Shimizu Tatsuo Memorandum


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きのうの話      

Archive 2002年から2022年3月までの「きのうの話」目次へ

 
2022.3.11
 三回目のワクチンを打ってきた。
 翌日になると腕が痛く、すぐれない気分が3日つづいた。
 体温を測ってみると、微熱があった。
 熱を出したのは何十年ぶりのことだったろうか。
 子供のときからひ弱で、風邪を引くとすぐ熱を出し、ひとたび発熱すると必ず40度の高熱になった。
 治癒するまでそれがつづき、寝るたび布団が濡れるくらい寝汗をかいた。
 胃腸も弱く、しょっちゅう腹を壊した。
 それがいまや頑健そのもの、風邪も引かなければ、なにを食っても平気という体躯になっている。
 不摂生をしなかったからここまでこられたのだろうが、幸運にも恵まれ、同時に周囲の人々のおかげであったことは言を俟たない。
 それに対する感謝の気持ちは忘れず持ちつづけているのだ。
 かつては子供など、数日病に伏せっただけで、簡単に、ころっと死んだ。
 夏休みが終わって新学期がはじまってみると、たいてい何人か欠けていた。
 交通事故こそなかったが、水死、疫痢、赤痢、日本脳炎など、子供の命を狙うものは山ほどあった。
 小学生の時代、わたしは周辺にいた女子3人に亡くなられている。
 うちふたりは同級生で、わたしと机を並べていた。
 彼女らの名は、いまでもはっきり覚えている。
 最初は2年生のときだった。
 2学期になったら、その子は登校してこなかった。
 先生から、亡くなったと知らされた。
 数日後、彼女の父親が学校にやって来て、クラス全員に餅を配った。
 戦時中のことだったから、予期せぬお餅は大変なご馳走だった。
 クラスにはその子と同姓の男子がいたが、妙に不真面目な顔で「おれはいいよ。いらねえよ」と言い張り、座をしらけさせた。
 あとでふたりはいとこだったとわかった。
 3年のとき亡くなったのは、町有数の素封家の子だった。
 深窓の令嬢ということばがぴったりの美人だったが、線の細さみたいなものはたしかにあった。
 彼女も2学期になると登校してこなかった。
 そのときはクラス全員が家に招かれ、ご馳走にあずかった。
 最後は戦後すぐだったから、4年生か5年生のときだ。
 弟と同学年の女子が家に来て、縁側で一緒に遊んでいた。
 なんだか帰りたくなさそうだったのが、いまでも忘れられない。
 夜遅くなったから、彼女は仕方なく帰って行った。
 そして家で、気の触れていた兄に殺された。
 子供ならずとも、生き抜くのは大変な時代だったのだろうと思う。
 そういうなかで、今日まで命を保ってこられたのは、幸運以外のなにものでもなかったと感謝している。
 見えないもの、これまで関わってきたすべての人たちに、お礼を申し上げたいのである。
 そんなの当たり前のことで、生まれてきたもの全員が持っている基本的権利といえばそれまでだ。
 その基本的権利が国家権力で奪われ、罪のないものが死の恐怖に怯えている時代の到来ほど、人間社会の情けなさ、絶望的な怒りに打ち震えるものはないのである。


2022.3.1
 歯が痛くなってきたので、やむなく歯医者に行ってきた。
 京都で治療したのが7年前、一応その段階で終わったから、これでもう歯医者へ行くことはあるまいと思っていた。
 歯が痛くなったり、抜けたりしはじめたらそれまでのこと。
 残った歯で飲み食いをつづけ、寿命が尽きたときは歯もなくなっていた、となったら万々歳、もう歯医者には行くまいぞと決意したのだ。
 だから木更津へ来てまもなく、入れ歯の具合が悪くなって取れたときも、直すことはせず、そのままにしていた。
 すべて想定内、じたばたするものかと覚ったつもりだった。
 だが理想と現実の差はいつだって厳しい。
 歯が痛みだしたときはどうするか、ということはまったく考慮していなかった。
 1月にも1度痛くなっているのだが、そのときは耐えられた。
 今回は我慢できなかった。
 もやしラーメンを食っても痛く、もやしがろくに食えなかったのだ。
 それで大あわて、痛みだけでもなんとかしてもらえないかと、あっちこっちの歯医者に電話をかけまくった。
 あいにく週末だったため、最短でも月曜日の予約しか取れなかった。
 それまで我慢するしかないのかと悲壮な気分でいたところ、翌日になると痛みが、嘘みたいに消えてしまった。
 そうなったら現金なもので、とたんに歯医者へは行きたくなくなった。
 日曜日もなんともない。
 かりんとうが平気で食えた。
 どうしよう、ここままパックれてしまうか、けど痛くなったら困るなあ。
 と心が千々に乱れたあげく、月曜日が来たからいやいや行った。
 そしたら案じていた通り初診者扱いされ、問診、検査からはじまって歯の磨き方指導まで、これまで何度もやらされた手順をまた1から学習させられた。
 こうなるとわかっていたから、歯医者には行きたくなかったのである。
 しかし泣く子と、歯の痛みには勝てない。
 言われるがまま、いまのところはいはいと従っている。
 これからしばらく、歯医者通いになりそうだ。


2022.2.17
 母方で残っていた最後の叔母が亡くなり、数日高知へ帰っていた。
 これで残っている身内は下の妹ひとりとなり、郷里へ帰る機会はますますなくなりそうだ。
 致し方ないこととはいえ、自分が故郷から切り離されてしまうのはやはり寂しい。
 叔母は96歳だったから、まあ大往生といってもよかっただろう。
 それで最期は明るく、笑顔で送り出してあげたいということで、お棺の蓋をするとき、娘ふたりと孫娘ふたりが手拍子を打ちながら童謡を歌って見送った。
 よい見送りだったと思う。
 いまでもその旋律が耳に残っている。

 今回は行き帰りとも成田からの格安航空を使ったが、これが散々だった。
 行きが2月11日、大雪の降った日だったのだ。
 東京湾の沿岸はそれほどでもなかったが、房総の山のなか、成田近辺は1月に匹敵する大雪となった。
 市内から数キロ入っただけで、標高は80メートルしかないわが家で、10センチ以上積もった。
 せがれに駅まで送ってもらい、時間に余裕を保たせて9時6分の千葉行きに乗った。
 雪でダイヤが乱れていたとはいえ、この電車に乗れば2時間近く早く空港に着けるはずだった。
 ところが千葉に着いてみると、そこから先へ行く電車がなかった。
 東京駅からだと、成田空港行きの特急列車は、日中でも1時間に2本走っている。
 ところがこの特急は千葉に止まらない。
 つまり千葉から空港へ行くには普通しかなく、これが1時間に1本しかないのである。
 その電車が雪で止まっていたのだ。
 結局40分待ち、成田行き普通列車があったからそれに乗った。
 成田から空港までタクシー。
 8時半に家を出て、飛行機の搭乗口に到着したのは正午だった。
 帰りもひどい目に遭った。
 成田へは定刻に着いたのだが、あいにく乗っていた席がいちばん後方だった。
 格安航空機が発着する第3ターミナルからJRの駅までは、延々と歩かされる。
 気は焦るのだが、前の人を押しのけて出て行くわけにいかない。
 タラップを下りて地上に出たときは、30分以上あった乗り換え時間が心許なくなっていた。
 それで必死になって歩いたのだが、最近は足が思うように前へ出てくれないのだ。
 さらに葬儀用の硬い靴を履いていた。
 自分では小走りしているつもりが、カメのような速さでしか歩けない。
 とうとうこのときも、1時間1本しかない電車に5分の差で乗り遅れた。
 さいわい夕方だったから、40分待つと千葉行きの普通列車があった。
 千葉では3分差で上総港行きに乗り換えられる。
 ところがこの普通列車が、途中の駅で特急の通過待ちをした。
 その特急が1分ぐらい遅れたのだ。
 おかげで千葉へ着いたときは乗り換え時間ぎりぎりだった。
 電車が着くやいなや飛び降り、跨線橋を必死に駆け上がり、必死に駆け下りた。
 階段で転んだらみっともない限りだが、なりふり構わなかった。
 そこまでしながら、ホームまであと数段というところで、無情にも電車に逃げられた。
 つぎの電車まで20分待ち。
 結局16時半に成田へ着き、木更津駅へ帰ってきたのは19時時半、やはり3時間かかってしまった。
 地方はいま、車なしだと生活できないから、ひとりが1台の時代になっている。
 そのためバスをはじめとする公共交通機関は全滅に近いありさまだ。
 しかし首都圏に居住していて、国の表玄関である国際空港へ行き来する列車が、1時間に1本しかないというのはいくらなんでもひどすぎはしないか。
 同一県内の移動で、県庁所在地から向かうのである。
 木更津千葉間が35キロ、千葉と成田空港間が40キロ、合わせて75キロが片道3時間もかかるようでは、とても首都圏の交通体系とは言えないだろう。


2022.2.5
 新しいパソコンを買った。
 目がますます悪くなって、パソコンの文字が読めなくなってきたのだ。
 ディスプレイを目の先30センチまで引き寄せても読めない。
 拡大鏡が絶対的に欠かせなくなってしまった。
 マウスを操作すれば文字は拡大できるのだが、このやり方だと全体のバランスが狂うから使いづらい。
 またミス入力、つまり誤打がべらぼうに増えてきた。
 キーを叩く力が衰えてきたせいだろう。
 いま使っているパソコンのキータッチが堅いので、軽く打ったのでは認識してくれないのだ。
 とくにA、W、Eなど、ローマ字入力で使用頻度の多いキーは、薬指と小指で叩くから、打ち方が弱いと認識してくれない。
 同じ文章を何度も打ち直さなければならなくなるのである。
 あれこれ考えた末、画面の大きなパソコンにするか、キーボードをもっとよいものにしたら、問題は解決するはずだという結論に達した。
 持ち運ぶことはもうないから、この際15インチ型にしよう。
 またディスプレイは折りたたみ、裏返しにしても使える2in1型にしたらより便利だろう。
 新年を迎えたとき、パソコン、キーボード、ワークデスクすべてを一新しようと決意した。
 いまさら新たな投資をしても、ペイするほどの収入は上げられないと思うのだが、商売道具なんだから、プロなら最良の機器を使うべきだと、勝手に自分を納得させたのだった。
 正月明けを待ちかねて一括発注した。
 そのときもっと殊勝な決断もした。
 これまで新しい機器を入れるたび、使うようにするための初期設定は、全部人に頼んでいた。
 それを今回はどんなに時間がかかっても、自分でやってみようと決意したのだ。
 近年YOUTUBEがめざましく便利になり、たいていのことは、画面を見ながらマンツーマンで教えてもらえる。
 初心者にとっては、なんともありがたい時代になった。
 パソコンの基礎知識をマスターするには、今回がいい機会だと思ったのだ。
 注文した機器はたった1日で届いた。
 早速開封し、勇んで新設定に取りかかったのだが、ここで思いもしなかった難問にぶつかり、たちまち立ち往生してしまった。
 今回買ったパソコンが、WINDOWS11だったのである。
 出てきたばかりの新しいOSは、バグが多いというのが定説だし、それはWINDOWS10のときいやというほど経験させられている。
 だから当分11には手を出さないつもりだったのに、血気にはやるあまり、そこまで頭が回らなかった。
 はじめてみたら、まるっきり勝手がちがう。出てくるはずの画面が出てこないのだ。
 10と11では変わっていないものもあるが、変わったものもかなりある。
 やり方がちがうんだから、知識がなかったら簡単なこともできないのだ。
 泣きたい気分だったが、もう後もどりはできない。
 YOUTUBEにすがって、WINDOWS11のお勉強を1からはじめた。
 そして当初決意した通り、曲がりなりにもそれを成し遂げたのだ。
 初期設定をするだけで1週間はかかった。
 メールソフトや、エディター、辞書を移すには、さらに時間がかかった。
 なんとか原稿が書けるようになるまで、1ヶ月近くかかっていた。
 しかもその間、メールアドレスが突如として消えたり、無線が売りものの新キーボードが有線しか使えなくなったり、不具合がいくつも出てきた。
 いまのところ、これらすべてに目をつむっている。
 それを正していたら、いつになるかわからないからだ。
 いまはただ、使えるようになったことを感謝しながら、仕事するほかない時期だと思っている。

 新しいパソコンの勇姿。キーボードは新たに買い入れたもの。本来のキーボードは背中にくっついている。

 新と旧、2台をほぼ同じ画面にして比較したもの。画面の大きさ、文字もひと回りちがうが、キーボードがセパレートになったことで、新ディスプレイはもっと前に引き寄せられる。この差が大きい。
 デスクは探し回って、伸縮式の組み立てデスクを見つけた。高さを変えられるデスクはそこそこあるが、50センチまで下げられるものは数点しかなかった。


2022.1.21
 わが家の庭にクロガネモチの木がある。街路樹によく使われている木で、丈夫なのが取り柄という、さして目立つところのない、冴えない木だ。
 それが年に一回だけ、華やかな色彩で彩られる時期がある。
 冬に赤い実をつけるのだ。
 論より証拠、実物をご覧いただこう。


 実はナンテンそっくりだがもっと小さく、その代わり隙間なく、びっしりと実る。
 ひとつひとつはそれほど見栄えがしなくても、全体を見たらなかなか豪華、とくに花のない冬は目立つ。
 この写真は年末のもので、このころは鳥も全然寄りつかず、穏やかなものだった。
 正月の3が日をすぎたあたりから、ぼつぼつ鳥がやって来はじめた。
 ほとんどがヒヨドリで、田舎ではいちばん目立つ鳥だ。
 10日あたりから数が増えはじめ、15日をすぎると入れ替わり立ち替わりという賑わいになった。
 近在のヒヨドリがみんな集まったといわんばかりだ。
 昨日朝のこと、買い物に行こうと庭へ出たところ、空がわっというくらい黒くなった。
 クロガネモチの実をついばんでいたヒヨドリが、わたしにおどろいて一斉に飛び立ったのだ。
 4、50羽はいただろうと思う。
 とにかく一度に、これほどのヒヨドリを見たことはなかった。
 うわっ、こんなにたくさん来てたのかと梢を見上げると、その段階で上のほうはほぼ食い尽くされていた。
 2時間あまり留守にして帰ったときは、梢は100パーセント食われていた。
 翌日、つまり今朝の写真がつぎの2枚である。


 9時過ぎに庭へ出てみたら、おこぼれをついばみに来たハクセキレイがいたくらいで、ヒヨドリは影も形もいなくなっていた。
 毎年実がなくなるときはいつもあっという間なので、今年はそれをたしかめようと、定期的に写真を撮っていた。
 まさか2日で、丸裸にされていたとは思いもしなかった。
 周辺のヒヨドリを全部集めても、あれほどはいないと思う。
 大挙して押し寄せてきたのは、みんなよそから来た鳥だったのだ。
 そう思うと、鳥の情報網のすごさに、人間さまのほうがびっくりしている。
 ちなみにこの実、どんな味がするか一粒かじってみたけど、人間さまが嚥下できる味覚ではありませんでした。

 おまけの写真。

 しょっちゅう庭を掘り起こしている犯人はモグラです。


2022.1.8
 いやー、よく降りました。
 一見会津か、山形かと見紛うような雪景色になった。
 木更津へ来て8年になるが、積雪量からいえば、今回がいちばん多く降った。
 いつもならカメラ片手に喜んで出かけるところだが、今回は出かけなかった。
 せがれの話によると、わが家から200メートルほど先の、市道だか県道だかへ出たところ一帯の雪が、いちばん深くなっていたとか。
 木立に囲まれた暗い林で、標高にして10数メートル高いだけだが、午後になってもまったく溶けていなかったという。
 市役所が融雪剤を撒いていたというから、君子危うきに近寄らず、おとなしく家のなかからの雪見にしたのだ。
 免許取り立てのころ、春先の八ヶ岳山麓を走っていて、アイスバーンにハンドルを取られ、間一髪という目に遭ったことがある。
 残雪は残っていたが道路は完全に除雪されていたから、いい気になって素っ飛ばしていた。
 急カーブを曲がった途端、北斜面のアイスバーンになっており、あっと思ったときは180度回転して残雪の中へ突っ込んでいた。
 突っ込んだところが山側でなかったら、いまごろわたしは存在してなかったかもしれない。
 これに懲り、以後雪道での運転は絶対しないようにしてきた。
 降りしきる雪をものともせず、ものすごいスピードで走り回っている車を見るにつけ、みんな命知らずだなあと思うばかりである。



 写真はいずれもわたしの部屋、2階ベランダから撮ったもの。
 昨日午後の、まだ明るいときの写真だから、実際はこれよりもっと降っている。


2022.1.1
 明けましておめでとうございます。
 いつもと変わりない、それこそ判子で押したみたいに変わりない、平々凡々とした新年を迎えました。
 この1年で最大の変化というと、足腰の衰えが目立ってきたことくらいか。
 コロナのせいもあるが、ますます外へ出なくなり、歩く機会が減ってるから、これでは体力の向上するわけがない。
 買い物に行って、T日5000歩も歩いたら、ああ、今日は歩いたと喜んでいる始末なのだ。
 目もますます悪くなって、いまやパソコンを見るのだってルーペが手放せなくなっている。
 これはほんとに困り抜いているから、正月早々の今日、今年最初の買い物として、通販でスタンド式ルーペを注文した。
 眼鏡式の拡大鏡なら、これまで何度か買っているのだが、あまり役に立たなかった。
 細かい手仕事ならともかく、文章を読む程度なら焦点距離の短い眼鏡はかえって使いにくいのだ。
 倍率は大きくなくてよいから、もっとクリアーな、広い範囲の見えるもののほうがありがたいのである。
 しかし目がこれほど悪くなってしまうとは、予想もしなかった。
 悪くなってはじめて、こんなはずじゃなかったとぼやいたって、遅すぎる。
 とくに本を読めなくなったのが情けない。
 ついこないだまで、裸眼で本を読めるというのが最大の自慢だったのだ。
 そういう目に感謝こそすれ、自分に限って、目で苦労することはあるまいと高をくくっていた。
 すぐ慢心してしまうのである。
 もう20年くらいまえだが『いつか読書する日』という印象的な映画があった。
 いつか本を読もう読もうで、五十になってしまったオールドミスを田中裕子が好演していた。
 それとまったく同じ。やっと本の読める日が来たら、もう読めなくなっていたというのは、万人に課せられた人生の一大齟齬なのである。
 自分はちがうなんて、思い上がりもはなはだしい。罰が当たったのだ。
 今年はひたすら謙虚に、ひっそりと生きて行こうと思っているのだが。

 写真は二階のベランダから見た元日の富士。木が毎年大きくなっているから、見られるのもあと数年だろう。




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