Shimizu Tatsuo Memorandum

きのうの話      
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2003.6.30
  田舎から大量のヤマモモが送られてきた。先日妹のところへ電話したとき、ことしは成り年だから期待しててね、といわれたばかりだったから楽しみにしていたのだ。期待にたがわぬ大粒のヤマモモで、大きいものはウズラの卵よりまだ大きいのである。
 ただしかみさんはあんまり喜ばなかった。先月の糖尿病宣告以来、だんだん風当たりが強くなって、このところことあるごとに干渉されている。食事、間食、果物、こちらも以前ほど無茶食いせずセーブしているのに、本人はまだまだ不満足みたいなのである。
 ぶつぶついいながら早速煮詰めてフルーツソースをつくってくれたのだが、できばえが昨年までに比べていまいちなのだ。気のせいか、色も薄い。もっと鮮やかなピンク色だったはずなのに、イチゴ色を薄めたような淡いものに仕上がっている。食ってみたらやっぱりうまくねえのだ。砂糖の量が少なくなっているのである。今度かみさんが出かけて留守をしたとき、砂糖を足してこっそり煮返してやろうかと考えないでもない。
 糖尿というのはたしかに怖い病気かもしれないが、本人には自覚症状がないから横でやいのやいの言ったってだめなのである。家で食事制限をされても外に出てしまえばこっちのもの、かえって家での埋め合わせをしてしまう。本人はそれをからだが要求しているのだ、と思っている。
 この間かみさんが大阪へ出かけているときもそうだった。妹がビワを送ってきてくれたのだ。それも段ボール箱にいっぱい。庭先に成っているものだから器量はよくないが味は変わらない。うまくて、うまくて、久しぶりに腹いっぱい食ったら30個あまり平らげていた。そのぶん晩めしを控えたんだからプラスマイナスはゼロである、と理屈ならいくらでもつくのだ。そういえば周りにいる糖尿持ちの友人も、1日3回インシュリンを打っているくせに「総量規制をしているからいいんだ」とかなんとか、そのつど勝手な理屈をつけている。
 わたしが知っている限りあんまり殊勝な糖尿病患者はいない。

2003.6.25
  だいぶさぼってしまった。
 言い訳になるが、この3週間に4回、東京から客がやってきてそれなりに忙しかったのだ。さらに来月中旬、かみさんを連れて2週間ほど旅行に出る予定。これがけっこう大変なのである。なんといっても原稿を書きためておかなくてはならない。連載ものはたくさん抱えていないので、その気になればいつでも旅行ぐらい行けると思っていたのだが、いざ出かけるとなるとやたら忙しい。単に2週間留守をするだけでなく、帰ってきてもすぐもとのペースには戻れないから、だいたい1ヶ月くらいは仕事ができないと思わなければならない。おかげでこの数週間1日の休みもなしに勤勉な生活をつづけている。
 そのせいでこのところ外へもほとんど出ていない。ジムにも10日以上ごぶさただ。きょうかみさんのお供をして久しぶりに買い物に行ったところ、デパートの中で何回もつんのめったりつまずいたりした。何もないところでよろめくのだからいやになる。運動不足がつづくとたちまち足に影響が出てくるのである。足腰の筋肉がそれだけ弱ってしまうわけで、わたしの場合はそれが顕著に出てしまう。
 東京にいたころ、週に3回くらいジムに通っていた。そのたび1時間から1時間半速足で歩き、夏だと1回で1キログラム体重を減らすこともあって得意満面だった。足こそ健康の源、それを鍛えているから無病息災まちがいなしと信じ込んでいたのだ。ところがある時期から、なぜか真っ平らなところでしきりとつまずくようになった。まるで見えない障害物にぶっつかったみたいに、足をとられてつんのめってしまうのである。これだけ足を鍛えているのになぜ、と不審でならなかった。よくよく見ると、あまり足が上がっていないみたいなのである。
 機会があって専門家にたずねたところ「それは筋力が衰えているからだ」といわれてびっくりした。歩くだけではだめだというのだ。筋力の低下は年齢相応にやってくるから、そちらも鍛えてやらないと体力増進や維持にはならないというのである。マシンを使ってのスクワットや大腿部、ふくらはぎの鍛錬をはじめたのはそれからだ。事実それをやりはじめると、つまずくことはぴたりとなくなってしまった。
 ところがその一方で、今回のようにちょっとさぼったり間隔が開いたりすると、たちまちつまずきはじめる。どうも運動というのは麻薬みたいなところがあって、つづけることを無限に要求するみたいである。歩けなくなったらそれこそがたっとくるんじゃないだろうか、とかえって心配になってきた。

2003.6.15
 温泉に行ってきた。渓流に面した露天風呂が想像していた以上によかった。解放感、湯、眺めとも極上。床几に腰を下ろして川風にあたっていると、目の前の岩にコチドリがやってきたので30分ぐらいにらめっこをしていた。下手に動くと逃げられそうなので我慢していたのだ。コチドリも裸(?)だが、こちらも生まれたときそのままの格好。向こう岸が山だからこそできたことである。
 今回も2日間まったく貸し切り状態だった。はじめの日こそ女性の泊まり客が3人いたが(といっても1組は親子)2日目はわたしひとり。日中は日帰り入浴客が何人か来たと思うのだが、わたしが入浴していた間はひとりも来なかった。こういうことがたび重なると、この先混み合った湯には入れなくなるんじゃないかと心配だ。
 しかしながら、である。
 湯のほうは文句なかったが、宿のほうはいささかつらかった。また行きたいか、といわれたら即座にノーと答える。築後30年くらいたった安普請のおんぼろ宿。もちろんトイレは共同で、その臭いが部屋まで漂ってくるのだ。水洗だったのになぜこの臭いなのか、つくづく閉口した。さらに食いもの。味噌汁が「これって、味噌のペーストなの?」といいたくなるような濃さなのだ。お湯でうすめてもうすめてもまだ濃い。温泉がいいから行ったんだし、仕事をしに行ったんだから文句を言う筋合いじゃないとは思うけれど、2日目はもうよそへ替わりたかった。ちなみに料金は1泊2食つき6000円ぽっきり。
 大旅館や有名温泉地のインチキぶりはよく知っているから、最近はもっぱら一軒宿ばかり訪ね歩いている。選択の唯一の基準は泉質。つまり湧いてきた湯をそのまま流しっぱなしにして、消毒も濾過もしていない正しい温泉しか行かないことにしている。そういう温泉宿というと、たいてい小さな旅館なのである。当然のことながら温泉以外の設備は見劣りする。壁紙がはげてベニヤ板がのぞいていたり、根太がゆるんで廊下がみしみし鳴ったり。部屋にまずトイレはないし、汲み取りのところもまだ多い。
 そしてあからさまにいうと、こういうところはおしなべて食事が超マズなのだ。夫婦ふたりで切り盛りしているところが大半だが、北海道で生まれ育って道外へ出たことのない人が多いから、味覚は北海道そのもの、つまり濃いのである。この場合、濃いとは必ずしもしょっぱいということではない。しっかり味のついた濃さといえばいいか。しっかり食ってしっかり働いてきた開拓時代の生活習慣をそのまま引き継いでいる味といっていい。わたしには重すぎる。
 六千円ぽっちで山海の珍味を食わせろなんていうつもりはない。旧態依然とした食の習慣を、接客業だったらもうすこし改める姿勢があってもいいのではないか、といいたいのだ。北海道のサービス業は総体的にレベルが低いのだが、旅館業はその代表といって差し支えないのである。
 北海道は食いものがうまい、というのは単なる思い込みにすぎない。うまいのは素材である。北海道の料理、とくに和食はそれを殺している。だからわたしは知人や友人が札幌へ来ると、たいてい寿司屋へ連れて行く。寿司は素材だけである。へたに手を加えず、素材だけで勝負できる食いものというと寿司しかないのである。
 仕事のほうは残念ながら予定の半分もすすまなかった。宿のせいではない。何度も書き直しをして、結果としてひとつともまとまらなかったということである。

2003.6.9
 今週はYOSAKOIソーラン祭りがあった。今夜がフィナーレで、テレビがそのクライマックスをぶっつづけで放送していた。きのうはNHKまで実況生中継をやり、マスコミばかり盛り上がっていた。あいにくことしはほとんど見ずじまい。きのう夕めしを食いに出て行ったとき、ちょっとのぞいてきただけだ。気のせいか去年ほどの盛り上がりは感じられなかった。
 それでも330チーム、44000人が参加したそうだから半端な数ではない。金曜日に東京から来たカメラマンと会ったところ、ホテルが取れないので往生したといっていた。てっきり学会かなにかあるのかと思ったそうだ。得意先の出版社だからJTBがなんとかビジネスホテルを見つけてくれたそうだが、個人だと電話をするだけでも大変だったろう。
 わたしも去年、利尻、礼文へ行ったとき同じ経験をしている。シーズンの最盛期をややずらせて行ったのだが、それでも宿探しに何十回電話したかしれない。最後は役場の観光課に頼んで民宿を紹介してもらったが、時刻表に載っているようなホテルは個人だとまず取れない。北海道の観光というのはそれだけ季節産業化しているのである。
 だからこれから北海道旅行をしようとお考えの人には、夏だけは外しなさいと申し上げる。ほかの季節ならどこもがらがらで、ほんとに贅沢な旅が楽しめるからだ。8月でも15日、つまりお盆を過ぎてしまえばがらっと空く。空くどころか閉鎖してしまうところさえある。だからラーメン一杯食えないことも起こる。ラーメンの看板が出ている店でラーメンができないのである。じゃなにができるかといえば、刺身定食とかホタテ定食の類ならある。つまりラーメンを出そうと思えば仕込みをしなきゃならないが、客がいないからそれをやらない。刺身定食やホタテ定食なら、注文を受けてから水槽の魚や貝を切ったり焼いたりすればすむ。だから田舎の食堂へ行くと、みんながみんな焼きホタテでめしを食ってる光景などが見られるのである。
 ことしのYOSAKOIソーランにあまり気をそそられなかったほんとの理由はべつにある。かみさんが法事で大阪へ行って、土曜日から独身生活に戻っているのである。かみさん丈夫で留守がいい。さあ温泉、とすぐにも飛んで行きたかったのだが、敵もさるもの、いくつか用事をこしらえて行った。それできのう、きょうと、家の中でぐずぐずしているほかなかった。それがやっと片づいたので、あすはすぐさま出かけることにしたのだ。2泊。山の中の小さな温泉宿である。
 遊びじゃないよ。仕事をしに行くのだ。

2003.6.7
 風もないのに窓の外を白い綿毛がふわふわと飛んでいる。ポプラの綿毛である。わが家の周辺にポプラの木は一本もないのだが、それでもこの時期になるとどこからともなく飛んでくる。ポプラ並木が多い北大構内や真駒内に行くと、落ちた綿毛が綿くずとなって道路ぶちにたまっている光景も見られる。この時期の札幌がいちばん好きである。
 一方で北海道は日本有数の風の強いところでもある。東京で暮らしはじめた当座、関東の空っ風の強さに驚いたものだが、北海道ではこういう風が年中吹いている。いま借りているマンションは河畔にあって十四階建てだから風切音がけっこううるさい。夜吹きはじめるとやかましくて眠れないほどだ。外出しても風が吹くと体感温度が下がるから、20度以上の気温があってもそれほど温かいという気はしない。ただしもう何回も失敗してきたから、さすがに最近はいつ天候が急変しても困らない支度をするようになった。
 今週はその強風によるカヌーの転覆事故が屈斜路湖で起こった。亡くなった人が全部本州からの人だと知ったときは、思わずうーんとうなってしまった。このまえ道東へ出かけたとき、この屈斜路湖畔で一泊して、翌朝湖に突きだしている和琴半島を一周したのだ。朝のうちはじつにおだやかな晴天で、一時間の岬めぐりは北海道に来てからもベスト3に入ろうかというすばらしいトレッキングだった。ひとりでも多くの人にこういうところを歩いてもらいたいと心底思ったものだ。
 ただしこういう恵まれた時間帯は、まず朝のうちだけなのである。その前日に泊まった糠平湖というところは熱気球の空中散歩を売り物にしているところだったが、それができるのは朝の6時から7時までの間だけなのだ。乗ってみたいとは思ったものの朝の6時とあってはとても手が出ない。自然に左右される遊びというのはそれなりに勤勉でなければ勤まらないのである。
 今回の事故も、舟を出したほうはせっかく本州からわざわざ来てくれたのだから、ということだったのだろうと思う。カヌーが転覆さえしなかったら「いやー、大風に吹かれちゃって帰りは往生したよ」という笑い話ですんでいただろうし、事実99.9パーセントまではそれですんでいるのである。旅には楽しい思い出もあればひどい目にあった散々な思い出もある。そういうすべてをひっくるめたものが旅なのだ。だから出かけるほうが、そういう危険もあることを覚悟しておくしかない。「引き返す勇気を持て」なんてことをいうつもりは毛頭ない。自然相手の旅は危険とセットになっていることをわきまえておこうというだけ。あとは自分の責任である。

2003.6.2
 先々週受けた血液検査等の結果が病院から郵送されてきた。
 結果はクロ。糖尿病の治療が必要なのですぐ受診するようにとある。
 そればかりじゃない。胸部レントゲンの結果が異常。血圧が高い。中性脂肪が多い。心電図に軽度の変化あり。等々、異常とか再検査が必要とかいった文字がこれでもか、これでもかとばかり並んでいた。
 昨年診察を受けたときのデータが手元に残っているのだが、それと比べてみてもほとんどの数値が悪くなっている。うーむ、としばらくことばがなかった。ちなみにこれまで一度も人間ドックに入ったことがない。
 それごらんなさいとかみさん。これからはもっときびしく食事管理をする、とがぜん張り切ってしまった。いまでもときどき外で盗み食いをしているのだが、これからはそうもいかないようだ。大好きな果物は減らせないから、とりあえず食事どきの糖分を減らそうということになった。
 昨年から食卓にカスピ海ヨーグルトが登場していて、わが家ではこれを日本海ヨーグルトと呼んでいる。種菌を一晩日本海の風に当てながら運んできたからである。それを二日で一リットル食っていた。それも蜂蜜とフルーツソースをたっぷりかけて。朝のパンにはチプトリーのほろ苦いマーマレードがごひいきで、これも一ヶ月に一瓶くらい。また北海道は小豆の産地なのでアンコものが格段にうまい。洋菓子は食わなくなった代わり、ぼたもちや大福を食う機会が大幅にふえた。口惜しいがこういうものが減らされる。
 といいながらも、なんだ、これは去年とそっくり同じ決意じゃないか、と気がついた。反省はしているけど信じてはいないのだ。酒は飲まないし、肥満もしていない。糖尿病なんかになるはずがないのである。絶対病院のほうがまちがえていると、心の中ではいまでも思っている。
 とにかく考えているとだんだん腹が立ってきて、むくむく闘志がわいてきた。こんなことでめげてたまるかと、逆に元気になってきたのである。わたしはだいたいが逆境型というか、人からぼろくそにいわれたり状況が不利になってきたりするとかえってファイトがわくほうなのだ。から元気ないしノー天気という可能性も強いのだが、落ち込みっぱなしということは絶対にない。元気もりもり、さあ、あしたから出直しだ、と最後はそうなってしまった。「あらゆる病気から見放されている」というキャッチフレーズこそ引っ込めるものの、人間のほうは変わらないということである。
 受診は、もちろんしない。

2003.5.29
 日本で最後に咲いた桜を見に道東まで行ってきた。
 日本の桜前線は、昨年だと十二月三十日の宮古島の開花発表が皮切りになるそうだが、それから半年かけて日本列島を北上、先週の五月二十二日、釧路でそのゴールに達したという。で、その桜を見てこようと思ったのである。
 というのは口実、ほんとはこのところ鬱々としていたので、温泉にでも行ってのんびりしようと思ったまでのこと。道東は遠いから二泊三日の旅行になった。
 まず桜の報告から。
 桜の開花発表では、毎年釧路と根室がどん尻争いをしていて、この三年は釧路のほうが勝っている。行ってみて納得。濃い霧で、気温九度、寒いのなんの。鶴が岱公園というところで開花発表の基準になっている三本のエゾヤマザクラ(正式にはオオヤマザクラが正しいらしい)と対面してきた。ごくふつうの桜で、花はまだ五分咲きだった。まえにも書いたが、エゾヤマザクラは葉が多いもののピンク色が鮮やかで、ソメイヨシノよりきれいである。そのあと春採湖というところへ回ってべつの桜も見たが、こちらはまだ一分咲きだった。
 それからさらに足を伸ばし、野付半島の付け根にある別海町の野付小学校をたずね、樹齢百年という桜を見てきた。この桜は同校の児童三人が、明治三十九年に対岸の野付半島から持ち帰った桜のうちの一本だそうで、大事にされてきたのだろう、高さはそれほどないものの、左右へ十五メートルも枝をひろげた見事な木だった。同校は毎年この桜の前で児童の記念写真を撮り、校内に掲示保存しているとか。それがうらやましくて、わざわざたずねて行ったのだ。
 六十年まえ、わたしは山口県阿武町というところで国民学校に入学したが、春になると校庭の周囲に植えてあった八重桜がいっせいに咲き、四方がばら色になったのをいまだに忘れないでいる。二十年ほどまえにたずねてみたところ、学校が拡張されてもう一本も残っていなかった。田舎の小さな小学校だからこそ百年という時間をそのまま維持できたのである。
 釧路周辺が咲きはじめだったのに対し、もっと北の弟子屈とか標津とかの桜は満開だった。北海道というところは地域での気温差がはげしく、それは車で移動しているとよくわかる。木々の芽吹き度がめまぐるしくちがうのである。そして道東ではいたるところ見かけた桜が、網走や北見のほうへ入って行くと不思議なくらいばたっとなくなってしまう。小学校や公園はもちろん、山間に自生している桜もないのだ。分布にこれほど偏りがあるということは、桜そのものが、もとからあった木ではないのかもしれない。明治期に北海道へ移住してきた人の、桜に対する思い入れの差がこういう地域差になったかもしれないと。
 温泉は存分に堪能してきた。シーズンはじめとあって、どこもがらがら、気の毒なくらい客がいなかった。泊まったのは小さな旅館と民宿だったが、どちらも客はわれわれふたり、つまり完全な貸し切りだったのである。はじめに泊まったところなど、週末以外は食事を出せないけど、それでよかったらどうぞという応対。旅館の夕飯をコンビニのおにぎりですませたのははじめてだ。ちなみに料金は三千八百円。二日目は二食ついて七千二百円。これに税金と入湯税がつく。
 食いものはともかく、浴槽からざーざーとあふれ出ている温泉を、一晩貸し切りで使えたというのは最高の贅沢だった。唯一残念だったのは、二日とも曇っていたので露天風呂からの星空が望めなかったこと。こういう旅行、やはり北海道でしかできないだろうな。

2003.5.25
 今週は病院に行ってきた。自分からすすんで行ったのははじめてかもしれない。昨年のはじめ、意味不明の激痛に襲われ、救急車ではじめて病院に運ばれたことがある。このときの痛みはたぶん尿管結石だったと思われるのだが、襲われたときと同様突然その痛みも消えてしまい、種々検査してもらったものの結局原因はわからずじまいだった。
 その代わりというか血糖値の高いのが見つかり、糖尿の疑いがあるから精密検査をするようにいわれた。藪蛇もいいところ。はなはだ不本意だったが、仕方がないから検査をしてもらった。そしたら糖尿病だとわかったのである。
「境界型ですか?」
「いいえ、れっきとした糖尿病です」
 あらゆる病気から見放されていると豪語していた手前、そう宣告されても素直には信じられなかった。たまたま調子が悪かったので、そういう数値になってしまったのだということにして、定期的に検査を受けるよういわれていたにもかかわらず、以後一年間一度も行かなかった。
 ところが最近身の回りにやたらと糖尿持ちがふえてきたのである。かつての仕事仲間だけで糖尿患者が五、六人出てきた。そしていまでは一日三回インシュリンを打ち、しかも片目が失明寸前まできているとか、わたしと同様丈夫なだけが取り柄だったのにとうとう糖尿の薬を飲みはじめたとか、かみさんの知り合いで片足を切断したという人物まで出てきて、なにやら穏やかな雰囲気ではなくなってきたのだ。
 菓子やスナック類は食わないが甘いものは好きだし、それ以上果物に目がないときている。家には常時三種類くらいの果物を欠かしたことがない。たわわに実った果樹の下で、あしたはあの実をもいで食おう、と思いながら死ぬのを理想としている人間なのだ。
 さすがに心配になってきて、こうなったらあとの祭りとなる前に、もう一回検査を受けてみようと思ったのである。負け惜しみをいうわけじゃないが、命が惜しいのではない。果物を食えなくなるのがおそろしいのだ。
 で、検査を受けに行ったのであります。
 結果は来週。


2003.5.17
 東京から車を持って帰ってきたものの、以来一度も乗ったことがなかった。前回書いたが、ちょっと落ち込んでて出かける気になれなかったのだ。その間にも春はどんどん進行し、こないだ芽吹いたばかりのライラックがもう咲きはじめた。北海道の春は短いから、芽を出してから花を咲かせるまでがじつに短い。そしてあっという間に終わってしまう。これではいかんというので気を取り直し、今週末、ようやく腰を上げて出かけた。といっても行き先は市内の公園。チューリップが満開だった。  先週までは梅が満開だった。梅? とけげんに思われるかもしれないが、北海道では桜が散ってから梅が咲くのである。しかし札幌市内では、この桜も、梅も、あまり見る機会がない。緑地や小公園にぽつんぽつんと桜が植えられている程度。それもたいてい八重桜で、これはいまが満開。梅にいたっては木そのものがほとんどない。  というのも雪の多いところだから、手入れが必要なものは育てるのが大変なのである。梅は本来が庭木なので、毎年冬になると雪囲いや雪吊りをして降り積もる雪から保護してやらなければならない。その費用がばかにならないから、個人だとなかなか維持できないのだ。したがって公園のような特別なところにしか梅の木はない。わたしの知っている梅林は札幌に一箇所あるだけである。  公園内に温室があったから入ってみたところ、おどろいたことに内部の半分くらいがツバキの林になっていた。まさか温室でツバキを見ようとは思わなかったから意表を突かれた。そういえばツバキは暖地性の木だから北海道にないのだった。  売店でフサスグリ(カランツ)の鉢を売っていたから買ってきた。フサスグリは実がブドウのキャンベルくらいの大きさ、色は半透明の緑色になり、なかなかきれいである。もちろん観賞用に買ったのではない。たくさんみのらせてフルーツソースにしてやろうという魂胆。生の皮つきでもそのまま食えるが、味はかなり酸っぱい。かみさんはせっせと花の苗を買っていたが、わたしは食えるものにしか興味がないのである。  夜は札幌ドームに行って西武、ダイエー戦を見てきた。西武松坂、ダイエー斉藤、両チームのエースの投げ合いはなかなか見ごたえがあった。パリーグの看板試合だし、ふたりの先発ピッチャーの名が予告発表されていたから、もっと客が詰めかけるだろうと思っていたところ、スタンドはがらがら、これにはがっかりした。翌日の新聞発表では観客数二万三千と発表されていたが、札幌ドームの収容人員は四万一千人、その半分も入っていたようにはとても思えなかった。  北海道というところは、プロ野球というと読売しかないところなのである。九十五パーセントまでが読売ファンだといって過言ではない。いくら読売ファンが多かろうとそれはそれでかまわないのだが、その分ほかのチームに冷淡なのだ。野球ファンがいるのではない。読売巨人軍ファンがいるだけなのである。  昨年札幌ドームのこけら落としにオールスターが開かれたので見に行ったところ、両チームの選手紹介のとき、読売の選手にだけは熱烈な拍手があり、ほかの選手への拍手はお義理程度。その差があまりにもひどいのであきれたことだった。年に一回、その読売は札幌で三連戦をやる。見に行くつもりはないが、そのときはドームが四万人の観客で満員になってしまうだろう。日本ハムが来年度から札幌に本拠を移すが、そのうち尻尾を巻いて引き揚げるのではないかと心配している。

2003.5.11
 七日にこちらへ帰ってきた。以後四日たってしまったが、この間編集者に会ったきりで外へはまったく出ていない。出歩く気にもなれないのである。
 疲れていることもあるが、気持ちの参っていることのほうが大きい。親しかった人に亡くなられるというのは、年のせいもあって、なかなか気持ちの切り替えをさせてくれない。じわじわと効いてくるのである。
 昨年の暮れにもひとり、カルチュア教室で小説を教えていたときの生徒が、まだ五十代という若さで他界している。数年前に手術をし、半年ばかり入院したあと奇跡的に社会復帰したのだが、それでも三年しか持たなかった。再発したらおしまいだとは聞いていた。病院時代の患者仲間はもうみんな亡くなってしまったとも。だから春、再入院することになりました、というメールをもらったときはとうとうきたかと思った。折り返しメールで励ましの言葉を述べたが、それっきりになってしまった。
 その後も気にはなっていたものの、怖くて問い合わせられなかった。年が明けてから、人を介して、昨年の暮れに亡くなっていたことを知らされた。
 これが予想外にこたえた。暮れまでは存命していたとわかったからである。すると病院で半年あまり闘病生活を送っていたことになる。その間メールの一本も送ってやらなかった。くれたら出そうと思っていたが、それはしょせん言い訳に過ぎない。自分の実像があらわになってしまったような気がしてならないのだ。
「データ上の希望はありません。でも、いつものわたしです。」
 最後にもらった彼女のメールがいまでもパソコンに残されている。

 仕事だけしている。その間は忘れていられるから。

2003.4.29
  数日前、東京に帰ってきた。駅からわが家へ向かう途中の道ばたに八重桜の木が三本ある。それが満開になっていた。桜はもう終わったものとばかり思っていたからこれは思わぬプレゼントだった。街路や他家の庭先ではハナミズキがいまを盛りである。若葉の色といい、風の香りといい、やはり北海道とはちがうなあと、この時期だけは多摩を見直したくなる。
 ところが悦に入っていたのも一夜かぎり、翌日になると親戚から思わぬ訃報が入ってきた。喪服を用意して急遽大阪へ出かける羽目になってしまったのである。ひと晩泊まって帰ってきたが、身近な人の死というものは、あすはわが身とばかりけっこうこたえる。昨夜もどってきたときはぐったりと疲れていた。
 しかも、そうこうしている間にもまたはじまったのである。
 はじめは気温の変化からくる戸惑いくらいに思っていた。すこし肌寒くて、風邪気味みたいになってきたのである。ところがちがうのだ。時間を追ってくしゃみ、鼻水がひどくなってくるではないか。なんのことはない。花粉症の症状が出はじめたのだった。昨夜などは一眠りしたあと、夜中から仕事をはじめようとしたのだが、くしゃみと鼻水がどうにも止まらない。とても仕事にならなかった。
 帰ってきた日だったか、本日を最後に花粉情報はお終いにします、という知らせをテレビで見たところだった。飛散量がそれだけ少なくなっているはずなのに、症状がいっこう変わらないというのはどうしたことか。北海道という無菌室で生活しているため、抵抗力がかえって落ちてしまったとしか考えられない。今朝はとうとうかみさんに、北海道へ帰りたいと弱音を吐いてしまった。
 今年の秋を最後に北海道は引き払い、どこかべつのところへ移ると広言している。これでは暮らせるところがあるかどうか、だんだん自信がなくなってきた。

2003.4.24
 春がきた。
 桜の開花予想日が発表された。札幌は五月一日、日本でいちばん遅い根室は五月二十一日である。
 きのう大通り公園を通りかかったらコブシの花が咲きはじめていた。ライラックの芽も数日前ほころびはじめたなと見たばかりなのに、それがもう小さな葉っぱになっている。一日何センチ単位で伸びている。北国の春は遅いけれども来たら駆け足、あれよあれよというくらい早い。
 公園の花壇ではパンジーやスミレなどの花がいっせいに植えられていた。今週末にも札幌を訪れた人は、公園じゅうが色とりどりの花で埋まっているのを見てびっくりするだろう。先週までは殺風景な冬景色だったからだ。この花、じつは園芸業者が自社の宣伝をかね、腕によりをかけて制作しているディスプレーなのである。
 はじめは市が金を出しているのかと思った。ところが昨年のワールドカップのとき、サッカー帰りの客が騒いで一部の花壇がずたずたに踏み荒らされてしまった。数日後には業者が元通り植え直したけれども、そのとき「こういうのは全部自腹なんだよね」とぼやいている談話が新聞に出た。市から出ている金はすずめの涙程度。保守や維持は全部業者の負担らしいのだ。その代わり、花壇に自社の名札を立てることが許されるというシステム。全部市がやっていたらとてもこうはいかないだろう。
 冬の間片づけてあったベンチも今週から設置された。冬になると全部片づけてしまうこと、迂闊なことに気がつかなかった。そういえば雪祭りのときはありませんでした。飾りつけの邪魔になるし、雪の量も半端じゃないから。
 ベンチばかりではない。わたしの住んでるマンションの前は路上パーキングになっているが、このチケット発行機も冬は撤去されてしまう。除雪の邪魔になるからである。市内の道路にガードレールがないのも除雪の障害になるからだ。慣れてみると、ガードレールのない道路のほうが自然で歩行者にはやさしい。ガードレールって、なぜ人間の歩く歩道のほうが、あんなに汚らしくてでこぼこだらけなのだ?

2003.4.21
 きょうの気温は七度。季節が一か月も逆戻りしたうえ、一日雨が降りつづいた。夕方、去年の秋以来という久しぶりの傘をさして買い物に行った。帰るときはやんでいた。くそったれ。こんなことならあと一時間遅く出ればよかった。
 先週藻岩山の自動車道路が開通した。先月アイゼンをつけて二回登った山である。テレビニュースで見たところ、登山道の雪はまだだいぶ深そうだった。
 市内の雪はあらかた消えた。豊平川の河川敷も、北斜面の一部にほんのすこし残っている程度。山の雪解けもすすんでいるのだろう、豊平川はいまがいちばん増水している。といっても平時より三十センチくらい水嵩が上がっているだけだが。
 しかし緑のほうは見る見る勢いをましてきて、木々のこずえが萌黄色に萌えはじめた。びっくりしたことに花壇のツツジが咲いていた。桜よりも、梅よりも、早い。スイセンだってまだ咲いていないのだ。北海道にいるとどうも季節感が狂ってしまう。北海道の草花にしてみたら当たり前のことなんだろうけど。
 今週末、東京に帰る予定。車を引き取りに帰るのだが、連休には子どもたちが孫を連れてやって来るとか。わたしは不良じいさんなので、孫の相手なんか全然したくないのだよ。あんなもの、なにが面白いか。去年たまたまそうしたので、ことしもということになったもの。おかげでまた桜を見損ねてしまう。東京はとっくに終わっているし、北海道へ帰ってきても、もう終わっているというわけ。根室のほうへ行けばまだ見られるが。
 ちなみに北海道の桜はチシマザクラかエゾヤマザクラがほとんど。ソメイヨシノに比べたら見栄えがしないが、つぼみのときの色はすばらしい。じつにあざやかな鮮紅色なのである。日高の静内というところに行くと、全長七キロにも及ぶエゾヤマザクラの大並木がある。幅が二十間(三十六メートル)。ひろすぎるから歩いて見たのでは大味なだけ。ベルサイユ宮殿の庭園みたいに、馬車か車で通り抜けてはじめてわかる花街道である。


2003.4.15
 このところ新聞の連載小説にかかりっきりで、ほかのものをかえりみる時間がまったくなかった。はじめのころ、かなりまとめて原稿を入れてあったので、ひところはだいぶ余裕があった。それがとうとう追いつかれてしまったのだ。先週末、やっとつぎの七回分を書き上げて送った。いまいちばんほっとしているところである。
 これまでにだいたい二百枚ぐらい書いている。ほかの作家連中に言わせると、それくらい書くと登場人物が勝手に動き出してくれ、あとは自動書記みたいにすらすらと書けるものなのだそうだ。あいにくわたしは一度もそういう経験をしたことがない。むしろ前の部分の矛盾や荒さが邪魔をして、つじつまを合わせるのに四苦八苦する。それに取材がろくにできてなかった。今回の内容は先月のタイ取材のところだったのである。
 いつもそうだが、行ってるときはそれなりに取材しているつもりなのだ。しかしいざ書きはじめてみると、あれも見てない、これも見てない、ということになって取材の不備ばかりあらわになってしまう。このぶんでは単行本にまとめるとき、もう一回行かなければならないだろう。サブ舞台になっている北海道の夕張には、これまでにもう六、七回出かけている。
 これで一応二、三週間は時間が取れたことになるが、とても遊んではいられない。秋に出す短編集のまとめをしなければならないからだ。つぎが最後の短編集になるのだが、雑誌に発表したものがなんと二十本もある。箸にも棒にもかからない愚作も何本かあるので、それらは捨ててしまうにしても、それでも十五、六本は手を入れなければならない。それが終わると、小説推理に三年間にわたって連載した作品のまとめが待っている。こっちはもっと難題。書き直さなければならない部分が多いので、一年ぐらいはかかるかもしれない。遊んでいる暇(ホームページの小説を書いている暇)は全然ないのであります。
 ああ、温泉に行ってのんびりしたい。

2003.4.9
 雨が降った。
 札幌にことしはじめて降った雨らしい雨だった。傘を必要とする雨が降ったのは久しぶりのことである。
 札幌で暮らしはじめるまで、傘がこんなにいらないところだとは思ってもみなかった。一年のうち半年近くは傘を使うことがないのだ。十一月から雪になってしまうからである。
 北海道の雪は軽いから、フードつきのコートか、毛糸の帽子があれば、それですこしも困らない。家の中に入るとき、さっと払えば落ちてしまう。あたりまえすぎて、傘のいらないところだということにはなかなか気がつかなかった。雪が降っているとき、たまたま傘をさしている女性を見かけて、ああ、そういえば傘を全然使ってなかったなあ、と気がついたのだった。傘を持って外出するのが嫌いなわたしにはこれがとてもありがたい。
 しかし夜になって一転、気温が下がりはじめた。朝方にはマイナスになったはず。夜が明けてみると、案の定、一面の雪になっていた。このところ十四度近い気温がつづいていたのだが、きょうは最高気温も三度。道北では十センチ以上も雪が積もったとかで、完全な寒の戻りになってしまった。
 こうやって一進一退を繰り返しながら、北海道の春はすこしずつやってくる。

2003.4.6
 札幌の積雪ゼロ宣言がきのうあった。何を基準にしてゼロというのか知らないのだが、まだ裏通りや建物の北側には凍りついた雪の塊がけっこう残っている。しかし表通りに限っていえば、九十五パーセントまでは消えたといっていい。
 それにしてもあの分厚かった雪が、たった二週間で消えてしまったのが嘘みたいである。家の窓から見える豊平川の河川敷に、ベンチがふたつ設置されている。このベンチがどれくらいまで見えるか、というのが雪の量をはかるひとつの目安になっている。二週間前までは、それがまったく見えなかったのである。背もたれのいちばん上までというと五十センチくらいの高さがあると思うのだが、これが完全に雪の中に没していた。
 それが十日ほど前に雪の中からのぞいた、と思ったらそれからはあれよあれよ、毎日見える部分がふえていき、おとといは腰を下ろすところまで現れた。それがきょうは全部出てきて、地肌まであらわになってしまった。河川敷の雪がすべて消えてしまうのもあと数日のことだろう。
 雪が消えるのはいいとして、しばらくは街のなかが汚くなる。道路脇の花壇の雪がやせ細ってくると、その中から大量の煙草の吸殻が出てくるのは毎度のこと。歩きタバコをしている人ならおぼえがあるだろうが、たいていの人は吸殻を雪の中に突っ込んで行ってしまう。半年ぶりに雪の中から出てくる吸殻の量がどれくらいあるか、一度ご覧になるといい。恥ずかしくなってしまうから。
 また冬の間、歩道や交叉点に撒いたすべり止め用のバラストが、雪がなくなるとそこらじゅうざらざらの砂だらけにしてしまう。これも自然になくなるわけではないから、どこかで掃除しなければならない。そういう意味で札幌の四月というのは、一年でいちばんつまらない中途半端な季節なのである。
 木々が若芽をつけ、街じゅうが花で埋めつくされるようになるのは五月以降のこと。この花も自然に咲いてくるのではない。その大方は街の人が、苗や花を持ち寄って自宅前の歩道や街路樹の根元にせっせと植えているのである。六月ともなれば、北海道じゅうがどこもかしこも色とりどりの花で埋めつくされてしまうが、ほとんどはこうした人の手によってこしらえられたものなのだ。冬の長い北海道の人たちの、春への思いがそれだけ強いということである。

2003.4.3
 一泊で温泉に行って来た。というといつも温泉に行っているみたいで気が引けるのだが、温泉好きの編集者がぜひと望むから温泉で落ち合ったのである。つまり仕事の打ち合わせをそこでやった、ということなのだ。
 仕事とプライベートは一応使い分けているから、はじめはひとりで行くつもりだった。ところが当日は三十何回目かのなんとか記念日にあたっていたのだ。かみさんから「なんの日か覚えてる?」といわれてびっくり。あわてて機嫌をとって、一緒について行っていただいた。
 翌日札幌に帰ってきて、編集者はもう一泊した。そのとき温泉つきのホテルがあるならそちらに泊まりたい、といっていたから名前だけ紹介しておいた。ところがそのとき、似たような名前の、ちがうホテルの名を教えてしまったのである。向こうは当然、出発前にそのホテルに予約を入れていた。そして会っている間じゅう、わたしたちはそのまちがえたホテルの名で会話していたのだ。
 ところが札幌に着き、そのホテルの場所を教えようとしたとき、突然「そのホテルじゃないよ」とわたしが言いはじめたから向こうはびっくり。つまりそれまでわたしの頭の回路がちがうところへつながっていたのに、そこでいきなり正しい回路につながってしまったというわけなのだ。
 どうも最近この手の失敗が多い。とくにアルコールが入るととたんに記憶細胞の一部が飛んでしまうみたいで、そのうち円滑な社会生活が送れなくなるんじゃないかとわれながら心配になってきた。温泉に行った日も、帰ってみると留守電が入っていて、某社の編集者の声で「きょうがエッセイの締切日ですけど」。そんなこと、記憶の断片にすら残っていなかった。
「これから電話でなにか引きうけたときは、声に出していちいち復唱しなさい。わたしも聞いておきますから」
 そんなことまで言われてしまった。

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