Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2016年9月までの「きのうの話」目次へ




 

2016.9.24
 気がついたら秋になっていた。
 長雨がつづいた上、台風が2回も来て、9月はろくに晴れ間がなかった。
 気温も低く、30度を超した日は数えるほどしかなかったように思う。
 夏そのものが短かった。
 わたしは暑さに弱いので、真夏は24時間冷房のお世話になっているのがふつうだが、今年はその日数がきわめて少なかった。
 その挙げ句が9月に入ってからの長雨だ。
 どうもこういう天候が、これから当たり前になるのかもしれない。局地的大雨がすこしも異常現象でなくなっている。



 田んぼではもう彼岸花が咲いていた。柿も色づきはじめている。
 わが家の柿は今年は不作年、まったく実をつけなかった。栗も台風でずいぶん落ち、その後の雨で痛めつけられて、例年の半分以下の収量になりそうだ。
 米のできもよくなかった。このまえ新米を食ったのだが、わが家で食える分はあと1回分しかないと言われた。
 米作り農家でなぜ米が食えないんだと文句を言ったが、親よりお得意様のほうが大事ということらしい。


(写真B)
 台風でなぎ倒された稲田がいたるところで目につく。
 こうなったらもう手で刈り取るしかないのだが、こう雨つづきではどうにもならない。つくづく百姓は大変だと思う。


 水辺でもないのに、蒲が穂を出していた。いい秋の色になっている。


2016.9.17
 風邪がようやく治った。およそ3週間かかった。
 調べてみたら、風邪を意識して家にあった常備薬を飲みはじめたのは、先月31日のことだった。
 それからどんどんこじらせてしまい、医者に行って10日間くらい寝ていた。
 その間なにもできなかった。
 食料の買い出しも、かみさんがせがれに連れて行ってもらっていた。
 今週ようやく、自分の運転で出かけることができた。
 スーパーの店内を久しぶりに歩いたが、それだけで気分が浮き浮きした。
 一方で足ががくがくになっていた。
 まっとうに歩くことができないのだ。足腰の弱るのがいかに早いか、つくづく思い知らされた。
 これから先、肉体のトラブルはだんだん増えてくるだろうから、足腰だけは鍛えておかないと、車椅子が目の前だ。
 来週は糖尿病の定期検診がある。
 前回、数値が思いの外悪かった。今回もあまりよい結果は出ないような気がする。

 少部数ながら『疾れ、新蔵』が増刷になった。
 増刷の声がかかったのは何年ぶりのことだろう。
 やはりうれしかった。
 素直に喜んで、支持してくださったみなさんにお礼を申し上げる次第です。


2016.9.10
 風邪を引いてしまった。もう1週間になるが、おとなしく寝ているのにまだよくならない。
 医者にも行ったし、薬も飲んでいる。
 熱は引いたが、咳が止まらないのだ。
 夜中に咳き込んで眠れないのが、いちばんつらい。長引いているいちばんの原因だろう。
 それだけ体力がなくなっているということだ。早くいえばより年取ったのである。
 手すりを持って、階段をそろそろ下りている格好など、われながら足下のおぼつかない気息奄奄としたじじい、見られたざまではない。
 ただの風邪だからそのうち治るだろうが、これを機会に一段と引導を渡されたみたいで、なんとも不本意である。
 しかしこのような道は、いずれだれもが通る道、いまは他人事でも、そのうち身をもって知るようになると思うので、自分を過信せず、どうかみなさんもご用心のほどを。
 風邪は万病の元です。


2016.8.27
 久しぶりの台風が館山に上陸、半日ほど思うさま吹き荒れた。
 家の被害はなかったが、ベランダの果樹がやられた。なにかしたほうがいいかなとは思ったが、横着をしてなにもしなかった罰が当たった。
 だいぶ大きくなっていたメロンとスイカが、どうやらだめになった。
 ゴーヤの実も枯れて朱くなった。
 ゴーヤは先週、いつ取り入れたらいいかわからない1本を、熟れさせてしまった。全身朱色になったのだ。
 調べてみたら完熟したのだった。
 熟れると苦みがなくなるし、生食もできるとあったから、早速薄切りにしてマヨネーズをかけ、食卓に出してみた。
 だれも手を出さない。
 仕方がないからひとりで食った。
 食えはしたが、うまくはなかった。
 それはそうだ。柔らかくなってふにゃふにゃなのだ。しゃきしゃき感がまったくなくなる。
 完熟させたほうがうまければ、市販のゴーヤだって熟れてから市場に並ぶはず、と納得したのだった。
 庭に自生してきたカボチャとトマトもだめになったが、こちらは穫り入れどきだったから、すべて収穫できた。
 カボチャはなんと、19個も穫れた。
 ただいま追熟させているところだが、味がよかったら市場に出せるだろう。

 今週は用があってお台場まで行った。
 ついでだからゆりかもめに乗り、お台場見物をしてきた。
 このまえ行ったのは、お台場がまだ原っぱだらけのころだったから、もう10数年はたっている。


 当時に比べたら風景が一変、最先端の未来都市になっていた。
 わたしのような昭和じじいには、なんだか嘘くさくて落ち着かない風景である。


 広すぎて1枚の写真に収まらなかったが、左右は11月に開業予定の新中央卸売市場。
 新知事が開業延期を言い出し、ここへ来てなんだかきな臭くなっている。



 ぶらぶら歩いていたら、日本科学未来館という大きな建物に出っくわした。名を聞いたのもはじめてなら、このような施設があることも知らなかった。
 巨大な吹き抜けを持つものすごく贅沢な建物である。軽く100億円を越える費用がかかっているはずだ。
 これほど最先端の施設でやっていたのが『忍者ってナンジャ!?』展だというから目が点になった。
 いくら夏休みで、子供目当てとはいえ、この容れ物で、この催しとは、世の中をなめすぎているとしか思えない。責任者、出てこい。


 船の科学館の埠頭に係留されている南極観測船『宗谷』。
 かつては、宗谷と向かい合わせのところに青函連絡船『羊蹄丸』が係留されていた。
 それがなくなっていた。何の表示もなかったから、帰って調べてみたら平成12年に解体されていた。
 船の科学館もただいま休館中、いつ再開されるか決まっていないという。
 バブルの産物のような、こういう施設そのものが役目を終えたということかもしれない。そういえば宗谷もなんだか影が薄かった。


2016.8.20
 暑さしのぎに、ときどきバイクで郊外へ出かける。躰いっぱい風を受け、車の通らない田舎道を走り回るのはじつに爽快だ。
 木更津周辺には豊かな田園地帯がひろがっているから、その気になればいくらでも行くところがある。
 出かけるときは地図が必需品だ。そのため近隣3市分くらまで2万5000分の1地図をそろえた。
 そのコピーを持参し、知らないところへくるたびひろげ、現在位置をたしかめる。
 ただ地図があるからといって、油断はできない。
 坦々とした舗装道路を気分よく走っていると、突然行き止まりになったり、草ぼうぼうのでこぼこ道になったりするからだ。
 地図で見ると、区画された田が整然と並んでいるようだが、市町村の境界が変わると、がらっと変わってしまうのが常なのである。
 広域農道はともかく、市町村道になると、つながっていないことも珍しくない。それが面白いといえば面白いのだが。
 一昨日は木陰になった山道で、のんびり横たわっていた蛇をもうすこしで轢くところだった。
 以前は車に轢かれた蛇をいたるところで見かけたものだが、このごろはあまり見なくなった。
 それだけ数が減ってしまったのだろうが、それとも蛇のほうがすこしは用心深くなっているのだろうか。
 多分シマヘビだったと思うが、たしかめようとバイクを止めて振り返ったときは、もう姿を消していた。
 木陰の冷たい道路の上でのんびり涼を取っていたら、いきなり車が飛び出してきたから、向こうもさぞあわてふためいたことだろう。


 いまの時期、どこもツタの繁茂がものすごい。この道はまだときどき車が通るから、この程度ですんでいる。
 1日に数台といった道路なら、夏の終わりには通れなくなってしまうはずだ。


 数年まえに耕作を放棄された田。半分山林にもどっている。条件の悪い田は、いまや惜しげもなく捨てられる時代だ。



 今回はお隣袖ケ浦市にあるドイツ村まで足を延ばしてきた。
 車で乗り入れできる有料施設だが、バイクは門を入ったところで下車、ひたすら歩かされる。
 この炎天下をものともせず、ひと回りしてきたら1万歩を軽く越えた。


 房総でいちばん目障りなのは、砂利採掘場や資材置き場だったところが、いまや軒並みソーラー発電所になってしまったことだ。
 この斜面など、本来なら緑のモルタルを吹きつけてごまかしているところだが、それがかくも立派な金を生む施設に生まれ変わっている。


 小櫃川の支流で見かけた白サギと鴨の群れ。蛙が目当てなのだろう、白サギはどこの田にもいる。
 前々回、ホオジロカンムリツルというアフリカ原産の鶴が袖ケ浦公園に飛来してきたのを紹介したが、あの数日後、2羽とも自力で飼い主のところへもどってきたそうだ。
 それくらい人に慣れていたということだろう。


2016.8.13
 このところ暑すぎて、仕事ができない。
 残されている時間を考えると、それほどのんびりしてられないのだが、どうにもやる気が起きないのだ。
 この際、思い切って気分を変えてこようと、電車に乗りに行った。
 房総半島を1周してきたのである。
 木更津から隣の君津まで切符を買い、内房線から外房線を逆回りしたのだ。
 乗車距離210キロ、所要時間5時間、料金190円。改札を出なければ、この料金で房総1周のミニトリップができる。
 とはいえ普通列車の乗り継ぎだから、蘇我、上総一ノ宮、安房鴨川、館山と4回乗り換えた。
 いまどきこういう暇人はいないだろうと思ったら、同じ車両に、それらしい40代のおやじがひとりいた。
 若いうちならともかく、この年だとかっこ悪いと思っているのか、お互い、なんとなく顔を背けた。
 房総へは割合出かけている方で、これまで7、8回は足を運んでいる。
 ただしすべて40代まで、以後は記憶にない。
 だからほぼ40年ぶりということになる。
 夏休み中とあって一部区間は乗客も多かったし、海水浴場には行楽客が詰めかけていた。
 列車は冷房完備で快適だし、街も人も垢抜けて多様性に富んでいるはずなのに、それにしては得られた感興が薄かった。
 かつての房総にあふれていた熱気のようなものを、感じ取ることができなかったのだ。
 電車も運転本数が減り、内房線は特急列車がほとんど走らなくなった。
 JRそのものが、いまや房総では斜陽の交通機関、都市間高速バスに負けてしまったのである。
 40年まえというと、房総へ遊びに行くというだけで、かなりのエネルギーを必要としたものだった。
 そういうエネルギーを吸収してくれるものが、あのころの房総にはあったと思うのだ。
 そういう時代は終わってしまったということか。
 なんだか気抜けして帰ってきた。


 車窓からは、意外に海が見えない。ときどき見えるくらいだから、写真もこの程度が精一杯である。


 単線区間が残っているから、すれ違い待ちがある。無人駅が多くて、なんとも味気ない。


 最後に乗った館山からの千葉行き列車。一両目の先頭部分をシートで隔離し、荷物室にしてあった。首都圏の電車でこんなことをするのか。




 緑のカーテンにはほど遠いが、ベランダの作物がようやく実りはじめた。
 これは食卓行き第1号となったゴーヤ。
 まだテニスボール大だが、スイカの縞模様も一人前になってきた。


2016.8.6
 昨日、かみさんのお伴をして幕張まで行ってきた。
 ロボット・シャトルという自動運転電気バスが試験運行をはじめたというから、野次馬気分で乗りに行ったのだ。
 GPSで設定されたルートを走り、障害物があるとセンサーが感知して自動的に止まる。
 ただ今回走っているのは公園の中で、フェンスで囲まれたコースを、250メートル行って、戻ってくるだけである。
 試験走行だから、実際に障害物が飛び出し、ちゃんと止まるところを体験させるのかと思ったら、全然そんなことなし。
 なんの障害もないところを、すーっと行って、すーっと戻ってくるだけ。
 それでひとり200円。
 たけーなぁー。
 道理でわれわれしか客がいなかったわけだ、と思ったけど、そのつもりで行ったのだからしようがない。乗りましたよ。




 かたちはバスというより、ロープウエーのゴンドラという感じ。
 車内も似たようなもので、前後同形、定員12人。座席は6つしかないから、6人は立ち席ということになる。フランス製だ。
 このあと、モール内の移動手段として本格的にテスト運用されるそうだが、果たして客寄せの目玉になるかどうか。

 帰途、以前このウエブでも紹介したことがある、袖ケ浦公園に立ち寄った。
 先月からアフリカ原産の鶴が2羽、どこからか飛んできて、居ついてしまったと評判になっていたからだ。
 ホオジロカンムリツルというアフリカ南部の鶴で、ウガンダの国鳥だという。
 見られたら儲けものくらいに思って行ったのだが、着いたときはどこかへ飛んで行ったあとだとかで、いなかった。
 それで池を1周して帰ろうと歩いていると、見慣れない鳥が2羽飛んできた。
 例の鶴だった。
 夕方になったので、ねぐらにしているところまでもどってきたらしい。
 あわてて引き返し、撮ったのがこの写真だ。


 周囲にカメラマンが10人くらいいたのに、人を恐れる気配がない。それで、どこかで飼われていたのが逃げ出してきたのではないかと思った。
 今日ネットで調べてみたところ、やはりそうだった。
 お隣の市原市の男性が名乗り出たというから、それほど遠くから飛んできたわけではなかったのだ。
 つがいではなく、2歳になるきょうだいだそうである。


2016.7.30
 このところ都内に出かける機会が増え、来週も出かけなければならなくなった。
 出かけるときは木更津駅までバイクで行き、駐輪場に乗り捨てている。鑑札(有料)をつけてあると、何日でも置きっ放しにできるのだ。
 50CCの原チャリだから、危なくて一般道はなかなか走れない。安全なルートを見つけるまでだいぶかかった。
 車だと20分の距離を40分かけて走っている。
 バスは木更津駅を出発したあとバスターミナルに寄り、それからアクアラインへ上がる。
 このバスターミナルが、高速道路を挟んでふたつある。
 袖ケ浦側にあるのが袖ケ浦バスターミナル、木更津側にあるのが木更津金田バスターミナル、両者は距離にして3キロあまりしか離れていない。
 ほとんどのバスが袖ケ浦バスターミナルに立ち寄るが、木更津金田バスターミナルへは東京行きしか寄らない。
 それがこの7月から、新宿行きの一部が金田バスターミナルにも寄るようになった。
 立ち寄り先が、入れ替わったということではない。両方のバスターミナルに止まりはじめたということだ。
 これまできちんと棲み分けていたのがぐじゃぐじゃになり、5分から10分時間が余計にかかりはじめたのである。
 行政のごり押しの結果だ。
 バスターミナルそのものは、袖ケ浦のほうが先発なのである。
 それが大成功したため、木更津があわてて自分ところにもつくったということだったのだ。
 いまのところ木更津の思惑は外れ、思ったほどバスは来ず、苦戦を強いられている。
 それはそうだろう。客にとっていいことはなにもないのである。
 かろうじて新宿路線だけが、一部の便を割いてくれたということなのだ。
 それでこの際、金田までバイクで行き、そこからバスに乗り換えることを考えてみた。金田からだとバス代も100円安くなるのだ。
 早速地図を片手に、新ルート探索に出かけてみた。


 ほたる野という閑静な住宅街を通り抜ける。
 サルスベリを街路樹に使いはじめたのは、それほど昔のことではないように思う。ここの並木は紫、白、深紅と3種類あってなかなか華やかだ。


 小櫃川沿いの桜並木道。このような道がずっとつづいたら一級の観光資源になると思うが、橋から橋までが精一杯なのだ。その先は道路さえ満足につながっていなかった。


 これはちがう桜並木。これも土手道の一部なのだが、川からはだいぶ離れている。


 田の中に真っ直ぐ延びている農道。典型的な農村風景だが、なにもないのがじつにいい。


 拡張されたばかりの金田バスターミナル。入ってくるバスが少なくて閑散としている。
 家からだと1時間以上かかることがわかり、使えないという結論しか出なかった。


2016.7.23
 今週も多摩に来ている。
 国保の保険証を受け取るため出てきたものだ。
 わたしは後期高齢者、かみさんは高齢者、毎年7月末に切り替えが行われるのである。
 あいにく今日は1日雨だった。
 それが典型的なこぬか雨。はじめ歩いて家を出たのだが、1駅歩いただけでズボンがぐっしょり濡れてしまった。
 それで途中からバスに乗り換え、やや小降りになった帰りを歩いた。
 市の中心部は、多摩川と浅川との間にひらけており、かつては純農村だった。
 住宅街に変わったいまも、野菜畑、果物畑(この地区は梨)、用水路、鎮守の森といったものが至るところに残っている。
 猫のひたいほどの小さなお宮に、樹齢数百年クラスの大木が残っているのだ。
 季節は夏、いまが樹勢のいちばん盛んなとき。しっとりと濡れた森はみずみずしく、すがすがしく、通りかかった人間に惜しげもなく精気を降り注いでくれる。
 生き返ったような、得をしたような気分になって、気持ちよく帰ってきた。


 小さなお宮のなかになぜかザクロの木があって、それが立派に実をつけていた。熟れていたらもらって帰ったのに。


 住宅街のサルスベリの並木。惜しいことに、花の咲く時期が不揃いすぎ。


 多摩川の支流浅川から、地区の用水を引き込んでいるところ。写真の左側に取水口がある。


 もともとは農業用水だが、住宅街の中を通り抜ける数百メートルほどが公園化されている。
 できたのは30年くらいまえだったと思うが、当初はいかにも取ってつけたような貧弱な公園だった。
 それがいまでは草木が茂り、鬱蒼とした木立となって、流れまでがもとからあったみたいな、自然を思わせる小川になっている。
 写真中央に見える木は中洲に生えているものだ。人工的につくられたとは思えない風景になってきつつある。


 コンクリートの護岸を極力廃し、土手を生かしたのが成功の原因だろうと思う。土手を守るため打ち込んだ杭が、朽ちはじめているところまで絵になってしまうのだ。


 雨で増水した流れを、アメンボが気持ちよさそうにすいすい走り回っていた。
 これでメダカやフナがいたら文句ないのだが、残念ながら魚の姿は見たことがない。そこまで復活させようとしたら、いまの3倍以上の規模にしないと無理だろう。


 この地方で昔使われていたタイプの水車が復元してある。ただし今日は動いていなかった。いたずらをするものが絶えないらしい。


2016.7.16
 買い物に行くつもりで前の道路へ出ると、目の前にキジがいた。

 とにかく臆病な鳥なので、いつもだとあわてふためいて逃げる。
 一方で間の抜けたところがあり、物陰に逃げ込むと、それで安心してしまうところがある。
 頭隠して尻隠さずというのは、こういうキジの習性から生まれたことばなのだが、茂みの下から足が見えていても、自分から見えなければ相手にも見えないとばかり、そこから動こうとしないのである。
 ところが今日出会ったキジは、だいぶすれっからしだった。
 こちらが車から出なければ安全だとわかっているのか、ちらちらと、こっちのようすをうかがうものの、逃げないのである。

 気のせいか横面まで憎たらしかった。
 とにかく人間さまがなめられているのか、このごろ森の生きものが、平気で人前へ出て来るようになった。
 先週はせがれが、ここから数10メートル先で、大きなイノシシを見かけている。
 5頭連れのタヌキの親子と出っくわしたこともあるそうだ。
 一昨日の夜は、カーテンを開けたまま仕事をしていると、ごつんと音がして、ガラス戸に蛾のようなものがぶつかった。
 下に落ちてひっくり返り、ばたばたしている。
 蛾にしては大きすぎる。よくよく見るとカブトムシだった。
 蛾じゃあるまいし、カブトムシがガラス戸に飛び込んでくるなんて聞いたことがない。
 しかも亀みたいに、起き上がることができず、ひっくり返ったままもがいている。
 カブトムシ同士の争いになると、この角を武器にして相手を撥ね飛ばすのだが、ひっくり返った躰をもとにもどす使い方はできないらしい。
 これまで見たことがないほど、大きなカブトムシだった。
 起こしてやったら、あっという間にどこかへ行ってしまった。
 先に写真を撮るべきだった、と気がついたが、後の祭りである。


 ムクゲの花が咲いた。
 高さが5メートルからある木で、花は上のほうにしかつかないから、昨日まで気がつかなかった。
 2階から雨を眺めていて、咲いているのにはじめて気づいたのだ。
 木更津では昨夜、今日と、観測史上初という大雨が降った。
 ただわが家には、なんの被害もなかった。
 高台に位置している上、平坦なので、雨は平気なのだ。
 風はひどい。ベランダで咲きはじめたメロンの花が、引きちぎられたこともある。


2016.7.9
 メロン食いたさではじめたベランダ園芸が大苦戦である。苗のおおかたが枯れてしまった。
 先週多摩に出かけ、4日ほど留守にしたのがいけなかった。
 家族が水やりはしてくれていたのだが、細かいところまでは気がつかなかったか、帰ってきたときは葉がぼろぼろになって、だめになっていた。
 原因はよくわからない。一部の葉が白くなっていたから、うどんこ病のようなものが、とりついたのかもしれない。
 とにかく最初に植えた苗はほとんどだめになり、いまのはあとで買い足した二代目、それまでだめにしたわけだ。
 一昨日買い物に出たついでに苗屋に寄ってみたが、もう果実の苗はなくなっていた。
 当初からの苗で生き残っているのはゴーヤだけなのだ。
 二度目のときズッキーニを買い足したが、このふたつは、実より日陰つくりを期待して混ぜたものである。
 一方庭では、捨てた生ゴミの中から生えてきたカボチャとトマトが、1日何センチという速度で、すくすく育っている。
 メロンのような、むりやりつくり出された果実の苗がいかにひ弱いかということだ。
 これがキュウリやヘチマだったら、ほったらかしにしておいても、いまごろは実をつけていたと思うのだ。
 わたしに百姓の能力がないことも、これではっきりした。


 1ヶ月半たって、まだこの程度だ。果実はもちろん、花もろくに咲いていない。
 青く見えるのは風をふさぐためのネット。風の4割をカットするという触れ込みだが、それほど効果があるように思えない。
 それより猛暑になると、床や手すりが熱くなるのがもっと問題だ。火傷からどう守ってやるか、それがこれからの課題になる。


 トンボが姿を見せはじめた。これはハグロトンボ。
 もうシーズンは終わってしまったが、じつは近くに、ホタルの出る川がある。数が少ないので、人が押しかけてくるようになったら根絶やしになってしまうと思うから、これ以上は明かせない。


2016.7.2
 江戸時代の本草学について調べていたところ『江戸の博物学』という格好の展覧会が開かれていた。
 それで今日、世田谷区の岡本にある静嘉堂文庫美術館へ行ってきた。
 三菱財閥の2代目岩崎彌之助、4代目岩崎小彌太が収集した古典籍や古美術を所蔵しているところだ。
 ここにはふたりの廟もある。
 じつは独身時代、静嘉堂から徒歩数分の瀬田で2年ほど暮らしていた。だからここに文庫があることも、廟があることも知っていた。
 だが美術館がオープンしたのは平成4年のことで、それまで常時公開はされていなかったように思う。
 第一こちらも30前の若造だったから、そういう高尚なものには縁がなかった。
 今回はじめて足を運ぶついでに、かつて住んでいたところはどうなっているか、それも見届けてきたかった。
 とはいえ天下の世田谷も、50年前のこの辺りはものすごい大田舎だった。
 渋谷へ出るのは玉電だったし、環状8号線も建設途上で、瀬田の交差点から先は草ぼうぼうだった。
 立ち退き予定地には茅葺きの農家が残っていて、草原を歩くとコジュケイの親子がちょろちょろ出てきたものだ。
 その後車で通り抜けたことはあるが、歩いたことはついぞなかった。
 それで今日、30度の炎天下をものともせず、歩き回ってみた。
 しかしアパートのあったところはどこか、痕跡すら発見することはできなかった。50年というと、日本では大昔なのである。
 美術館を出たあと歩いて二子玉川まで出たが、こちらも変わりすぎて、どこを歩いているのか、駅へ着くまでさっぱりわからなかった。
 かろうじて玉電の支線だった砧線の線路跡が判別できた。


 美術館と廟は広大な森に取り囲まれていて、南側から見ると丘陵のように小高くなっている。
 これは入り口から廟へ向かう石段。本来はこちらが本道のようだが、いまは車道が脇に設けられているせいか、ほとんど使われていない。だれにも会わなかった。


 御雇外国人のジョサイア・コンドルが設計した廟。ここまでなんの制約も受けず、自由に歩き回れたからびっくりした。
 岩崎彌太郎以下岩崎家の墓所は巣鴨にある。都営染井墓地に隣接しているが、こちらは高い塀を巡らして、部外者の立ち入りは厳然と拒絶されている。この差はなんだろう。


 美術館。当然ながら内部は撮影禁止だった。


 隣接して建っている文庫。こちらは大正時代の建設である。


 帰り、出口の川縁にアオサギがいた。東京にもどってきてはじめて見かけた。



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