Shimizu Tatsuo Memorandum
−自作を語る− 1984年、
文芸春秋社より発行
1988年、
文芸春秋社より文庫発行
(写真・右)
あっちが上海

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 どたばたものが大好きだった。若いころ大阪にいたことがあるが、毎日暇をもてあましていたから、御堂筋のガスホールで開かれていた公開録画にしょっちゅう通っていた。森光子、藤田まことなど、いまでは大女優、大俳優といわれる人たちが、大まじめでアチャラカ芝居を熱演していた時代である。日本の役者が、功なり名遂げてしまうと喜劇に見向きもしなくなるのは悲しい。森繁久弥も真価は昭和四十年ごろまでの芝居にあったと思う。
 その伝で小説もD・E・ウエストレイクのドートマンダーシリーズが大好きだった。トニー・ケンリック、クレイグ・ライスもごひいきの作家だったが、なぜかジョイス・ポーターはあまりウマが合わなかった。そしてもし、自分が将来小説を書くようになったら、絶対どたばたものを書いてみたいと思ったものだ。まさかそれが実現するとは思ってもみなかったときの話だが。
 だから曲がりなりにも作家になったとき、かねてからやってみたかった夢の実現として、とにかく書いてみたのがこの作品である。当初の構成では三部構成だった。すなわち「あっちが上海」「こっちは渤海」「そっちで黄海」の三部作である。しかし二作までは書いたものの、三作目はいまだに書けないでいる。なぜかというと、不評たらたら、まったく売れなかったからである。それもこれまで、わたしの作品を高く買ってくれた人ほど評判が悪かった。それこそ真顔で「ああいうものはやめてください」と忠告してくれた人までいる。
 この手の小説の読者が少ないのは承知の上だったとはいえ、まさかこれほどとは思わなかった。わたしにしてみたら、シリアスものであろうが、エロものであろうが、書くものに変わりはないと思っているのである。
 いまでも残念でたまらないのは、せめてペンネームは変えるべきだったということだ。リチャード・スターク、タッカー・コウ、D・E・ウエストレイクが同一人物であるように、外国には名前を使い分けて作品を発表している作家が少なくない。だからせめてそのかたちだけでも真似て、作風ごとに名前を変えてみようと当初は考えていた。まったくちがう名だと読者が戸惑うということであれば、それとなくわかるような名にすればいい。という含みもあって名前を干支からとり、辰夫という名前にしたのである。
 ついでにこのさい白状しておくと、ペンネームはじつにいい加減につけている。ライター時代に児童用の本を一冊まとめたことがあり、そのさい形式的にでも著者名をつけなければならないことになった。編集者がどんな名にするか電話で問い合わせてきたから、そのときそばにあった中央公論を開き、目次からえらい学者の名前をふたり拝借して、志水健太郎とつけた。
 いざ金をもらうときになって、はんこがいる、というから買いに行ったところ、当時は志水という三文判を売っていなかったのである。しかたがないから銀座の伊東屋で二千何百円か出して彫ってもらった。あとにもさきにもそのとき一回しか押したことがない。悔しくてたまらないから、なにか機会があったら絶対使ってやろうとずっとチャンスをうかがっていた。それが小説でデビューすることになり、ペンネームはどうしますか、といわれたから途端に「しみずー!」と叫んでしまったのだった。
 上は志水でいいとして、下をどうするか。そのとき考えたのが、作風ごとに変えてみたらどうだろうかということだった。干支をアレンジした名前なら、わかりやすくて読者をまごつかせることも少ないだろうと思ったのだ。つまりミステリーやハードボイルドなら辰夫、どたばたものなら申夫で、エロものなら午夫とか。
 わたし自身の干支はネズミである。文字で書けば子。しかしこの子という字、なんとも名前になりにくい。甲子男ぐらいしかないのである。志水甲子男では妙にすわりが悪いし、貫禄もない。第一華がない。じゃあ丑はどうかというと、丑松、丑寅、丑の助、これまたろくなものがない。
 つぎは寅で志水寅夫。これならいいと思った。シンメトリーだし、書きやすいし、フーテンの寅という先輩もいる。それで志水寅夫にするといったところ、居合わせた編集者からそれはないですよ、と寄ってたかって反対された。作家向きの名前ではないというのだ。多勢に無勢、こういうときはすぐに妥協してしまうのがわたしのいいところで、結局辰夫ということになったのである。誇りも威厳もありやしない。処女作が刷りあがってきたとき、担当編集者からサインしてくれといわれ、はじめてサインなるものをしたとき、たちまち志水辰男と書いてしまったくらいである。
 作風ごとに名前を変える、という深慮遠謀からひねり出したペンネームなのだから、この作品を書いたときに、志水申夫か戌夫でいきます、と強く主張すべきだったのだ。それがまた、どうせ反対されるだろうと自己規制してしまい、とうとう言い出せなかったのをいまだに後悔している。まことに後悔先に立たず。「そっちで黄海」のほうは多分書くことがないまま終わってしまうことになるだろう。



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