Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2016年12月までの「きのうの話」目次へ




 

2016.12.31
 映画『スター・ウォーズ』が公開されたのはいつのことだったか。調べてみたら1977年だった。
 ざっと40年まえである。わたしが、いまの半分の年齢だったときのことだ。
 映画そのものはただただ面白かったが、それよりあとになって、このなかでヒロインのレイア姫を演じていたのが、デビー・レイノルズの娘だと知ってぶったまげたのだった。
 なにを隠そう、わたしのこれまで見てきた映画のなかで、ベスト3に入れていいと思えるのが、ジーン・ケリーと彼女が共演した『雨に唄えば』だったのである。
 この映画の公開は1952年。というと昭和27年、わたしが高校生、17歳のときだ。
 戦後の復興半ばのころで「貧乏人は麦を食え」と某総理大臣が放言する以前の、腹一杯食うのが夢だったころのことである。
 田舎の貧しい高校生に過ぎなかった若者には、このころのアメリカ映画くらいゴージャスで、贅を尽くした、うらやましい世界はなかった。
 なにもかも異次元といっていいくらい、レベルがちがっていた。
 そういう時代だったからこそ、束の間でも現実を忘れさせてくれ映画が、娯楽の王座を占めていたのである。
 いろんな映画を見ているうち、ミュージカル映画がいちばん好きになった。
 ストーリーが夢と希望に満ちている上、粋で、洒落てて、しかもハッピーエンドというのがありがたかった。
 立川談志が『雨に唄えば』の大ファンだったそうで、50回以上見たと公言していた。
 その気持ちは痛いほどよくわかる。わたしだって10数回見ているのだ。面識はなかったが同い年なのである。
 だからこそ、このたびのキャリー・フィッシャー、デビー・レイノルズの親娘が、二日の間につづけて亡くなったというニュースくらいショッキングなものはなかった。
 キャリーの60歳というのはあまりにも若すぎるし、デビーの84歳というのも、え、もうそんな年だったの、とあらためておどろいたのだ。
 人のことを言えたものではない。自分だってそれに近い年なのだ。同じことがいつ起こっても不思議はなくなっている。
 ひとつの時代が終わったことはたしかだろう。
 年の瀬になって、なんとも厳粛な気持ちになっている。
 心してつぎの年を迎えるつもりだ。


2016.12.24
 日本のウユニ湖だとかなんとか、木更津の江川海岸がすごい人気だというから、のぞきに行ってきた。
 以前小櫃川の河口を紹介したことがあるが、あれは右岸。
 江川海岸は左岸にひろがる、もっと大きな干潟である。
 遠浅の海をはるか行ったところに、潮干狩り客を見守るための監視小屋がある。
 そこへ電気を引いたときの電柱が、使わなくなったいまも残っているのだ。
 満潮になると水中に林立するから、ほかでは見られない風景として人気が出たらしい。
 したがって来るのはほとんど撮影目的のアマチュアカメラマン。
 はじめて行った日はものすごく風が強く、しかも寒かった。
 それにもかかわらず、大勢人がいたからびっくりした。
 だだっ広い浜があるきりの、売店ひとつないところなのだ。
 駐車場に並んでいた車は半分以上が県外ナンバー、観光バスまで止まっていた。
 というより、わたしがなにも知らなかったというだけで、カメラマンの間ではそれくらい有名になっていたということだろう。


 だれもいない浜の先に、これほど大勢人がいるとは。


 向こうはお隣君津の新日鉄の工場。
 ただいま潮が半分引いたところ。


 干潮。いちばん潮が引いたとき。


 電柱はその先から右へ曲がる。右端に見えているのが監視小屋。
 鴨のいるところは、干潮のときの船の水路になっている。


 日没。右手に富士が見えている。


 黄昏。


 満潮。


 すぐ横は自衛隊の基地。低空飛行をするヘリコプターが見られる。
 これまで4回、干潮、満潮、日の出、日没と、時間に合わせて出かけてみたが、雲の色が刻々と変化する夕刻がいちばん美しい。
 家からだと30分足らずで行けるから、これからときどき出かけてみようと思っている。


2016.12.17
 せがれが休みで、どこか行きたいところがあったら連れて行ってやるというから、安房鴨川の清澄寺を希望した。
 日蓮が12歳のとき出家得度した寺だ。
 日蓮宗の大本山で、4大霊場のひとつに数えられている。
 前からのぞいて見たいと思っていた。
 宗教には興味がないのに、山のなかの神社仏閣を訪ねるのは大好きなのである。
 これらは、きびしい修行をするための環境づくりとして、自然の力を目一杯借りている。長い時間をかけてつくり出された雰囲気に、得も言われぬ魅力を感じるのだ。
 木更津から安房鴨川だと、距離はそれほどない。しかしその間に横たわっている房総の山というのが、何度も言うように、ある意味ものすごく険しい。
 谷沿いを行く道は曲がりくねり、すれ違いもままならないほど狭く、トンネルだらけである。
 運転に自信がなくなったいまでは、通る気がしない道路ばかりなのだ。
 だからせがれの申し出は渡りに船だった。
 今回は上総亀山からの県道を行ったが、トンネルだけで15前後あった。


 清澄寺の門前から境内を臨む。
 もっと荘厳なお寺を想像していたのだが、意外に明るくて拍子抜けした。
 鬱蒼とした木々がないのである。
 ものすごく寒い日だったせいか、参詣人の姿もちらほら。門前の店も営業しているように見えなかった。


 境内にある樹齢1000年を越す大杉。
 かつてはこのような大木が林立していたということだろう。この杉も、惜しいことに途中で折れてしまっている。


 見る人とてない冬の桜。


 そのあと房総半島を1周しようと足を延ばした。
 房総半島の最南端になる野島埼へ立ち寄ったのは、かれこれ50年ぶりだ。
 職場のバス旅行で行ったのだが、野島埼へ来たことは覚えているものの、ここでなにをしたか、どこで泊まったか、といったことはなにひとつ思い出せない。
 野島埼の磯で遊んだ記憶はあるが、灯台へは上がらなかったのではないだろうか。
 今回は100段ほどらせん階段を上がり、30メートル高の上まで登ってみた。これは洲崎方面を臨み見たところ。


 反対側の千倉方面。
 木立に灯台の影が映っているが、なんとしたことか、灯台の写真は1枚も撮っていなかった。
 結局今回も道草が多すぎ、時間切れとなって、洲崎方面まで回れなかった。


2016.12.10
 車で1時間足らずのところに、最近評判になっている『亀岩の洞窟』という観光スポットがある。
 元はといえば江戸時代、田へ水を引くため百姓が掘ったトンネルである。
 地元の人が知っていたくらいで、観光地としては無名。10年ほど前までは名前もついていなかった。
 それがジブリに出てきそうなトンネルだとか言われはじめ、口コミやネットであっという間にブレーク、いまや訪れる人が引きも切らない一大観光地となった。
 今回は、関東でいちばん遅い紅葉が見られるという亀山湖へ行くつもりだった。
 亀山湖は木更津を流れる小櫃川上流、亀岩の洞窟は君津を流れる小糸川上流、両者は数キロしか離れていないから、亀山湖へ行くついでに寄ってみようとしたのだ。
 到着しておどろいたのなんの。
 平日の午前中だというのに、観光バスがつぎからつぎへとやって来る。
 道路には駐車場へ誘導する係員まで出て、人家とてない山間が、いったいなんの騒ぎだろうという人で沸き返っていた。
 そのすべてが、この洞窟を見るためにやって来たのだ。
 それがそろいもそろってお年寄りばかり。首に一眼レフをぶら下げたばあさんが増えたなあ。みなさん裕福なのである。


 亀岩の洞窟という名がつけられるまで、濃溝の滝と呼ばれていた。上から見下ろすと、たしかに滝らしい流れが見える。


 下までおりたらこの通り。
 なかなかの眺めだが、これ以上近寄ると、向こう側のコンクリートが丸見えになる。
 これが山のなかでなかったら、ただの水路トンネルじゃんと、見向きもされなかったろうなあ。


 干上がった川の跡は遊歩道として整備されている。なかなか気持ちのよい道だった。
 君津市は木更津市より金持ちなのか、こういう整備や誘導員の派遣をきちんとやっている。


 京都に負けない紅葉だと思いませんか。




 笹川ダム湖の紅葉。
 曲がりくねった川を堰止めた湖なので、橋がちがうと眺めもがらっとちがう。この3枚は、歩いて数分内の光景なのだ。
 結局亀山ダム湖へは行かなかった。


2016.12.3
 かねてから工事中だった千葉駅のエキナカが完成したというから、喜んで見に行った。
 そしたら一期工事が終わっただけ、ただの部分開業にすぎなかった。
 53年ぶりの大改築というから期待していたのだ。
 というのも千葉駅周辺には、大人がそぞろ歩いたり、立ち寄ったりするところが、どこにもないからである。
 まえに一度、千葉駅で編集者と会ったことがある。
 木更津まで来るというから、それには及ばないと、中間の千葉駅にしたのだ。
 駅で落ち合い、どこかに腰を落ちつけようとしたのだが、入れるところがどこにもない。
 暑いさなか汗だくになって歩き回り、やっとコーヒーショップを見つけて入ったが、駅の周りに、大人同士が落ち着いて話すことのできる空間がまったくないのにびっくりした。
 全館が完成するのは18年だそうだが、ざっと見て回った感じでは、新駅が落成しても、それほど期待できないような気がした。
 それでなくとも千葉はいま街の空洞化が進み、パルコや三越の撤退が決まったところで、ヘソになる施設がますます減っている。
 新千葉駅が誕生しても、巨大なベッドタウンの乗換駅、つまりおかずを買って帰るところ以上の役割は、担えそうもないのである。

 列車の発車時刻が掲示されているからエキナカとわかる構内。たしかに一新された。
 現在48店舗が営業しているが、ほとんど食いもの屋だった。
 せっかくだから、ただいま総武線沿線で爆発的人気を博している船橋のピーターパンというパンを買って帰った。

 駅前に立っている市か県の看板。周囲の景観を見たら、誇大広告としか思えない。


 郵便物を受け取りに多摩の家へ帰ったところ、見捨てられているサザンカが咲いていた。
 主人がいなくても季節になると律儀に花をつける。すこし胸が痛んだ。

 多摩動物園に通じるモノレール通り。
 両側は桜並木になっているが、中央の植え込みでサザンカが満開だった。
 迂闊にもこれまで、サザンカが植えられていたことに気づかなかった。

 近くにあるタクシー会社の大銀杏。


2016.11.26
 木更津の山のなかが多雪地帯だなんて、知らなかったなあ。
 昨日の雪の話です。
 朝起きてみたら雪がこんこんと降っていた。7時をすぎた段階でうっすら積もっている。
 まさか房総半島でこういう雪景色が見られるとは思いもしなかったから大騒ぎ。仔犬みたいに外へ飛び出し、しばらくそこらをうろついていた。
 8時をすぎると気温も上がり、いずれみぞれになるだろうと思っていたら、とんでもない。逆に気温が下がってきた。
 そして雪は大粒の牡丹雪となり、もはやしんしんとしかいいようのない降り方になってきた。
 テレビも54年ぶりの11月の雪だというので朝から大はしゃぎ。
 各局ともノンストップで実況中継をやっていたが、都内で降り積もったところはほとんどなく、出てくる映像みな貧弱な、しょぼいものばかり。
 それに比べて木更津はと、なんだか優越感に浸ってじいさんはうれしかったのだ。


 そのころのわが家の積雪状況。2階ベランダの手すりに積もった雪の高さが、このとき7センチに達していた。
 手すりの上部が丸くなっているため、残念ながらこれ以上は積もらず、以後は自らの重みでつぎつぎに滑り落ちた。


 畑の反対側からわが家を望んだところ。家は木立の向こうにすっぽり隠れている。
 この木立はハウスの防風林なのだが、防雪林兼用だったとはなあ。


 畑南端の栗林も雪一色、畑の積雪はおよそ10センチ。


 栗林の中。


 雪をかぶったカラスウリ。
 とはいえこの雪、木更津市街地ではほとんど積もらなかったらしい。
 わが家は海岸から7キロぐらい入った内陸にあり、標高は80メートル前後、周囲は里山だ。
 2キロほど離れたところに、同じ標高にひらかれたニュータウンがあるが、夕方買い物に行ったかみさんの話では、タウン内に雪はまったくなかったそうだ。
 わずかばかりの森や林で、気象条件がこれほどちがってくるということだろう。


2016.11.19
 昨日は風もないおだやかな小春日和だったので、
せがれに運転してもらって行楽に出かけた。
 遠距離でなければわたしでも行けるが、高齢者の自動車事故が増えていることもあって、もう遠出はしないことにしている。
 買い物と医者通い、あとはかみさんの送り迎えと、自制しているのだ。
 今回は鋸山に登るつもりだった。まえから行ってみたいと思っていたのだ。
 途中、鹿野山に寄ってもらった。
 この山、標高400メートル足らずだが、谷の深いことで知られている。
 かつて飼っていた虎が逃げ出し、1ヶ月近く見つからなかったくらい、人跡未踏のジャングルに取り囲まれているのだ。


 中腹の展望台から見下ろした南面の山脈。
 小さな谷が複雑に入り組み、その名も九十九谷と名づけられている。


 その虎を飼っていたのがこの神野寺。けっこう大きな寺だった。


 ただいま境内の紅葉が見頃。


 鋸山へはロープウエーで上がった。
 江戸時代から昭和50年代まで、変わらず石を切り出していた山だ。
 そのため山の形がぎざぎざになり、通称鋸山と呼ばれるようになったもの。
 はじめは石切場の跡まで行ってみるつもりだったが、けっこうアップダウンがあり、しかも段差が大きい。
 いまのかみさんにはちょっと無理だとわかったから、またの機会ということにして、今回は残念ながら引き揚げた。


 鋸南町の保田というところは、浮世絵師菱川師宣の出身地だった。
 その記念館があったからのぞいてきた。ただし中は撮影禁止。
 これは玄関前に立っていた有名な「見返り美人」の銅像。
 ちょっと格好がちがうような気もするが、後姿を描いた絵から想像してこしらえた像だから、これくらいは仕方がないのかもしれない。


2016.11.12
 風邪を引いて以来、咽の調子がすっかりおかしくなった。何か引っかかっているみたいで、声が出にくいのである。
 それで気がついたのは、このところますますしゃべらなくなっているということだった。
 外出しなくなって、しゃべる機会が減ってきた。
 かみさんやせがれ相手では、話もはずまない。
 咽の錆びつく条件がそろっていた。
 これではいかん、なにかいい方法はないかと考え、はたとカラオケを思いついた。
 じつをいうと、カラオケは大嫌いなのだ。
 しかしこうなったら仕方がない。歌でも歌って、声を出す習慣を身につけるしかない。
 ということで、家庭でできるカラオケを調べてみた。
 業者から曲をダウンロードし、TV画面で歌う方法があった。用意するのはマイクだけ。
 これこれと思ったが、よくよく調べてみるとわが家のTVは対応していなかった。1年後の製品だと、TVがそのまま使えたのだ。
 がっかりしていたら、YouTubeがあるじゃないと、
かみさんが教えてくれた。
 試してみると、画面は小さいが、パソコンでもカラオケができる。しかもこちらはタダだ。
 以来YouTubeを見ながら、せっせと歌っている。
 わたしが歌うのは、もっぱら小学唱歌である。あとは童謡、流行歌は昭和30年代くらいまでのものしか歌えない。
 要は子供のころや、若かりしころの思い出と結びついた歌しかお気に召さないのだ。
 ただいまYouTubeを総点検し、歌いたい歌をリストアップして、一覧表をこしらえている。
 好きな曲ベストスリーは『砂山』、『冬景色』、『里の秋』である。
 歌手はいらないのだ。
 画像と、歌詞さえ出てきたらそれでよい。懐かしさを取っ替え引っ替えして、ひとり悦に入っているのである。


 荒れ放題だったダム周辺にようやく草刈り部隊が入った。


 写真ではわかりにくいが、かなりの急斜面である。恐らく何回かはひっくり返ったことがあると思うが、作業中なので話は聞けなかった。


 すっかりきれいになったダムの堰堤。


 ツワブキの花。これも幼時の記憶と結びついて好きな花になっている。


 返り咲きの梅。
『冬景色』の歌詞2番「……返り咲きの花も見ゆ」そのままだが、この写真では1輪の花と葉しかわからない。ほんとは3輪写っているんだけど。
 それにしてもこの歌が、作詞作曲とも不詳というのが意外だった。


2016.11.5
 恒例になっている秋の箱根旅行に行ってきた。参加人員8名、2日目に3名帰り、1名来て、計9名。ぜーんぶ男である。
 2日目は独りで岡田美術館へ行き『若冲と蕪村展』を見たあと、元箱根から湖尻まで歩いた。
 前回北岸を歩いたので、今回は駒ヶ岳のある南岸を行った。
 距離にして8キロぐらい、所要時間1時間半、約16000歩だった。

 箱根神社に向かう参道。
 道が整備されているのは、神社の周辺だけ。
 それを外れると、一般道を行かなければならなくなる。歩道もないから、車を気にしいしい、端っこを歩かされる。
 ふたたび遊歩道になるのは、駒ヶ岳ロープウエーから先。どうして遊歩道がろくにないのか、来るたびに腹を立てている。

 箱根神社の大鳥居。欧米系美女がポーズしているが、もちろんわたしのためにしたのではない。

 ススキが見ごろになりはじめた仙石原。
 この道も真っ直ぐ行って、戻ってくるだけ。
 回遊路もなければ、展望所もない。第一ススキの背は高いから、ほとんどなにも見えないのだ。
 このあと乗ったバスの運転手が、仙石原はバスから眺めるのがいちばんです、とアナウンスしていた。だったら下りるまえに教えてくれよ。

 文化の日は孫娘が来てくれたから、富津岬まで海を見に連れて行った。
 女の子とはいえ、小学1年生。
 身軽で、すこしもじっとしていない。それについて行って、じいさんは疲れた。

 今週もダムの周りを、せっせと歩いた。

 枝もたわわに実った柿の木ではなく、カラスウリ。
 なんと、わが家の桜の木にぶら下がっていた。物置の陰だから気がつかなかったのだ。

 カラスウリにもいくつか種類があるようだが、まだ識別できる知識がない。
 これは丸いカラスウリ。青い実、熟れはじめた実、熟した実、3つがひとつ画面に収まった1枚。

 数年まえに伐採された斜面で咲きはじめた白い花。
 そこだけ群落をつくっているのだが、傾斜が急なため、これ以上接近できない。
 調べてみたところ、ナガボノシロワレモコウではないかと思われたものの、自信はない。
 去年までは見かけなかった花である。


2016.10.29
 山形に行ってきた。
『山形小説家講座』というところに呼ばれ、柄でもない大風呂敷をひろげ「AI時代の小説」というテーマでしゃべってきた。
 おかげでこの1ヶ月、下調べと草案づくりにかかりきりだった。
 その日山形市とその一円では、全国技能オリンピック大会というのが開かれていた。
 そのためホテルというホテルが満員。
 なんとか部屋は確保してもらったが、シングル1泊15000円と、観光シーズンの京都並み値段だった。


 翌日は朝早く山形を出立、鶴岡へ出て、羽黒山に登ってきた。
 月山の紅葉を楽しみにしていたが、まだ早かった。
 月山の麓を通る山形・鶴岡間のバスは、日本一の紅葉絶景路線だったが、どうやら20年前の話になってしまったようだ。
 高速道路ができたおかげでいまはそちらしか通らず、村落をまったく見ない、つまらない路線になっていた。


 登りはじめてすぐのところにある樹齢1000年の大杉。


 標高414メートルの頂上まで、1・7キロの登山道がすべて杉並木の石段になっている。
 全2446段。
 写真ではわからないが、ここはものすごい急坂。
 頂上まで標準1時間だそうだが、たっぷり1時間半かかった。


 いまはない別院跡にある芭蕉の句碑。ここに一時滞在していたらしい。


 山頂にある出羽三山のお宮。杉の木に隠れているのが本殿。
 現在は山頂まで道路が開通し、バスが乗り入れている。バスで上まで行き、石段を下りてくる人も結構多い。


 むかしの参詣路か、頂上付近で見かけた人気のない道。


2016.10.22
 山形行きが迫ってきたので、連日薬を飲み、夜も早寝をするよう心がけてきた。
 おかげでだいぶよくなり、なんとか行けそうというところまで回復した。あとは油断しないよう、体調の維持を心がけるだけだ。
 日曜日は山形で1泊するが、翌日は鶴岡に出て、羽黒山へ登ってこようと思っている。
 ほんとは月山へ登りたかったが、自信がない上、時候は10月の末、いまの体力では無理と悟って羽黒山にしたもの。
 羽黒山だって上の本山まで、杉並木を延々と登って行くと、標高差は250メートルある。いまの自分が登れる限界だろうと思うのだ。
 その鍛錬を兼ね、今週もせっせと歩き、今日もかみさんとダムの周りを1周してきた。


 カラスウリの季節になった。晩秋でいちばんの景物。庭に植えたいと思うのだが、あばら屋感、落魄感も掻きたてるから迷っている。


 メロンか西瓜のようだが、カラスウリの未成、色がつく前のかたちである。


 このまえから、すこしずつ、集めてきたカラスウリ。吊して部屋のアクセサリーにする。
 ひとつ色の褪せた小さい実があるが、これは去年の実。
 取ってきたときは赤い色で、実ももっと大きかった。
 1年たつ間に、中味が蒸発してしまったのか、紙風船のような空っぽの袋になった。さらにしぼんで、このようになった。


 これ以上大きくできないが、赤い小さな花に白い花弁がのぞき、じつに可憐な、美しい草花である。
 その形から、ミズヒキと名をつけた日本人の美意識に敬服する。


 わが家のムラサキシキブ。花は見栄えがしない。これは秋の実である。


 庭の隅でいまになって見つけたアサガオ。もちろん植えたものではない。


2016.10.15
 風邪がぶり返した。
 油断したつもりはなかったが、昨日からにわかに咳き込みはじめ、気がついたら元の木阿弥にもどっていた。
 一昨日はウォーキングに出かけていたのだ。
 久しぶりに気持ちよく晴れたのだが、気温は今秋最低というほど低かった。
 最高気温31度から18度までを、この1週間に記録しているのだ。
 そういう環境の激変に、躰がついて行けなかった。
 夜になって寒くなり、鼻水とくしゃみが出はじめたから、あわててダウンのベストを引っ張り出したり、エアコンをつけたりしたが遅かった。
 月末に、山形へ出かけることになっている。
 小説講座に呼ばれているからで、そのときしゃべる話の草案づくりを、こないだからほかのことはそっちのけでやっていた。
 それで夜更かしが過ぎ、睡眠不足がつづいた。明け方まで起きていると、今度はなかなか眠れなくなってしまうのだ。
 ほんとうに無理が利かなくなった。
 70を過ぎたとき、一度それがあった。今回は80の坂を迎えた、ということになるのかもしれない。


 セイタカアワダチソウと秋の空。昨日は機嫌よく1時間半も歩いたのに。



 夏に取ってきたアジサイの茎を、鉢に挿しておいたら見事に根づいた。それでこのほど、庭に移し替えてやった。


2016.10.8
 久しぶりのウォーキングに行ってきた。
 今年の秋は御難つづき、風邪を引いたり天候が不順だったりして、歩く機会がまったくなかった。

 いつものダムに出かけたのだが、ダム内側の土盛りのところが、黄色の花で埋め尽くされているのを見てびっくりした。
 よく見るとブタクサだった。
 つまり草刈りをしなかったから、雑草が生えるがままになってしまったのだ。

 遊歩道を進むにつれ、夏以来手入れされていないことが明らかになってきた。
 この道が、こんなに荒れ果てたのを見たのははじめてだ。
 道路脇に小型パワーショベルが放置されていた。いつのことなのか、機体には蔦がからまり、蜘蛛が巣を張っていた。

 石段を下りたり上ったりするところが何箇所かある。
 ここまで雑草に覆われてしまうと、足下が不安なばかりか、気色が悪い。
 1時間かけて1周する間、だれにも出会わなかった。

 さすがにこれでは、歩き慣れている男でも腰が引けてくる。
 春、蛇のつがいと出会ったところなのだ。竹竿で地面を叩きながら歩いた。


  ダム手前の公園で見かけた木。
 遠くから見ると赤い実がなっているようだったから、近寄ってみるとこんな木だった。
 はじけたところから 南天大の赤い実がのぞいていた。
 家に帰って植物図鑑で調べてみたが、なんの木かわからなかった。
 いつも通っているところだし、桜公園内にある落葉樹だから、珍しい木ではないはずだ。
 果実にしては不自然だし、形がいびつすぎる。虫が寄生してできた「虫えい」という虫こぶかもしれない。
 そういえば森が秋の色ではなかった。ところどころ酸性雨をかぶったみたいに、枯れ草色が目立つのである。
 わが家も今年は栗が大凶作、1回食ったきりだ。地元野菜の産直店でも栗の出品はきわめて少なかった。


2016.10.1
 横浜に行く用があったので、前から一度行きたいと思っていた原鉄道模型博物館に行ってきた。
 話には聞いていたが、ただただすごいとしか言いようがなかった。
 実在した世界各国の列車が、本物そっくりにつくられた街のなかを、つぎからつぎへと、車種を替えながら走り回るのである。

 ここの模型のすごいところは、実際に架線から電気をとり、鉄のレールを、鉄の車輪で走っていることだ。
 ゴトンゴトンという本物そっくりの継ぎ目の音だけで、そこらの鉄道模型とはものがちがうとわかるのである。

 今回は説明の必要もないから、どういう光景が展開されるか、会場の雰囲気を感じ取ってください。
 この博物館をつくられた原信太郎さんは、一昨年95歳で亡くなられたが、鉄道と模型づくりに生涯のエネルギーを注いできた異能の人だった。

 小学生のときから鉄道の模型づくりをはじめ、海外の鉄道事情を知るため中高校でドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を習得したとか。

 また新幹線の第1号切符など、新しい鉄道が開通すると、その切符を手に入れるため、何日も前から自分で行って並ぶことまでしている。


 わたしも子供のころから鉄道ファンで、それはいまでも変わりないのだが、そのためとくになにかしたということはない。
 一時期切符、時刻表、絵はがきなどを集めていたが、もとよりそれほどの覚悟があってはじめたことではなく、いまは散逸してほとんど残っていない。
 宮脇俊三さんが『時刻表2万キロ』を出したときも仰天した。
 本の内容より、出版社の要職にあって多忙を極めた人が、未到の路線に乗るため、毎週のように出かけていたことに唖然としたのだ。
 列車に乗るというただその目的のため、週末を捧げて悔いないという情熱は、とうてい凡人が真似できるものではない。
 なにかを成し遂げる人というのは、つくづくすごいなあと、ほとほと感心しながら帰ってきたのだった。




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