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2008.6.28
とうとうと言うべきか、金輪際持つまいと誓っていたケータイを、ついに手に入れてしまった。大げさにいえばわが人生の汚点かもしれず、節義を曲げてしまったことがなんとしても無念である。
なんにもない田舎へ出かけたとき、自宅はじめいくつかと緊急の連絡を取る必要があったため、やむを得ず買ったものだ。駅を一歩出てしまえばどこにも公衆電話のないところだったのである。
それでいちばん近くにあった販売店へ飛び込み、買ってすぐ使えるケータイはあるかと聞いてみた。1時間後には実物を手にして、実際に電話をかけていた。必要だったのは免許証の提示だけ。金も1万円札でだいぶお釣りがきた。
あまりの気軽さと便利さに、感心するというよりあきれた。電話1本引くのに何年も待たされ、債券まで買わされた記憶を持つ世代としては、これほど簡単に使えていいものかと鼻白む思いがするのだ。
一方で緊急の用はあっという間に片づいてしまい、半日もしたらなんでこんなくだらんものを買ったんだ、みたいな気分になっていた。はじめて手にしたケータイで自宅へかけたときは、もう用が終わっていたのだ。
たった1回使ったきり。かといっていまさら返すわけにもいかない。2年間は使わなければならない決まりなのだ。
だったら使いこなすほかあるまいと、マニュアルと首っ引きで電話帳やアドレス帳をつくりはじめた。打ちまちがえたり失敗したり、20数人分入れるのに3時間かかった。
そのあと、せがれ相手にメールの練習をした。こちらの返信が向こうへちゃんと着いた、という知らせが入ってきたときには、拍手をする絵文字が入っていた。
それではじめて気のついたことがある。かみさんの姉がケータイを使っていて、ときどきメールをくれる。こちらはそれをパソコンで受けているのだが、文字が二の字になった、いわゆるゲタをはいた文になっていることがよくある。
年寄りだから打ち間違えているのだろうと、われわれ夫婦は一方的に思いこんでいた。あれは絵文字を使っていたのだ。パソコンだから文字化けを起こしていた、ということを当方が知らなかったのである。
このケータイ、後にも先にも使ったのはその日きり。いまは書棚で埃をかぶっている。家族以外にナンバーを教えていないのだから当然とはいえ、いまのところ公開するつもりはない。こんなもののお世話にならないおだやかな暮らしが望みなのである。
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2008.6.21
岩手・宮城内陸地震の詳細が明らかになるにつれ、おどろきと痛みとが増している。というのもこの辺りは、東北でいちばんよく知っているところだからだ。
現在中断しているホームページの連載小説『あしたの空』の舞台が、まさに今回地震に直撃された栗駒山の中腹なのである。土石流で押し流された駒の湯温泉にも入ったことがあるし、大規模な地滑りが起こった荒砥沢ダム界隈もくまなく走り回り、それこそ知らない道がないくらい地理には精通していた。
また土砂に堰き止められて決壊が懸念されている一関の矢櫃ダムや、落ちた祭畤大橋がある国道342号線も、数え切れないくらい往復している。単に小説の舞台に選んだからではなく、ことによったらいまごろはここに住んでいたかもしれないのである。
ただそれくらい知りつくしていたつもりだったにもかかわらず、これほど地震に弱い地質だったという認識は、これまでまったくなかった。それこそ原型をとどめないくらい変わり果てた荒砥沢ダム周辺の航空写真を見るたび、信じられない思いが甦ってくるのだ。
今回大地震に見舞われた地域は、東北のなかでもいちばん人口がまばらなところのひとつである。ただしもとからそうだったわけではなく、これはやはり過疎化の進行によってもたらされたもの。いまわれわれが見ている写真は、手つかずの自然ではなくてほとんど人の手の入った土地なのである。
小説のなかに出てくる小学校の分校が、今回の震災を受けるまでまだ現役として存続していたことを知ったときは興奮した。いまでも3名の児童がいたらしいのだ。
ここは戦後満州から引き揚げてきた人たちによって拓かれたところで、最盛期は100人を超す児童がいた時代もあったとか。わたしが訪ねて行ったころはすでに6名となっていた。
それでもまだ奇跡的に思えたものだ。山の小さな小学校など町の本校に吸収され、当時すでにほとんどなくなっていた。それがわずか数名の児童のため、地区の人が努力して小学校を存続させていたのだ。ある日のPTAの集まりのとき、30人を越える人が集まってきたのを見て目をみはったものである。
地域共同体というものがまだ残っていた。しかもなんとか機能していた。だからこそ小説の舞台にさせてもらおうと思った。わたしとしては代表作を書くくらいの意気込みではじめた連載であった。
それがどうにもつづけられなくなり、いまではもうこのホームページのリストから外してもらおうかとまで思っている。継続も再開もできそうにないからだ。
いちばんの理由は、現実がフィクションよりはるかに先行してしまったということに尽きる。わたしが考えていたより実際の社会変化のほうが早すぎ、しかも土石流さながらの奔流であるため、いまさら小説ごときものでなぞってもしようがないと思えてきたのだ。
わたしはこの小説で、家庭の崩壊とそれに巻きこまれて生きつづけなければならない子どもの姿を書こうとした。だが意図した時点で、わたしが考えていた家庭像などとっくに崩壊してなくなっていたのだった。
それはとりもなおさず社会の崩壊であり、必然的にもたらされる個人の崩壊であり、人格の崩壊であり、親というものの崩壊であった。それが危機に瀕していると気づいたことがそもそも遅すぎたのだ。そんなものはとっくに完成しており、いまさらことばの出る幕などなくなっていたのだった。
くだくだしく言いはじめたら小説論になるから今回はこれ以上触れないが、地名を久しぶりに聞き、小学校がまだ存続していたことを知って、その意義を再度突きつけられたことはたしかである。
無期限休校となってしまったこの分校がこの先再開される見込みがあるか、大きな危惧を覚えずにいられない。これを機会に廃校ということになったら、その可能性のほうがはるかに強いと思うのだが、それは現代社会のひとつの完結だとわたしには思えるのである。
せがれのひとりが農業をやりたいというので、じつは一関の隣にある衣川、現奥州市に農地の手当てをしたことがあるのだ。その後情勢が変わり、長野に行って百姓をはじめたため、その土地は放置したままとなっている。もともとが休耕地だったから、いまではもう山林にもどっていると思うが、場合によったらいまごろはそこに住んでいたかもしれないのである。
それにしても今回の地震は、われわれが薄氷の上に住んでいることをあらためて思い知らせてくれた。自分がいつ地震の被害者になるかもしれない蓋然性は、日本人ならみな平等に持っているのである。
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2008.6.14 きょう(金)の午後、テレビで『行きずりの街』が再放映されていた。新聞のテレビ欄に載っているのをかみさんが見つけたもので、わたしはまったく知らなかった。
というより、そんなものがあったっけ、と一瞬あっけにとられた。それくらい完全に忘れていた。主演が水谷豊だから、いま当たっている『相棒』人気にあやかって、むかしのものを引っぱりだしてきたのだろう。
もちろん黙ってやるわけはないから、東京の自宅へは再放映の通知が届いていると思う。いずれにせよわたしはこの作品を見ていないのだ。きょうも謹んで敬遠させてもらった。
ラジオの朗読なら何度か聞いたことがあるが、ドラマになったものはこれまで一度も見たことがない。気恥ずかしくって、とても見る気になれないのだ。
だいたい映像と活字とはまったく別物だとわたしは考えている。だから自分の作品が映像化されたからといって、おいそれと見る気にはなれない。原作者の目で映像化されたものを見て、おもしろかったり感激したりできるとは思えないのである。
だから自分の作品がドラマ化されるときは「どうぞ、自由にやってください」と言うだけにして注文はつけたことはない。映像作家が小説から得たものをベースにしてイメージをひろげ、自分の映像作品をつくってくれたらよいのであって、それはもう原作とは係わりのないものなのだ。
じつはいま『行きずりの街』の映画化の話が別個にすすんでいる。その「準備稿」なるシナリオが、つい今週、出版社から送られてきたばかりだった。
無責任みたいだけど、この話もまったく忘れていた。台本が送られてきてはじめて、そういえばそういう話があったなあ、と気がついたくらい。
わるいけれども映画というのは話が出てから日の目を見るまでの期間が猛烈に長い。また実現するものより、途中でつぶれたり中止になったりするもののほうがはるかに多い。だから映像化の話が持ち込まれても、全然当てにしないというか、実現したら儲けものくらいにしか考えない。今回のこの話だって今後どうなるか、人ごとみたいに見ているだけである。
しかし暑くなった。京都もきょうはとうとう31度の真夏日になった。
今週は日帰りで近江へ取材に出かけてきた。そのときも猛烈に暑くて、おそらく30度を越していたと思う。かんかん照りの下を歩き回ったものだから、1日で鼻が赤く日焼けしてしまった。
わたしが尋ねて行くようなところだから片田舎である。電車が1時間に1本。案内標識もなにもない田圃のなかを延々と歩き、やっと出会ったばあさんに道を尋ねたら反対の方角を教えられて、結局2時間近く歩かされた。
駅前に店の1軒すらないところなのだ。それでも公衆電話があって、それを使えばタクシーを呼べたことにあとで気がついたが、はじめて出かけたところでこういう失敗をすることはやむを得ない。
それでもこういう時間の過ごし方をするのは、けっして嫌いではないのだ。昔はどこへ行くにも電車やバスを根気よく待ち、降りたら今度は人っ子ひとり通らない田舎道をとぼとぼと歩かなければ目的地へたどり着くことができなかった。そういう感覚を自分の肉体で再確認できただけでも、小説家としては無駄でなかったと思っている。
しかしシャツがぐしょぐしょになるくらい汗を流し、足を棒にして歩き回ったおかげで疲れ果てたことはたしか。当初考えたコースを全部回れないまま帰ってきたが、いずれまた出直さなければならないだろう。
家に帰って体重を量ってみたら1日で1キロあまり減っていた。
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2008.6.7
ただいま、ひとりでに顔がゆるんでくるほど解放感にひたっている。雑誌の仕事がやっと終わったところなのだ。
今回の仕事は、今年の春から書きはじめた読切り中編の2回目。小生初のシリーズものである。月末発売の小説雑誌に掲載される予定だ。
150枚の原稿を1ヶ月で書いたことになるが、実質は20日しかなかったから、そんなに楽な仕事ではなかった。だが締切仕事だとどんなに無理をしても最後は帳尻を合わせてしまう。毎度のことながら人間やればできるものだと感心する。
じゃ毎月締切仕事を引き受けたらもっと書けるじゃないか、という声もあるだろうが、書く身になってみたらそうはいかない。わたしは書いてさえいたら仕合わせ、という殊勝な作家ではないのだ。書かずにすむんだったら、それがいちばん仕合わせという作家なのである。
だから雑誌の締切仕事は、年に4回と決めている。なぜ4回かというと、中編だと4本書けば1冊の本になるからだ。短編集で1冊というと毎月書かなくちゃできないのだよ。
そういう勤勉なことはもうやりたくないから、手間を省いて年に4回。すると年に1冊は本が出るから、長編が少々遅れたって最低限申し訳が立つ。とまあこのような深慮遠謀があっての中編なのである。
この際一息ついた記念にどこかへとも考えたが、わたしにとって温泉とは仕事を持って籠もりに行くところ。目的もなくのんびり骨休めに行ったことは一度もない。したがってまだ準備不足、行けるレベルに達していないのだった。
じゃあせめて、うまいものでも食ってこよう。というのでかみさんが不在になったのをさいわい、勇んで晩めしを食いに行った。
とはいえ酒は飲まないし、ひとりで行けるところというと限られるしで、あれこれ考えた末選んだのがビュッフェ形式のところ。
ビュッフェスタイルのめしは嫌いじゃない。気に入らないもの、食いたくないものは手を出さなくてすむからだ。多品種を少量ずつとれるのが、なによりもありがたい。
ただ早飯なので、いつもは15分もするとぱっと食ってもうおしまいになっている。そういう悪習を改善しようと、このところよく噛み、時間をかけて食うようにしているから、今回もそれを厳守した。なんと50分もかけてじっくり食ってきた。こんなに時間をかけて食ったのははじめてである。
腹ごなしに30分歩いて帰ってきたが、家についてからも満腹感が消えない。風呂のあとで体重を量ってみたら、まるまる1キロ増えていた。
よくよく考えてみたらそのはずだ。時間をかけてゆっくり食ったから、自分ではセーブしたつもりだったが、量を減らしたわけではけっしてなかったのだ。
じつをいうと今夜もかみさんが不在だったので、性懲りもなくまた外で食ってきた。本日はイタメシ。
スパゲッティとサラダくらいにしとけばよかったのに、セットものを頼んだからたまらない。はじめに出てきたパンと前菜だけでもう腹が一杯になってしまった。
かみさんがいるときは正しい食生活を送っている。だからいなくなった途端、ついこの隙に、ということになるのである。いかんなあ。毎度のことだがあすから節制しよう。
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2008.5.31
ただいま月末締切の雑誌原稿に追われている。おかげでこのところほとんど外出せず。家の外へ出るのが、新聞を取りに行くときだけという日がつづいている。
そのため足が弱り、階段の上がり下がりにもよたよたしはじめた。やや脅威を感じ、きょうは無理やり時間をつくり、夕食の買い出しを兼ねてすこし歩いてきた。
京都の街を知るため、このごろは知らない道を歩くようにしている。それだけ地理をおぼえるし、思わぬ遺蹟や碑文を見つけて、京都ならではの刺激も受けられるからだ。
ここ数回は南北に走る通りを北上し、御所に突きあたったら今度はちがう道をもどってくるコースを歩いている。往復約4キロ。帰りに買い物などしたら7000歩あまりの歩数になる。
知らない碑文や知らない遺蹟を見つけときはメモして帰り、インターネットで調べる。するといとも簡単にわかる。なんともありがたい時代になったものだ。
東京の池袋にいたころ、前が雑司ヶ谷の墓地だったし、墓地を歩くのが好きだったから、都内にある主だった墓地はほとんどたずね歩いた。
そのつどいろいろな発見をしたが、いつも物足りない思いが残った。墓の主がどのような人物か、わからないことが少なくなかったからである。
早い話大名の墓を見つけても、松平なにがしの名では、どこの殿様だったのかわからないのだ。明治の元勲や功労者にしても、侯爵や伯爵ぐらいまでならわかるが、子爵、男爵あたりになると、もうどこのだれやらわからなくなる。
歴史事典、人名辞典、これまで何冊も買ったが、どれも大ざっぱすぎて、情報源としては失格というものが多かった。
それがインターネットのおかげで、名前さえメモしてくればたちどころにわかるようになった。ものを調べるノウハウすら必要なくなってきた。
知りたいことがこれくらい簡単にわかるようになったのは、大袈裟でなく人類はじまって以来の画期的なできごとだと思う。これはいくら強調してもしすぎることはないものすごいことなのである。
一方でこれでは、出版界はたまったものではないだろうとも思う。知的情報源としての書籍の必要性が、ますます低下するばかりだからだ。
わたしにしても昨今は電子辞書ひとつでほとんどすませている。国語、漢和、英和、和英、類語、ふだんよく使う辞書類は電子辞書1冊ですべて用が足りる。紙の辞典はまず使わなくなった。
このまえ広辞苑の新版が出たとき、書店に行くと山のように積みあげてあったが、いまどきこんなものをだれが使うんだろう、と奇異に思ったくらいだ。
もちろん実際はかなりの参考書を手元に置いて仕事をしている。ただそれは、まだ電子化されていないというだけのこと。いずれある程度は、いや近い将来大半が、電子辞書に置き換えられてしまうだろうという予測はしておかなければならない。書籍は外堀を埋められる一方なのだ。
わたしみたいなアナログ人間は、自分の本が紙ではなくなってしまう時代を見たいとは思わないのである。
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2008.5.24 きょうの京都は29・9度。あっという間に夏になった。
当然のことながら部屋もだんだん暑くなってきた。わたしが使っている部屋は南と西に窓がある。晴れてさえいればさんさんと陽が射しこみ、冬でも日中は暖房がいらないくらい暖かい。その分これからが思いやられるわけだ。
現在すべての仕事はロッキングチェアでしている。京都に来たのを記念して買ったチェアで、深く寄りかかると母の懐に抱きかかえられたみたいに快適だ。
はじめは付属の専用パソコンデスクを使っていた。ところがこれが小さくて、ノートパソコンしか載せられない。仕事柄辞書や参考書を頻繁に使う。そういうものが載せられるデスクでないと困るのだ。
それでいまはベニヤ板のボードをデスクにしている。長さ90センチ、幅30センチのベニヤ板を買ってきてアームに載せると、ちょうどよい大きさになった。
しかも軽くて動きが自在。使わないときは片づけてしまえばよいから場所も取らない。まさに最強の万能デスクとなったのだ。
なおロッキングチェアで仕事をするのは腰に負担がかかるとかで、そんな姿勢で大丈夫ですかと心配してくれる人もいる。しかし先週も述べたように、わたしは腰痛なるものをまったく知らない人間だ。
これまでいろんなものを試してきて、自分にはこれがいちばんよいと、やっとたどりついた究極のワークポジションが、ロッキングチェアに腰かけてオットマンに足をのせる恰好だったのである。
おかげでデスクトップはまったく使わなくなった。もっぱらかみさんの京都検索用並びにメール用となっていて、わたしはハードディスクのバックアップ用として使っているにすぎない。
ところがやはりいいことばかりはないもので、全面的に寄りかかっているから、背中がべったり押しつけられてとにかく暑いのである。
1時間も仕事をすると、汗防止のタオルケットを充てておいても、背中がべったりしてくるくらい汗をかいてしまう。
また同じ姿勢をつづけているため、一種の座りだこみたいなものが背中や腰にでき、躰のあっちこっちがかゆくなる肉体疲労も起こる。
ましてこの暑さ。クーラーは必需品だろう。わたしはクーラーのがんがん効いた寒いくらいの部屋が大好きなのだ。
ところがいまの部屋にはクーラーが取りつけられないのだった。近ごろの新築マンションだから、当然こういうものを取りつける装置くらいは標準装備してあるだろうと思っていたところ、全然なかったのだ。
それでも外にベランダがあるから、だったらこっちで工事して取りつければいいのだろうと思っていた。
今週不動産屋にその旨申し出たところ、家主さんの意見がどうとかこうとか、壁の強度がどうとかこうとか、あれこれ言いはじめた。とどのつまりは窓に取りつけるタイプのクーラーで我慢してくれというのだ。
入るまえに確認しなかったこっちのミスだとはいえ、見に来たときはまだ工事中で、そこまで頭が回らなかった。実体は金をかけないことにばかり気を配った安マンションだったのである。
これから夏を迎えるというのに、いまやすっかりいやになってしまった。
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2008.5.17
このところ目がますますわるくなってきた。眼鏡まで合わなくなってしまい、掛けてもだめ、外してもだめ、読むという基本的なことが不自由になるばかりである。
昨年、じつは眼鏡を3つもつくり直した。いま手許に4つあるが、これを状況に応じて使い回しているのである。
このうち遠距離用は、車に乗らなくなったから最近はあまり使わなくなった。それに代わる中遠距離用を、この3月、東京に帰ったおり新調したばかり。これまで使っていた室内用、昨年つくったパソコン専用の近距離用と、全部で4つ。そのつどかけ替えなければならないから、面倒くさいことこのうえない。
今週は定期検診で病院へ行ってきた。すると眼科の視力検査で引っかかった。左目の視力がずいぶん落ちていたのだ。おかしいな、もう一回測り直してみましょうということになり、再検査してみたが同じこと。
ショックだったのは、3月につくった眼鏡がもう合わなくなっていたことだ。この数ヶ月パソコンに向かいっぱなしだったから、その影響ではないかと思ったが、パソコンは関係ありませんと医者は言う。要するに原因不明なのだ。
ただほかにわるいところは見つかっていないので、もうすこしようすを見ましょうということになった。なにもしなかったということだ。
わたしとしては、ほんとうにパソコンは関係ないのか、いまでも頭をかしげている。この数ヶ月のハードワークが、てきめんに視力をわるくしたと思っているからだ。
仕事のほうに終わりはない。長編は終わったが、今月は雑誌用の、正月に発表した中編の2回目を150枚書かなければならない。
まだ下書きの段階だが、いまでも1日7、8時間はパソコンに向かっている。目にとってけっしてありがたい使われ方ではないと思うのだ。とはいえこうなったら、もうすこしようすを見るほかないわけだが。
今回は糖尿の血糖値もまえよりわるくなっていた。このところ行くたびにわるくなっている。これ以上わるくなるようだと、薬を飲んでもらいますといわれ、少々青ざめて帰ってきた。いい薬ができているから恐れることはないのだが、薬を飲む身にだけはなりたくないのだ。
はっきりいって、これは油断しすぎ。京都はうまいものが多いから、ついつい食いすぎて、最近は体重も増える一方だった。この2年間に3キロ強も増えているのである。
それで昨日から一念発起、まず食事の基本をあらためることにした。量を減らすことはもちろん、もっと時間をかけて食うことにしたのだ。早めしはだめですよ、と行くたびに言われていた。これ、わたしにとっていちばんむずかしいことなのである。
いっぽうかみさんのほうは、腰痛でひーひー言っている。わたしのまわりにも腰痛持ちはずいぶん多い。ところがわたし自身は、この年になるまで腰痛なるものをいっぺんも経験したことがないのである。
経験したことがないから、その痛みはわからない。わからないから知らん顔をしている。いずれにせよ健康にまさる宝物はありません。
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2008.5.10
京都に来て意外だったのは、いい書店がないことだ。同じ悩みは札幌でもかかえていたが、京都は歴史や文化の厚みがちがう。だからもっといい書店があるだろうと、こっちで勝手に思いこんでいた。
しかしこれは明らかに期待のしすぎだった。マス・セールスの世界でいうなら、京都は単なる100万都市のひとつでしかない。人口数からいえば札幌よりまだ下位なのだ。
この差は日常生活でもいろんな面に現れ、思わぬ日用品に不自由することがよくある。最近書店へあまり行かなくなったのも、現状がわかって、期待した本はなかなか探せないとあきらめたからだ。その分東京へ行ったとき書店に出かける回数が増えるわけで、これはまあ仕方がないと思っている。
ところがここしばらく、東京へ行く予定がないのである。それで仕方なく、欲しい本が見つかったときはインターネットで取り寄せている。
そこであらためて不平を言いたいのだが、本に限らない、ネットで購入するものの申し込み手続きは、どうしてああもわかりにくく、ややこしいのだろうか。利用する側の身にはまったく立っていない。だれにでもわかりやすくという、いちばん基本的なことがなおざりにされているのだ。
なかでもとくにややこしいのは、全角と半角の英数字の使い分けだ。まちがえるとだめ、やり直せといって突き返されるが、こちらにしてみたら、どこをまちがえているのかわからないのである。
だいたい自分の使っているカードのローマ字名が、全角大文字なのか半角大文字なのか、自分で書いたものではないから認識していないのがふつうなのだ。
申し込みフォームによっては、カーソルが半角数字の必要なところへくると、入力が自動的に半角になってしまうものもあって、これはありがたい。
少なくとも商品を売る側なら、それくらいの努力はすべきだろう。それがいまのところきわめて少ないのは、売り手の怠慢といって過言ではないのである。
今週も本を1冊買うのに何回もやり直しをさせられ、しかもやり直すたびに注文冊数が増えて、ようやく注文し終えたときは冊数が5冊になっていた。自分ではそのつど削除して、書き直していたつもりなのだ。
それが先方からの、注文承りメールが返ってきたのを見ると5冊になっている。こちらのミスとはいえ、同じ本を5冊も注文するバカがあるか。怒り心頭に発して抗議のメールを送ったのだった。
さいわい取り消し手続きのほうは簡単だったから同じ本が5冊もくる愚は避けられたものの、本を1冊注文するのに何時間もかかってしまった。こんなことで、むだな時間を使わせられることくらい腹立たしいものはないのである。
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2008.5.3
ただいまとてもハッピーである。時代小説の2作目『ゆふさればゆう(夕されば優)』がやっと脱稿し、出版社へ渡したところだからだ。肩の荷が下りてやれやれという解放感に浸っている。全612枚。順調にいけば秋には刊行できるだろう。
今回も最後の最後まで難航した。とくに最終チェックの段階でラスト100枚がかったるくて気に入らなくなり、さんざん迷った末、ここまできたんだから気のすむまで直してやれと、決意したのが先週初めのこと。
時間を縮めたり構成を立て直したりして、全面的に書き直した。もちろん大本は変わっていないのだが、その100枚を2日で書き直したんだから、そのときはわれながらやるもんだと感心した。やればできるじゃないか、ということである。
とはいえラストスパートだったからハイになっていたことはまちがいなく、また2日間だからできたのであって、こういうテンションが5日も6日もつづくわけはないこともたしか。やればできるが、めったにやれることではないのである。
だが4月末に一区切りついたのはタイミングとしても絶好だった。これまでの資料、参考書類を即片づけ、ついでに書籍や書棚の整理もして、書棚にあらたな空きスペースをつくった。今回の家は狭くて物置がないので、一作ごとにこういう荒療治をしないと、たちまち本の山になってしまうからだ。
で昨日は久しぶりのかみさん孝行をということになり、日帰りで比叡山へ行ってきた。かみさんははじめて。わたしは中学校の修学旅行のとき以来。じつに47年ぶりのことである。
当時の記憶がどれくらいあるかというと、じつはなんにもない。京都側からケーブルカーで上がり、琵琶湖側へケーブルカーで降りたことしかおぼえていない。
まして根本中堂など記憶ゼロ。え、こんなんだったっけ? とその記憶の不確かさにおどろいた。人間の記憶がいかに当てにならないかということだ。ちょうど護摩を焚いていたから神妙な顔をして堂内に坐らせてもらってきたが、こちらの感想は取り立ててない。なにかに打ち込んでいる人の邪魔はしないと言うだけである。
意外だったのは、平日だったとはいえゴールデンウイークの初日。もっと人が出ているかと思って朝早く出かけたのに、山内はどこもがらがらだった。同じケーブルカーでも高尾山とはえらいちがい。東京のあの混み方に慣らされている人間は、よそに行ったら戸惑うばかりだ。
時間があったから帰りに大原三千院まで足を延ばしてきた。大原へ行ったのははじめて。これも、なんかイメージがちがうなあと思っていたら、寂光院とまちがえていたのだった。帰ってから地図を見てはじめて気がついた。ろくに予備知識を持っていなかったものだから、タクシーに乗ったとき、つい大原三千院と言ってしまったのだ。秋にもう一回出直すしかないだろう。
わたしのゴールデンウイークはこれでお終い。きょうからつぎの仕事に取りかかっている。
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2008.4.26
気がついたら、夏になっていた。先週までは夜暖房を入れた日があったのだ。それがなくなったと思ったら、いきなり26度になった。
日本は温帯ではない、亜熱帯である。春と秋がこんなに短い温帯なんてあるもんか。とある気象学者が言っていたけど、その意見に全面的に賛成したくなる。寒さにふるえながら花見をしたのが2週間前なのである。
昨年から手がけている長編が最後の追い込みに入り、このところ家から1歩も出ない日がつづいている。朝と夕、1階の郵便受けに新聞を取りに行くのが唯一の運動、ないし外出。京都の新聞屋は横着で、部屋のドアまで届けてくれないのだ。
はじめはぶーぶー言っていたが、足腰を使うことがこれくらいしかないとわかってからは、すすんで取りに行っている。とはいえ階段数が48、これを1日2回上り下りするだけ。1日1000歩と歩いていないのである。
それではいけないというので、今週は火曜日に、買い物をかって出て久しぶりの外出をした。ついでに鴨川河畔を歩いてきた。その日がじつは26度だったわけで、長袖シャツ1枚でも暑かった。
河畔の風景もすっかり変わっていた。すなわち桜は葉桜に、柳も銀杏も青々と若葉を繁らせ、河川敷の荒れ地には菜の花が、植え込みにはタンポポや山吹が咲き乱れていた。下生えの雑草がもう1尺以上の高さになっているのである。
冬の鴨川をわがもの顔に占領していたユリカモメの大群が、1羽もいなくなっているのにもおどろいた。春になったからシベリアへ帰ったらしいが、ユリカモメが渡り鳥だったなんて、じつをいうと京都へ来るまで知らなかったのだ。
さらに水草の生えた浅瀬のいたるところで、魚がさかんにばしゃばしゃやっている。見ると鯉である。べつに珍しい魚ではないが、鴨川にこれほど鯉がいることも知らなかった。これまで何匹か見かけた程度だったのだ。
とにかくおびただしい数の鯉が浅瀬に寄ってきて、上を下をしている。泳げるところではないから、うごめいているとしか言いようがない。鷺がうらめしそうに見つめているが、鯉のほうが図体が大きいから手が出せないのである。
パンくずを投げてやっても今日は食わない、という年寄りがいたから聞いてみたら、産卵に集まっているのだと教えてくれた。ばしゃばしゃと大騒ぎしているのは、1匹の雌に何匹もの雄が群がっていたからだ。まるで鮭である。
帰ってから調べてみたら、浅瀬の水草に卵を産みつけていたのだとわかった。これもまったく知らなかった。見たのもむろんはじめて。あまりに身近な魚だから、産卵によって子孫を増やしているということを、考えてみたこともなかったのだ。
ただそうなると、じゃもっとよく見ておくんだった、という気になる。で、そんな暇などないのに無理をして、中2日おいた今日、また行ってきた。そしたら浅瀬は静まり返り、鯉のコの字もいなくなっていた。ウソーとしか言いようがない。1匹も見かけなかったのである。
鮭は個体で川を遡ってくるから産卵時期が何ヶ月にも及ぶが、鯉は決まった日に、あるいは決まったときに、一斉に産卵するということだろうか。道理であれほど大量の鯉が浅瀬に集まっていたわけだ。火曜日にたまたま見かけたのが、そもそもとても珍しい光景だったのである。
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2008.4.19
昨年から取りかかっている長編小説600枚が、このほどようやく完結間際に漕ぎつけた。とはいえ、まだ脱稿したわけではない。これから手直しと称する読み直し作業が残っていて、じつはこの段階がいちばん苦しい。
しかし最後の正念場だから気分はハイになっているし、早く終わって楽になりたいから息もつづく。今月の初めから張りきってやっていた。そしたらいきなりパソコンがおかしくなった。
パソコンがわるくなったわけではない。こちらの操作ミスで、画面が変になってしまったということだ。
あとになって冷静に思い返してみると、たいていあわてているか、気負いすぎて、キー操作が粗雑になっているときに起こすことが多い。
粗忽ということでは筋金入りだから、まちがえたときに一瞬手を止め、じっくり振り返ってみたら、大事にはいたらず防げたかもしれないのだ。それがろくろく考えもせず、あれ? あれ? あれ? でキーをやたら叩き回るものだから、そのうちほんとうにおかしくなり、にっちもさっちもいかなくなって、はじめて途方に暮れるのである。
今回もプロセスはまったく同じ。気がついたときは、画面はおかしくなっている、音は出なくなっている、入力までできなくなったと、まったく使えない状態になっていた。これまで何回も繰り返してきたことを、またやったのである。
そういうときの被害を最小限にとどめるため、さいきんはUSBディスクを使って頻繁にバックアップを取っている。ところがこういう事故は、たまたまそれをやってなかったときに限って起こるのだ。
終盤になると気分も乗ってくるから、それこそ一刻を惜しんで仕事に熱中する。ここらでバックアップを取ったほうがいいんじゃないかと思いながら、あとすこしでこの章が終わるからとかで、つい先延ばししてしまう。それだけ気負いこんでいるし、あわてもする。まちがいを起こす条件はそろっているのである。
あとになっているからこそ、こういった反省も、分析もできる。そのときはそういう知恵が全然働かないのである。
わたしのわるい癖は、パソコンが変わるたび、ワープロからエディタまで変えてしまうことだ。今回もいま使っているATOKで支障が起きたから、ではワードをと思ったところ、よくよく見たらワードの設定をしていなかった。
現在は昨年買ったノートのみで仕事をしている。余分なものはできるだけ入れないようにということで、ATOK1本にしぼって、それを3つのエディターで使い回していた。エディターを3つも入れているのは、以前50数枚の原稿がそっくり消えて、泣き泣き書き直すことがあったからだ。
主として使っているのは2つだが、それでは安心できないから3つ入れている。そういう点はまことに節操がない。同業者でだれかが「このエディターがいいよ」と言ったら、すぐ入れてしまうのである。
困り果てたときは、外部からお助けマンを呼ぶしかない。ところが京都へは来たばかりで、そういうソースがない。なんとか見つけ出して来てもらったお助けマンは、設定とか、リカバリとか、基本的なことはやるが、エディタソフトの不具合などはわかりません、とのたもうた。
たしかにこれくらい複雑多岐になってくると、ワープロのエディタソフトみたいな限定的な使い方に精通するのはむずかしいだろうし、第一需要が少ないから食えないかもしれないが、えらい世のなかになってきたものだ。
結局泣き泣き、マニュアルを読み直すことからはじめ、音が出るのと、文字入力のほうはなんとか直した。笑われるかもしれないが、文字入力のほうはNUM LOCKキーを押すだけでよかったのだ。こんなキー、つけてくれるなよ。
あと画面の不具合のほうは、エディタのサポートに一縷の望みを託してメールを入れた。そしたら半日後、たった2行の短い返事がきた。その通りにやったら、これまた嘘みたいに直った。
ここへ漕ぎつけるまでおよそ30時間かかった。その間まったく仕事ができなかったし、神経性の下痢までした。直ったときはぐったり疲れ果てていた。
同業者の中には、パソコンは信用できないといって、いまだにワープロ専用機を使っているものが何人かいる。ワープロはとっくに生産が終わっているが、一生困らない台数を確保しているとか。そういう深慮遠謀のなかったわたしのようなものは、これからも同じ悪戦苦闘を何回も繰り返すことだろう。
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2008.4.12
今週はわたしのきょうだいと、その連れ合いが京都見物にやってきた。それで2日、ホスト役となって一緒に遊んだ。鴨川の桜を散歩がてら見たことはあるが、本格的な花見も、京都遊覧もはじめて。なんと、京都に来てもう5ヶ月たっていた。
平安神宮の内庭に、あれほど見事なしだれ桜があるなんて、はずかしながら全然知らなかった。だいたい平安神宮をばかにしていた。あそこは明治の末につくられたものだからである。
手許に古書店で買った明治22年測量の京都地図を持っているが、それには影も形もない。三条通りを1歩出外れると、その先は岡崎までなんにもないのだ。田圃があるだけなのである。
清水寺が、いわゆる「清水の舞台」がある本堂へ入らなければ、ただであることも知らなかった。有料入場区域はあの本堂だけなのだ。といって、信仰心はないから、わざわざ行くこともないだろうけれど。
足の悪いものがいたため、タクシーを2台チャーターして回ってもらったおかげで、知らないところ、昼めしどころなど、いろいろなところに行くことができた。
それはいいが、どうかと思うこともあった。化野の竹林も通りますというからまかせていたところ、多くの人が散策している狭い道へずんずん入って行くのだ。
テレビや雑誌でよく紹介されるところだから、ごぞんじの人も多いと思う。竹林と竹垣のつづくきわめて風雅な道なのである。ところが、道そのものはとても狭い。車の通る道ではないのだ。
そこへ遠慮会釈なく入って行くものだから、散策している人は、竹垣へぴったり押しつけられるようにして避けなければならない。当然刺さるような視線が返ってくる。おかげで乗っているこちらだって全然楽しくなかった。
知っていたら通らなかった。ああいう道は車の乗り入れを全面的に禁止すべきだろう。もっとも地元の人にとっては、ただの生活道路かもしれない。そこへ観光客のほうが、勝手に押しかけてくるようになった、ということではないかと思うのだが、道の狭いのは、京都観光の大きなネックのひとつになっている。
数日後、今度はかみさんが、従姉妹としだれ桜で有名なところへ出かけた。そこもタクシーが狭い山道を通るので、地元では大不評になっているとか。地元や道路事情を考慮しない業者が、観光客を呼び込むためだけにつくった施設らしいから、名は出さないでおく。
観光地へ車がづけづけ入ってくることに、わたしは大反対である。車で乗りつけられる観光地より、車では行けない観光地を大事にすべき時代になっていると思っている。車があるから「行ける」か、自分の意思でもって「行く」かは、観光の質が根本的にちがうからだ。
紅葉シーズンの奥入瀬渓流などその最たるもの。あそこも本来歩いて楽しむべきところだろう。バスや車に乗って、大渋滞のなかを何時間もかけて通りぬけただけで「行った」ことに、どれだけの意味があるか。
京都はもう、人を呼び込むことより、どうやって閉め出すか、ということを真剣に考えるべき街になっていると思う。
スギ花粉がおさまってきてほっとしていたら、今度はヒノキ花粉が飛びはじめたそうだ。ヒノキなら平気です、と自信を持って言えそうにないから、冷や冷やしている。外出すると、帰ってきてしばらくくしゃみや鼻水がつづくのだ。
それがヒノキの花粉のせいなのか、スギ花粉の名残りなのか、まだよくわからない。なんとなく薄気味の悪い思いをしながら外出しているところだ。
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2008.4.5
京都はただいま桜が満開。もっとも華やかな季節を迎え、どこも大変な人出らしい。らしいというのは、相変わらず仕事漬けの毎日で、物見遊山とは係わりのない暮らしをしているからだ。
わが家の窓からは、一輪の花も見えないのだ。その点は前が180度開け、自然がいっぱいだった札幌の住まいとえらいちがい。京都のほうが、はるかに味気ない暮らしなのである。
といいながらも、美女と温泉に入って対談するだけ、原稿は書かなくてよい、という仕事が舞い込んできたから二つ返事で引き受け、奥穂高までいそいそと出かけていた。
温泉地もこちらの希望を伝え、その条件に見合う宿を、向こうで探してくれたもの。高山まで列車、そこから先はレンタカーである。
前日かなり雨が降ったが、当日は晴れたから安心して出かけた。ところが関ヶ原で、伊吹山が冠雪している。行き先は飛騨のいちばん奥だから、この分ではひょっとすると雪が降っているかもしれないぞと思ったところ、しれないぞどころじゃない、いまごろこんなに降ったのははじめて、と現地の人がおどろく大雪になった。
着いてからも降りやまない。風が強くて吹雪になった。しかも一晩中降りつづいた。夜中の二時過ぎに露天風呂へ行ったが、長靴を履いて深さ20センチもある雪を蹴散らして行った。朝になったら雪嵩はさらに増していた。
今回の宿は露天風呂がすばらしかった。川原に面し、仕切りなし、目隠しなし、混浴、前方100メートルくらいのところを道路が走っているだけという最高のロケーション。
それはいいが、完全な野天だから、これほど雪が降ると、頭はみるみる真っ白になる。端から見たら、冬の信州地獄谷温泉にくる猿そっくりだったろうと思う。
温泉も宿も美女もすばらしかったが、翌日になっても降りやまないから困った。雪の装備をしてなかったから、帰るに帰れない騒ぎとなったのだ。ようやくガソリンスタンドでチェーンが調達でき、なんとか帰ることができたが、平湯峠ではレッカー車のお世話になっている車も見かけた。
一方で花見、一方で雪見、緯度の上下にまたがっている細長いわが国の変化の妙を、思わぬかたちで満喫したことになる。
帰りに欲ばって、福井でもう一泊してきた。仕事をかかえて自主缶詰をするときの宿をひとつ見つけてあったから、その下見に行ったのだ。温泉はたいしたことなかったが、静かな個室は仕事にうってつけ、いずれ利用しようと思っている。
家に帰ってみるとかみさんの姉が来ていた。孫の大学入学につきそってきたもので、来週はわたしのきょうだいが、週末にはかみさんのいとこがやってくる。千客万来、賑やかなひとときになりそうだ。仕事の邪魔が多すぎて、などと編集者には言い訳しながら、ほんとはほいほいと出かけているのである。
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