Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2017年3月までの「きのうの話」目次へ




 

2017.3.25
 今週はある作家のパーティがあり、案内をもらっていたが出席しなかった。
 何十年ものつき合いになる作家だ。本来ならなにを置いても駆けつけなければならないのだが、今年から公の場へは極力出ないようにしようと思いはじめたところなので、そのきっかけとして失礼させてもらうことにした。
 来月も同じようなパーティがあるが、これも出ないと決めている。
 80になったからということもあるし、木更津に引っ込んだのが転機になったこともある。だんだん出不精になって、人と会うのが億劫になってきた。
 もっとはっきり言えば、体力の衰えを自覚するようになり、外での行動に自信が持てなくなってきたのだ。そのうち、みっともない醜態をさらしそうで不安なのである。
 親しくさせてもらっていた先輩作家が、ある時期を境に、ぴたっと出てこなくなったのを思い出す。
 陽気な人で、その人がいると話がひときわ盛り上がったから、顔が見られなくなると、なにか欠けたほど淋しかった。しかしその一方で、なんとなく納得していることでもあった。
 わたしにも見栄がある。
 いつまでも矍鑠として、とくに頭はすこしも衰えていなかったと、人には思ってもらいたい。そのためには、ぼろの出る恐れがある場へは、できるだけ出ないにこしたことはないということだ。
 小説はまだ書くつもりだが、それ以外のことでは忘れられてもかまわない。
 忘れていたころ新刊の広告が出て、え、あの人まだ生きていたんだ、と思ってもらえたらそれで十分だろう。
 だからすこしずつ人前に出ることはやめる。
 人間には引き時というものがあると思うのである。


2017.3.18
 いつもダムの周辺を歩いているから、すこしちがったところへ行ってみようということで、新興住宅団地の裏に延びる里山へ足を延ばしてみた。
 そしたら思わぬ風景に出会った。CMにでも登場してきそうな大木だ。

 木はクスノキ科のタブノキ。
 シイ、カシノ木と並んで暖地を代表する常緑樹で、お宮の境内によく植えられている。大きくなると20メートルを超える大木になる。
 アボカドと同属とかで、実はアボカドの味がするそうだ。木の実ならたいてい食ったことがあるわたしが、迂闊なことにまったく知らなかった。
 しかし実といっても1センチ大くらい。ほとんどが種だから、食えるところはわずかしかないらしい。とにかく今年の秋、実をつけたら必ず食ってやろうと思っている。

 1本の木に見えるが、いくつか株分かれして、全体でひとつの緑樹になっている。根元に地蔵さんが安置してあったから、木の大きさからいっても、江戸時代から地元の信仰を集めてきたのだろう。

 反対側から見たところ。ここにも景観を台なしにする電柱が立っている。

 この周辺の道。現場は人家のほとんどないところで、ときおり車が通り抜ける程度、物騒ではないが、人はちらほらとしか通らない。
 一見のどかで美しい風景だが、じつは道の両側がごみだらけなのだ。前方では、車から投げ捨てたごみが折り重なっている。
 わが家の周辺にも杉木立に囲まれた人気のない道が100メートルほどある。地元の勤労奉仕で路傍の草刈りなど定期的に行われているのだが、きれいになった途端、すぐにごみが投げ捨てられてしまうのだ。
 そのほとんどがコンビニで買った食いもののパックや包装、空き缶類で、それをビニール袋ごと捨てて行くのである。
 観光客の来るところではなく、地理を知っている地元の人間が通り抜ける道なのだ。ほんの数秒間、人目がなくなる道でもある。
 千葉の悪口は言いたくないのだが、同じ光景はどこへ行っても見かける。残念ながら民度が低いと言わざるを得ない。
 とはいえこれは、けっして千葉に限ったことではないはずだ。時代が進むにつれ、人間が劣化してくるのを思い知らされることぐらいやりきれないものはない。


2017.3.11
 今日は眼科の定期検診を受けてきた。
 眼底検査、眼圧検査、視野検査、画像検査、すべてやったが、瞳孔をひろげる薬を3回も注されたから、まぶしくて車の運転をして自宅へ帰るのがやっと、あとはなにもできなかった。
 緑内障は一応安定しているが、白内障がやや進行しているので、いずれ手術するようになるだろうと言われた。一種の老化現象だから致し方あるまい。
 一昨日は糖尿病の定期検診だった。
 1日で両方すませてしまいたいのだが、そうすると時間がかかりすぎて帰りが暗くなってしまう。ライトが灯ってからの運転はしたくないので、2回に分けざるを得ないのである。
 最近の躰の調子から、糖尿病の数値もこのところ安定している。
 自分ではなぜ糖尿病になってしまったのか、納得していないくらいなのだ。
 とくに甘いものを好んだこともない。思い当たることがあるとすれば、生活が不規則で夜更かしが当たり前だったから、食えるときに食った、つまりまとめてどか食いをすることが多かったからではないか。
 現在のような食生活だったら、こんな病気には絶対なっていなかった。と思うと若いときの軽率が悔やまれる。
 躰のなかで、最近いちばんがたがきているのは歯だ。冷たいものが猛烈にしみはじめ、水もおちおち飲めなくなってきた。
 鏡をのぞいて調べてみると、歯の隙間がだんだん大きくなり、虫歯のような窪みができはじめている。
 歯磨きはちゃんとしているから、これも老化現象のひとつだろうが、あと10年ぐらいは持ちこたえなければならないと思うと、少々厄介である。


 今日は温暖で風もなかったから、医者へ行くついでに江川海岸をのぞいてきた。 
 そろそろブームも去り、人も少なくなっているだろうと思ったところ、あきれたことに人っ子ひとりいなかった。
 干潮時間だったから行ったのである。
 満潮時はこの浜がすべて水没してしまう。干満差が2メートル近くあるわけだ。
 無風なので煙が真っ直ぐ立ち上っている。




 海中へ延びる電柱風景は、反対側にもうひとつあって、それがこちら。
 電柱の本数が少ないし、間隔が開きすぎているから、あまり見栄えしない。先端の監視小屋まで、電線を引いた跡であることがこの写真でよくわかる。


 自衛隊のヘリが、荷を吊るしてタッチアンドゴーをやっていた。
 昨日アメリカ軍がタイヤを落としたニュースが伝えられたけど、こういう訓練は場数を踏むことが大切だから欠かせないのだろう。
 だからこそ松本の事故は気の毒でことばが出ない。


2017.3.4
 今週はかみさんの具合がいまいちだったので、どこへも行かなかった。このごろ、どちらかの体調の思わしくない日が、以前より頻繁に起こりはじめたような気がする。
 わたしも先月玄関先でつまずき、膝を突いた。さいわいなにごともなかったが、老人が家のなかで転んで骨折する典型的なケースだったと思い知り、冷や汗をかいた。
 転ぶとき、無意識に手でかばおうとするのが、いちばんいけない。
 一昨年だったか、バイクで転んだときがそうだった。
 バイクが倒れ、こちらもよろめいて尻餅をついたのだが、そのときも躯をかばって先に手を突いた。
 ほんのゆっくりした動きで、ダメージはまったくなかった。それでも手首の骨が折れたのだった。
 京都の東山で転落したときもそうである。
 落ち葉で覆われた谷だったから、下手にあわてず、下まで転がっていたら、打撲や擦り傷ぐらいですんだはずなのだ。
 それを必死になって、なにかをつかもうとしてあがいたから、手首の骨がぐじゃぐじゃになった。
 ただこれらはアウトドアでの事故だった。
 これからは家のなかで起きる事故に気をつけなければならない。
 というので最近は、いきなり動いたり立ち上がったりしないようにしている。
 朝目覚めたときも、すぐは立ち上がらない。一呼吸置き、よし、立つぞ、と自分に言い聞かせてから起き上がる。
 なにをするにせよ、覚悟をうながしてからを習慣にしはじめたのだ。
 それも、これも、躯の踏ん張りが利かなくなったことに脅威を感じているからでである。
 衰えの進行をすこしでも遅らせようと、肉体のケアもはじめた。
 足腰の衰えは老化の大元だから、友人の助言に従って昨年からスクワットをはじめた。1回に40回、それを朝、昼、晩と1日最低3回はやる。
 躰が慣れてくるにつれ、ほかのこともやりはじめた。
 いまやっているのは肩甲骨剥がし、躰を柔軟にする体操、血糖値を下げるスクラッチ、腰痛防止体操など、テレビで見たり、ネットで調べたりしてものが主だ。
 とにかく、よさそうなものはなんでも取り入れる。むろん長続きしないものもあるが、これは躰でわかったというか、必要としないものだと思うことにしている。
 朝は躰が硬いから10分ぐらい。夜は15分から20分、風呂上がりのときは30分近くかけることもある。
 思い込みかもしれないが、調子がよくなってきたような気がする。
 この先どれくらいいまの肉体を維持できるか、それが今後の課題なのだ。質はなんとしても落としたくないのである。


2017.2.25
 今週も用があって都内へ出かけていた。
 月曜日に行ったのだが、朝からものすごい風で、空が土埃で染まったほどだった。
 ネットでようすを見ると、風はまだ強くなりそうだし、アクアラインにも速度規制がかかった。
 これはやばいというので予定を早め、10時すぎのバスに乗った。
 そのときのアクアラインの風速が16メートル、東京湾は白波で泡立っていた。
 心配した通り、昼すぎから通行禁止になった。
 通れなくなったらどうするか。
 考えてみたことはなかったが、バスだから運休はしないのだった。
 千葉経由で、東京湾をぐるっと半周しながら目的地まで行く。
 だったらこのコースは、自分で運転して通ることはもうないから、遊覧バス気分で1回くらい乗ってみてもいいと思う。
 それにしても今週は風が強かった。
 水曜日に立川へ出たついでに、昭和記念公園へ歩きに行った。
 国営の公園である。飛行場の跡地だからとにかく広い。
 ただ木々が若いし、平坦地だから、風はほかのところよりもっと強い。
 2万歩歩いてやろうと意気込んで出かけたが、とてもそんな気分になれない。
 引き返すのも癪だから、レンタサイクルで園内を1周してきた。
 自転車には10年以上乗っていなかった。
 手、腕、足、肉体の機能がいかに衰えているか、再確認したようなものだった。
 意志が動きを統制できないのである。
 思うように漕げないし、だいたい乗り降りするとき、足が車体をまたげないのだ。
 2万歩どころか、書店やデパートを歩いた分まで加え、1万歩にするのが精一杯だった。


 こういうスケールの大きさは、馬車で巡ることを前提につくられたヨーロッパの王宮並みだ。
 それにしては大味なのだが、これは緊急時の応急避難場所や、救援隊の基地も兼ねているから、やむを得ないかもしれない。


 自転車専用道路。歩行エリアと交錯しない設計になっているのは評価できる。



 花はまだ梅ぐらいしか咲いていなかった。黄色い花はロウバイである。


 武蔵野の典型的な農家が移築してある。
 だがいくら精緻に再現しても、生活感がないものは張りぼてに等しい。公共施設の常として、立て札や注意書きがやたら多いのもつや消しだ。
 この公園の最大の欠点は、防災関係の基地と隣り合っているため、ヘリコプターが絶えず飛び回ってうるさいことだろう。純粋な公園でないところが、なんだか哀しい。


2017.2.18
 鋸南町の佐久間ダムというところで、河津桜が満開だというから見に行ってきた。
 佐久間ダムといっても、木更津の矢那ダムと同じ程度の小規模ダムである。
 季節ごとにいろんな花が見られるよう、湖畔に多種の花木が植えられている。河津桜もその一環で、ここでは頼朝桜と名づけられていた。
 満開のニュースはTVで知った。それまでこんなダムのあることすら知らなかった。
 同じ人が多かったのだろう。平日だったにもかかわらず、つぎからつぎへと車が押しかけ、人家のまったくない山間が観光客であふれていた。
 駐車場がいくつかあるけど入りきれないのである。
 一方通行になっている湖岸を1周したが、車を止めるところがないからだった。
 歩いている人を押しのけて通り抜けたわけで、あんまり気分はよくなかった。
 歩いて観光しているところへ、車が割り込んでくることぐらい不愉快なものはない。京都で散々体験したから、割り込むのもいやなのである。
 それでさーっと一瞥しただけ、ほとんど歩かず帰ってきた。
 言っては悪いが、そうまでして押しかけるほどのところではない。
 それもこれも、東京圏は人が多すぎるからだろう。
 自分もそういう野次馬のひとりとして、なんだか後味のよくない行楽だった。





 桜も残念ながら盛りをすぎていた。
 木が小さいので、花が咲いても華やかさに欠ける。全山が朱に染まるような光景となるのは、5、6年以上先のことだろう。
 山裾に白く見えているのは、路端に止まっている車である。




 そこから鴨川へ、ちょっと入ったところにある大山の千枚田というところにも寄って来た。
 有志やボランティアの活動によって維持されているようだが、こちらもいまはこのような冬枯れの田んぼだった。
 やはり田は水が張られ、空の色が映し出される新緑の季節でないと美しくない。


2017.2.11
 所用があって川崎まで行った。往復ともアクアライン経由のバスに乗った。
 川崎行きに乗ったのははじめてだ。
 高速を下りてから長いのだが、扇島の工業地帯にバスターミナルがあって、朝の通勤時間だったせいか、ここで10人くらい下りた。
 タクシーも待っていて、すぐさま乗り込んだ客がいたところを見ると、そこから勤め先までタクシーで行く人なのだろう。
 帰りの便は海ほたるにも寄った。どういう客なのか、ここでひとり降りた。
 これでアクアラインを走るバスは、空港行きをのぞいてすべて乗ったことになる。
 横浜、川崎、品川、東京の各駅、新宿バスターミナルへ向かう高速バスである。
 いま、1日どれくらいの本数が走っているか、調べてみた。
 もっとも多かったのが東京駅行きで、1日113便。
 以下多い順に品川50、横浜45、新宿32、川崎32。これに羽田、成田の空港行きが加わって、1日合計304本あった。
 木更津駅からスタートするバスだけである。
 ほかに君津、鴨川、館山、袖ケ浦、市原から出発するバスもあるから、すべてひっくるめたら1日400本は超えるものと思われる。
 ひとつの県の、1地域から出発するバスとしては、異様な本数だろう。
 もっとも本数の多い東京駅行きになると、朝の7時台に18本も出ている。最短2分刻みなのだ。
 料金はいちばん高い新宿で1550円。所要時間1時間15分。
 このバスの最大の利点は全員坐って行けることだ。
 最近首都圏の私鉄が、通勤客が坐って行けるための指定席電車を走らせる、という計画を発表してニュースになっていたが、木更津の住人としては失笑するしかなかった。
 房総に関する限り、電車は完膚なきまでバスに負けたのである。通勤の形態が完全に変わってしまった。
 通勤費が支給される企業なら、木更津に住む選択は大きな魅力だと思う。
 そういえばたしかに、スーパなどで見かける若い夫婦や、子供たちが多い。20年まえの郊外都市を思わせる光景が生きているのである。
 アクアラインの欠点は、強風が吹くとバスが止まってしまうことだ。
 一回経験している。
 東京湾の上を走行しているとき、強風のため通行禁止、という報せが入ってきたのだが、すでに走っているときだったから影響はなかった。


2017.2.4
 駅前の病院までかみさんを送って行ったので、診察が終わるまでの間、まえから気になっていた証誠寺へ行ってきた。
 童謡『証城寺の狸ばやし』で有名な、あの証誠寺である。ただし童謡のほうは「証城寺」となっている。
 木更津駅から歩いて数分の距離なのだが、駅の西口、つまりわが家からいえば駅の向こう側なので、ふだんはまったく足を踏み入れないところなのだ。
 はじめて歩いてあらためて気づいたのは、駅の西口こそ、かつての木更津の中心地で、江戸時代からつづいてきた繁華の地だったことである。
 その名残を思わせる店が、ところどころ残っている。それがいまや、人っ子ひとり歩いていないというのがなんとも哀しい。
 かつてはだれもが知っていた『証城寺の狸ばやし』も、最近はほとんど歌われていないのではないだろうか。聞いたことがない、子のほうがはるかに多くなっているはずだ。


 密集した住宅街にあるため、敷地は広くない。正面の本堂、右の鐘楼ともこぢんまりとしており、訪問客はひとりもいなかった。


 昭和30年代に建てられた童謡の記念碑。
 作詞野口雨情、作曲中山晋平、つくられたのは大正14年(1925)、100年近くまえのことだ。
 そういえばむかしは、夏になると必ずといっていいほど、狸御殿を題材にした映画が公開されたものだった。
 狸という動物は日本人にとってそれだけ身近な存在だったのだが、いまや相対的価値は下がるばかり、あの愛嬌のある顔立ちは犬猫にけっして劣らないと思うのだが。


 狸塚。腹鼓を打ちすぎ、腹の皮が破れて死んだという狸を葬ってあるとか。
 童謡の元になった伝説の塚である。


 同じ境内にあった筆子塚。祀られているのはこの寺の住職だった。
 筆子塚というのは、寺子屋の師匠の徳をしのび、教え子たちが建てた墓や碑のことで、千葉県はこの筆子塚がものすごく多いことで有名だ。
 江戸時代の手習いの師匠というのは、単なる読み書きだけでなく、人生の節目をはじめ一生を通じての師であって、寺子にとってはかけがえのない師であった。
 ある研究者が、バイクで県内すべてを調査して回った結果、安房、上総、下総全体に3350もの筆子塚があったと報告している。
 房総は一大消費地である江戸に近かったため、商品経済が発達、一介の百姓といえど知的レベルは高かったのである。


2017.1.28
 今日は低気圧のもたらした春の大風が一日吹き荒れた。
 小高い丘陵の上にあるわが家は、風の強い日は落ち着かない。
 突風が吹くと、一瞬家が持ち上がりそうになるのだ。
 瞬間最大風速は、30メートル近くあったのではないだろうか。
 おかげで柚子の実が大量に落ちた。
 柚子搾りはもうしたくないから、今回はすべてゆず湯用にするつもり。
 昨日の朝は、外の水道蛇口に小さなつららができていた。
 これ以上寒くなるようだったら、氷結防止に、夜は水を出しっ放しにしなければならない。
 この地区は20数軒家があるが、上にあるのは5軒だけで、ほかはすべて丘陵の下、いわゆる谷戸沿いにある。
 標高差にしたらせいぜい10メートルか20メートルくらいしかちがわないのだが、気温はかなりちがうそうで、朝はマイナス数度まで下がるという。
 だから下の地区では蜜柑ができない。
 そう言われてみると、寒さに強い柚子はあるものの、ほかの柑橘類は見たことがない。
 風の強さに閉口しているわが家だが、今年も甘夏と夏みかんは枝もたわわに実ってくれた。
 とはいえ越してきてすぐ植えた小夏、文旦、金柑は、ふた冬を越したいまでもまだ実をつけていない。
 これはろくに世話をしてやらないからだ。この冬はまじめに、剪定と肥料やりをしてやろうと思っている。


 寒さはいまがピークだが、植物にはもう春の近いのがわかるのか、梅のつぼみがふくらんできた。


 今週はダムに注ぐ水路が凍っていた。ふだんちょろちょろとしか水の流れていない水路で、こんなに凍ったのははじめてだ。
 凍りついた氷の下を流れ落ちる水が、オタマジャクシが走り抜けているみたいで見ていて面白かった。とはいえこの写真ではとてもそこまでわからないが。


 ダム湖で羽を休めている水鳥が、今年はものすごく増えた。
 それで鳥の図鑑と双眼鏡を手に、いそいそと出かけてみたら1羽もいなくなっていた。
 水鳥は出入りが激しいから、なかなかじっくり見る機会がない。


2017.1.21
 去年は数えるほどしか実をつけなかった柚子が、今年は大豊作、できすぎて始末に困っていた。
 産直市場に出せばいくらか収入にはなるが、わが家の柚子はまったく手入れをしていないので、売りものになるようなきれいな実がまずない。ただで差し上げるのだって恥ずかしくなるような、不細工な実ばかりなのだ。


 栽培農家は実をひとつずつ摘み取っているようだが、柚子の木には鋭いトゲがあるから、とてもそんな手間はかけてられない。
 棒で叩き落として拾い集め、洗って、これから搾りにかけるところ。
 あまりの量に恐れをなしてこれくらいでやめたが、木にはまだ3分の1くらい残っている。


 真ん中にある白い板が手製の絞り器。笊の下に、絞り汁を受ける鍋が据えてある。
 市販の絞り器で適当なものがあれば買うつもりだったが、調べてみたらけっこう高価である。
 それで、自分でつくったのだ。
 とはいえ厚い板を2枚用意し、蝶番で止めただけ。これで半分に切った柚子を挟み、押しつぶすのである。
 左が搾るまえの柚子。
 右は搾ったあとのかす。なかなかきれいに搾れている。


 このじいさんが骨身を惜しまず働くのは、食いもののときだけである。


 はじめのうちは丁寧にやっていたから、80パーセントぐらい搾れていた。疲れてくるにつれ作業が雑になり、お終いのころは60パーセントぐらいの搾り方になっていた。
 ふだん無造作に、1升買いした柚子を使っていたから、約200個の柚子から2リットル足らずの果汁しか得られなかったのはショックだった。
 これからは襟を正して使うつもりだ。


2017.1.14
 新年早々風邪を引いてしまった。
 熱も咳もないのだが、躯の節々が痛くてたまらない。
 多摩を、12月は一度も訪れなかったから、郵便物の整理を兼ねて昨日から日野に来ている。
 そうしたら何十年ぶりという大寒波の襲来だ。
 本人より家族のほうが心配して、早く帰ってこいと矢のような催促。
 日曜日までいるつもりだったから、それに合わせて食料を買い込んでいるんだよなあ。
 長くはおけないものばかりだから、持って帰るとなると、持ち運びにひと苦労しそうだ。
 とにかく今日のところは風邪薬を飲み、明日のようすを見てから決めることにする。

 かみさんが階下で変な音がすると注進に来たから下へおりてみた。
 するとたしかに、こつんこつんと、なにか打つような変な音がする。
 水が漏れている音ではないし、鼠が動き回っている気配ともちがう。
 外になにかいるのかと出てみたが、それらしいものもいない。
 もどってきてしばらくすると、また同じ音がしはじめる。
 同じことを2回繰り返し、ようやくあることに思い当たった。
 そういえばさっき、裏へ出てみたときヒヨドリが飛び去った。
 同じ鳥が、われわれがいなくなると、また舞いもどっていたのである。
 庭先の木の小枝に止まり、狙いすまして、壁に向かって飛びかかっていたのだ。
 こつんこつんという音は、そのたびにくちばしが、板壁に当たって出る音だった。





 それであらためて壁をじっくり見た。
 すると虫か蛾の越冬用の卵だろうか、蓑虫みたいな細長いものが、壁に何十何百とくっついていた。
 ヒヨドリはそれを狙って、せっせと飛びかかっていたのである。
 何の卵か、取ってきてルーペでのぞいてみたがよくわからなかった。春になって虫が孵るまで、しばらく待つしかないようだ。
 われわれに邪魔されたせいか、ヒヨドリは飛び去って以後来なくなった。


2017.1.7
 明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。
 とうとう80代に突入してしまった。
 ずいぶん長生きしたなと思う一方、まだ平均寿命をわずかに超えた程度。
 いったいいつまで生きなきゃならんのか、面倒くさく思う気持ちもだいぶ強くなってきた。
 しかしおだやかで暖かい正月だった。
 2日には次男一家5人が来てくれ、たっぷりじいさん、ばあさん孝行をしてくれた。
 孫たちとバドミントンをしたり、かみさんと孫娘がオカリナの合奏をしたり、盛りたくさんの一日だった。
 残念ながらじいさんは、バドミントンはすぐにやめた。
 足がついていかないのだ。たやすく打ち返せるはずが、手が届かないのである。
 それで以後は、焚き火の指導係に徹した。
 孫たちは焚き火がはじめて。都内ではもう焚き火などできないからだ。
 次男が子供の頃は、まだ庭で自由に火を焚くことができた。
 ブリキ製の焼却炉を普通に売っていて、紙くずなどはすべて燃やせた。
 ダイオキシンがどうのこうの、だれも言わなかった時代の話だ。
 いまや法規上は、どこでも焚き火禁止らしい。
 ところがわが家の近辺では、みなごみを庭で燃やしているし、田畑の野焼きも当然のように行われている。
 木更津へ来てうれしかったことのひとつだ。
 それで孫たちに、焚き火の魅力をからだで体験させてやったのである。


 北斎描くところの『富嶽36景』「神奈川沖浪裏」さながらの光景を富津岬で見てきた。
 風が猛烈に強い日で、海では白浪が逆立っていた。右手の島は第一海堡。
 午前中に出かけていたら、風はもっと強かったし、富士ももっとくっきり見えただろう。


 この日吹いていたのは北風。つまり東京の方から陸に向かって吹きつけていた。
 おかげで護岸を乗り越えた波が、駐車場に流れ込んで池をつくっていた。
 向こうに白く見えているのがその波。


 こんな日にカイト(凧)を飛ばしているやつがいる、と思ったがそれにしては人間がいない。よくよく見たらカイトを使ったサーフィンだった。


 カイトの下にボードに乗った人間がいるんだが、もうちょっと引き立つ色のウエットスーツを着たらどうだ。
 しかしこんなに風が強く、冷たい日に、ご苦労なことよ。相当な根性がないとできないことはよくわかった。




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