Shimizu Tatsuo Memorandum


−自作を語る− 1984年11月、
 徳間書店より発行
1990年1月、
徳間書店より文庫発行
尋ねて雪か

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 三十年近くまえになるが、はじめて小樽を訪ねたときの光景がいまでも目に焼きついている。現在ショッピングセンターのマイカルになっている広大な敷地が、そのころはまだ小樽築港駅の構内だった。その引込み線のいちばん奥に、おびただしい数の蒸気機関車が廃棄され、赤く錆びついて解体されるのを待っていた。おそらく三、四十台は留置されていたと思うが、一度にそれほど大量の蒸気機関車を見たのはそのときがはじめてだ。石炭さえ燃やせばいまにも走り出しそうな蒸気機関車が、すべて鉄屑と化して小雪の舞う構内に放置され、静まり返っていたのである。これほど凄惨な静寂というものはあとにも先にも見たことがない。さびれるがまま冬の空の下でくすんでいた小樽の街を象徴するような光景でもあった。
 時代の変化が加速度を増し、産業界ではエネルギー革命が進行中だった。列車は電化や無煙化がすすめられ、蒸気機関車の最後の牙城となっていた北海道も例外ではなくなっていた。すでに支線はほとんど気動車に置き換えられ、蒸気機関車が牽引する列車は一部残っていたものの普通列車ばかりだった。百年つづいた蒸気機関車の時代があと数年で終わろうとしていたのである。
 そのとき歩いた小樽の街が、このときの第一印象を引きずっていたことは否定できない。マイナスイメージばかり拡大して見てしまったような気がするのだ。
 しかし当時の小樽が、すでに相当うらぶれた街となっていたことは事実である。貿易港として繁栄した時代の名残が市内のいたるところ残っているのだが、早くいえばもう遺跡でしかなかった。元銀行や船会社だった重厚な建物が、道外の人間は聞いたこともないローカル企業の店舗になっているのだ。都市銀行もすべて逃げ出し、最後のひとつまで引き揚げようとしたから市が泣きついてなんとか残ってもらった。その銀行はたしかに営業していた。ギリシア建築風のいかにも格式のありそうな建物には、見たことも聞いたこともない小樽出張所という看板が掛かっていた。
 運河も荒涼として寂寥感に満ちていた。人気のないのはもちろん、沿岸に並ぶ石造倉庫群がろくに使われていなかった。運河を埋め立てて道路にしようというので大反対運動が起こり、一部が観光用として残されたのはだいぶあとの話である。昨今の運河を見るにつけ、あのときの運河がそのまま残してあったらといまになって関係者のため息が聞こえてきそうだが、人間の英知などいくら寄せ集めたところで二、三十年先のことさえ見通せないいい例かもしれない。
 個人的な好みから言えば、すっかり公園化されてしまった現在の運河よりも、半ば廃墟と化して顧みるもののなかったかつての運河のほうがはるかに好きである。あのころの風景を見ておいただけでも幸せだったと思っている。
 港には貨物船の姿がなかった。国鉄の小樽築港線はもう旅客列車の運行を停止していたが、貨物線としてはまだ残っていて、石炭の積出港としての役割は担っていた。しかし港に残っている積出し用桟橋もすでに無用の長物となりかけていた。
 港ばかりではない。市の北にある高島漁港まで廃墟と化していた。広大な魚市場がからからに乾いて物置き場となっているのを呆然とながめたものだ。小樽の寿司はそのころから有名だったが、札幌のあるすし屋の親父が「小樽の魚なんてみな札幌の市場から行ってますよ」と冷笑したのを思い出す。
 行けども行けども人がいなかった。祝津海岸にある遊園地は深い雪に埋もれ、観覧車の色彩ばかり鮮やかだった。昭和二十年代のはじめまで、札幌、小樽は人口をはじめすべての点で勢力が拮抗した北海道の二大都市だったのだ。いま一方の都市は人口百八十万、片方は十五万を切ってしまった。
 この作品は、たったひとつのシーンからできあがっている。
 田舎を捨てて東京へ出てゆこうとする兄を見送りに行った幼い異母妹が「おにいちゃん、おうちに帰ろうよ。みんなで一緒に暮らそうよ」とかき口説くシーンである。
 この場面をどこから得たか、いまとなっては思い出せない。映画、イラスト、あるいはコミック、なにかで見たにちがいない情景なのだが、前後のつながり等はすべて消え、このワンシーンだけが頭に残っていた。そこからイメージがふくらんでこういう物語ができた。小説というものは、きわめて小さなヒントからでも紡ぎ出すことができる、というひとつの例として読んでいただけるとありがたい。



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