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きのうの話 |
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2009.3.28 木曜日に京都へ帰ってきた。以来外へ出ず閉じこもりっきりである。 西のほうが花粉は峠を越したというし、毎日の花粉情報を見ても、飛散量がだいぶ少ないらしい。それで勇躍帰ってきたのだが、まんまとだまされた。東京と全然変わらないのである。 たしかに目のかゆみは大幅に減った。しかし鼻水は依然として怒濤のように出る。わたしの場合、花粉症の90パーセントがくしゃみと鼻水なのである。 それでも家の外へ出なくてすむだけ、ありがたい。めしができた知らせをもらうまで、自分の部屋に籠もっていればよいからだ。電話や訪問者に悩まされる心配がないのもありがたい。 東京にいるときは、これがいちばん腹立たしかった。世間様は9時半から1日がはじまる。こちらは就寝したばかり。朝っぱらからノーテンキな電話でたてつづけに起こされること3日。それで頭にきて、以後帰ってくる日までベルを鳴らなくしていた。 ところが数日後、今度は門扉のインターホンで起こされた。環境問題のアンケートにご協力くださいという妙齢のご婦人方だった。 時刻は10時すぎ。人様の家庭を訪問して失礼に当たる時間ではないが、こちらは8時に寝たばかりなのだ。しかもこういうことで起こされてしまうと、腹が立ってもう眠れなくなる。1日のペースが見事に狂ってしまうのである。 自宅にもどってくると、そういう煩わしさがゼロになる。もっとも今度は、そういう亭主のめちゃめちゃな時間帯に引きずり回される犠牲者がひとり、出ることになるが。 昨夜からのことをいえば、一晩中起きてて寝たのが朝の6時。ところが眠れない。それで8時にはあきらめて、こっちから朝めしの催促に行った。 あとはそのまま昼すぎまで。寝たのが15時で、19時半に起こされて夕めし。それでも眠くてたまらず、また寝直して、23時半に起きた。 それがさっき。わたしにとってはやっと1日がはじまったわけで、その手はじめとしてこの文を書いている。 仕事が終盤にさしかかると、いつもこのような暮らしになってしまう。今回は月末締切の中編小説が、ただいま追い込みに入っているところなのだ。 というより今朝の6時に、やっと下書きが終わったのだった。 今夜から本書きをはじめる。ほんとうに苦しいのはこれからだが、骨子が決まった分、あとは時間の問題でしかない。 ということであと5日。春の桜など遠い世間様のお話ということで、最後のひともがきをこれからはじめます。 |
2009.3.21 手の快復具合が思わしくない。 明らかに先週やりすぎた。腫れが引かないのだ。じっとしていても痛みが走ることまである。指の曲がり方も数週間前のレベルにもどってしまった。 今月中に完治させよう、と意気込んでいたのははかない夢だった。全治するまで7ヶ月はかかるよ、とだれか言ったのだが、そっちのほうが現実味を帯びてきた。 実生活の不便よりストレスのほうが大きいのだ。とくにいまは仕事にかかりきりだから、指を使いこなせないことからくるパソコンのタイプミスに、いらいらがつのっている。 こうなると、やはりリハビリ専門医の指導を受けたほうがよいのだろうか。京都に帰ったら相談してみようと思っている。 今週も伊豆で仕事をしていた。自宅だろうが伊豆だろうが花粉からは逃れられないのだが、日常から切り離されないと仕事ができない、という横着な習慣を身につけてしまったものだからやむを得ない。業だなあ、と言いながらいそいそと出かけているのである。 ところが今週は春の3連休が入っていた。気候もよし。このときばかりは観光地が人であふれかえる。ふだん安く泊めてもらっている手前、こういう時期に大きな部屋をひとりで占有しているのは申し訳ない。せっかくいいペースで仕事をしていたのに、やむなく切り上げて帰ってきた。 うれしいことに昨夜から雨になった。それもかなりの量。雨は朝になってもつづき、海が真っ黒になって、熱海では大雨が降っていた。電光ニュースが大雨注意報を表示していたくらいだ。 やれうれし。これでは花粉の舞いようがない。久しぶりにマスクもせず、鼻にやさしい湿った空気を思う存分に吸って帰ってきたのだった。 しかし東京へ近づくにつれ、空が明るくなってきた。新宿に着いたときは完全な晴れ。雲ひとつない快晴になっていた。 さらに気温がぐんぐん上がってきた。こちらはパソコンをはじめ、仕事道具一式の入ったリュックを背負っている。テンピュールの座布団まで持って行ったのだ。 電車は満員。立ちっぱなし。顔に汗が吹きだしてきたばかりか、胸から腹へとしたたりはじめた。家へ帰ってきたときはパンツまで濡れていた。 まさにノーテンキとしかいいようがない東京の天気。冬など天気予報がいらないほどつづく快晴。それを呪いたくなる人間もなかにはいるのである。 来週は京都へ帰る。しかしまだ数日は多摩にいる。雑用がいくつか残っているからだが、その用のひとつに買置き食品の消化という義務がある。 近所に外食店やスーパーがないところなので、冷蔵庫にはいつも非常食を用意している。だいたいが冷凍食品だが、レトルト食品もあれば、インスタント味噌汁もある。それに電子レンジ用米パック。 いつ見てもあるから、だいぶ古くなっているとは思っていた。今回点検してみたら、ほとんどが賞味期限切れだ。 米のパックなど2008年3月という数字が入っていた。こういうものだからまだ大丈夫だろうとは思うが、それも程度問題。明日から何日かかけて、すべて召しあがらなければならないというわけだ。 |
2009.3.14 執筆および手のリハビリということで、3日間伊豆へ行っていた。 結果はさんざん。言わずとしれた花粉のせいだ。海風の吹くところへ行けば多少は花粉が少ないかと期待したのに、全然。とくに出かけた日は一晩中くしゃみと鼻水が止まらず、まったく仕事ができなかった。 部屋に備えつけてあるティッシュペーパーでは足りなくなり、追加をもらいに行ったくらいだ。恐れをなして翌日は外出せず。持参した貧しい食いもので1日を過ごした。 あとはせめて手を、とリハビリのほうは遠慮なくごりごりやった。すると案の定腫れあがってしまい、ただいま指もろくに曲がらない状態。ただしすべて織り込みずみだ。前進後退を繰り返しながら、徐々によくなっていくと思うから心配はしていない。 それにしても伊豆の暖かいこと。前回桜が咲いているのにびっくりしたが、今月はもう葉桜になっていた。早咲きで有名な河津桜だろうとは思うが、これほど季節感がずれてしまうと、花を見ても感激がわかない。長い冬を堪え忍んで、という雌伏期間が感じられないのである。 今回はあたらしく見つけた宿に1晩泊まった。毎回贔屓にしている伊東のホテルが、このところ窮屈になってきたからだ。 前回3泊したのだが、その最終日に編集者が十数人どっと繰り込んできた。まったくの偶然。 伊豆高原在住の某作家との集まりがあり、それに集まってきたものだという。ほんとは二十数名いて、全員が同じ宿に泊まりたかったのだが、部屋が取れなくて分宿した、ということだったらしい。 あきれたことに部屋割りを見たら、小生の泊まっている部屋の両脇すべてが編集者。そのほとんどが顔見知りだった。 さいわい事前にそれを知ったから、その夜は部屋から一歩も出なかった。翌朝は全員がゴルフに行くから、おかげで顔は合わさなくてすんだのだ。 ところが安心して寝ていたら、フロントから電話がかかってきて「某社の○○さまがお見えです」。前夜のうちにばれていたそうで、それでべつの宿に泊まっていたものが、わざわざ挨拶しに来たのだった。 よくよく聞いてみると、ときどき来ているとか。これまで顔を合わさなかったのが不思議だったのだ。これではうかつに気を許せない。あたらしい宿を見つけるほかなくなったのである。 残念ながら、今回試泊したところは外れだった。無線LAN全室対応のはずが小生の部屋だけ使えなかった。湯がぬるい。エアコンがときどき止まる。冷蔵庫が冷えない、と減点が多すぎた。いい宿を見つけるまで、それなりの費用と手間がかかっているのである。 来週はかみさんが郷里へ帰るというので、ついに携帯を買った。これで夫婦双方が携帯持ち。やっと人並みになったわけである。 ところが、さあ使い方がわからない、とじゃんじゃん電話がかかってきはじめた。わたしだってろくに答えられないのだ。マニュアルがないとなにもわからないのである。 はじめは充電ができないと言ってきた。説明してくれた係の話では、ソケットに差しこむだけでいいという話だったのに、そういうものがどこにもないというのだ。携帯そのものに差し込み口がついてるんじゃないか、とわたしは答えたが、見てないんだから、もちろん当てずっぽうである。 するとあとになって、あっ、充電器が入っていた、と言ってきた。同梱されていたのを見てもいなかったわけ。要するにふたりともこういうレベルなのだ。この年になって最先端の文明の利器を持たされるのも、大変な負担なのである。 わたしもいまでは欠かさず持ち歩いているものの、受信することは考えてないから、使用しないときはスイッチを切っている。必要なとき、こちらからかけるだけ。考えてみたら公衆電話を持ち歩いているようなものだった。 そんなこんなで、自宅を処分する話など、どこかへ素っ飛んでしまいました。 |
2009.3.7 3日より東京にいる。花粉真っ盛りの時期にのこのこ舞いこんで来たわけだが、文学賞の授賞式に出席しなければならなかったのだからやむを得ない。 ありがたいことにその後雨がちの天気がつづき、症状も軽くすんでいる。それでも帰ってきて一度も雨戸を開けていない。真っ昼間でも灯りをつけた部屋に閉じこもっているのだ。 今回はかみさんを置いてきた。ついて来たがったのだが、それをなんとか振りきっての独身生活だ。とはいえ楽なことばかりはなく、食いものに不自由している。炊事はほとんどしないから、1日に1回めしを食いに外へ出なければならない。 そのめしが、右手の箸でなんとか食えるようになった。 ただしまだ口許へは運べない。手前5センチくらいのところで止まってしまうから、あとは顔のほうを近づけて食らいつく。見られた恰好ではないし、痛みも伴っている。ふつうに箸が使えるようになるまで、あと10日くらいかかるのではないかと思う。 先週は退院後はじめて足のレントゲン写真を撮った。骨折部分の骨が太くなり、完全に治癒していた。ただその割りにつっぱり感が残り、とくに階段の下りとなると素直に足が出ない。無意識に庇うのか、引きずる癖もときどき出る。 手のほうはまだ拳が握れない。あまり長引かせても関節が固まってしまう恐れがあるそうなので、なにがなんでも今月じゅうに治してしまおうと決意している。 そうなると当然温泉へ行かなければならない。来週には出かけるつもりだ。 パソコン持参で仕事も再開する。昨年からはじめた雑誌掲載の中編を1本、3月じゅうに書き上げる。掲載ずみの作品が3本あるから、合わせると夏には本にすることができるだろう。 当初の予定ではこの週末に不動産屋を呼び、家の売却について具体的な相談をするつもりだった。しかしもどってきた当日、就寝中にはたと気がついた。この家にあるがらくたをどう処分したらよいか、なにも考えていなかったことに思い当たったのだ。 書籍は自分の本を最低限残し、あとは捨てるほかないだろうと思っている。しかし家具、電気製品、衣類や布団など、大量の家財がある。これをなにもかも捨ててしまえるかとなると、急に決断が鈍ってくるのだ。 ないものをそろえるほうが楽である。あるものをゼロにしてしまうのは、これはこれで大変なエネルギーを要する作業だったのだ。うかつにもはじめてそれに気がつき、その段階で眠気など吹っ飛んでしまったのだった。 だいたいよくよく考えて決めたことではなかった。面倒くさくなったからええい、処分してしまえ。と例によって行き当たりばったり、その場しのぎの思いつきにすぎなかった。 本気で処分するつもりがあるなら、これまでにも何回か機会はあったのだ。しかし現実問題となってみると、ものすごい手間と決断が要求される。それでついつい先延ばしして、ずるずると放置してきたということだったのである。 いまの自分にこの家の後始末ができるほどエネルギーがあるか。そう思い当たるとしゅんとせざるを得ないのだ。 それにしても人間というやつは、なんとくだらないものをあれこれ身につけて生きていることか。 50年近くまえ、東京に出てきたときは身ひとつだった。その日のうちに部屋を借り、その夜は布団が着いてなかったので、レインコートをかぶってふるえながら一夜を過ごした。貸し布団屋があることすら知らなかったのだ。 それがいつの間にかかみさんをもらい、子どもをつくり、家を構え、仕事を見つけて身過ぎ世過ぎし、浮き世の義理から人情からしがらみまで山のようにまとって、気がついたら身動きできなくなるほど世俗の垢にまみれていた。 しかもこれは自分から望んでそうなったのだ。 この際なにもかも振り捨てて、ゼロにもどってやり直すことはできないものか、などとほざいたらどやされるだろうなあ。 |
2009.2.28 今週はメールプラザによせられたハマ氏の文章ですっかり考えこんでしまった。 じつをいうと、東京の家を処分しようかと考えていたのだ。 実質的には用済みとなっている家だが、それでも年間2ヶ月ぐらいは住んでいる。とはいえそれも、家があるから使っているようなもので、あるがために不便をこうむっていることのほうがはるかに多い。 必要な郵便物が東京のほうへ届き、やむなくせがれに取りに行ってもらうことはよくある。宅配便が受取人不在で返送されてしまうケースも年に何回か起こっている。 子どもが住むかもしれないと思って置いてあったのだが、職場に遠いからといってだれも使おうとしない。「じゃ処分していいか」と言うと「いいよ」。じつにあっさりしたものだ。 われわれもいまでは住むつもりがなくなっている。駅へ行くとき短いながらも急な坂があるからで、年をとるにつれつらくなってきそうなのだ。雪でも降ったらたちまち往生する。今回の怪我でもそのつらさを思い知らされた。 だからこの際処分してしまおうということになったのだが、問題はその先、ではこれからどこに住むかということだ。 この先も京都に住みつづけたいという覚悟が持てないのである。 たしかに京都は魅力的な街だ。ほかの街では得られない魅力が数え切れないほどある。その街の都心に住み、ふだんの用が歩いてたせる便利さはなにものにも代え難い。街のリズムも年寄り向きだと思う。 それなのに、京都に住みたいという積極的な気持が出てこないのだ。 つぎの家を構えるとしたら、終の棲家となってしまう可能性だってある。その最後を、京都に託せる気になれないのだ。 それは京都という街の魅力が、一言でいえばお客さんである場合に限られるからではないかと思う。お客さんでいるかぎり「へえ、おおきに」でまことに居心地がよい街なのだ。だが住民となって住みついてしまうと、否応なしにその素顔と向き合わなければならなくなる。これがまことに胡散臭いのである。 これまで住んでみて言えることは、京都のあるべき姿とか、未来の顔とかがまったく見えてこないことだ。京都がこの先どこへ向かおうとしているのか、思い描けるものがない。ものすごい勢いで壊れつつある姿しか見えないのである。 一昨年京都へやって来たとき、無秩序ににょきにょきと建てられている高層マンションに目をみはった。なぜこんなものを建てさせるのか、理解できなかったのだ。その高さが規制されたのはやっと去年。それまでは建て放題だとわかって唖然としたのである。 京都タワーができたとき、京都中が真っ二つに割れ、もめにもめたことを記憶している。わたしはあんなものを建てさせるべきでなかったと考えるひとりだが、そういう経験がその後生かされていたと思えないことにあらためて唖然としたのだ。 いったい行政はなにをしているのか、と疑問することはいくらでもある。 鴨川を散歩するたびにいつも腹を立てているのだが、ゴミが打ち棄てられたままなのだ。先日は自転車が投げ込んであった。高瀬川など七条まで行くとゴミの川と化してしまうのだ。 鴨川といえば京都の顔だろう。せめて下鴨神社から七条までの間くらい、水辺や中洲に沈んだり引っかかったりしているゴミを拾うべきだ。週に一度清掃したとしても、その手間、費用はいくらの負担にもならないはずなのである。 夏は夏で土手や中洲の草が繁り放題でひどく見苦しくなる。去年たまたま草刈り現場に行き合わせたから、年に何回刈り取っているか聞いてみると、2回という返事だった。夏の短い札幌の豊平川でさえ3回は刈っていたのである。 この1年を振りかえってみても街の崩壊ぶりはすさまじい。店仕舞いしたり「FOR SALE」の張紙をされたりした家が近所に何軒もあるのだ。 ネットに入れた蜜柑を1袋100円で無人販売していた家も、あっという間に3階建ての近代住宅に建て替えられた。 冷やして手で裂いて食う水茄子の漬け物をはじめて知ったのは去年の夏。その漬物屋も創業60数年で店を閉めた。 社会構造が変わってしまったから、それについていけないものは消滅するしかないということなのだろう。 仏具商だとか和装小物、袋物、和紙、漆器、いまどきこんなもので商売になるのかと思える店が近所にずいぶん多い。客の姿を見たことがないのだ。どうやって食っているのかと、想像するだに暗い気持ちになってしまうのである。 事実上廃業し、勤めに出ている家人の収入で食っている家も少なくないと聞く。売れるものなら家を売り払い、どこかであたらしい暮らしを手に入れたいと願っている人ならさらに多いとか。 それが首尾よく売れたとして、そのあとどうなってしまうのか。ウナギの寝床みたいに細長い敷地では、使い道も限られる。小規模マンションや駐車場ばかりが増えるわけである。 こういう社会の趨勢に、行政が有効な手をさしのべられるとは思えないにしても、それにしてもなにか講じようとしている形跡すら感じられないのだ。放っておいても来てくれる観光客をいいことに、こぎれいなことを言っているだけである。 じつをいうと、行政の腐っている部分が事態をいっそう悪くしているところもあるのだが、今回はそこまで調べていないからこれ以上触れない。京都の街が壊れに壊れていることだけを指摘しておくことにする。 京都にそのうち愛想づかしをしてしまいそうで、わたしはいまからその予感に脅えているのである。 |
2009.2.21 今週は温泉へ2回出かけた。1回出かけると3時間くらいいて、その間3回は湯に入ってくる。すると手がけっこう動くようになり、湯の中に限っていえば掌もほとんど返せるようになる。 箸だって簡単に使えそうな気がしてくる。それで勇んで家に帰ってくると、もう冷えて半分も動かなくなっている。箸でつまむことはできても、口許まで運ぶことはできないのである。 それでも先週に比べたら、だいぶ口許へ近づいてきた。あと10センチくらい。多分来週は箸が使えるようになっていると思う。食うといういちばん切実な問題だから、執念がちがうのだ。 その点パソコンを打つほうは、なかなか上達しない。キーの打ちまちがいがやたら多いのだ。句読点の丸と点の打ちまちがい。AとSなど隣り合ったキーの打ちまちがい。細かい動作がまだまだできないのである。 今週は糖尿病の定期検診も受けてきた。前回の数値がよかったので油断してしまい、その後おろそかになっていたことはたしか。びっくりするぐらい悪い数値が出て、しゅんとなって帰ってきた。これからまた新規まき直しの節食をはじめる。 スギ花粉がだいぶ飛びはじめみたいで、外出にはマスクが欠かせなくなってきた。目のかゆみも強くなり、今週は目薬を買った。しかし昨日今日、雪や雨が降ってくれたおかげでだいぶ楽だった。 家の南隣にあった古い町屋が昨年末取り壊され、更地になってしまった。グーグル・アースで見ると、去年までここは、同じような町屋が2軒、境界を接して建っていたことがわかる。 最新版ではそれが、わが家のところだけ更地になっている。そのあとへ建てられたマンションに、われわれは入ってきたわけである。だから文句など言える立場ではないが、隣になにが建つかは、きわめて深刻な問題である。 それにしても空しいものだ。築百年近かったと思える古い店舗と蔵があっという間になくなり、4階の高さまであったキンモクセイの古木も容赦なく切り払われた。 針金製のハンガーで巣をかけていたつがいのキジバトもどこかへ行ってしまった。もっと哀れなのは、地下で巣立つ日を待っていたクマゼミの幼虫だろう。おそらく何百という幼虫が、地上へ這いだす機会を永遠に失ってしまったのである。 敷地の大きさは、こちらとまったく同じ。ウナギの寝床みたいに細長い、京の町家の典型的な敷地だ。それはあとに、わが家と同じくらいのマンションが建てられるということでもある。 あいにく方角がわが家の南。だから似たものが建ってしまうと、わが家は視界ばかりか、日光も失うということになる。 越してきて1年あまり。エレベーターがないという大欠陥はあるものの、陽当たり視界ともよくて、そこそこ気に入っていた。それが今年はまた、引越しのための家探しをはじめなければならなくなるのか。落ちつかない日々がしばらくつづきそうである。 |
2009.2.14 風邪が治った。というより必死になって治した。おかげで珍しく数日ですんだ。しかし一方でまた下痢をした。 最近どういうわけか、躰の調子が悪くなると必ず下痢をするようになった。今回もそう。風邪を引いた夜から下痢がはじまり、翌日になると胃がなにも受けつけなくなった。 妙なもので、これくらい同じパターンを繰りかえしていると、肉体のほうがそれを認識するようになる。土曜日の夜中になると、体内の不純物がすべて排出されてすっきりした、といった安堵感すらおぼえたものだ。 土曜日は完全絶食、日曜日は重湯だけと、とにかく胃袋を干した。月曜日に米粒がいくらか入った白粥、火曜日が梅干し入りの粥、添え物に摺りおろしリンゴくらいと、慎重を期して段階的にすこしずつ食いものを増やしていった。 ひもじさに負けて中途半端に食いはじめ、結果として下痢がぶり返し、かえって長引くという苦い経験をこれまで何度も繰りかえしているからだ。 おかげで4日目にはふつうの食事ができるようになり、治ったという感触が得られた。そのときは風邪がどこかへ行っていた。下痢のためすっかりかすんでしまったのだった。 ただ風呂に4日入れなかったため、その間、手のリハビリがストップしていた。それで木曜日に、まえから目をつけていた市内嵯峨にある温泉へ行ってきた。 一種のスーパー銭湯だが、露天風呂には源泉が使われていて、設備は最新、なかなか気持がよかった。平日だったから空いていたし、第一電車を乗り継ぐだけで、30分もあれば着いてしまう手軽さがありがたい。これからときどき出かけようと思っている。 ギプスからバンデージに移行したことで、指の動きの回復はいっそうめざましくなった。まだ拳を握ることはできないが、パソコンの入力くらいなら7割方回復したのではないだろうか。 不満足ながらスプーンも使えるようになったし、箸も持てる。つまむこと、持ち上げること、かき混ぜること、一通りのことができるようになった。 ところが、食えないのである。箸でつまんで持ち上げるところまではできるが、口許へ運べないのだ。20センチほど向こうで止まったまま。そこから手前へは、どうあがいても引き寄せることができない。最後は左手で食うしかないのである。 そんなはずがない、ここまで持ち上がっているのに、どうして手許まで運んでこられないのだ、と必死になってあれこれもがいてみるのだが、だめ。犬食いすらできない。 これは悲惨ですよ。しかも大ストレス。手の届かないところに食いものが置かれているも同然だから。とはいえ傍目から見たら滑稽な恰好であることにまちがいなく、かみさんはそれを見て「嘘みたい」とげたげた笑う。 手首を返せないというだけでものが食えないという発見は、わたしもはじめて知ったことだ。それにしても人間の躰は精巧にできていると、あらためて思い知らされたのだった。 この分だとよほど心しないと、日常生活に支障がないくらいまで回復したとしても、基本的な障害を残してしまうおそれだってありそうだ。 同じような骨折をしながらなんとか治ったものの、リハビリを十分にやらなかったため、いまでも後遺症に苦しんでいる人はけっこう多いからだ。リハビリの手間と努力を惜しんではならないと思う。 関東の花粉飛散が最盛期を迎えたようだが、関西も本格的なシーズンに入った。昨日から花粉の飛散レベルが4段階の2に引き上げられた。そのせいか、今日の外出から帰ってきたあと、くしゃみと鼻をかむ回数がこれまでの数倍に増えた。 |
2009.2.7 風邪を引いた。悪寒があり微熱がある。昨日が暖かかったから油断したようだ。大失態。かみさんが感染症に弱いので、風邪だけは持ち込まないようにと医師からきびしく言われていたのだ。 これまで気をつけていたからこの数年、ふたりとも風邪を引いたことはない。それが油断につながったようだ。 こういう日はおとなしく寝ているに限るのだが、あいにく診察日だった。それで市販の葛根湯を飲んで出かけた。相変わらず待たされた。それがなんともつらかった。 怪我の回復のほうは順調だった。今週の初めまでは、親指と人差し指の先が合わせられなかった。スプーンすら持ち上げられなかったのだ。 それがこの1週間ですべての指先となんとか合わせられるようになった。とはいえ中指などは痙攣を起こしたみたいにがたがた震えるのだが、とにかく目に見える結果があらわれるのはやはりうれしい。腕時計(革ベルト)もひとりで着けたり外したりできるようになった。 一方でできないこともたくさんある。食パンをナイフで切る、といったことはいまでも苦手だ。ペットボトルの栓を開けるのもひと苦労。右手の脇にボトルを挟み持ち、左手でなんとかこじ開けるのだが、固い栓になるとプライヤーのお世話になることもある。 爪を切るのも毎回苦労している。左手では力が入らないし、安定がすごく悪いのだ。それに目がよく見えないから肉を切りそうで不安。切るのは昼間と決めている。 パソコンはだいぶ打てるようになった。あと1週間もあれば、もとの状態に近くなるのではないか。要は慣れ。すこしずつでもよいから毎日仕事をしようと思っている。 遠赤外線のサポーターをすすめてくれる人があり、そういう手があったのかとはじめて気がついた。早速買ってきて外出するとき、寝るときに用いているが、ギプスを包帯でくくりつけるよりは手軽でよい。 きょう出版社より『行きずりの街』のシナリオが送られてきた。すっかり忘れていたが、そういえばそんなことがあって、前に1回、第1稿を読まされて感想を述べたことがある。今回はその改稿だ。 映画というのはこれまで何度も話が出ては立ち消えになっているからあてにはしていないのだが、今後の推移を見守りたい。 |
2009.2.1 今週は6日間伊豆にいた。湯治、つまりリハビリに行ったもの。今回ははじめからそのつもりで上京したから、所用が終わり次第すぐさま飛んでいった。 滞在先はこれまで何度も自主缶詰と称して厄介になっている伊東のホテル。いつもだとどういう口実をもうけるか四苦八苦するのだが、今回ばかりはリハビリテーションという大義名分があるから大いばりだった。 とはいえこの不景気なご時世に、1週間も温泉三昧とあってはいささかうしろめたさをおぼえないでもない。無芸無趣味、酒も煙草もゴルフもやらない老人の唯一の楽しみなのだということで、とくに見逃していただきたいと思う。 名だたる文人墨客御用達の豪華旅館などではけっしてないのだ。1泊6000円ぽっきりの、実質本意のB&Bなのである。その朝めしさえ、夜っぴて起きてて朝方になって寝るからほとんど食っていない。 食うのは二の次、いい湯に浸かりたいだけである。ここの宿が気に入っているのは、源泉掛け流しの温泉に一晩中いつでも入れること。夜中、だれもいない浴槽に身を沈め、ざーっとあふれる湯の音を聞くときくらい満ち足りた気持になることはない。史上最大の贅沢だと思っている。 少ないときで1日4回、多いときは6回から7回くらい入浴する。すると今週は合わせてどれくらい入浴したことになるのか。この間ひげを剃ったり頭を洗ったりしたことはたった1回。すべてリハビリに捧げているのである。 おかげで指の動きがずいぶんなめらかになった。ただ入浴するたびによくなるものの、あがって1時間もすると元の黙阿弥、ごわごわにこわばってしまう。2ヶ月以上かけて固まった筋肉だから、そう簡単にはほぐれてくれないのである。 とにかく動かすことが最良のリハビリだと思い、3日目ぐらいからおそるおそる両手を使ってパソコンも打ちはじめた。 まだキーボードに指を置くだけで痛いし、打つ速度も左手1本のほうが早いくらいだが、曲がりなりにも両手が使えるようになったのがものすごくうれしい。じつはこの文章が、両手を使ってはじめて書いたものである。 宿が混んでいたため伊東には4日しか泊まれなかった。それであとの2日は熱海に場所を移した。ここも24時間掛け流しの湯があふれている宿。同じ形式のB&Bで料金は7150円(150円は入湯税)。 週末になって天候がくずれ、ときならぬ時化模様になってきた。朝方の気配では、房総の電車が強風で出発を見合わせるなど、交通網まで影響を及ぼしそうだった。 それを口実にもう1泊する気だった。ところが7時をすぎたあたりから急速に回復してきたため、半分不本意な思いをしながら京都へと帰ってきた。 来週から仕事をはじめます。 |
2009.1.24 思いがけないかたちでミステリーの短編集が近く刊行される。書いた本人が忘れかけていた古い作品ばかり集めたものだ。 出版させてください、とはまえまえから言われていた。しかし初期のものは、もう20年以上もまえの作品である。いまとなっては読めたものでないと思ったから気がすすまず、そのたびに口をにごしていい加減な返事をしていた。 業を煮やした編集者がこうなったら最後の手段とばかり、ゲラにして先月持ち込んできた。若気のあやまちみたいな古証文を突きつけられ、当方は恐れ入るばかり。いまさら逃げるに逃げられない。 わたしにしてみたら20年もまえの作品というだけで腰が引けてしまうのだ。そういう意に染まないものを、むりやり本にするのは絶対いやなのである。 こうなったら直せるところまで直して格好をつけるしかないだろうと覚悟したが、ご承知のようにただいま右手が使いものにならない。ペンを左手に持ってどこまで直せるか、はなはだ心もとない状況でゲラに向かった。 収められている作品は『ミステリマガジン』をはじめ、読者がそれほど多くない特殊な雑誌に発表したものが多い。おそらくほとんどの方が、そういう雑誌に書いていたことすら知らなかっただろうと思う。 わたしのほうも半分それが狙いで書いていた。失敗しても人に知られなくてすむから、肩の力を抜いたりほかの媒体ではできない実験をしたり、いろいろなことを試してみたつもりだった。 それをいま読み直してみたのだが、意外なことにそこそこ面白く読めた。え、自分がこんなものを書いたの、と思うくらい完全に忘れていたものもあって、読んでいてどういう結末が待っているのか、まったく予測できないのである。 ただし、いまの目で見たら、どの作品もどうしようもないくらい下手くそだった。稚拙でたどたどしく、回りくどくて言葉遣いがなってない。不要な形容や言わずもがなの描写が多すぎる。おれってこんなにひどい文章を書いていたのかと、自己嫌悪をおぼえたくらいである。 一方でいまの自分が失ってしまったもの、若さや情熱、ほとばしる情感や熱気が全編に立ちこめていて、老いの淋しさを逆に確認させられもした。そういう意味ではまぎれもなく、ある時期のわたしの作品にまちがいないのだった。 なにかのアンソロジーに入れたものが1、2点あるほか、ほとんどが初出同然。自分のたどってきた足跡を見てもらうという意味では、これはいま読んでもらったほうがありがたい作品集かもしれないと思い直した。 そうなると、かえって余計な手は入れるべきでない。それでミスの訂正やことばの統一など最低限の直しにとどめ、できるだけ発表当時に近い姿で読んでもらうことにした。 今週その校正が終わり、ゲラをもどしたところである。 ただ恥ずかしいことにこのまえ出した短編集のあとがきで「現代物の短編はこれが最後になります」と大見得を切ってしまった。それで、この作品はあくまでも番外ですということで、帯にわざわざ「初期短編集」と銘打ってもらうことにした。 書名はその反省もこめて、今度こそお終いですの『ラスト・ラン』。徳間書店より3月に刊行されます。価格は未定。 |
2009.1.17 ただいま東京。最悪の時期に帰ってきた。寒いのなんの。今朝の八王子の気温がマイナス5度。京都とはレベルがちがう。 帰りの道中でもひどい目にあった。息子が車で迎えに来てくれたのだが、雪に見舞われて十数時間もかかったのだ。 夜中に出発したとき、大きなぼたん雪が降っていた。これでは東名を行ったほうがいいかな、と言いながら出てきたのだが、関ヶ原まで行っても積もるようすはない。サービスエリアでも雪の注意報はまったく出ていなかった。 それで予定通り中央道に向かったのだが、もう引き返せないという中津川まで来ると、急に雪が深くなった。車の通行量もがくんと減り、道路は真っ白だ。 もともと冬は乗らない車だから夏タイヤだし、チェーンだって備えていない。だから中央道に入ったのがまちがいなのだが、東名はつまらないから走りたくないのである。 恵那トンネルを抜けて信州に入ると完全な大雪。駒ヶ根ではとうとうチェーン規制の表示が出た。いっそ東名まで引き返そうか、とも思ったが、この分だと引き返せる保証もない。仕方なく駒ヶ根で中央道を下り、チェーンを買いに行った。 店が開くまで30分ほど待ち、9時半にようやくチェーンを買うことができた。できるだけ装着の簡単なものを、とはじめてのものに手を出したのがまたまた大失敗。どうやってつけたらいいか、皆目わからないのである。 雪は降りしきる。気温はマイナス6度。駐車場の雪掻きをしていた店員が手伝ってくれたが、それでもたっぷり1時間以上かかった。 とはいうものの、わたしは何もしていない。手が使えないから暖房の効いた車の中で見ていただけ。だから何をぐずぐずしているんだ、なんて言えやしない。ひたすら我慢して待っていた。 やっと走り出したのは11時過ぎ。中央道へもどったときは雪もやみ、もうチェーン不要になっていた。結局家まで12時間かかった。 今回は帰ってきた翌日から忙しかった。免許証の更新をしなければならなかったからだ。怪我のため有効期限ぎりぎりまで手続きを延ばしている。しかも今回から高齢者は、自動車学校で行なわれる高齢者講習会の受講を義務づけられた。その修了証を持っていかないと更新してくれないのである。 それでいちばん近い自動車学校に電話して講習を受けたいと申し出た。すると今月はすべて満員だという。びっくりしてつぎのところに電話したが同じ返事。4箇所問い合わせたが全部満員だった。 最後は府中の試験場に泣きつき、空きのあるところを探してもらった。おかげでなんとか間に合い、失効2日まえの15日に講習を受けることができ、免許証も手に入れることができた。 いつもぎりぎりまでたかをくくり、最後になってあわてるという、これまでさんざん繰りかえしてきたことを今回もまた繰りかえしたことになる。 花粉症のくしゃみと鼻水まではじまり、東京にいてもまったくいいことがない。まだしも暖かい京都へ帰りたくなった。 |
2009.1.10 正月以来一歩も外へ出ていなかったが、4日にはじめて外出をした。風のないおだやかな日だったから、ちょっと鴨川あたりを散歩してこようと思ったのだ。むろんひとりでは行かせてくれない。ガード役のかみさんがついてきた。 ところが歩きはじめてみると、意外に歩ける。足の突っぱっている感覚が多少残っているものの、痛みはまったくない。これならもうちょっと行けそうだよ、というので祇園方面に向かい、恵比寿神社というお宮があったからここで初詣をすませた。 まだ大丈夫みたい、というのでさらに欲ばって建仁寺へ。するとせっかくここまで来たのだから、ということになって、とうとう八坂神社まで行ってしまった。 さすがにここはものすごい人出だ。神社前の交差点を渡る黒山のような人波を見たときは、少々ひるんだ。とにかく巻きこまれたら一大事、というので山門もくぐらず、端っこばかり歩いて、それでも一回りしてお詣りをすませてきた。 さあ、それですっかり自信がついた。帰りは河原町まで、切れ目なくつづく歩道の人波を歩き通したのである。だが最後はばてばてだった。どこかで休みたかったが、人が多すぎて入れるところがない。あてにしていた河原町の喫茶店も満員。とうとうそのまま歩き通して家まで帰ってきた。 合計2時間は歩いたことになるだろう。地図でたどってみるとかれこれ4キロ歩いている。この2ヶ月まったく歩いていなかった人間が、いきなりこれだ。やりすぎもいいところである。 じつをいうと、以来どうも歩くたびに足が痛む。骨の折れたふくらはぎのところではなく、足首のところがくじいたみたいな痛みを放つのだ。 むろんかみさんの前ではおくびにも出さない。ついて来るというのをなんとか思いとどまらせ、6日からは北陸の某温泉へ出かけた。24時間入れる温泉に浸かり、本格的なリハビリを開始するという名目である。 1日目、24時間で6回入浴した。1回15分ぐらい。リハビリが目的だから、湯には腰までしか浸からない。腕と足をひたすら温め、筋肉がほぐれてきたら、開いたり閉じたり、ひたすら反復運動。 これまでどうにも指の曲がらなかった手が、力ずくなら、なんとか指先が掌に着くくらいまで曲げられるようになった。たった1日でできるようになったのだ。 奇跡的な回復力、とほくそ笑んだのはわずか1日。翌日になると手が腫れあがり、曲げるどころか、触るだけで痛い痛いになってしまった。調子に乗ってやりすぎてしまったのだ。 毎回懲りずに同じことを繰りかえしている。学習能力というものが、先天的に欠けているのかもしれない。ほどほどということがどうしてもできないのだ。すぐむきになって、これでもか、これでもかやりすぎてはあとで後悔するのである。 昨日ほうほうの体で帰ってきたが、手の腫れはまだ全然引いていない。指を曲げるどころか、数週間前の状態に逆戻りしてしまった。この先もまだ、何回も同じことを繰りかえすんだろうなあ。 |
2009.1.3 明けましておめでとうございます。平穏無事に新年を迎えました。どこへも出かけられなかったから、そうならざるを得なかったというのが実情だが。 年末に1日、北白川の山のなかにある温泉へ日帰りで出かけてきた。沸かし湯だし、循環させているし、塩素消毒までしているところだが、京都市内なのだから贅沢は言ってられない。 3回入浴し、その都度できるかぎりの長湯をして、腕のリハビリに努めてきた。往復にタクシーを使ったから、日帰りにしては高い湯治代についたが、それなりの効果はあったと思っている。 正月が挟まっていなかったら、どこかの湯治場へ出かけていたところ。以後は毎晩の入浴で代用している。感想としては長湯がいちばんいいみたいなのだ。 現在日中はできるだけギプスを外すようにしている。不安はあるし、腕としては使いものにならないのだが、これもリハビリのひとつと思って、まず慣らすことからはじめたものだ。すこしずつではあるが、気にならなくなりかけている。 ほんとうは寝るときにいちばん外したいのである。寝苦しいからだ。しかしこれはさすがにまだだめ。どうしても知らずに動かしてしまい、その途端、あ、いたた、ということになるからだ。 まあ、2ヶ月かけて固まってしまったのだから、同じ時間をかけて揉みほぐしてやるほかないだろう。とりあえず正月が明けたら、どこかの温泉へ出かけようと思っている。 |
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