きのうの話 |
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2003.9.26 地震がきた。これまで経験した地震のなかでは最大の大きさ。横揺れが主だったがずいぶん長く、1分ぐらいはつづいたかもしれない。頭上にある蛍光灯が落ちてきそうな気がしてあわてて飛び起きた。廊下から居間へ行こうとするとまっすぐ歩けなかった。寝台車の通路を歩いているみたいな感じ。しかし割合落ち着いていた。 すぐテレビをつけた。震度情報がなかなか出ない。やっと出たと思ったら、札幌は震度4。ウソー! と思わず口走った。マンションの12階なので、それだけ揺れが大きかったということはあるだろうが、震度4という揺れではなかった。震度4なら何回か経験しているのである。 時刻は4時51分、外はまだ暗かった。外を見ると、近在のマンションの明かりがいっせいにぱぱぱっとともったのはおかしかった。 津波情報が出て、釧路港の模様が映し出されていた。漁船が泡を食って港外へ出て行く。そのときはもう釧路港に津波が来ていたらしい。ただし波ではなくて全体の潮位が上がり、岸壁からあふれた波がそこらを洗っている状況だった。大潮のとき潮位が上がりすぎて海水があふれてくることがあるが、それと同じ光景と思えばよい。潮が引きはじめると、潮位が1メートル以上下がったので、はじめて津波が来ていたのだとわかった。しかし引き潮はけっこう速い。漁船が岸壁から出て行って津波を避けたのは賢明だったのである。 6時半にまた強い余震が来た。これは短時間だったが縦揺れで、瞬間的には第1回の地震より強かったかもしれない。いまもまだ弱いながら何回か余震が来ている。 他人事じゃないなと思う。関東、東海はだいぶエネルギーがたまっているはずだから、用心していただきたい。防ぐことはできないんだから、あとはいかに被害を少なく食い止めるかだろう。当方、棚からまな板が落ちただけでした。 |
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2003.9.22 前回はつまらない下痢の話などしてお恥ずかしい。いやなことは忘れる、過ぎ去ったことや過失は自分のことなら簡単に許してしまう、というのが当方の自慢でして、回復力抜群、いまやけろっとしてそんなことなんかあったっけという顔をしております。 それが証拠に治った途端、紅葉見物に出かけたのだ。すでに大雪山の紅葉がはじまっており、下痢中も気が気でなかったのである。というのも大雪の紅葉は局地的で、最盛期が非常に短いからだ。本州のように全山真っ赤というわけにいかない。ところがそういうときに限って天気が悪いのである。ぐずぐずしていると時期を失してしまう。それでむりやり宿を確保して19日にとにかく出かけてしまった。 ところが出発するとすぐに雨が降りはじめた。はじめに十勝岳の紅葉を見に寄ったのだが雨は降りしきるは、風は吹きつけるは、さんざんの天気。おまけに海抜1200メートルとあって気温が6度、寒いのなんの。東京はこの日、たしか32度だったはずなのである。 車で上がれる終点に温泉宿が1軒あり、そこの露天風呂に入ると仕切りなしに十勝岳の紅葉が一望できる。まだ10時前で日帰り入浴を受けつけてくれる時間ではなかったが、かみさんに交渉に行かせるとかまいませんと言う。それで露天風呂からの紅葉見物に切り替えてすぐさま風呂に入った。 内湯の客はゼロだった。露天風呂に出てみると頭にタオルを載せた男が3人、首まで湯に浸かって気持ちよさそうにおしゃべりしている。中央にいる男を見て、あれ? とは思ったものの、まさか、北海道のこんな山の中にこういう人物がいるはずがないと思ったから黙って横を通り抜け、とりあえず湯に浸かった。 すると3人が話のつづきをはじめた。聞いていると、やっぱりまちがいないのだ。それであわてて割って入った。 「A山さん? 志水ですけど」 いやあ向こうもおどろいたのなんの。わたしが入ってきたのを見て、一瞬びっくりしたそうなのだ。しかしそんなはずはないと先方も同じように思い直し、黙っていたのだとか。 連れのふたりはK社の編集者。温泉の取材で来ていたというのである。「オブラ」という雑誌だそうだから興味のある方は来月号をのぞいて見られるといい。裸の出会いが書いてあるかもしれない。商売の邪魔になると悪いからこれ以上は書かないが、A氏とは5、6年ぶり。しかしまさかこんなところで出会おうとは思いもしなかったことである。 そのあとA氏一行と別れて目的地へ向かったが、結局この日は一日中降られっぱなしだった。それでも翌日は晴れ、めでたく大雪へ登ることができた。 ただしこの部分はべつのところに書くつもりなので、後日発表することにします。 とにかく元気です。 胃腸も完治。こうなりゃなんでも食ってやる。 |
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2003.9.18 ひどい目にあった。 あろうことか、下痢をしてしまった。原因不明。思い当たるようなものを食った覚えなど皆無なのに。ひょっとするとこのごろろくなものを食わせてもらえない消化器官が、示し合わせて反乱を起こしたんじゃないかと思っている。 金曜日の夜から調子が悪くなり、仕方がないから土、日と2日胃袋を干した。それでどうやら治ったらしいので、ほっとして日曜日の夕食にお粥を2膳と、ヨーグルトをすこし食った。そしたらたちまち逆戻りしてしまった。 月火と、また虫干しならぬ胃袋干し。ゼロではいくらなんでも体力が持たないから、朝はなにもつけない食パンを半枚、昼と夜はお粥を軽く1膳。どうみたって1日300キロカロリーというキリギリス並みの熱量で命をつないだ。 火曜日の夜は東京から編集者が来たので一緒に晩飯を食った。といってもわたしはそばをすこしと、インドパンのナンを少量つまんだだけ。夜半から仕事をはじめるとき、ビスコを2枚とすりおろしりんごを半個食った。 風呂へ入ったとき鏡を見たらげっそりと肉が落ちていた。体重は……みっともないから書かない。先週よりもっと減ったことはたしかである。 これまで自分の肉体で自慢できるところというと胃袋しかなかった。年を取るにつれ、ほかの器官は弱ってくるのに消化器ばかり逆に丈夫になってくるみたいで、じつをいうとあんまりいい気分ではなかったのだ。 その自信が根底から覆ってしまったのが、前回書いた中国でかかった下痢だった。このときは上海でエビの踊り食い、南京でマテ貝の刺身と、怪しげなものばかり食っていたから天罰が下ってもしようがなかったのだが、どうもそれ以来というもの、ひとたび下痢をするとなかなか治らなくなってしまった。そのときのなんとか菌が体内に住み着いてしまったのではないかと思っている。 今夜やっとふつうのめしにありついた。おかずが1汁2菜。それも軽く。いまのところ異常ないようだ。 それにしても腹立たしい。この恨み、どこで晴らしてくれようか。 |
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2003.9.11 なんと、体重が54キロ台に突入した。たった3週間で2キロ以上減ったことになる。節食の効果がこんなに大きいとは思ってもみなかった。 このところ56キロ台の体重をずっと維持していた。というより57キロになってしまうことが多く、55キロまで減ることはめったになかった。コンスタントに55キロ台をというのは悲願だったのである。それがいとも簡単に54キロになってしまった。ウォーキングを1時間、ストレッチとバーベルを45分やって、そのとき空腹だったせいもあるが、体重計の数字が54・1キロと出たときには目を疑った。10年以上もまえの体重ではないか。こんなにも簡単に減るなんてこと自体が信じられなかった。 5、6年まえのことになるが、中国へ行ってひどい下痢をし、最後の2日間はまったく飲まず食わずで這うようにして帰ってきたことがある。帰国後もなかなかもとへ戻らず、一時は体重が52キロまで落ち込んだことがある。快挙といっていいかどうか。そのとき以来のことだ。この分だと53キロ台も夢ではない。これは40代のときの体重に相当するが、そのころがいちばん調子よかったと記憶しているのである。 しかし肉体がこれほどあっさりと現実を受け入れ、簡単に順応してしまったのには少々あきれた。ひもじかったのはほんの数日、いまではなんともなくなっている。細かいカロリー計算まではしていないが、ノートにその日食ったものは書き出しているから、だいたいの摂取カロリーはわかる。80キロカロリーを1単位として、何を何単位ぐらい食ったか控えておくと、いちいち計算しなくても大まかな全熱量ははじき出せる。当面の目標だった1日1600キロカロリーに近づいているのである。 それでこれまでの総括をすると、ダイエットなんてじつに簡単というのが正直な感想だ。こんなもの、気持ちの持ち方次第、つらくもなんともありやしない。誰にでもできる。そりゃひもじいだの、餓死しそうだの、大げさなことも書いているが、これはもの書きとしてのサービス、笑いを取るための演技みたいなものだ。だいたい作家なんて連中の書いてることをまともに受け取ってはいけません。エッセイだとか身辺雑記だとかは、いちばん嘘がつきやすいジャンルなのだ(その点小説のほうは嘘が書けない。本人の人生観がそのまま出てしまうから、小説はノンフィクションなのである)。 ついでにいうとタバコをやめて20年になる。ロングピースを1日60本吸っていたからかなりのヘビースモーカーだったと思うが、これも簡単にやめられた。格別つらかったとか、根性の入れ直しが必要だったとかいうこともない。タバコをやめたい人はけっこう多いと思うから、そのうち別途に「禁煙のすすめ」とでも題した一章を書き、参考にしていただこうかと思っている。わたしにとっては今回の食事制限も、タバコをやめたときと同一線上の問題にすぎなかったのである。 要は面白半分ということなのだ。 遊びのつもりでやっているだけ。遊びだから半分は楽しんでいる。遊びだからつづけられるということなのだ。 だいたいが意志薄弱、根気・根性ゼロ、いちばん嫌いなことばが努力、という人間である。それがこうしてなんとか世渡りできているというのも、人生なんてしょせん遊びだと思っているからだ。くそ真面目ノー、面白半分イエス、自分のしていることをもうひとりの自分がにやにや笑いながら見ているのである。食いたいものが食えない笑えない状況だからこそ、笑うしかないという言い方もできる。 食わない暮らしも面白い。面白いからつづけられる。体重が2キロも減ればさらに面白くなる。禁煙したときもまったく同じだった。面白半分だったからやめることができ、それがいまでもつづいているにすぎない。したがって正式には禁煙したと言っていない。休んでいる、という言い方をしている。あくまでもいまのところという話で、自分の言動にあとあとまで責任を持つつもりはさらさらないのである。 したがってこの先どうなるかはわからない。まだしばらくはつづけられるだろうと思っている。しかし食う楽しみがなくなるというのは、なんとも味気ないことはたしかですな。裸になって鏡の前に立ったらアバラが浮いて見えるようになった。こんなんでいいのかなあ、と半分懐疑的になりながら、きょうもすずめの涙ほどの食いものをいとおしそうに噛みしめているのである。 |
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2003.9.1 とうとう食事制限をはじめた。糖尿病対策にほかならない。どう言われようががんとして病院へ行かないので、かみさんが業を煮やして強硬手段に出てきたのだ。天下無敵のつもりでも泣く子とかみさんには勝てない。しぶしぶ食いものを減らすことで妥協した。自分がそれほど大喰らいだとは思っていない。酒も飲まない。しかし改めて指摘されてみると、東京にいたときは池袋の仕事場で好きなように暮らしていた。週に5日そっちで寝起きし、それが30年つづいた。この間食った果物だけでも何トンかになっている。先月スイスへ行った際、友人夫婦の食べる量の少なさにびっくりして、するとやっぱり自分は食べ過ぎているのかなあとはじめて認識したのだった。 食いたいものを我慢してまで長生きしたいとは思わない。だがぽっくり逝ける保障があるならまだしも、糖尿病みたいな病気で一寸刻みに殺されてゆくのは真っ平ごめんである。まして年を取ってからの病院通いだけはしたくない。となると、病院へ行かなくてすむよう自分のからだをコントロールするよりほかないわけだ。と、このような理屈詰めでしぶしぶ納得させられたのだった。 栄養学ならこれまで仕事で何回かかじったことがあり、食品成分表も食事療法用のガイドブックも持っている。しかし自分に当てはめて見たことはなかったので、ろくに使っていなかった。今回初めて、いまの自分に適正な必要カロリーというのを計算してみた。そしたらおどろいたのなんの。一日1400キロカロリーから1600キロカロリーが適正と出た。それ以上は食いすぎだと。1400ではろくに食えない。なにしろ食パン一枚とコップ一杯の牛乳でもう300キロカロリーになってしまうのだ。夕飯にはいつも茶碗で2杯めしを食っていたが、これだけで優に300キロカロリーを越える。どうやらこれまでは1日2300キロカロリーぐらい食っていたみたいなのだ。 いきなり1600では餓死してしまいかねないから、とりあえず当座の目標を1800キロカロリーにして、できる範囲からはじめることにした。しかしはじめてはみたものの、なんとも情けないことになった。いま持っている「目で見る八十キロカロリー食品ガイド」というに本は、食品ごとにどれくらいで80キロカロリーになるか、写真で提示してあるからじつにわかりやすいのだが、これがおどろくほど少ないのである。たとえばいま北海道でいちばんうまいサンマ。1尾まるまるだと80キロカロリーが5単位、つまり400キロカロリーにもなってしまうのだ。 悲惨な食生活になった。第一ひもじいのなんの。朝が400から500キロカロリー。昼が300キロカロリーで、夜は1000キロカロリー、とだいたいの目標値を掲げてそれを目指しているのだが、腹が減って仕事もできやしない。この年になってこんなひもじい思いをさせられようとは夢にも思わなかった。先週金曜日、一週間ぶりにジムへ行って鏡の前で裸になったら、いい加減貧弱だった肉体がもっとげっそりしていてわが目をおおいたくなった。体重は10日で1・5キロ落ちた。 しかし一方で人間のからだなんてどうにでもなるもので、一週間もすれば慣れてしまった。いままでだと夜仕事をしていて腹が減るとなにか食っていたが、以後一度も手を出していない。ほかの間食までぴたっとやめてしまった。またヨーグルトには蜂蜜とフルーツソース、パンにはマーマレードというのがわが家の定番だったが、いまではヨーグルトにユズだけかけて食っている。そのためユズを一升瓶で取り寄せた。マーマレード類もいま使いかけの瓶が空になったらもう買わなくてすむだろう。果物も一日一回。このまえよそからモモをもらい、それを随喜の涙を流しながら1週間ほど食っていた。それが今年はじめてのモモだった。 しかしこんな話、あんまり自慢にもならない。もうちょっと意気の上がることを書きたいのだが、そういうものがなんにもないのである。 |
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2003.8.19 どうも調子が上がらない。 からだのリズムが狂ったのか眠くて眠くてたまらず、そのくせまとめては眠れなくて慢性的な睡眠不足がつづいた。仕事をする気力が出てこないのである(毎度のことか)。こんな日が10日以上もつづいたため、とうとう睡眠薬を何日か服用して強制的に直した。疲労からの回復や環境への適応性がだんだんできにくくなっている。 そのせいもあって、このところ外出らしい外出をしていなかった。せいぜい夕方の買いだしに出かけるくらい。それで日曜日、久しぶりに郊外へ、といっても車で20分ほどのところにある公園まで気晴らしに出かけた。気がつくと1ヶ月以上車に乗っていなかった。日記をめくってみると最後に乗ったのは7月12日である。車のバッテリーが上がってないか、キーを差し込むまで不安だった。 雪やアイスバーンでの運転経験がないため、車は毎年冬になると東京へ持って帰っている。ことしの春、その車を取りに帰ったらバッテリーが上がっていて動かなかった。レッカー車に自宅まで来てもらい、サービスステーションまで運んでもらう始末。以来信用できなくなってしまった。さいわい今回はなんともなかったが。 北海道はことしも冷夏で終わりそうだ。そういえばからっと晴れ渡った空や入道雲を見ていない。午後3時を過ぎるともう風が冷たくなってくる。それでもこの数日はいくらか回復し、気温も25度くらいまで上がってきた。気の毒なのは東北で、北海道より低い気温がつづいている。米の凶作は避けられそうにない。東北は米の単作地帯が多く、北海道ほど農業に多様性がないから、冷夏になるとそれだけ打撃が大きくなる。二十年ほどまえ「ニッポン古屋敷村」という小川プロのドキュメンタリー映画があり、そのなかで冷害のメカニズムが詳細に紹介されていた。あのころとそれほど事情が変わっていないのはどうしたことだろうか。 コスモスとアジサイが咲いていた。 赤とんぼが飛びはじめている。 | |
2003.8.8 旅行から帰ってきて1週間、もとの平穏な生活にもどりはしたものの、仕事のペースは一向に上がらない。疲れもあるが、後始末に時間をとられ、気分までが行ったり来たりして集中できないのである。昨日やっと写真の整理が終わったところだ。 しかしろくな写真がなかった。今回の旅行に備えてデジタルカメラを買ったのだが、数枚テスト撮影をした程度で持って行ったため、とても使いこなせなかったのだ。どこでスイッチを入れまちがえたか、必要もない動画になっていたりして、あわてて何度マニュアルを開いたことか。夜間撮影も全滅。いままでのカメラのほうがはるかに使いやすい。こんなもの、買うんじゃなかった。 気分ののらないもうひとつの原因は、夏の実感がまだないことだ。8月だといわれてもぴんとこない。せめて猛烈に暑かったらまだ受け取り方もちがってくるだろうが、どうやら今年は冷夏。7月だって北海道は気温が上がらないまま終始し、結局観測史上何番目だかの低温になったという。事実札幌はまだことし一回も30度を記録していない。その割りに雨が多く、蒸し暑くて閉口する。北海道には梅雨がない、なんて嘘だといいたくなるようなお天気つづきである。 きのう送られてきた雑誌の表紙に朝顔が描いてあるのを見て、そういえばこのところ朝顔を見ていないことに気がついた。札幌では見た記憶がないのだ。かみさんに聞いてみたところ、どこかで見たことがあるような気はするものの、自信はないという。 朝顔が育たないことはないと思うのだが、いい花は咲かないのかもしれない。朝顔という植物は花が咲くまでに茎を伸ばし、つるを這わせ、かなりの時間を必要とする。夏の短い北海道では間に合わないのではないか。キュウリやメロンなどつるのある作物は、すべて温室栽培なのである。ついでにいうと、北海道の稲も背丈は本州の3分の2くらいしかない。茎を伸ばしている時間がないからだ。 今週は東京から編集者がお礼参りにやってきた。スイスに行くという話を聞きつけ、現地から編集部宛てに絵葉書をくれろと言い出した会社だ。『作家の休日』というテーマで次月号から順次グラビアで掲載したい。ついてはおまえに第一回の名誉ある誌面を提供してやる、と言ってきたのである。 ただし校了の関係で、現地へ着いた当日に投函してもらわんと間に合わん、といいたい放題。人がせっかく休みをつくってのんびりしてこようと思っているのに、なんで着いたそうそう絵葉書を買いに走り回らなきゃならんのだ。とは思ったものの作家とてしょせん商売、お座敷のかかるうちが花だから、こういうときノーとは言えないのである。 仕方がないから書きました。ただし当日は空港からホテルへ行っただけだから書くことがなんにもない。だから校了に間に合わなくったって知るもんかと開き直り、2日経過したところで書いた。それでも間に合ったらしいのだ。かくしてへたくそな字の絵葉書が、来月そのまま掲載されることになった。うれしい話じゃないからなんという雑誌かは言わない。興味のある人は来月店頭でぱらぱらとめくってみてください。買う必要はないよ。小生はその号になんにも書いていないんだから。 |
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2003.7.31 一足早く夏休みをとってスイスに行ってきた。スイスに行きたいというのはかみさんの前々からの希望で、わたしひとりだったらけっして行きはしなかっただろう。作家のはしくれとしては、スイスみたいな有名観光地へのこのこ出かけて行くのは大変かっこ悪いことなのだ。それより、おれはマージナルなとこにしか興味ねえよ、と言っているほうがはるかにかっこいい、と思われているのである。従って、かみさんのおかげでスイス旅行をすることができた、なんてことはまちがっても人前で言ってはならない。今回の旅行は1から10まで、40年近く縁の下でわたしを支えてくれたかみさんへの感謝旅行だったのである。何度でも言うぞ。かみさん孝行でスイスへ行ってきた。 で、感想はどうだったかというと、予想していた以上によかった。治安のいいこと、トイレの清潔なこと、このふたつだけをとっても年寄りには大変ありがたい国だ。マイナスは物価の高いこと。食いもの、飲みもの、交通費、すべてがべらぼうに高い。とくに乗り物代は、旅行費用を押し上げるいちばんの原因になっている。今回は友人との2家族による個人旅行だったから移動も列車でしたし、乗りたい登山電車、ケーブルカー、ゴンドラ、船、ありとあらゆる乗り物に乗った。おかげで当初見積もっていた倍以上もの費用がかかった。それがまた、少々値段が高くても乗ってみたいようによくできているのだ。なんせ時計とアーミーナイフぐらいしか特産物がない国だから、観光に力をいれなければ食ってゆけない。財布の紐をゆるめさせる仕組みは手を変え品を変え、縦横に張り巡らされているのである。 実際は金があまりなさそうなドイツ人観光客がいちばん多い。といえば失礼だから、金を使わずに休暇を楽しんでいるドイツ人観光客がいちばん多いと言い換えよう。感心することは、彼らの多くがひたすら歩いていることだ。登山電車にも乗らず、大きな荷物を背負って、山の下からストックをついて黙々と歩いて登っているのはたいていドイツ人だった(と思う)。その体力と気力にはほとほと感服するほかない。わたしたちも含め日本人も多少は歩いているのだが、たいてい上まで乗り物を使い、下りの景色のいいところを1、2時間ちょこっと歩くだけ。登っている日本人にはとうとうお目にかからなかった。 従っていまのスイスでいちばんのお得意というと、おそらく日本人だろう。あと韓国人、中国人とつづき、日本語、ハングル、中国語で表示された案内やパンフレットも現れはじめている。どちらもまだツアー旅行がほとんど。わっと来て、さっと見て、どかっと買って、さーっと引き揚げてしまうから、スイスにしてみたらありがたい客にちがいない。ただこれ以上東洋人が増えつづけても、いまのサービスとレベルを維持できるかどうか、あと5年もたったら空気がだいぶ変わってしまうのではないか、といった危惧も感じた。すでに接客部門では多くの東洋人が働いている。行くならいまのうち、といって差し支えなさそうである。 |
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2003.7.15 連載小説の原稿が6週分、短編の直しが15本分、それと新聞のコラム、以上3つの仕事を終え、メールで送ったばかりのところだ。原稿枚数にすると700枚を超える分量があり、送信するだけで数分かかった。しかしこういうときの数分というのはじつにゆったりとした気分で過ごせる。これで当面のノルマを果たし終え、心置きなく休暇をとることができるからだ。さあこれから旅支度をはじめよう。 とはいうものの人より多少早く夏休みをとるだけのこと。帰ってきたら帰ってきたで、また難物が待ち受けている。つぎに手がけなければならないものは、昨年まで雑誌に連載していた長編のまとめ。単行本用にまとめるのだが、大幅な、あるいは全面的な加筆訂正が必要なため、年内いっぱいで終われば上出来だろうと思っている。 ともかくこれで、ことしもう1冊本が出せそうでほっとしている。この数年間に書いてきた短編の最後の作品、短編集としては4冊目になる。実際には20本書いているが、手を入れるまでもない愚作が何本かあったのでそのうちの15本を直した。ただし15本を全部収録するわけではなく、このなかから10本ぐらいを選抜することになるだろう。その作業はもちろんこれから。 ちなみに昨年は短編集が一冊出たきり、過去の作家といわれても仕方がない状況になりかけていた。それで、これじゃあいかんと心を入れ換え(何十回入れ換えてきたことか)ことしはある程度仕事を引き受けた。それでもこのまえ札幌へきた某作家(F・Yとかいう)の「来た仕事は全部引き受ける。まだ断ったことがない」という境地には遠く及ばない。 だらだら、のそのそ、と生きてきて気がついたらもう20年、年齢的にもそろそろ後がなくなってきた。作家には当然作家としての寿命がある。あと何年書けるか、それが時間の問題になってきた。とすれば、書けるときに書いておかなくては、とやっと姿勢をすこし改めたのである。自分の限界や寿命を見据えながらのこれからということになる。とにかく引き受けてしまえば締め切りがあるからいやでも書かざるを得ない。結果として、それが作家としての寿命を維持させる、ということになりそうなのである。 というわけで、これからの仕事に対する基本的姿勢を再確認してみる。 つぎの通り。 1 割のいい仕事なら喜んでする(おいしくない仕事はやらない) 2 エッセイ、コラムはお断り(道草をしている暇がない) 3 交友、交流、交出版社、これ以上手をひろげる気はない(ただし1のケースであれば可) なんか、これまでと全然変わっていない気もする。 それで当然噴き出してくるのが、このホームページでやっていた連載小説の問題。いまでは完全に書けなくなっている。締め切りなしで、あらゆる制約なしで書いてみたい、などとまあよくぞ大風呂敷をひろげたもので、恥ずかしくて恥ずかしくて、ほんとはこのページを閉鎖してしまいたい。だいたいそんな勤勉な、精力的なことができるわけがなかった。まことに忸怩たる思い。いつかは完成させるつもりなので、いましばらく、どうかご容赦願いたい、と心からお詫びしておきます。 とりあえず二週間の休みをいただきます。 |
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2003.7.7 10月にかみさんのきょうだいによる家族旅行をすることになった。かみさんは6人きょうだい、それぞれに連れ合いがいるが、うちひとりが4月の末に欠けてしまい、そのとき、この先もうそれほど時間がないかもしれないので、いまの内にみんなで旅行しておこうよという話が持ち上がったものだ。数年前、わたしたちがまだ東京にいるときに一度行ない、このときは2泊で蔵王をはじめ東北の紅葉を見に行った。今度は北海道の紅葉見物というわけだ。 じつはおととし、わたしのきょうだいによる家族旅行もやっている。母が亡くなったとき、わずかながら貯金が残っていて、これを5人のきょうだいで分けたってしれているから、それなら旅行に使おうということになったのだ。ちょうどわたしたちが北海道に住んでいたから、これを足がかりに一族そろっての北海道旅行が実現したのだった。 このときは5組の夫婦と子どもがひとり、つごう11人が参加して中型バスを1台借り切り、3泊かけて道東を回った。往復の航空機代からバスの運転手の宿泊費まですべての費用は母の貯金から。まさにお母様さまさまで、子どもたちは口をそろえて母を賞賛したのだった。 今回もわが家での一泊も含めると4泊の道東旅行になる。ただし残念ながらプールされたお金がないので、実費参加である。それにいざとなると足並みがそろわなくなってしまい、結局参加者は6人にとどまった。いっそ来年にしようかと言う声も出たのだが、来年行けるとも限らないし、第一来年はわたしたちが北海道にいない(はず)。やっぱりことし行ってしまおうということになったのだった。 きょうだいが多いのをむかしはそれほどありがたいと思ったことがなかった。分け前がいつも少なくなるからである。しかしこういうときは、つくづくよかったなあと思う。ほかのどういう旅行ともその雰囲気や楽しさがちがうからである。 しかしそうなると北海道在住のこちらの責任も重大になるわけで、さて、どこの温泉に案内したらいいだろうかと、このところてんてこ舞いして調べまくっている。安い航空券を抑えたり、宿の確保をしようとしたりすれば、いまのうちに手を打っておかないといけないからだ。くわえて来週からは自分たちの旅行もある。 おかげでせっせと働いている。 |
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