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きのうの話 |
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2017.6.25 瀬戸内海に大崎下島という島がある。 広島県と愛媛県の中間にあり、現在は呉市の一部となっている。 この島の先っぽに、御手洗という港町がある。 北前船の中継基地として、瀬戸内海随一と言われたくらい繁栄した港だった。 この御手洗へ行ってきた。 以前はフェリーで行くしかなく、けっして交通至便とはいえない僻地だった。 それがいまでは橋が架かり、本州と陸つづきになって、簡単に行ける。 明治になって物流の主役が帆船から汽船や鉄道に移ってしまうと、御手洗は役目を終え、以後忘れられて、ひっそりと埋もれていた。 むかしながらの白壁やなまこ壁の家並みが評価され、重要伝統的建造物群保存地区に指定されて、観光地へと生まれ変わってしまったのだ。 町の中心部。本瓦葺きの重厚な屋根がさりげなく残っている。 かつてのメインストリート。 参勤交代の西国大名やシーボルト、瀬戸内海の測量に来た伊能忠敬ら、多くの名のある人がこの港町に滞在している。 旅人をもてなすための「おちょろ船」という遊女の出前船もあったし、遊女百人を抱えていたという妓楼も1軒残っている。 家々の間の露地。向こうに海を望めるのが、こういう港町の特徴だ。 前方は岡村島(愛媛県今治市)。ふたつの島の間は数百メートルしか離れておらず、潮の流れは満潮、干潮によって180度向きが変わる。 つまり帆船時代に必要だった潮待ち、風待ち港として絶好の場所にあったのだ。 この防波堤は修復されているとはいえ、大元は江戸時代のものである。 港の正面にある高燈籠と石橋。ともに江戸時代のもので、燈籠には天保3年(1832年)の銘が入っていた。 対岸の岡村島から見た御手洗の全景。何十隻もの大型帆船が、帆柱を連ねて停泊していたという光景が信じられないくらい小さな港だ。 御手洗へ至るまでの、どこかの島をつないでいた橋と、いまは使われなくなり、見捨てられてしまったフェリー桟橋。 呉から岡村島まで、無人島までふくめると、なんと7つもの島が橋で結ばれていた。 皮肉なことに、こういうインフラの整備は、過疎をうながしただけだった。 橋ができ、本州へ自由に行き来できるようになると、人々は故郷を捨て、島から出て行ってしまうのだ。 日本に限らない。世界中がそうである。 |
2017.6.17 庭の梅と甘夏が大きくなりすぎたので、冬の間に剪定をした。 延びすぎた枝を切り、混み合った枝葉を梳かして、風の通りをよくしてやった。 とはいえ素人の我流だから、めちゃめちゃもいいところ、伐った直後はひどい格好になっていた。 それがよくしたもので、もう剪定したことなどなかったような樹形に回復してきた。 気のせいか前より元気になったくらいで、今年はこれまでなかったほど、たくさん花を咲かせた。 それが小さい実となり、いまや鈴なりになっている。こうなったら摘果もして、より大きな、より甘い実にするつもりだ。 小夏も花は咲かせたが、木が小さいから、実はそれほど期待できないにない。 一方文旦はまだ花が咲かない。実をつけるところまで育つかどうか、心配になってきた。 庭木の間の、空いているところに生ゴミを埋めていたところ、春になっていろいろなものが芽を出してきた。 そのなかでも、南瓜と里芋はすぐわかった。 このふたつは連作障害を起こさない作物だから、植え替えてそのまま育てている。 今年はあらたにトマト、キュウリ、ナスも植えた。 去年失敗したメロンももう1回挑戦し、こちらはベランダで育てている。 おかげで短時間ではあるが、毎日畑仕事をしなければならなくなった。 これがかなり面倒なのだ。 実際の話、自然のただ中という環境だから、雑草と、病虫害の勢いが半端ないのである。 それに負けまいとすれば、あとは人間がせっせと手をかけてやらなければならないわけで、いまのところ、へこたれずにやっている。 梅雨入りした割りに雨が降らないから、にわか百姓は気を揉んでおります。 |
2017.6.10 テレビの1チャンネルが映らなくなった。 NHKだけ映らない。ほかの局はすべて映るし、衛星放送もなんら支障はない。 前からときどき、強い風が吹くと同じ現象が起きていた。 しかし放っておいたら、数日で自然に直った。今回はいつまでたっても元にもどらない。 多分強風で、アンテナの位置がずれたのだろう。 それくらいなら自分で直せる気もするが、家の後に立てたポールはかなり高く、アンテナは2階よりやや高いところにある。 梯子があるから2階までは上がれるものの、そこから先の作業となると自信がない。 庭の植木だって、もう高く延びた木は手入れできなくなっているのだ。 仕方がないから業者に来てもらった。 あれこれ調べてもらった結果、家の横にある林が電波を妨げていると分かった。 だれの土地か知らないのだが、手つかずで放置されているから延び放題、ほとんどの木が電柱より高くなっている。 ここに住みはじめてからでも、さらに大きくなったようだから、電波の妨げになったとしても当然だろう。 ほかの局が支障なく映るのは、民放はスカイツリーから電波を飛ばしているから、それだけ遠くまで届くし、電波も強いのだとか。 ところがNHKはいまだに東京タワーを使っているそうで、だから電波がいちばん弱いのだ、と言われてびっくりした。 視聴料を取っているくらいだから、NHKの電波がいちばん強いのだろうと、たったいままで思い込んでいたのだ。 邪魔になっている木の上のほうだけ払えば解決するのだが、自分ところの木ではないから伐るわけにいかない。 仕方がないからブースターをつけてもらうことにした。 その見積もりが意外に高い。それでまだ発注するところまでいっていない。 とりあえず直してもらったから、いまは映っているのである。 ブースターさえつけたらすべて解決するということなのか、たしかめる術がないから、ただいま少々悩んでいる。 |
2017.6.3 スーパーで買い物などしていると、よく客の呼び出し放送というのをやっている。 ふつうはそれが、自分だと思うことはないから、ことばが耳に入らない。つまり聞いていないも同じだ。 今回それをはからずも経験した。 買い物をしていたとき、たしかに放送は聞いていたのだ。 ナンバーが読み上げられ、この車の持ち主は、至急車までおもどりください、という呼びかけだ。 たしかに聞いたが、まさか自分だとは思いもしないから、全然耳に入らなかった。聞いていないも同じである。 買い物を終え、ラウンジでお茶を飲み、帰りかけたとき、せがれから電話がかかってきた。 駐車場に止めてあった車に、だれかが車をぶっつけてしまったというのだ。 店内放送で呼びかけたが、現れないので、ナンバーから持ち主を突き止め、自宅まで電話してきた、ということだったのである。 びっくりして駐車場に駆けつけたら、警官と、わたしたちより若い老夫婦が待っていた。 車は奥さんが運転していたらしい。 バックで隣のスペースに車を入れようとしたとき、うっかり接触してしまったようなのだ。 見るとたしかに、フロントの一部に傷がついている。 そのまま当て逃げされても、気づかないような小さな傷だ。 それを申告して、警官が駆けつけ、店内放送で呼びかけをして、わたしが現れるのを、ずっと待っていたということだった。 かんかん照りの駐車場で、1時間以上待っていたわけで、かえってこちらが恐縮してしまった。 それはいいが、そのあとかたち通り事情を聞かれ、住所姓名を名乗り、免許証を拝見、と言われたから取り出そうとすると、これがないのである。 あわてて探したが、どこにもない。 忘れてきたのだ。 これまで免許不携帯で車の運転をしたことはない。財布とカードを入れたウォレットとは、必ずセットで持って出かける。 それをはじめて忘れてしまった。 その日Tシャツを変えたのと、ズボンを履き替えたのとで、ついうっかり忘れたようなのだ。 大あわてでせがれに電話し、免許証を持って来てもらったが、おかげでさらに何十分か時間がかかってしまった。 たしかに店内放送は聞いた。車のナンバーが読み上げられたのも、ちゃんと聞いている。 だがまさか、自分の車だとは思いもしないから、全然耳に入らなかった。 ありがちのことだと思うので、ここでご披露しておく次第です。 なお車の傷は、たいしたものではなかったし、修理する必要もないぼろ車だったから、なかったことにしてあげた。 |
2017.5.28 高知からの帰り、瀬戸内海に寄り道して4日間、島に滞在していた。 同行は4人、毎年箱根で顔を合わせている50年来の友人たちだ。 今回行ったのは直島、豊島(ともに香川県)、犬島(岡山県)の3島。 直島は精錬所の煙による公害、豊島は産業廃棄物が不法に捨てられた島として有名だ。 それがいまでは芸術の島として、年間10万を超える観光客が押し寄せてくる島になっている。 島中いたるところに芸術作品が展示してあるのが珍しいのか、日本人より外国からの観光客のほうが多いようなのだ。 直島というと、子供のころから宇高連絡船で何度もそばを通り抜けていた。当時は精錬所の煙害で全島禿げ山となっており、その異様な光景にはいつも息を呑んでいたものだ。 その島がいまでは青々とした緑におおわれ、安藤忠雄の設計した地中美術館のある島として、世界中にあまねく知られるようになった。 ただし館内の写真撮影は禁止である。 直島に着いてはじめて目にするのが、桟橋にある草間彌生のオブジェ。向こうに見えるのは高松からやって来たフェリー。 べつのところにある同じ作者の作品。 これと同じモチーフからつくられたと思われる作品が、地中美術館のなかにある。これは戸外の、いわばフリースペース用の展示だ。 島内のあっちこっちにある作品。これはほんの一部である。 これも芸術作品のようだが、なかにフェリー待合所が居候していた。 犬島は3つの島のなかで最小、住民も50人しかおらず、宿泊施設がなかったので日帰りになった。 大正時代に操業していた銅の精錬工場の跡地が美術館になっている。 歩いて1時間で一巡できる島のあちこちに、このような作品が展示してある。 犬島は全島が花崗岩でできており、古くから石の切り出しが行われていた。 そのためいまでは島がほぼ平ら。跡地は水が貯まって池となり、これが島内に十数カ所あるという。ただし切り立った崖になっているから危険と、見物できるところはなかった。 これは海岸に掘られた穴の跡。海とつながっているので、いまは入り江にしか見えない。 豊島でも2泊したが、さすがに3島目となると、俗世の老人どもはもはや芸術に食傷。美術館巡りはパスして、もっぱら電動自転車で島内を走り回った。 地元の老人が掃除していた天満宮の鳥居。低くてずんぐしているところがいかにも古式だが、15世紀、室町時代のものだった。 標高300メートルあまりの山上から見た四国の屋島。高松市がその右手になる。 崖の上に東屋が見えるが、前記の写真を撮ったのがここ。電動自転車だからこそ、ここまで上がれた。 この崖もかつては石切場だったというから、その跡地を見に藪を1時間も掻き分けて登って行ったが、崩落の危険があるとかで立ち入り禁止になっていた。 立ち入り禁止柵の外から、かろうじて見えた石切穴。 地元の人の話によると、高さ20メートル、奥行き100メートルくらいあるこの手の採掘穴が10いくつあったそうだ。 |
2017.5.20 ついさっき、旅行から帰ってきたところだ。 高知へ旅立ったのが先週金曜日だから、まる1週間出かけていたことになる。 今回はとりあえず高知の写真をお目にかけておく。 高知城歴史博物館という施設ができて、高知城をいちばんよい角度からながめられる。これは2階から天守閣と大手門を仰いだところ。 城内の石垣。かつては大木の林立する鬱蒼とした森だった。それが倒れたり伐られたりして、わたしの若いころはすかすかの森になっていた。 今回久しぶりに歩いたところ、いくらか緑が濃くなっていた。若木が順調に育っているようなのである。 はりまや橋のからくり時計。話には聞いていたが、じっくり見たことはなかった。 今回向かいの喫茶店に入ったので、タイミングよく見ることができた。 時計盤の上下左右から、いろんなものが出てくる。 上に高知城。右にはりまや橋と純信お馬のコンビ。左に桂浜と坂本龍馬の銅像、下はよさこい祭りの鳴子踊り。 何回も来ているところだし、空港へ向かうバスは必ずここから乗っていたのに、こんな風になっていたなんて全然知らなかった。 高知名物日曜市。狭くて混雑しているから、いい写真を撮るのはむずかしい。外国人がずいぶん増えていた。 ここの並木も大きくなって見栄えがしてきた。 右の建物は病院。交通事故で瀕死の怪我を負わされた妹を、1週間泊まり込みでつき添ったのは、もう30年前の思い出になる。 写真FG 市内一の繁華街。ご多分に漏れずシャッター通りと化していたが、すこし人通りがもどっていた。高知幕末維新博覧会というイベントをやっていたせいか、ホテルも満員だった。 この通りを、若いころは大手を振って歩いていたものだ。歩きさえすれば、いつでも、だれか知り合いと顔を合わせた。 いまでも歩くたび、そこらから誰かが、ふらっと出てきそうな期待に駆られる。歩くたび、その期待をする。 しかし哀しいかな浦島太郎。 まちがっても最早、そういう出会いは起こらないのである。 |
2017.5.13 母の23回忌で高知へ帰ってきた。 もうそんなにたったのか、というのが偽らざる感慨だ。 さいわいなことに、わたしを筆頭とするきょうだい5人、その連れ合いもふくめ、今回もそろって顔を合わせた。 久しぶりだったにしては、会ってみると変わり栄えしないいつもの顔。 それが逆に安心感のようなものになって、弟や妹の思い出話を父親のような気分で聞いていた。 知らぬは兄貴ばかりなり。わたしだけ蚊帳の外に置かれていた話が、けっこうあるのにはびっくりした。 夜はいとこにも声をかけ、20人ほどで会食をした。 いまではふたりになってしまった母の妹を招待したら、気持ちよく来てくれた。 92歳と88歳、車椅子のお世話になっていたとはいえ、頭のほうはしっかりしたもの。 ふたりとも感激して、しばらく声が出ないほどどよろこんでくれたのには、こちらの目頭まで熱くなった。 いちばん世話になった叔母なのである。 つぎはいつ会えるか、しばらく機会はないのだが、こうなったらみんなが元気なうちにぜひ、また顔を合わせる機会をつくりたい。 涙もろくなってきたのか、今回ほど、郷里やきょうだいがあってよかったと思ったことはない。 5人もの子供の数は、かつてはすこしも珍しくなかった。 しかしそれだけ暮らし向きは窮屈だったわけで、ものの配分や役回りでは、長男がよく割を食わされた。 弟妹の多さなど、煩わしさ以外のなにものでもないと、よく思ったものだ。 きょうだいっていいものだなと思いはじめたのは、40をすぎてからだったろう。 いまでは、5人が元気に顔を合わせられるのは、母の遺してくれた最高の遺産だったと思っている。 |
2017.4.29 旅を終えて無事に帰ってきた。 今回は天候に恵まれ、最後まで快晴、新緑のいちばんきれいな時期の旅を堪能できた。 その分、取材旅行より観光旅行気分になったのは致し方なかった。 長崎はとにかく坂の街である。どこへ行くにせよ、歩かないことには埒があかない。 着いた日は夕刻だったが、夜景を見に行ったせいもあって、宿に帰ったときは13000歩になっていた。 翌日は18000歩。移動するときバスや電車を使いながら、こういう数字が出るのだ。 急坂を上へ上へと延びて行く住宅街。 10年ほどまえ、長崎を舞台にした『いつか読書する日』という映画があったが、主演の田中裕子が、階段だらけの住宅街をものともせず、毎日元気に牛乳配達していた姿を思い出す。 それが頭に残っているせいだろう、長崎の人は足腰が達者に見えてならないのだった。 ごぞんじ眼鏡橋。 標高333メートル、東京タワーと同じ高さの稲佐山から見下ろした長崎港。 中央に見える大きな船は、おりから入港していた中国のクルーズ船。 10万トンはあろうかという船が、街の真正面へ横づけできるところが長崎のすごいところなのだ。 福江島は、最初の日程では2泊するつもりだったが、宿が取れなかったこともあって1泊になった。 それでレンタカーを借り、駆け足で島を1周してきたが、80歳の老人としては、はじめのうちかなり緊張していた。 ところが走ってみると、思いの外道路はよいし、車の数は少ないしで、すこしも不安を覚えなかった。沖縄よりはるかに快適なドライブを楽しめたのだった。 福江島でなにより特筆すべきことは、手つかずの自然がそのまま残っていることだろう。 かつてはこのような自然が、日本のどこにでもあった。子供のころのそういう記憶が甦り、言いしれないうれしさと、感動を覚えたのだ。 気の遠くなるようなこの砂浜をご覧ください。入り江いっぱいに白砂がひろがり、余計なものはなにひとつない。 わたしたちが子供のころ遊んだのは、まさにこういう海であり、浜だった。よくぞ残してくれたと、五島の人々に感謝のことばを捧げたい。 岬ひとつ隔てた隣の浜。 人家がないため、生活排水がまったく流れ込まない清浄きわまりない浜である。 ふたつの浜を高台から見下ろしたところ。 どこへ行っても、海はすべて、このように信じられないくらいきれいなのだ。 水が澄み、海草が繁茂し、ごみというものがどこにも浮かんでいない海。 もう行く機会はないだろうから、駆け足で通りすぎてきたのがなんとも悔やまれる。 |
2017.4.22 この稿は、旅先の長崎で書いている。 本来なら旅を終え、今日は家に帰っているはずだった。それが延びてしまったのだ。 当初の予定では、月曜日に出発して金曜日に帰るつもりだった。長崎1泊、五島列島2泊、博多1泊の取材旅行である。 予定通り、月曜日に家を出たことは出たのだ。 ところがご承知の通り、当日は大変な悪天候。とくに九州地方は雷雨が激しく、空港で時間待ちをしているとき、悪天候で着陸できないときは引き返すこともある、とアナウンスがあった。 いくらなんでも、昼すぎには天候も回復するだろうと楽観していた。それで大揺れの航空機に乗って出かけたのだ。 そしたらなんと、九州地方の空港はすべて閉鎖されたとかで、着陸地の佐賀上空まで行ってから、このまま成田へ引き返しますととんでもないアナウンスになった。 吹雪の新千歳上空で、晴れ間がのぞくまで1時間以上ぐるぐる回っていたことはあるが、出発地点まで引き返したのははじめてだ。 結局4時間航空機に乗りっぱなし。 成田までのバスを加えたら8時間も窮屈なシートにくくりつけられていたことになり、家に帰ったときは疲れ果ててくたくただった。 それ以上に、宿泊やレンタカーのキャンセルが大変だったのだ。 ホテルに電話したところ、インターネットで予約したものはインターネットで取り消してくれ、と言われて憤激する一幕も。 こんなことなら、直接電話して予約したほうがはるかにましだったと、ネット予約のデメリットが図らずも露呈したのだった。 すべて終わったときはげっそりして、こんな旅行は二度とするものか、とそのときは思った。 しかし1日寝て元気を回復したら、口惜しくてたまらなくなった。念入りに計画を立て、万全を期した旅だったのである。 調べたところ、航空会社が5日以内なら振り替え輸送を受けつけるという。 それでまた気が変わって計画を立て直し、3日遅れの旅がなんとか実現して、今日は長崎で旅をつづけているというわけである。 というわけで、詳しい話は来週にいたします。 |
2017.4.15 春爛漫。 今年は桜が咲きはじめた途端、冷たい雨の降る日がつづき、よく晴れたお花見日和というのは少なかった。 ただそのせいで、桜の開花期間が長くなったことはまちがいなく、その分長く桜が楽しめている。これほど長い間桜が楽しめたのは、はじめてではないかと思う。 一昨日、雨の止み間を盗んで茂原まで桜を見に出かけた。 その途中、小湊鉄道の沿線で見つけた菜の花畑。地元の人が、観光客用に丹精込めて育ててくれた景色なのである。 当然のことながら、カメラマンが大勢押しかけていた。それがあまりにものものしいから、間もなく列車が来るのかと思い、聞いてみたらまだ1時間以上間があった。 鉄道写真というのは忍耐の産物なのだなあ、わたしにはできない。 こちらはいすみ鉄道に入ってすぐのところにある小さな駅。 桜やチューリップが咲き、掃除まで行き届いた、気持ちのよい駅だった。すぐ前に小学校があり、校庭では祭日でもないのに日章旗が掲揚されていた。 茂原市茂原公園にある桜。屋台まで出てなかなかの賑わいだった。 ただし、桜見物というのは口実。わたしのほうはその手前にある大多喜町の名物『10万石』という、厚さが3センチはあろうかという分厚い最中を買うのが狙いだったのだ。 帰りに矢那ダムのそばを通ったらこちらも満開になっていた。先週ウォーキングに行ったときはまだつぼみが堅かったのに。 市内矢那川河畔の桜。 昨日は日野に出かけていた。こちらも満開。 いまの時期は、家に籠もっているのがもったいなく、毎日なんだかんだ用をつくっては出かけている。 山の色彩が日に日にちがい、毎日感激をあらたにしているのだ。 |
2017.4.8 あっという間に春たけなわとなった。 庭の雑草が、目に見えて大きくなるのが、わが家の春の最大の特徴だ。 引いても引いてもへこたれない。たくましくて、貪婪。このしぶとさには、いつも人間が泣かされている。 桜の木もけっこうたくさんあるのだが、植えたものではないから、それほど花は多くなく、見栄えもしない。 第一背が高く、花は枝先で咲いているから下からだとよく見えないのだ。 林の中で、ほかの木に混じって生きているせいだろう。 成長競争に負けたら、日陰に追いやられて枯れてしまうこと必至。木にしてみたら、花を咲かせるどころではないのだろう。 それでもっぱら遠目での鑑賞となる。 視界がぼやけたような、この時期特有の淡い色彩こそ春の景物、大好きである。 こちらは目の前で咲いている木蓮。 やっと咲いたと思ったら、昨日今日の強い風でむりやり散らされてしまった。花弁が大きいから、風には弱いのである。 モグラの掘った土の山というか、塚。ひと晩で3つもできた。1列になっているが、必ずしもこの下に穴があるわけではないそうだ。 今日の夕方、かみさんが見つけて知らせに来た穴。小さな土くれが、数にして20くらい、不規則に散らばっていた。 穴を掘ったというより、地中から土を押し上げたような跡だ。 もぐらではなさそうだが、正体は不明。午後の、ほんの数時間のうちにできた。 |
2017.4.1 昨日結婚50周年を迎えた。 お互いよくよく辛抱してきたと、手前味噌で自分たちを誉めてやっている。 そのささやかなお祝いとして、ふたりで昼めしを食いに行った。 わが家はド田舎と言えるほど草深い里にあるのだが、車で10分も行く、ホテルオークラが経営するホテルだってあるのだ。 バブルの最中にできたかずさアカデミアパークという工業団地のなかにできたもので、つぶれもせず、こちらも今年めでたく20周年を迎えた。 特別な客でもあれば連れて行こうと思っていたが、そういう人が来ることはまずないから、これまでずっと行く機会がなかった。 今年が金婚式だということで、子供らがお祝いをしてくれることになり、それをここでやろうということになった。話が決まったとき、偵察を兼ねて、はじめてランチを食いに行った。 ところがその後、家族に怪我人が出て、お祝いも延期になり、そのままになった。 今回ようやく、ここでめしを食うくらいの理由はできたわけで、晴れて出かけてきたのだった。 久しぶりにジャケットを着たせいか、うれしそうな顔をしております。ただしかみさんは出演を拒否。 このあと客が増えてきたため、なかの写真は撮れなくなった。全然ないわけではないが、他人様の顔が写っているから、公表できない。まことに窮屈な世のなかになった。 外の庭園。山間にあるせいか、コブシが咲きはじめたくらいで、ほかの花の芽はまだ固い。 |
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