Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

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2008.12.27
 今冬はじめての雪が降り、午前中いっぱいちらついていた。窓から見える東山も山の上のほうがうっすら雪化粧。この分だと比叡山(あいにく見えない)は真っ白だろうなと思っていたら、テレビが雪景色の金閣寺を映し出した。

 さすがに雪の金閣寺は絵になる。今夜も降るらしいから、結果次第では、明日の朝どこかへ雪見に出かけようかと考えている。だいぶ元気になってきたからで、今日はマンションの階段をはじめて、手すりにつかまらないで往復することができた。

 リハビリをはじめて1週間。遅々とした成果に苛立っている反面、すべての結果が目で見えるから、意欲がこれまでとまったくちがってきた。
 当初は掌を広げることはもちろん、両手を合わせることすらできなかった。それがいまでは合掌して、顔の前に持ってくる、くらいまでできるようになった。
 手をひっくり返して掌を上にすることと、掌を真っ直ぐに立てることが、これからやらなければならない最大の難行。どっちも猛烈な痛みを伴うのだ。
 拳もまだ固められない。しかし力づくでむりやり押し曲げてやると、指の先がなんとか掌へ触れるようになった。ところが少々やり過ぎたらしく、昨日から手が腫れあがって、いま動かせない状態になっている。一進一退のうちの一コマと考えるしかないだろう。

 目から鱗だったのは、風呂で温まると格段に具合がよくなることだ。腫れているから、これまでは温めたらいけないとばかり思っていた。風呂に入ったときも、わざわざ苦労して手足を上に出していたのである。
 温めたほうがいいんです、と言われたのはつい先週のこと。たしかに長風呂をして手足を動かしていると、曲がらないところも曲がるようになるし、痛みだって減ってくる。風呂から上がってしばらくは、歩くのだってずいぶん楽なのだ。
「すると温泉に行ってもいいんですか」
「ああ、いいでしょうねえ」
 だったらもっと早く言ってくれよ。いちんちじゅう家に閉じ込められているくらいなら、大好きな温泉に行って、思うさま療養していたのに。
 聞かなかったのが悪いのか、教えてくれたのが遅すぎるのか、これから年末、正月にさしかかり、宿は取れなくなる。しばらくはあきらめて、わが家の風呂で我慢するほかないようだ。

 今日の検診を最後に、病院も2週間の休みに入った。ふた月もの時間を空費してしまったが、ようやく希望が持てる段階にさしかかったと言えるだろうか。ほっとして年末を迎えている。

 このホームページも本年はこれがお終いになります。1年間つき合ってくださってありがとうございました。
 よい年をお迎えください。来年がみなさんにとって実りの多い1年となりますように。


2008.12.19
 おめでたくもなんともないが、今週、馬齢を重ねて72歳になった。怪我をしたせいもあり、つぎの1年をどう過ごすか、以前よりまじめに考えているところである。

 今週は腕の経過で大きな進展があった。ギプスをまた取り替えてくれたのだ。長さ20センチあまりの、平たい、添え木状のシンプルなものになった。上から包帯を巻くことに変わりはないが、短くなったので、肘の動きが自由になった。
 とはいえその肘が、ろくろく動かせないのである。さあ腕を伸ばして、と言われたって、動かそうとするだけで猛烈に痛い。真っ直ぐ伸ばすことなどできるものか。なにしろ50日曲げっぱなしだったのだ。関節がすっかり錆びついている。

 添え木そのものは、ギプスと同じ石膏ボードでできている。それを腕に合わせて固まらせたもので、ボードが固まるまで数分かかる。その間腕を平らにさせられ、上からぎゅっと抑えつけられていた。これがまた痛いのなんの。必死に我慢していた。
 これまで手首は折り曲げたままだったのだ。招き猫そのもの。おいでおいでの恰好をして、そのまま固定されていた。それが一転、これからは伸ばして、フラットにしなさいというのである。

 50日間曲げたままにしておいて、さあ今日から真っ直ぐ伸ばしましょう。指も、手首も、できるだけ動かしましょう。てなことを言われたって、そう簡単に動いてくれるものか。錆びた蝶つがいがきしむみたいに、痛みなしには指1本動かなくなっているのだ。
 さらにこれからは、毎日何度でも、包帯をほどいて手を出し、結んだり開いたり、広げたり固めたり、伸ばしたり縮めたり、ひねったりねじったり、動かせるだけ動かせと言う。どうやらリハビリ態勢に入ったみたいなのである。
 それだけよくなってきたということだろうが、それにしては痛いんだよなあ。以来毎日、おりを見てはテーブルに手を出し、おそるおそる動かしているのだが、とにかく痛い。

 自分の腕だから、そういう感覚に耐えられないのである。痛いからどうしても手加減してしまう。
 しかもこの痛み、やめてからもあとを引く。ずきずきとうずいて、夜もおちおち眠れなくなる。まるで怪我をした当初にもどった感じだ。これからがほんとうの闘病生活、ということなんだろうけどなあ。


2008.12.13
 ようやくギプスが半分になった。
 長さが半分になるのかと思ったら、そうではなかった。いまのギプスを縦半分に割り、上半分を取り除いたのだ。
 残った半分へ、元のように腕をはめ込み、包帯でくくりつけるのである。つまりギプスが添え木になったわけで、腕が固定されてしまうことに変わりはなかった。

 それでもこれまでとは大違い。圧迫感がなくなって、ずいぶん楽になった。かゆいところは包帯の上から掻くことができる。なによりありがたいのは、風呂へ入れるようになったことだ。
 包帯をほどきさえすればギプスが外せるから、手を動かさないようにして入浴すればよい。あとでふたたび取りつけるのである。むろん石鹸をつけて洗うこともできる。清潔さを保てば、かゆみだって減ってくるだろう。

 それにしてもきょう、45日ぶりに見たわが腕の、目を疑わんばかりに痩せ衰えていたこと。まるで干涸らびた胡瓜だった。しかも汚れ放題、真っ黒。洗ってよいと言われたから診察室の洗面台でざっと洗ったが、あとからあとから垢が出てきて止まらなかった。

 またじっとしていてもぶるぶる震え、左手を添えてやらないと動かすこともままならない。腕の機能を失いかけているとしか思えなかった。これを元のところまでもどすとしたら、どれくらいの時間と努力が必要か、考えるだけで気が重くなってきた。

 足の腫れはだいぶ引いてきた。腿はほぼ平常にもどったみたいで、触っても痛みは感じなくなった。あとはふくらはぎの腫れだけだが、これはまだしっかり残っている。
 痛みが去らないのは、腓骨が折れているせいだろうか。静止しているときはなんともないのだが、歩きはじめたら途端に自己主張をはじめる。足の運び方次第ではぎくっというほどの痛さが走るのだ。

 身から出た錆とはいえ、無為に過ごしている毎日がもったいなくてたまらなくなってきた。せめてせっせと本を読んでいるのだが、それだけでは欲求不満を解消できないのだ。ときとして猛烈に書きたくなる。作家というものは、つくづく「書いてなんぼ」の商売だと痛感する。


2008.12.6
 昨日は友人が訪ねてきたので、夜は外へめしを食いに行った。そのあと喫茶店へ席を移し、久しぶりに11時近くまでしゃべっていた。

 その帰り、人通りも少なくなっていたので、河原町から家まで歩いてみた。かれこれ500メートルくらいだろうと思うが、事故後一回にこれくらい歩いたのははじめてだ。
 なんとか歩き通して帰って来られた。しかしずいぶん時間がかかり、疲れた。やっぱりタクシーにすればよかった、と途中で何回も弱気になった。
 人や車の少ない夜だからできたことだ。それでも自転車が通りかかるとひやひやして、そのたびに身構えた。これではとても東京へ帰れそうにない。というよりあと1ヶ月で人混みの中を歩けるまで回復できるかどうか、心配になってきた。

 きょうは通院日。腕のほうは順調ということで、おおいに気をよくして帰ってきた。この調子だと、来週はギプスを取り替えてくれるかもしれない。そのときはすこし短くできるだろうというのだ。
 手首の骨折なのに、いまは肩の下からギブスがはじまっている。かゆくてたまらないのは肘のあたり。短くなるとこれが解消される。それをいちばん心待ちにしているのだ。

 しかしきょうも何回か悲鳴をあげてきた。指を思いっきりねじあげられたからだ。かわいい顔をした女医さんなのだが、けっこう非情に人の手をいじるのである。患者の悲鳴を楽しんでるんじゃないか、と思うときまである。
 先週はむりやり拳を握らされた。指が曲がらなくなっていたから、拳を握ろうとするだけで猛烈に痛いのだ。しかし放置しておくと使いものにならなくなると言われたら、リハビリと思って鍛えるしかない。それで今週は気がつくたびに「結んで開いて」をやっていた。おかげで指はすっかり腫れあがってしまった。

 今週からそれに、伸ばす動作が加わわったことになる。気がつかなかったが、握りしめることと同様、指を伸ばすこともできなくなっていたのだった。
 ふつうは、指を真っ直ぐ伸ばすと軽く反りかえるものだが、それが全然できなくなっていた。曲がったまま。伸ばそうとするとただただ痛い。たった1ヶ月で、そういう機能まで簡単に退化していたのだった。

 これでは指の腫れも当分消えないだろう。人間の躰というものは、つくづく微妙なものだと感心させられる。


2008.11.29
 早いもので事故からまる1ヶ月たった。順調に回復しているといえばいえるし、遅々とした歩みがもどかしいといえばなんとももどかしい。

 足の傷はどうやら癒えた。しかし内出血による腫れと痛みは、ほとんどそのまま。いまでもそろそろとしか歩けないし、階段の上り下りは、1段ずつ足を引き上げたり下ろしたりしなければならない。
 それにしても足がふくれあがるくらい内出血していたのに、その血を外へ吸い出しもしないで、すこしずつどこかへ消えているらしいのが、なんとも不思議だ。人間の躰というものは、つくづくすごいものだなあと感心するのである。

 だが思うように歩けないのはなんともつらい。じつは12月に東京へ帰るつもりをしていた。運転免許証の更新をしなければならないからで、この分だと、1ヶ月延ばしたほうがいいかもしれないと思いはじめている。
 いまの足では、人混みに出て行ける自信がないからだ。東京駅や新宿駅での乗り換えなどできそうもない。更新期間は誕生月の1ヶ月後まで有効らしいから、もうすこしようすを見てから決めようと思っている。

 今週は来客が集中し、今回の長編小説のインタビューを3件も受けた。雑誌が1に新聞が2、インタビュアーはいずれも女性。それですっかりいい気になって、まあしゃべったことしゃべったこと。いらざることまでしゃべってしまい、あとになって反省するのもいつものことだった。

 今週は本屋へも足を運ぶことができた。荷物持ちをしてくれる編集者がいたからで、大急ぎではあったが10冊あまりを確保して、これでまたしばらくは間が持てる。いまは本を読むくらいしかできないのである。

 仕事はまったくしていない。時間はたっぷりあるから、この間につぎの作品のプロットでも練ればよさそうなものなのに、それができない。終始ある鈍痛が、考えること、持続させることを妨げてしまうのだ。
 と、それをいい口実にし、無為な日々を過ごしております。


2008.11.22
 事故から3週間。遅々とした歩みではあるが、すこしずつ快方に向かっている。今日は右足の擦過傷がやっとOKになった。傷跡が固まってかさぶたとなり、絆創膏を貼るだけでよくなったのだ。
 これで躰を洗うのがずいぶん楽になった。お湯には入れないからシャワーしかできないのだが、入るまえに右腕と右足にラップをぐるぐる巻きつけ、ギプスと傷跡を濡らさないようにする手間が大変だったのだ。

 腕の骨もだいぶよくなってきたとかで、今日はギプスの巻きなおしをしてもらった。じつはそれを待ちこがれていた。このところギプスの内側がかゆくてたまらず、夜も眠れないくらいになっていたのだ。
 昼間はそうでもないが、夜布団に入って温まってくると、猛烈にかゆくなってくるのである。ギプスの入口から指を突っこんで掻くものの、肝心のところへは届かない。すっかりストレスがたまっていた。

 コチンコチンに固まっているギプスをどうやって取り外すのか、今回はじめて実見した。なんと、電動鋸で切り裂くのだ。
 どう見ても日曜大工で使う電動丸鋸である。それをじかにギプスへ当て、ものすごい振動と音でもって切り裂きはじめたからおどろいた。ちょっと手許をまちがえたら、皮膚を切り裂くどころか、腕くらい切り落としかねない勢いなのだ。
 あとで聞いたら、この鋸の刃は肌を傷をつけないようになっているのだそうだ。だったらはじめに言ってくれよ。

 久しぶりに見たわが右腕は、見るも無惨なくらい痩せ細っていた。早速かゆいところを存分に掻きむしった。おかげで関節の周辺が真っ赤になった。
 ところが医者は、このかぼそい腕をぐいとつかみ、遠慮会釈もなく曲げたりひねったりするのだ。痛いのなんの。関節がだめになるから拳をかためて強く握れ、と言われたって痛くて指が曲げられないのである。

 機能がかなり落ちているということのようだ。この分だとリハビリに苦労しそうである。
 そのあとまたぐるぐる巻きにされ、元のギプス姿にもどったが、いまにいたるも腕が痛くてたまらない。これまで痛かった足の痛みがすっかりかすんでしまった。
 来週からは通院も週1回になる。足さえよくなれば、かみさんの付き添いも不要となるだろう。

 京都はただいま紅葉シーズン真っ盛り、連日観光客で賑わっている。本来ならその間を縫って脇目も振らず歩き回っていたはずなのに、情けないことよ。そういえば去年も指に怪我をして、この時期ろくに外を出歩けなかった。


2008.11.15
  事故後2週間、ようく回復の兆しが見えはじめ、手の指と、足の腫れがだいぶ引いてきた。また昨日あたりから、足の痛みも目に見えてうすらいできた。

 動くときは、とにかく一回立ち上がって、痛みがやわらいでくるのを待たないと歩けなかったが、その時間がぐんと短くなってきたのだ。
 むろん痛み止めはまだ飲んでいる。当初はこの薬が合わなかったらしく、原因不明の下痢に悩まされた。薬のせいだとわからなかったのだ。それで退院後2日間、飲むのをやめてみた。すると下痢は治まったが、今度は痛くて歩けなくなった。
 それで現在は、1日3回を2回にして服用している。薬にも慣れてきたか、腹がごろごろ鳴ることはあるが、下痢はしなくなった。

 現在通院は週2回。足の擦過傷がまだよくなっていないからだ。手首の骨のほうは、毎回レントゲン写真を撮って、それを見てもらっているが、さして好転していない。多少ともよくなってきたらギプスを取り替えてくれるというのだが、その段階に達していないらしいのだ。
 おかげでけっこう痒い。真夏でなくてよかったと、つくづく思う。こちらはだいぶ時間がかかりそうだ。

 歩くのも苦手。そろそろとしか足が出せない。歩幅が開かないし、上下動も不自由だから、どうしてもよちよち歩きになってしまう。暇がたっぷりできたから、映画館とか、本屋とかへ行きたくてたまらないのだが、これも当分無理だろう。

 ということで、いまのところ達者なのは、口と胃袋のみ。食いたい、しゃべりたいで、毎日うずうずしている。
 さいわい今週は、関西へ出張してきた編集者がふたり、京都へ立ち寄ってくれた。それで大喜びして、逢いに出かけた。

 事故以来、病院以外のところへ出かけたのははじめて。これまでは、わざわざ来ることはないよ、と言っていたのに、いまではいらっしゃる人大歓迎、ということになってしまった。
 作家仲間とも最近は疎遠になっていたが、ホームページを通して、あるいは編集者を通して、すっかり知れ渡ったらしく、いろんな人から電話や、メールや、手紙をもらった。

 おれって、こんなに人気があったのか、なんて悦に入っているところ。これ、やはり怪我の功名かしら。


2008.11.8 (きのうの話 番外)

 お山で転けてしまいました

 とうとう年寄りの冷や水をやってしまった。勝手知ったつもりの東山をウォーキング中、足を踏みはずして谷へ転落、レスキュー隊のお世話になって病院へ担ぎこまれるという情けない恥をかいたのだ。
 むろん無事にすんだわけはなく、右腕と右足を骨折、右足全体が紫色になる擦過傷と打撲傷を負い、5日間入院していた。退院したい一心でむりやり帰ってきたものの、4階まで階段を歩いて登るのがものすごくつらかった。

 このところ調子がよくて連日歩いていたから、その日も軽く10000歩いてくるつもりで出かけた。28日の火曜日のことだ。行き先は清水寺の後にある東山。今回で4回目だったが、できるだけ同じ道を通らないのがポリシーなので、今回も清水寺の先にあるはじめての入山路から山へ入った。
 家を出たのは9時半。11時には所定のコースを踏破して帰路についていた。帰路もはじめての道を選び、その日は高台寺へ下りるつもりだった。
 その道を途中でまちがえたらしい。はっきりした踏み跡のついていた道がだんだん荒れてきて、とうとうなくなった。持参の1万分の1地図を見ると、坂本龍馬の墓がある墓地の上らしく、それもあと100メートルくらいのところまで下りていた。

 道はなくなったが、人の通った形跡はあった。だいたい東山はカシなどの常緑樹が多く、それが鬱蒼と茂って日光が地面まで届かない暗い森となっている。そのため下生えというものがない。笹1本生えていないから、その気になればどこへでも歩いて行ける。わたしは子どものころからこういう森で遊んできた。
 だから道はなくともそのまま強引に下りて行けばよかったのだ。急坂だったから尻餅をついて滑り落ちるぐらいのことはしたかもしれないが、前を向いて下りているかぎり、転ろげ落ちるようなことは絶対なかった。このくらいの里山で引き返したことなど、これまで一度もなかったのである。
 それがなまじ年をとり、余計な分別など身につけたものだから、つい大事をとり、ここは引き返したほうがよいとひるんでしまった。そして事実引き返してしまったのである。なんという愚挙か。これがそもそもまちがいの第一だった。
 つづいて、さっきくぐって通りぬけた木の下を、引き返すとき外側を回ってしまったのだ。これがまちがいの第二。しゃがむのが面倒くさかったからだが、安全だった木の下をくぐらず、外側を回ろうとしたことはたしかに軽率だった。

 あっと思ったときは足を踏みはずしていた。仰向けに落ちたからたまらない。もんどり打って転げ落ちた。
 どれくらい落ちたか、よくわからない。躰にはずみがついて、どうにも止めることができなかった。途中で立木になんとかしてつかまろうとしたが、つかめなかった。手首がぐじゃぐじゃになってしまったのはそのせいだ。
 谷の中間に、横倒しになった木があって、地面との間に30センチくらい隙間ができていた。そこに下半身がすぽっとはまって、ようやく止まった。
 助かった、と思ったもののまったく動けなかった。躰が痛くて動かせない。目を開けると、頭上の木の枝が見えた。その木の葉に色彩がなかった。画面が黒いのだ。色がもどってくるのに数分かかった。

 とにかく躰を引きだそうとしたが、動かせない。手首が妙にねじ曲がって、激痛が走っている。隙間にはまっている下半身も、痛くて足1本引き上げられない。自力ではどうにも動けないとわかって、はじめて助けを呼ぶ気になった。そのときはまだ、それほどの怪我とは思っていなかったのだ。
 背負っていたデイパックから、左手1本で携帯を取りだした。この5月に購入したもののまったく使わず、ふだんはスイッチを切ったままにしていた携帯だ。外に出かけるとき万一用として持参していたものの、使い方もろくに知らなかった。
 しかしよくぞ携帯を持っていたと思う。これがなかったら、そこへ横たわったきり、運よく人が通りかかってくれるのを待つほかなかっただろう。それが年に1回くらいは、迷い込んでくる人があるだろうか、という淋しいところだったのだ。

 あとでわかったことだが、その日、かみさんには東山へ行くと言ってなかったそうだ。そこらへ散歩に出かけた、とばかり思っていたという。だから携帯がなかったら、かみさんが捜索願いを出しても東山までは探してくれなかったと思うのだ。
 とにかく携帯のあったお陰で119番へ通報することができ、レスキュー隊に助けられた。しかしヘリまで出てきたのにはおどろいた。ヘリを出すと言うから「森が深いからヘリからは見えない」と答えたのだが、それでもやってきた。
 ヘリの役目は、わたしを見つけることではなかった。下にいる隊員がわたしの携帯にかけてきて、ヘリの音が遠いか近いか、近いとすればどれくらいまで近づいてきたか、そういうことを繰り返し聞いてきたからだ。

 救急車に収容されたのが13時1分。助け出されるまで1時間半くらいかかったことになる。だがその間のことは、じつをいうとあまりよくおぼえていない。
 レスキュー隊が来てくれたあと、気がゆるんだか気分がわるくなり、2回吐いた。チアノーゼも出ていたとかで、酸素マスクを当てられていた。
 坂が急すぎたため担架が使えず、運び出されるまでかなり時間がかかった。なにかに縛りつけられて下ろされたのだが、それがどのようなものであったかはまったく見ていない。目を開けていられないくらい気分がわるかったのだ。

 下まで一旦下ろされたあと、また担ぎ上げられて、林道へ入ってきた救急車に収容された。だが気づいたときは、あれほど苦労して助け出してくれたレスキュー隊員は、ひとりもいなくなっていた。そのため、お礼のことばひとつ述べることができなかった。

 前後の会話から、2ヶ所の消防署から車が来たみたいだったが、現場まで来てくれたレスキュー隊員だけでも10人以上はいたように思う。この場を借りて改めて心からのお礼を申しあげます。

 担ぎこまれた病院で5日間入院し、ひとまず土曜日に退院した。ひとまずというのは、このあと手術したほうがよいかもしれないということで、その後の経過を見ることにしたからだ。
 現在右手はギプスで固定し、指先がなんとか動かせる程度。右足は内出血でかかとから腰まで紫色となり、それが腫れ上がって一寸刻みにしか歩けない。むろん左手しか使えず、この文章も左手でキーを打って書いた。そのため何日もかかっている。

 11月7日のきょう、診察を受けたとき今後の局面について話し合い、その結果、手術はしないという結論を出して帰ってきた。このまま自然治癒にまかせるということだ。
 手術が成功したとしても元通りにはならないというし、神経に異常はないので、パソコンを打つくらいなら支障がない。それならこれで我慢しようかということになったものだ。自分が悪かったのだから、これくらいの後遺症は残っても致し方ないだろう。
 で、これで懲りたかというと、全然懲りていないのだ。あくまでもあのとき、引き返したのが悪かったと思っている。

 転落したときストックと眼鏡がどこかへ飛んでしまい、レスキュー隊が探してくれたけれど見つからなかった。治り次第探しに行こうと思っている。


2008.10.25
 食いたいものが食えるようになった仕合わせを、噛みしめながらの1週間となった。弱ってきた足腰をもう一回鍛え直そうと、歩きに歩いた1週間でもありました。

 まず病みあがりの土曜日、片道1時間かけて植物園へ行き、園内を歩き回ったら、その段階で万歩計が18000になった。いきなりだったからさすがに過酷だったらしく、地下鉄の階段を下りはじめたら、膝が悲鳴をあげた。
 しかし翌日は回復。で、今度はかみさんを連れて円山公園の後にある将軍塚へ登った。坂上田村麻呂の甲冑像が埋めてあるとかいう古い史跡だが、それより京都市を一望できる展望台として有名だ。海抜200メートル。車でも行ける。
 道を見つけるのに手間取ったが、知恩院の大鐘楼の後から山道が延びていた。道はゆるやかで歩きよい。30分で頂上に着いたから拍子抜けした。ながめも期待したほどではなかった。この日は14000歩。

 京都を取りまいている山々は、いつ見ても青々としている。山の木が針葉樹や闊葉樹で形成されているからだ。落葉する木が少ないから、森のなかは日が射しこまないくらい暗い。当然ながめもなくて、見通しがきかないのである。
 札幌の藻岩山も鬱蒼とした原生林におおわれていたが、こちらはほとんど広葉樹だった。葉の生い茂っている夏はなにも見えないが、秋になるといっせいに葉が落ち、木立越しに市街が望めた。京都に限らず西日本の山は、それと対極の森になっているのだ。

 なか1日置いて、今度はひとりで登った。時間がどれくらいかかるか知りたかったから、家を出るなり脇目も振らずに歩いた。
 知恩院の大鐘楼までが30分。山道も脇目も振らずに登ったら、たった15分で頂上へ着いた。家から45分しかかかっていない。片道6000歩に届かない距離だった。
 帰りは反対の方角へ下りた。インターネットで調べてみたら、東山トレイルと名づけられたハイキングコースになっていて、いくつか脇道もあることがわかったからだ。

 この日は清水寺に下りた。そしたら修学旅行シーズン真っ盛り。たちまち全国から来た中学生、高校生に巻きこまれた。デイパックにストックという恰好のじいさんが歩くところではない。このコースはもうやめよう。
 しかし京都人は山に興味がないのか、歩いている人はきわめて少なかった。標識も整備されているとはいえなくて、はじめてのぼるものには不親切だ。ただときどき見かける標柱が、古い石彫りの柱であることが、いかにも京都といえそうだが。

 水曜日は定期検診を受けに病院へ。それでこの日も思い立ち、1時間早出をして、病院へ行く前に豊国廟、つまり秀吉の墓所へ登ってきた。
 京都の地図を見るとすぐわかるが、豊国廟は三十三間堂の東寄りの山中にある。東大路通りから真っ直ぐな道が1キロにわたってのびていて、これがすべて上り坂。最後に待ち受けているのが、500段にものぼる一直線の石段だ。標高198メートル。

 じつは病院がこの道のいちばん下にあるのだ。それで前からこの直線道路が気になっていた。これを機会に、今回登ってみたのである。
 さすがにこの石段はつらかった。ながめもなし。見上げるたびに、何百段かの石段が見えるだけ。とても一気というわけにいかず、休み休み、シャツを脱ぎ脱ぎしながら、汗だくになって登った。
 上がったところで、五輪の塔型の墓石があるだけなのだ。それも明治の末期に築かれたもの。徳川家が秀吉の痕跡を完膚無きまでに破壊していたからだ。

 昨今の京都は、新撰組など幕末ものが大流行で、遺蹟の掘り起こしまで行われている。一方でいまの京都を造った秀吉はさっぱり人気がないらしく、ここは訪れる人もまれ。この日も登りはじめから下りてくるまで、ほかの観光客にはひとりも会わなかった。
 案内人(入園料が50円いる)に「ひとりも来ない日があるんじゃないか」と意地のわるい質問をしたところ「土日には来やはりますけどなあ」と苦笑した。

 しかし歩き回ったお陰か、定期検診の数値はこれまでで最高のよい数字が出た。これに気をよくして、これからも歩こう。
 今週の歩数、占めて52000歩でした。


2008.10.18
 こういう陰気な話はあまり書きたくないのだが、この1週間体調がわるくてなにもできなかった。原因不明の下痢をして、それがずっと治らなかったのだ。
 疲れたとき一過性の下痢をすることはときどきあったから、今回もそれだろうと思っていた。だが、なぜか治らない。思い当たることはなにもない。仕方がないから病院に行き、薬をもらって飲んだ。2日間静養して胃袋を干した。

 それでも治らない。この間食ったのは、やわらかく煮つめたうどんを1日に1玉。これを3回に分けてすすった程度。それでも止まらない。

 一昨年だったか、所用で郷里へ帰ったときがちょうど同じ状態で、このときも病院に行き、旅先だからということで強力な下痢止めをもらい、ほかの薬ももらった。それでも治るのにかれこれ10日かかった。
 もともとは何でも消化してしまうヤスリのような胃腸を持っていたのだ。それが10年ほどまえ上海で食中毒にかかり、ひどい下痢をして死ぬかという目に遭って以来、まったく自信がなくなってしまった。以後食いものにはきわめて用心深くなったし、臆病になった。

 むかしは下痢など1日絶食すれば簡単に治ったのだ。その回復が、年をへるごとに時間がかかりはじめた。むろんこれは加齢からくる体力の衰えもあるだろうが、とにかく腹を下すことにかけては、いつも細心の注意を払っているのだ。にもかかわらず、こういう目に遭ってしまうのである。

 やわらかめに炊いた白米に煮魚、煮豆腐という、なんとかふつうの食事を取れるようになったのが、やっと昨日、まる7日目のことだった。今朝起きたとき、腹の感じからして、ようやく治ったなという実感がはじめて得られた。

 おかげで躰は1週間でがたがたになってしまった。54キロ台だった体重は51キロを切ったし、近くへ買い物に出かけたら、足はがくがくするは、つんのめるは、しょっちゅうよろめいた。

 それで今日は深草まで出かけたのをさいわい、帰りは京都駅まで2・3キロを歩いてみた。車の多い通りだったから歩いて気持ちのよい道ではなかったが、それでも30分でなんとか歩き通せた。あすからもっと出歩こうと思っている。


2008.10.11
 散歩のし甲斐がある季節になってきた。鴨川の河畔をいつも歩いているが、出かけるときは、きょうこそもっと遠くまで行ってみようと思いながら、その足がなかなか伸ばせないでいる。
 水鳥が多いからである。見はじめたら飽きなくて、ついつい足が止まってしまのだ。いまの時期だとアオサギ、コサギ、チュウサギ、ダイサギ、ゴイサギ、ササゴイ、カワウなどが見られる。これに何種類かのカモが加わるし、もうすこしたつとユリカモメがやってくる。

 これまでいろんな街で暮らしてきたが、これほど多くの水鳥が日常的に、しかも1箇所でまとまって見られるところなんて、ほかにはなかった。
 水鳥が集まってくるのは、堰や浅瀬など限られたところである。当然その場所は多くないわけで、1箇所に何種類もの鳥が集まってくると縄張り争いが起こる。サギはだいたいが孤独な鳥で、ひとりで餌をとっていることが多いのだが、時と場合によっては、そうそうおっとりともしていられないのだろう。

 いちばん大きなアオサギは悠然と構えて、あまりほかの鳥を気にしない。また寛容なのか、数が増えてくると争いを避けるみたいに、さっさと飛びたってしまう。
 ちびの癖に向こう気が強くて、好戦的なのがコサギ。ゴイサギを威嚇したり追い払ったりすることがよくある。
 ゴイサギのほうが図体は大きいし、面構えだって強そうなのだが、意外と気が弱いらしく、ほかの水鳥が来たらだいたいは場所を明け渡してしまう。足の短い人間としては、足の短いのがコンプレックスになっているとしか思えないのである。

 そのゴイサギが目の仇にして追い回すのは、自分の子かもしれない幼鳥のゴイサギだ。巣立ってしまえばもう他人というわけだろう。産毛を残してまだむくむくしているゴイサギの幼鳥は、鴨川ではいちばん下位の水鳥となっている。
 ゴイサギの幼鳥が魚を仕留めるところは、夏の間見たことがなかった。ところが秋になって、めでたく仕留めたところをとうとう目撃した。一夏をすぎてすっかりたくましくなっていたわけで、思わず声をかけてやったくらいだ。

 どこに行っても嫌われものがカワウである。先日は捕ったコイだかフナだかを弄んでいるところを、この目で見た。
 潜ったり浮いたりしているから、はじめは単に魚を追っているのだろうと思った。ところが見ていると、浮きあがってくるたびに魚をくわえている。そのくわえ方が、横向きだったり尻尾だったり、見るたびに向きがちがうのだ。
 それでようやく、捕まえた魚を放しては、また捕まえているらしい、ということに気がついた。カワウが獲物にするくらいだからかなり大きな魚だったが、弱ってもう逃げ出せなくなっていたのだろう。それでしばらく遊んでいたのである。最後は頭から呑みこんでお終いにしたが、見ていてけっして愉快なものではなかった。

 鴨川では春にアユやアマゴの放流をしているが、この時期の川面には一面にロープが張られる。川の両岸に杭を打ち込み、これにロープがかけられるのだ。つまり水面上1メートルぐらいのところに、じぐざぐに張られたロープ模様ができる。
 ひどく目障りである。何のためにこんなことをするのだろう、と思っていたら、カワウが舞い降りられないようにするための防衛策だった。
 カワウというのは降りるとき飛びたつとき、滑空するための距離を必要とする。その邪魔をするためのロープだったのだ。野放しにしていたら、放流直後の幼魚は根こそぎ食われてしまうということだろう。期間を設けての暫定措置だった。

 カワウにも言い分はあると思うが、客観的に見てあんまりかわいらしい鳥ではない。


2008.10.4
 暑い暑いと言っていたら、あっという間に10月。今月の末には、京都での暮らしが丸1年になる。

 先週の初めまでは、日夜冷房をつけっぱなしにして、仕事をしていた。そしたら急に涼しくなり、日中の最高気温がいきなり15度になった。
 家のなかに籠もりっぱなしだから、それがわからなかった。部屋の温度はそれほど急に下がらないからだ。それなのに、タオルケット1枚で寝ていたからたまらない。
 明け方になって寒くなり、あわてて布団をだしたり長袖に着替えたりしたが、いやな寝汗が出はじめた。寒気が止まらず、気分はわるくなるばかり。最後はとうとう吐いてしまった。
 風邪を引いたときの典型的な症状である。ただ手当したのが早かったせいか、大事をとって1日寝たら、翌日からは仕事ができるようになった。9月末締切で書いていた中編も、おかげで2日遅れはしたものの、なんとか書き終えることができた。

 今朝終わったばかりである。今夜は久しぶりにのんびりした気分ですごせた。すぎてみたら、あれはいったい何だったんだ、と文句を言いたくなるような、些細なハプニングにすぎなかった。
 ただ、受けたショックは小さくなかった。最近自分の身に起こっていたすべてのことが、肉体の衰えを如実に突きつけられていたのだと、やっとわかったからだ。
 目がわるくなったことでも明らかだったように、わるくなったのではなくて、躰が状況に合わせられなくなっていたのだ。調節がきかなくなっていたのである。

 先週はその後も冷たい雨が降り、真夏がいきなり晩秋になったみたいな日が何日かあった。室内気温も20度まで下がった。
 パソコンに向かっているだけだから、じっとしていると寒い。長袖シャツの上にジャンパーを着込み、足にはソックスまではいた。20度以下になったらヒーターを入れようと思っていたのだ。
 その後天候が回復、いまはまたTシャツ1枚ですごせる気温になっているが、環境の急激な変化には、躰がついて行けなくなっているのである。

 考えてみたら、年をとってきたのだから当たり前のことだった。健康保険は高齢者だし、介護保険料だって払わされている。医者通いをしなくてすんでいるいまの肉体に、感謝すべきだったのだ。そういう自覚が、わたしのほうになかったのだった。

 だいたい編集者がいけない。「若いですねえ」とおだててくれるから、すっかりその気になっていた。肉体のほうは正直なのだ。外的環境に対して年齢相応の反応をしているわけで、こちらがそれをいい加減認めなきゃいけないということである。

 しかし「年寄りの冷や水」と陰口されるようなアホな生き方をつらぬくのも、わたしらしくていいかなあ。


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