Shimizu Tatsuo Memorandum


トップページへ                 著作・新刊案内
きのうの話      

Archive 2002年から2023までの「きのうの話」目次へ

 


2023.12.24
 運転免許証の更新がやっとできた。
 目がますます悪くなり、これで更新できるのだろうかと、ずっと不安だった。
 それで夏に眼鏡を新調しようとした。
 だが眼鏡屋では、いま以上の視力が得られるレンズはありませんと言われた。
 紹介してくれた眼科医へ行き相談したところ、白内障の手術をしたら、いまよりよくなりますよという。
 その医師が白内障の専門医を紹介してくれた。
 そこでまた診察してもらい、手術を受けることにした。
 その日程がなかなか取れず、2ヶ月近く待たされた。
 ようやく先週、その手術をしてもらったのである。
 手術したのは両目。
 裸眼でパソコンや読書ができればありがたいと、それに合うレンズを入れてもらった。
 手術そのものは簡単だったが、そのあと1週間、ゴーグルをかけっぱなしにしなければならないのが煩わしかった。
 夜もかけまま、寝なければならない。
 その治療が、先週やっと終わった。
 ありがたいことに、視力も1・2まで回復していた。
 とはいえそれは、医院内で計測してもらったレベル、実用とするにはあたらしい眼鏡を新調しなければならない。
 免許証更新の期限が迫っており、その手続きをしている間がなかった。
 それで古い眼鏡を引っ張りだし、どれがいちばんよく見えるか全部試してみた。
 その結果1・0くらいまで見えるらしい眼鏡を見つけ、それをかけて更新手続きに行ってきた。
 なんとか及第したようで、無事あたらしい免許証を手に入れた。
 いやー、ほっとした。
 これであと3年安泰だ。
 更新はしたが、実質的にはもう乗らないと決めている。
 せがれが不在のときや、やむを得ないときのための免許証である。
 返納は絶対にしない。
 返納した友人たちで、返納してよかったと言っているものはひとりもいないのだ。
 足腰が立たなくなっても、免許証の更新だけは絶対にする。


2023.12.04
 『負けくらべ』の出版祝賀会をしてもらいました。
 19年ぶりの現代ものだったし、早々と増刷が決まったこともあって、お祝いの食事でもしましょうか、ということになったのだ。
 当然だれを呼びましょうかということになった。
 それではたと困った。
 わたしとしては少なからぬ人を招きたいのだが、小学館のお金でやってもらうのだから、いちいちだれを呼んでもらいたいとは言えない。
 まして作家なら、こちらから指名できるわけがない。
 今回帯に推薦文を寄せてくださった作家の方々には、一応声をかけてみますと言うから、すべてお任せしますと答えてそれ以上口は出さなかった。
 売れっ子作家ばかりだから、忙しいだろうし、予定だってあるはず、ひとりでも来てもらえたら大感謝ものだと思っていた。
 ところが蓋を開けてみたら、参加希望者がわっと増えた。
 なんと総勢19名、わたしの担当編集者は新旧ほぼ全員来てくれた。
 空前絶後、望外の幸せというものだ。
 自分にこれほど人望があるわけはないから、これはもう生前葬をしてもらったようなものだと思った。


 終わったあとの記念写真がこれです。
 この欄に掲載することは、全員の許可をもらったわけではないが、生前葬記念写真だからいいだろう、ということで無断掲載します。
 敬称略で前列左から逢坂剛、小生、宮部みゆき、後列大沢在昌、佐々木譲、北方謙三、夢枕獏の各氏。
 久しぶりだったので時間内ではとても話し足りず、大いに盛り上がって、散会後みんなで二次会へ繰り込む話になった。
 わたしも本心は、なによりもそれに加わりたかった。
 しかし木更津の山の中にかみさんを独り残していたし、呼んでくれたタクシーに押し込まれたから、帰らざるを得ない。
 後ろ髪を引かれながら独り帰った。
 船戸与一が亡くなる1ヶ月ほど前、ある文学賞をもらったので、受賞パーティに病院を抜け出して出席してきた。
 パーティ後はまた病院へ帰らなければならない。
 そのときみんなでホテルの地下駐車場まで見送りに行った。
 これが見納めになるとみなわかっていた。
 そのときの情景が脳裏に甦った。
 見送られた船戸はあのとき、どんな気持ちだったのだろうかと、なんとなくわかった気がした。
 わたしの方はまだまだくたばる気はないけどよ。


2023.11.25
 今週は携帯、つまりスマホを買い換えた。
 何年か前、イッチョウマエにAndroidのスマホを手に入れたのだが、使い方ァわからんし、いろんなアプリに手を出しては失敗するし、なによりも自分に必要と思われる機能がほとんどなかった。
 こんなもん、やっぱりいらんかったと思い知らされ、通話とメール以外まったく使わなくなっていた。
 次男坊がときどきLINEしてくるから、こんなもの使うな、通話とメールだけにしてくれと文句を言ってやめさせた。
 ところが最近、機能が劣化してきたか、だんだん使いづらくなってきた。
 電話がかかってきて、いざ出ようとしても、必ずといっていいほど切れてしまう。
 もたついて、すぐ応答できない方が悪いと言えばそれまでだが。
 とうとう業を煮やし、もうスマホはやめようと、一大決心をして代理店に乗り込んだ。
 むかしのガラケーにもどしてもらおうと思ったのだ。
 ところが敵もさるもの、それでは商売にならないとみたか、こっちの言い分をすこしも聞いてくれない。
 なにを言っても、それならこれはどうですかみたいな、機種変更の方向へ話を持って行ってしまう。
 こっちは文句を言うだけだが、向こうは理詰めで説得してくる。
 しかも若いオネーチャンなんだよ。
 結局終わってみたら、前の機種よりいくらか簡素だが、費用も操作もあんまり変わらないスマホを押しつけられ、すごすごと帰ってきた。
 機種、システムがちがうから、1から設定をやり直さなければならない。
 口惜しいから取説と首っ引きで丸1日かけ、まあこれならいいか、というところまでなんとか漕ぎつけた。
 実際の使い勝手は、まだ使ってないからわからないのだが、余計なアプリには手を出さんぞ、という覚悟だけはできた。
 さて1年後にはなんと言ってますか。


2023.11.5
 電動アシスト自転車を買った。
 先月、運転免許更新のための高齢者講習を受けた。
 そのとき、視力が目に見えて衰えていることがわかりびっくりした。
 視力検査で落とされる、つまり更新してもらえないことも、あり得るレベルだったのだ。
 前回の更新のときも、ほとんど見えなくて愕然としたのだが、なんとかお情けで不問にしてもらえた。
 いまはもっと悪くなっている。
 片方で0・3、両眼で0・7の視力が必要なのに、それが危ういのだ。
 それでなくとも最近は、ひやっとすることが多くなってきた。
 だから免許の更新はするが、今年いっぱいで車に乗るのはやめようと、密かに決意していた。
 公共交通のないところなので、困ったときは車に乗らざるを得ない。
 そのため免許は保持しておくが、すすんでの運転はしないことにしようと決めたのだ。
 代替手段をあれこれ検討してみた結果、電動自転車がいちばんいいということになった。
 5年ぐらい前になるだろうか。老人4人で瀬戸内海の豊島に行ったとき、レンタル電動自転車で島内を走り回った。
 初めての経験だったが、坂道がこれほど楽に漕ぎ上がれるのかと目から鱗、いつか手に入れたいと思ったことだ。
 標高100メートルたらずだが、わが家は山の上にある。
 スーパー、病院、どこへ行くにしても山を下り、また登って来なければならない。
 車の通行量が多い一般道は怖いが、山裾をくねくねと縫って走る旧道が残っていて、そこを通れば安全だ。
 市街へ出るときも矢那川沿いの一方通行路があり、こちらも通行量は少ない。
 自転車には恵まれたところなのだ。
 スピードや見栄えは必要ないから、ここは乗りやすさを第一に考え、いちばん小さな20インチタイヤ車を選んだ。
 車高が低くてまたぎやすい、いわゆるママチャリである。
 それがこのほどようやく届き、2回ほど試乗してみた。
 近来の体力の衰えは予想以上で、軽々と乗り回すレベルにはとうてい達しないとわかった。
 しかも考えていて以上に、どこへも距離がある。
 最寄りスーパーまでおよそ4キロ、駅まで8キロある。
 電動アシストとはいえ、自分の足で漕がなければならないわけだから、体力の消耗もばかにならない。
 思い描いていたほど楽しい乗り物ではないと気づいたが、もう遅い。
 しようがないから、しばらく乗ってみることにします。


2023.9.27
 長かった夏がようやく終わり、朝夕は冷房なしで過ごせるようになってきた。
 一方で視力がますます衰え、その対策でこの数ヶ月走り回っていた。
 はじめはもっとよい眼鏡をつくろうと思った程度だった。
 このブログを読んだ方が教えてくださった表参道の眼鏡屋を訪ねて行ったのだ。
 そこで専門医の精密検査を受けたほうがよいでしょうということになり、あらたに紹介してもらった都内の眼科医へ行った。
 その結果、白内障の手術を受けることになったのだ。
 ただし、手術してもらうのはちがう専門医。
 その日程がじつはまだ決まっていないのだ。それでいまひとつ、落ち着かない日がつづいている。
 新刊『負けくらべ』の発売日が、このまえ書いた日とちがってました。
 11月発売と書いたのだが、とんでもない思い込みちがい、来週10月3日でした。
 何件か取材申し込みが来ているというので、今日小学館まで行き、インタビューに応じてきたところです。
 それはいいが、神保町の小学館へ行くのに道がわからなくなってしまい、情けないことに今回も迎えに来てもらった。
 あきれたことに地下鉄の出口をまちがえ、神保町の交差点とばかり思っていたところそのものがちがっていた。
 この界隈、地理には精通していたところで、ライター時代は毎週のようにうろついていたのだ。
 ただしその地理感覚は40年前のもので、高層ビルが林立する現在の光景とは似ても似つかないものだった。
 頭に生半可な知識があるため、かえって邪魔になっているのだ。
 先々週は、秋葉原の眼科医へ行くのにずいぶん手間取った。スマホが道順を提示してくれているのだが、それが読めないのである。
 時代に対する適応能力がますますなくなっているようで、すっかり自信をなくした。


2023.7.24
 梅雨が明けました。
 ということは、これからまだ暑くなるということで、それを考えたら言うべきことばも出てこない。
 老人にとってはますます耐えがたい季節になりつつある。
 先日丸の内まで行く用があり、何ヶ月ぶりかで都心まで出て行った。
 東京駅行きの高速バスは、これまで東京駅の反対側の八重洲通りの路上で乗り降りしていたのだが、今度行ってみたらすべて、あらたにできた地下駐車場発着となっていた。
 八重洲地下街と直結していたものの、なにもかもはじめてだったから勝手がわからず、だいぶ右往左往させられた。
 地下街を通り抜け、丸の内側の地上に出た途端、照りつける日差しでふわーっとなり、眩暈がして、あわてて足を止めた。
 これは危ない、と思ったからすぐさま建物の中に避難し、気分が収まってから、相手の人に電話して迎えに来てもらった。
 多分熱中症一歩手前だったのではないかと思う。
 かみさんとはふだんから、年寄りは、熱中症で死ぬのがいちばん楽ではないだろうかと、かなり真面目に話し合っている。
 それまでピンピンしてた老人が、熱中症にかかると、きわめて短時間で、ころりと逝ってしまうからだ。
 これって現代の、一種の安楽死ではないだろうかと思うのだ。
 とはいえ出先で熱中症にかかったら、周りに迷惑をかけるから、いざとなったらそこまで割り切れないだろうが。
 先週ようやく、秋に出る本の初校ゲラを返し終えた。
 執筆におよそ3年かかったわけだが、当初構想していたものとは、まったくちがうものになった。
 書いているうちにだんだん考えが変わってきたからで、読者にどう受け止められるか、多少気にはしている。現代もので、それもふつうの物語です。
 入稿したのが3月。活字になるまでずいぶん時間がかかった。
 この先そう多くは書けそうもないと思うから、編集者の意見を聞いては書き直したり書き足したりしたので、長さも500枚をだいぶ超した。
 刊行予定は11月、版元は小学館です。


2023.5.12
 こともあろうにこの木更津で、震度5強という地震が発生してしまった。
 運が悪かったら『令和4年木更津大地震』という名がついたかも知れない事件になっていただろう。
 さいわいわが家には被害がなかった。
 白状すると、地震そのものを知らなかったのだ。
 週初めから親子3人で九州旅行をしており、当日は阿蘇にいたのである。
 親子でできる旅行は、多分これが最後だろうからと、宮崎、鹿児島、天草を巡り、阿蘇へやって来た最終日だったのだ。
 じつは昨年も同じ旅行をしており、最後は阿蘇にいた。
 ところが去年は阿蘇に警戒警報が出て、火口はおろか、登山道も入山禁止だった。
 最後の親子旅行にしては、中途半端に終わってしまったのである。
 それで今年もう一回ということになり、前半はちがうコースだったが、最後は阿蘇で締めくくった。
 今年は天候もよく、お釜のぞきや火口散策も楽しむことができた。
 その最終日の朝、震度5強のニュースが飛び込んできたのだ。
 当然テレビの前に釘づけとなっていた。
 ところが詳細が明らかになるにつれ、ようすがおかしい。
 震度5強にしては、出てくる映像が平穏すぎるのだ。
 震度5強というのはピンポイントの現象にすぎず、ほとんどのところは震度4以下だったとしか思えない。
 とはいうものの、この目で見たわけではないから、不安は去らない。
 協議した結果、今日はこれで予定を打ち切り、すぐさま帰ろうということになった。
 それで航空会社に連絡、航空便を前倒ししてもらい、午後早々の便で帰ってきた。  なにはともあれ、家の中に入った。
 期待通りというか、期待外れというか、損害ゼロ、何の被害も受けていなかった。
 どう考えても震度1か2、地震計の精度を疑いたくなるような揺れだったことはまちがいないのである。
 おかげで今年もまた、いまひとつ不満の残る旅行になってしまった。
 とはいえ、だからもう1回最後の親子旅行を、という口実になるとも思えないしなあ。


2023.4.15
 千葉まで行って、ようやく預金通帳の住所変更をしてもらった。
 アクアラインのバスに乗って都心へ出るのは簡単だが、JRに乗って、木更津から県庁所在地の千葉まで用足しに行くのはけっこう大変なのである。
 首都圏なのにJRが高速バスに負け、いまや過疎地並みの扱いになっているからだ。
 内房線の木更津と外房線の上総一宮間、つまり房総半島の外側をぐるっと回る電車は、日中たった2両で走っているなんて、みなさん知ってましたか。
 わたしもはじめて見たときは、首都圏で最大の赤字路線と言われている久留里線の列車が走っているのかと思った。要するに2両で足りるくらい、電車に乗る人が少なくなっているのだ。
 こないだまでは、15両編成の横須賀線が館山まで乗り入れていたのである。
 それだけ内房線は冷遇されるようになり、千葉方面から帰ってくる場合はともかく、出て行くときは毎回千葉のふたつ手前の蘇我で、ずいぶん待たされる。
 高知へ帰るときよく乗っていた成田発の格安航空も、最近は利用しなくなった。
 成田から千葉、木更津と、同じ県内を帰ってくる列車の接続がすごく悪いからだ。
 成田発千葉行きふつう列車なんて、1時間に1本しかないのである。
 この稿、JRの悪口を言うために書きはじめたんじゃなかった。
 木更津に銀行の支店がなくなったから、千葉まで行かなきゃならなくなったという話だった。
 JRの片道料金680円、車の駐車代が400円、それだけの費用を投じて行ってきたわけだが、同じことを2回させられた。
 はじめは、届け出ていた印鑑をまちがえていたとかで、手続きしてもらえなかった。
 ハンコ行政はなくなったと勝手に思い込んでいたから、適当な認め印を持って行ったところ、木更津の片田舎からはるばる出てきた爺さんを、無慈悲に追い返すくらい厳然と生きていたのだった。
 住所変更くらい、ATMを使って簡単にできるだろうと言うかも知れないが、やってみたけどできなかったのである。
 千葉支店に行ったときも、はじめはATMの前に坐らされ、行員がつきっきりで同じ操作をやらされた。しかしやはりできなかった。
 使っているキャッシュカードが、50年以上むかしの最初期のものだったせいなのか、いまの機器では受けつけてくれないのである。
 結局1時間あまり待ち、窓口で受けつけてもらった。
 ATMを操作していたとき誤操作したらしく、いつの間にか通帳不要ということにされていた。それも訂正してもらい、紙の通帳にもどしてもらった。
 それにしても千葉駅前は、老人にとってSF映画のような迷宮だ。
 氾濫する商業施設や看板に迷彩され、銀行の看板なんかまったく見えないのである。
 事実ビル全体がほかの施設に占領され、銀行は肩身狭そうに片隅で営業していた。
 デジタル時代がいかに便利かなんて、口が裂けたって言わないぞ。


2023.3.17
 50年に及ぶ宿痾から解放され、やっと治ったと思っていた花粉症がぶり返した。
 一度治ったら二度と罹らない。とばかり勝手に思い込んでいたから、そのときは容易に信じられなかった。
 もともと鼻は悪く、子供のころから蓄膿症に苦しんできた。外出するときはポケットティッシュがないと不安で、いつも予備つきで持ち回っていた。
 いまでも治ったわけではなく、とくに冬は鼻水が止まらなくなる。犬っころみたいに、鼻がいつも湿っているのである。ティッシュは必需品だ。
 今年は花粉の飛散量がすごく多いと警告されていたときも、自分はもう治ったのだからと、他人事みたいに考えていた。
 それにしては、今年の冬は鼻水が出るなあ、くらいにしか考えてなかったのだ。
 忘れもしない。春一番が吹いた3月1日の夜のことだ。
 強風が吹きはじめた夜半に、鼻水が出て出て、どうにも止まらなくなった。
 なにもしてないのに、鼻から水がトトトトトッとしたたり落ちるのだ。拭いても拭いても落ちてくる。
 かみさんに、それ、花粉症じゃないの、と言われて、はじめてわれに返った。
 あ、これ、まさに花粉症がひどかったときの症状そのものではないか。
 と気がついた途端、目までかゆくてかゆくて掻きむしりたくなった。
 迂闊といえば迂闊だけど、それまで目がむずむずする感覚はあったのだ。しかし花粉症のかゆみだとは思わなかった。
 治ってると思い込んでいるから、再発するなんて思考はまったくなかった。
 さあ、翌日から、外へ出るのが恐ろしくなった。郵便物を取りに外へ出ることさえ怖く、数日間は一歩も外に出なかった。
 しかし週2回は、買い物に行かざるを得ない。
 そのときは厳重に身体を隠し、帰って来たら入念に払って、それから家の中に入った。
 いまでもそれはしているのだが、よくよく経過を見ていると、春一番当初の数日に比べると、症状はだいぶ軽くなっている。
 今日はどうしても出かけなければならない用があり、半日ほど外出していた。
 恐る恐るだったが、鼻水はほぼふだん通り、用意したティッシュもそれほど使わなくてすんだ。
 目もちょっとはかゆくなったものの、心配したほどではなかった。
 どうやらこのまま落ち着いてくれるのではないか、といまはそう思えている。
 とすると、春一番の夜が特別だったのだろう。
 ボクちゃん完全に治ったもんねェ、などと増長していたから、花粉症明神が警告を発してくれたのだろう。
 これからは、あの苦しかった日々を忘れず、謙虚に、おとなしく生きて行こうと思っている。


2023.2.26
 住民票を木更津に移したので、これでしばらく用はない、と思っていたらそうでもなかった。
 住民税や健康保険など、あれこれ手続きが残っていたらしく、両方の市からなんだかんだ言ってくる。
 要するに取り立てるものは、絶対見逃すものかとばかり、きっちり請求してくるのである。
 一方で取りすぎたものは、還付金と称して返してくれる。
 取り立てるときは黙っていても年金から差し引くくせに、返してくれるときはいちいち書類を提出して請求しなければならない。
 先週この前請求した還付金の請求書類が、日野市役所から差し戻されてきた。
 振込銀行欄を、書き損じたから書き直したのだが、そこに訂正印のハンコが押してなかったから、押して再提出するようにという仰せだ。
 お役所仕事の最たるもので、いまどきこんなことにまで、いちいち手間と金をかけているのかと猛烈に腹が立った。
 窓口で言われていたら怒鳴っていたと思うのだが、金を返してもらう立場だから致し方ない。渋々再提出しましたけどね。
 運転免許証も住所変更手続きが必要というから警察まで出向き、裏書きしてもらってきた。
 銀行も住所変更手続きをしなければならないらしいから、これも行ってきた。
 口座をつくって50年になる。長い間ありがとうございますと礼を言われたが、日野市へ引っ越したとき、駅前にはそこしか銀行がなかっただけである。
 銀行口座はもうひとつ持っていて、木更津駅前にはその支店もある。
 人口13万くらいの地方都市に都市銀行がふたつもあるのだ。
 郷里の高知市は、県庁があるから日銀の支店はあるが、都市銀行の支店はないのである。
 人口がその半分以下の木更津にはふたつ、さすが首都圏はちがうなあと感心しながら手続きしようとすると、電話番号がない。
 調べてみたら、去年の夏に廃止されてなくなっていた。いまでも建物は残っているが、ATMの機器しか置いてないようなのだ。
 千葉市の先、つまり房総にはなくなってしまったとある。
 千葉は首都圏とはいえ、房総はもはや過疎地、人口はもちろん、電車の本数、観光客も激減している。
 世のなかが日々、こんなにもドラスチックに変化しているというのに、十年一日、毎日なんの変化もなくだらだらと生きているこの年寄りって、いったいなんなのだろう。


2023.1.28
 10年ぶりの大寒波で各地に被害が出ているようだ。
 かくいうわが家も、もうすこしで水道が凍結してしまうところだった。
 朝の最低気温がマイナス3度になるというから用心はしていた。
 とはいえ前の晩、水道の蛇口をゆるめて水を出しっ放しにするくらいのことしかしなかった。
 昨年冬に多摩の家の給湯器を凍らせてしまい、ほとんど使わなくなった家とはいえお湯なしでは困るから業者に直してもらった。いらざる出費をしてしまったのだ。
 それで懲りていたのだが、かといって一般家庭でできることは、水道を出しっ放しにしておくくらいのことしかできない。
 まあ大丈夫だろうと、高をくくっていたところはある。
 そしたら翌朝、お湯が出なくなった。
 リモコンの表示盤は点灯しているのだが、ガスが点火しない。
 いくら待っても水しか出ないのだ。
 わが家はプロパンガスだから、こういうときできることはいくらもない。
 スイッチを入れ直してみたり、ブレーカーを落としてみたり、できることはやってみた。
 それでも点火しない。
 ネットで調べてみようとしたら、なぜか、ネットもつながらなくなった。
 給湯器とネットにどのような関連があるのか知らないが、要するにお手上げだ。
 こうなったら気温が上がってくるまでようすを見るほかないとその段階であきらめ、以後なにもしなかった。
 それが正解だった。
 昼近くになって再使用してみたら、給湯器もネットも正常に機能した。
 下手にあわてなくてよかった。
 夕方のニュースで木更津の朝の最低気温が、その日はマイナス5度だったと知らされたときは冷や汗が出た。
 紙一重のところだったのである。
 京都近辺で新快速が一晩中立ち往生したり、新東名が渋滞で丸1日動かなくなったりしてだいぶ叩かれていたが、当局側に読みの甘さがあったことは否めないだろう。
 最悪の事態が起こることを想定して備えていたはずだが、現実に起こったことが想定をはるかに超えていたわけだ。
 平時の秩序に慣れすぎ、想定した最悪事態のレベルが低すぎたのである。  同じことは、これから先もまだ起こると思わなければならない。
 わが家も今回のことを教訓として今後に備えるつもりである。


2023.1.1
 明けましておめでとうございます。
 明るくて穏やかな、素晴らしいお天気の新年を迎えました。
 空気が凜とすみ、地面は霜で真っ白、西の空には富士山がくっきりと、文句なしの日本晴れでした。
 昨年はすっかりサボってしまい、申し訳ありませんでした。
 はじめはちょっと後ろめたかったのですが、慣れてしまえば、これはこれで楽でいいやと、すっかり横着を決め込んでいました。
 そしたらかなりの方から、問合せや反響があったのでびっくり。
 どうやらみなさんこの欄を、わたくしの安否を知る手がかりとして、ときどきのぞいてらっしゃったようなのです。
 それが途絶えたものだから、なにかあったんじゃないか、体調をくずしたんじゃないかと、あれこれ憶測なさったわけです。
 ご心配なく、ぜーんぜん、そんなことはありませんでした。
 駄馬はその後も無病息災、いたって元気に、のほほんとその日暮らしをしておりました。
 この間86歳を迎えました。
 本日からは、新しい日記帳への記載がはじまります。
 5年連用日記が終わるので、年末に新しい日記帳を買いに行ったのです。
 そしたら5年連用が売り切れてて、10年連用しかなかった。
 うーん、あと10年も使うことはないだろう、とは思うけれど、まあしようがないか。
 根がケチだから、2、3年で終わらせてはもったいない。
 この分だと、日記帳代惜しさに(5720円)長生きするかもしれないわ。
 といっても書くことがないから、最近はその日なにを食ったか、めしの記載だけで終わってしまうことが少なくありません。
 食欲だけは衰えません。
 頭の方は退化と劣化がすすみ、いまや右を向いたら左のことを忘れてしまう始末。
 車の運転も、せがれからは昨年一杯でやめるよう言われてましたが、これはまだうんと言ってない。
 餅も食うなだって。
 余計なお世話じゃ。
 とはいえ昨年1年、あまりいいことがなかったのも事実。
 身内や50年来の友人に先立たれ、気がついたら自分であってもおかしくない年に達してました。
 自覚症状、まだないんだなあ。
 それでも11月には、60年余の都民生活を切り上げ、木更津に住民票を移しました。
 遅ればせの千葉県民です。
 多摩の家はまだ置いてありますが、これは近日中に処分します。
 12月には何年ぶりかという風邪を引いてしまい、咳がひどくて、まだ完治していません。
 コロナ感染が心配でしたが、これは調べてもらったところ陰性でした。
 と、まあそんなところです。
 今年はときどき更新するつもりですから、思い出したらのぞいて見てください。
 みなさんにとって、いい年のはじまりでありますように。




「きのうの話」目次へ



志水辰夫公式ホームページ