Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2007年9月までの「きのうの話」へ


2007.9.29
 肌寒い日があるかと思えばまた暑くなる。きょうなど32度、めちゃくちゃとしかいいようのない天気である。おかげでそれに振り回され、ひどい目に遭っている。
 どういうわけか、くしゃみや鼻水が出て止まらないのだ。春の花粉症と同じ。旅行しているときはなんともなかったのに、東京へ帰ってきた途端出はじめた。
 家の中にアレルギー物質があるのか、それとも東京の空気が合わないのか、なんとも判断しがたい。外に出ているときは割合平気なのである。家にいるとだめ。長袖シャツの重ね着をして、むりやり汗をかくようにしているが、すべて鼻水対策なのである。

 今週はかみさんが出かけているためひとりである。楽しい楽しい独身生活。1日24時間が好きなように使える。するとたちまち時間帯が半日ずれ、朝寝て昼起きる生活になってしまった。
 一方でごみは朝出さなければならないし、電話は時間かまわずかかってくるしで、精神の安寧を妨げられるものにはこと欠かない。こういうときは、どこかへ雲隠れしてしまったほうがはるかに楽だ。
 事実家でくすぶっているつもりは毛頭なく、かみさんがいなくなったら即出かけるつもりをしていた。それがまだ実現していないのである。
 というのも、車が動かなくなっていたからだ。バッテリーが上がって、うんともすんともいわなくなっていた。

 考えてみると4ヶ月間ほったらかしにしてあった。6月に北海道へ持ってゆくつもりだったが、面倒くさくなったのと、道内にそれほど行きたいところがなくなっていたせいもあって、もういいや、とばかりそのまま放置していた。5月にETCを設置したばかりなのに、一度も使っていないのだ。
 かわいそうに車はその間、庭で雨ざらしになっていた。それくらい放置しておけば、当然バッテリーはだめになる、と思い知らされてからはじめて納得しているのだが、キーを差し込んで「あれっ?」となるまで、そんなことなど考えもしなかったのだから迂闊な話だ。
 結局ディーラーに来てもらい、バッテリーを取り替えた。ところがそれだけではすまなかった。エンジンをかけてみたところ、クーラーまで効かなくなっていた。涼風が出ないのだ。これは原因不明。
 工場が混んでいるというからまだ持って行ってないが、単にガスが抜けただけならともかく、パイプあたりが損傷しているようだと、かなりの出費になるらしい。5月に車検を更新したばかりなのだよ。故障ではなく、放置したために起こった損傷だから保障してくれないのである。

 こんなことなら北海道で乗り回していたほうがはるかによかった。道具というものは、使うことがメンテナンスをかねているということをはじめて知ったようなわけです。
 むろん乗るだけなら差し支えないから、どこかへ行こうと思えば行ける。で、スーパーへの買い出しに使ってみたところ、この暑さだ。クーラーなしの車なんか、とてもじゃないが乗れたものではなかった。この分だと、今回も出かけることにはならないかもしれない。


2007.9.22
 およそ半年ぶりに東京のわが家へ帰ってきた。

 それにしても今週の暑かったこと。これほど暑くなるとわかっていたら、予定をもっと繰り下げたのに、くそ暑い盛りに旅をさせられ、気息奄々となってわが家へ帰り着いた。3番目のせがれが、フェリーの旅に招待してくれたから出かけたのである。
 切符を取ってくれた以上行かないわけにいかず、この忙しいのになんで九州まで行かにゃならんのだ、と親のほうはぶーぶー言いながら出かけたのだ。そしたら行き着く先々で33度、34度という暑さに見舞われたのだから、感謝より文句のほうが出てこようというものである。

 当初は車で何日か九州を案内してやろうという話だったが、親のほうはそれどころじゃないからお断りした。車なしのフェリー旅。瀬戸内海を往復してきただけである。
 しかも出かける間際には台風が来て、一時はどんなことになるやらという騒ぎ。さいわい直撃は免れたし、風雨もたいしたことなくて、その後の天気もすみやかに回復した。その代わりひどい猛暑となって焙られたというわけだ。
 瀬戸内海ならわたしはこれまで何度か通っている。しかしかみさんははじめて。それで乗りに行ったようなもので、行きは夜便だったから帰りは昼便にして、景色と3つの大橋の風景とを堪能してきた。
 今回のいちばんの収穫は、台風の通過直後とあって、じつにきれいな夕日が眺められたこと。真っ赤な太陽が、雲に邪魔されることなく海へ落ちてゆくところが逐一見届けられた。

 また来島海峡では、水上航行中の自衛隊の潜水艦をこちらのフェリーが追い抜いた。海峡のいちばん狭いところだったから、両者の距離は100メートルぐらい。艦橋にいる自衛官の顔がはっきり見分けられた。
 手を振ったら、向こうも手を振ってくれたのでかみさんは大喜び。ただしこれは赤いシャツを着ていたから、若い娘だと錯覚したのではないだろうか。

 暑さと旅、環境の激変が好結果をもたらした部分もある。例の長患いがほぼ快癒したことだ。週はじめはまだ痛みが残り、薬が欠かせなかった。ところがふつかたち、みっかたちするうち忘れてしまい、自覚症状ぜろになった。
 そういえばときどき、背中のかゆいときがあるなあ、というくらい。そして昨日、今日はまったく意識せず。どうやら治ったと見てよさそうである。

 半年ぶりのわが家は、取り込んだ郵便物が山のようになっていた。こっちは2番目のせがれがときどき来てくれているもの。とりあえずざっと仕分けしたが、目を通すところまでは行かず。すべては明日ということにして、今夜は店仕舞いです。


2007.9.15
 療養生活(?)3週間。だいぶよくなって、8割は回復したように思う。ただ痛みだけが、軽くはなっているもののまだつづいている。今週は痛み止めを2週間分出してもらった。

 病気に気をとられたせいもあって、気がついたらもう9月半ばになっていた。それなのに今年の北海道ときたら、一向に秋のくる気配がない。今日の気温も27度。8月と変わらない暑さだ。
 今日はかみさんが出かけたので、駅前の紀伊国屋に行ってのんびりと数時間すごしてきた。京都のイノダコーヒーが2階に店を出しているのだが、通りを見下ろす窓際に長いカウンター席が設けてあって、本を読んだりぼんやり外を眺めたり、まこと快適な時間をすごすことができる。椅子もいいのである。今日も1時間ばかり坐っていた。

 帰りは晩めしとして、うまい弁当でも買ってこようと思っていた。ふだん正しい食生活を押しつけられているから、敵がいなくなった途端、この際とばかり反動が出て羽目が外れてしまう。今日出かけたのも半分はそれが目的だった。

 ところがデパ地下を歩き回っているうち、いやになってしまった。食いたいものがないわけではないのだが、いずれも仰々しい入れ物に入っているから、食ったあとのごみを考えるとひるんでしまったのだ。
 最近はどこの街でもごみを出す日や品目が細かく指定されている。その曜日をおぼえるのも、時間に合わせるのも、わたしのような生活の不規則な人間は大変なのである。
 結局蕎麦屋で鴨南蛮を食い、夜食用のおにぎりをふたつを買っただけ。意気込んだわりにはしょぼくれた晩めしで、最後はしゅんとなって帰ってきた。

 運動不足解消のため家まで30分かけて歩いた。このところ歩いていない影響はてきめん。平坦な舗装道路を歩いているのに何度もつまずいた。ふだんでもちょっと歩くのをさぼると、すぐ足がもつれてしまうのである。

 日がだいぶ短くなり、6時半をすぎたらあっという間に暗くなった。それなのに、半袖のTシャツ1枚で全然寒くないのだ。こんなのは北海道じゃない。
 エレベーターで一緒になったご婦人が「今年はまだ上着がいりませんねえ」と言った。

 来週は久しぶりに東京へ帰る予定。


2007.9.8
 闘病生活というのはちと大げさだが、帯状疱疹との我慢比べがまだつづいている。
 一応日常の生活はできるし、仕事もしている。すこしずつよくなっていることはたしかで、疱疹の跡もだいぶ赤黒くなってきて、あとは時間の問題だろうと思う。しかしその一方で、いくつかの水疱はまだしっかり残っている。
 たぶんそいつのせいだろうと思うが、けっこう痛いのである。局部の痛みとも鈍痛ともつかない妙な痛苦しさが、背中に取りついて離れない。それで今週もずっと痛み止めを飲んでいる。

 この数日、当ページを見たといって何人もの人がお見舞いの電話やメールをくれた。最後はお大事にとか、ご自愛くださいなどと言われ、だんだん病人になったような気がしてきたところだ。
 病名を知るまでの経緯があまりにばかばかしかったから、あとは笑うしかなく、病人になった自覚が全然なかった。いまでもあるとはいえない。しかし即入院させられた人や、後遺症が残っている人などの体験談を聞くと、それほどばかにした病気でもなさそうだとようやくわかってきた。

 塗り薬は自分で塗ることができないからかみさんにやってもらっている。すると2週間で腹が出てきたといわれた。そういえばそんな気もする。どことなくぶよぶよしてきたのである。
 安静にしていろ、といわれているから以来ジムへ行っていない。散歩も中止した。一方でめしは食っているから、からだはゆるみっ放し。ジムでは腹筋運動も欠かさずやっていたのに。
 かといって帯状疱疹が出るほど疲れるような運動をしたおぼえはない。張りきりすぎて筋を傷めるようなことはしょっちゅうやっているが……。

 すると何人かの人が、ストレスがいちばんいけないんですと指摘してくれた。それで翻然と悟った。そうか、ほんとはストレスが高じて発病してしまったのだ。仕事のしすぎ、根のつめつぎ、深遠な思索のしすぎだったのである。
 このところ仕事がうまくいかず、あせっていた。自分では気がつかなかったが、それで追い詰められていたかもしれない。なにしろ売れない作家がこの年になって急に売れ、あたかも売れっ子作家になったような錯覚をさせてくれたのである。

 売れっ子になった以上、つぎも売れる作品を書かなければならない。さすがといわれるような、大向こうをうならせる作品にしなければならない。真価を問われるのはつぎの作品なのだ。
 そういう責任感や義務感がプレッシャーとなり、目に見えない強迫観念となって、繊細なわたしの神経をじりじりと追いつめていたのである。

 つねに読者の期待にこたえようと苦吟する作家、より前を目指すがゆえに課せられた苦悩と葛藤、これぞ作家の鑑。自分がこんなにカッコいい作家だったとはちっとも知らなかった。その結果が帯状疱疹となって現れたとしたら、これはひょっとすると永遠に治らないかもしれない。

 ということで、喉元すぎればなんとやら。あれほど深く反省していたことなどけろっと忘れ、もうもとの極楽とんぼにもどってしまった。性懲りがないというか、いつまでたっても学習しないというか、同じことをこれから先何回でも繰り返すにちがいないのである。


2007.9.1
 暑い暑いと言っていたらもう9月。なんという時間の早さ。気がつくたびに愕然とする。とくに今週は仕事ができなかったからよけい痛感した。

 年をとると予想もしなかった災厄に見舞われるもので、先週背中が痛いと泣き言をいっていたところ、これが思いもよらない病気だった。
 背中に鈍痛をおぼえはじめたのは木曜日。それがだんだん痛くなり、夜もろくろく眠れなくなった。週末には我慢できなくなり、電話帳で整体医やカイロプラクティックの病院を探したくらいだ。家の近くになかったのと、休診だったから行かなかっただけである。
 結局月曜日まで我慢して病院へ行った。運動をしすぎて背中を傷めたと思っているから、行ったのは整形外科。月曜日だから超満員である。2時間待ってやっと自分の番がきた。

 病状を具体的に訴え、では診てみましょうということになってシャツをまくった。
 そしたら開口一番。
「なんだ、帯状疱疹が出てますよ」
「ええっ?」
 おどろいたのなんの。まさかそんなものが原因で背中が痛かったなんて思いもしない。あわてて皮膚科へ鞍替えだ。
 早とちりもいいところだった。おかげで手当てがずいぶん遅れた。帯状疱疹は発見が早かったら数日で治るそうなのだが、遅かった分、わかったときは胸にも疱疹が出ていた。数日後には腋の下、足にも出た。
 やっと今日になって、もらった薬が効きはじめたかなという手ごたえが得られたところである。それまではずっと、痛いは、眠れないは、横になれないは、寄りかかることもできないはで、仕事どころではなかった。

 しかしまさか帯状疱疹だとは思わなかったなあ。そういう病気があることは知っていたが、自分が罹るなんて夢想だにしたことがない。疲れたりストレスがたまったりすると出るそうだから、運動のやりすぎだったことはまちがいないだろう。

 おかげでからだの動きまで不自由になり、今週は外出もせず家のなかでよたよたしていた。かみさんが病気持ちだから、これまた疲れてくると足がよろよろになる。
 よたよたと、よろよろ、見られたざまではない。

「え? われわれ夫婦も、そのうちこんな年寄りになってしまうのか」
 と笑ったものの、笑いごとじゃない。すでにそうなっているのだ。
 ふだんの生活も、遊びも、仕事も、健康なからだがあってこその話。ちょっとでも患ったり損ねたりすると、たちまち身の回りのことさえできかねるよぼよぼの年寄りになってしまう、ということがわかって慄然とした。その資格をふたりとも100パーセント満たしているのである。
 ほんとうに冗談でなく、ぼやぼやしていられなくなった。できるときに仕事をしておかないと、できなくなったらそれっきり。そしてそれは、いつ起こってもおかしくないのである。

 ということがわかって、今度という今度は、認識を根底からあらためた。雨降って地固まるか。病をおして、仕事を再開しはじめたところです。


2007.8.25
 数日前から背中の具合が悪くなり、どういう姿勢をとっても治まらなくなってきた。どこがどう悪いか、その症状を具体的に言えないのだが、鈍痛というか重いものを背負わされている感じといえばいいか、うまく説明できない。

 とにかく坐っても腰かけても寝ころがってもだめ。いたたまれない圧迫感を覚えて、すこしも楽にならないのである。腹這いになったときが、まだしも楽かなという程度。
 しかしこれとてほかの姿勢よりましなだけ。長くつづけているとまた苦しくなる。寝返りばかりうって、夜もろくに眠れない。

 いったいどうしてこんなことになったかというと、恥ずかしいことに運動のやりすぎなのだ。このところ張りきりすぎて、運動過多になっていた。
 この1ヶ月、週に2回ジムへ通っている。これが1回程度だと、目に見えるほど体力は向上しない。2回になると、からだが慣れてきて、耐久力やパワーが増してきたつもりになる。スクワットひとつを例にとっても、10回、15回、20回と、より多くできるようになるのだ。

 それですっかり気をよくして、若返ったみたいな錯覚をしてしまった。根が軽薄なものだから、ちょっと調子がいいと年齢を忘れてしまうのである。
 それでなくとも自分は老人だという自覚に乏しい。故障を起こしては思い知らされ、そのつどしゅんとなってしまうくせに、治るとけろっと忘れてしまう。これまで何回も繰り返してきたことを、今回もまたやってしまった。

 今度こそ懲りよう。今夜は痛くて、この原稿もやっと書いた。つくづくばかだなあ。


2007.8.18
 今週はペルセウス流星群を見ようと思っていた。

 以前なんとか流星群のときに大失敗をやらかしている。わざわざ河口湖まで出かけてホテルをとったのに、あいにくの曇天。とても見込みがなさそうだったから、あきらめて夜中を待たずに寝てしまった。
 翌朝起きて食堂へ行くと、ゆうべはよかった、感激したという声があっちこっちで交わされている。なんでも夜半すぎから奇跡的に晴れあがり、降るほどの流星群を堪能できたそうなのだ。
 いつもこういう失敗ばかりしている。それに今年は車がないから、前の河川敷で見るしかあるまいと思っていた。本州の河川敷だと蚊の餌食になるだけだが、ありがたいことに札幌ではその心配をしなくてよい。安心して寝っころがっていられる。

 それで12日の夜、ウォーキングに出かけた帰り、パークゴルフ場のベンチで横になった。自分ひとり。周りにはだれもいなかった。
 ところが条件がよくなかった。薄雲は出ているは、街は明るすぎるは、ろくに星が見えない。はっきり見えるのは夏の大3角形くらい。北極星がなんとか識別できるものの、北斗七星にいたっては2つ3つしか見えなかった。
 これは期待薄だなあと思ったとたん、スーッときれいに一条流れた。それっきり、あとが全然流れない。目が慣れてきて、だんだん星が見分けられはじめたのに、流星のほうはお休みだ。

 それからしばらくたってからだった。
 星らしい光が右から左へかなりの速さで移動しているのを見つけた。それもひとつではない。4つ動いていた。小さな3角形と、それからだいぶ離れてもうひとつ。4つの星が同じ形、同じ間隔を保ちながら動いているのである。
 ヘリか航空機ではないかと疑ったが、形がまったくちがう。人工物だとしたらとてつもない大きさだ。さらに色、音ともになかった。速さは航空機よりだいぶ速い。とはいえ流星では断じてない。

 目の錯覚や見まちがいを避けるため、一旦は目を離し、周りを見回したうえで、また見つめた。どう見ても星としか思えない光なのだ。
 光はそのまま左のほうへ移動して行き、ビルとすすきのの白っぽい空のなかへ消えてしまった。最後のあたりで3角形の形がいびつになったような気もしたが、断言できるほど自信はない。
 時間にして4、5秒、あるいはもっと長かったか、短かったか。それもはっきりとは答えられないのだ。呆然としている間にすべてが終わってしまった。

 人工衛星でなかったことはまちがいない。じつはその翌日、同じ観察をして、人工衛星を見かけているのだ。天空のほぼ中央を、北から東へ移動して行った光がそれだった。軌道の取り方や速度から見ても、あれはまちがいなく人工衛星だった。これまで同類のものは何回も見かけているのだ。
 しかし4つの光のほうはなんだったのか、これはわからないままだ。どう考えても納得できる説明ができないのである。あとで周囲を見回し、照明や、レーザー光の見間違いでないことは何度もたしかめている。かといって謎の飛行物体、という風な言い方はしたくない。UFOなんかでは絶対なかった。
 家の近くまで帰ってきて、そこにあったベンチでまた横になった。いくら考えても納得できないから、口惜しくてならなかったのである。

 そのときも流星をひとつ見た。それからしばらくして、ひょいと気がつくと、真上にふたつの星があった。
 正確に言うと、ひとつは夏の大3角形の主役である琴座のベガ、いわゆる織女星である。そのベガの傍らにもうひとつ、明るい星があった。
 あれ、あんなところに星があったかなあ、と思ったつぎの瞬間、ふたつの星の間隔が開いていることに気づいた。つまりどっちかの星が動いていたのだ。むろんベガではなく、もうひとつの星のほうだった。
 とわかった途端、その光は消えた。見えなくなったのだ。それきりである。これも説明がつかなかった。

 一晩に2回もこんなものを見て、しかもそれを目撃したのは自分ひとり。人に説明したって信用してもらえる話ではないから、なんとも口惜しくてならない。
 しかしあとのほうの星は、まだしも説明ができるのではないかという気がする。あれもおそらく流星だったのだろう。ふつうなら横に流れる星が、わたしのほうに向ってまっすぐ落ちてきた。角度がなかったから、ベガのそばから離れたように見えたのだと。
 ただそれにしては時間が長すぎたような気もするのだが、動いていると気づいた瞬間には消えたのだから、せいぜい1秒か、あるいはそれ以下だったのかもしれない。

 いずれにせよ、昨今の空は、わたしなどの知識が役に立たなくなっているくらいアナーキーになっているみたいだ。正体不明の、わけのわからない、けったいなものが飛び回っている、と思うしかないようなのである。
 河川敷はこれからも歩くから、今後も星の観察はつづけるつもりだ。わかってみたらがっかりするような、あほらしい錯覚だったかもしれないのである


2007.8.11
 札幌の気温が昨日とうとう30度を突破した。このところ28度前後の気温がつづき、蒸し暑くて、雨か曇天、まるで梅雨みたいな日がつづいている。パソコンを使っているとその放熱で、じとっと汗ばんでくる。冷房がないというのはやはりつらいのである。

 このところ週に2回ジムへ通っている。体調を整えるためでもあるが、あたらしい靴を買ったのではき慣らしているところだ。エクササイズ用の靴なのである。

 ウォーキングシューズなるものはこれまで何足も買った。どれもだめ、ろくなものがない。そういう不満があるからあたらしいタイプが出たり、新機能をうたったものが出たりするたび、今度こそと思ってまた手を出してしまう。
 その結果、ウォーキングシューズなるものをまったく信用しなくなった。値段や最新のテクノロジーなど、靴のよさとは全然関係がない。歩くための最適の靴は、底の厚い、丈夫なものであることが一番、というのがわたしの達した結論だ。

 いま日常的にはいているのは、札幌へきた直後、ふつうの靴屋で買った全天候型のどた靴である。当初は2年くらいしかいないつもりだったから、その間持ってくれたらいいと、ほんの間に合わせの気持ちで買った。
 重いのが難点だったが、安くて、頑丈。雪と氷には刃が立たないものの、それ以外なら場所、天候、条件を問わず何でもこなしてくれる。底が厚いからどんな使い方をしても安心なのである。
 欠点は重いこと。それで愛想づかしをして、これまで何度も軽い靴にはきかえた。しかしいつの間にかまたこの靴へもどってしまう。いまも河川敷ウォークにはいているのがこの靴。このどた靴を越える靴にはまだお目にかかっていないのである。

 その禁を破り、久しぶりにあたらしい靴を買ったのが先月だ。というのもせがれがはいていたからで、なかなかいいよメールをくれたから、すぐデパートへ行って買ってきた。
 あたらしいものに弱いといわれたらそれまでだが、こういう靴のあることは、何かで目にして知っていたのだ。ただあたらしいものは、使用した人の評判を聞いてみないと手は出しにくい。それをせがれから聞けたから、迷わず買ったのである。

 MBTというこの靴、じつは底が平らでない。靴底全体が丸みをおびていて、靴底も通常の靴よりはるかに厚い。しかも弾力がある。いちばん厚い土踏まずの下あたりで4センチもの厚さがある。
 したがってはいて立っても、静止しているのはむずかしい。体重を分散させてバランスをとらなければならないからだ。歩くときも同じ。丸みのある靴底へバランスよく体重を移動させ、ローリングさせるみたいにして足を前へ踏みださなければならない。この一連の動きが、そのままエクササイズになるという触れ込みの靴なのである。

 エクササイズはともかく、底が厚いのと弾力のあるのとで、足をしっかりつつんでくれるフィット感はなかなかのものだ。これまでいい加減なウォーキングシューズにだまされてきた経験からいっても、ひと味もふた味もちがう感じがした。
 この靴を買うとCDがついてくる。正しい歩き方やジョギングの仕方など、モデルのデモンストレーションが収録されていて、それを見ながら自分の歩き方がチェックできる仕組みだ。はじめの2週間、このCDを見ながら家ではいて足慣らしをした。それからジムへ行き、トラックとウォーキングマシンを使って実地訓練をはじめたというわけである。

 歩き方をチェックしたことで思わぬ発見があった。自分ではなめらかに歩いていたつもりが、欠点だらけだったのだ。左足の出方がものすごくわるい。大げさにいえばどすん、どすんという風に下りている。体の上下動もそれだけ大きい。
 それをいま修正しようとしているところだ。しかし70年かけて身につけた歩き方だから、その欠点を直そうというのは容易なことでない。どこまで直せるか、多くを期待するのはむりだという気がしないでもない。
 だがこれまでの経過からいうと、この靴はいい買い物になったと思っている。着地感のよさだけでも、長くはけるだろうという予感がするのである。

 慣れてきたら屋外用にして、ふだんの外出で使ってみようと思っている。エクササイズ効果を期待する年ではないが、体のバランスはわるくなっているから、足に緊張感をあたえることは、体力維持や老化防止につながるのではないかと期待しているのである。


2007.8.4
 物忘れがだんだんひどくなる。部屋へ何か取りに行って何をしに来たんだか思い出せなくなり、しばらく考えた末すごすご引き返してくる、といったことをしょっちゅう繰り返している。

 昨日もそれで痛い目にあった。家賃の振り込みに行こうとして、札入れの中にあったはずの振込みカードがないことに気づいた。
 そればかりか、高速道路を通過するとき必要なETCカードもない。カード類は専用の札入れに入れ、財布とはべつに持ち歩いている。キャッシュカードやクレジットカードはあるのに、一部のカードだけなくなっているのだ。
 一時は落としたか、盗まれたかとも疑った。しかしほかのカードがあって、ETCカードだけないというのもおかしな話だ。どこかへ仕舞って、そのまま忘れてしまった可能性が強いと思った。

 だいたいカードが大嫌いなのである。できるだけ持たないようにしているが、それでも増えるばかり。カードなしには用が足せない世のなかになってしまったからだ。
 わたしの家でも夕食の買い物用だけで5枚のカードを使っている。デパートが3つ、スーパーが2つ、その日はどこへ行くかによって、そのつど使い分けている。
 1匹100円のサンマを2匹買ってもポイントがつく、といったカードなんか男だったら使いたくない。しかしかみさん連はちがう。得をすることとなると目の色が変わる。亭主は否応なし、買い物に行くときはカードを持たされてしまうのである。

 さてETCカードだが、いくら探してもない。そのうち、ほかにもまだないカードがあることに気づいた。郵便局などのカードもなかったのだ。
 それでようやく、これはアメリカ旅行に行くとき、不必要なカードを置いていったせいにちがいないと気づいた。
 病院の診察券だとか、ジムの会員券だとか、どうでもいいものはデスクのケースにそのまま入れて行った。しかしクレジット機能のついたカードは放置しておきたくなかったから、まとめてどこかへ仕舞ったのである。
 そこまではわかったものの、ではどこへしまったかとなると、それがまったく記憶になかった。とにかくふだん使っている物、場所、用具などをしらみつぶしに当たってみた。それでも出てこない。
 だんだん時間がなくなってきた。せめて家賃くらい先方の口座番号へじかに振り込みたかったが、口座番号すらわからないのである。手帳や日記を引っ張り出し、どこかに控えてあるはずだと懸命に探した。
 これも徒労に終わった。かみさんに聞けばわかることなのだが、あいにく出かけていて連絡が取れないのだ。

 2時間探し回って精根尽きた。時間はなくなる、雨は降りはじめる、出かけることすら断念せざるを得ないところまで追い込まれた。
 がっかりして、座り込んでしまった。しかしそれでようやく落ちついたというか、冷静に振り返って見ることができるようになった。
 どうせわたしのことだ。ものを仕舞ったり隠したりするのに、一貫性や深慮遠謀などあろうはずがない。その場しのぎの思いつき、安直きわまりない隠し方をしているにちがいなかった。
 と思いついて、隅の段ボール箱に放り込んであった古い書信や雑誌類の束をあらためはじめた。それまでにも2回、引っかき回しているのだ。しかしゴミといっていいものばかりだから、封筒の中までは調べなかった。

 出版社の小さな封筒に手応えがあった。ひっくり返すと、いとも簡単に3枚のカードが出てきた。単純きわまりない隠し方。あきれるしかなかった。そんなところへ隠した自覚がまったくなかったからだ。
 要するに隠したといったって、自分の目から見えないところへ隠しただけ。プロの泥棒なら真っ先に目をつけそうなところである。しかもそれはゴミといっていい代物のなかにまぎれこんでいた。あとすこし雑誌がたまっていたら、まちがいなく処分していたと思うのである。

 それで思い出すのは、昨年50万円の現金を洗濯したことだ。必要があって用意した金だが、そのときの外出には用がなかった。持ち歩くのはいやだし、無人の家のなかに放置しておくのも不安。というので洗濯機に放り込んであった汚れ物のなかへ忍ばせて出かけた。ここなら泥棒が入ってきたって見つけられないだろう。われながらいいアイディアだと思ったのだ。
 それを忘れて翌日洗濯したのである。脱水が終わって取り出そうとすると、なぜか洗濯ものに黄色い紙片が無数にこびりついていた。現金を入れてあったハトロン紙の封筒が融けて粉々になったもの、と気がついたときは真っ青になった。
 日本のお札はたいしたもので、40分間洗濯したのにびくともしていなかった。ただししわだらけ。いくらアイロンをかけてももとにはもどらなかった。

 2度あることは3度ある。今度起こすのはどんなミスだろうか。3度目だけはないように気をつけよう。


2007.7.28
 とうとう夏がやってきた。さすがにまだ30度は記録していないが、それに近い気温が毎日出はじめた。今年は冷夏じゃないだろうか、などとよけいな心配をしていたのがあほらしい。
 けっこう蒸し暑いのである。気のせいかこの蒸し暑さだけは、毎年ひどくなっているような気がする。多分あと10年もしたら、北海道も梅雨の圏内に入ってしまうのではないかと思うが、こういう予想だけは当たってもらいたくない。

 今夜は豊平川で恒例の花火大会があった。とはいえ窓からながめただけ。前が川原だから近くまで行ってもたいした手間ではないのだが、人混みへ出るのがますますおっくうになり、そういう気分すら起きなくなった。

 今週も病院へ行った。足に赤い斑点ができ、当初は気にもとめていなかったところ、アメリカで急に大きくなってきたから、気味が悪くなって診てもらったものだ。
 そしたらただの湿疹だと言われた。年をとってくると、心臓から遠い末梢神経の血の巡りが悪くなり、肌が乾燥して起こる現象のひとつだとか。要するに老化現象だったのだ。アメリカの砂漠地帯で大きくなったのも当然だった。

 老化現象といえば、このところさらに活字が読みづらくなった。これまでは裸眼で、寝っ転がって、いくらでも本が読めたのに、それがいまや苦痛。どう調節しても、ピントが合わなくなったのである。
 おかげで最近は新聞も読まない。ニュースはブログで間に合わせている。活字だと眼鏡をかけたり外したり、手間がかかってしようがないのだ。
 ところが今回の旅行で、携帯用の折りたたみルーペを持っている人がいて、気軽に取りだしては使っていた。それを見て、あ、そうか、こういう手があったのか、とはじめて気がついた。
 それで帰ってくるなりすぐ買い求めた。以来、予備の眼鏡とともに必ず持ち歩いている。なんのことはない。老眼鏡で字を大きくしてやったら読みやすくなった、ということだったのだ。

 今週はそのアメリカ旅行で一緒だった人から、道中の一部始終を撮影したビデオフィルムが送られてきた。
 自分で編集してタイトルやキャプションをつけ、人に贈るのが趣味、見てもらえるのがうれしいのであって、礼などしてもらっては困る、とまことにありがたい趣旨だったので、じゃ喜んでいただきますと言ってあったところ、もうできあがってきたというわけだ。
 それはいいが、CDだとばかり思っていたのがVHSフィルムだったから困った。わが家にはビデオデッキがないのである。東京に古いものがあるが、こわれて使えない。もらってはみたものの、いまのところ見る手段がないのだ。どこかでCDに変換してくれるところを見つけなければなるまい。
 自分のビデオを編集する気はさらさらない。とりとめのない画像が量だけなら10時間分以上あるが、こんなのを編集していた日には何ヶ月もかかってしまうだろう。
 それに記録媒体がハードディスクなので、時間を追って順に撮したはずのものが、あっちへ飛びこっちへ飛び、並び替えひとつどうやったらいいか、できないのである。見るたびに腹立たしくなる代物になろうとは思いもしなかった。

 自分の性格を考えたら、ビデオに手を出したことが大失敗だったのだ。高い買い物になったようである。


2007.7.21
 帰ってきて10日。旅の疲れもようやく取れ、生活のペースも取りもどして、仕事も再開した。

 疲れそのものより、バスに乗って突っ走っている感覚につきまとわれて困った。眠っていても、最高85マイル(136キロ)の速度で驀進しているバスのなかでうたた寝している感じなのである。眠りが浅く、すぐ目覚めてしまうのだ。
 13日間、毎日平均500キロを延々と走っていたのだから当然かもしれない。走破した州が17、総走行距離は6,000キロを超える。ある意味でこれほど過酷な体験は、肉体にとってもはじめてだったのである。

 おかげでいまのところ、どこかへ出かけたい欲求が全然起こらない。今週も病院と食料の買い出しにデパートへ出かけただけ。ウォーキングの開始も来週からということにした。
 それにこの夏は車がない。東京へ置いたきりで、いまのところ取りに行くあてもない。当初の予定では7月じゅうに帰って取ってくるつもりだったが、なんとなく面倒くさくてそのままになっている。
 なければないで、用は足りる。車を乗り回す暮らしに慣れてしまうと、1日でもないと手足をもがれたような不安を覚えるものだが、これは一種の中毒症状。歩いて用の足せる街の中で暮らしていると、なくてもいっこう困らないことがわかる。今年はこのまま、なしですませようかと思いはじめた。

 昨日は仕事の合間の息抜きにDVDで『荒野の決闘』を見た。ジョン・フォードの傑作西部劇である。いちばん好きな映画であり、思い出のこもった映画でもあって、DVDが出たときは真っ先に買った。
 今回見たくなったのは、この映画の舞台になったモニュメントバレーをこの目で見てきたからである。荒野に奇岩がにょきにょきと突き出ている、あの独特の、いかにも西部といったユニークな風景の見られるところがモニュメントバレーだ。
 今回のツアーコースに、そこが組み込まれていたから楽しみにしていた。しかし地図で見たところでは、あまりに小さな区画でしかないから不審にも思っていた。
 行ってみてびっくり。あの奇岩が見られるのは、ほんの一部の区域でしかなかったのだ。広大な西部の中のまるで箱庭みたいな狭いところ。岩の数だって、よく見かけるあれらの岩ですべて。名作の舞台をこの目でじかに見られたのはうれしかったが、あまりにこじんまりしたところだったのには、がっかりのほうがもっと大きかった。
 西部へ行けば、ああいう岩山がいたるところごろごろしている、とばかり思いこんでいたのだ。西部劇というと、つきものといっていいくらい出てきたあの独特の風景は、ジョン・フォードをはじめとする数多の名匠・巨匠たちが、それこそ何10回、何100回と使い回してきた舞台衣装だったのである。

 おかげでわが懐かしの『MY DARLING CLEMENTINE』がすっかりほろ苦いものになってしまった。その思いを噛みしめながら再見したのだった。


2007.7.14
 やはり札幌は涼しい。昨日は雨が降ったせいもあって風に吹かれると寒かった。アメリカでは最高40度を超える猛暑にさらされていたから、すっかり日焼けした顔で帰ってきたのだ。
 とはいえ札幌もこれまでずっと涼しかったわけではないらしく、地下道に入るとむっとする熱気がこもっていた。先週まで夏の陽気だったようなのである。

 週末に糖尿病の定期検診を受けてきた。案じていた通り、血糖値がはね上がり、これまでの平均値をだいぶ超えていた。糖尿病の目安となるヘモグロビンなんとかも許容値をオーバー。海外旅行に出かけていたせいだと力説して、なんとか納得してもらった。

 当初はたいした疲れもなく、元気いっぱい帰ってきたと思っていたが、これもとんだ思いちがいだった。帰ってきた直後は緊張感がつづいていて、疲れを自覚できなかったというだけだったようだ。その後時間がたつにつれ、疲れがどっとばかり出てきた。
 まず、眠くて眠くてどうにもならない。時差のせいかと思っていたが、4日たってもまだ直らないようでは、とてもそればかりとはいえないだろう。体のリズムが狂ってしまった感じなのである。
 さらに、足が信じられないくらい衰えてしまった。坐った状態から立ちあがるとき、なにかにつかまらないととても立てない。膝の関節が錆びついて、延びないのだ。
 これまでせっせとウオーキングをやってきたから、足には自信を持っていた。それがたった2週間使わなかったら、信じられないくらい萎えてしまった。これまでついぞ経験したことのない症状だ。
 歩いても足がろくに上がらないらしく、しょっちゅうつまずく。つんのめる。靴の底をこする。大地を踏みしめて歩いている気がしないのである。

 あれこれ考えてみると、これらはすべて老人特有の症状に他ならなかった。つまり老化現象そのもの。それがこの海外旅行をきっかけに、あからさまになったということのようだ。
 同行していたほかのメンバーにも聞いてみたいところだ。というのも今回は20名中60歳以下がふたりという年齢構成の、完全なシニアが集まっていたからだ。70代以上も5、6名。みな故障ひとつせず、元気に帰ってきたと思ったのだが、実情はどうだったのろうか。

 荷物の整理もまだ終わっていない。カメラとビデオの中身を、とりあえずパソコンに取りこんだだけ。不要なもの、写し損ないの削除まではしたが、それ以上のことは当分手がつけられそうにない。編集に膨大な時間がかかるらしいことを考えると、ビデオには手を出すべきでなかった、といまになって悔いている。
 とくにショックだったのは、ビデオの撮影があまりにもひどかったこと。とても見られた画像ではなかった。とにかくはじめて手にするカメラだから、どういうことに気をつけなければならないか、一応学習はしたつもりだった。それが全然身についていなかった。
 すなわちカメラを動かしすぎる。上下に揺らしすぎる。カットが細切れすぎる。げんなりする画像が延々とつづき、ド素人の撮影であることが歴然としているのだ。もともと人様に見せるためのものではないとしても、自分の腕前を思い知らされてがっくりきたのだった。

 多分このつぎはもっとうまく撮れるだろう。だがその機会がまたやってくるかどうか、体のほうが心もとなくなりつつある。


2007.7.10
 2週間のアメリカ旅行を終えて昨日帰ってきた。ロサンゼルス・ニューヨーク間をバスで横断するハードな旅程だったが、毎日が新鮮で、刺激的で、予想していたよりはるかにおもしろかった。まさに百聞は一見にしかずを満喫した旅となった。

 アメリカの印象については、今回持ち帰ったさまざまの宿題みたいなものをまとめ、機会を改めて書こうと思っている。格別目新しい問題はないものの、考えてみたいことが山ほどあった。そういう面からみても有意義な旅だったことはまちがいない。

 案外だったのは、自分の肉体が1日最高600キロを超えるバス旅に十分耐えられたことだ。むろんバスに乗っているだけだから肉体は酷使していないわけだが、1日平均5、6時間の睡眠でなんの故障もなく乗り切ることができた。この分だとまたすぐどこかへ行きたくなるんじゃないだろうか。
 食いものもまったく苦にしなかった。アメリカでうまいものが食える期待など、はじめからしていなかったせいもある。口に合わないものもたくさんあったが、日本食が恋しくてたまらなくなることは一度もなかった。
 だいたいがいやしいから、並べられているものにはなんでも手を出したくなる。だからアメリカンスタイルの、ビュッフェと呼ばれている食事形式がいちばん気に入った。日本でいうバイキングである。種類がふんだんにあるから、一口ずつ食えば満腹する。ただしスイーツのほうは、甘すぎてほとんど手が出せなかった。
 要するに高蛋白、高脂肪の超ハイカロリー食ばかりなのだ。カロリー計算をしながら食っていたものの、1日2000キロカロリーは軽くとっていたのではないだろうか。

 今週は木曜日が糖尿病の定期検診日だ。血液検査でどういう数値が出るか、ちょっと心配である。
 しかし考えてみると、2週間の空白というのはいかにも穴が大きかった。先に遊んでおいてなにを言うかと叱られそうだが、このような悠長なご身分ではなかったはずなのだ。今日からたちまち目の色を変えて仕事しなければならない。だが、すぐギアチェンジができるかなあ。






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