Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

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2008.9.27
 この原稿は古いパソコンで書いている。逆戻りしてしまったのだ。
 VISTAにもよいところはあると思うが、安心して使えないのは仕事にとって致命的。とにかくいま書いている中編が終わるまでは、モバイルのほうを使うことに決めたのだ。
 それにキーの大きさも、わたしはモバイル向きだった。ハードユーザーにとって、キーボードはもっとも大切な道具。仕事の能率や、集中度がぜんぜんちがう。だいたいパソコンというと、マシンの性能ばかり問題にするのがおかしいのだ。

 これまで十数台のワープロ、パソコンを使ってきた。だがこれぞ究極のライティングマシンといえるものには、まだお目にかかっていない。
 キーボードでいちばん優れているのは、いまでもREAL FORCEだろうと思う。現在もデスクトップでは使っているが、できたらノートパソコンもこれで打ちたいと思っている。
 理想をいえば、ディスプレイだけがあってキーボードのないもの、つまりキーボードは好みのものにカスタマイズできるノートパソコンが欲しいのだ。
 なにしろ一日の大半を一緒にすごしている道具である。自分の分身みたいなものだから、すこしでも使いよくなってもらいたいのだ。最近のように目がわるくなり、ディスプレイの文字が読みづらくなってきたからなおさら。眼鏡を替えたり、パソコンを替えたりしているのも、すべてその焦りからである。

 ところが先日なにかで、視力が衰えて困っている人の多くは、使っているライトに問題がある、という記事を目にした。これには虚を衝かれた。というのも昨年あたらしいスタンドを購入したのだが、思ったほど使い勝手がよくなくて、最近は使っていないからだ。
 その記事によれば、買ったライトがわるかったことになる。インバーターとかいう蛍光灯スタンドにしたのだが、これは交流。交流はだめだというのである。ちらつき、明るさ、眼の疲れ、ともに失格らしいのだ。
 じゃなにがいいかというと、直流スタンドが絶対だと。直流は明るいばかりか、ちらつきがゼロ。現在のオフィス用照明のなかでは、最良なのだそうである。
 そうと知ったときは地団駄を踏んだ。というのもインバータースタンドを買ったとき、直流のバイオライトというのも、一応候補に入れて検討してみたのだ。
 ところが値段があまりにも高すぎた。3倍から4倍もする。それでつい二の足を踏んでしまい、最後はちょい高のインバーターでお茶を濁したというわけだった。
 あえて言い訳をすると、昨年はそれほど目がわるくなっていなかった。がたがたっときてあわてだしたのは、今年に入ってからなのだ。

 うーん、口惜しい。いちばん大事とかなんとかいいながら、わずかな金を惜しんでつまらない物を買ってしまい、結局粗大ゴミにしてしまった愚かさよ。というのでたちまち宗旨替え。すぐさまそのバイオライトなるものを注文してしまった。
 そのライトが一昨日届いた。早速パソコンの傍らに据え、点灯してみたところ、うわっと息を呑んだくらい明るかった。ディスプレイの画面にくっついている微細な埃、指紋の汚れなどがくっきり浮きだし、いままでこんな劣悪な条件でよく仕事をしていたものだとおどろいたのだった。
 とにかく明るいことはたしか。まだ二晩しか使っていないから、ほかの感想までは言えないのだが、気分だけは一新した。

 高い投資についたかどうかは、これからたしかめます。


2008.9.20
 あたらしいパソコンに泣かされている。
 突然画面の消えてしまう事故が、2日つづけて起こったのだ。もとの画面は出てこない。それまで書いてきた文章が一瞬にして蒸発してしまったのである。

 はじめの日は15枚、2日目は5枚の原稿が、こうしてなくなった。2日目は気をつけて、頻繁に保存終了をやっていた。だからまだ5枚ですんだのだ。
 こちらのミスにはちがいないと思う。だが今度のVISTAといま使っているソフトとの相性が、それほどよくないのではないかという印象は、これまで何回か感じていた。カーソルがときどき、とんでもない位置へ飛んでしまうのだ。
 原因は不明。タッチパッドが敏感すぎて、うっかりそれに触って、動かしてしまうのかとも思っているが、仕事でしゃかりきになっているときは、そんなことまで注意が及ばないのだ。

 ブラインドタッチで入力しているものの、誤操作はしょっちゅうやっている。いちばん多く起きるのが、日本語入力ができなくなり、半角英数字しか出てこなくなること。これをどうしても元へもどすことができない。仕方がないから1回終了して、もう1回やり直す、ということをやっている。
 どこをどう押しまちがえたらそうなるか、いまもってわからない。原因がわかれば、もう1回そこを押せば元にもどるはずだが、暇なときそれを突きとめようとしてもできないのである。

 だがこれまで打ってきた文章が一瞬にして消えてしまうといった、初期のワープロみたいな事故は、最近でははじめてだ。いまどきのパソコンは、内容を保存するかどうか、その選択もせず終了することはむずかしいはずなのに、なんの相談もなしにいきなり消えてしまうのだ。
 それも徹夜してくたびれ、そろそろやめよう、としていた矢先にきまって起きる。それが2日つづけて起こったのだから、怖くて仕事ができなくなった。
 これでは安心できないから、今日の昼、あれこれいじって同じ状況をつくりだそうとしてみた。しかしやはりできなかった。仕方がないからすべての設定をやり直し、再発防止になると思われることを一通りやり直した。あとは自分を実験台に、もう一回試してみるほかないのである。

 機械というものは、一度信用できなくなると、つぎから不安が去らなくなる。いまはまだ下書きの段階なので、消えて惜しいような文章ではないが、失った時間は取りもどせない。それがなんとも口惜しい。
 最後の安全策として、来週から執筆は小型ノートのほうへ移すつもりだ。仕事は小型、インターネットやメールは大型、というのもすごく面倒くさいのだけど。


2008.9.13
 このところ毎日のように、郵便ポストに取ってもいない新聞が投げ込まれてくる。きのうはどうやってマンションへ入ってきたか、ドアチャイムが鳴るので出てみたら勧誘員だった。新聞業界がいかにきびしい状況を迎えているか、こういうところからもうかがえる。

 雑誌の廃刊が相次いでいるように、活字媒体には容易ならざる時代となった。わたし自身活字のおかげでめしが食えている人間でありながら、いまでは新聞も雑誌もまったく必要としなくなっているのだ。
 ほしい情報ならインターネットでリアルタイムに、いくらでも手に入れることができる。しかもこちらはただ。新聞雑誌の勝てる要素が、ますますなくなってしまうのは致し方ないのである。
 京都へ来たとき、いい機会だから新聞をやめようと思った。しかしかみさんが活字信者で、新聞がないとさびしい、というものだから仕方なく講読している。
 わたしのほうは吹っ切れてしまったから、取ってはいてもまず読まない。見出しにざっと目を通す程度。ものの5分とかからない。
 署名記事に目を通すことはあっても、報道や論調は完全に黙殺する。ためにせんがためのバイアスのかかった記事は、どうにも読む気がしなくなった。テレビはなおさら。スポーツなどをのぞけばまず見ない。

 新聞雑誌やテレビが不要だと言い切るつもりはない。まだ必要な要素はあると思う。要は情報を送りだす側が、世の中の変化に対応しきれなくなり、その欲求に応えられなくなっているということなのだ。世間の欲している商品をつくりだせなくなった。責任はつくり手の側にある。
 決まりきった論法に、落ちのつけ方、こういう旧態依然とした切り方が、いつまでも通用するほど世のなかは甘くない。新聞もテレビも、トップを走っていたつもりがいつの間にか周回遅れになっていたのである。
 新聞を読まないと言い切るのは極端かもしれない。だがわたしとしては、あえてそういうところに自分を置き、もうひとつ自分を突き放して見たいのである。作家としてこの先も通用したかったら、つねに自分を変えていくしかないからだ。

 今週は再校ゲラが出たので、それにかかりきりだった。初校で真っ赤になるくらい手を入れたのだが、十分ではなかった。直したいところ、無視できないところが、まだ山ほどある。再校ゲラにあまり手を入れるのはルール違反なのだが、どこまで許してもらえるか、苦しい見直しをしているところだ。


2008.9.6
 あたらしいパソコンを買った。今度のはVISTAである。

 いまXPを2台使っているが、最近は椅子に腰かけてパソコンに向かったことがない。それでデスクトップのほうは、いつの間にかかみさん専用になってしまった。わたしはもっぱらロッキングチェアに寄りかかり、ベニヤ板に載せたモバイルを手前に置いて使っている。

 この画面が10インチと小さいので、だんだん文字が読みづらくなってきた。原稿は、縦書き20字×20行で書いているから問題ない。メールやインターネットのびっしりつまった文字が、読めなくなってきたのだ。
 横書きで、行間なしの文章となると、もうお手上げ。眼鏡が合わなくなったせいもあるかと思って、今年初めパソコン専用の眼鏡まで新調したのに、それくらいではとても追いつかなかった。視力そのものが衰え、調節がきかなくなっていたのだ。こうなったらパソコンを、画面の大きなものに替えるしかないのである。

 ディスプレイの大きさをどれくらいにするか、かなり迷った。結局大きすぎても手にあまるからと、13インチにした。いまになってこの選択は、もっと大きくてもよかったと後悔している。持ち運ぶことはないのだから、14インチでも15インチでもよかったのだ。

 この文章が、じつはあたらしいパソコンになってからの初原稿である。まだ慣れていないせいもあり、あまり使い勝手がよいとはいえない。VISTAそのものが、XPに比べてそれほどよくなった感じがしないのだ。メモリが2GBになったので、動きが機敏になったことくらいが取り柄だろうか。

 原稿書きと、メールと、インターネットしか使わないということで、ワードだとか、エクセルだとか、余計な機能はすべてはぶいた。しかし画面があまりにもちがうため、今回も初期設定から使い方まで、お助けマンに教えてもらわなければならなかった。節約したつもりが、いくらのマネーセーブにもならなかったのである。

 それに文章を書きはじめた段階で、この先もこのマシンで仕事ができるかどうか、自信がなくなってきた。当初の心づもりでは、自宅にいるときの仕事はすべてこちらでし、旅に出るときモバイルを持って行こうと思っていたのだ。それが思惑ちがいになりそうなのである。

 キーピッチがちがいすぎるのだ。13インチのほうはキーサイズが19ミリ、パソコンでは標準の大きさだろう。一方モバイルのほうは17ミリ。買うときは小さすぎて使いにくいんじゃないかと、おおいに迷ったくらいだ。ところが使ってみると、意外にもわたしには合っていた。手や指が小さいからぴったりだったのだ。
 わずか2ミリのちがいとはいえ、キーボード全体となるとばかにならない。それだけ腕や指の動きが大きくなるわけで、長時間の作業になると、疲れも大きくなるような気がするのだ。

 今月は雑誌用の中編を1本書くから、とりあえずあたらしいパソコンでやってみようと思っている。その結果がどうなるか。まさかこういう問題が出てこようとは思いもしなかった。


2008.8.30
 各地で記録的な大雨が降っている。東京の多摩も例外ではなかったみたいで、わが家がどうなっているか、少々気がかりである。
 水の溜まるところではないが、坂のいちばん下にあるのだ。これまで一度、前の側溝からあふれ出した雨水で庭が水浸しになったことがある。
 そのときの雨量が5、60ミリくらいではなかったかと思う。今回のような100ミリを超える豪雨というのは、まだ経験したことがないのだ。

 京都もこのところ連日雨がつづいている。しかし集中豪雨というほどは降っていない。昨日も外出しているとき降られたが、15分も雨宿りしていたらやんだ。
 おかげで暑さがずいぶんやわらいできた。今週は30度を下回った日が何日かあり、連続真夏日も59日にして途切れたとか。とくかく、夜涼しくなってきたのはありがたい。
 今週は化野・念仏寺の千灯供養に行ってきた。先に行った醍醐寺の萬灯会と同じ、精霊送りの行事のひとつだ。

 醍醐寺は灯籠だったが、念仏寺は蝋燭。当日の入場者に1本ずつくれるから、それを石仏のなかへ入っていってともす。その火がいっせいにともされたら千本やそこらにはなるわけで、こちらの看板に偽りはなかった。
 ただし夜とはいえ、よく知られた行事だから観光客は多かった。狭い境内は人だらけ、素人カメラマンだらけとなり、敬虔な雰囲気にはほど遠かった。京都だからこれは望むのが無理というものだろう。

 水曜日は2ヶ月に1回の定期検診日。数値に変化なく、おおむね現状を維持していた。ただしこの7月から切り替えられた高齢者国保の負担率が1割から3割に引きあげられたため、大幅な負担増となった。

 金曜日は映画『ダークナイト』を見てきた。傑作の呼び声が高いから期待していたのだが、わたしにはまったく合わなかった。はじまってすぐに、これはだめだと思った。それは最後まで変わらなかった。
 映画としてはよくできている。面白いし、役者の演技も際立っていた。だがどうにも、のれなかった。政治的にとらえすぎるかもしれないが、アメリカという国が透けて見えていまひとつ楽しめなかったのだった。


2008.8.23
 4日ほど取材旅行に出かけ、昨日帰ってきたところ、心なしか京都も涼しくなっていた。いちばんおどろいたのは、毎朝あれほどやかましく鳴き立てていた蝉の声が、まったく聞こえなくなっていたことだ。
 わずか2週間の命を終えて、いなくなってしまったらしい。いなくなればいなくなったで、なんとも淋しい。そのはかなさには、こちらの気持ちまでしゅんとしてきた。

 土曜日の夜は、五山の送り火を見に行った。テレビで見ていたし、山につけた火が燃えるだけのことだから、かみさんにつき合わなかったらまず見に行かなかっただろう。しかし実物から受けた感覚は、まるでちがった。テレビで見たのは見たうちに入らないと、つくづく思い知らされたのだ。
 けっこう厳粛、かつ深淵だったのである。真っ暗な山のなかであかあかと燃える火は、それだけで見ているものになにか訴えてこずにはおかないものを持っている。むかしの人が心をこめて先祖の霊を送り出した気持ちが素直に伝わってくるのだ。

 翌日曜日は、朝4時半起きして出雲へ向かった。60年に一度という出雲大社本殿の特別公開の最終日だったからだ。春先に公告されたときから、これは絶対見ておきたいと思ったものの、例によってぐずぐずしているうち時間がなくなってしまい、気がついたら最終日の8月17日が迫っていた。
 あわてて宿の手配などはじめたところ、夏休みだし、週末だし、お盆の最中だし、いまごろ探したってあるものか。八方ふさがりになって、一時はあきらめていた。
 しかしよもやと思って飛行機の便を探してみると、当日朝一番の便に少数ながら空席があったのだ。それに乗ったのである。

 空港からはタクシー。大社へは9時過ぎに着いたのだが、見るともう大変な人と車だ。しかも車のナンバーはほとんど県外。それを見たときはおおいにあせった。というのも入場できるのは先着順で、まずその整理券をもらわなければならなかったからだ。
 さいわいにもかろうじて間に合った。もらえた整理券が午後2時半からの分。4時で打ち切りだったのだから、ぎりぎりすべり込んだことになる。

 そのあと、島根半島に残っている北前船時代の港2箇所を駆け足で見てきた。必ずしもつぎの小説で使うわけではないのだが、前から気になって、機会があれば見たいと思っていたところだ。

 肝心の大社本殿の見学はあっという間に終わった。ふだんは入れない内陣に入れてもらい、本殿の回廊に上がり、高欄のついた縁を一周。最後に本殿の正面に坐って説明を聞きながら内殿を仰ぎ見る。この間たった15分。言ってしまえばそれだけのことである。

 しかしやはり、この目で見てみないことにはわからものがある。現在の本殿は260年ほど前の建築だから、当然のことながら外観はくすんだ灰色、地味きわまりない色をしている。しかし内殿は、ふだん開けられることがないからだろう。いまでも建築当時の白木そのままの色をとどめていて、直径1・1メートルの心御柱など、木の香が匂ってきそうな新鮮な色を保っていた。
 内殿の天井には8つの雲形が描かれていて、これを見られることが、今回の公開の最大の呼び物になっていた。この雲形も建築当時の色そのまま。以後一度も修復や塗り直しはされていないという。たったそれだけのことだが、すべて実物を見てみないとわからないことだった。

 出雲のあと、浜田、松江、鳥取の城下町を回ってきた。こちらはただひたすら暑かった。途中で温泉に入れたのが唯一の救い。
 ただし、最後に立ちよった城崎温泉があまりにひどかったから、ここは特別に俎上にのせさせてもらう。

 列車の待ち時間があったから、その間を利用して町営の浴場で一汗流して帰ろうと思った。ところが浴室に入った途端、眼がちかちかしはじめた。むかし千駄ヶ谷のプールへよく行ったが、プールサイドへ入ったとき、真っ先に感じるのがこの眼のちかちかだった。消毒用塩素の刺激臭なのだ。
「え? まさかこの温泉、塩素が入っているのか?」
 とうろたえながら入ってみると、温泉感というものがまるでないのだ。もうまったくのただの湯。

 今回はその二日前、三朝温泉にも立ちよって町営の浴場ふたつをはしごしてきた。こちらは小さな浴槽がひとつあるきりのじつに素っ気ない浴場だったが、泉質はさすが三朝と思わせるいい湯だった(入浴料200円と300円)。

 城崎ではそういう湯触りというものがまったく感じられなかった。まさかと思って掲示されている成分表を見てみると、加水、循環、消毒と、温泉の三大マイナス要因なるものをすべて網羅しているではないか。
 帰ってインターネットで調べてみたら、城崎の湯はすべて、組合のほうで一体配管して、各旅館、浴場に同じ湯を配給しているとあった。湯が少なくなっているのか、泉温が下がっているのか、どういう事情があるのか知らないが、地球の贈り物である温泉を、人工的にわざわざ殺して、天下の名湯でございと喧伝しているのは羊頭狗肉といっていいのではないか。街の銭湯となんら変わらないのだ。それを城崎というだけで入浴料800円も取るのである。

 世間がこれをどうして問題にしないのか、不審でならない。なにも知らずに塩素づけのお湯を浴びに行く観光客こそいい面の皮だろう。営業妨害と言われるかもしれないが、こんな温泉をのさばらせておくのはわたしのポリシーに反する。

 声を大にして言うぞ。
 天下の悪湯、城崎温泉!


2008.8.16
 地獄の責め苦に等しい暑さがつづいている。それにしても京都のなんという暑さ。文章が書ける気候では断じてない。この分だと来年は考え直さなければならないだろう、という気さえしている。

 ただ暑さにかまけて、家のなかに閉じこもっているのも癪だから、今週も2回、炎熱のなかへ飛びだして行った。ひとつが陶器市、もうひとつが古本市である。

 陶器市のほうは東山の五条通りで開かれていて、家から歩いて5分の距離。病院へ行くときいつも通っている道だが、これまで歩いたことはなかった。
 通りのなかほどにある若宮八幡宮が焼きものと係わりがあるらしく、その祭礼に合わせて開かれている市らしい。あらためて気がついてみると、陶器店の多い通りだった。陶器市としての歴史も古いのか、両側の歩道が出店のテントで埋まっていた。

 それにしても、もっとおだやかな、いい季節にやってくれないものか。日陰ひとつないかんかん照りの歩道なのだ。地表の温度ときたら四〇度を超えているだろう。冷やかしながらそぞろ歩く雰囲気にはほど遠いのだ。結局冷房の効いた店で、急須を買ってきただけだった。

 なか一日おいて、今度は下鴨神社で開かれている古本市へ足を運んだ。こちらは糺の森に三〇を越える店がテントを張り、なかなかの規模である。こちらも張りきって、気に入った本があったら何冊でも買うつもりで、デイパックを背負って行った。
 ところがこの日が37度まで上がったとびきり暑い日。立っているだけで全身から汗が吹きだしてくる最悪のコンディションだった。森の木陰だし、傍らには清流が流れているし、といったことがなんの慰めにもならない。ひたすら暑くて、いまにも熱中症になりそうだった。
 それに店が多いから、本の数も半端ではない。文庫本、均一本の類はすべてパス。ひとつの棚を数秒で、さっと見て歩かないと追いつかないのである。ついでのことながら、二〇〇円均一本のなかで自分の本を2冊見つけた。だからこういうコーナーは精神衛生に悪いのである。

 2時間以上うろついて、最後は疲れ果てた。収穫は本三冊と、古地図1枚。大型本で買いたいものが2点あったけど、背負って帰る気になれなくて見送ってしまった。
 当然のことながら、こういうところにやって来るのはたいてい年寄りである。なかには「あんた、いまからそんな本を買って、読む時間などあるの?」と言いたくなるようなよぼよぼもいたけど、そんなことを言い出すと「おまえさんにだけは言われたくない」と言い返されそうだから、横目で見るだけにした。
 しかしわたしよりはるかに年上のじいさんが、厚さ10センチもある大型の美術本を背負って帰る姿を見たときは「負けたなあ」と思った。

 あすの夜は「五山の送り火」を見に、かみさんを連れて御所あたりへ行ってこようと思っている。祇園祭のときいなかったから、その罪滅ぼしである。
 一方テレビでは、先週からオリンピックという一大スペクタクルが開かれているが、わたしは一切見ていない。国民体育大会と同じで、オリンピックはすでに使命を終えていると思っているからだ。わたしなどがとやかく言うことではないだろうから、自分の位置を鮮明にしておくためにも、見ないことにしている。

 来週は取材で山陰まで行ってきます。


2008.8.9
 月曜日、待ちに待ったクーラーがやってきた。壁に穴を開けることができないため、窓にフレームをはめこみ、そこの穴からホースを外に出しているから、見てくれはけっしてよくない。
 また取りつけ壁も上下幅が十分ないため、軽量、小型のものしかつけられなかった。それでも壁から下へ数センチはみだしている。いかにもとってつけた感じの落ちつかない恰好なのだ。

 とはいえクーラーはクーラー。部屋の空気がドライになって、27度くらいまで気温が下がってくれると、ほんとうに生き返ったような気分になる。このところずっと35度前後の日がつづいているのだ。
 しかし冷房を効かせた部屋に籠もりっきり、というのもけっこう疲れる。暑さでうだって、げんなりしているのとは疲労の中味がちがうのだ。それでできるだけ外へ出るようにしている。

 今週はかみさんにつきあって、山科にある醍醐寺の萬灯会なるものに行ってきた。醍醐寺は桜の名所だそうで、桜の古木が鬱蒼と生い茂り、花見どきはさぞ壮観だろうと思われた。
 その代わりものすごい人出だとか。今年花見に行ったかみさんたちは、ろくろく歩くことができず、境内の半分も見られなかったという。わたしならお金をもらったってそんなところへ行くのはいやだ。

 肝心の萬灯会は、この時期はほかの寺でも同じ催しをやっているし、醍醐寺が市の中心から離れているせいもあってか、思いのほか人が少なく、地元の人しか来ていない感じだった。その分ライトアップされた国宝の五重塔や金堂を落ちついて見ることができた。
 だが肝心の灯籠まで少なかったのはがっかりした。夜の闇に、見渡す限り灯籠が浮かびあがって、といった幻想的な光景を想像していたのだ。これじゃ萬灯会じゃなくて、百灯会じゃないかと悪口を言いながら帰ってきた。信心のないものにはなにを見せたってだめである。

 あえて好意的に解釈すると、もともと寺の行事など、これが正常な姿であって、全国から観光客がぞろぞろ押しかけてくるほうが異常なのだろう。
 先日、昨年度の京都の観光客数が発表されたが、毎年更新されているとかで、去年は4900万を越したという。月400万人、毎日13万人からの観光客が、市内にあふれかえっている計算だ。まことにすさまじいとしか言いようがない。

 これからはできるだけ、観光客のやってこない行事を探して見に行こう。


2008.8.1
 暑いはず、7月の京都は31日間すべてが真夏日だった。しかも12日間連続35度以上の猛暑日、というおまけまでついていた。
 1ヶ月真夏日がつづいたところは全国で8箇所あったそうだが、2箇所は九州で、あとは沖縄や奄美大島ばかり。つまり本州では京都がいちばん暑かったということだ。

 覚悟はしていたが、札幌と京都の差がこれほど大きいとは思わなかった。いまになって、えらいところへ越してきたなあ、と泣きが入っている。しかもわたしの部屋にはクーラーがないのだ。
 東京にいたとき、クーラーを設置してもよいという許可がおりたので、帰ってきた翌日、すぐさま買いに行った。そしたら、いまごろのこのこやって来てなにを言うかとばかり、最低でも1週間待ちだと宣告された。
 おかげで西日のさんさんと照りつける部屋でまだ我慢している。日差しをさえぎる庇ひとつない構造なので、夕方になると、部屋の床面積の8割までが日溜まりになってしまう。とてもいられたものではない。

 夜、涼風を求めて鴨川へ行くと、橋の上にいる限り涼しい。川面で冷やされた心地よい風が吹いてくるからだ。だが、では京都の夏の風物詩、納涼床の華やかな光景を見ながらそぞろ歩きを、と思うとこれが全然涼しくない。河畔のコンクリートがじっとりと温まっているからだ。

 風が吹いてきても温風だし、水道の水はぬるま湯。そのままシャワーを浴びられる。わずかに、ようやく涼しくなるのは明け方だが、その朝すら安眠させてくれない大敵がいる。
 南隣がいまにも崩れおちそうな古家で、庭にキンモクセイの木がある。もとは1本だったのだろうが、いまでは何本にも枝分かれし、鬱蒼とした大木になっている。枝の先端が4階に住むわれわれの目線と同じ高さにあるから、キンモクセイにしてはかなりの高木だ。

 この木にはつがいのキジバトが棲みついていて、ときどき鳴いてくれる。それはご愛敬だったが、最近クマゼミがやってくるようになった。棲みついているのか、飛んでくるのかわからないが、朝になるとウワーンといっせいに鳴きはじめるのである。
 クマゼミというのはもともと声の大きな蝉だから、こいつが何十匹も集まってきて「シャワシャワシャワシャワ……」とやりはじめたら、その喧しいこと。窓のすぐ外、近い枝だと二メートルと離れていないところにあるのだからとても寝てられない。しかも腹立たしいことに、この蝉は朝方しか鳴かないのだ。10時頃になるとぴたっと泣きやんでしまうのである。

 来週はこの暑さが解消し、蝉の声も気にならないくらい快適になっているだろうか。とにかくいまは虫の息である。


2008.7.26
 ゲラの初校直しがやっと終わった。土曜日の夜からはじめて木曜日まで、まる5日かかった。2回読み直して2回とも赤を入れ、10枚くらい書き足した。
 おかげで今週はどこにも行かなかった。めしと買いもので2回、近くのスーパーやデパートへ出かけたくらい。昼と夜が逆転したから、家も閉め切ったままだった。

 きのうの夕方、できた原稿を送りに行き、そのあとはればれとした気分でめしを食いに行った。5日間の褒美にとびきりうまいものを食うつもりだった。
 着いてからなにを食うか、迷いはじめた。食えるのは1回、食いものは無数。無力感にさいなまれる選択だ。あげくの果て、笑われるかもしれないが、またトンカツになった。われながら変わりばえがしない。
 ほんとはカツ丼を食いたかったのだ。しかしトンカツ屋に入ったため、カツ丼がなかった。それで鍋膳とかいう柳川風のトンカツにした。

 じつをいうと先週、べつのところで同じものを食う機会があった。トンカツは半年に1回と決めているから、いい機会だと思った。ところがウエイトレスが、鍋膳はすこし時間がかかりますけど、というからやめた。
 それでつまらないものを食ってしまったのだが、あとから入ってきた客が同じものを注文した。こちらが帰るとき、それが運ばれてきた。
 土鍋の蓋を取ると、卵とじにされたトンカツがうまそうな音と湯気を立てた。それを見て、やっぱりあれにしておくんだった、と深く後悔しながら店を出たのだった。
 その恨みと未練が頭に残っていた。だから今回は、なにがなんでも鍋でなければならなかった。意地であり、リベンジなのだ。味なんかどうでもよい。食った、という義務を果たすのが先なのである。

 カツ丼、天丼、串カツを、ときどき猛烈に食いたくなる。べつに禁じられているわけではない。医者からは、食ってもいいが残しなさいと言われている。
 高脂肪、高カロリー、高炭水化物は糖尿病の大敵である。残したくないから半分はそのまま食うが、あとはいつもカツや天ぷらの衣を剥いで食っている。今回はロースカツだったので脂肪が多かった。涙をのんで両端を残した。

 明後日京都へ帰る。今回も20日東京にいたが、この間魚は1回も食わなかった。東京へ出て来ると、わるい食いものばかり胃袋におさめている。京都へ帰ると正しい食生活にもどるから、これでバランスが取れているのだろうと自分では納得している。


2008.7.19
 昼寝をしていたらなんだか外が騒がしい。雨と風が叩きつけているみたいな音なのだ。おかしいなあ、こんな日に雨が降るはずはないのにと、しばらく寝ぼけていた。

 だがたしかに雨と風の音だ。しかも相当はげしい。やっと目が覚めるとあわてて飛び起き、2階へ走った。風通しをよくするため、網戸1枚の開け放しにしてあったのだ。
 遅かった。北からの風雨がもろに網戸へ吹きつけ、2階じゅうが水浸しになっていた。大袈裟でなく畳の上に水溜まりができていた。
 まずいことに布団と毛布、座布団が壁際に積んであった。それがいずれもびしょ濡れ。バスタオル製の足拭きを数回絞らなければならないくらい水を拭き取った。住人が不注意すぎるとはいえ、どうもこの家は水難の相がある。

 風雨は10分ぐらい荒れ狂ったのち、嘘みたいにやんだ。これほどひどい風雨ははじめて経験した。多摩に住んで40年。雨の降り方が完全に変わってしまったみたいだ。この手の局地的な集中豪雨はこれからますますふえるだろう。
 布団や毛布類は2日天日干しをしたらなんとか乾いた。しかし畳はまだ。梅雨が上がったら、とりあえずあげてみようと思っている。帰るまえの余計な仕事が増えた。

 パスポートを受け取りに行ったついでに、『インディ・ジョーンズ』を見てきた。京都で一度映画館まで行ったのだが、土曜日だったせいで満員。最前列しか空いていないと言われてあきらめていた。
 京都に行ってからは、まだ映画を見ていなかった。10分ほど歩くとシネコンがあるから条件は札幌と同じはずだが、あまりそういう欲求が起きないのはなぜだろうか。街のちがいが影響しているのかもしれない。
 『インディ・ジョーンズ』みたいなばかばかしい映画は大好きだ。話のつじつまなんかどうでもよくて、ただただ仕掛けを楽しんでいればよい映画だが、今回は期待したほどカタルシスが得られなかった。わたしの感性がそれだけ衰えてしまったのかもしれない。

 昨日はこの秋刊行予定の長編のゲラが出た。350ページ。あすからの連休を使って直すつもりで、この間外出しなくてすむよう食いものの買いだめをしてきた。タイトルは未定だ。


2008.7.12
 今週は東京にいる。今回は3ヶ月以上間が空いた。おかげで当然のことながら用がたまり、以後連日外を出歩いている。

 まずパスポートの更新に行った。うっかりして有効期限切れにしてしまったのだ。
 距離からいえば、立川にあるパスポートセンターがいちばん近い。しかし戸籍謄本が必要。わたしの本籍は、結婚したとき移したから池袋になっている。それで豊島区役所まで行かなければならない。
 したがって申請はいつもサンシャインで行なっている。サンシャインの所在地東池袋が本籍地なのだ。この界隈には30年あまり住んだ。
 サンシャインもできたときから出入りし、都内でもいちばん知りつくしているところだった。それなのに今回は道をまちがえるは、なかで迷うは、大汗をかいてしまった。

 池袋に限らない。東京の移り変わりのはげしさには、帰ってくるたび目を剥く。いきなり街角へ立たされたら、どこにいるのかわからないだろうと思うのだ。
 このめまぐるしさ、とどまることのない変化が、日本の活力となっていることは疑いないとしても、年寄りはもう感覚的について行けないのである。
 それでも好奇心は失いたくないから、帰りはできたての地下鉄副都心線に乗った。だがこれも駅を探し当てるのにずいぶん歩き回った。標識を読みまちがえ、とんでもない方向へ行ってしまったからだ。

 この日は本を買いまちがえるミスまでやらかした。カウンターへ持って行ったところ、1400円ですと言われた。なんだか安いな、とは思ったもののそのまま払って持って帰った。帰って取りだしてみたらまったくちがう本だった。
 この本は買おう、と思ったとき値段を見ているのだ。たしか2200円だった。ただそのときはほかの本も見たかったから、いったん棚にもどした。あとで引き出してカウンターに持って行ったとき、まちがえたのだ。あまりの間抜けぶりに腹も立たなかった。

 その夜遅く、ほかにだれもいない部屋のなかでときならぬメロディが鳴った。え、なんだ? と思ったが、心当たりがないからそのままにした。するとしばらくして、今度は金切り声みたいな音に変わった。
 それではっと気がついて鞄をのぞくと、先々週買ったばかりの携帯が電池切れを起こしていた。その後一度も使っていなかったが、旅先ぐらい持って行かなきゃと思って持ってきたのだ。その電池が切れたのだった。

 はじめのメロディが電池切れを知らせる前ぶれで、つぎはいよいよ切れるよという断末魔の叫び。それにしても、使ってもいないのにこれほど簡単に電池切れを起こしてしまうとは。あらためてその不便さにあきれている。


2008.7.5
 ものすごく暑くなってきて、じっとしていても汗がだらだら流れてくる。クーラーがないのでとても仕事にならない。管理会社を通じて取りつけさせてくれと願いを出しているのだが、家主からの返事がまだないのだ。それで悲惨な状態に陥っているのである。

 今週は高校時代の同窓会に出席するため、大阪へ行って1泊してきた。東京での会には何回か出ているが、札幌へ行ってからはそれっきり。今回関西へ越してきた以上、大阪の会へも一度は顔を出さないとわるくなってきたのだ。

 それはいいとして、大阪では地下鉄に乗るたび混乱する。なまじ50年前の知識があるためいちいち戸惑うのだ。
 ホームに降りるとちょうど電車が止まっていた。発車寸前。行き先だけたしかめて飛び乗ったところ、乗客のわたしを見る視線がきついのだ。
 なにもそんな目で見られる覚えはないぞ、とこちらははなはだ心外だ。よっぽどにらみ返してやろうかと思ったが、しばらくしてからはっと気がついた。女性専用車両だったのだ。
 昼間の地下鉄に女性専用車両があるなんて知らなかった。つぎの駅であわててほかの車両に乗り換えたが、真昼間でもこういう車両が必要なのかなあ。人間の多すぎる東京だったら成り立たないシステムではないかと思うのだ。

 同窓会には20数名が集まってなかなか盛況だった。粗衣粗食に耐えてきた世代だから、みな体だけは丈夫なのである。女性が4名。これは女子のいるクラスが2つしかなかったからいつもこんなもの。とはいえ全部で何クラスあったか、そういうことはまったく覚えていないのだ。
 郷里や東京からきた出席者も5、6名いたが、これは世話役の人柄に負うところが大きかった。東京の会がこのところ鳴かず飛ばずになっているのも、これまで世話役をしてくれていた男ふたりが郷里へ引き揚げてしまったからだ。

 今回はもと同級生だったMと50数年ぶりに顔を合わせた。恐ろしいもので一目でわかったから、人間というものは変わったようでなにも変わらないものが歴然と残っているものだ。
 Mの入っていた寮には数回遊びに行っているが、向こうはわたしをまったく覚えていなかった。しかし話しているうちに甦ってくるものがあったか、会が終わってからべつのところに席を移し、ふたりで2時間近くしゃべっていた。
 とくに親しかったわけでもないのに、なぜこの男のことを覚えていたかというと、なんとなく気の合いそうなものを感じていたからだろう。案の定、話しているうちにやつがけっこう小説を読んでいて、船戸与一と佐々木譲のファンだとわかったからうれしくなった。

 そのくせわたしの作品は全然読んでいないのだ。しかしいま樋口一葉の「たけくらべ」を読んでいるというから許してやった。学校の性格上、実業界にすすんだ人間が大半なので、同窓会に出てこういう話のできる男に会ったのははじめてなのだ。
 彼がサラリーマンとしてはどれくらいのところまで行ったか、気になったがそこまでは聞けなかった。






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