Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2016年3月までの「きのうの話」目次へ




 

2016.3.26
 先週の花粉症気味のくしゃみに懲り、今週は家でひたすらおとなしくしていた。
 そのせいか、どうやら小康状態を保っている。なんとかこのまま終わりたいものだ。
 パソコンに日本語入力システムATOKの最新版を導入した。
 じつは昨年パソコンを買い換えたとき、ATOKも一新して2015年版を入れたのだ。
 それをなぜ2年つづけて、というと今年発売された2016年版には、日本国語大辞典が搭載されたからだ。
 以前にも書いたことがあるが、仕事でもっともお世話になっているのがこの辞典で、この辞典なしには仕事ができないくらい頼り切っている。
 全3巻の分厚い精選版を使いはじめた時代から言うと、もう10年以上お世話になっている。
 だからこの辞典が電子辞書に入ったときは、飛び上がるくらいうれしかった。
 以来この辞書とパソコンはワンセット、出先で仕事をするときは必ず持って出かけた。
 使いはじめて7、8年になるこの電子辞書が、昨年あたりからだんだん使いにくくなってきた。
 毎日使っているから、キーの接触部が摩滅したかつぶれたか、反応が鈍くなり、キーを押してもだんだん認識しなくなった。
 とくに支障の出はじめたのがAIU……のいわゆる母音キーだ。
 日本語の特質で、ローマ字入力をすると必ず母音キーを使うわけだから、使用頻度がものすごく高い。いくら頑強な電子機器といえど、接触疲労を起こすわけである。
 とくに冬はだめになる。気温が低いとどこかの能力が落ちるのか、押しても押しても文字が出ない、ということが多くなった。
 こうなったら、あたらしいものを買い替えるしかないな、と思いはじめていた。
 ところが去年の暮れだったか、2016年度版のATOKに、この国語大辞典が入るというニュースが流れた。
 この辞典が入った電子辞書は、ネットで買っても4万円以上する。
 ソフトのバージョンアップなら1万円ですむ。
 それで本年度版が発売されるのを、首を長くして待っていたのだ。
 これで電子辞書を持ち歩く必要がなくなった。それだけ身軽になるのが大変ありがたい。


写真1
 寒のもどりもなんのその、緋モクレンが咲きはじめた。


写真2
 秋に植えたチューリップが、芽を出したと思ったらもう咲いた。チューリップはもっと茎の長い花だと思うのだが、わが家のチューリップは首なし、横着である。


写真3
 芝生の隅で咲いていたタンポポが在来種だった。カントウタンポポというのが正式な和名らしい。関東特有のタンポポで、里山を主な生育地にするとか。セイヨウタンポポに押され、絶滅危惧種になるかもしれないから、これから目をかけてやろうと思っている。


2016.3.19
 春の陽気に誘われて庭の草むしりをした。一昨日のことである。
 
 芝生の中にツクシが生えていた。調べてみたら、ほかにも10本ぐらい見つかった。
 去年までは、生えてなかった。それとも単に、見落としていたということだろうか。
 おまけにどこからか、カエルが出てきた。
 
 アマガエルのようだが、色がちがう。冬眠している間に、色が抜け落ちてしまったのかもしれない。
 冬眠と言えるのかどうか知らないが、カエルはどこかに潜り込んで、冬を越す。5、6年は生きるみたいなのだ。
 
 畑ではタンポポが咲いていた。わが家のタンポポは残念ながらセイヨウタンポポである。
 
 栗林ではフキがだいぶ大きくなってきた。このフキもわが家では、貴重な外貨を稼いでくれるありがたい作物だ。
 ただし売れるのははしりの時期だけ。
 しゅんの季節になると、どこの直販所もフキだらけになって、ほとんど売れなくなる。早く大きくなってくれないと、ありがたみも半減するのである。
 夜になると、なぜか盛んにくしゃみが出はじめた。かんでも、かんでも、水っぱなが止まらない。
 そういえばすこし肌寒い。風邪を引きかけているのかと思い、あわててベストを着て、靴下をはいた。
 翌日になっても鼻水は止まらない。かみさんを車で送って行ったり、買い物につき合ったりしたから、家でおとなしくというわけにいかなかった。
 夜になると目までかゆくなってきた。
 それでようやく、花粉症そっくりの症状であることに気がついた。
 去年はなんともなかったから、すっかり治ったとばかり安心していた。
 それが、ぶり返してしまったのだ。
 一昨日は草引きをしたり、ごみを燃やしたりして、戸外で3時間も過ごした。その間花粉を浴びっぱなしだったのである。
 なんという油断。
 30年の宿痾だった花粉症を振り切ったのだから、はしかみたいな免疫ができ、もうこれで二度とかからないものと勝手に思い込んで、毎日の花粉情報をせせら笑って見ていたのだ。
 今日あわてて眼科に行き、かゆみ止めの目薬をもらってきた。
 ごめんなさい。これからはけっして傲慢にならず、つつましく生きて行きますから、なにとぞ今回は見逃してくださいと、祈るような気持ちで明日を待っているところである。


2016.3.12
 気温20度の陽気になったと思うと、今日は8度に逆もどり、めちゃくちゃな天気がつづいている。
 とはいえ春は確実に来ているようで、庭の雑草が勢いを増してきた。
 それで改めて見回してみると、むかしからあった雑草がほとんどないことに気がつく。外来種にあらかた取って代わられてしまったのだ。
 こういうご時世だから、貨物にくっついて草の種が入ってくるのは避けられない。だがそれにしても、見たことのない雑草が多すぎる。
 これまで何度か、雑草の名を調べてみようとしたことはあるのだが、そこらの書店で売っている図鑑はまず役に立たなかった。
 知らない雑草なのだから、花、葉の形、葉のつき方等すべて網羅した本でないと、なかなか見分けられないのだ。
 ところがたいていの図鑑は、写真が1枚か2枚、これでは素人は判別のしようがないのである。
 なにかいい本はないかと思っていたところ、新宿の紀伊國屋でいい図鑑を見つけたから購入した。
 おかげで以来、かなりのところまで名がわかるようになった。
 先月この欄で「庭のオニヒトデ」と名づけた雑草のことを書いたが、その正体もあっさり判明した。
 ウラジロチチコグサ、70年代に入ってきた外来種とある。現在本州と九州で確認されているそうだ。

写真1

 わが家ではいま、互いに棲み分けながら隆盛を誇っているふたつの雑草がある。


写真2 写真3
 一見お花畑みたいだが、野菜づくり農家にとっては畑の害草となっているホトケノザ。
 春の七草として有名だが、お粥にするのは若芽である。



写真4 写真5
 ホトケノザと同類のヒメオドリコソウ。
 明治時代にヨーロッパから入ってきた雑草で、両者は葉も群落も似ているが、花のつき方がちがうから見分けるのは簡単だ。


写真6
 前回、ヒヨドリがほうれん草を食い荒らして困ると書いたが、あれはどうやらムクドリでした。せがれのことばを鵜呑みにしたのがいけない。
 よくもおれに濡れ衣を着せたな、と文句を言っているヒヨドリ。ツバキの蜜を吸いに来たところ。


 写真7
 コブシの花が咲きはじめた。ところがこの間から咲いているのに、満開になった花がひとつもない。
 地上を見ると、食いちぎられた花びらがあっちこっちに。
 犯人は今度こそまちがいなくヒヨドリです。


2016.3.5
 先週の雪から一転、あっという間に春が来た。
 栗林の隅に冴えない梅の木がある。
 かなりの老木だが、長年ほったらかしにされていたせいで、小枝がからみ合って藪になり、すっかり弱っていた。

写真1
 それで去年鋏を入れ、いくらか刈り込んでやったら、見違えるほど元気になった。
 今年はこのように、たくさん花を咲かせてくれたのである。
 果樹や庭木は、人間がつくり出した木だから、人間が手を貸してやらないと本領が発揮できないのだ。


写真2
 こちらはわが家のほうれん草畑。今週からネットをかぶせている。
 ヒヨドリがついばみに来はじめたからである。
 ヒヨドリがほうれん草を食うなんて、聞いたこともなかった。それが最近、集団でやって来るようになったのだ。
 このほうれん草は、あるスーパーの地元農家の産直コーナー、というところで売らせてもらっている。ささやかながら、わが家の貴重な換金作物なのである。
 それが食い荒らされたのでは商品にならないから、こうやって防ぐしかないのだ。
 それで気がついたのは、今年のほうれん草は、大きくなって茎が伸びすぎても、柔らかく、食味が損なわれないということだ。
 昨今の野菜はすべて一代交配なので、毎回種を買ってきて蒔くのだが、その技術改良が半端なくめざましく、作るたびに品質がよくなっている。
 少々伸びすぎても柔らかい。これは毎日のように食っているわれわれが実感していることなのだ。
 ただし品質がよくなった分、鳥にも食いやすくなった。
 かつてのほうれん草とは、まったくちがう別物になりかけているのかもしれない。
 栄養素とか組成まで、変わってしまった可能性すらあると思うのである。


写真3
 わが家の地区に植木屋が何軒かある。
 この木は出荷するつもりでここまで運び出したようだが、商談がまとまらなかったか、去年の秋からここへ置かれたままになっていた。
 先月から紅色のきれいな花が咲きはじめ、ああ、いい紅梅だなあと通りかかるたび、かみさんと感嘆の声を上げていた。
 街へ行くとき、必ず通る道なのだ。
 ここ、じつはごみ置き場なのである。
 今日は自分でごみを出しに行ったから、はじめて車を下り、間近なところから見た。
 あきれたことに、紅梅だとばかり思っていたのが、桜だったのである。河津桜らしいのだ。
 それにしてもふたりして、何十回と横を通っていながら、桜を梅と思い込んでいたとは、なんたる迂闊、わが目の節穴に恥じ入るばかりである。


2016.2.27
 まず写真をご覧いただこう。一面の雪景色だ。千葉に来て初めの雪である。

写真1
 前の晩の天気予報が、千葉にだけ雪マークをつけていたから、半信半疑ながら期待はしていた。
 夜中に何度も外をのぞいて見たが、3時ごろまでは降っていなかった。
 4時半過ぎ、そろそろ寝ようとして外を見ると、もうこの雪景色になっていた。
 うれしくてゆっくり寝てられない。7時過ぎには起きて外へ飛び出した。
 一目見ただけで、よろこんでうろつき回るほどの雪ではないとわかり、がっかり。10分ほどで帰ってきた。
 この雪、たしか東京は降らなかったのである。珍しい天気だったのかもしれない。


写真2
 やっと咲きはじめた梅もごらんの通り。


写真3
 ツツジとミカンもびっくり。


写真4
 畑から見たわが家。右に見える屋根はお隣。
 なお最初の写真は2階ベランダから西を望んだ光景で、写っているのはほとんどお隣の畑である。
 8時ごろはまだちらついていたが、10時を過ぎたら、もう跡形もなく消え失せていた。

 参考までにもう1枚。

写真5
 このまえ多摩へ行ったとき、家の前に残っていた雪。いつ降ったか覚えてないまえの雪が、多摩ではしつこく残る。
 標高はほとんど変わらないのだが、千葉と多摩ではそれくらいちがうという見本です。


2016.2.20
 スタンディングデスクをつくった。
 木更津へ帰ってくるなり、あっちこっちで調べてみたのだが、適当なものはなかなかなかった。これ以上ものを増やすのも抵抗があり、どうしようか悩んでいた。
 それがいとも簡単に解決してしまった。
 もう20年以上使っている回転式本棚が使えたのだ。
 デスクで仕事をしていた時代に買った書棚で、脇に置いて使っていた。
 当時、小学館発行の日本国語大辞典の縮刷版全三巻が、時代小説の執筆には欠かせなかった。ことばの初出が載っていたからだ。
 現代語を使うまいとすると、いちいちこの辞典のお世話にならなければならない。本の出し入れが楽なこの本棚は、そういう意味ではじつにありがたかった。
 ところが2008年だかに、この大辞典があっさりカシオの電子辞書に入ってしまった。
 小学館のドル箱本といわれていたくらいだから、電子書籍化はなかなかされないだろうと思っていたところ、あっという間にポケットへ収まってしまったのだ。
 これにはおどろいたし、ありがたくもあった。厚さ7、8センチもある分厚い本を、そのつど出したり入れたりする手間から解放されたからだ。
 以後この書棚の役割も大分減じ、デスクワークをしなくなってからは、ただの本棚と物置台になっていた。
 この本棚が使えそうだと気づいたのだ。
 早速手頃な段ボール箱を載せ、上にベニヤ板を置いてみたところ、ちゃんと机になるではないか。
 難点はただひとつ、本棚が45センチ四方と、土台にしてはサイズが狭いことだった。
 それで翌日から市内の量販店巡りをし、使えそうなもののサイズや品質を調べ、この範囲内で最良と思われるものを買いそろえてきた。
 そうやってでき上がったのがこの机である。


写真1
 天板になる板は、いつものベニヤ板ではあまりに貧乏くさいから、今回は厚さが15ミリある集成材を奮発した。幅45センチ、長さ90センチの規格ものである。
 その下で天板を支えているのは、DVDやゲームソフトを収納するためのプラスチックケースだ。
 45センチ四方で、ぎりぎり収まるサイズのものはこれしかなかった。
 ケースのなかに本がぎっしり入れてあるが、これは単なる重しである。
 それでもずれたり動いたりして天板が落ちることがないよう、防止用マットを上下に充ててある。
 床から天板までの高さが101センチ。心持ち高いので、京都のジムで使っていた床マットを下に敷いた。
 経費4000円あまりのスタンディングデスクの完成だ。
 ついでだから、これで仕事をしている光景もお目にかけておこう。


写真2
 部屋がずいぶんすっきりしているように見えるが、 写真を撮るため片づけたものだ。こんな快適な環境で仕事しているわけはないのである。
 土台が回転するので向きがどうにでも変えられ、これは予想以上の利点だった。
 いまのところアームチェアより立ち机のほうが、集中して仕事に打ち込めるような気がしている。
 ただし1回3時間まで。それくらいやると足が疲れて、休息が必要になる。


2016.2.13
 用があって多摩へ4日ほど帰っていた。
 立川へ行ったとき、ついでにイケアまで足を延ばした。
 このところ躰の節々にがたが来て、同じ姿勢をつづけるのがだんだん苦痛になってきた。それで最近話題になっている立ち机を試してみたいと、まえから思っていたのだ。
 イケアならなにかあるかもしれないと、見に行ったのである。
 頃合いのデスクがひとつあった。しかしサイズが大きすぎた。もっと小ぶりのものがあったそうだが、売り切れたという。
 つぎの入荷まで待つか、ほかの店をのぞいてみるか、家に帰ってあれこれ思案していた。
 そのとき、はっと気がついた。
 いま使っているデスクの上に、もうひとつ小さなデスクか、それに代わる台を載せても、同じことではないかと気づいたのだ。
 早速家のなかを掻き回し、いろんなものを持って来て載せてみた。すると段ボールの空き箱に、ぴったりの高さのものがあった。
 箱の上にパソコンを載せて使ってみたところ、なんの支障もなく仕事ができる。
 立ったままキーボードを叩いても違和感はないし、不具合もない。むしろものを調べるとき、いちいち立ち上がる必要がなく、さっと離れられて機動性が増した。
 3日間使ってみたが、思っていた以上に仕事がはかどった。こうなったら是が非でも、木更津の自分の部屋に取り入れたいと思った。
 ところがわたしの部屋には、デスクというものがないのである。
 これまでの経験から、自分はデスクワークに向かないとはっきりわかったから、机と椅子は追放してしまったのだ。
 いまそれは下の部屋で、かみさん用パソコンデスクと化している。
 いまさら「スタンディングデスクがひとつ欲しいんだけど」などと言いだしたら、なにを言われるかしれたものではない。
 かみさんとせがれのふたりにかかったら、小説の執筆も、家計簿をつけるのも、同等の作業と言わんばかりなのだ。
 べつに小説の執筆が、高度な作業と言うつもりはない。あんなものはきわめて下等な肉体労働でしかない。 work ではなく  labor なのだ。
 だからしなくてすませられるなら、それに越したことはない。したらしたで、できるだけ安直にすませたい。はじめたら、すぐにやめたい。
 そう願う心身を、なだめたり透かしたりしてつづけさせるには、目先を変えたり、気分転換をしたりすることが不可欠なのである。
 いままではアームチェアに身を沈めて書いていたが、ときには気分を変えて立ったままパソコンに向かう。そういうメリハリがつけられたら、小説のレベルだって格段に上がろうというものだ。
 なんてことをふたりに言ったって、まず聞き入れるはずはないから、するとあとは見つからないよう、こっそり持ち込むしかないということになる。
 ということでただいま、どこかで組み立てデスクを見つけ、いかにそれを隠して部屋まで持ち込むか、遠大な計略を巡らしているところである。


 写真1
 モノレールができて立川への往復がずいぶん楽になり、それに反比例して八王子へ行く機会が減った。
 この数年で立川ほど垢抜けてお洒落になった街はないだろう。写真は上北台方向から立川に向かってくるモノレール。このひろびろ感が半端でない。


写真2
 立川駅をまたぐ。右手を走っているのは青梅方面に向かう電車。


写真3
 多摩川。上流に見えている鉄橋は中央線。この日はもやっていたので富士は見えなかった。


2016.2.6
 いまひとつ躰の調子がすっきりしない。
 寒暖の差が毎日はげしすぎたのか、週初めにまた風邪の症状が出て、鼻水たらたらになった。
 かみさんから花粉症がぶり返したんじゃないのと指摘され、そういえば症状がそっくりだと気づいて、大いにあわてた。どうやらただの鼻風邪だったみたいだが。
 今週は内科と眼科の定期検診に行った。
 内科は糖尿。数値が若干悪くなったが、まだ許容範囲、このところほとんど歩いていないのだ。
 いま服用している薬が、次回から変わることになった。毎日1錠だったのが、週1錠になる。
 新薬なので当分2週間分しか出せないそうだが、その手間はかかるとしても、飲み忘れを防げそうなのはありがたい。
 眼科は半年に1回の視野検査をしてもらった。
 右目は異常なし、左目はやや陰りがあるものの、前回のレベルをほぼ維持していた。
 左目に緑内障の初期症状があるのは、十数年まえ、糖尿病検査を受けたときわかった。眼底血圧を下げる薬はそのときからもらっている。
 緑内障は視野が破壊される治らない病である。これ以上悪くならないようにするのが最大の治療、だからこの目薬だけは点し忘れるわけにいかない。
 ほかの検査もあって、瞳孔を開く薬を今日は3度も注入された。そのため視界がうるみ、夕日を浴びて帰ってくるときまぶしくてたまらなかった。


写真1
 わが家へ帰る途中の、なにもない田舎の冬ざれの光景。余計なかたち、余計な色彩のないのが、なんとも心をおだやかにさせてくれる。


写真2
 歩いている人を見たことがない山裾の道。


写真3
 ただし小川は変わり果てた。この護岸では水辺へ下りることも、遊ぶこともできない。


写真4
 小川に架かる橋。それにしては欄干のつまらないこと。


2016.1.30
 1月がもう終わった。風邪が完治しないまま、ずるずる過ごした1ヶ月だった。
 先週の寒さの反動か、今週は暖かい日が3日つづいた。
 日光さえ射せばわたしの部屋はサンルーム、昼間の気温は20度まで上がる。
 今週はせっせと庭の雑草退治をした。
 はじまりは焚き火だった。
 風邪を引くと鼻水たらたらになってしまう体質なので、今月だけでティッシュを3箱消費した。
 山ほどあった、それらの紙くずを燃やしたのである。
 ついでに落ち葉や枯れ木を燃やしていたら、芝生を食い荒らしている雑草が目についたから、これも退治せずにはいられなくなかったのだ。
 家の前は本来きれいな芝生だった。それが気づいてみたら、雑草でずたずたにされていた。
 こうなると、こちらも意地になる。まる3日かけて、雑草という雑草を根こそぎ引っこ抜いてやった。
 おかげで手は、キーボードを叩くのが痛いくらい傷だらけ、いまに至っても爪には泥が付着している。
 焚き火はここへ来るまで、長いことしたことがなかった。
 むかしはどこでも、自宅の庭でふつうに火を燃やしていたものだ。そのためのブリキ製焼却炉がいつでも売られていた。
 煙には害があるだの、ダイオキシンが発生するだの言いはじめ、いつの間にか焚き火という習慣まで駆逐されてしまった。
 ところが田舎は、いまでもふつうに野焼きが行われているのである。燃やせるごみは自宅で処理されている。
 この家へ越してきたとき、荒れ放題だった庭木をかなり伐ってもらった。
 はじめの見積もりでは、びっくりするぐらい高額だった。
 その大方が伐った木の処分料、つまり焼却場へ持って行く運賃と、持ち込み料だった。
 伐った木を庭でせっせと燃やしたら、値段が半額以下になった。
 地域によっては、いまでも焚き火禁止のところがあるようだが、焚き火をするたび、煙が昇っても近所迷惑にならない田舎はありがたいと思う。


写真1
 地面にべったり張りついて葉をひろげ、細胞分裂を起こすみたいに分布をひろげて行く雑草。下の植物はすべて枯らしてしまうのだから悪辣だ。
 雑草界を見てみると、われさえよければいいものばかりで、共存共栄という考えは成り立たないようである。



写真2,3
 夏とは葉の広がり方がちがうみたいなので、まだ正確な名前は突き止めていない。わたしは庭のオニヒトデと名づけている。


2016.1.23.
 風邪をこじらせた。
 週初めには、ほぼ治ったかな、と思われるところまで回復していたのだが、それが罠だった。
 風呂で頭を洗いたいが、わが家の風呂は寒すぎる。それで市内のスーパー銭湯に行き、心ゆくまで洗ってきた。
 およそ1時間半をかけ、脇目もふらず隅々まで洗い、サウナにも入って磨き立てて出てきたら、脂っ気が抜けて全身ぱさぱさ、精根尽きるほど疲れ果てていた。
 帰って寝たら、3時間あまり前後不覚に眠りこけた。
 そのあと起きたら、また鼻声、1週間前の状態にもどっていた。要するにやりすぎたのである。

 お隣の君津市市民ホールで、房総の郷土芸能という催しをやったから、どんなものかのぞきに行った。
 太鼓や囃子や獅子舞など、お祭りのときの芸能を保存会が演じるもので、演目は全部で8つあった。
 2つ3つ見れば十分と思って出かけたのに、なんと全部見てしまった。
 面白かったからではない。これで、この手のものは見に来なくてよいようにと、一通り見きわめたということだ。
 終わるまで、なんと4時間もかかった。おかげでこれも、風邪をこじらせる元になった。


写真1
 人口10万足らずの地方都市にしては立派なホール。それもこれも新日鉄、東電など、日本を代表する企業の工場があるからで、貧乏な木更津とはえらいちがいだ。
 収容人員1200人、設計は丹下健三事務所である。


写真2
 富津市の獅子舞。
 小学生のころ、島根県にいたことがある。そこが石見神楽の本場で、年2回のお祭りになると、お宮で一晩中神楽が上演された。
 ふだんの学校では、いるのかいないのかわからないような目立たない男子が、この日ばかりは主役となって延々踊り舞うのを、呆然と眺めたものだった。
 昭和20年代の初めだったから、日本がいちばん貧しかった時代である。
 食うや食わずという時代でありながら、けっして途絶えることなくつづけてきたということに、日本の片田舎でしかないこの地のすごさがわかる。
 高校生のとき生地の高知へ帰り、芸能ひとつない郷土の祭りに、なんと野蛮なところだろうとショックを受けた。
 これは土佐藩の家老だった野中兼山が、財政立て直しのため庶民生活まで口出ししたからで、昭和40年ころから廃れていた芸能がつぎつぎに復活してきたのを見て、え、こんな祭りがあったのと、逆にびっくりしたのだった。


 写真3
 木更津ばやし。
 総じてどの芸能も意外に地味で、動きも少なかった。
 いまでは年寄りばかりで、後継者のいない芸能もあるそうだが、地域社会が崩壊したいまとなっては、これはもう避けられないことかもしれない。


2016.1.16
 風邪に負けてなにもできなかった。
 インフルエンザが流行っているそうだが、そういう風邪ではないと思う。とにかく咳が出はじめると止まらなくなり、そのたび絞め殺されるかと思うほど咽が痛く、久しぶりにつらい思いをした。
 それで今週は外へ出ることもなく、家のなかでひっそり生きていた。
 淋しいじいさんの相手をしてくれたのは、テラスに来るスズメだけだ。


写真1
 去年から餌を撒いて手なずけていたから、量を増やしたら来るわ来るわ、十数羽のスズメがじいさんを慰めに来てくれた。
 ただし時間かまわずではなかった。
 どうも家の回りにいるスズメはグループで行動しているらしく、自分たちの縄張りを順繰りに回っているみたいなのである。
 それで必ずしも朝は早くない。
 7時過ぎになっても、昨夜撒いた餌が全然減っていないことが珍しくなかった。
 見ているとボスらしいのがいて、勝手な行動を許さないのではないかという気がした。
 みなが仲よく餌をついばんでいるときでも、そいつが若いスズメを小突いたり蹴散らしたりしている。人間社会と同じ、けっこう世知辛そうなのだ。
 年若いスズメはおおむね友好的で、人をあまり恐れない。ガラス戸の内側にわたしがいても、じっとしていたら平気で餌をついばんでいる。
 ただ群れの中には、ものすごく小心で臆病なやつが必ずいるから、そいつがぱっと逃げ出すと、みな釣られて一斉に逃げてしまうのである。
 餌を食っているときでも、何羽かのスズメはすぐテラスの縁へ行き、空を見上げはじめる。


写真2
 ガラス戸の中にいる人間より怖いものが、空にはいるからだ。この界隈で空の頂点にいるものというと、カラスなのである。
 まことにカラスは空のサメ、スズメはイワシなのだった。
 そういうわけで、今週は庭の写真でお茶を濁します。


 写真3
 今年も鈴なりに実ったアマナツ。
 これはどう見ても成りすぎ。実をつけた段階で摘果して、もっと数を減らすべきだった。
 実が多すぎて栄養が回らないのか、味覚はいまいち。


写真4
 こちらはユズ。こちらも成りすぎて、いまや成ったまま干涸らびている。
 12月じゅうに摘み取ってしまわないと、次の収穫に影響するのだそうだ。
 それで年末に全部収穫しようとしたのだが、このユズには鋭いトゲがあった。
 慣れない素人百姓は傷だらけになり、悲鳴を上げて退散したのだった。


2016.1.9
 風邪を引いた。
 ここ数年風邪とは縁がなかったから、それが油断になっていたかも知れない。咳が出て、咽の痛みがひどい。
 加えて昨日は買い物からの帰り、日が暮れていたこともあって運転を誤り、縁石に乗り上げて左前車輪をぼこぼこにしてしまった。
 さいわい人を巻き込む事故にはならなかったし、われわれも怪我はしなかったが、暗くなってからの運転はもうするべきでないと改めて思った。
 目が見えにくくなったので、12月に眼鏡を新調したばかりだったのだ。
 沖縄へ行ったとき、目が悪くなっていることに愕然として、至急眼鏡をつくり直さなければと心から思った。
 交差点で止まっても、信号機の下にさがっている地名表示板が読み取れないのである。
 ふだんはスーパーや医者など、決まりきったところしか行かないから。多少見づらくても困りはしない。しかし知らない土地で、いまどこにいるのかわからないのは怖い。
 それで帰ってきて、すぐ新しい眼鏡をつくってもらった。
 ところがいくら度数を上げても、すごくよく見えるようになった、というわけにいかなかった。乱視が進行しているというのだ。
 今回新調した眼鏡も、前よりいくらかよくなった程度、感激する見え方にはほど遠かった。それが今回の事故に結びついたのかも知れない。
 昨年は春にも眼鏡を新調しているのである。
 こちらはパソコン用の眼鏡で、つくった当座はずいぶんはっきり見えるようになったと満足していた。
 その眼鏡が1年と持たなかった。年末にはまえにも増してぼやけてしまい、最近の視力の衰えぶりは、この先どうなるのだろうかと恐怖すら覚える。
 近距離用と遠距離用、ほとんど毎年眼鏡を買い換えているのだ。
 それでいま、手元にいくつ眼鏡があるか調べてみたところ、引き出しに10個の眼鏡が転がっていた。
 奇跡を期待して、まだ使える眼鏡があるんじゃないかとひとつひとつ試してみたが、とても使いものにならない。もう捨ててしまうほかない眼鏡だった。
 目と並行して、耳もますます聞こえづらくなっている。このごろは聞き返さずに用の足りることはまれだ。
 微熱があったので、一昨日体温を測った。体温計を脇の下に入れ、しばらくするとピピッという信号音が鳴って測定できたことを告げる。
 この信号音が聞こえないのである。
 そばにいたかみさんが「鳴ったわよ」と教えてくれたが、わたしのほうは「鳴ってない」としばらく言い張っていた。
 再度計り直したときは、すこし離れたところにいたせがれまで「聞こえた」と言った。それがわたしにはまったく聞こえなかった。
 特定の周波音だけ聞こえにくいのかも知れないが、交通事故に遭って94歳で他界した叔父が、目も足も達者だったにもかかわらず、晩年は耳がまったく聞こえなくなっていたことが頭にこびりついている。
 この1年間比較的のんびり暮らしてきたつもりだが、この間の体調の変化というものは、予想していた以上に衝撃的だった。
 衰えは自然でも、それを自覚させられるのは突然なのである。
 そういうことを痛感した新年になった。


2016.1.2
 明けましておめでとうございます。
 風のない、おだやかで、暖かな、気持ちのよい新年を迎えました。
 早朝に起きて、家の近くを散歩してきた。
 どこかいいところがあれば初日の出をと思い、ネットで探してみたのだが、木更津近辺にはないみたいなのだ。
 それで横着をして、わが家の畑ですませた。


写真1
 林越しに拝んだ初日の出。
 時刻は7時すぎ。畑が真っ白く見えるのは霜。


写真2
 お隣りのソーラー発電所から見た元日の富士山。
 ソーラーパネル、新日鉄や火力発電所の施設抜きには、写真を撮ることができないところなのだ。


写真3
 わが家の2階からも、木立の間からちょこっと富士が見える。

 年頭の誓い
 今年末には満80歳を迎える。
 それで今年は、できるかできないかはやってみないとわからないが、もう一回あらたな分野に挑戦してみるつもりだ。
 現代物の短編も書きたい。
 残念ながら頭の衰えは、もう認めなければならなくなっている。加えてここめっきり、肉体の衰えが顕著になってきた。
 だからこそ挑戦のし甲斐があろうというもの。
 無謀にもここで公表してしまうことで、自分を追い込んでみるつもりなのですよ。



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