Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2017年12月までの「きのうの話」目次へ

 

2017.12.30
 この数年ずっとパソコンに書いていた日記を、来年から手書きの日記帳へ切り替える。デジタルからアナログにもどすわけだ。
 キーボードで打ってファイルに収納する方法はいちばん手軽で簡単なのだが、ただ保存するだけではほとんど役に立たない。
 年を取ってくると、備忘録としての日記の重要性が若いころより増してくる。
 なにか思い出したり、たしかめたくなったりしたとき、いちばん頼りになるのが日記帳なのだ。
 それがパソコンだと、探すのが大変なのである。ディスプレイに日記を呼び出し、画面を流して、延々と目を通さなければならない。
 その点日記帳は、ページをめくりさえすれば全体が視野に入ってくる。
 数年連用の日記帳だったら何年分かが一目で見渡せるから、もっとわかりやすい。デジタルはアナログに遠く及ばないのである。
 パソコンはたしかにすぐれた記録装置だけれども、その大方はデッドストックとなって死蔵されやすいのだ。
 これまでパソコンで原稿を執筆しているときも、デジタルの味けなさや単調さに嫌気がさし、手書きにもどしたいと思ったことは何度かある。
 そういう反省もふくめ、あたらしい年を迎えるにあたり、とりあえず日記を紙にもどしたということだ。

 ジャーン!
 これがあたらしい日記帳。ひとまず5年連用日記にした。
 むろん5年たったらつぎの5年連用に切り替える。
 それほど長生きしたいと思っているわけではないのだが、あらたな日記帳を手にしたことで、いつになく張り切っている。こういうことが脳を活性化させ、ますます長生きさせるのかなあ。
 この1年ありがとうございました。
 よい年をお迎えください。


2017.12.23
 房総の山々は、ほとんどがやわらかい砂岩によって形成されている。
 砕いたら良質の砂になるから、規制される前はいたるところで山砂利の採取が行われていた。
 加工もしやすいから、鑿と鶴嘴があれば素人でも掘削することができる。
 地元の農民が掘った農業用トンネルや水路が、あっちこっちにあるのはそのせいだ。
 人間が通るための素掘りトンネルもずいぶん多い。数からいえば全国でいちばん多いのではないだろうか。
 そういう素掘りトンネルのひとつを、お隣の君津市まで見に行ってきた。


 三島湖という堰止め湖の近くにあるトンネル。大きな崖が剥き出しになっているが、威圧感はそれほどなく、むしろいかにも加工しやすそうである。


 トンネル内部。車のなかった時代に掘られたものか、その向こうで90度折れ曲がっている。車は軽なら通ることができる。


 ふたつ目のトンネル。この道は行き止まりで、この先に人家は2軒しかない。


 このトンネルは途中でふたつに分かれていた。右が車の通れるトンネル。左は人ひとりがやっとという狭い道。
 崖下に祀られているお堂へお参りするための、参詣路となっているのだ。


 そのお堂。前が淵なので、このトンネル以外近づく道はないのである。
 現代の資材で建て替えられているのが残念だった。


 かつては地区の動脈だったと思われる橋。近くにあたらしい道路ができたため廃道になっている。


2017.12.16
 運転免許証更新のための高齢者講習を昨日受けてきた。
 今日その終了書を持って府中の運転試験場へ行き、やっとあたらしい免許証を手に入れた。
 今回講習を受けたのは6名。時間待ちをしているとき世間話になったのだが、目が悪くて実際は乗っていないという人が1名いた。
 それでも免許証の更新には来ている。それは身分証明書として、免許証ほど手軽で、確実なものはないからだ。
 今回はじめて知ったのだが、健康保険証は今年から身分証明書として認めてもらえなくなったそうだ。すると免許のないわたしのかみさんなどは、パスポートしかないことになる。


 かつての運転試験場は、講習を受けたり試験を受けたりする人でごった返すくらい混雑していた。それがいまではほとんど外部に委託してしまったため、見事なまで閑散としている。


 利用者が減ってバスの運転間隔も長くなり、停留所に行ったらいま出たばかりだった。それでこの際と思い、多磨霊園を散歩してきた。
 墓地を歩くのが大好きなのである。
 落ち葉が降り積もった冬枯れの墓地はふだんよりもっと風情がある。


 表門から入ったところにあるメインロードのシンボルタワー。この一帯は名誉霊域となっており、山本五十六や東郷平八郎などの墓がある。
 青山、谷中、雑司ヶ谷など、都営墓地には有名人の墓がたくさんあり、その案内や位置を示したパンフも用意されているのだが、ここ多磨霊園はそういう表示がまったくない。
 当てずっぽうに歩いていたら、はからずも北原白秋と堀辰雄の墓を見つけた。


 みたま堂という名の立派な納骨堂ができていた。これは正面から見たところで、ここからお参りすることができる。


 みたま堂の地下にある納骨堂。周囲の壁ののなかに13000体以上の遺骨が納められているそうだ。毎年行われている新規募集の応募倍率がすごいらしい。
 それはいいとして、強風の吹く、とびきり寒い日に1時間以上うろついたせいで、すっかり鼻風邪を引いてしまった。鼻水だらだらがまだおさまらない。


2017.12.9
 外付けのハードディスクを買った。2か月ほどかけて書いていた原稿100枚あまりが、一瞬にして消えてしまったからだ。
 こういう事故は、いつも長時間の作業をして、疲れ切った挙げ句に起こる。
 このときも×印をクリックして作業を終えたのだが、そのとき必ず出る「この原稿は変更されています。保存しますか」という表示が出なかった。
 ぱっと消えたきり、そのままだったのだ。それであれ? とは思ったものの、よくありそうなことなので、それ以上は気にしなかった。
 数時間後、仕事をつづけるためファイルを呼び出そうとしたところ「このファイルは存在しません。あらたに作成しますか」という表示が出たからびっくり。
 これまで何十回も手を入れてきた原稿が、影もかたちもなくなっていた。あわててやり直したが、どこを探しても出てこない。
 焦りまくって、思い当たることは全部やってみたがだめ。ないものが出てくるわけはないのである。
 万一のときを考え、バックアップファイルは取ってあったはずだが、ファイルそのものがないのだから、バックアップだってあるはずがない。
 仕事どころか、3時間ほど必死になって足掻いていた。
 万策尽きたのは明け方。
 仕方がない。翌日お助けマンに来てもらうか、何度か助けてもらっている人のところへパソコン持参で相談しに行こうと思った。
 電源を落とそうとしたとき、突然はっと閃いた。
 待てよ。一度リセットして、もう1回最初からやり直してみたらどうだろう。
 以前にも似たようなことがあって、リセットして再起動してみたら、なにごともなかったみたいに動いたことがあったのだ。
 それで今回も一度電源を切り、しばらく置いて、祈るような気持ちでスイッチを入れ直した。
 もとのやり方でファイルを呼び出してみたところ、こん畜生、なにごともなかったような顔をして、さくさくと出てきた。
 要するにパソコンが寝惚けていたのか、単なる接触不良を起こしていたのか、全然故障ではなかったのである。
 まことにやれやれだったが、どっと疲れが出た。大山鳴動して鼠一匹みたいな大騒ぎをした自分のアホさ加減が、露わになっただけなのだ。
 いまとなっては、そのときの状況すらうまく説明できない。ファイルが忽然と消え、それが事故でもなんでもなかったということである。
 それで今後の予防策を考えた末、外付けハードディスクを導入するのが、いちばん手軽で、確実ではないかという結論に達した。
 調べてみると、1テラバイトのハードディスクが、ずいぶん安くなっている。
 いま使っているパソコンは2年まえに買ったが、これが最後のパソコンになるだろうと思ったから、最高スペックの機種を奮発した。
 ただし内蔵ハードディスクはSSDの256ギガバイトで我慢した。
 できたら500ギガバイトにしたかったのだが、数万円も高くなるから涙を呑んだのだ。それ以前の機種は125ギガバイトしかなかったのである。
 それがたった2年で、1テラバイトのハードディスクが7000円強まで安くなっている。
 テキストファイルと静止写真くらいしか収納しないわたしのようなユーザーなら、一生分まかなってお釣りが出る容量だ。
 早速ネットで取り寄せた。送られてきた製品を見て、まず小さいのにおどろいた。USBメモリ数個分の大きさだ。
 それはいいが、梱包を開いたところ、あるはずの分厚いマニュアルがどこにもない。薄っぺらな紙が2枚入っているだけ。メーカーが添付し忘れたんじゃないかと、本気で思った。
 とにかく恐る恐るUSBコードでパソコンにつないでみたところ、たちどころに使えた。面倒くさい設定などする必要すらなかったのだ。
 これならUSBメモリと同じ要領で使うことができる。こんなに簡単だったらもっと早く導入すべきだった。
 以来1週間、原稿は推敲するたび、片っ端からそちらへコピーしている。


2017.12.2
 旅行から帰ってきて以来、躰の節々が痛くて、動くことさえままならなくなっている。足のふくらはぎがこちんこちんだ。
 調子に乗って歩きすぎたのだ。いまになってその疲れが、どっと出てきたらしいのである。
 それでなくともこのごろは、体力の急速な衰えが自分でもわかるようになっていた。
 旅行に出かけた初っぱなの日、バスに乗るときよろめいて、ドアに頭を強くぶっつけてしまった。
 これまでにも、よろめいたりつまずいたりすることはよくあった。
 しかしその都度、おっとっと……という感じでなんとか体勢を立てなおすことができた。それがそのときは、踏みとどまれなかったのである。
 足がくにゃっと曲がって踏ん張れず、前のめりにドンとばかりぶつかってようやく止まった。
 後から乗ろうとした人がびっくりして「大丈夫ですか」と抱きとめてくれたが、こんなことははじめてだった。
 先に乗っていたかみさんには気づかれなかったが、それよりショックのほうが大きかった。頭にできた瘤は数日消えなかった。
 先月の糖尿病の定期検診のとき、体力検査をしてくれ、その結果いろいろな指摘をされた。
 まず、体重は55キロとけっして太っているほうではないのだが、体脂肪率は25・2パーセントと立派な肥満だった。
 京都にいるころ一度測定してもらい、そのとき隠れ肥満だと言われた。
 それがさらに進行したようで、正確には標準体重肥満というらしい。
 足腰に比較して、上体、腕の筋肉が不足していることも指摘された。脚の筋肉量はなんとか標準に達しているが、左右の腕、体幹は低基準のさらに下のほうだったのだ。
 自分では、節制はともかく、運動はやっているつもりだった。
 朝夕の入念なストレッチをはじめて1年以上になる。スクワットはもう2年やっている。
 そういうケアよりも、肉体の衰える速度のほうがはるかに早かったということなのだ。ウォーキングだけではだめなのである。
 これまでの考えを根底から見直し、筋力アップを主体とした肉体全般の鍛錬に切り替えなければならない。いま本やネットであれこれ調べているところである。

 前回紹介できなかった旅行写真のつづきです。京都と金沢編。

 京都にいるときは毎年見に来ていた府立植物園のフウの木。今年はいまいち赤の発色がよくなかった。毎年何回も来ているという女性も、今年はたしかに色が悪いと言っていた。


 いつ来てもほっとする法然院の門。寺内の庭まで無料で入れるのはここだけだそうだ。


 紅葉ではあまりにも有名な永観堂。紅葉はたしかに素晴らしいが、塀の向こうへ入るのに1000円かかります。


 ある店で冬季だけ食べられる白味噌仕立ての雑煮。かみさんが大好きなので何回かつき合っているが、わたしはこのあと出てくる豆かんのほうがもっと好きだ。
 それはいいが、10人足らずしか入れないこの店に、4人連れの中国人がいたからおどろいた。
 名古屋でひつまぶしを食いに行ったら、隣の若い女の子ふたりが台湾人だった。
 鰻の味だったらまだわかる。白味噌雑煮のような味覚を、中国人でもうまいと思うのだろうか。逆に聞いてみたかった。


 下鴨神社の入り口にある三井家の別邸が、最近公開されるようになったから早速見に行った。大正期、木屋町に建てたものを移築したもので、重要文化財。


 2階座敷から庭を見下ろしたところ。手すりを見てもわかるが、それほど豪華絢爛という建物ではない。おだやかでやさしい、気の休まるようなお屋敷である。


 こちらは松坂にあった三井家発祥の家。江戸最大の呉服店だった越後屋、のちの三越の本家である。ただしこちらは公開されていない。


 朝の金沢城。雨が降っていたことと、黒門口という裏口から入ったため人がおらず、開放的で爽快な気分に思うさまひたれた。


 金沢城から道路を隔てた向かい側にある兼六園。市街地より一段高いところにあるにもかかわらず、水が滔々と流れている。犀川の水を10キロ先から引っぱっているそうだ。


 兼六園の最大の特徴は、よその土地では全滅した松の古木が何百本も健在なことだろう。それで松の落ち葉が地面を覆いつくしている。これもよそでは見られなくなった光景である。


2017.11.25
 昨日ようやく自宅へ帰ってきた。先週水曜日に出発して以来、8泊9日の旅だった。
 これが最後だろうと思うから、目一杯欲張って、歩きに歩く旅をしてきた。
 多い日で26000歩、少ない日で13000歩、9日間で162000歩。かみさんはわたしの1割ないし1割5分増しの歩数だった。
 以下簡単に行ったところを紹介してみる。
 名古屋は初日に、犬山城と熱田神宮へ行った。じつをいうとわたしもはじめて。城郭はほとんど行っているのに、なぜか犬山城はこれまで縁がなかった。


 犬山城の下を流れている木曽川。
 木曽川がゆったりとした大河になるのは、すこし上流の美濃太田辺りから。木曽で切り出した檜が、筏で安全に運び出されたのもやっとこの辺りからである。


 熱田神宮内の織田信長寄進といわれる土塀。
 2日目は名古屋城と徳川園、徳川美術館に行った。来年閉館する名古屋ボストン美術館にも行きたかったが、時間が足りなくて行けなかった。


 名古屋城の天守から虹が見えた。ガイドのボランティアがはじめて見ました、と言ったくらいだから珍しいのだろう。
 3日目は近鉄特急『しまかぜ』で伊勢へ。


 列車に乗るのが目的だったから、用もないのに終点の賢島まで行き、普通列車で引き返してきた。


 松坂城址に保存されている本居宣長の旧宅別名『鈴屋』。昼は医者として働き、夜は2階のこの小部屋にこもって『古事記伝』の著作に専念した。


 松坂城は蒲生氏郷の築いた城だが、のちに紀州徳川家の支配地となって幕末までつづく。
 城址の下にある2軒の長屋は、城内警備に当たっていた藩士の居住していた組屋敷。幕末の建設で、重要文化財に指定されているが、いまでも子孫が居住しているからびっくりした。


 4日目はあいにくの雨。傘をさしての伊勢神宮参拝となったが、雨で荘厳さが増した上、人数も少なくてかえってよかった。
 こちらは外宮。


 内宮。
 午後から奈良へ移動。


 市内を散策していると、ビルや人家の後にこんもりとした森が見える。地図でたしかめると開化天皇陵とあった。
 近鉄とJRの駅の中間、市街のまんなかである。こんなところに陵墓があるのかと、訪ねようとしたのだが、これ以上は近づけなかった。ちなみに開化天皇は神武天皇から9代目、実在が疑われている天皇である。
 奈良2日目は山の辺の道を歩きに行った。京都にいるとき、何回かに分けて歩いている。
 天理から大神神社までおよそ15キロ25000歩、山道や石段がけっこうあるから最後はばてた。


 天理から石上神社を経て南へ向かうのが定番コース。この道で最初に出てくる無人売店。
 うわー、安い、と思ってみんな買うのだが(わたしたちもそうだった)この先いくらでもいい品や、安い品が出てくるのである。


 大和は柿の里。見渡す限り柿木畠だ。
 柿の葉がきれいで、大きい。柿の葉寿司がもっともポピュラーな素材を使っていることが、容易にうなずけるのである。


 元伊勢と言われる檜原(ひばら)神社。伊勢神宮の神は、ここから伊勢へ行ったのだとか。


 狭井(さい)神社。大神神社のご神体である三輪山登山を受けつけてくれる神社。


 もっとも古い神社と言われている大神(おおみわ)神社。
 3社とも鳥居に笠木のないことから、形式の古さがわかる。(つづく)


2017.11.11
 ジョギングシューズのあたらしいのを買った。
 これまでのものをけっこう気に入っていたのだが、数ヶ月まえから右側だけ、歩くたびにぎゅっぎゅっと音が出はじめた。
 なぜ鳴りだしたのか、原因はわからない。放っておいたら、だんだん音が高くなってきた。
 気にしはじめたらきりがない。とうとういやになってきて、あたらしいのに買い換えたのだ。
 キャリーバッグも買い換えた。これも古いのがあったのだが、今回使おうとしたところ、キャスターの具合があまりよくない。無理やり動かしていたら、プラスチックの車輪が壊れてばらばらになった。
 だいぶ長いこと使わなかったから、プラスチックが劣化していたのだ。
 こういうことはよくあって、以前久しぶりに履いた靴で出かけたら、底が剥がれて真っ二つになったことがあった。それもけっこう高い靴だった。
 キャスターだけ取り替えようとしてネットで調べてみたら、メーカーのホームページがない。数年まえに倒産していた。
 丹念に探せば見つかるかもしれないが、その時間がない。それでこれも買い換えた。
 リュックの代わりだから、布製の、安価なものでよい。とにかく使いやすいものをということで、内部を細かく仕切ってないシンプルな構造のものにした。
 あたらしいシューズとあたらしいバッグを身につけ、来週から1週間ばかり旅行に出かける。
 せがれが金婚式の記念旅行をプレゼントしてくれたのだ。
 おやじはせがれどもに感謝されるようなことはしていないのだが、これはかみさんに対するこれまでの感謝の気持ちということだろう。
 わたしはその連れ合いだから、旅行に同伴させてもらうのである。
 はじめはどんな旅行でもいいと太っ腹なことを言ってくれたから、だったらこのさいイギリスの田舎を1か月かけて回ってこようかと思った。
 しかしこのところかみさんの足が弱くなり、もう海外旅行には自信がないというから国内に切り替えたのだ。
「そういえばわたしはまだ名古屋に行ったことがない」
 というから名古屋を起点に、伊勢、奈良、京都と、おおむね知っているところを、もう1回ゆっくり回って来ることにした。
 パソコンは持参するから、次回は旅先から更新いたします。


2017.11.4
 運転免許証更新の第一ステップ、認知機能検査を受けてきた。
 検査は簡単な記憶力テストで、30分ほどで終わる。しかし採点を本部のようなところで行っているらしく、結果が出るまで1時間ほど待たされた。
 さいわい「記憶力、判断力に心配ありません」ということでパス。得点は84点だった。しかしこの日本語、ちょっとおかしくないか。
 これで来月、75歳以下の高齢者に課せられている高齢者講習を2時間受け、その修了証明書を提出して、ようやく免許証を更新してもらえる。
 今回テストを受けたのは6人だったが、うちふたりは「記憶力、判断力がすこし低くなっています」と判定されたようだ。
 この人たちは別メニューで、高齢者3時間講習というのを受けなければならない。時間が多くなる分、手数料も高くなる。
 今回のテストを受けるため、真っ暗な早朝5時にバイクで家を出て、木更津駅に向かった。5時50分の始発バスに乗るためだ。
 わが家から市街地に入るまでは田んぼ沿いの淋しい田舎道ばかりで、この間15分くらいとびとびにしか人家はない。
 昼間だと1、2台車に出会う程度。歩行者はまずいない。
 そういう道を走っていたら、前方でライトがふらふら揺れていた。
 なにごとかと身構えたら、よぼよぼの年寄りだった。足取りがたしかでなかったから、なにかあったのかと疑ったのだ。
 その先へ行くと、またひとりいた。これもライトをともしている。足取りはさっきの老人よりしっかりしていた。
 それでようやく、早朝のウォーキングらしいとわかった。
 それにしても追い剥ぎが出たっておかしくない真っ暗な田舎道なのだ。
 なにもこんな時分から出歩くことはないと思うのだが、いずれにせよわたしのような夜型人間には理解できない。
 夜歩いているのは見たことがないのだ。
 そこから先も、いるわ、いるわ、数分おきくらいに出会った。
 たいていは男だが、なかには犬を連れているもの、夫婦ものらしいふたり連れもいた。
 市内に入ると、夜が白んできたこともあって、人数は増えるばかり。木更津駅まで合わせて19人出会った。
 ひとつの道でこれなのだから、街全体でいえばいったいどれくらいの人数が歩いているのだろう。
 なぜ真っ暗な早朝からなのか、わたしにはわからないのだ。


 教習所の近くに多摩川があったから、ついでに散歩してきた。日曜日に台風が通過したばかりだったせいか水かさが増え、久しぶりに滔々と流れていた。
 こういう速い流れを見ると、いまでも胸が騒ぐ。というのも子供のころ、こういう瀬をわいわい言いながら泳ぎ下っていたからだ。疾風のように泳げるのが爽快でたまらなかった。
 そういう遊びが危険だという認識はなかったし、事故を起こしたという話も聞いたことはない。自然のただ中で生き、自然が遊び場だったのである。


 なんでこんなところにいるんだよ、と言いたくなるカワセミ。カワセミは木の枝から水面を見つめてないと絵にならない。


2017.10.28
 毎年恒例の、旧友との箱根旅行に行ってきた。
 今回も塔ノ沢から桃源台へ、宿を移しての2日間だった。
 参加者は初日が10名、2日目が8名、うち4名は2日連続だから総員14名ということになる。
 わたしのように暇なやつは2日つき合えるが、この年になっても忙しいやつはどちらかしか時間が割けなかった。
 今回はインドネシアから1年ぶりに帰ってきた男も出席し、久しぶりのほぼフルメンバーになった。
 しかしみな酒に弱くなった。酒の上での武勇伝には事欠かない男が多かったのだが。
 それはいいとして、夜が明けると大雨になっていた。
 台風が去った翌日に出かけたのだが、これから1週間好天がつづきますと天気予報が言ったのを信じて、傘を持参しなかった。
 それで、雨が降っても数時間は気持ちよく過ごせるところ、ということでポーラ美術館に行った。
 これで二度目だが、ここは物欲しそうな美術館でないから、何回行っても抵抗を覚えない。
 ただしいちばんのお気に入りは、自然林を生かした庭園である。


 ポーラ美術館のロビー。美術館にしては珍しく、内部も写真撮影がOKである。


 中庭。枕木を敷いた歩道が巡らしてあって気持ちのよい散策道になっている。雨だから人のいないのがなおよかった。


 幹の赤いのはヒメシャラ。
 ナツツバキの一種だというから春には白い花が咲くはずだが、木が大きすぎてこれでは花が咲いても下からは見えないだろう。
 ヤマボウシやブナなど、果実の食べられる木もあったから、実が落ちていないか探してみたがなかった。
 実の食える木となると、無意識に果実を探してしまう格好はあまり人に見られたくない。


 邸内を流れている渓流。


 翌日は用があったため、9時半のバスに乗って早々と帰ってきた。
 バスが大涌谷に立ち寄ったところ、真正面に初冠雪の富士山がいた。
 大雨の降った翌日、雲ひとつない快晴、しかも無風という絶好のコンディション。
 時間さえあったら半日ゆっくり観光できたのにと、少々恨めしい富士山だった。


2017.10.21
 このところ探しものばかりしている。
 このまえは郷里の文学館に寄贈するため、木更津と多摩にある資料を探し回った。
 今回はそのつづきだが、むかしの出来事をおさらいしなければならない必要ができ、また探しものをはじめた。
 今回探したのは手帳である。
 整理整頓がまったくできないくせに、日誌だけはつけている。
 20歳ごろからはじめたもので、以後1日も欠かさず書いてきた。
 カレンダー仕様の手帳に備忘録として書き留めたものだから、日記というほど詳しい内容ではない。
 その日行ったところ、会った人、見た映画、読んだ本、仕事の内容等が簡単に記されているだけ。
 いま読み直してみると、簡単すぎてなんのことやらわからないものが少なくない。略語やイニシアルで書いてあるものは、最早解読不能だ。
 多摩のキャビネットに、東京へ来てからのものがすべてそろっていた。
 年代でいえば昭和38年(1963年)26歳のときからのものである。
 その年に東京へ出てきたのだ。
 ところがそれ以前のものが、どこを探しても出てこない。
 高知にいたころの記録だから、当然高知の家に置いてあった。
 母が亡くなって、家はもうない。しかしこういうものはすべて持って来た。
 現に母の遺品はひとまとめにしたものが残っている。そのなかに、母が遺してくれた小中学校時代の通信簿などが全部そろっている。
 自分のものがないのだ。
 手帳にして5、6冊だから、嵩としてはごく小さい。どこかへ突っ込んであるはずなのに、どうしても出てこないのである。
 例によって木更津の家、多摩の旧宅、両方の書庫から物置を引っ掻き回した。
 見つからない。
 探しものをして、見つからないことくらい気分の悪いものはない。
 気分がすっきりしないし、頭から消えることがない。寝ていても、もしやあそこではないかと、はっと目が覚めたりする。
 おかげで今週はずっと中途半端な、落ち着かない気分のままである。


 50年間の記録が詰まっている手帳。
 博文館の手帳時代が長い間つづき、それから3年連用ダイアリーとなり、最後は10年連用日記になった。
 最後の日記帳を買ったのは2008年。
 このときは、あと10年生きられる保証はないから5年でもいいかと思ったが、ままよと10年にした。
 しかしこの日記帳は1年しか使わなかった。
 パソコンの記憶容量が格段に増えたため、以後パソコンに移行したのである。
 パソコン日記はいまもつづけている。
 ところが昨年とんでもないミスを犯してしまい、約4ヶ月分の日記を消去してしまった。操作ミスで、気がついたら消えていた。
 バックアップがあるはずと思ったら、取る設定にしてなかった。
 ウィンドウズ8から10へ切り替わったときのことで、悪いのはみんな自分。
 かえすがえすも痛恨事だった。


2017.10.14
 真夏の暑さがつづいたかと思うと、一転初冬並の冷たさ。今年の天気はなんとも気まぐれだ。
 今日から寒くなるとわかっていたから、せめて暖かいときの行楽をと、昨日日光まで紅葉見物に行ってきた。
 せがれという運転手つきなので、出かける気になったもの。
 とはいえ出発が午前2時半、帰宅が20時というのは、年寄りにはやはりハードだった。
 日光の杉並木を歩いたことがなかったので、今回はじめて歩いてきた。
 一方通行で、あまり車の通らない区間があったから大喜びして歩いたら、その先に歩行者専用の並木道がちゃんと用意されていた。
 いろは坂の紅葉はまだすこし早かった。
 華厳の滝へは小生行かず、車のなかで寝ていた。
 戦場ヶ原の紅葉はいまが見頃。至るところで歓声を上げた。
 そのあと男体山(2484メートル)の先から山越えして川俣温泉のほうへ抜けたが、じつはこっちの紅葉がもっとすばらしかった。
 紅葉の名所としてはかなり知られているらしいが、山王林道という名前で敬遠されているのか、車は少なく、しかもほとんど地元ナンバーだった。
 はじめはもっと欲張って、那須のほうまで足を延ばすつもりだったが、これだけで十分満足して気持ちよく帰って来た。


 ごぞんじ杉並木。道の両脇の側溝にすみきった水が滔々と流れていて、気持ちいいのなんの。
 7000歩以上歩いたから、3キロは歩いたことになる。


 戦場ヶ原のなかの林。
 原っぱへ徐々に木が侵入し、白樺林からふつうの森になって行く過程が見られる。
 これはまだ初期の林なので、全体に明るく、色彩も豊かである。
 もっと先まで行きたかったが、杉並木を歩きすぎたので残念ながら同じ道を引き返してきた。


 すすきの原の木道から見た男体山。


 反対側、金精峠のある日光白根山(2578メートル)とその連峰。


 標高1700メートルの峠を越えた、男体山の裏側の紅葉。


2017.10.7
 運転免許証の更新時期になった。
 通知状そのものはずいぶんまえにもらっていたが、まだ日数があったから読みもせず、引き出しに放り込んでいた。
 10月になったからやっと腰を上げ、はがきの文面にはじめて目を通した。
 そしたらまえのときはなかった余計な手続きをが増えていた。
 高齢者は数年まえから、教習所いわゆる自動車学校に行って高齢者講習なるものを受けなければならなくなった。
 その証明書と引き替えに免許証をもらうのである。
 その手間が倍になっていた。
 まずはじめに、認知症機能検査というものを受けなければならない。
 それにパスして高齢者講習が受けられる。
 しかも認知症機能検査と高齢者講習は、同じ日に受けることはできない。
 認知症機能検査を受けたのち高齢者講習が申し込めるのである。
 そんなこと、全然知らなかったぞ。
 恐らく新聞やネットでは報じられていただろうが、ふだん関心がないものは、読んでも頭に残らないのである。
 世のなかに高齢者があふれかえっているご時世だから、免許更新のための高齢者講習はどこも混んでいる。
 最初のときもぎりぎりまでほったらかしにしていたから、いざ電話してみるとどこの教習所も満員で空きがなかった。
 最後は途方に暮れて府中の免許更新センターに泣きつき、なんとか空いているところを見つけてもらった。
 今回も呑気に構えすぎていたかもしれないと、前回講習を受けた教習所に恐る恐る電話してみた。
 今年はもう空きがありませんと言われた。
 いま空いているいちばん近い日で、1月中旬だというからびっくらこいた。
 1月18日までに手続きしないと失効してしまうのだ。
 あわてて電話をかけまくり、あんまり流行ってなさそうな小さな教習所で、やっと11月初めに空きがあるのを見つけた。
 なんとか間に合いそうでほっとしている。
 しかしいい加減懲りればいいのに、そのうちまた同じことをやらかしそうだなあ。




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