Shimizu Tatsuo Memorandum
−自作を語る− 1981年、講談社より発行
1983年、講談社より文庫発行
2004年、新潮社より文庫発行
(写真・右)
裂けて海峡

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 わたしの世代のいちばんの特徴はというと、幼少時の記憶に太平洋戦争を刷り込まれていることだろう。ものごころついたときには、鬼畜米英という概念しか世のなかになかったのである。あらゆる価値観がその一点に収斂していた。少なくとも子どもにはそう思えた。だから当時の子どもたちは百パーセント愛国少年だったといってまちがいない。それが国民学校三年で、いきなりハシゴを外されたことになる。そして鬼畜米英を教えていた同じ教師の口から、今度は平和ニッポンを教えられたのだった。
 太平洋戦争の前後を山陰の小さな田舎町ですごしている。人口五千、素朴とも、辺鄙ともいっていい半農半漁の町だった。明治、大正時代の暮らしと、それほど隔たっていたようには思えない。舗装道路は一メートルもなかったし、車というものは父親の勤めていた工場にトラックが一台あるきりだった。情報というものがまったくなかった。自分たちの身の回りがすべて。外の世界とは、ラジオ、新聞、鉄道だけでかろうじてつながっていた。したがって八月十五日を迎えるまで、日本が負けるということなど考えてみたこともない。戦争に対する批判だとか、疑問だとかいったことばの片鱗すら、耳にしたことはないのだった。
 子どもだから耳に入らなかっただけかもしれない。きわめて狭く、偏って、なおかつ不正確なそのころの記憶にこだわる愚かさは百も承知している。それがわかっていて、どうしても忘れることができないのである。忘れられないことにこだわりつづけて生きてきたのが、いまのわたしだといっていい。それは世のなかに、信じられるものなどなにひとつないという結論をもたらした。自分の目で見たもの、自分で体験したことしか信じられないのである。これまで自分の歩いてきた道が、すべて個でしかなかった理由もここにある。組織というものにまったく適応できなかった。教えられる、知らされる、導かれる、といったことには、本能的に拒否反応を起こしてしまうのである。その大もととなった教師、マスコミ、宗教家といったものに対する不信感は、いまでも毫も揺らいでいない。彼らの存在すべてが欺瞞だと確信している。
 あのころもうすこし年がいっていたら、もっと冷静に世のなかを見ていただろうか、とその後も自問をつづけてきた。しかしどう問いかけてみても、それほど批判能力のある人間に育っていたとは思えない。それより特攻隊に志願して、とっくに死んでいた可能性のほうがはるかに高かったと思うのだ。お国のためになにができるか、自分がなぜ小学生でしかないのか、それがいちばん悔しかった「遅れてきた少年」にとって、ほかの価値観があるなんてこと自体が信じられなかった。
 当時の年齢差というものは、いまの人にはわかってもらえないくらい決定的なちがいを持っていた。これほどわずかな年齢差が、これほど大きく人生体験をたがえさせた時代は、後にも先にもなかったのではないか。わたしたちは軍国少年だったとはいえ、実際には軍事教練を受けたことはもちろん、ゲートルを巻いたことすらなかったのである。そして分列行進の末尾にやっと加えてもらいはじめたころ、さほど年のちがわない年上の少年たちは、もう一人前の兵士として前線へ送られていた。逆に三、四歳年下で、そのころ就学年齢に達していなかったものたちは、戦後の輝かしい平和教育の申し子としてスタートしてくるのである。
 隣の家は自転車屋だった。男女の兄妹がいて、兄のほうによく遊んでもらった。巣から落ちた雀の雛を、彼がすり餌をこしらえて懸命に育てていたのをいまでもよくおぼえている。わたしのために大きなオニヤンマを捕まえてくれたこともある。籠が小さすぎてオニヤンマが身動きできなかったのを、いまでもある種の無念さをもって思い出すのだ。彼がいくつ年上だったのか、なんという名だったかもおぼえていない。しかし戦争に取られるか、ただの子どもか、という歴然とした年齢差はあった。彼は出征し、入営先の広島で、原爆に遭って死んだ。西村のおにいちゃんと呼んでいた彼の記憶は、その後も色あせることなく、いまでもわたしのなかに生きつづけている。
 とにかく当時の思い出となると、それだけでかーっとこみ上げてくるものがあって、平静でいられなくなってしまう。だから以下、思い出すことをいくつか列挙してみる。
 戦争末期、郷里の高知県には、海岸線一帯にいくつか特攻隊基地が設営されていた。モーターボートに爆薬を積み込み、船もろとも敵艦めがけて突っ込む「震洋」という作戦である。ベニヤ板の船体、時速四十数キロというスピード、百にひとつの成功もおぼつかない、ただ兵隊を殺さんがための戦術だった。さいわいというか、土佐湾にいた部隊は実戦に出ることなく終戦を迎えた。だが翌八月十六日、爆薬の処理作業をしていて爆発事故を起こし、百名を超える兵士が即死した。そのときの隊員のひとりが、不運な死を遂げた戦友の菩提を悼んでお堂を建て、堂守となって住みついていた。わたしが事故を知ったのは高校一年のときだが、そのときその人はまだ健在だった。そういう人間があのころの日本にはまだいた。
 一方でちがうふたりのおとなからは、捕虜や密偵の首を斬った話を何回も聞かされている。どこをどのように斬ったらどう斬れるか、日本刀の切れ味から首斬りのコツまで、リアルで詳細な実録談はいつ聞いても固唾を呑むくらい迫力があった。彼らは自分が斬ったとは一度も言わなかった。しかし目撃したと称する処刑場面が一度や二度でなかったことはたしかである。ふたりともふだんは好人物で、おだやか隣人だった。生き残ることがわかっていれば、戦争くらいスリリングで面白い見世物はないというのが彼らの結論だった。
 ある元高校教師は人間魚雷回天の特攻隊員だった。彼の場合は、出撃しながら死ぬのがいやで脱走、幸運にも生き延びた経歴を持っていた。戦線を離脱して土佐湾に舞い戻り、艦を自沈させて暗夜上陸、親類の家に逃げ込んで終戦まで潜んでいたのである。逃げようという決意を固めたときは、部下で、ふだんから融通がきかなかった機関兵を射殺する覚悟まで固めていた。東北から徴用されてきた四十代の、農民上がりのその兵士に、おれは死にたくない、おまえはどうなんだ、と決意を迫ったところ、涙をぽろぽろ流しながらわたしも連れて行ってくれといったそうだ。
 子ども相手の話だから、そこにどれだけの真実がふくまれているか、いまとなってはたしかめようがない。誇張もあるだろうし、また聞き話をさも経験したように粉飾した場合だってあるだろう。わたしとしてはそのひとりひとりが、身近にいた、ごくあたりまえの隣人だったことを指摘するのみである。「冬の夜」という小学唱歌があったのをごぞんじだろうか。「ともしび近く衣縫う母は……」という歌詞を聞けば、ある程度の年齢に達している人なら心当たりがあるだろう。あの歌詞の二番は「ともしび近く縄なう父は……」とはじまり、戦後それは「春の祭りの楽しさ語る」と言い換えられたが、もとは「すぎし戦の手柄を語る」だった。現にわたしたちはそう歌ってきた。この唱歌がつくられたのは明治末期、日露戦争後のことだそうだが、ここではそういう問題については触れない。生き残ったものが自分たちのしてきた戦争を語るということは、きわめて日常的なものとして、かつての日本人に共有されていたことだけをいっておきたいのだ。彼らはおしなべてふたつのタイプにわかれた。すなわち、自分の経験した戦争について語ることを拒まなかったか、まったく話そうとはしなかったか、どちらかである。
 わたしはその後の平和と高度経済社会に組みこまれて成長してきた。それを謳歌してきた人間であることは疑いない。一方でその底に、澱となって溜まっている記憶を引きずっていることも否定できない。そういう人間が、ある日突然、傷口としての過去を強制的に突きつけられたらどうなるか、この作品はそういう発想から生まれた。できばえや方法は抜きにして、自分の心情に徹底的にこだわったということではもっとも愛着のある作品だといっていい。



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