用にと、完全に使い分けるつもりだ。モバイルはXPだが、メールとインターネットくらいなら支障がないから、とにかくつまらんソフトに誘惑されないこと。求められているのは自分の節操だった。


2009.5.30
 今週はビッグニュースがあった。5人目の孫が生まれたのだ。なんとわが家で初めての、女の子だったのである。

 子どもが3人、孫が4人、子宝には恵まれたほうだが、なぜか全部男子だった。がっかりした、というと子や孫にわるいから、これまで性別についてはあえて公言しないようにしてきた。わが家の泣きどころだったのである。
 いまでは今後とも女の子に縁がないだろうと、あきらめにも似た達観の境地に達していたのだ。
 今回もどちらが生まれてくるかはわからなかった。こちらとしては、また男の子が生まれてきても失望しないようにしよう、と自分に言い聞かせていたのである。
 だがかみさんは数日まえ「今度は女の子が生まれてくるような気がする」と友だちと電話で話したところだったとか。先週東京へ帰ったのは、じつはその手伝いに行ったのだった。

 一方わたしも、今度は女の子じゃないだろうか、という気がなんとなくしていた。とにかく図星だったわけで、知らせをもらったときは素直にうれしかった。
 まだ実物にお目にかかっていないから実感はわかないものの、それでもいまから、孫娘を連れて歩いている自分の姿がなんとなく目に浮かぶのである。

 じいさんとしては、よけいな口出しはしないつもりだが、今夜せがれが名前の候補をいくつか書きだしてFAXで送ってきた。一目見るなり「だめー!」というメールを送りつけてしまった。もっと創造力と想像力を働かせんかいと、新人作家いびりみたいなことを言って、いざとなるとけっこううるさいのである。
 おかげで今週も仕事にならなかった。

 体調面では鼻炎がやっと治まったところ。5月の下旬までかかったわけで、こんなに長引いたのははじめてだ。スギ以外のアレルギーまでかかえ込んだのではないかと、落ちついたら調べてもらおうと思っている。
 インフルエンザの余波もあり、外出もひかえた。めしはほとんど自炊。面倒くさいからつくり置きして、それを2日も3日も食っていた。

 それでつまらん失敗をした。すき焼きをつくったのだが、最後に味をととのえようとして、砂糖と塩をまちがえたのだ。食えたものではない塩辛いすき焼きになってしまった。
 そういえば義母が同じような失敗をしたことがある。どういう状況だったか細部までは思い出せないが、塩と砂糖をまちがえて料理を台無しにしてしまった。
 そのときの義母が、気の毒になるくらいしよげこんでしまったのを、はからずも思い出した。あれは義母の最晩年のことだった。


2009.5.23
 とうとうインフルエンザがやってきた。

 高齢者は免疫があるとかで患者は出ていないらしいのだが、糖尿病は例外なんだそうだ。免疫力が低いから要注意とのこと。この年になって手洗いやうがいの励行など、小学生みたいなことをやらされるとは思いもしなかった。

 かみさんも持病のせいで免疫力は最弱のひとり。それで、ほんとは用があったからなのだが、この際東京へ疎開させることにして、先日多摩へ帰したところだった。
 ところが帰り着いた途端、八王子で患者が発生した。これから東京を中心に感染者が拡大しそうだから、こっちも要注意である。

 おかげで街はすっかりがらがらだ。今日の夕方、食料の買い出しで河原町へ出かけたとき、鴨川河畔を通ったら人がまったくいなかった。
 デパートのなかも閑散としていた。鮮魚売り場で夕方の割引がはじまっていたが、人そのものが少ない。大量の売れ残りが出ることはまちがいなく、あれをどう処分するんだろうと、そっちのほうが気になった。

 一方でからだの具合は依然よくない。手はだいぶ回復してきたが、足が痛くて、歩くだけで膝がずきずきする。
 どうやら膝の関節を傷めたみたいなのだ。半年以上使わなかったからすっかり錆びついてしまい、正座するリハビリをはじめていたところだった。それがいきなり中腰の労働などしたものだから、一気に悪化させたらしい。数ヶ月まえの状態にもどってしまった。

 それと、いまだに変わらないのが鼻。くしゃみと鼻水が止まらないのである。ここまでくると、もう花粉症とはいえないだろう。鼻炎か、その系統のアレルギーしか考えられない。子どものときから鼻は悪かったのだ。
 さすがに今回ばかりは真剣に考えた。そしてこの上は、抗体をすこしずつ体内に植えこんでゆき、からだそのものの免疫力を高める減感作療法を受けるしかないだろう、という結論に達したのだった。
 治療には数年かかるというから、やるとしたら通院に便利ないましかない。というのでとうとう腹をくくり、歩いて10分のところにある耳鼻科をたずねた。
 とりあえず現在の症状の軽減措置をしてもらい、薬をもらった。そして減感作療法の相談に入ったのだが、この療法をしたとしても、必ずしも完治するとは限らないと言われたのはショックだった。症状が軽くなることはまちがいないとしても、完治のほうは、治ることもあるという程度らしいのだ。

 それではじめのうちは週1回か2回。その後も月に1回の通院を、2年か3年つづけなければならないとしたら、果たしてそれだけの値打ちがあるだろうか。
 そんなことなら多少の副作用や弊害はあるとしても、年に1回の注射ですませる方法があるなら、そっちを選択したほうがまだ合理的ではないか、という考えが成り立つのである。
 現に京都市内には、その注射をしてくれるというので大評判になっている医院があるのだ。毎年花粉シーズンには、全国からの患者が連日数百人も押しかけてくるという。

 正体はステロイド注射らしいのだが、尻に1本注射を打ってもらうだけで、その年の花粉症が見ちがえるほど軽くなるとか。ただし治療効果はなく、症状を軽減するだけだから、毎年しなければならない。
 とはいえ年に1回の注射ですむなら、多少の副作用だろうが弊害だろうが、まだ我慢できるのではないだろうか。じつをいうと糖尿病は、危険度が高いからこの注射はおすすめできない、という病気のひとつなのだ。
 しかし70をすぎたら元は取ったことになる。これから先はすべて余録。ここらで多少寿命を縮めるようなことをしたとしても、年に1回ですむなら、そっちのほうがはるかにましではないか、と思うのである。
 それでもわたしだったら100まで生きるかもしれない。このままなにもしなかったら、マジに130くらいまで生きるんじゃないかと思っているのだ。
 厚かましくてすみませんね。

 とりあえず減感作療法は見合わせることにした。


2009.5.16
 手と足がひどいことになって、ほうほうの体で京都へ帰ってきた。

 帰ってくる3日前に、庭の草引きをしたのだ。中腰になって、2時間ばかり庭を這い回ったのがいけなかった。膝の具合がすっかりわるくなってしまったのである。

 毎年春もたけなわになってくると、わが家の裏庭には笹が芽を出してくる。庭はともかく、その外に幅1メートルくらいの通路があって、この通路が難物なのだ。
 余人の通らないところだし、フェンスの外側は線路の土手になっているため、笹と、もうすこしたったら葛が猛烈な勢いで蔓をのばしてくるのだ。
 出てきた芽を鋏で切り取るのは簡単だが、それではすぐ息を吹き返してしまう。すこしでも遅らせようと思ったら、できるだけ土を掘り、根を断ち切るしかないのだ。
 この作業にはいつも園芸用の小鍬を使っている。ところがいまは右手が使えない。それで鏝で代用したのだ。当然効率がわるい。何回も何回も振るわないと、根を切ることができなかったのだ。

 作業しているときはそれほどに思わなかったが、終わってみたらえらいことになっていた。膝が痛い。手首が痛い。その痛さも時間がたつほど増してきて、夜になったときは階段の上り下りさえままならなくなっていた。
 翌日は歩けないありさま。手首にも、これまでおぼえたことのない痛みが走りはじめた。油断したわけではないが、オーバーワークだったことはまちがいない。

 あと10日もすると、かみさんが東京へ帰ることになっている。だから放っておいてもよかったのだが、草引きは一応自分の仕事にしていたから、それまで押しつけたらわるいと思ったのである。
 それにこのまえ帰ってきたときも、草引きはやっている。春先だったから草もやわらかく、それほど力仕事ではなかった。笹もまだ出ていなかった。
 それが5月すぎになってみると、雑草もすっかりたくましく、ふてぶてしくなっていた。3月とは比べものにならない重労働を強いられたのである。

 おかげで帰ってはきたが、外出できない状態がつづいている。今日で5日になるが、この間本屋へ1回行ったきり。階段の上がり下りが不自由で、とくに下りは、からだを斜めにしないと足が踏み出せない。
 それと鼻水とくしゃみが、いまだに止まらないのはどうしたことか。スギ花粉の飛散は終わったはずなのに、鼻がひりひりするほど鼻をかんでいる。鼻炎の薬もまた飲んでみたが、それとは関係がないみたいなのだ。

 病気の話ばかりして申し訳ないのだが、ほかに書くことがないのだ。本人がいちばん腹立たしいのである。


2009.5.9
 いや、じつによく降った。この4日間休みなく降りっぱなしだ。おかげで外へ出る気になれず、引き籠もって冷凍食品で食いつないでいた。

 5日と6日は房総へ取材に行くつもりだった。地図と資料をそろえ、下準備に数日を費やしたのだが、この天気ではどうにもならない。今回は延期することができないので、取り止めということにした。
 なにも連休のさなかに動くことはないのだが、現在の小生の腕では、車の運転が不安だ。それでせがれを運転手に雇っていた。ところが向こうは勤め人。そのスケジュールに合わせると、どうしても休みの日、ということになってしまうのだった。

 幕末の陣屋や砲台跡を見て歩きたいので、はじめは独りで、バイクにしようかとも考えた。だが問題はやはりこの腕。ふつうには乗れると思うが、とっさのとき適切な処理ができるか、となると自信がない。ここは日をあらためるのが無難だろう、ということになったのだ。

 手の回復は順調にきている。なんとか拳が握れるようになってきた。握りしめると、4本の指の先が掌までくっつくようになってきたのだ。それに力を得て、いま暇があると、結んで開いてをやっている。ただしまだ痛みを伴う。朝起きたときの手は、いつも腫れあがっている。
 足はほぼ治癒した。とはいえ、坐ることができない。1日に何回か、テレビを見るとき正座する訓練をやっているが、痛くて10分ぐらいしかつづけられない。これもすこしずつ時間を延ばして行くしかないだろう。

 足と腰の回復が最大の目標なので、先月からスロースクワットをはじめた。立ったり中腰になったりをゆっくり繰りかえすだけだが、これがけっこうきつい。
 はじめのうちは、からだの節々が痛くて動かなくなるくらい効いた。このごろは回数を増やさないと物足りなくなってきた。からだの順応性というのはつくづくすごいものだと思う。

 この数日外に出られなかったから、昨日は雨の降りやみを見て、聖蹟桜ヶ丘まで多摩川土手を速歩で歩いた。全部で5〜6キロは歩いたと思うが、平坦地だからそれほどの運動にならなかった。
 桜ヶ丘近くの土手際に、全長200メートルにおよぶニセアカシアの並木があり、これが満開になっていた。札幌でお馴染みだった街路樹だ。ざらざらざらと降ってくる花吹雪を思い出した。

 花粉症もやっと治まってきた。東京に来たときはだいぶ軽くなっていたものの、鼻水とくしゃみは止まらなかった。結局薬を買い足し、4日まで飲んでいた。いまでもティシュペーパーが手放せないくらい鼻はかんでいるが、それでも目に見えて回数は減っている。

 そんなこんなでゴールデンウイークの貴重なフリータイムを、ほとんど無為にすごしてしまった。きりがないからここらで見切りをつけ、来週は京都へ帰ろうと思っている。
 すぐ帰らないのは、庭の草引きだとか、ゴミの処理だとか、しなければならないことが残っているからだ。多分火曜日に生ゴミを出し、それから家を出ることになるだろう。


2009.5.2
 久しぶりに観客で満員の映画を見た。超満員とまではいかなかったが、前から3列目の席しか取れなかったくらいだから、ほぼ満員だったといっていいだろう。しかもその9割までが中高年だった。
 といえば、なにを見たかおわかりだろう。アカデミー賞を8つも取ったという『スラムドッグ$ミリオネア』である。

 ほんとは取材目的で浦賀へ行こうと思っていたのだ。ところが目覚めたのが9時50分で、おまけにそれを6時50分と勘違いしてしまった。デジタル時計のわるいところだ。
 朝めしを食ってさあ出かけようとすると、なんと11時になっている。それではじめて、時間をまちがえていたことに気づいた。
 むろんそれからでも行けなくはない。しかし多摩から三浦半島の先端までだと、片道2時間はかかる。向こうで活動できる時間が3時間ぐらいしかないわけで、これではあまりにもったいない。ということで、日をあらためることにして取りやめたのだ。

 しかしせっかく着替えたのに、このまま家にいるのも気が利かない。映画でも見に行こうと思って調べて、この映画を見つけたのである。というよりゴールデンウイークだからガキっぽい映画ばかりで、ほかに見るものがなかったのだ。
 アカデミー賞に輝いた映画というのは、だいたい見たことがない。商売優先の賞だからあざとい映画が多く、わたしの好みではないからだ。クイズミリオネアということばからして胡散臭く、日本のテレビでやったときも一度も見なかった。

 したがって予備知識はほとんどなかった。舞台がインドのスラムで、無学で貧しい青年がクイズに挑戦して億万長者になるハッピーエンドの物語、という程度の知識があったくらい。そんなストーリーで果たして面白い映画ができるのかなあと、半分腰が引けながら、ほかに代わる映画がなかったから見たのである。

 で、どうだったかというと、これがビンゴ! 予想していた以上に面白くて、近来にない拾いものだった。記憶に残る名画といったものではないが、楽しませてくれることはまちがいない映画だと思う。
 とくに圧倒されるのが前半のムンバイ時代だ。すさまじいスラムと悲惨な暮らしがこれでもかこれでもかと出てくるのだが、スピーディな展開と子どもらの闊達な表情や動きがなんとも快適で、自分の感覚のほうが引きずられっ放しだった。

 当たり前のことかもしれないが、ハリウッド映画なのにインド映画なのである。インドの風土やインド人の持つ突き抜けた明るさが、ハリウッド臭を食ってしまったのだ。
 インド映画をそれほど多く見ているわけではないが、大好きなのである。ストーリーはどうでもいいミュージカル映画みたいなものなど、いつ見ても底抜けに楽しい。ボリウッドダンス(ムンバイの旧名ボンベイとハリウッドを掛け合わせたことばらしい)くらい、見るものを仕合わせな気分にしてくれるものはないと思うのだ。

 この映画も最後に出演者総出のダンスシーンがあり、これが拍手したくなるほど楽しい。最後になってこれほど表情がゆるんでしまった映画も久しぶりだった。
 あえて理屈をこじつけると、これがインドの特質なのではないかと思う。インド文明には、中国文明みたいな陰惨なものが裏に張りついていないのだ。中国以上の落差や矛盾をかかえているにしては、そういうものを突き抜けた明るさが本質をなしているのである。
 その端的な例が死だ。人間の死が、インドほどあっけらかんとしているところはほかにない。これはほかの文明のけっして真似できないところで、それだけでもインドはもうすこし考慮してみるにふさわしい国だと思うのだが、行くと必ず下痢をするというのに怖じ気づいて、とうとう行かないまま終わってしまいそうだ。いまになって残念でたまらない。

 浦賀には1日遅れで行ってきた。この界隈を歩いたのは30年ぶり。それについてはまたなにか書く機会があるだろう。


2009.4.25
 取材で長崎へ出かけていた。そのあと東京へもどってきたところで、ゴールデンウイークまでいる予定。しばらく東京でおとなしく仕事していようと思っている。

 それにしても春の短いこと。数日旅行している間に、季節がたちまち夏になった。
 旅立つとき着て出たものが、途中で着られなくなってしまうことくらい腹立たしいものはない。ジャンパー、シャツ、アンダーウエアまでふくめ、長袖がいらなくなったばかりか、お荷物になってしまったのだ。東京では着るものがないのである。

 長崎へは一度行ったことがあるものの、本格的に歩いたのは今回が初めてだった。これが思っていたよりはるかに刺激的で、面白かった。
 おかげでからだの調子までよくなった。石段や急坂を上がったり下りたりしている間に、体力までもどってきたような気がするのだ。住みたいとまでは思わないが、いろんな意味で活力を与えてくれる街だと思う。

 最初の日は、こんな坂の多い街はごめんだと、呪いの声をあげながら息も絶え絶えに歩いていた。しかし3日もするとすっかり慣れ、300段近い諏訪神社の石段もなんなく上がれるようになっていた。
 今回はグラバー邸など観光地はすべてパス。もっぱら唐人街、丸山遊郭、唐寺や墓地など、150年まえの海岸線や街を探りながら歩いていた。1日正味4時間は歩いたと思う。
 狭くて、急で、曲がりくねっている坂や石段が、はじめて歩くからこそ苦にならないのである。むしろその先がどうなっているか、あの上まで行ったらどういう風景がひろがっているか、そういう興味に惹かれてどこまでも行きたくなってしまう。やっぱり山で遭難してしまうタイプなんだろうな。

 何年かまえ、長崎を舞台にした『いつか読書する日』という映画があった。主演の田中裕子が、牛乳配達で急な石段を軽快に上り下りするシーンがふんだんに出てきたが、あのリズムがなんとも快かったのをいまでもおぼえている。そういう魅力がたしかに実感できたのである。

 取材のほうは、当てにしていた図書館のひとつが休館日だったため、できたらもう1日滞在を延ばしたかった。しかし翌日の飛行機の切符を買っており、変更できないタイプの安売り切符だったから仕方なく切り上げた。

 それともうひとつ大外れだったのは、収穫がありすぎて、考えを根底から改めなければならなくなったこと。すでに取りかかっていたつぎの小説の補強、ないしイメージをふくらませるために出かけたのだが、あたらしい事実を掘り起こしてみると、これまで考えていたストーリーが成り立たなくなってしまったのだ。
 何回も作りなおしてようやく固まりかけていたプロットも、40数枚書いていたストーリーもすべてご破算、1から出直さなくてはならなくなった。

 インターネットで調べた段階では、資料が乏しくてよくわからなかった。それであとは想像力をふくらませて勝手にイメージをつくっていたのだが、現地で調べてみたら簡単に新事実がわかった。
 こんなことならもっと早く取材に行くべきだったのだ。頭のなかでひねくり回すより、実際に現地へ行って、自分の足でたしかめてみるのがいちばんという教訓である。


2009.4.18
 今週も歩きに歩いた。火曜日は久しぶりの雨。気温が低くて雨も強かったが、府立植物園まで出かけてしたたるような新緑を堪能してきた。

 このところ晴天つづきで、哲学の道などは土埃で木々の葉が白くなっていたのだ。
 昨日は仁和寺へ出かけた。御室の桜を見に行ったのではない。仁和寺の裏山に四国八十八箇所の霊場が設けられているのを知り、足腰の鍛錬がてら出かけてみたのである。
 あいにく出かけた時間が中途半端だった。登りはじめたのが2時すぎ。昼めしを食っていなかった。だがそれほど腹も減っていなかったから、そのまま山のなかへ入ってしまった。
 予想していたより手強い道だった。天保の銘がある石碑を何本か見かけたから、江戸末期にはできていたコースのようだ。森のなかに八十八箇所の寺の名をつけた方形のお堂が点々と並び、ウオーキングコースとしても手ごろである。
 しばらく鬱蒼とした杉林がつづく。登りは急勾配。人気はなく、眺めもゼロ。はじめは30分もあればひと回りできるかと思っていたが、この分だと1時間以上かかりそうだ。

 困ったことに登りはじめたあたりから腹が減ってきた。わたしはエネルギーが切れると、ゼンマイの切れたおもちゃみたいにてきめんに動けなくなるのだ。
 それなのにペットボトルひとつを持っているきり。食いものなし。今日のところは引き返して、出直してきたほうがいいんじゃないかと思いはじめた。
 汗だくになって、ようやく24箇所目のお堂へたどりついた。これより土佐路、修行の道場とある。88分の24。4分の1を越えたばかりである。こりゃとてもむりだと心は千々に乱れた。

 それでいながら引き返せないのが、わたしのわるいところなのである。もうすこし、あともうすこしと、前にしか進めないのだ。
 どうもわたしという人間は、山で遭難する典型的な人間ではなかろうか、と反省はしているのである。反省はするが引き返せないのだ。

 結局1時間半ほどかけてなんとかひと回りしてきた。頂上付近まで行くと眺めがひらけ、京都の眺望が楽しめた。最高地点で236メートル。
 下りてきて蕎麦屋に入り、食いものにありついたときは4時が近かった。

 ついでだからもうひとつ、白状しておこう。このまえ東京へ行ったとき、つまり3月はじめのことになるが、前日に、大怪我をした東山の遭難現場へ、なくした眼鏡とストックを探しに行ったのだ。
 思っていたより急な坂で、手も足も万全といえない状態では、とても近づけなかった。そして上から見たかぎりでは、落ち葉に埋もれているのか、眼鏡らしいものもストックらしいものも発見できなかった。
 それですごすご引き返してきたのだが、その日も山に入って下りてくるまで、人にはひとりも出会わなかった。

 ようやくあきらめがついて東京であたらしい眼鏡を買ったのだ。しかしいまになって考えてみると、あのとき見つからなくてよかったと思う。
 もし落ち葉のなかにそれらしいものがちらとでも見えていたら、わたしのことだから絶対拾いに下りていたと思うのだ。そしたら多分いまごろ、こんな駄文は書いていなかっただろう。
 深く深く反省しています。


2009.4.11
 ひところ小康状態だった花粉症がぶり返してきた。花粉は相変わらず飛んでいるが、杉より檜の花粉がふえてきた、という報道があったばかり。檜は平気なのでほっとしていたのだ。
 事実このところ症状が軽くなり、目のかゆみはほとんどなくなっていた。やれやれ今年もようやくお終いかと思っていたところ、そうは問屋が卸してくれなかったというわけ。今週は最悪の状況にもどってしまった。

 だから家でおとなしくしているかというと、これが連日、出かけているのである。
 桜が咲いて、ただいま京都のいちばんいい季節、というせいもあるが、それより足腰の衰えのほうがもっと切実になってきて、じっとしていられなくなったのだ。

 先週、月1回になった定期検診を受けたおり、握力検査をしてもらった。そしたら右手の数値が10以下しかなかった。
 まだ拳を握れないのだから当然かもしれないが、かみさんでさえ12あるとか。子ども並の力しかないとわかったのは大ショックだった。
 足腰の衰えとなると、さらに痛感している。しょっちゅうつまずいたりよろめいたりしているのだ。坐っている状態から立ちあがるとき、転んでしまったことさえある。

 最近友人から、95になる母親が家のなかで転んで骨折、車椅子が必要になったので施設へ入れざるを得なくなったというメールをもらったところだ。冗談でなく自分が、いつそれと同じ状態になってもおかしくない、ということなのである。

 考えてみると今月末で、怪我をして半年になる。こんなにも長引くとは思いもしなかったことで、しかもまだ数ヶ月は必要だろう。
 この間まったくからだを動かしていないのだ。とくに筋肉を鍛えたり、負荷がかかったりするような行為はなにひとつしていない。これでは弱ってしまって当然だ。
 もう以前の体力を取りもどすことはできないかもしれないが、せめて足腰ぐらいはということで、鼻水を垂らしながらせっせと歩きはじめたというわけだ。

 今週は夜桜見物に出かけたし、南禅寺へも足をのばした。すこしずつ距離を延ばしているのだが、帰りはいつも足がばたばたになっている。
 きょうの木屋町は桜吹雪たけなわだった。鴨川河畔は雪柳が終わり、しだれ桜が満開になった。
 日日目にする色彩がちがう。

 まことに春は移ろいやすい。


2009.4.4
 まるまる1週間外へ出なかったのに、4月1日からいきなり、夕食の買い出しに行きはじめた。かみさんが風邪でダウンしたからである。

 いくら花粉症を抱えているとはいえ、戸外に出るのはやはり気持がよい。久しぶりに見る京都の街は、春たけなわだった。今年は伊豆で早咲きの桜をずいぶん見たから、桜はもういいやという気分だったが、京都の桜もなかなかのものだ。

 木屋町通りの桜はほぼ満開になっていたが、鴨川河畔は3分ぐらい。すでに咲いているところでも、しだれや遅咲きを混ぜてあるから、まだこれからしばらくは楽しめる。
 市内の桜の名所もそうだ。醍醐寺はもう満開だというが、ほかのところはこれから。それこそ寺ごとに、神社ごとにちがうのだ。観光客はいつ来ても、どこかの桜には間に合うわけで、そういうところはさすがすれっからしの京都、じつに悪知恵を働かせている。

 秋の紅葉など最たるものだろう。北海道ではわずか1週間で終わる紅葉が、京都では延々2ヶ月も引き延ばされてしまうのだ。1000年にわたって人の懐を当てにしてきた京都ならではの手練手管である(これ、誉めているのだ)。

 3月いっぱいかかりっきりだった雑誌の原稿が、やっと仕上がって昨日送った。今日がいちばんほっとしているときである。
 昨夜は爆睡しようと思って睡眠薬を飲んだ。この1週間、すこし寝ては起き、すこし寝ては起きを繰りかえしていたから、小間切れにしか眠れなくなっていたのだ。
 おかげで朝まで9時間ぐっすり眠れた。朝食をとったあともまだ眠く、そのあとまた2時間寝た。これで睡眠のリズムがもとにもどってくれるといいのだが、これはそう簡単にいかず、けっこう時間がかかる。

 数日前、仕事でまだしゃかりきだったときのこと。外でときどき耳慣れない音がする。何だろうとは思ったものの、それどころではなかったからそのままにしていた。
 ところがあるとき、ひょいと気がついた。これは更地になっている隣の敷地に、なにかつくりはじめているんじゃないだろうか。

 あわてて窓を開けてのぞいた。
 びっくり。アスファルトの匂いが立ち昇ってくるような、真新しい駐車場ができていたのだ。半年前の面影まったくなし、1ヶ月前の面影もさらさらなし。予想もしなかった景観になっていた。

 おかげで南側になにか建って日差しがさえぎられる恐れはなくなったが、複雑な心境である。土のなかで夏が来るのを待っていたクマゼミの幼虫は、完全に息の根を止められたことになるからだ。
 もうひとつ。更地になってだいぶたってからのこと、地面の一部が陥没して穴が開きはじめた。気になって見に行ったところ、どうやら井戸の跡のようだ。
 整地するときつぶして埋めたのだろうが、いい加減な処理をしたとみえ、隙間ができていた。のぞくと地下にかなりの空洞がある。
 そのあと東京へ行ったから、駐車場をつくるときの工事は見ていない。ゴルフ場の穴に人が落ちる事故があったばかりだから、これも気になる。

 手のリハビリは、このところほったらかし。仕事に追われてその時間がなかったからで、快方に向かっているとは言いがたい。この1ヶ月、パソコンのストレスは相当なものだった。これから仕事の大きな支障にならなければいいのだが。






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