Shimizu Tatsuo Memorandum

きのうの話      
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2003.3.27
 この三月、札幌駅にふたつの施設ができた。JRタワーと大丸である。タワー最上階の展望台は高さ百六十八メートル、高さでも大通りのテレビ塔を抜き、夜景の美しさは藻岩山より上だという。藻岩山が一方向からの景観なのに対し、こちらは街の中心部だから四方が見渡せるのだ。
 東京から帰ってきたときはオープンして一週間目くらいだった。地下鉄に乗り換える前に大丸の地下をちょっとのぞいてみたところ、まだ芋の子を洗うような混雑で、あらたに進出してきた店の前には長い行列ができていた。それで恐れをなして以後近寄らなかったのだが、もうそろそろ落ちついてきただろうと思って、おとといJRタワーのほうへ行って来た。これまで狸小路にあった旭屋書店がこちらへ引っ越したから、ようすを見に行ったのだ。
 札幌にはかなり書店があるものの、いずれも規模が小さく、欲しい本を見つけるのは容易なことではない。そのなかでは、ビルの二フロアを使っていた旭屋の内容がいちばん充実していた。それが今度引っ越したことで面積も二倍になり、七十万冊だか八十万冊だか北海道一の蔵書数を誇る店に生まれ変わったというから期待していたのである。
 結果はどうだったかというと、広さも倍になったが薄さも倍になっており、はっきりいって失望した。とくにコミック類と一般書がそれほど距離をおかず同じフロアに同居しているため、人ばかり多くなって落ちつかなくなったのは明らかにマイナスだ。まだオープンしたばかりで、店としても手探りの状態だろうとは思うが、この日、あれば買おうと思ってチェックしていった本は三冊とも手に入れることができなかった。
 結局これらの本はインターネットで注文した。最近は新書類をのぞき、一般書はほとんどインターネットで買っている。
 書店の性格が変わってしまったのはもうしかたがないかもしれない。しかし書棚の前をぶらぶら歩きながら、気になった本を手にとってページをめくってみる楽しさが失われてしまうのはなんとしても淋しい。
 なお大丸にも三省堂が入っているのだが、そちらのほうはまだのぞいていない。


2003.3.23
 先週から今週にかけて、三回も雪が降った。春雪ということばが大好きなのだが、春の雪は風情がある。冬とはちがい、淡くて、華やかで、明るい。大輪のボタン雪になることが多いせいか、降るときの美しさといったらない。まだ明るさの残っている薄暮の街並みに、音もなく降りかかる春の雪。こういう景色が見られるだけでも、札幌に住んでいてよかったと思う。札幌も今年限り、とことごとにいっているのだが、果たしてほんとうに動くことになるかどうか、だんだん自信がなくなってきた。
 東京から戻ってきて十日。ようやく花粉症から解放された。ときと、ところかまわず、ずるずる出ていた鼻水がやっと止まったのだ。これでも昨年よりは軽かった。東京で雨の日が多かったため、その分花粉症も軽かったのである。
 先週東京の友人が札幌へきて、わが家にちょっと立ち寄った。そのとき窓から見える景色を自慢すると(あいにく最近は春霞がかかり、遠くはほとんど見えない)カシミールというソフトを持っているからそれで景色を再現してみるという。そして帰ると間もなく、その景色なるものをメールで送ってきた。五万分の一地形図をもとに、ある地点から、ある方向に存在する山の形を、自在の高度から描写できるソフトなのである。
 なるほど送られてきた絵は、ふだん見ている山の稜線をそっくり再現していた。ところが山の名前の比定がおかしい。十勝連峰のはずの山に芦別岳という名前が充ててある。大雪の旭岳のはずの山が十勝岳になっている。だから絵は合っているが、山の名前はちがってるよと指摘してやった。
 すると折り返し返信があって、この図は国土地理院の地形図から算出したものだから、これで正しい。おまえさんのほうこそまちがえてるという。わたしゃ国土地理院より自分の目のほうを信用している、と答えたものの、いまのところ水掛け論で終わっている。春霞が消え、五月晴れになったら、パノラマ写真を撮って決着をつけなければならない。
 きょうはことしはじまって以来という、おだやかな快晴だった。家にくすぶっているのがもったいなくて、またかみさんと藻岩山に登ってきた。先週登って味をしめたこともあるが、そのため借りてきたアイゼンを来週返さなければならないので、その前にもう一度、ということになったものだ。発想がせこい。こんなもの、買ったっていくらもしないんだけどね。
 二回目だったし、気温が上がって軽装でよかったせいもあって、前回よりもっと楽しい山歩きになった。とくにヤマゲラという大型のキツツキが間近で眺められたのは大収穫。北海道にしかいない緑色のキツツキで、今回はじめて見たのである。ほんとにこれまで三年間、いったい何をやっていたんだろうと口惜しくてならない。
 この日、札幌の最高気温がことしはじめて十度を越えた。

2003.3.16
 札幌へ帰ってきたものの、鼻水とくしゃみがなかなか止まらない。ティッシュが手放せなくて、とうとう鼻のまわりの皮がぼろぼろに剥けてしまった。われながら見られた顔ではない。一方で目のかゆいのはぴたりと止まった。これまでの感じからいうと、花粉症から完全に回復するまでだいたい一週間かかるのである。
 きのうは東京から来た編集者三人と藻岩山に登ってきた。藻岩山は市のすぐ横にある山で、標高五百三十メートル、頂上から市内を一望できるから、札幌へ来たときロープウエイで上がった人もいると思う。春になったら車でも上がれる。一方登山路のほうは、全山が原生林で天然記念物ということもあって、市内二方向からしか通じていない。ゆっくり登って一時間半。手ごろなハイキングコースである。
 これまで五、六回は登っている。しかし冬は一度も登ったことがなかった。雪を掻き分けてまで山に登るほど酔狂じゃないのだ。ところが今回は編集者のほうが、来るまえから藻岩山に登ってみたいといいだした。勝手に登れ、といいたかったが、そこはこっちにも見栄がある。こんな山、うちの庭みたいなもんだ、とばかり先頭に立って優越感を振りまかなくては札幌に住んでいる意味がない。藻岩山くらいならいつでも案内するよ、といってしまった。しかしこのところ雪融けがすすんでいるし、尾根筋は日当たりもいいから、一部は溶けてぐちゃぐちゃ道になり、泥だらけになってしまうだろうくらいの覚悟はしていた。
 ところがいざ行ってみたところ、泥んこ道なんかあるものか、ほかのシーズンよりはるかに快適な山歩きになった。雪道が完全に固まっているのである。この山、市民に親しまれて同好会みたいなものができている。山頂のレストハウスに行くとメンバーの木札が掲示してあるが、千回以上登った人が十数人もいる。百回や二百回ではまだ洟垂れ小僧なのである。そういう人たちがボランティア活動をして、道をせっせと整備してくれているようなのだ。だからはじめての人でも、道に迷ったりまちがえたりする恐れはまったくない。ひっきりなしの登山者だから女性ひとりでも安心して登れる。むしろごろごろ石のある坂道も、いまは雪の下だからかえって歩きやすいくらいである。
 雪が半端な量ではなかった。まだどこでも一メートルを越している。腰を下ろして休んでいる人がいたからひょいと見ると、方向案内板の上だった。本来だとところどころにベンチが設けてあるのだが、いまはすべて雪の下、休もうにも腰を下ろすところがないのである。気温五、六度で風もなし、これまで登ったすべての季節より、今回がいちばん快適だった。それを勝手にびびってしまい、これまで見送っていたわけで「おれたち、この三年間なにをしていたんだろうね」とかみさんと顔を見合わせては口惜しがった。
 ただしわたしたちには杖もアイゼンもあったが、全員にまでは頭が回らなくて、男性編集者ふたりには杖もアイゼンもなかった。急斜面ではだいぶ難儀をしたみたいで、気の毒なことをした。だから帰りはロープウエイで下ってきた。あの雪ならまだ一ヶ月は大丈夫だろう。それまでにもう一回行ってこようと思っている。

2003.3.8
 バンコクから帰ってきた早々、またメールが不通になってしまった。受信はできるが発信ができないのである。バンコクへ出かける前にもそうなってしまい、出発直前だったからかなりあわてた。そのときは応急措置として復元機能を使い、昨年暮れの段階までシステムを戻すことでなんとか切り抜けた。それ以来手さえ触れていないのに、帰ってみると元の木阿弥、メールが送信できなくなっていた。
 例によってすったもんだし、最後はお手上げになって人手を煩わした。あきれたことに、わかってみるとすべての責任はプロバイダにあった。簡単にいうと向こうがアクセスポイントをいじったため、接続をつなぎっぱなしにしておかないと送信できない状態になったのだ。なぜそうなったのか、という明確な説明はなかった。要するに回線をつなぎっぱなしにしてまず受信をし、つぎに一旦画面を閉じて再度同じ画面を開いてやらないと、発信ができないのである。理屈ではないらしい。とにかくそうしなければ発信できないし、そうやっている限りちゃんと動いてくれる。あとはすべて終わったとき、回線の接続を切り忘れないようにすること、それだけである。
 そんなこんなでこの一週間、ろくに仕事ができなかった。そのうえ生島治郎さんの訃報が入ってきたからなおさらだ。生島さんはわたしの先輩にあたるが、出てきた時代がちがうからそれほど親しくしていたわけではなかった。しかし会えば話ぐらいしたし、年がいくらもちがわなかったせいもあって、そういう気の許し方みたいなものは共有していた。いつだったかパーティが終わったあと「志水さん、おすしを食べに行きませんか」と誘ってくれたことがある。「あ、いいですね。行きましょう」とは答えたものの、なにしろ退け時でごたごたしていて、人から声をかけられたりちょっと話したりしている間にご本人とはぐれてしまい、気がついたときは姿を見失っていた。二次会、三次会でも会わなかった。この人、アルコールは一滴も飲めないのである。
 結局このときが会った最後になり、交わしたことばの最後になった。生島さんが悪いらしい、と聞いたのはそれからだいぶたってからのことだ。日々のなにげないやり取りだったが、行くといって行かなかった負い目のようなものは、こうなってしまうとますます大きくなる。一生忘れられなくなりそうだ。通夜には行けなかったが、水曜日の葬儀には出席した。
 金曜日は大藪春彦賞の授賞式に出席した。今回の受賞者とは面識がなく、ふだんこういうときはパーティに出ないのだが、今回は生島さんの葬儀の直後であり、最近会っていない作家にも会いたかったから出て行った。そして式のはじまる直前に、今度は黒岩重吾さんの訃報を聞かされた。そればかりか、もうひとりよく知っている作家の倒れたという話まで伝わってきた。わたしと同い年の作家なのである。ということは、わたしがいつ倒れる側に回ってもおかしくないということだ。おかげでその夜は全然意気が上がらなかった。
 もっとも周囲からは「志水さんなら大丈夫」と異口同音に言われた。「ストレスがないから」だって。女房とおんなじことをいいやがる。
 またパーティ会場で、最近ホームページの小説更新が滞りがちなのを何人もの方から指摘された。「締め切りなしで思うさま書いてみたい」と啖呵を切ってはじめた手前、まことにかっこ悪い話だ。こういうことがあるから、北海道に引っ込んでいたほうが無難なのである。
 さらに本格的な花粉症症状がはじまって、目はかゆい、鼻水とくしゃみがのべつ出る、見られたざまではなくなってきた。僥倖を期待して今年からはじめていたあやしげな民間療法は、やっぱり効かなかった。医者に行けばいいのだ、医者に。わかっているけど、それができない。それで週明け早々にも、北海道へ逃げ帰ることにした。

2003.3.2
 バンコク取材から今朝帰ってきた。先週札幌を出たときはマイナス七度で大雪、それがタイでは連日三十度、東京へもどってみると気温はともかく強風が吹き荒れ、いちいちつき合ってきたからだのほうはさぞ大変だったろう。新宿で電車を乗り換え、ひょいと見ると回りに乗り合わせている人の四人までがマスクをしている。そうだった、花粉症の国に帰ってきたんだと愕然とし、家に帰ってからはまだ一歩も外に出ていない。
 タイへ行ったのははじめてである。乾季だったため雨は一滴も降らなかった。といってからからに乾燥しているわけではなく、札幌では爪が割れるのとかかとがひび割れるのとに悩まされていたのに、それが滞在中はきれいに忘れていた。閉口したのはどこへ行ってもぎんぎんに冷房が効いていること。タイ人のほうはそれをサービスと思っているらしいのである。BTSという高架鉄道から、下りたとたん眼鏡がくもるくらいだからこれはやりすぎだ。ホテルにいるときは部屋の温度を二十八度に設定し、ファンも止めてしまうのだが、外出するたび二十三度になっていてファンも目一杯回っているのである。
 最初の日、夜中に腹がしくしく痛みだしたときは青くなった。以前上海でひどい下痢を起こし、二日間飲まず食わず、脱水症状寸前になってやっと帰ってきたことがある。以来食いものには気をつけているつもりなのだが、その腹が渋りはじめたのだ。あいにく薬を持っていなかった。じつに心細い一夜を明かし、翌日もおっかなびっくりだった。しかし以後はなんともなかった。ただの冷房あたりだったようである。
 乾季は果物がないと聞いていたが、けっこうあったのでこれはうれしい誤算。朝食の席で五、六種類は食べられた。帰途、出国ロビーの免税店でその果物の盛籠が大量に売られていた。それを大勢の日本人が買っている。
「はて、果物は持ち込めないはずだが」
 と思ったけど、売店の女の子はだいじょうぶですという。情けないことに、人間はそういうとき自分に都合のいいように解釈してしまうものなのだ。
「そんなはずはない。おまえは嘘をついている」とは思わずに「そうか。タイはいいのか」と思ってしまうのである。
 で、果物には目がないほうだから、よろこんで二籠買って帰ったら、案の定、成田でたちまち没収されてしまった。悪質な店が多くて困るんです、と検疫官がぼやいていたが、これは買ったわたしのほうが悪いのだ。
 しかし、悔しいなあ。こんなことなら飛行機のなかでたらふく食っておくんだった。
 今回はカブトガニを食った。身はない。卵だけである。海ドジョウの卵と同じ味だった。あとタガメも食ってみたかったが、これはあいにく注文しようとした店になかった。屋台ならいつでも食べられるのだが、ゴキブリの大型みたいなまるごとが山盛りになっているとさすがに手が出なかった。(タガメというのは田んぼにいて、小魚の生き血を吸って生きている昆虫です)
 いったいタイまでなにしに行ったんだといわれそうだが、ちゃんと取材はしてきましたよ。四月からの新聞連載に生きてくるはずです。

2003.2.17
 毎年札幌の雪祭りが終わると、それを待っていたみたいに雪が降りはじめる。どういうわけか、雪祭り期間中はほとんど降らないのである。きのうは一日中降って、ざっと三十センチくらいつもった。今朝の市内の積雪量は八十センチと伝えられていた。
 北海道の雪の降り方は独特で、前が見えないくらい吹雪いていたかと思うと、突然やんでからっと晴れた青空がのぞく。と思う間もなくまた猛然と降りはじめる。この繰り返し。まことにめまぐるしくて、しかも明るい。北海道の冬を体験していちばん意外だったのが、雪国というイメージが似つかわしくないこの空の明るさだった。もちろん空気も乾いている。わがやの加湿器は四リットル入りのタンクを一日二回、律儀に空っぽにしている。
 はじめのころは雪が降るとわけもなくうれしくなり、夜だろうが夜中だろうが時間かまわずふらふら街へ出て行った。その後は分別がついたか、年を取ったか、ずっとやめていた。しかし今年はちがう。秋には北海道暮らしを切り上げるつもりでいるから、そうなるとそれなりに未練が出てきた。先週からまた徘徊をはじめたのである。
 といってもやっぱり条件がある。吹雪いて目の前すら見えないような天候では歩いても楽しくない。ここはなんといっても無風、雪だけしんしんと降りつのってくる夜でなければならない。昨夜はそれにぴったりの天候だったのである。本来なら満月だったのだ。帰りに雪がやんでいれば、満月の下を歩いて帰ってこられるかもしれない。というので十時をすぎてにわかに思い立ち、ふらーっと家を出て行った。歩いて十五分で街の真ん中へ行けるところに住んでいるからできることである。
 もちろんわれながら、ものずきにもほどがあると思わぬでもない。しかしすべてのものが真っ白に塗りこめられ、車さえもが白い絨毯の上を音もなく走り抜けて行く大都会なんて、世界でもそうはないと思うのである。似た光景ならあるかもしれないが、雪の量がまるでちがうのだ。
 といっても寄る年波、さすがに一時間以上歩き回る気力はなくなってきた。そのうえ鼻水がずいぶん出るようになって、ハナミズ垂れっぱなし、まるで見られた恰好ではない。だから徘徊は三十分程度で切り上げて、昨夜はときどき行く喫茶店で一時間ばかりジャズを聞いて帰ってきた。そしてラガブリンというスコッチをシングルで飲んだ。アルコールも置いてある店なのである。
 十二時すぎに帰ってきたが、雪はまだやんでいなかった。行くときに記していった足跡はすべて消えていた。満月は午前三時をすぎてから顔を出した。

2003.2.11
 札幌の年中行事、雪祭りが終わった。なぜかこの時期になると暖かくなる傾向は今年も変わらず、気温がプラスの六度から七度という四月なみの陽気が二日もつづいて、じかには関係ないこちらまでげんなりしてしまった。おととい通りすがりにちょっとのぞいてみたところ、滑り台は壊れてるは、エゾシカの足は取れてるは、シマフクロウの顔はのっぺらぼうになってるは、見るも無残なありさまだった。
 天候ばかりではない。雪祭りになるとなぜか雪まで降らなくなるのである。もう二月で、これからは暖かくなる一方、というのではけっしてない。雪はこの先、まだかなり降るはずなのだ。
 先週金曜日、取材目的で夕張まで出かけた。これまで何回も足を運んでいるところだが、冬は一度も行ってなかった。雪の深いところだから車に乗れない冬は不便なのだ。とにかく冬の夕張も見ておかなくてはならないというので、雪のいちばん深い季節を見計らって出かけたのである。
 標高二、三百メートル、けっして高いところではないが、山に取り囲まれているせいか雪の量は想像以上だった。ところがこんなものじゃないよ、まだこれから降るんだ、と地元の人に言われた。気温が低いから春まで溶けない。だから三月までは溜まる一方だというのである。そう聞くと三月にもう一回行ってみたくなったが、あいにくもう時間が取れそうにない。
 今月末から国外取材に出かけ、帰って来たあとしばらく東京に滞在する予定だからだ。スギ花粉が飛びまわっているこの時期の東京へは帰りたくないのだが、確定申告をしなきゃならないのだから帰らざるを得ないのである。昨年のいまごろは、そのときに備えて花粉症によく効くという甜茶を毎日一リットルもがぶがぶ飲んでいた。ところが全然効かなかった。
 それで今年こそきちんと病院に行き、本格的な治療を受けようと思っていたのだが、しょせん思っただけのこと、やっぱり行きはしなかった。そして今年も怪しげなある情報を聞きつけてきて、いまはそれを飲んでいる。効いたら公表するが、効かなかったら笑いものになるだけだから、何を飲んでいるかは言わない。
 いずれにせよ今月の末になればその効果のほどがわかる。

2003.2.3
 かみさんが留守をしたので、家にいるとめしが食えないと口実をつけて、ホテル住まいをしてきた話の続報。
 札幌市郊外、石狩川河畔の茨戸というところに、かつてテルメという巨大リゾート施設があった。拓銀がつぶれ、幹部が刑事責任に問われた原因ともなった、いわくつきの融資先がここである。実際行ってみると、なんでこんななんにもないところへこんな施設をつくったんだ、と首をひねりたくなるところに建っている。当然拓銀崩壊後、間もなくつぶれた。以来空家状態がつづいていたが、それを数年まえ、山梨のシャトレーゼという菓子メーカーが買い取って、昨年、ホテルと温泉ランドの営業をはじめた。
 今回はそこへ行ってみたのである。というのもなんせ安かったからだ。オフシーズンのいまは、シングル、朝食つきで一泊五千円なのである。ビジネスホテルじゃありませんよ。金にあかせてつくった豪華なリゾートホテルなのだ。
 事実、なかに入っておどろいた。十一階建の内部がてっぺんまで吹き抜けになっている。わたしの部屋は十階の禁煙ルーム。あいにく吹き抜けのある内側に面していたが、窓から一階のサロンやレストランが手に取るように見下ろせた。廊下に出ると展望サロンが設けてあって、札幌中が一望できる。なにしろ周囲になんにもないから、ほしいままに四方が見渡せるのだ。仕事するのがなんとももったいないような環境だったのである。
 宿泊客は付設の温泉ランドに、午後九時からだと無料入場できる。日中はともかく、夜になると閑散として、サウナだけでも五種類ある広大な浴場に二十人くらいしか客がいなかった。ホテルもそうだ。はじめの日などはどう見ても四十人と泊まっていなかった。これではシャトレーゼが持ちこたえられるかどうか、心配してやりたくなる。
 それで仕事であるが、残念ながら椅子の坐り心地があまりよくなかった。あたりまえのことかもしれないが、一日じゅう腰を下ろしてパソコンに向かうような椅子ではないのである。それにデスクの向こうが大きな鏡になっていて、顔を上げるたびに見たくもない自分の面が目に入り、これもあんまり精神衛生上よくなかった。
 めしが想像以上によかった。札幌市内のホテルでも最上ではないかと思う。昼のバイキングが八百八十円。おかずはもちろん、もとが菓子屋だからケーキだけでも五、六種類はあって、そのせいだろう、昼めしだけが目的と思われる客でかなりのにぎわいだった。
 結局二泊して、昼食と夕食に五千円ちょっとかかったものの、ホテル代は税込み一万五百円ぽっきりですんだ。
 これではまた行きたくなる。このつぎは、仕事用の座布団持参で行こうと思っている。

2003.1.29
 このところ妙な天気がつづいて、きのうは最高気温がプラスの五度まであがった。昼まえには雨までぱらついた。一月に雨が降ったのは札幌へ来てはじめてである。
 おかげで雪がべたべたに溶け、歩道際に雪解け水がたまって横断できないところもあった。こういうにわか洪水もはじめてだ。来月からはじまる札幌雪祭りの雪像を大通り公園でつくっているが、気のせいかたった一日で色がくすんでしまった。
 去年の雪祭りも暖冬でひどかった。雪像のほうはまだ修復できる余地もあったが、悲惨だったのは氷の彫刻。はじまったときはもう溶けてくずれかかっていた。それでもともとはこういう形をしていましたと、制作直後の写真を並べて掲示していた。それを見ないともとの形がわからないくらいくずれていたのである。
 しかしきょうは一転マイナス日。いまかみさんを見送りがてら、ちょっと外まで出かけてみたが、道路が凍って黒光りしていた。むろんつるつるだ。本来ならこういうときは家にこもっておとなしくしているに限る。しかしきょうは出かけるのである。
 というのもかみさんが東京へ出かけ、数日留守にするからだ。
 女房じょうぶで留守がいい。
 その間わたしメも市内近郊のホテルへこもろうということだ。めしの支度がめんどうでなまじ家にいると仕事にならない。職住近接、ホテルにこもったほうが仕事ができる。つまり自主カンヅメというわけである。
 ということで、午後から出かけるのだ。

2003.1.26
 ある小説誌から作家の余暇とかいったテーマのグラビアを特集したいから出てくれませんか、といってきた。わたしの温泉好きを知って、温泉に入っているところはどうでしょうかという。
 文章を書かなくてもいいのか、といったらもちろんとのこと。じゃ出るよ、とふたつ返事で引きうけた。それで今週の木曜日、東京からわざわざカメラマンと担当の編集者とがやってきた。たった一枚の写真を撮るためにである。
 今回案内したのは札幌の郊外にある定山渓温泉の、そのまだちょっと先にある豊平峡温泉というところ。わたしのご贔屓の温泉である。それほど古くからある温泉ではないが、湧いてきた湯をそのままざーざーかけ流しているいわゆる正しい温泉で、札幌近郊では泉質もいちばんいい。ここの名物が二百人は入れる大露天風呂と、なぜかインド人コックがつくる本格的インド・カレーなのだ。
 山の中の温泉でなぜインド料理なの、とだれもが首をひねるミスマッチだが、カレーについてくるナンのうまさときたらまさに感涙もの。日本でいちばんうまいナンだとわたしは思っているし、温泉側はいや世界一ですという。たしかに東京から来た人間を連れていったらみなびっくりするのだ。もし、札幌の近くで温泉に入る機会があったら、ぜひ一回お立ち寄りになることをおすすめする。絶対おどろくから。
 というわけで撮影はものの十分で終わり、あとは風呂とカレー料理を存分に楽しんできた。来月号の雑誌に載るはずだが、なんという雑誌かは言わない。温泉に入れるというから出たのであって、貧弱な肉体を人目にさらすのはほんとはいやなのである。

2003.1.16
 いやー、きのうは冷えた、冷えた。
 このところ暖冬気味で、三月中旬並のプラス六度を記録した日もあって、道路の雪がずるずるに溶けたかと思うと、いきなりその反動みたいな大寒波である。最低気温マイナス十四・八度、最高気温マイナス八・五度。どちらもわたしが札幌へ来てからの最低気温だった。
 夕方四時すぎ、大通りまで買物に行ったときはもうマイナス十度以下にさがっていた。これくらい冷たいと、一歩外へ出たとたん、身も心もピリッと瞬間的に引き締まる感じで、少時間ならいっそ小気味がいい。大喜びして歩いて帰った。手袋、マフラー、毛糸の帽子、防寒三点セット完備の服装である。帰るとかみさんがわたしの顔を見るなり笑い転げた。鏡を見てごらんなさいという。見ると、ほっぺたから、鼻、ひたい、つまり顔の露出している部分がリンゴみたいに真っ赤になっていた。こんなに顔が赤くなったのははじめて。凍傷一歩手前だったのかどうか、きょうもまだしもやけになったみたいに痒いのである。
 日本人のルーツはシベリアのバイカル湖のあたりになるそうだが、極寒地域で暮らすモンゴロイドはみな顔がのっぺらぼうで鼻が低い。へたに彫りの深い顔をしていると、たちまち凍傷にやられてしまうからだ。つまりわれわれの平べったい顔は、ご先祖様が寒冷地に適応すべく、進化に進化を重ねてやっとつくりあげてくださったありがたい顔なのだ。ということがはじめて実感できたのである。
 ちなみにこれまで経験した最低気温は、おととし、大雪山の裏にあるトムラウシという温泉へ出かけたときのマイナス二十度。この気温下で、素っ裸になって露天風呂へ入りに行くのはかなり勇気がいる。寒いという段階を通り越し、締めつけるような痛さしか感じないからだ。それだけ露天風呂の快感が増すこともたしかであるが。
 トムラウシは山のなかにある町営の温泉で、一軒宿である。そのときは一週間、パソコンを持って仕事をしに行った。一週間以上宿泊する湯治客は一日四千円になるのである。なんとこれ、三食つきの値段ですぞ。そのうえ最寄り駅から六十キロ入ったところにある温泉まで無料送迎つきなのだ。雪が深くてとても出歩けるようなところではないから、ひたすら仕事をするしかない。疲れたら二十四時間いつでも入れる温泉にドボーン。仕事がはかどること必定である。
 ただし、行くなら大量の食料を持っていったほうがいい。食いものに期待はできないからである。


2003.1.13
 借家住まいをしているので、壁に釘を打ったりものを貼りつけたりすることができない。それでデスクの前にあるカーテンレールを利用し、そこから鎖であれこれぶら下げてしまおうと考えた。きのうそれを買いに行った。
 東京でいえば伊東屋のような店が札幌にもある。はじめ、文房具の売り場を探してみたが目当てのものはなかった。それで棚の整理をしていた店員に声をかけて売り場を聞こうとした。すると「ちょっとお待ちください」と答えた。
 それだけである。いつまでたっても振り向きもしなければ、手を止めようともしない。どう見ても手が離せないほどのことをしているわけではなく、棚の商品を整理をしているだけなのだ。それなのにそっちが優先で、客には顔すら向けないのである。
 むっとしたが、ああ、またか、とも思った。北海道ではしょっちゅう経験させられていることだからだ。結局わたしのほうがあきらめて、べつのフロアへ探しに行った。
 北海道の悪口は言いたくないのだ。しかしここはあえていう。こと客扱いのサービスに関するかぎり、北海道が日本でも最低のレベルにあることはまちがいない。愛想が悪いというのとはちがうのだ。むしろ愛想はいい。そういう意味でのホスピタリティは優れている。客というものが視野に入らないところがあるということである。
 レジが混んでいて客が大勢並び、ほかの店員はたくさんいるのにだれひとり手伝おうとしない風景はしょっちゅう見かける。遊んでいるわけではないのだ。それぞれ自分の仕事をしている。レジ係ではないということかもしれないが、混んでいるときにほかのものが臨機応変に客をさばく、という融通があまりにも利かないのである。
 たまりかねて一度デパートで怒鳴ったことがある。食品売り場でのことだ。レジに客が四、五人並んでいた。レジはふたつ。しかしひとつは閉まっていた。店員は五人。ふたりが一つのレジにかかりきりで、ひとりは電話に出ていた。ひとりは伝票の整理をしており、ひとりは棚の商品調べみたいなことをやっていた。たしかにだれも遊んではいない。みんなそれぞれに働いていた。
 しかし並んでいる客が六人になろうが七人になろうが、みな知らん顔なのである。あんまりだと思ったから、
「こっちのレジも開いたらどうだ!」
 と怒鳴ってしまった。すると伝票を整理していた男がびっくりして飛んできた。悪気はないのである(あればただではすまない)。気がつかないだけなのだ。気を利かせるとか、周囲に対する配慮とかいう感覚が欠落しているとしか思えない。デパートでそうなのだ。「ここは中国か!(それも十年まえの)」といった悪たれのひとつもつきたくなろうというものではないか。
 これはなにもいまにはじまったことではなく、佐々木譲に聞いたところでは、三十年も四十年もまえからいわれていることなのだが、いっこうに改まらないのだそうだ。多分当の北海道人は、自分たちのそういう鈍さを自覚していないのではないかと思う。
 ひろいところで生まれ、育ち、成人してからも道内に留まっているかぎり、過密や、人を押しのけてもといった競争社会とは無縁な生き方をすることができる。いわば東京あたりでは欠かせない社会経験とか、マナーとかを身につける必要がないまま終わってしまうことが可能な土地なのだ。それはよくいけば無垢で、おおらかで、懐のひろい人間をつくりだすかもしれないが、わるくいけば無神経で、鈍感で、ひとりよがりな人間をつくりだすことにもつながる。その差はそれほど大きくないのである。
 売り場やレジでの対応の鈍さを見ると、こういう人たちに一回、東京のキオスクのおばさんあたりの客のさばきぶりを見せてやりたいものだと思う。しかしこちらの人に言わせたら、そんなわたしこそぎすぎすしすぎで、東京あたりの常識を当てはめようとすることがそもそもまちがい、ということになるのだろうな、きっと。こちらの人で、店員に文句をいっている人は見かけたことがないからである。あるいは自分もそうだから、そういう扱いをされても気にならないということか。
 デパートで怒鳴ったときも、後にいたご婦人客がおびえたような目でこちらを見て「なに、この人は?」みたいな顔をした。怒鳴ったほうも傷つかなければならないのである。

2003年1月7日
 どこにも行かない静かな正月だった。
 正直なところをいうと、新聞の連載小説にかかりきりで、出歩くほどの余裕がなかったということなのだが。
 それでも四日に札幌神宮へ初詣に行ってきた。このお宮、明治天皇から大国主命からいろんな神さんが祀られているみたいなのだが、北海道ではいちばん格式の高いお宮として知られている。それだけ初詣客も多い。真っ白な雪を踏みしめての初詣は、ほかでは経験できないことで、雰囲気としては悪くない。
 おととしだったか、大晦日の紅白が終わったあと、初詣に出かけたことがある。するとものすごい人手で、なかなか前へ進めない。一時間以上待ったがまだ本殿までたどりつけない。結局あきらめて帰ってきた。なぜかというと地下鉄がなくなってしまうからだ。
 人口百八十万都市で、地下鉄が三本もあるというのに、大晦日でも終夜運転をやらないのである。時間延長はするが、それも二時半で終わり。お参りをすませていたら確実に帰れなくなってしまう。
 札幌の地下鉄は市営で、大赤字だそうだが、それにしては日中の運転間隔など東京あたりと遜色ない。一方で始発時間は遅いし、終電時間は早い。わたしがきたころは始発時間が六時半だった。これ、車庫を出発する時間がですよ。市の中心部の大通り駅へくるまで十五分かかるのである。その後時間が繰り上げられたものの、それでもまだ六時だ。
 ついでに、ことし元日の大通り駅の始発時間が八時四十五分、とあったのを見たときは笑ってしまった。八時半に車庫を出るということである。数年前までは元日の市内電車の終電時間が五時だったのだ。
 雪は年末にかなり降ったが、年が明けてからはいくらも降っていない。日本中が寒波にふるえ、大雪だ大雪だと騒いでいるのに札幌ばかりはたいしたことがなかった。
 寒波のほうは例年よりきびしい。正月明けにプラスを記録するまで、最高気温のマイナス日が二十日ぐらいつづいた。生活する立場からいうと、マイナス日のほうが楽である。プラスになると交通量のはげしい通りは雪が溶ける。夕方になるとそれが凍ってくる。歩行者にはこれが怖いのである。
 さいわいことしはまだ転んでいない。


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