Shimizu Tatsuo Memorandum

トップページへ                 著作・新刊案内
きのうの話      

Archive 2002年から2019年9月までの「きのうの話」目次へ

 

2019.9.19
 台風15号の襲撃を受けて9日たった。
 前回のウェブを見た多くの人々から、お見舞いや励ましのメールをいただいた。
 罹災者のような立場になったのははじめてのことなのだが、みなさんの温かいことばがこれほどうれしく、ありがたいものだったとは、いただいてみるまでわからなかった。
 あらためて心からお礼を申し上げます。まことにありがとうございました。
 おかげさまですっかりもとの暮らしを取りもどし、いまではなんの支障もない生活にもどっております。
 まだ復旧していない地域があることを考えると、停電3日ですんだわが家などはるかに幸運だった、と不幸中の幸いを噛みしめている。

 いつも買い物に出かけているイオンの駐車場の写真からお目にかけよう。
 全国の電力会社から応援に駆けつけてきてくれている作業車の列である。車にして数百台、人員にして1000をはるかに超える人たちが、いまも千葉で働いてくれているのだ。

 かんかん照りの駐車場が、テント村になっているのを見たときは目を疑った。
 この人たちが、まさかこういうところで寝起きしていようとは思いもしなかったのだ。
 まさにお礼のことばもない。ただただ感謝するばかりである。

 こちらは瓦の剥がれたわが家の屋根。ベランダから写したもので、これ以上は身を乗り出せなかった。
 この屋根を見ただけで、自分にはもう無理だと、上がるのはあきらめた。
 従ってブルーシートは、せがれがひとりで掛けてくれた。
 ほかにも何カ所か剥がれたりずれたりしたところがあり、そこは小さなシートをかぶせ、とりあえずテープで留めた。
 応急処置だからどこまで保ってくれるか。
 せがれによると、屋根の至るところが、歩くとぼこぼこ音がするぐらい、瓦が緩んだり、ずれたりしているという。
 つぎの台風がやって来たらどうなるか、あまり想像したくない。

 残骸を撤去したあとのウメの木。向こうで横倒しになっているのがアマナツ。
 アマナツは根が残り、まだ生きているので、今年はこのまま実らせてやろうと思っている。
 樹勢を取りもどしたら、独りでに立ち上がってくれるとありがたいのだけれど。

 なぜかロウバイの葉が半枯れ状態になってしまった。後にあるハクモクレンの葉も、明らかにおかしい。
 考えられることとしたら、潮風に痛めつけられたかとしか思えないのだが、太平洋岸からは40キロも隔たっているのだ。
 周辺の林を見ても、潮風にやられたとしか思えない葉の黄ばんだ木がたくさんある。

 家のすぐ前の林。広葉樹がこれほどへし折られたというのは、並の風でなかったことの証明だろう。
 持ち主はどこのだれなのか、知っている人がいない林なのだ。

 こちらの林もずたずた、隙間だらけになってしまった。
 西隣の家の向こうは防風林になっており、この木立がもうすこし空いてくれると、わが家から富士がばっちり望めるのだが、風の方向がちがったせいで、こちらは無傷だった。

 次男坊が都内から駆けつけてきてくれ、1日倒木の片づけなどやってくれた。
 わたしはなんの役にも立っていない。情けないことに、いまの体力では戸外の作業などできそうにないからだ。
 さいわいにも、そういうわがままが許されている。
 屋根から転落するお年寄りが出るたび、人手のない老人家庭が気の毒でならない。

 今回の被害が大きくなったのは、初動対策が遅れたこともたしかだが、なによりも大元は、すべての人の台風に対する認識が甘かったことに尽きる。
 台風慣れしているわたしたちでさえ、台風が来るからというので買い物に行き、多めの食料は買い込んだものの、それ以上のことは考えなかったのだ。
 停電になって冷蔵庫の食いものがどんどん汗をかきはじめたのを見て、いかに迂闊だったかはじめて愕然としたのだった。
 さいわい懐中電灯やろうそくなど最低限のものはそろっていたし、川崎まで行って氷を買ってきたせいで食品ロスは少なくすんだ。
 いちばんあわてたのは、停電がつづいて携帯やWi-Fiのバッテリーが少なくなってきてからだ。
 車のシガーソケットから電源を取ったら簡単に充電できたはずだが、その備えがなかったし、そのときは気がつきもしなかった。
 ガスボンベで使用できる充電器もあると知ったのは、すべてあとからだ。
 あと、不時の災害に備え絶対に必要だと痛感したのは水タンクだ。
 ふだんから水タンクに水を入れて保存しておく習慣を、基本的な暮らしの知恵として身につけておくべきだろう。

 この日本で生きている限り、だれもが生涯に一度くらいは、思いもよらない災害によって罹災者になるかもしれない可能性が、あると覚悟するべきである。
 すでに天候が、これまでとはまったくちがうものになってしまった。
 雨の降り方、日射しの強さ、風の強さ、いままでの経験が役に立たなくなっている。
 台風の強さも、コースも変わってしまった。
 異状気象が常態になってきたのだ。
 大地震も必ず来る。
 そのときにまごつかないよう、最低限の備えはしておくべきだろう。


2019.9.13
 台風15号の直撃を受けてひどい目に遭った。
 わたしもかみさんも高知の出身、台風には慣れていたはずなのに、これまでの経験が通用しなかったくらい強力な台風だった。
 家ごと吹き飛ばされそうな強い突風に繰り返し襲われ、とても眠るどころではなかった。
 台風が横須賀付近を北上しはじめた午前3時過ぎには、とうとう停電してしまった。
 ラジカセは1台あり、ふだんかみさんが電源コードで使っていたから、乾電池を入れて切り替えようとしたのだが、なぜか鳴らない。どうやっても音が出ないのだ。
 パソコンは内蔵バッテリーでまだ動くものの、電源がストップしてはネットが使えない。試しにWi・Fiのスイッチを入れてみたら、これは問題なく使えた。
 それで以後の台風の動きを知ることができ、未明に千葉付近へ上陸したこともわかった。千葉で57メートル、木更津で49メートルの風が吹いたのもそのころのことだ。
 しかしWi・Fiのバッテリー残量が減り、30パーセント台になってしまうと怖くて使えなくなった。非常用に残しておかなければならないからだ。
 あとはひたすら、夜が明けるのを待つしかない。
 一度雨戸をわずかに開け、懐中電灯で庭をのぞいて見た。
 すると見たことのない白いものが庭じゅうに散らばっていた。はじめはなんなのか、よくわからなかった。
 やっと、庭先に据えてあったプレハブ小屋が木っ端微塵になっているのだとわかった。
 スチールサッシをはめた6畳大の建物で、前の住人が農作業の合間の休憩用に使っていたらしい。造りがしっかりしていたから取り払わず、せがれが私物の収納部屋として使っていた。
 それが跡形もなく吹っ飛んでいた。いったいどういう風が吹いたら、あれほど粉々になってしまうのか、それだけでも想像を超えた風であったことがわかる。
 夜が明るくなってくるにつれ、ほかの状況も明らかになってきた。
 隣家の屋根瓦が剥がれ、棟瓦がほとんどなくなっている。割れた破片が、わが家の塀の下に足の踏み場もないくらい散乱していた。
 わが家の軒下にもなにか落ちている。割れた瓦だ。
 あわてて庭へ出てみた。たちまちずぶ濡れになった。叩きつけるような雨なのだ。
 まちがいなく屋根瓦が落ちていた。だが雨が強すぎ、屋根を見上げることができない。
 おどろいたことに、玄関前の梅の木と甘夏が横倒しになっていた。
 梅は直径30センチもある幹が根元でぼっきり折れている。
 さらに10メートル近くあるツバキの大木も倒れている。
 7時半になるとようやく雨が小降りになり、被害状況を詳細に見ることができるようなった。
 落ちた瓦は4、5枚だったが、屋根の上では20枚以上が剥がれていた。瓦の下に張ってある野地板が、畳1枚分らい剥き出しになっていたのだ。
 これで漏れなかったはずはないと思ったが、そのときは気づかなかった。夕方になって、雨漏りしていたことがわかった。台所の土間の上だったから気づかなかったもので、さいわいにも居住部分は免れていた。
 去年から実をつけはじめた新種のミカンの木も押し倒された。
 門脇のしだれ桜も倒れていた。
 このミカンとしだれ桜とは、ほかの木や建物に取り囲まれ、それほど強い風が当たるところではなかったはずだが、よけいに風が渦巻いたのだろうか。柑橘類がこれほど風に弱いとは知らなかった。
 いちばんショックだったのは、今年からようやく実がなりはじめ、来年こそと期待していたビワの木が真ふたつにへし折られていたことだ。これでわたしが植えたビワは3本とも全滅した。
 栗林もいたるところ木が裂け、実はすべてと言っていいほど落ちていた。あと10日もすれば、収穫できるくらい大きくなっていたのに、そういえば一昨年も、肝心な時期に来た台風で9割方だめにされた。
 わが家は丘陵の上にあるせいで、風がことのほか強い。行き止まりになっている道沿いに5軒の家が並んでいるのだが、今回はすべての家が、屋根瓦が剥がれたり、トタン屋根が飛んだり、ビニールハウスが潰れたり、大きな被害を受けた。
 周辺の森の木々も無事ではなかった。高さが20メートルもある木立がへし折られてずたずたになっており、鬱蒼としていた森がところによってはすかすかになっていた。
 日が高くなるにつれ、猛烈な暑さになった。クーラーも扇風機もないのだから、目が廻りそうだ。
 昼12時のニュースは車のラジオで聞いた。
 昼すぎから市の無線放送がはじまり、停電が長引くようだと、水道も断水するかもしれないと言いはじめた。
 それであわててポリタンクに水を溜め、風呂場の湯船を水で一杯にした。
 携帯ラジオがないのは不便だ。それでラジオと氷、少ない水で炊ける無洗米を買いに行った。
 道路がふだんの数倍もの車で渋滞していた。交差点の信号が点っていない。
 車の行列が延々と連なっていた。給油するためにガソリンスタンドへ押しかけてきた車だった。
 停電のときでも対応できるガソリンスタンドは少ないのだと、そのときはじめて知った。
 運がよいことに、わたしは前日、給油して満タンにしていた。
 電気量販店に行くと、カウンターに行列ができていた。見ると、懐中電灯、乾電池、携帯コンロなど、いかにもそれらしい買い物をしている。いまごろなんだよ、と言いたくなるが、こちらだって携帯ラジオを買いに来たのだから似たようなものだ。
 スーパーに寄ったら超満員。食品、総菜、パン、麺類の棚などすべて空っぽ。むろん氷なんかあるわけがない。なにも買わずに引き揚げた。
 その夜はろうそくの灯の下でめしを食った。70年前の、空襲警報の記憶を思い出した。
 めしを食ったら、することがなかった。
 8時に寝たら、11時に目が醒めた。
 スモッグが洗い流され、その夜は満月並みに明るかった。まだ10日月と、真円にはほど遠かったのだが、それにしては明るかったこと。久しぶりに静かな夜を過ごした。
 と、ここまではまだ、きれい事ですんでいた。それは、明日になれば停電も解消し、いつもの暮らしがもどってくると思っていたからだ。
 2日目が明け、ニュースで、今回の被害状況がだんだん明らかになってきた。予想外のひどさだ。しかも被害はこの先、さらに増えそうだという。
 隣にある君津市の送電線鉄塔が2本も倒れ、復旧の見通しはまったく立っていないという。
 2階にあるわたしの部屋から、森の木々越に2つ、送電線の鉄塔が見える。
 そのうちのひとつが、気がついてみると見えなくなっていた。最近は注意して見てなかったから確信的なことは言えなかったが、倒れた鉄塔というのは、あるいはそれかもしれないと思った。
 その日月曜日は、都内へ行く用があった。べつにその日でなくてもよかったのだが、無理して出かけることにした。
 要するにこの暑さから逃れたかったのだ。そして多摩の家へ行き、パソコンとWi・Fiの充電をしたかった。
 アクアラインがその日から開通したので、せがれに川崎まで送ってもらい、そこから都内へ向かった。
 なぜ川崎かというと、木更津では手に入らなくなった氷を買いに行ったのだ。家庭用のクーラーボックスだから半日しか持たなかったらしいが、溶けはじめた冷蔵庫の食品にとっては貴重な冷却剤になってくれたという。
 都内へ入ると、房総でなにか起こっているのか、まったく関係がないような、ちがう国へやって来たような気がしてならなかった。動いている時間がちがうのだ。台風の痕跡などどこにも残っていないのである。
 用をすませ、多摩に行って機器の充電をはじめ、ようやくほっとした。
 その日はもう帰れなかったから、多摩で1泊した。
 ところが翌日になっても、状況はいっこう改善されていなかった。千葉県内だけでまだ60万戸以上停電していたのだ。
 かみさんに電話してその後のようすを聞きたかったが、携帯の電池残量を考えたら、かけることすらためらわれた。
 とにかくネットで知る限り、停電以上に断水がひろがり、多くの人が難渋しているようなのだ。それなのに世のなかの大勢は、まったく気づいていないか、知らん顔をして、放置しているとしか思えない。
 ニュースを見ても、内閣改造とか、どこかの国の政治スキャンダルとかばかり取り上げ、首都圏にいまこれだけ多くの人が困っていることなど、まるで話題になっていない。千葉県民でないわたしですら、義憤に駆られて腹が立ってたまらなかった。
 昼すぎになると、今日じゅうの復旧はむずかしいとわかってきた。今日はおろか、13日以後までかかるかもしれないという。
 それでわたしも帰るのを断念した。
 せめてかみさんだけでも、多摩へ呼んでやろうと思った。ところがうんと言わない。主婦としては、冷蔵庫にある食いものをどう処分するか、それが気になって、逃げることなどできそうもないというのだ。
 ネットに、君津で倒れたというもう1本の鉄柱の写真が出てきた。倒れた鉄柱と、その傍らにある展望台が写っていた。
 わたしがひょっとしたら、と考えていたまさにその鉄柱だったのである。
 自宅から車で10分ほど行ったところに「かずさアカデミアパーク」という工業団地がある。
 その外れに展望台があって、上まであがると富士がよく見えるというから、一度上がってみたことがある。
 富士はよく見えたものの、鉄柱と垂れ下がった送電線が邪魔をして、写真を撮る気にもなれない残念な絶景ポイントだった。
 あの鉄塔が倒れ、それが地域のための送電線であったというからには、下手をすると、わが家周辺の復旧はいちばんあとになってしまうかもしれない。
 自分ひとり多摩へ逃げ、冷房のある部屋でのうのうと過ごしているのが、うしろめたくてすこしも快適でなかった。かといって30度を超える暑さの中へ、のこのこ帰る気にもなれない。
 いつまでこの状態がつづくのか、困り果てて、昨夜もうじうじと過ごしていた。
 すると12時をだいぶ過ぎてから、せがれよりメールが入ってきた。見ると「電気がついた」と信じられないことばが書いてある。
 せがれも暑くて眠れなかったので、エンジンをかけた車の中でうつらうつらしていたそうだ。すると夜中のそんな時分に、人っ子ひとり通らない前の山道に人が現れ、なにかしはじめた。
 復旧工事に来てくれた人たちだったのだ。
 そのおかげで、ほとんど3日ぶり、約70時間ぶりに電気がもどってきたのだった。
 うちの地区と隣接したところに、4、5軒家がある。距離は近いのだが、交流はない。行政区域がちがうからだ。
 しかし電気の送電線は同じなのか、その地域からわが家の方へ延びているらしい。つまり電線は5軒だけ、そちらの方に組み込まれているのだ。
 そちらは市街から延びてきた送電線の末端に当たっており、その線が先に復旧したため、わが家もその恩恵にあずかれたというわけだった。
 それにしても夜は猪が跳梁するこんなところまで入って来て、夜遅くまで復旧工事をしてくれた人たちに、なんとお礼を申し上げたらよいか、ここは声を大にしてありがとうございましたと言っておきたい。
 そういえば木更津の海岸にあるイオンの駐車場が、復旧工事のためやって来た人たちの集結地になっているそうで、全国の電力会社から応援に駆けつけてきた作業車がずらっと並んでいたと聞いた。その人たちの不眠不休の努力のおかげで、わたしたちの暮らしが元にもどれたのだった。
 停電が復旧したため、わたしも今日、3日ぶりに自宅へ帰ってきた。
 被害の後片づけは、まだなにも手をつけておらず、屋根にはブルーシートすら張っていない。
 すべて明日からである。
 今回の台風禍では多くのことを学んだ。
 月並みだが、備えあれば、ということばにすべて尽きるのである。


2019.9.6
 せがれが百姓をしているので、シーズンになると同じ野菜を延々と食わされる。
 いまはプチトマトである。
 シーズンが終わってもう出荷はしていないのだが、畑にはまだうんざりするほど残っている。
 形がいびつだったり、ひびが入ったりしているから、売りもののにならないのだ。
 それを家族が食わされるのである。
 とはいえサラダに5つ6つ付け合わせたくらいでは、とても追っつかない。
 とにかくトマト丼のような、大量にどかっと消費できる料理はないかネットで探してみたら、けっこう出ている。
 ひとつ面白そうなものがあったから、早速試してみた。
 プチトマトがふんだんに入った親子丼である。
 レシピはあるのだが、トマトが多すぎるから、あんまり参考にならない。
 ほとんど自己流、成り行きまかせの味つけとなる。
 材料はタマネギと鶏、ひとり当たり20個ぐらいのプチトマト。
 コンソメで味をつけ、卵とピザ用チーズでとじてみた。
 結果は、全然うまくなかった。
 親子丼にコンソメは合わない。
 火を通す料理だから食あたりするような代物にはならなかったが、はっきり言って激まず、亭主の面目はおおいに失墜した。
 それから1週間、トマトに急かされて、また昨夜挑戦してみた。
 今回つくったのは豚丼。
 材料は豚こま、しめじ、エリンギ、茄子、それにプチトマト。
 トマト入り野菜炒めの卵とじのようなものだ。
 味つけの基本は鶏ガラの粉末スープ、それに少量の塩、胡椒、醤油、ごま油、刻んだショウガなど、思いついたものを手当たり加えた。
 材料をじっくり炒め、慎重に調理して、卵が固まりすぎないよう細心の注意を払った。
 おかげで、まあ食えるものができた。
 しかし丼に山盛りしたプチトマトの湯剥きは思いの外面倒だった。
 さて来週はなにをつくろうか。


2019.8.25
 電子レンジが毀れたらしく、突然動かなくなった。
 出力500ワットだから、はるか大昔のものだ。もともとわたしが、池袋の仕事場で使っていたものではないだろうか。
 それをせがれにやり、回り回って、木更津でまた自分が使う羽目になっていたわけ。
 チンする機能しかなかったとはいえ、長い間よく働いてくれたものだ。
 そういえば洗濯機も最近調子がよくないというが、これも10年以上使っている。わが家の家電はみな長命なのである。
 毀れた以上、あたらしいものを買うしかない。それで早速電気屋に行った。
 そしたら世のなかの進歩から取り残された年寄りは、とても手が出せないような製品ばかり並んでいた。
 オーブンレンジなど、われわれの暮らしに必要だとはとても思えないのだ。
 結局いちばん安く、温める機能しかない、もとと同じタイプのものを買ってきた。
 その翌日、かみさんとせがれが使っているデスクトップパソコンがおかしくなった。
 階下に置いてあるWindows8である。
 一応使えるのだけど、ウエブによっては接続できなくなったという。
 おやじとしてはどれどれと、格好をつけて手を出さざるをえない。
 とはいえわたしのできることなど、いくらもないのだ。
 最後はシステムの回復機能を使い、何日か前にもどすくらいのことしかできなかった。
 それでも全然よくならない。
 となると、あとはWindows10へバージョンアップしてみるしかない。
 無償更新期間は終わっていると思ったが、調べてみるとまだ無料でできるという。
 それで、だめもと、すぐさまやってみた。
 ずいぶん時間がかかった。まる半日かかったのである。
 しかしなんとかできて、ウエブにもめでたく接続できるようになった。
 おやじとしてはなんとか面目を施したわけだが、よくよく見ると、ホームページのYahoo JAPANの画面が微妙にどこかちがう。
 ツールバーがないのだった。
 ツールバーがないと、使い勝手がまったくちがう。
 それでこれを復活させたのだが、その手続きにずいぶん手こずり、また長時間を費やした。
 結果を言ってみると至極簡単、インターネットエクスプローラーの画面で、ヤフーを表示させたらよかったのだった。
 とにかく最初から最後まで、人の手を借りずに処理したのは初めてだ。
 上出来といえば上出来だが、お助けマンを呼んだら、あっという間にできたことはたしか。
 そのための費用を高いと思うか、安いと思うか、人によって意見はちがうだろうが、自分のパソコンだったらこれほどねちねちやらなかったことは疑いない。
 おやじの権威を維持しようと思えば、それなりの努力をしなければならないということだった。


2019.8.17
 どうやら台風も通り過ぎてくれたようで、大きな被害もなくてなによりだった。
 千葉は風雨ともきわめて控え目、とくに雨はお湿り程度しか降らず、台風が大好きなわたしとしてはだいぶ不満だった。
 今日糖尿病の定期検診に行ってきた。
 経過は良好、数値も安定し、まずは大過なしということになった。
 一方で昨日は、夕食のときお椀を運ぼうとして手に持った途端、手ががたがた震え、かみさんが見てえっとばかりびっくりした。
 かみさんはずっとまえから、手が震えていたのである。
 あぶなかしくて見てられないから、飲み物類を運ぶときは手を貸している。
 そのわたしの手が同じように震えはじめたから、びっくりしたわけだ。
 じつは今回がはじめてということでもなかった。かみさんの前で出たのがはじめてだったのだ。
 かみさんは昨日もスーパーで転んだ。
 平坦な床を歩いていて転んだもので、すぐには立てないから、もたもたしていたらふたり助けてくれたそうだ。
 順調にというか、ふたりとも、確実に衰えてきている。
 このごっろはまったくウォーキングにも行かない。
 毎日の運動も、いまはせいぜい15分、肩甲骨剥がし体操と、片足立ち、スクワットの3つだけである。
 肩甲骨剥がしというのはいわゆるマエケン体操のことだが、これをやると体のバランスが格段によくなるから、ずっとつづけている。
 片足立ちは前から得意で、片足で1分立つのは、とくに努力しなくてもできていた。
 それが今年の春、久しぶりにやってみたら、あっという間にできなくなっていた。
 片足30秒と立っていることができない。
 それで愕然として再開、いまはまたできるようになっているが、油断したらときどき失敗する。
 体力が落ちるときは、それこそあっという間なのである。
 スクワットだけはずっとつづけている。
 これも1日休むと、スーパーに行って階段を上がったとき、確実にわかるからだ。
 あといくつかやりたい運動もあるのだが、やるのは夜中なので、どたばたしたら、下で寝ている家族に迷惑だ。
 昼間やればいいのに、なぜか昼間はできないのである。
 それはそうと、この夏も熱中症が話題だ。
 この熱中症による死に方、言い方を変えたら、いちばん手軽な安楽死ではないか、とこのごろしょっちゅうかみさんと話している。
 それまでぴんぴんしていた人間が、わずか数時間で、あっという間に死ねるのだから、死に方としては、こんなにありがたい最期もない。
 これが意識的に取り入れられる風潮ができてしまうと、国としては困るかもしれないが、メカニズムだけはきちんと解明してもらいたい。
 つまりどうしたら、もっとも楽な熱中症で死ねるか、その方法を究明することは、医療費の節約と国民の福祉にものすごい貢献をするはずだ。
 大っぴらに論議されては困る、ということであえば、新聞やテレビで取り上げなければよい。
 知りたい人はネットで知る。
 だれも言わないみたいだから、この際あえて声を上げさせてもらう。


2019.8.8
 異様な暑さで頭の方まで狂ってしまい、毎日のように信じられないミスを犯している。
 昨日は買ったはずの米を、スーパーに置き忘れてしまった。
 夕方になって、お米はどこへしまってくれたのと聞かれ、はじめて思い出した。
 聞かれるまで完全に忘れていた。
 支払いの終わった品物をかみさんから受け取り、ロッカーへ運んで行ったのはわたしだ。
 そのとき米の5キロ袋を、カートの下段に載せたことははっきり覚えている。
 それから先が、まったく記憶にない。
 米をほかの買い物と一緒に、ロッカーへ入れた記憶がないのだ。
 カートをもどしに行ったとき、米袋が引っかかってコーナーにきちんと納まらなかったはずなのに、その記憶すらない。
 ろくに注意も払わずカートをもどし、引っかかったことにも気がつかず、そのまま放置したようなのだ。
 あわててスーパーに電話したところ、親切な人が見つけてくれたようで、遺失物として保管されていた。
 それで夕方受け取りに行って事なきをえたのだが、その記憶も去りやらぬ今日、またつぎの失敗をやらかした。
 かみさんが定期検診を受ける日だったので、朝方駅まで送って行った。
 いつもはせがれがやってくれるのだが、今日はいなかったのだ。
 そういうときはわたしがアッシー君をつとめるわけで、駅まで送り届けてしまうと、あと半日はだれもいない自由時間となる。
 それでまずコメダに行ってモーニングコーヒーを楽しみ、そのあとスーパーや量販店を回っていくつか買い物をした。
 わが家にもどってきたのは昼前。
 そしてはじめて気がついた。
 家のなかに入る玄関のキーを持っていなかったのだ。
 いつもふたりで出かけているから、なんとなく役割分担が決まっしまい、施錠するのはかみさん、帰ってきて開けるのもかみさん、それに慣れきって、自分では鍵を持ったことがなかったのだ。
 目の前でかみさんが鍵を閉めるのを見ていながら、なんとも思わなかったのである。
 念のため、玄関や窓をがたがたやってみたが、もちろん開くわけはない。
 かみさんが帰ってくるまで、35度の炎天下で過ごさなければならなくなってしまった。
 とりあえず木陰に車を止め、車に水をかけて車体を冷やし、しばらくその中で過ごしていた。
 しかし1時を過ぎたら腹が減ってきた。
 それでまたスーパーへ出かけ、フードコートで昼めしを食った。
 以後は涼しいスーパーのなかから出ることができず、かみさんが帰ってくるのをひたすら待っていた。
 結局朝8時に家を出て、帰ってきたのは午後5時、9時間ぶりのわが家となった。
 決まりきった習慣に慣れすぎ、ほかのことにまったく思い及ばなくなった自分の退化度を、いやというほど思い知らされた。
 こういうミスがだんだん増えてきている。
 車に乗っていてもひやっとすることが多くなった。
 自分に引導を渡すべきときがそろそろ近づいてきたようである。


2019.8.3
 昨日まで冷房を我慢していた。
 クーラーのスイッチを入れたが最後、今度は止められなくなり、24時間冷房漬けになってしまうとわかっているから、これまでなんとか我慢していたのだ。
 振り返ってみると、わたしたちの人生には、ほんのこないだまで、冷房なんてなかった。
 それこそ職場でも、都心の超一流企業でもない限り、冷房のあるところは少なかった。
 夏は暑いのが当たり前、それをなんとかやりすごしながらしのいできた。
 働いていた職場でも、深夜になると女性がいなくなるから、そうなるとパンツ1枚という格好になって、暑さを紛らわしていた。
 だいたいが南で育った人間なので、寒さはともかく、暑いのはまだ我慢できるほうなのだ。
 うだるような真夏の昼下がり、なにをする気力もなく、だらーっとして、ぼんやりと外をながめている、というのはそれほど嫌いではないのである。
 そのとき決まって思い出すのが、小津安二郎の映画『東京物語』のラストシーンだ。
 尾道に住んでいる笠智衆、東山千栄子の老夫婦が、東京へ行ってわが子や、戦死した息子の妻原節子らと会う。
 そのとき、もっとも親身にふたりの世話をしてくれたのは、実の子ではなく嫁の節子だった。
 東京から帰ってくると、それですべきことは果たしたとばかり妻が急逝する。
 息子や娘が尾道へ帰ってきてくれるが、そのときも、最後まで居残ってくれたのは息子の嫁だった。
 笠は感謝し「もういいから、あなたもこれからは自分のために生きなさい」と言って妻の形見の時計をもらってもらう。
 その嫁が昼の列車で尾道を去る。
 その汽笛。
 窓の外にはいつもと変わらぬ夏の日射し。
 声をかけてきた隣人に「日が長くうなっていけませんなあ」と応えるのが最後のせりふだったように記憶している。
 夏の昼下がりというと、いつもこのシーンを思い出してしまうのである。


2019.7.25
 ようやく梅雨が明けたらしい今日、久しぶりに多摩へやって来た。
 今回は1ヶ月半ぶり、少々間が空いたせいもあって、来てみると草ぼうぼう、見るからに空き家然と荒れ果てていた。
 週末までに草むしりをしなければならない、と考えただけでげんなりしてくる。
 給湯器が冬期の凍結で使えなくなり、シャワーもできなくなったから、今回は行水ですませている。
 さらに給湯器の故障が原因で電源のブレーカーが勝手に落ちはじめ、対策が見つかるまで冷蔵庫も安心して使えなかった。
 対策といっても引き揚げてくるとき、冷蔵庫のある台所の電源だけONにして、ほかはすべてOFFにしておくだけのこと。
 これでやっと留守中も、冷蔵庫が止まらずに動いてくれるようになった。
 しかし冷蔵庫に、安心して冷凍食品を残しておけることが、こんなにありがたいものだとは思わなかったなあ。
 あれやこれやで、さすがにこの家にも愛想が尽き、近く処分しようという気になっていた。
 ただそうなると、この先どこに住むかが問題になってくる。
 いまはただの、せがれのところの寄宿人。
 勝手に押しかけてきたよそ者だからご近所とのつき合いもなく、その分目障りにならないよう、ひっそりと暮らしている居候だ。
 年寄り夫婦が静かに余生を過ごすところとしては悪くない、とばかり思っていた。
 ところが地元には昔ながらの習慣が残っており、とくに葬祭が念入りに行われているとわかってきた。
 どなたかお年寄りが亡くなると、各戸からひとり男衆が手伝いに行く。
 お通夜ばかりか、本葬にも立ち合って火葬場までついて行く、というからびっくりした。
 家族葬でひっそりと、というわけにはいかないらしいのである。
 われわれとしても、死んだときだけ見も知らぬ人たちに迷惑をかけるというのはなんとしても心苦しい。
 とすると、いずれ都内にもどらなければならなくなりそうだ。
 ということで、このぼろ家もまだ、すぐ手放すわけにはいかなくなったようなのである。


2019.7.18
 初稿ゲラの校閲がようやく終わった。
 雨天つづきだったお天気も久しぶりに回復し、今日は半日ぐらい日が射した。
 7月に入って最長の日照時間だったそうである。
 一息ついたのと、先日少量試作したヤマモモソースがなくなったから、今日は本格的につくろうと思った。
 ところが木の下まで行ってみたところ、実がまったく落ちていない。
 おかしいなと思って双眼鏡でのぞいてみたところ、あれほどたくさんあった実が、きれいさっぱりなくなっていた。
 それこそ見事なまでぜろになっている。
 そういえば、二階の仕事部屋からでもわかるくらい連日大騒ぎしていたヒヨドリを、このところ全然見かけなくなっていた。
 どうやらあの連中が根こそぎ食い尽してしまったようなのだ。
 おまいら、あの実を全部食っちゃったのか、と人間さまは唖然として、憤懣やるかたない。
 そういえばヤマモモの木と向かい合わせのところに、クロガネモチの木があって、秋になるとナンテンに似た赤い実を鈴なりにつける。
 人間は食えない実だが、小鳥は大好物、とくにヒヨドリが群れをなしてやって来る。
 まさかこれほどの実を全部食い尽くしはしないだろうと思っていたところ、とんでもない、1、2週間で一粒もあまさず食ってしまった。
 ヤマモモも、はじめのうちはそれほど跳梁跋扈している感じではなかったのだが、あれはまだ、実が熟していなかったからだったのだ。
 これで来年から、わが家のヤマモモはヒヨドリと人間との、早い者勝ちの食い尽くし競争になってしまいそうである。


2019.7.10
 週末につぎの本の初校ゲラが出て、今週はそれにかかりきりだ。
 秋に刊行ということで、書き上げたときはずいぶん先のことだと思っていたが、もう7月、全然余裕はなかった。
 とくに今回の作品は、題材、舞台が特殊なので、校正に手間がかかる。
 最終校了までには、まだ何度も手直しが必要になるだろう。

 先週ご紹介したヤマモモでジャムをつくってみた。
 木が大きいから、登ってもぐことはできない。
 木の下に何枚か板を並べ、落ちてきた実だけを拾って、とりあえず試作してみたもの。
 初めて成った実だからか、粒は小さいし、水分も少なく、どちらかといえばぱさぱさ。
 生で食ったら、お世辞にもうまいとは言えない実なのである。
 男の手慰みだから、裏ごしみたいな手間のかかることは一切しない。
 砂糖で煮詰めて、レモン汁を振りかけるとできあがりだ。
 ヨーグルトに入れるだけなら、これで十分、種ごとしゃぶって、あとは吐き出す。
 できあがりは上等、いつものことながら、じつにいい色が出た。
 味覚はヤマモモ特有の酸味が絶妙、しみじみとうまいソースである。


2019.7.2
 納屋の前に大きなヤマモモの木がある。

 元からあった木だが、残念ながら雄の木なので、実はならない。実がなるのは雌の木なのだ。
 この家に越してきたとき、コナツやブンタンと一緒に、ヤマモモの雌の木を植えた。
 ヤマモモと言っても関東以北の人には馴染みがないと思うが、西日本ではそこら中に自生しているありふれた常緑樹である。
 母の実家の庭にも大きなヤマモモの木があり、毎年楽しみに実を取りに行っていた。
 わたしにとっては、最初に擦り込まれた初夏の味覚なのだ。
 高知はだいたいヤマモモをよく食うところで、シーズンになるとスーパーの店頭に品物が並ぶ。
 それをいつも妹に送ってもらい、ヨーグルトソースをつくっていた。
 ヤマモモの甘酸っぱさが、ヨーグルトとじつによく合うのだ。しかも目の醒めるような鮮紅色、夏の最大の楽しみだった。
 そのヤマモモがだんだん手に入らなくなった。
 いまどきの果物ではないし、第一日持ちしない。
 だから市場価値が低く、田舎でもいまやマイナーな果実となって、近ごろはスーパーにもほとんど並ばなくなってしまったとか。
 しかし樹木としては手がかからず、公害に強いこともあって、街路樹によく植えられている。
 街路樹は雄の木ばかりだから実はならないのだが、まれに雌の木が混じっていることもあって、ときどき実のなった木を見かけることがある。
 30年住んだ池袋の団地の前の街路に、雌のヤマモモの街路樹があった。
 毎年夏になると律儀に実をつけるのだが、車道脇の木だからとても食えない。
 熟して赤くなると、実は落ちる。
 それを車が無残に踏んづけて通ると、道路が血を流したように赤く染まり、見るたびに痛ましい、申し訳ないような気持ちになったものだ。
 東京湾に近い晴海にも、とびきり大きなヤマモモの街路樹があって、ここも毎年真っ赤になった。

 雌の木1本だけでも、やはり実はならないのだ。
 実をならせようと思ったら、雄と雌の木が必要なのである。
 それでこの家に来るとすぐ、雄の木の近くに雌の木を植えたのだが、6年たってやっと2メートルぐらい、成長が遅々として遅い。
 まだ花も咲かない若木だとばかり思っていた。
 ところがこないだから、木の下を通るたび、ビー玉くらいの未熟な実が落ちている。
 これまで見たことない堅い実だから、はじめのうちはなんだかよくわからなかった。
 ほんの数日前だ。未熟な実に混じって、赤い実が落ちていたことに気がついたのは。
 手に取ってみると、まちがいなくヤマモモの実だ。
 雄だとばかり思っていた木が、今年から実をつけはじめていたのである。
 それであわてて調べてみた。
 ヤマモモは雌雄異株とある。
 つまり雄と雌の木に分かれ、両方の木がそろわないと、実がならないのはまちがいないらしい。
 ということは、これまで雄だと思っていた木がじつは雌で、1本しかなかったから、それで実がならなかったということだったのか。
 わたしが植えたのは栽培された苗木だが、最近の栽培樹は、雄雌が1本の幹に接ぎ木してあるため、単独でも実ることがあるという。
 要するにわたしの植えた2本目が呼び水となって、これまで実をつけなかった木が結実しはじめた、ということのようなのだ。

 見上げてみたら、梢にいっぱい実がついていた。
 これで来年から、ヤマモモソースでヨーグルトがたらふく食えるぞと、ただいま大変ご機嫌なのである。




「きのうの話」目次へ



志水辰夫公式ホームページ