Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2015年9月までの「きのうの話」目次へ




 

2015.9.26
 久しぶりに銀座まで出かけた。
 リタイア後、バンコクと東京で半々暮らしをしている友人が、向こうで撮った大トカゲの写真展を開いたから、見に行ったもの。
 むかしの同僚だから、だれか知っている顔に会えるかもしれないと思っていたが、50年近く会っていなかった旧友がいたのに、紹介されるまでまったく気がつかなかった。
 見たような顔がいるなあとは思ったが、だれだか思い出せなかったのだ。
 名を教えられてびっくり、ごく親しくしていた男だったのである。とはいえ向こうも、言われるまで気がつかなかったのだからお互いさまだ。
 奥さんも会場に来ていて、この人も同じ職場にいたからよく知っていた。こちらはまだわかりやすかったが、知らずに顔を合わせていたら思い出したかどうか、自信はない。
 とにかくすべての面で、物忘れのひどくなっていることにあらためてショックを受けた。話していて、わかりきった地名や名前がさっぱり出てこないのだ。
 家に籠もりっきりで、人としゃべる機会のなくなっている弊害に愕然とした。このままだと急速にぼけてしまいそうで、まじめに怖くなった。
 これからは積極的に人前へ出て、しゃべる機会をつくらなければいけないと反省しきりだ。多摩の家にもどってきたほうが、いいかもしれないとさえ思うのである。
 一方で庭の草引きがだんだん重荷になってきた。猫のひたいほどのの庭を2日かけ、それも休み休みでやっと終えた。
 座った姿勢からすぐに立つことができず、尻餅をついたことも2度ある。草引きのような軽作業が重労働になってしまった。
 この家は老後の隠居所として確保しておくつもりだったが、草引きをこれほど持てあますようだと、もう手放すしかないかもしれない。


写真1
 彼岸花もそろそろ終わり。これは家の近くの田園風景。
 不平を言うわけではないが、関東の彼岸花は色がくすんでいるような気がする。これはかみさんも同じ意見で、奈良の彼岸花はもっと色鮮やかだったと記憶しているのだ。


写真2
 日野郵便局へ行くとき通った公園のなか。日陰の森がお花畑になっていた。


写真3
 これも市内のお宮。こういう曼珠沙華も捨てがたい。


写真4
 草引きをしていたら、歴戦の勇士みたいなカマキリが出てきた。大きさといい、色相といい、面がまえといい、まさに古強者。人間を見たって逃げもしない。せいぜいうまい餌を食っていい子孫を残しなよと言ってやった。


2015.9.19
 目撃したわけではないのだが、家から遠くない路上に、猪の死体が転がっていたそうだ。夜中にさまよっているところを、車に撥ねられたものらしい。
 一昨日は防災無線が、猿が出没しているから気をつけるよう呼びかけた。うちの地区ではなかったが、それほど遠くないところだった。
 さらにキョンという鹿の一種が県内で異常に繁殖し、数万頭を超える数になっているとか。
 先日かみさんとせがれの見かけた鹿が、どうもこのキョンだったかもしれないのだ。
 キョンは外来種で、勝浦の行川アイランドから逃げ出したものがあっという間に増えたのだという。
 鹿より食性が広い上、繁殖力が強いから、年間数千頭の駆除くらいでは焼け石に水。野生動物の跳梁は、県の行政の頭痛の種になっている。
 今年も栗の季節がはじまり、今週から収穫ができるようになった。
 とはいえ今年は成り年でないのか、実が小粒で、収穫量も少ない。
 それより栗林のなかで、野生動物の大量の糞を見つけた。かなり頻繁に現れているみたいで、あたらしい糞は数日前のものだろうと思われた。
 写真に撮ってネットで調べてみたところ、どうやら猪らしい。
 まさか栗をいがごと食っているわけではあるまいが、虫食いや成長の悪いものはそのまま打ち捨ててあるから、そういう実ならいくらでも転がっている。
 それに味を占めて来はじめたとしたら、これを追い払うのは容易なことでないだろう。第一栗林へ行くたび、猪がいないかどうか、たしかめなければならなくなる。
 そういえば最近雉を見かけなくなった。猪が出没するため姿を消したのではないだろうか。
 見てきれいなものではないから写真は掲載しません。


2015.9.12
 台風18号がこれほどの被害をもたらすとは、いつものことながらだれも想像しなかったと思う。
 房総半島も2日間、これでもかこれでもかとばかり降りつづけた。朝の4時半にときならぬ防災マイクが、一部地域に避難を呼びかけたくらいである。
 今回大洪水に見舞われた常総市は関東平野のただ中で、ほとんど真っ平らといった地域だ。
 標高にして15メートル前後、堤防が決壊したら当然大きな被害を受けるし、浸水したら今度はなかなか引いてくれない。
 刈り取り寸前の稲が、泥水に浸かっているところをテレビで何度か見た。1年間の労苦が水泡に帰してしまったわけで、なんとも気の毒でことばもなかった。
 じつはわが家の米も、今年はすべてだめになってしまった。水のせいではない。猪のせいである。
 先週末の土日、雨の降り間を見て大急ぎで稲刈りをすませた。
 日曜日にはかみさんの甥が手伝いに来てくれ、おかげで雨が降り出す前に収穫を終えることができた。
 甥は大阪の出身だが、親しい友人が米作り農家とかで若いときから定期的に手伝いに行っており、農作業はベテランの域に達している。
 その甥が来たときこんなことを言った。
 大阪の農家の田も猪に荒らされている。すると米に猪の臭いがついて売りものにならなくなるから、今年は猪の荒らした稲は刈り取らなかったと。
 わが家の田は去年も荒らされたが、臭いがつくというほどではなかった。
 それで今年も大丈夫だろうと思って収穫をすませたのだが、翌日籾を乾燥させ、玄米にしたあたりからせがれがおかしいと言いはじめた。
 今年の米は臭うというのだ。
 あわてて何キロか精米し、その日夕食に炊いて食ってみた。
 できたばかりの新米である。
 それが臭かった。
 猪臭というか、けもの臭が染みつき、新米特有の食欲をそそる匂いがまったく感じられないのだ。
 猪の入らなかった田もあったのに、籾の段階でひとまとめにしたから、すべての米が臭くなってしまった。
 食えなくはないにしても、とても商品にはならない。人さまに差し上げることもできず、あとはわが家で食うほかないわけだ。
 迂闊だったことはたしかだとしても、なんとも腹立たしく、無念で、ことばが出ない。


 今年の稲刈り風景。ごらんのような人里離れた山のなかで、最寄り人家まで半キロ以上ある。
 周囲の田の多くは猪除けの電線を張り巡らしており、わが家もそうするつもりだった。それが伊豆であんな事故が起こったため、つい今年は見送ってしまったのだった。


2015.9.5
 2週間前までは、干ばつでお湿りが欲しいと嘆いていた。
 それがいきなり長雨だ。晴れてくれないと稲刈りができないと、いまはため息をついている。
 照っては泣き、降っては泣き、百姓の暮らしというのはいつの時代でも変わらないものなのだ。
 久しぶりに晴れたので今日はせがれが大忙し、夜真っ暗になるまで働いていた。稲刈りの支度をしていたという。
 晴天がつづくのは明日までというから、明日中に稲刈りをするつもりかもしれない。
 と、他人事みたいな言い方をしているが、親は何の戦力にもなってやれないのである。
 今年はとうとう草刈りすらしなかった。この暑さだ。外で働くことなど論外である。
 わが家は標高80メートル前後の尾根筋に位置しているから、農地はすべて畑、稲は借りた田で作っている。
 周囲には丘陵を拓いてつくった同じような土地がいくつかあり、地図では『……開拓』といった名で表示されている。
 戦後、外地から引き揚げてきた人が入植した土地だろうと思っていた。
 そのひとつをたまたまバイクで走っていて、開拓記念碑があるのを見つけた。
 引き揚げ者が拓いた土地ではなかった。
 終戦の前、戦災に遭ったか、疎開したかで、東京から逃げてきた人たちが入植した土地だったのだ。そういう開拓があったことをはじめて知った。
 むろん当時は手つかずの山林だったはずで、すべて人力で切り開いたわけだから、その労苦たるや並大抵のことではなかっただろう。
 いちばん苦労したのは電気と水がないことだった、とあったからびっくりした。
 いまでは当たり前のことだから、言われてみるまで気がつかなかったのだ。
 山の上だから井戸は掘れない。飲料水は麓まで汲みに行き、いちいち担いで運び上げていたのだろう。
 わが家の温室など散水はスプリンクラーでやっている。時代がちがうとはいえ、ありがたい世のなかでつくづくよかった 。


写真1
 何の変哲もない農村風景だが、標高120から150メートルの丘陵を切り開いてできた土地だ。直線道路は2キロを越えるが、ゆるい勾配になっているから全体は見通せない。


写真2
 一歩入った脇道から。小雨がぱらついていた。


2015.8.29
 わが家の田んぼが今年も猪に荒らされた。そろそろ稲刈りという季節だが、決まってそういうときに現れる。
 このところけものの害がますますひどくなってきた。猪が田に入るのは泥浴びが目的らしいが、根こそぎ倒してしまうから、やられたほうはたまったものではない。
 収穫がだめになったわけではないにしても、荒らしたところは稲が倒れてしまうから、コンバインが使えない。すべて手で刈り取らなければならなくなる。
 今年は田植えのとき、せがれふたりが家族を連れて手伝いにやって来た。
 というより手伝いさせてやったようなもの。そのための準備作業は、すべて前日までにやっていた。
 当日もせがれがつきっきり、田植機に苗をセットして、孫たちは運転するだけ。本人たちは大喜び、秋には稲刈りもと言って帰って行ったが、この分だと呼んでやることになれそうもない。
 この界隈でもちょっと奥のほうにある農家は、家の回りを物々しいほど警備して、けものから身を守っている。
 自家用の畑まで、板で囲ったり電気柵を張り巡らしたりして、けものを寄せつけない工夫を凝らしているのだ。
 いまや安全なところというと、交通量が多い道路に面した田畑くらいしかなくなった。
 わが家の畑にも、最近は猪らしい食害が出はじめた。見届けたわけではないから正体はわからないのだが、今年はニンニク畑がやられた。猪はあんなものまで食うのだろうか。
 市街から一歩入っただけのところだが、人家は少ないから電気柵のような防御を施している家は少ない。それでかえって安全だと、けもののほうが出っ張ってくるのかもしれない。
 昨年植えたビワの木も、3本のうち1本がなにものかにやられた。根元から食いちぎったみたいに摘み取られたのだ。ビワの苗を食う動物がいるのだろうか。
 雑草の強さとけものの食害には、少々の勤労意欲など歯が立たない。人間のほうが先に駆逐されてしまいそうである。


写真1
 鹿も猪も入れないよう厳重に囲ったこの辺りの農家の畑。猟銃禁止の立て札が出ているところを見ると、かつては猟ができたところらしい。


写真2
 わが家の畑に残されている足跡のひとつ。調べてみたけど不鮮明なのでわからなかった。猪ではないし、犬でもない。


2015.8.22
 エッセイを書く必要があって、ハヤカワの古いポケット・ミステリを4冊読み返した。敬愛する作家の初期作品で、その後いずれも文庫になっている。
 多摩の家を探せばどこかにあるはずだが、わざわざ探しに行くのも面倒なので、この際古本で間に合わせようと思った。
 ネットで探してみたところ、4冊ともすぐ見つかった。文庫版だから値段も思っていた以上に安い。
 だが1円という値段のついたものがあったのには目を疑った。送料が257円で、本の値段は1円なのだ。
 なにか仕掛けがあるんじゃないかと何度も見直したが、まちがいない。
 欲しい本がネットで簡単に見つけられ、しかも総体的に安くなっているのはうれしいが、さすがに人文書だと1円はない。
 なかば疑いながら注文したところ、数日で4冊とも手元に届いた。
 送ってきた本屋は4冊ともすべてちがうのだ。
 だから1円の本を送ってきたところは、1円売り上げるため、わざわざ在庫を探し、封筒と手間込みで、送ってくれたことになる。
 ありがたいと言えばありがたいが、これで商売が成り立つのかなあ。
 『もったいない本舗』という会社だったからネットで調べてみると、本、コミック、CD、ゲームなどを扱っている通販の全国チェーンだった。
 カタログを見たら、定価1円の本は珍しくなかった。ヘミングウエイの『老人と海』や太宰治の『人間失格』なども1円だ。
 こういう「もったいない精神」はありがたいとは思うのだが、昨今の書籍文化の凋落ぶりを物語るような話でもあって、作家としては複雑な気持ちにならざるを得なかった。

 今週はようやく雨が降り、久しぶりにしっとりした緑がもどってきた。
 日中をクーラーなしで過ごせるようになったのは、何日ぶりのことだったろう。

 バイクで市内へ出かけるときは、いつも交通量の少ない旧道を通る。これはその途中にあるクヌギの木。木更津でいちばんお気に入りの風景である。
 目障りな電柱や電線がなかったら、北海道美瑛のセブンスターの木やケンとメリーの木に負けない観光名所になると思うのだが、そうなればなったで、カメラマンがどっと押しかけてきてろくなことにならないだろうから、本当はこういうところで公表すべきではないのかもしれない。


2015.8.15
 このところ毎日、各地で集中豪雨が報じられているのに、房総は雨ひでりである。
 昨日今日と、天気予報は雨だったにもかかわらず、ぱらついた程度、お湿りにもならなかった。
 先月の台風以来、ここ1ヶ月まとまった雨が降っていない。雨雲という雨雲が房総、それも木更津界隈を素通りしている。
 この前多摩でものすごい雷雨を経験したが、木更津ではそういう雨に遭ったことがない。
 雷雨そのものが少ないし、積乱雲、つまり入道雲をほとんど見かけない。
 雲のかかるような高い山がないせいか、空は毎日底抜けに晴れている。とにかくこれほど雨が少ないのは予想外だった。
 おかげで地面はからから、すぐ土埃が舞い上がる。
 鉢植えのブルーベリーを枯らしてしまった。
 一抱えもある大きな鉢だし、戸外に置いてあるから大丈夫だろうと思っていた。それが乾ききってしまうくらい、雨が降らなかったということなのだ。
 葉がちりちりになっているのを見てあわてて水をやったが、遅すぎた。甘い実をたくさんつけてくれていただけに、気の毒なことをしたと、後悔しきりである。
 これで冬を越せなかったコーヒーと、今回のブルーベリー、京都から持って来た植物をふたつとも枯らしてしまったことになる。
 同じ鉢に寄生している雑草が青々していたから気がつかなかった。
 それにしても雑草のたくましさ。わたしも自分では雑草だと思っているのだが。

 今週ようやく車の運転をさせてもらえた。3ヶ月ぶりの運転である。
 といってもスーパーに行っただけ。横に乗ったせがれが教習所の教官みたいに口うるさいし、後部座席に乗ったかみさんまでが言いたいことを言う。
 注意力が散漫で、周囲に対して傲慢になっていることはたしかだから、おとなしく聞き入れるしかない。
 本当はもう乗るべきでないと自分でも思っているのだ。
 乗らないことには暮らせないから乗る。この矛盾をどこまで引きずれるか、あとは時間の問題でしかない。


2015.8.8
 今週をもって左腕が完治し、医者通いから解放された。
 結んで開いてをこの間むりやりやっていたから、夜になると手首が腫れ、その痛みにびくびくしていた。
 結果的にはそれがよかったようで、週末になると痛みがほぼなくなってしまった。
 自分でも、あ、治ったなという感触が得られ、ほっとしたのだった。意地っ張りなのが、リハビリにはさいわいしたのだ。
 慣れない動きをするとまだ痛むが、これも時間の問題、これから握力の回復に努めるつもりである。
 それで今週は調子に乗り、完治祝いということで銚子まで行ってきた。銚子と言えば鰯、この際取れたての鰯をたらふく食って来ようと思ったのだ。
 ところがうまくいかなかった。
 食いたければ食いたいで、どこに行けばよいか、下調べくらいして行けばよいのに、そういうことをまったくやらず、行き当たりばったり出かけたのだから、これでは望みが叶うわけはない。
 名前は出さないが、ひどい昼めしを食わされた。頼んだうしお汁がぬるくて、生臭くて、食えたものではなかった。
 そのあとヤマサ醤油工場を見学し、口直しに醤油ソフトクリームを食ってきた。


 写真1
 山武市の海岸にある蓮沼海浜公園の展望台。8階分の高さがあるから眺望はよいのだが、海は遙か彼方、ほとんど見えない。距離がありすぎるのだ。


 写真2
 公園にある児童遊具のひとつ、日本一距離が長いというミニトレイン。これにまたがって、全長2・1キロの林やブッシュのなかを18分かけて1周する。大人も乗車可。
 本日は開園したばかりで、ほかに乗客がいなかったのをさいわい、ふたりで楽しく1周してきた。写真はないよ。


 写真3
 海抜が3メートル以下の九十九里浜から、銚子寄りの屏風ヶ浦に差しかかると高度がいきなり5、60メートルと高くなる。その取っつきの刑部岬から見下ろした飯岡と付近の景観。
 利根の川風袂に入れて……で知られる『天保水滸伝』の主人公、笹川繁蔵の敵役飯岡助五郎の本拠地がここ。繁蔵がだまし討ちされて悲惨な最期を遂げたのに対し、助五郎のほうは二足の草鞋を履いてうまく立ち回ったおかげで、畳の上で大往生を遂げている。


写真4
 銚子駅から外川まで全長6・4キロの距離を走っている銚子電鉄。赤字線として有名だが、いま夏休みのせいか、オタクが多数乗っててなかなかの賑わいだった。
 この電車、見たことがあると思ったら、かつて京王線を走っていた車両だった。普通専用。多摩動物園線はもっぱらこの車両が走っていた。
蓮沼海浜公園の展望台


写真5
 犬吠埼灯台。灯台の下で得意そうにポーズを取っているのは、いま下りてきたばかり某女。頂上まで99段あるが、入場料が200円というから小生は上がらなかった。なぜかこういう金はもったいないのである。


2015.8.1
 木更津へ帰ってきてから、一歩も外へ出ていない。この暑さのなかへ出て行くなど、正気の沙汰ではないだろう。
 多摩にいるときはけっこう出かけていた。人と会う用があったし、それ以外にも2日に1回はめしを食いに行ったり、食いものを仕入れに行ったりしていた。
 出かけるときは必ず階段を使い、エレベーター、エスカレーターは一切用いなかった。
 新宿まで出かけると、それだけで6000歩から7000歩にはなる。
 立川の高島屋で友人と会ったときは、行きのモノレールの駅から階段を上がった。これが地上からホーム階まで100段を超えるのだ。
 高島屋では6階まで階段を上がり下りし、そのあとべつの建物で本屋へ行ったりスーパーへ寄ったりしたところ、軽く1万歩を越えた。
 都内というのは、年寄りの健康維持には絶好の、ジムみたいなところなのである。
 京王線も最寄り駅は支線なので、20分に1回しか便がない。接続のわるい便に乗ってしまうと、乗り換えるのに10数分待たされる。
 そのときはよろこんで、駅の階段を上がったり下りたりしていた。
 橋上駅舎のフロアからプラットホーム階まで47段ある。10分もあれば7、8回は往復できるのだ。
 今回は帰途、東京駅からバスに乗った。それで昼めしは大丸で食うことにし、わざわざ13階のレストランフロアまで階段を上がって行こうとした。
 ところが地下の食品街をいくら探しても、階段がないのだ。
 1階ならあるかと思って上階に行ってみたが、ここにもない。店内の案内図にも出ていないのである。
 ようやく案内所を見つけたから聞いてみたところ、階段はないという。
「エレベーターか、エスカレーターをお使いください」
 と言われたから唖然とした。
 むろん非常電源くらい整備されているだろうから、停電になったら即座に切り替わって支障はないだろうが、想定外の大地震が起こったときはどうするのだろう。
 非常階段がないわけはないから、いざとなればそちらへ誘導するのだろうが、店内の案内図に掲示されていないというのは、なんとしても解せない。
 余計な心配だろうとは思うが、大丸はいい度胸をしているなあ、とあえて申し上げておく。


2015.7.25
 ギプスが完全に取れた。
 指もだいぶ動くようになり、親指の先と、ほかの指とが、なんとかくっつけられるようになった。1週間にしては順調な回復ぶりだと思う。
 取り外したギプスは、念のためくれた。痛くなったときははめて、手首を保護しろと持たせてくれたのである。
 たしかにはじめの数日は、夜寝ているとき無意識に動かして、あ、痛たた、ということが何度かあったからはめて寝るほうが安心だった。
 いまでも痛みそのものはなくなっていない。
 結んで、開いて、くっつけて、離して、折って、畳んでを繰り返しやっているのだが、やり過ぎると目に見えて腫れがひどくなる。早く治したいからとかくやり過ぎてしまうのだ。
 一方で思いの外、手首の力がなくなっているのにおどろいている。右手首骨折のときと同じで、握力を取りもどすにはだいぶかかりそうだ。
 車に乗りたい一心で、早く直したいのである。いちいち送り迎えしてもらわなければならないのが、なんとも不便なのだ。
 今週も用があって多摩にやって来た。
 そしたらたちまち、今日は午後からすごい雷雨になった。
 八王子や渋谷では冠水騒ぎがあったし、わが家の近辺でも落雷があったらしく、一瞬飛び上がったくらいものすごい音がした。
 意外なことに、千葉は思ったほど雨が強くないのである。多摩のほうがはるかに雷雨が多く、集中豪雨もよくある。おかげでほんのひととき、涼しくなった。
 今回は久しぶりにかみさが一緒だったが、動物園線の電車が模様替えしているのにびっくりしていた。
 やり過ぎだとおかんむりだったから、どういう電車になっているか、お目にかけよう。
 世のなかがますますアニメっぽく、幼稚になっていることでは、わたしなどすっかりあきらめている。
 どこまで行けば気がすむのかという気はするのだが、この電車など、むしろ評判はいい部類だろうと思う。


写真1 虎。4両編成の電車ごとに動物がちがう。


写真2 鹿。窓に描いた絵からシェードまで動物に合わせてある。


写真3 電車の外観。


写真4 多摩動物公園駅。ベンチ、柱、待合室までこの徹底ぶり。


2015.7.18
 ようやくギプスが取れた。
 転んだのが5月18日だったから、2ヶ月かかったことになる。
 とはいえ完治して元通りになったわけではない。
 京都の東山で転落し、手首と足の骨を折ったのが7年まえだったが、あのときは手首の骨折だったから、指のほうは動かせた。
 ギプスさえ取れたら、すぐさまもとの生活にもどることができた。
 今回も同じようなものだとばかり思っていたところ、これからリハビリをはじめます、と言われたから面食らった。
 そんなものが必要だとは思いもしなかったのだ。
 それよりギプスは取れたが、手は依然として痛かったから、これで大丈夫かとそっちのほうが不安だった。骨がまだ、くっついてないんじゃないかと思ったのだ。
 そうではなかった。痛かったのは関節が錆びつき、親指が動かせなくなっていたからだった。
 ギプスで固定されたとき、4本の指は動かせたが、親指はギプスの指穴から先っぽをのぞかせただけ、つまり指そのものはまったく動かせなかった。
 だからパソコンを使うとき不自由だった。肘を持ち上げ、親指の先でキーボードを突いていたのである。
 2ヶ月そういう状態だったから、親指の関節が錆びついてしまい、曲がらなくなっていたのだ。むろん握ることも、左右へ開いたり傾けたりすることもできなかった。
 躰の機能がこれほどあっさり使えなくなってしまうとは、信じられない思いだった。
 当初は親指の先と、ほかの4本の指先とがくっつかなかったのだ。
 今日2回目のリハビリをやって来たが、温浴のあとマッサージをしてもらったので、4本の指先へはなんとか触れることができるようになった。
 ただし無理やりだったことはまちがいなく、帰ってきてから手首が腫れ上がって痛くてたまらない。
 家にいるときは素手で過ごしてよいと言われているが、外出するときや就寝するときは、半分に割ったギプスに手を入れ、包帯で固定して、親指を保護するよう厳命されている。
 無罪放免までまだだいぶかかりそうである。


2015.7.11
 久しぶりに青空がのぞいた。
 昨日の天気予報でびっくりしたのだが、東京地区の今月の日照時間は、すべて合わせて24分しかなかったそうなのだ。
 これでは運動不足にならざるを得ない。
 今週も2回、糖尿と整形外科ふたつの医者へ行ったのだが、今回は糖尿の血糖値がややわるかった。
 この前の数値がよかったので、2ヶ月に1回の検診でいいでしょうと、手綱をゆるめてくれたばかりだったのだ。とにかく運動不足なのでと言い訳し、次回までようすを見てもらうことにした。
 その帰り、外が雨の降り間だったから、早速家まで1時間半かけて歩いた。蒸し暑くて汗びっしょりになったが、歩数は12000と、さほどではなかったからがっかりした。
 昨日も歩いて帰る気満々だったのだが、途中で雨が降りはじめ、傘は持っていたけど風があった。それで仕方なく車で迎えに来てもらった。
 今日は晴れたが気温も上がり、27度になった。外を歩く陽気ではないから思案していると、かみさんとせがれが買い物に行くという。
 それで便乗してイオンへ連れて行ってもらい、かみさんらが買い物をしている小1時間の間に6000歩あまり歩いた。
 ショッピングモールの隅から隅まで、脇目も振らずにせっせと歩くわけだから、外より涼しいとはいえかなり汗をかいた。
 仕事は昨年からとりかかっていたものをひとまず脱稿した。
 船戸与一の文庫の解説も書き終えたから、とりあえず当面の課題は片づいたことになる。
 だからほっとしていることはたしかだが、もうつぎの資料読みもはじめている。
 かみさんはせがれに押しつけっぱなしで、少々後ろめたい。この商売、ほんとに切りというものがないのである。


2015.7.4
 連日大雨が降りつづいている。今日は千葉で水に浸かったり、避難命令が出たりしたところまであったそうだ。
 毎日がこういう天気だから、今週は家から出る機会がなかった。
 房総は雨より風のほうが厄介なのである。明日も風予報は赤印になっているし、一昨日は台風並みの強風が吹き荒れた。
 あいにくせがれが所用で、朝から埼玉へ出かけていた。
 午前中はそれほどでもなかったが、午後になると家が揺るぐくらいの突風が吹きはじめた。
 かみさんが心細がるからしかたない。片手の使えないわたしが、ビニールハウスの見回りに行った。
 去年の台風では倒れているのだ。農機具などの収納用に使っているかまぼこ形のハウスだから、入口が塞がっていない。つまり袋の口が開いているような形をしている。
 だから強風が吹きつけてくるたび、ビニールを震わせてものすごい音がする。
 せがれも去年の経験を生かし、ビニールの上からベルトを掛けて補強はしているのだが、見ているだけで心臓がわるくなるような風だった。
 海上では風速20メートルに達したとかでアクアラインは徐行運転になったし、内房線も木更津から先は運休したり遅れが出たりしはじめた。
 それでせがれに知らせ、早めに帰ってきてもらった。埼玉のほうはまったく吹いていなかったそうだ。
 明日も風が強いという予報だから気が休まらない。
 今週はじめ、せがれとかみさんが買い物に行くとき、わが家の前の道路で鹿を見かけている。
 近所の人の話だと鹿はいないということだったが、とうとう入り込んできたのだろう。鹿は蛭を連れてくるから、これから気をつけなければならなくなった。



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