Shimizu Tatsuo Memorandum
−自作を語る− 1981年、講談社より発行
1983年、講談社より文庫発行
2004年、新潮社より文庫発行
(写真・右)
飢えて狼

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 記念すべき処女作。というのはいまだからいえることであって、舞台裏はとてもそんなきれいごとではなかった。書いていて、こういう小説でも通用するのだろうか、と自信のなかったこともさることながら、いまのうちになんとかしないとそのうち食えなくなるという生活上の不安のほうが大きくて、いわばあせりと心細さにさいなまれながらの毎日を送っているところだった。
 曲がりなりにもマスコミの端っこにしがみつき、文章でめしを食いはじめたのは二十七歳のとき。以来ずっとフリーライターとして生き、ほかの職業についたことはない。当初は児童ものを専門にしていたが、三十をすぎたころから女性誌の仕事が多くなり、気がつくと週刊誌のアンカーになっていた。仕事、収入ともそこそこ恵まれた状況にいたことはまちがいない。女性誌のいちばん華やかだった時代であり、日本経済がそれにもまして急成長していた時期である。
 それが三十代の後半になると、状況が一変してきた。オイルショックで経済が失速するとともに、経費節減で仕事が窮屈になり、ライターの地位も低下してきたのである。しょせん便利屋、本人以外では代用できない特殊技能だったわけでないことが、ひろくわかってしまったのだ。つまりだれでもやれる商売だったのである。
 ましてトウの立ってきた古株のライターとなると、二十代の若い編集者には使いにくい。みるみる仕事が減ってきた。改めて周りを見回してみると、先輩のライター連中はみんな姿を消していた。つぎは自分の番だ、と悟ったときは愕然とした。子どもが三人、しかも上が中学生になったばかりで、これから金がかかるという時期だった。
 いまのうちに何とかしないと、あと数年で食えなくなる。とは思うものの、なにをして身過ぎ世過ぎをすればいいか、その手段が何もなかった。ライターあがりくらいつぶしの利かないものはなく、まともなことは何ひとつできないのである。食えさえすればどんな仕事だっていい、というくらい追いつめられた心境だったが、現実にはそのどんな仕事だってできはしないのだった。文を書くしか取り柄がなかったのだ。
 そういう不安とはまだ無縁だったころの昭和四十年代のはじめ、スポンサーつきの仕事でときどき札幌へ通っていた。当初は観光気分だったが、そのつど、時間をつくって道内各地を見て回った。当時の北海道は出版活動がけっこう盛んだった。函館、旭川、帯広、釧路など、都市には必ずタウン誌や地域雑誌があった。目についたものを面白がって買い集めたところ二十数冊にもなり、宅配便で東京へ送らなければならなかったこともある。
 単行本も数多く出版されていた。なかでは千島関係のものが少なくなかった。国後、択捉出身者の回顧談や地誌、営林局や漁業関係者の活動記録など、商業ベースには乗りそうもないものが何点も刊行されていた。昭和十五年の国後島古釜布、根室間の汽船運賃表だとか、古釜布中心部の住宅地図だとか、断片的な資料を見ているうちにあることを思いついた。
 千島出身者がどんどん老齢化している現在、いまのうちに記録を残しておかないと、そのうち完全に失われてしまう。あとに残るのは北方領土を返せ、という空疎なスローガンだけである。そうなってからでは遅いから、いまのうちに、かつての記録を、商業ベースに乗る本にして残しておきたいと思ったのだ。
 それには、当時はじまった旅行ブームに便乗したガイドブック形式にするのがいちばんいい。つまり戦前の歯舞、国後、択捉をタイムカプセルに入れた本を、昭和四十年代のセンスで、ガイドブックとして出せば絶対売れると思ったのだ。
 どこかに話を持ち込めばアイディアだけ盗まれる恐れがあったから、自分ひとりでやるつもりだった。それで以後張りきって、向こうへ行くたび、資料類を買い集めていた。しかし本にするとなると、大勢の人に会って取材しなければならない。それには多大の金と時間が必要だ。とてもではないが、一介のフリーライターがひとりでこつこつやってまとまるような仕事ではなかった。そのうち本業のほうが怪しくなってしまい、北海道へ行く仕事もなくなった。消化不良と尻切れとんぼ、結局具体的な形にはならないまま、すべて霧散してしまった。
 資料の多くは散逸してしまったが、何点かは手元に残っていた。そのなかに、択捉島出身者の書いた地誌があった。そこに、択捉島西部にある萌消湾という噴火湾の記述が出ていた。いま手元にないので記憶はあやふやだが、火山の噴火によってできた直径数キロの小さな湾である。周囲は赤茶けた火山岩の絶壁、入口に岩礁が残っているから湾内はどんなときでも波ひとつ立たず、死を思わせるような静寂につつまれ、不気味なので近寄るものがなかった。時化に遭ってやむなく避難した人が、湾内にいる間、生きた心地がしなかったという感想を残している。つまり島民でさえ、湾内に入った人はほとんどいなかったのである。まさに人跡未踏の地、なんとも想像力をかき立てられるところではないか。
 どうせなにもできないのだったら、これからも、なんとかして文章を書いて生きていくほかない。となると、あとは小説でも書いてみようか、と思いはじめるのは当然のことだろう。となったとき、思い出したのがこの萌消湾だった。
 日本領土でありながら日本支配の及んでいない望郷の島、ここに日本人を潜入させ、高さ四、五百メートルもある絶壁を攀じ登らせたらどうだろう。ということで、元クライマーなる人物が、ヒーローとして生まれてきたわけだ。ほとばしり出てくる創作意欲があって、そこから必然的に生み出されたストーリーではない。人に知られていない題材があったから、それに合いそうなストーリーをこしらえてむりやり当てはめただけなのだ。なんとまあ安直な、と思われるかもしれないが、事実安直だったのだからしようがない。開き直るわけではないが、小説なんて、たいていこの程度の安易な発想やイマジネーションから生まれていることが多いのだ。もちろん、わたしの場合は、ということである。ほかの人たちのことまでは申しません。
 このとき八百枚の原稿を、二年かかって書きあげた。仕事の合間を見てというか、おりをみて、すこしずつ書き足していったものだ。これは、いま思い出してみてもぞっとするくらい苦しかった。精神的にである。
 なぜかというと、ライターだからお金をもらえる原稿なら、いくら安くても書けるのである。たとえ一枚百円の原稿料であろうと、こんな安い仕事をさせやがってとかなんとか、世の中を呪いながらでもちゃんと書けてしまう。それが金になるやらならぬやら、ものになるやらならぬやら、読んでもらえるあてすらない原稿を、貧乏生活の合間に書いてゆくのだから、これはつらい。書きあげたら、どこかの懸賞小説に応募しよう、というあてすらなかった。こういう小説の応募できる舞台は、まだなかったのである。
 とにかく最後まで書いてみよう、というその一念にだけすがって書き終えた。中途半端に生きてきたそれまでの自分の、生き方を変えるためのひとつのハードルなのだ、と言い聞かせながらの作業でもあった。ひとつくらい、自分にも、なにかをやりました、といえるものがあっていい。たとえそれが、日の目を見ることなく終わっていたとしても。
 自慢話をしたくてこんなことを書いているのではない。いまの自分とはちがう、何者かになりたくてたまらないのだが、その手段も方法も見つけられないまま、日々鬱鬱とすごしている人も多いと思うから、そういう人にいくらかでも参考になればと思い、自分のことを正直にぶちまけている。
 日本という国は結果がすべてなのである。結果を出さなければ、ハナも引っかけてくれない社会だといってさしつかえない。隠れた才能があるとか、潜在能力を持っているとかでは、絵に描いた餅、なんのたしにもならない。それはことばのうえの遊びにすぎず、自己満足や自己憐憫にひたらせてくれるだけ、なんの道も切り開きはしない。とにかくなにかをやって、結果を出すしかないのである。過去や経歴は問題にされない分、公平な社会だということもできる。そして結果さえ出してしまえば、きのうまで視野にも入れてくれなかった人間が、揉み手をしながらすり寄ってきてくれる。いい、悪い、を論じているのではない。そういう社会で、どうやって自分の居場所を見つけるか、ということを述べてみただけである。



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