Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2015年12月までの「きのうの話」目次へ




 

2015.12.26
 今回は富津市の飯野陣屋をご紹介する。
 飯野は会津を本家とする保科氏の城下で、譜代の名門だった。
 禄高は2万石。だが領地が各地に分散しており、飯野はごく狭い範囲で、3000石程度の実入りしかなかったらしい。
 従って殿さま以下家臣の大半はこちらに住んでおらず、常駐しているのは代官クラスまでだったとか。
 殿さまのお墓も、2代目のものがあるだけである。
 明治維新では、会津藩同様飯野藩も貧乏くじを引かされている。
 第二次長州戦争のときは、大村益次郎に撃ち破られた石州口の幕府軍指揮官がここの殿さまだった。
 さらに戊辰戦争では、請西藩が決起したときそれに合流した藩士が出た。
 おかげですっかり新政府ににらまれ、一時は藩の運命まで危うかった。家老が全責任を背負って切腹してくれたため、なんとか免れたのである。
 陣屋の遺構は、敷地を取りまく土塁と濠がほぼ原型のまま残っている。現存するものとしては、恐らく日本一だろうと思う。


 写真1はその案内図。この図の外周の濠がそっくり残されているのだ。


 写真2は本丸正面、陣屋の入口に建てられている記念碑と説明板。


 写真3
 二の丸跡。現在お宮になっているが、陣屋とは関係ないものだった。
 境内に関東大震災の記念碑があった。飯野村からも死者が9名出ていた。
 濠と土塁以外、かつての施設をしのばせるものは残っていない。
 点々と人家があるけれども、いま住んでいるのは、飯野藩とはなんの関係もないふつうの人ばかりである。
 二の丸の後の林のなかに三条塚古墳という6世紀の前方後円墳がそのまま残っているのだが、木が生い茂りすぎて写真の撮りようがなかった。
 元からあった古墳を取り込んで陣屋がつくられたということのようで、古墳の頂上を物見台にしていたというが確認できなかった。


 写真4
 案内図の左下隅、南西の角から両方向の濠を見渡したところ。濠の幅は5〜6メートルとそれほど大きくない。


 写真5
 こちらは北側の濠。もうすこし手入れすればいい散策地になると思うのだが、以前ご紹介した古墳同様、まったくのほったらかしだ。


2015.12.19
 房総にはかつて15の大名家が存在していた。ほとんど禄高3万石以下の小大名で、城はなく、陣屋が城館になっていた。
 木更津の大名も1万石、陣屋住まいだった。陣屋があった請西(じょうさい)町の名を取り、請西藩と呼ばれた。
 請西藩の最後の殿さまはユニークな人物で、徳川幕府に最後まで忠誠を尽くしたことで知られている。
 藩兵70人を率いて東上してくる官軍を小田原周辺に迎え撃ち、破れると榎本武揚率いる咸臨丸に乗って江戸を脱出、奥州を転戦して最後は仙台で降伏しているのだ。
 薩長の新政府が快く思うはずはない。死一等は減ぜられたものの監禁され、請西藩は数ある大名のなかで唯一藩の取り潰しという処分を受けた。
 のちに許され、明治末には子孫が爵位までもらっているが、大名なら必ずもらえた子爵ではなく、一段低い男爵だった。


写真1
請西町にある陣屋跡の碑。出征するとき陣屋に火を放って焼き払ったというから、施設はなにも残っていない。


写真2
 請西町は高台にあり、バブル期に大規模住宅団地の建設がはじめられたが、その後中断されたため、いまはただの原っぱになっている。


写真3

写真4
 麓の貝渕町というところに、移転前の陣屋の遺構がわずかに残っている。引きつづき下屋敷として使われ、周囲には家臣が住んでいた。
 地図を見ると、貝渕町3丁目に、周囲の街並みと合わない四角い区画が、はめ込んだように残っている。
 これが旧陣屋の区画だ。いま2辺に残っている植物帯が当時の土塁の跡、外側には濠の跡と思われる川も流れている。
 明治4年、廃藩置県が行われたとき、ここに木更津県の県庁が置かれた。房総1475村を統括する大県だった。


写真5
 県庁があったことを示す記念碑。
 印旛県と合併して千葉県が生まれるのは2年後のことである。

 なお請西藩の殿さまは昭和14年、94歳までまで存命していた。幕末の激動期を生き抜き、昭和まで生きていた最後の殿さまとなったのだった。


2015.12.12
 沖縄に行ってきた。
 せがれがお膳立てしてくれたもので、主役はかみさん。わたしはスポンサー兼お伴を仰せつかったにすぎない。
 格安航空だったから成田発が朝の6時。5時までに手続きしなければならないというので、夜中の3時に起きてせがれに車で送ってもらった。
 帰りも成田着が22時。それだけ目一杯時間が使えたことになり、2泊3日の駆け足ながら中身の濃い旅をすることができた。
 それにしてもふたりの那覇往復航空運賃が、13520円というのはべらぼうな安さだわ。
 初日は那覇市内を観光、2日目はレンタカーで美ら海水族館や今帰仁城址へ足を延ばした。
 旅先で車を運転するのはかれこれ8、9年ぶりである。
 このところ千葉市内の病院へかみさんを送って行ったり、近郊の古墳見物に出かけたりしていたのも、じつは沖縄旅行に備えての慣らし運転だったのだ。
 家では軽に乗っているが、今回借りたのはホンダのフィット。
 京都へ行くまで1600ccに乗っていたから、小型車なら平気だろうと高をくくっていたところ、システムがすっかり変わって戸惑いっぱなしだった。
 いまどきの車にはエンジンキーがないことすら、知らなかったのである。
 もっと往生したのがカーナビだ。
 地理感覚は人一倍あるほうだから、カーナビなどばかにして使ったことがなかった。だからまったくの素人、出発するとき最初の目的地を設定してもらったのだが、指定された通りにはなかなか進めないのである。
「つぎの角を右折してください」
 と言われたって、通りがいくつもあるところだと、どこの角なのかわからなくて、何度もまちがえては右往左往した。冷や汗たらたら、というより必死だったのだ。
 いま振り返ってみても、2日間知らない土地を走り回り、事故も起こさず無事帰ってこられたことは、ただただ幸運だったとしか思えないのである。
 沖縄そのものは感激するくらい暖かかった。年寄りが冬行く旅先としては最良のところだろうと思う。
 気温は連日20度を超え、最後の日など25度の夏日だった。帰ってきた成田の気温が4度だっただけに、別天地観もひとしおだったのである。


写真1
 琉球王朝の墓所である玉陵へ向かうガジュマルの参道。こういう木立を歩くだけで、沖縄に来た満足感に浸れる。


写真2
 こちらは琉球王家の別邸だった識名園の木立。気根が見事である。


写真3
 備瀬崎にあるフクギ並木。この木は沖縄固有ではなく、防風用としてよそから持ち込まれたものだとか。並木というより屋敷を囲った防風林なので、区画が縦横に入り組み、歩いているうち迷子になった。


写真4
 フクギの葉。記念に1枚持ち帰ったが、傷がついてしまった。


写真5
 識名園で拾ったコバテイシの実。別名モモタマナ。
 この実は水に浮き、潮や流れに乗ってよそへ運ばれて行く水散布種子だというから一粒拾ってきた。拾ったときは青い実だったが、1日でこんなに黄色くなった。
 帰ってきて調べてみると、英名を「tropical almond」または「sea almond」というとあり、種は炒ると落花生のような味になるというからびっくりした。食えるなんて知らなかったのだ。
 だったらもっと拾ってくるんだった。いっぱい落ちていたのである。うーん、返す返すも残念だ。


写真6
 中城城址に咲くツワブキの花。東日本では見られない植物なので知名度はいまいちだが、12月に咲く花である。食用にもなり、わたしなど花より食いものとしてしか見たことがなかった。
 ただし群落に近づくと「ハブに注意」の標識が出ていた。
 都市化の進んだ那覇市内あたりには、もうハブなどいないのかと思ったら「いや、いますよ」とあっさり否定された。夜行性だから昼間は大丈夫とは言うが、それを聞いたらとても茂みに近づけなくなった。


2015.12.5
 前から行きたいと思っていた木更津の干潟を歩いてきた。
 市内を流れている小櫃川の河口が干潟になっているのだ。
 予想していたより大きな干潟だったとも言えるし、こんなちっぽけな干潟しかないのかとも言え、複雑な気持ちだった。
 かつては東京湾の至るところに、遠浅の、こういう干潟があったのである。
 それが高度成長時代につぎつぎ売り払われ、製鉄所や石油コンビナートとなって、一般人は近づくことができない海岸線ばかりになってしまった。
 辛うじて木更津市の海岸の一部だけが、手つかずでそのまま残されているのだ。
 おかげで木更津市には見るべき工場がない。
 ということはそれだけ固定資産税が入ってこないということで、近隣の市に比べたらはるかに貧乏らしい。
 言われてみるといろいろな公共施設、いわゆる箱物は、はっきりいって貧弱である。


写真1
 茫漠とひろがっている干潟。波打ち際にアオサの類が打ち上げられているきりで、なんにもない。砂には鳥の足跡が無数に残されている。
 前方遠くかすんでいるのはお隣君津市の新日鉄の工場群。


写真2
 こちらは反対の東京方面を臨んだところ。アクアラインが見えている。


写真3
 水鳥のサンクチュアリになっていて、おびただしい鳥がいるのだが、遮蔽物がないため、これ以上は接近できない。


写真4
 打ち上げられている流木が龍の形をしていた。


写真5
 芦原に取り残されている水溜まり。近づくと、足音を察しただけで蟹があわてふためいて逃げ出した。
 ちなみに1時間以上うろついていたけど、この間人間さまにはひとりも出会わなかった。


2015.11.28
 マイナンバーカードをもらってきた。
 不在配達票を持って郵便局へ受け取りに行くと、2階に受取り専用ルームが設けてあり、係官が何名もいたからびっくりした。
 不在配達がそれだけ多いということだ。29日までに受け取らないと市役所へもどされてしまうので、みんなあわてて受け取りに来ているのだった。
 行きはバスで行ったが、帰りはウォーキングを兼ねて歩いた。11000歩になった。


写真1
 ふた月まえ、曼珠沙華が満開だった公園。今日は落ち葉がはらはら舞っていた。


写真2
 多摩川の支流浅川の河川敷を埋めたススキ原。多摩川が奥多摩の方へ延びるのに対し、浅川は日野市で分かれて八王子を通り高尾山の麓へと延びる。
 ススキの中を歩くつもりで降りてみたが、道が全然ついてなかった。
 右後方に見えているのが高幡不動のある高幡山。五重塔がのぞいている。


写真3
 高幡不動本堂。金剛寺という名前があることを、今日もらったパンフレットではじめて知った。
 むかしはよく初詣に行ったが、当時は五重塔もなく、簡素で素朴なお寺だった。今日久しぶりに歩いてみたら、けばけばしくなってすっかり観光地化され、以前はかけらすらなかった土方歳三の銅像まで立っていた。


写真4
 高幡不動の背後にある高幡山は標高126メートル、麓からだと50メートルくらい上がっている。
 山内には四国88ヶ所を模した地蔵が安置してあり、小1時間で巡礼できるようになっている。
 以前はまず人を見かけなかったものだが、いまでは平日でもぞろぞろというほど歩いている。

 蛇足ながら、京都の東山に智積院という寺がある。真言宗智山派の総本山で、ものすごく大きな寺だが、古い建物がほとんどないため観光名所にはなっていない。
 墓地の奥へ行くと、夭折した若い僧の小さな墓が累々と並んでいる。功成り名遂げたひとりの高僧の陰には、その何十倍もの落伍者がいたということだ。死因の大方は、栄養失調ではないかとわたしは思っているのだが。
 智積院の説明を読んでぶったまげたことがある。
 全国に3000の末寺があるそうなのだが、成田山新勝寺も、川崎大師も、高尾山薬王院も、みな大本山を名乗っているものの、じつは智積院の末寺のひとつだったのである。
 そういえば成田山は、有名なわりに見るべきもののない、つまらん寺だと思っていたが、それではじめて納得がいった。
 江戸時代に頭のいい坊さんがいて、秘仏ご開帳というもっともらしいイベントを開いて江戸市民をありがたがらせ、人気絶頂だった歌舞伎役者市川團十郎をPRに動員して、関東でも一、二を争う有名寺にのしあがったということなのだ。
 じつは高幡山金剛寺も智積院の末寺のひとつだった。ただしこちらはなぜか、別格総本山ということになっている。


写真5
 高幡山の頂上から富士が見えたのでアップ。今日の強の風さがよくわかる。


2015.11.21
 前回の金鈴塚古墳が面白かったから、にわかに古墳巡りをしたくなった。それで今週は富津に残っている前方後円墳を見に行ってきた。
 大型の前方後円墳がほぼ原型のまま、いくつも残されていることにびっくりした。
 保存されているというより、役に立たないからうっちゃられ、見捨てられているという感じだ。
 一応史跡に指定されているが、それも市レベルの指定。ということは、なにもされていないということでもあった。
 古墳内へは自由に立ち入りできるが、手入れされていないから荒れ放題。
 カシ類の常緑樹が鬱蒼と茂っていまや原生林状態、歩くことすらままならなかった。これでは気色悪くて、ふつうの人はまず入ってこないだろう。


 建造当時の面影をよく留めているといわれている稲荷山古墳。この写真は前方後円墳の前方部から全体を俯瞰したもの。
 手前の、いま田んぼになっているところがかつての周溝の跡。それらを入れると全長200メートルを越える巨大な古墳だ。


 反対側に回って後円部から見た風景。
 内部へは雑草の生い茂った畦道のようなところを通って入って行けるが「まむしに注意」の標識が出ていてぎょっとさせる。


 古墳中央部のくびれたあたり。写真では問題なく明るいが、実際は夕方みたいに暗くて、陰気、見通しはまったく効かない。


 樹木は圧倒的にカシ類が多い。マテバシイが山ほど採れた。


 帰りがけ、稲荷山古墳からそれほど遠くないところを走っていると、道路縁にこんもり盛り上がった小山があった。もしや古墳ではないかと、車を下りてたしかめに行ったところやはり古墳だった。
 内裏塚古墳といい、全長144メートルの、南関東では最大という前方後円墳だった。距離が取れないので全景が撮影できなかった。


 古墳入口にある説明板。外観からこの形を想像することはむずかしい。内部には市の立てた石碑がひとつあるだけ。人が立ち寄っている形跡はぜろだった。
 金がないから整備できないのだろうが、保存するということでは、かえっていいのかもしれない。しかしこの常緑樹のジャングルは、つくった人たちはまったく予想していなかったと思うのだが。


2015.11.14
 木更津市周辺にはかつていくつか前方後円墳があった。それが現在ほとんど残っていない。
 金製の鈴をはじめ、金環の装飾を施した大刀など、多数の出土品が出たことで知られる金鈴塚古墳はいまでも残っている。
 全長100メートルを越える巨大な前方後円墳だったそうだから、この地方でも有数の権力者の墓だったのだろう。
 いまは横穴式の石室と、わずかな墳丘が残るばかりである。
 地図にも記載されているくらいだから、行けばわかるだろうと高をくくって出かけたところ、見つけるのに1時間以上かかった。
 人に尋ねようとしても、住宅街の真ん中とあってろくに人が歩いていない。
 ようやく見つけた年配の男性に聞いたら、名は聞いたことがあるというものの、場所までは知らなかった。
 つぎに尋ねた女の人に教えてもらったが、男性に聞いたところから1町と離れていなかった。
 わからなかったはず、民家とアパートの間に挟まれた、築山みたいな小山だったのである。


 まん前まで来てはじめて案内板が見つかる。石柱の向こうに見えている階段が石室へ上がる道。


 外からのぞいた石室の内部。


 重要文化財に指定されている金の鈴5個は市立博物館に展示してある。


 古墳が破壊されたのは明治以降のことだそうだ。奈良の古墳だって、古い古墳を壊しては新しい古墳を築いているから、どこも似たようなものか。
 遺跡の保存という観念はごく近代のものなのである。


2015.11.7
 かみさんが月に1回、定期検診を受けるため千葉の病院に通っている。
 いつも電車で行くが、昨日はわたしが車で送って行った。
 車の運転を再開して1年半、これまで市内しか乗らなかった。
 それですませられるなら、それに越したことはない。しかしいつ、都内や多摩へ出かける用が起きないとも限らない。
 万一のことを考えたら、もっと運転に慣れておいたほうがよい。
 ということで今回、はじめて千葉まで出かけたのだ。高速道路に乗ったのも、これほど長い距離乗ったのもはじめてだった。
 帰りは遅くなり、途中で日が暮れた。30分足らずだったとはいえ、夜道を運転して帰ったのだ。
 これが思っていた以上に緊張した。なによりも目が見えなくなっていることに愕然としたのだった。
 昨日の疲れは今日になってもまだ残っていた。肩が凝っているのだった。
 できたらもう運転はしないほうがいい、内心ではそう思っている、しかしそれでは田舎で暮らせないのだ。
 老人が交通事故を起こしたというニュースに接するたび、やりきれない気持ちになる。

 診察が終わるまで、近くの公園や博物館などで暇をつぶしていた。


写真1
 公園の植え込みでスダジイを見つけて大興奮。容れ物がなかったので、ハンカチに包めるだけ包んで持ち帰った。


写真2
 そのあと千葉大医学部の校内で、今度は大量のマテバシイを見つけた。
 マテバシイは見るからにドングリ然とした木の実だが、スダジイよりやや味は落ちるものの、炒ればそのまま食える。
 見捨てて行くに忍びない光景だったが、容れ物はなし、ハンカチはいっぱいでもう入らない。やむなく片手で拾えるだけ持って帰った。


写真3
 元の畜産試験場が自然豊かな公園になっている。そこをウォーキングしているとき見つけた桜。
 花が少ないから見栄えはしないが、満開である。冬桜と表示してあった。


写真4
 これは珍しい赤い花の咲いた蕎麦。ヒマラヤから持ち帰ったものだそうだ。


2015.10.31
 Windows 10 を導入した。
 ネットの口コミを見た限りでは、使いよくなったという声は少なかった。それでもうすこしようすを見るつもりだった。
 ところが連日画面に出てきては、早くやれと催促するものだから、つい魔が差してしまい、深く考えもせずクリックしてしまった。
 やるんじゃなかったと、いまは後悔しきりだ。使い勝手がすこしもよくなっていないのである。
 起動速度はまちがいなく遅くなった。
 画面の切り替えも遅くなったし、フリースする頻度が増えた。
 できることなら windows 7 に変更したいくらいだ。
 しかし10を7まで下げるのはむずかしいそうで、素人が手を出すべきことではないらしい。残念ながら、このまま使うほかないようである。
 わたしのようなユーザーには、ネットとメールができ、写真が保存できて、文書作成がさくさくできたらそれで十分、あとほかに望むものはない。
 これまでの経験からいえば Windows xp がいちばん使いよかった。以後バージョンアップされるたび、使い勝手は悪くなっている。
 今回もインストールせずに使っていたソフトが消えてしまったため、あらためて設定し直さなければならなかった。
 写真の縮小方法も変わってしまい、いまのところまだよくわからない。今回の写真も、回りくどいやり方でなんとか縮小したところだ。
 おかげでこの数日、使いこなすための試行錯誤ばかり繰り返している。

 今週もダム周辺の秋の色をお目にかけよう。

写真1
 トキワサンザシ(別名ピラカンサ)。


写真2
 ハナゾノツクバネウツギ。


写真3
 ニシキギ。


写真4
 十月になってやっと勢いの止まったクズ。ごらんのようにまことにすさまじい繁茂力だ。中央のラインは手入れされたばかりの遊歩道だが、放置されたら一夏で完全に塞がってしまうだろう。


写真5
 ダム堰堤のツツジもだいぶ色づいてきた。


2015.10.24
 天気はよし、気温も頃合い、外を出歩くにはいちばんいい季節となった。
 今週は4日もウォーキングに出かけた。
 木々はだいぶ色づいてきたが、房総は紅葉がそれほどでもない。朝の冷え込みがきびしくないから、鮮やかさがいま一歩なのだ。
 わが家ではユズの実が、今週あたりから黄色くなりはじめた。
 去年は生り年でなかったらしく、ただの1個もならなかった。それが今年は、去年の反動みたいにたくさん実った。
 果実によっては隔年で実ったり、実らなかったりするのか、柿もそうだ。
 柿の木は2本あるが、去年実をつけた木は今年だめで、去年ぜろだった木が今年は地面まで垂れ下がるくらい実をつけた。
 2本とも植えたのではなく、ひとりでに生えてきた木ではないかと思う。しかも手入れをまったくしてやっていない。
 だから実はきれいでないし、大きさも小ぶり、それでも一応甘柿である。
 柿は大好物なので毎日せっせと食っているが、1日に1個や2個食っていたのでは埒があかないくらいある。
 だったら売ればいいじゃないか、と虫のいいことを考え、昨日近くにある産直市場をのぞきに行ってきた。
 そしたらあるはあるは、店じゅう柿だらけ。柿を出店している農家だけで10軒以上あった。
 うちとは比べものにならない立派な実が、7、8個入って200円くらいだ。
 それでも売れ行きは芳しいように見えなかった。なにしろ多すぎるのだ。
 うちの柿など出る幕はないとわかり、すごすご帰ってきたのだった。


 写真1
 食えなくてもいまの時期は赤い実がいちばん美しい。これはハナミズキ。葉はこれからさらに赤くなる。


 写真2
 マユミ。


写真3
 ウメモドキ(だろうと思う)。


 写真4
 ダムの水辺に棲みついているカワウ。雄か雌かわからないが、いつもこの枝に止まっている。つがいなのだが、ほかに木がないので、離ればなれにしか止まれないのである。


2015.10.17
 恒例となっている年2回の箱根旅行に行ってきた。
 前回は大涌谷が噴火する直前のことで、13名集まったが、今回はやや少なくて8名、すべて男だった。
 かつては一晩中呑みつづけながら談論風発していた剛の者がいまや寄る年波、12時にはお開きになって他愛なく寝てしまった。
 翌日また、往生際の悪い4人がさらに芦ノ湖まで足を伸ばし、もう一晩清遊してきたのも従来通りだ。
 前回はどこの国へ来たんだろうと思えるくらい声の高い団体さんで満員だったが、今回は2晩ともまったくいなかった。
 ただし2日目は箱根の山を車でぐるぐる回っているうち気分の悪くなったものが2名出て、うち1名はわたし。なんともみっともない醜態をさらした。
 それでもひと晩寝たら元気を取りもどし、翌早朝は1時間あまり湖畔を歩いてきた。
 芦ノ湖は1周約20キロ、曲がりなりにも道がついているようなので、このつぎは1周してみようということになったが、果たしてその機会があるかどうか。
 来年スペインへ行き、バチカン、エルサレムと並んでキリスト教の3代巡礼地といわれているサンチャゴデコンポステーラまで歩くというやつがひとりいて、いま毎日30000歩いて足を鍛えているという。
 負けてなるものかとは思うものの、朝方湖畔を一緒に歩いてみた感じでは、わたしのほうが完全に負けていた。足の運びがちがうのである。
 それでもすぐさま発憤してしまうところがわたしの軽佻浮薄なところで、その日は19000歩あるいた。もちろん朝の8000歩を入れてのことである。
 今日も歩く気満々だったが、昨夜から急に寒くなり、夜中にあわてて毛布を出す始末、昼はとうとうヒーターをつけた。
 気温計を見たら18度、しかも小雨になっている。とても歩く気分になれず、せっかくの決意もたった1日でダウンしてしまった。


写真1
 箱根から御殿場まで降りて行ったところに二の岡神社というお宮がある。小さな社だが天然記念物に指定されている杉の社叢林があって、時代劇の撮影でよく使われている。
 ネットで確認してみたところ、いまやこの神社はパワースポットとして有名になっているらしい。見ての通りいかにもものものしい雰囲気なので、いまどきの若者は畏怖の念を覚えるのだろうが、がきのころ、こういうお宮を遊び場として育ったわたしのような年寄りには、ただただ清々しい気持ちのよい森でしかないのである。


写真2
 この神社でロケをした映画のなかでいちばん有名なのは、黒澤明の『七人の侍』だろう。山賊を個別撃破するため騎馬を一騎ずつ通すという場面で使われたのがこの道だ。また宮口精二扮する久蔵が敵の銃をぶんどって帰って来る場面もここで撮影されている。


写真3
 本殿。黒澤明の作品では『椿三十郎』の冒頭の場面にこの本殿が出てくる。本殿前の柵で囲ってある石灯籠は室町時代のもの、この地方で最古のものだという。
 このお宮は、船戸与一が御殿場に別荘を持っていたころ、何度か遊びに来て知った。
 この本殿の回廊で、某雑誌主催の将棋対局を船戸とやり、序盤圧倒的な優勢でまだ投げないの、などと言っていたら船戸がにわかに便意を催し、野ぐそをしてくると言うからティッシュを提供してやったところ、帰ってきてから一挙に形勢逆転、ウンをつけて来た船戸に屈辱の敗戦を喫した思い出深い場所でもある。


写真4
 朝まだきの芦ノ湖湖畔。紅葉にはまだすこし早かった。富士山はもうすこし元箱根寄りに行かないと見えない。


写真5
 帰路大涌谷近くの山沿いを走っていたところ、山のなかで白煙が立ち昇っていた。車を下りてたしかめてみたところ、地中から噴出しているガスだった。


写真E
 ガス噴出の現場全景。そこら一帯白煙に覆われ、木々も枯れていた。もっと近寄りたかったが、監視員がいてこれ以上接近できなかった。


2015.10.10
 木更津の隣にある君津市が上総掘りの見学会を開いてくれたので、一日参加して見て回ってきた。
 上総掘りというのは、慢性的な水不足に悩んでいた房総で開発された、世界に類を見ない井戸掘り技術である。動力を使わず、簡素な道具と小人数で信じられない深さまで掘ることができる。
 とはいっても100メートル以上掘れるようになったのは明治以後のことで、江戸時代は4、50メートルが精一杯だったらしい。
 明治以後になって4、500メートルまで掘れるようになり、最深1400メートルの記録まであるそうだ。
 模型なら木更津の博物館に展示してあるし、袖ケ浦には実物が屋外に設置してあるから、どういうものかはだいたいわかっていた。
 しかし現実に稼働しているところは見たことがなかった。竹ひごと簡単な鉄管だけで、そんなに深くまで掘れるということがなかなか信じられなかった。
 しかしかつては房総に、上総掘りで掘られた井戸が何百とあったことは事実。いまそれが、ほとんど見られなくなっていることも事実なのである。
 上水道が整備され、機械掘りが進化した上、いちばん需要のあった灌漑用水が、減反という農業講造の変化によって激減し、産業としての井戸掘りは役目を終えてしまったのだった。


 写真1
 市内の田んぼに残されている自噴井戸のひとつ。上総掘りで掘った井戸は、帯水層と呼ばれる圧力を受けている地層に穴を開けるため、水は独りでに噴き上がってくる。
 ごらんのように流れっ放し、止めることができないのである。


写真2
 自噴井戸の水温は13度から16度とほぼ一定しているとか。その水温を生かして栽培されているカラー畑。あいにく花の季節は終わっていたが、温室内は湿田となっている。


 写真3
 名水の里として有名な久留里に設置してある上総掘りの現場。NPOの運営で、見学者が上総掘りを体験できる場となっている。


 写真4
 実際に掘削を体験させてもらっているところ。
 掘るといっても竹のバネの力を借りるから、それほど力は必要としない。小刻みに地の底を突くといった程度である。
 ただし止めると粘土層に埋まってしまうとかで、そのため掘りはじめたら24時間掘りつづけなければならない。実際に掘れる深さは1日数十センチだという。


 写真5
 久留里駅前に設けてある自噴井戸。もったいないことに、蛇口がないから流しっ放しだ。ポリタンク持参で水を汲みに来る人が引きも切らない。


 写真6
 久留里市内にある自噴井戸のひとつ。これだけの高さがあるのは、ここまで水が噴き上がっているということ。井戸ごとに自噴度はちがうそうだ。


2015.10.3
 昨夜は台風並みの大風が吹き荒れ、木更津で最大28メートルの風速を記録した。
 わが家は吹き曝しのところにあるため、突風が吹くたび、大袈裟でなく家が持ち上がるような揺るぎ方をした。
 今日はおだやかに晴れ渡ったので、午後から日課になっている栗拾いをした。
 昨夜の風でだいぶあらたに落ちたかと思ったが、それほどでもなかった。というより今年の栗はほぼ終わったということだ。
 まだ数日は拾えそうだが、この時期になると虫食いが多く、半分かそれ以上やられ、無事な実はぐんと少なくなる。
 無農薬というよりなんにもしてないから虫はつき放題、木の上でやられてしまうからどうにもならない。
 だから他人様には差し上げられないものの、自分ところで食う分には差し支えない。
 栗は根菜類より栄養価が高く、しかも低脂肪、きわめてすぐれた食品だという。第一うまい。ただし生鮮食品だから、できるだけ早く食わなければだめだ。
 そのためわが家では毎日茹で、かみさんが悲鳴を上げながら1日じゅう栗剥きをしている。
 おかげでこちらもせっせと食わざるを得ない。朝めしは茹で栗という日がもう3週間つづいているのだ。
 たまにはほかの果物を食いたいのだが、栗がある間はほかの果物を買ってもらえないのである。
 似たような事情で去年はメロンがたらふく食えた。地中にすき込んだ前年の種から芽が出て、それがつぎつぎに実を結んでくれたからだ。
 今年も大いに期待していたのだが、なぜか、1本も芽が出てこなかった。仕方がないから来年は、自分で苗を買ってきて植えようと思っている。
 栗はその点木だから、なんにもしなくても律儀に実をつけてくれる。
 ただしわが家の栗林は老木が多く、今年枯れた木も出はじめ、明らかに樹勢が弱っている。
 20年ぐらい前の写真にはまだ栗林が写っていないのだ。ということはすべて20年足らずの木ということになる。
 とびきり大きな実をつける木が数本ある。小型マウスくらいもの大きさの実が、ひとつ毬のなかに6つも入っていることがあってびっくりする。
 大きな栗を、できるだけたくさん実らせようとした農業関係者の努力の結果だろうが、ここまでやるのは自然の摂理に反している気がしないでもない。
 当然木の本体にそれだけ無理をさせているわけで、栽培栗の木の寿命はそれほど長くないらしい。短期間にむりやり卵を産まされ1、2年で廃鳥になってしまう鶏と同じ使い捨てなのだ。
 しかも昨夜はまた猪が出たらしく、捨ててあった実を食い荒らした跡が残っていた。
 先週その痕跡を発見し、ついに猪が来はじめたかとショックを受けたのだが、その後現れた形跡がないので、一過性のものだったのかとほっとしていたのだ。
 そしたらまた出てきた。
 あらたなエサ場として頭にインプットされたとしたら、来年はもっと厄介なことになる。なにか対策を考えなければなるまい。


 写真は今年の勇姿。なんとも大袈裟な格好をしているが、なんせ蚊が多いのでこれくらい防備しないとひどい目に遭う。シャツや手袋の上からでも容赦なく刺してくるのだ。



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