Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2020年3月までの「きのうの話」目次へ

 


2020.3.25
 連休中日の土曜日、晩めしを食ったあと、庭に出てステップ運動をやっていた。
 風の冷たい夜だったから、はじめはシャツの上にチョッキを着ていた。
 300回やってチョッキを脱ぎ、500回やって上のシャツ、700回やって下のシャツを脱いで上半身裸になった。
 調子がよかったから、その日は1000回やるつもりだった。
 終了直前、980回ぐらいまできたとき、にわかに水っぱなが垂れてきた。
 気持ちのいい汗を掻いているのになんで水っぱなだよ、と思ったが、止まらない。
 玄関の明かりでたしかめて見たら鼻血だった。
 急いで洗い流し、小鼻を強く押さえていたが、止まらない。
 仕方なく切り上げて部屋にもどり、ネットで鼻血の止め方を検索した。
 小鼻を強く押さえる、という処置法に誤りはなかった。
 ところが以後もいっこう止まらない。
 そればかりが、頭ががんがん唸りはじめた。
 血流が沸騰しながら頭の中を巡っているような音が聞こえ、明らかに尋常でない。
 はじめてかみさんを呼び、非常のときの相談窓口に電話してもらい、対処法を聞いた。
 血が止まらないのであれば、病院へ行った方がよいと言われた。
 仕方なく救急車に来てもらった。
 救急車が来たときは異常音も治まり、気分も平静にもどっていた。
 鼻血さえ止まってくれたら帰ってもらおうと思っていたが、どうしても止まらない。
 結局たかが鼻血で、サイレンを鳴らしながら中央病院まで運ばれて行った。
 それから手当てを受けたのだが、当直の医師が入れ替わり立ち替わり処置してくれたが、まだ止まらない。
 とうとう当日は休みだった耳鼻科の医師に電話して、聞いてくれた。
 その結果、夜の10時過ぎに、医師がわざわざ病院まで出て来てくれた。
 せっかくの3連休で休息を取っていた医師が、年寄りの鼻血ひとつで、夜半に出勤してきてくれたのだ。
 その後はさすがというか、あわてず、騒がず、出血箇所をレーザーで焼いて傷口をふさいでくれた。
 7時に家に出て、帰ってきたのは夜中の12時、人間一寸先は何があるかわからないと、心の底から思い知った出来事だった。
 しかしその後も、水っぱなとくしゃみが止まらない。
 それで月曜日、会計をするためもあって、また病院へ行き、予後の診断をしてもらった。
 鼻水、くしゃみとも、異物が鼻に入ったための自然現象だからそのうち治まると言われ、安心して帰ってきた。
 水っぱな、くしゃみは今日もつづいているが、鼻をかんでも血が混じらなくなり、出血は完全に止まった。
 それにしても、なんとありがたい医療制度だろう。
 こんな年寄りの、たかが鼻血を止めるため、休日の医師が夜半に病院まで来て、手当てしてくれるのだ。
 それで支払った金額はというと、1割負担というありがたい制度のおかげで、3000円少々、夜中に家まで帰ったタクシー代の方がはるかに高かった。
 世話になっておいてこんなことを言うのもなんだが、老人医療費が国の財政を圧迫することに、わたしは大反対なのだ。
 すべきことを果たし終えた老人の生命なんて、それほど値打ちはない。
 現代社会の形勢に力を尽くしてきた世代だから、老後はそれなりに敬われて当然とは思うものの、それだって程度による。
 わたしもふくめ、80を過ぎた年寄りは、あとはできるだけ早く死ぬことが、世のなかに対する最大の貢献だと思っているのだ。


2020.3.18
 コロナ騒動で火の消えたような世の中になってしまった。
 おかげでわれわれも、行くところがなくなっている。
 週に2回、買い物に行くのが唯一の外出。
 そのとき、よい息抜きになっていたイオンのラウンジも閉鎖されたから、買い物が終わったら、そそくさと帰ってくるだけだ。
 3月に入ってほかに出かけたところというと、病院が1回。
 これまで千葉大病院まで通っていたかみさんが、地元の公立病院に変えてもらったので、その送り迎えをしたものだ。
 病院内で待ちたくなかったから、送り届けたあとは市内にもどり、コメダコーヒーでモーニングを食いながら、診察が終わるまで待っていた。
 あとは風のない暖かな日に、ダムの散歩へ出かけた程度。
 これまで、ほとんど人気のなかったダム湖岸に、散歩やジョギングをする人が増えはじめた。
 子供連れでやって来る家族まで見かける。
 コロナ騒動のおかげで暮らしの見直しがはじまったとしたら、これはこれでけっこうなことだと思う。

 うれしいニュースがひとつ。
 3月に発売されたばかりの新潮社文庫本『いまひとたびの』が増刷になった。
 とっくに賞味期限の終わった作品だと思っていたから、これは素直にうれしかった。
 ただそうなると、つぎの作品はさらに疎かにできないことになるわけで、いま取りか掛かっているプロットを見直した結果、すべてご破算、また一から立て直すことにした。
 性懲りもなく繰り返していることに過ぎないが、性分だから仕方がない。
 気分を変えて、出直します。


2020.3.5
 郵便物をチェックするため、週末に多摩へ出かけていた。
 このところほとんど外出していなかったので、都内へ出かけたのは40日ぶり。
 妙なウイルスをもらうのはいやだから、1泊したきりでさっさと帰ってきた。
 従って出かけたといっても、ただ往復したようなもの。
 人のいるところへ立ち寄ったのは、外食を1回と、ショッピングを1回しただけだ。
 あとは家から出ず、食いものも冷蔵庫の残りものですませた。
 だから都内を見てきたとはとても言えないのだが、それでも東京がすっかり様変わりしてしまったのは感じ取れた。
 どこもかしこもがらんがらんになって、こんなに空いている新宿を見たのは久しぶりだ。
 ラッシュを避けていたとはいえ、駅や電車の中でさえ、人と躰が触れなくてすむ間隔が空いていた。
 人混みが、雑踏でないのだ。
 密度が全然ちがうのである。
 おかげで年寄りでも快適に移動できた。
 しかし商売は上がったりだろうなあ。
 学校が休校になったり、営業時間が短縮されたり、そういうことがもろに暮らしや、収入に響いてくる人も多いだろう。
 その不自由、難儀は、この際我慢するしかない。
 わたしはまあ健康なので、よもやウイルスをもらうことはないと信じているが、かみさんは感染症に弱いから、あまり軽率なことはできない。
 当分どこへも出かけない方が無難だろう。
 しかし今回の騒動のおかげで、世のなかにすこし落ち着きが出てきたような気がするのは、うがちすぎた見方だろうか。
 これが暮らしを見直そうという意識の改革につながるなら、災いからより多くのものを学んだことになると思う。


2020.2.27

 90年代の作品『いまひとたびの』が新潮文庫で再刊された。
 増刷したのではなく、復刻である。
 内容は初刊行当時のままだが、今回あたらしく組み直し、校正し直した。
 そして最後に1本、短編を書き加えた。
 今回の文庫に収めるため、あらたに書き下ろしたものだ。
 前回の解説をお願いした北上次郎氏が、この追加稿のため、さらに解説を書き足してくださった。
 刊行時のわたしは40代、血気盛んだったころの全力投球した作品である。
 校正するため今回も読み直したが、うわー、典型的な若書き、とものすごく恥ずかしかった。
 ことば過剰で、力みっぱなしなのだ。
 それから40年たって、どういう境地に達したか、それは書き加えた1本を読んで、判断していただくほかない。
 若いときは、自分の文章を完成させるのに必死で、老作家の枯れた文体など軽蔑しまくっていた。
 自分は年取っても、こんなかさかさの干涸らびた文章は絶対書かないぞ、と思っていたものだ。
 それが、なんのことはない。人さまと同じように枯れてしまった。
 いまでは文体やレトリックに、まったく心を動かされない。
 しょせん人間はみんな同じということだろう。
 個人としては、もう終わったと思っていた作品だから、こうしてふたたび世に出られたことを、大変ありがたいと思っている。


 去年の台風で倒れた梅の木の根っこに、今朝一輪の花が咲いていた。
 ひこばえが残ってはいたけれど、まさか生きてて、花までつけようとは思いもしなかった。
 邪魔だからいずれ片づけようと思っていたが、これで処分できなくなった。
 もうひとつおまけは、昨日の夕景。

 あいにく富士山の真ん前に木立があり、それが年々大きくなって、夏には全然見えなくなっていた。
 それが台風でずいぶん痛めつけられ、木立がすかすかになってしまった。
 おかげで冬になると、富士がくっきり見えるようになった。
 台風がもたらしてくれた唯一の善根だ。


2020.2.20
 昨年辺りから、脅威を覚えるくらい足腰が衰えてきた。
 平坦なところを歩いていながら、しょっちゅうつまずくし、よろめく。
 なによりも足が、真っ直ぐ前へ出ない。
 視力の衰えもあってか、アスファルトの路面が、ぼこぼこに見えてしようがないときもある。
 週に2、3回は歩きに出かけているのだが、かみさんの足に合わせているから、わたしには物足りない。 
 それで今年に入ってから、踏み台を上がったり下りたりするステップ運動を再開した。
 専用の踏み台を持っているのだ。
 だからその気になればいつでもできるわけだが、あいにく部屋が2階だ。
 敏捷性のかけらもなくなった年寄りが、高さ20センチの踏み台を上がったり下りたりすれば、そのどたどた音はもろに下まで響く。
 たちまち苦情が出て、とうとうやるのを遠慮するようになった。
 それを再開したことになるのだが、はじめのうちは息を殺し、足音を殺し、なんとか下へ響かないよう、細心の注意を払っていた。
 100回か200回くらいなら、なんとかごまかせる。
 しかしそれ以上になると、足腰がふらつき、とても隠せなくなる。
 それで仕方なく踏み台を階下へ下ろし、玄関前の廊下で使うことにした。
 その都度、わたしが下りて行くわけだ。
 それでも響くというから、かみさんが台所にいたり、風呂に入っていたりして近くにいないときを見計らって、こっそりしている。
 再開して1ヶ月、ようやく躰が慣れ、40分くらいまで時間を引き延ばせるようになってきた。
 回数にして800回から900回、これをなんとか1200回くらいまで延ばしたい、というのが当面の目標だ。
 足腰を鍛えている気分にはほど遠い。
 これ以上の衰えを、すこしで遅らせることができるなら、とささやかに願っているのである。


2020.2.12
 先週は参った。
 カークダグラスのことを書いたら、同日、死去が報じられたからだ。
 なんという間の悪さ。
 じつをいうと、原稿そのものは前の日に書き終えていた。
 しかし曜日をまちがえ、2月5日づけで書いたから、それなら発表は明日にしようと、1日遅らせたのだ。
 そのまま発表していたら、間際とはいえ、前日の記事ということになり、これほど後味の悪さは覚えなくてすんだだろう。
 べつに責任を感じるような問題ではないが、タイミングを失ったことはまちがいない。
 だいたいが優柔不断で、なにをしても一歩か二歩遅れ、そのたびに後悔している。
 遅れたのではないけれど、迷ったあげく、行動に移さなかったことを、いまだに悔いている思い出がひとつある。
 親しくしていた編集者で、仮にY氏としておく。
 年はひと回り下、小説の読み巧者で知られ、つき合いは20年以上つづいた。
 定年後はフリーの編集者として活躍していたが、60半ばで癌に冒され、判明したときは手遅れだった。
 それでもパーティ等には顔を出し、人なつっこい笑みを見せていた。
 さすがに酒は飲めなくなったようで、横顔はやはり淋しそうだった。
 病状が進行し、会う機会は減ってきたものの、ときどき電話をくれ、いつも長話をした。
 べつに用があったわけではない。
 とりとめのない話をして、互いに満足していたのだ。
 年明けの、松の内のことだった。
 正月は自宅で迎えると言っていた。
 なぜか、いきなり電話したくなった。
 それまでわたしからは、一度も電話したことがない。
 そのときは、むしょうに声を聞きたくなった。
 電話するつもりで、一度は受話器の前に坐った。
 それから、ためらいはじめた。
 いまかけても、恐らく伏せっている。
 そういうものに、一方的に会話を強いるのは、無慈悲すぎはしないか。
 先方のことを考えてというより、電話しなくてすむ言い訳ばかり考えていた。
 結局電話しなかったのだ。
 訃報がもたらされたのは、10日ほどのちのことだった。
 聞いたときは、身震いした。
 虫の知らせというか、彼の呼びかけを本能的に感じたからのはずなのに、応えてやろうとしなかった。
 得手勝手に納得して、背を向けた。
 唯一、無二の機会を、自分から捨てた。
 ひとことでもことばを交わしていたら、これほどの悔いは残らなかったと、その思いはいまでも頭から離れない。
 ある俳優にインタビューしたとき、似たような話を聞いた。
 麻雀仲間だった著名作家がガンで入院、最後になるかもしれないというので、病院へ見舞いに行った。
 しかし病室の前まで行って、そこから引き返してきた。
 廊下をすすんでいるとき、不意に思った。
 あの男なら、いまの姿を見られたいとは思わないはずだ。
 そう気づくと、とても中まで入る気がしなかった。
 作家はその病院で亡くなった。
 俳優のほうは、そのときの記憶を引きずって生きていた。
 先立ってしまうものは、 あとのものに、いつだって悔いと無念を残して行くようだ。


2020.2.5
 YouTubeを見ていたら、2019年に物故した有名人というウェブがあったからのぞいて見た。
 5月に歌手で女優のドリス・デイが亡くなっていた。
 『ケセラセラ』の大ヒット曲で一世を風靡したが、わたしはそれ以前の『ふたりでお茶を』『パジャマゲーム』『カラミティジェーン』以来の大ファンだった。
 10代から20代はじめのころのことで、『カラミティジェーン』で歌われた『マイフーリッシュハート』が愛唱歌だったといえば、どういう若造だったか、なんとなく想像していただけよう。
 だから亡くなったときの年齢が97だと知ったときは、軽いショックを受けた。
 なんのことはない。自分だってそのときは82になっていたのだ。
 ほかにも知っている著名人は何人かいたが、彼女ほど思い入れのある人はいなかった。
 ただそれで面白くなり、あれこれ調べているうち、1980年から1989年までに亡くなったハリウッドスターというウェブを見つけた。
 この時代のスターならだいたい知っているから、早速のぞいて見た。
 ジェーン・フォンダ、バート・ランカスター、イングリット・バーグマン、ディーン・マーティンなど、超有名スターの顔が綺羅星のように並んでいた。
 だれひとり取り上げてみても、1時間や2時間はしゃべっていられるくらい、蘊蓄や思い入れを持っている。
 こういう人たちの映画とともに、自分の若い日々があったことを、なんと仕合わせなことだったかと、いまでも感謝しているのだ。
 ところがこれらスターの多くが、70そこそこで亡くなっていることにはおどろいた。
 十分な医療と、それを受容できる体力に恵まれていたと思うのに、いまの基準から言えば明らかに短命だ。
 98歳まで生きたフレッド・アステアが例外、30年前の平均寿命は、いまよりずっと短かったのである。
 死因の多くがガンだった。
 ガン死が猖獗をきわめはじめたのが、このころからだったように思う。
 YouTubeにはほかにも、いまでも健在なスター名鑑のようなものもあり、往年の名俳優、大女優の現在の相貌を見ることができる。
 ただし往年の美人女優が、見る影もないご面相となっている写真まで遠慮なくさらされていて、あまり後味はよいと言えない。
 そういう意味で、引退後の原節子がけっして人前に出てこなかったのは賞賛に値する。
 スターは老醜をさらすべきではないのである。
 この名鑑を見ていちばんびっくりしたことは、カークダグラスがまだ健在だったことだ。
 1916年生まれとあるから、今年103歳なのである。


2020.1.30
  昨日は山間部が大雪、房総半島は大雨という予報だったから緊張して夜を迎えたが、思いの外軽くすんだ。
 夜中の2時過ぎまで、1時間おきぐらいに家のなかを見回り、雨漏れがないか点検していた。
 このところずっと、風が吹くたびにブルーシートがめくれたりずれたりして、雨漏りを起こしていたのだ.。
  最悪のときは、台所のガスコンロの上に雨が落ちてきたこともある。
 わが家、お隣とも、屋根はまだ、ブルーシートに覆われたままである。
 修繕を依頼した業者は、見積もりには来てくれたが、その後音沙汰なし。
 加入していた労災の火災保険には特約事項があって、風水害の場合でも、補修費の一部を補填してくれることになっていた。
 それで規則に従って見積書を提出したところ、そっちはさっさと保険金を出してくれた。
 全額ではなかったにしても、さすが労災、これはありがたかった。

 今週は千葉へ行く用があったので、千葉大病院の傍らにある『青葉の森公園』を散歩してきた。
 国立の旧畜産試験場の跡地をそっくり転用したもので、森あり、池あり、小山あり、旧街道まで残っていて、見事な公園に生まれ変わっている。
 訪れたのは二度目。
 季節が季節だから緑や花は少なかったが、気持ちよく散策してきた。
 市内の真ん中にあるせいか、ジョギングしたり散歩したりしている人もけっこう多かった。
 ただしここも、去年の台風15号で大きな被害を受けており、至るところ倒木が残されていた。




 梅林では梅が咲きはじめていた。

 バードウオッチャーにはうらやましい野鳥の観察小屋まであり、装備がそろっている。
 ニコンのフィールドスコープを前に30分ぐらいねばっていたが、アオサギ以外の鳥は現れなかった。
 かみさんが次回から千葉大病院へ行かなくなったので、残念ながらこの公園へ行く機会はもうない。


2020.1.22
 あっという間に20日過ぎてしまった。
 年が明けて、日々の時間がますます速くなった。
 毎日毎日あっという間に終わってしまう。
 その間なにをしているかというと、なにもしていない。
 週に数回買い物に行く以外、外出することもなくなった。
 あとはかみさんが病院へ行くときの、送り迎えをするくらい。
 その病院も、これまで千葉へ出かけていたのだが、それがだんだんつらくなってきたというので、今月を最後に、次回から地元の中央病院へ通うことに変えてもらった。
 買い物はいつもイオンモールへ出かけている。
 ここにはラウンジがあり、コーヒーやお茶がただで飲める。
 行くところがない年寄りにとっては、いい息抜きになっているのだ。
 天気がよいときはダム湖を1周する散歩に出かけているが、今年からコースをカット、これまで約7000歩だったのを5000歩あまりに短縮した。
 湖岸の縁を歩く遊歩道が静かで気持ちよいのだが、初めと終わりに、手すりのない剥き出しの階段がある。
 去年までは上がり下りできたその階段を、今年は怖いというので、かみさんが通れなくなったのだ。
 行動半径というか、日々の活動域が、すこしずつ狭まってきつつある。
 仕事も毎日数時間パソコンに向かっているものの、まだプロットづくりを延々とやっている段階で、いつになったら書き出せるか、まったく目途が立っていない。
 なぜ作家になってしまったのだろう。
 なぜ人生をきっちり計算できるものに、初めと終わりのある明快なものにしようとしなかったか、このごろ思わぬ日がない。
 だらだらとした日々を送ってきたことへの齟齬と悔いを、いまごろ思い知ったってもうどうにもならないのである。
  一度きりの人生を無駄遣いしてしまったという思いに、これからずっと苦しめられるのだろうか。


2020.1.6
  明けましておめでとうございます。
  なんの変わり栄えもしない新年でしたが、お天気に恵まれたせいもあって、穏やかで、明るい正月を迎えることができました。
 さて今年はどんな年になりますか。
 本年もよろしくお願いいたします。

 4日に、すぐ近くで、リスが目の前を横切った。
 木更津に来て、リスを見かけたのははじめて。こういう動物なら、現れてくれるのは大歓迎だ。
 出会いたくないのはイノシシ。
 それがますます跳梁跋扈するようになり、このごろはわが家の庭先へも現れはじめた。
 玄関前がミカン畑になっているおかげで、これまで生ゴミは、すべてここに穴を掘って埋めていた。
 それが最近、ときどき掘り返されるようになった。
 はじめはカラスの仕業だと思っていた。カラスもよく来て、いたずらをするからだ。
 それで年末に生ゴミを埋めたとき、埋めもどした跡へ剪定した木の枝を突き刺し、簡単にはほじくれないようにした。
 カラスの力では引き抜けない深さまで葉つきの枝を刺し、ようすを見ようと思ったのだ。
 2、3日はなにごともなかった。
 ところが正月2日の朝見てみたら、見事に掘り返されていた。
 カラスなもんか。こんなことができるのはイノシシしかいない。
 ミカンの皮とか、バナナの皮が散乱しているところを見ると、こういうものは見向きもしないようなのだ。
 わが家は市街地から房総半島の中心部へ延びる山塊の、端っこのほうに位置している。
 県道から入ってくる細い道は市道で、国土地理院が作成したいちばん古い木更津の地図にも記載されている古い街道だ。
 形態としては、標高80メートルぐらいの丘陵上の尾根道である。
 その道を、いまではわが家から200メートルぐらいしか、たどることができない。
 県道からだと約500メートル、人の往来が途絶えてしまったせいで、林の中で消えてしまったのだ。
 人家や畑が拓かれているのは丘陵の南側で、北斜面は手つかずの森、というより手入れを放棄されて荒れ果てた山林だ。
  幅にしたら100メートルくらいの細長い森だが、立ち入るものがないから、けものにとっては格好の棲家になっている。
 タヌキやウサギなら見たことがあるし、かみさんやせがれはシカも見かけている。
 それがいまではイノシシしか見かけない。いまや完全にイノシシに乗っ取られたようなのだ。
 スーパーで夜のバイトをしているせがれが、いつも12時前後に帰ってくる。
 その時分になるともうイノシシの天下、ほとんど毎晩のように見かけている。
 子供を連れた、つまりうり坊を引き連れた5、6頭のイノシシ一家を見かけたのが半年くらい前だった。
 それが大晦日の夜、県道からわが家まで200メートルほど帰ってくる間に、なんと3組ものイノシシ群と出くわしたそうだ。3箇所で3組のイノシシということだ。
 この道沿いには5軒の人家しかなく、人間は全部合わせても14人しか住んでいない。
 人間の数より、イノシシのほうがはるかに多くなっているのである。
 せがれはこれまで、バイトにバイクで出かけていたのだが、これにはさすがに怖くなったとかで、今月からはとうとう車で行きはじめた。
 われわれ老人は、昼間でも恐ろしくて、うっかり外へ出られなくなった。




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