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きのうの話 |
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2015.6.27 今週また腕のギプスを取り替えてくれた。これで3回目。外したときは、経過が良好なら、以後半ギプスになるはずだったらしい。 しかし医者に「ここはどうですか」とつぼみたいなところを押されたら「痛、痛、痛……」ということになってまだだめだな、ということになったもの。 腕が片方使えないのは、ふだんの動作の多くができないということで、不自由な暮らしがまだしばらくつづく。 洗髪がひと苦労なので、この年になってはじめて、美容室なるところで洗ってもらった。 理髪にはこだわりがあったから、こちらへ帰ってきて以来、いい理髪店が見つからなくて困っていた。 それでつい髪が伸びすぎてしまい、仕方がないからスーパーのなかにあるカットオンリーの店で刈ってもらった。そしたら早いし、第一安い。 なんだ、これでいいじゃないかということになって、以後そこへ行っていた。 しかし洗髪がなかったから、今回は美容室へ行き、シャンプーつきカットをやってもらったのだ。 結果は、なんだこれでいいじゃないか、とまでいかなかった。女性客のなかにひとりだったから、じいさんとしては恥ずかしかったのである。 今回は読者の方からお見舞いや励ましのメールをいただいた。ありがたく感謝しているし、恐縮もしている。 作家というのは嘘を書くのが商売だから、とかくオーバーな表現をしがち。ここに書いてあることは話半分に受け取るくらいでちょうどいいのです。 弱気なことが書いてあってもそれはお芝居、信用しなくてよろしい。こんなことでへこたれるようなやわなじいさんではありません。 なんともしぶといし、またそれが自分の身上、にやにや笑いながらこれからもおつき合いください。 歩き回れないので今回は庭の草花を。 一見可憐な花だがれっきとした雑草。見逃してやるとあっという間に芝を駆逐してしまう。雑草ほどたくましいのです。 |
2015.6.20 今週はどこへも行かず家にいる。 せがれが数日の予定で出かけてしまったからで、おかげでまる4日間、夫婦が一種の軟禁状態に置かれている。車に乗れないから、買い物に行けないのである。 あれや、これや、考えてみると、いつまでもここで暮らすのは無理だということになった。車がないと生活できないからだ。 いまは怪我をして車に乗れないのだが、もっと高齢になって運転できなくなったら、交通機関のないここは年寄りの暮らせるところではないのである。 いまのところ東京駅・安房鴨川間の高速バスが1時間に1本あっていちばん利用しやすいのだが、最寄り停留所まで速足で歩いて25分かかる。その間人家は2軒しかない。隣と、そのまた隣である。 先週東京へ行くときは、木更津駅まで車で送ってもらい、そこから新宿行きのバスに乗った。 帰りは医者へ行く日だったので、同じコースを帰ってきて、木更津駅から市内バスに乗って医者へ直行した。 市内バスの便数が2時間に1本、木更津新宿間が2時間に3本。だから木更津市内のバス時刻を調べてから、新宿発のバス時刻を選んだ。 この街に限った話ではないが、地方都市というのは、老人という名の交通弱者には、まことに住みにくいところとなった。 そういうことを考えると、ここにはもう十年と住めないのではないだろうか。 かみさんの従姉が、先月マンション暮らしをやめて、有料老人ホームに入った。未亡人の独り暮らしだったから、将来のこと考えてということだったようだが、わたしたちも早急に考えなければならなくなった。 怪我をしたおかげで、やっと現実がわかったということだ。 写真1 医者からの帰る途中の田んぼの風景。こういう環境はまことにいいのだが。 写真2 わが家の栗林。花が咲いて、あっという間にもこもこの樹林になった。下は雑草がびっしりでもう入れない。 この写真、じつは4月4日の桜を写した写真とほぼ同じアングルなのである。桜の手前に枯れ木みたいなものがあるが、その木がいまやこうなっている。自然というのはまことに偉大です。 |
2015.6.13 1ヶ月ぶりに東京へ出てきた。 船戸与一の追悼会があったからで、故人と親しかった作家、編集者が集まり、思い出話をしたりビデオや写真が披露されたりして、しんみりとしたなかにもなごやかなひとときだった。 披露されたビデオのなかには、20年も30年もまえのわたしも登場し、そういえばこんなこともあったなと懐かしさもひとしお、当然のことながらお互いみんな若かった。 わたしと船戸との接点は祥伝社の『微笑』という雑誌を通してだから、もう50年近くまえになる。 船戸は祥伝社の『微笑』という女性誌のデスクをやっていたのだが、労働組合を結成したとかで会社にいられなくなり、辞めたあとだった。 船戸のあとにデスクとして入社した男がわたしの知り合いで「うちの仕事をやりませんか」と声をかけてくれたのが、ライター生活をはじめるきっかけになった。 だから船戸の名は間接的に知っていた。 彼が『非合法員』という処女作を講談社から出したとき「原田さん(船戸の本名)が本を出したから買ってやろうよ」と編集部がまとめて買いに行ったことをはっきり覚えている。 船戸といつ、どこで顔を合わせたか、そのへんの記憶はまったくない。中央線の電車内でばったり顔を合わせたこともあるが、それからどうなったかは覚えていない。 作家になってからのことだが、神田のどこかで、なにかの集まりの流れで一緒になったことがある。 ふたりとも一杯機嫌だったから「おい、これからふたりして編集部へ殴り込みに行こうや」というので夜の8時か9時ごろ、祥伝社へ乗り込んで行った。 すると、まだ全員いるはずの編集部にだれもいない。ライターらしいのが何人かいたから聞いてみると、その日は忘年会だったとかで、全員出かけて空っぽだったのだ。せっかくの殴り込みも空振りに終わったのだった。 最後に飲んだ昨年暮れのことが忘れられない。 遺稿となった『満州国演義』が終わったというので、何人かが集まり、新宿でお祝いをした。 店がはねたあと、このままでは物足りないからもう一軒行こうということになったのだが、11時すぎの新宿で、しかも年末、どこも空いていない。 こうなったらホテルしかないということになり、歌舞伎町から西口の京王プラザホテルまで歩いて行った。 最近歩いていないとかで、船戸の足はゆるかった。ふわっ、ふわっといった足取りで、ゆっくりゆっくり歩いていた。 いつもの新宿で、いつもと変わりない新宿の街が、そのときはハレーションを起こしたみたいにまぶしく照り映え、ぐわーっと目の前に迫ってきたのを終生忘れないだろう。 ひとつの時代を共有して戦ってきた仲間だった。よい思い出が残せたことを心から幸せに思っている。 |
2015.6.6 今週医者へ行ったらギプスを取り替えてくれた。まだ3週目である。 まさかこういうものを、包帯みたいに取り替えてくれるとは思わなかった。 それで気になって、京都の東山で転落したときのことを、日記で調べてみた。 2008年の秋だから、もう7年もまえのことだった。 そのとき折ったのは右腕。 骨折箇所はほぼ同じだが、複雑骨折で手首がぐしゃぐしゃになっていたから、ギプスは3ヶ月以上取ってもらえなかった。 今回とは、骨折の度合いがちがうということのようだ。 そういえばたしかに、前回よりギプスの締めつけがゆるくなった。 指の動きも楽になったし、なによりも腕の拘束感が減った。 それでもかゆいことに変わりはない。この上は一日も早くギプスなしになりたい。 7年まえと、いまとでは、当方の躰の勢いがまるでちがう。 年を取ってからの怪我だけは、するものでないとつくづく思うのである。 |
2015.5.30 半病人の状態で1週間を過ごした。 この間おとなしく風邪薬を飲み、ひたすら寝た。 風邪薬に睡眠薬が入っているせいだろう。1日3回飲んで、3回ともぐっすり眠れた。 おかげで風邪のほうは3日で完治した。 薬をきちんと飲めば、こんなに効くんだということを、はじめて認識した。 手はひたすら忍従の日々だ。 ギプスの内側がかゆくて、かゆくて、掻かないようにしているけど、だんだん悲惨な状態になりつつある。 外へ出られないのがいちばんつらい。 スーパーや、ラーメンを食いに行くくらいのことなら、車で出かけられないはずはないのだが、許してくれないのである。 もしそれをやったら、わが家の平和と安寧が破綻してしまうこと必定なので、こればかりは我慢している。 来週はいくらか時間に余裕ができそうだから、そうなったら歩いて遠征しようと、手ぐすね引いている。 いちばん近いスーパーで片道6キロ、往復12キロだからいい運動になる。 ただしそれにしては、暑くなりすぎたのが恨めしい。汗をかくのは、ギプスにとって最悪だからである。 今日はバリ島に行っている友人から、メールが入ってきた。のんびり暮らしているらしい。 こないだ箱根へ行ったとき、その話が出た。仲間の夫婦が後から行って、1週間ほど合流していたようだ。 1日ウン000円の安宿滞在だからそれほど面白おかしくはないのだが、なにもしないで、ぼけっとしているだけなら、わるくない選択肢だ。こんなことならわたしも行けばよかったと、いまになって悔しがっている。 来週その後の経過を診てもらうが、最長8週間のギプス暮らしを宣告されている。 その間おとなしくしていられるかどうか、こちらの自信は全然ないのである。 |
2015.5.23 左手首を骨折した。 要するに転んだのだが、それほど派手な転び方ではなかった。 え? え? え? と、躰がうろたえるばかりで、適切な反応ができないまま転んでしまったもので、そのときもそれほどのダメージではなかった。 左手はそのとき、躰を庇って突いたもののようで、すこし痛かったものの、捻挫とまでは思わなかった。 翌日気になったから、念のためと用心をして、かみさんとせがれに隠して、こっそり医者に行ったのだ。 それが骨折ということで、有無を言わさずギプスをはめられて帰ってきたから、こうなると隠すわけに行かない。 転んだということまでは認めたが、それ以上の説明はしなかった。恥ずかしくて、とても言えたものではないからだ。 おかげで外出禁止令が出て、以後車にも、バイクにも乗せてもらえなくなった。 しかし転んだのが原因で骨折するなんて、老人の典型的な怪我ではないか。 自分がそういう年になっているということがいまだに信じられないのだが、今回はそのショックで熱まで出してしまい、どうやら風邪まで引いたらしい。微熱があって、ただいま心身とも最悪の状態である。 親指は動かせないものの、ほかの指は動かしてよいということで、不自由ながらパソコンは使える。しかし外へ出られなくなったのは、なんとしても痛い。 自分が末期のじいさんなのだという自覚を、不承不承ながらもう持たなければいけないようだ。 |
2015.5.16 笠森観音に行ってきた。坂東33観音札所の31番目札所として、古来よりあまたの巡礼を集めてきた寺である。 わたしのほうはただの野次馬。京都の清水寺顔負けの、日本で唯一という「四方懸造り」の建物を見たかっただけだ。 わが家から遠くなく、車で小1時間もあれば行けるのだが、千葉の道は狭くて曲がりくねっているから、怖くて行くに行けなかった。 今回はせがれに運転してもらい、連れて行ってもらったのである。 想像していたよりこぢんまりとした、素朴な寺だった。 それより山上に露出していた岩の上に、本堂をそっくり載せようと考えた古人の信仰心には恐れ入るほかない。 国の天然記念物に指定されている周囲の自然林もすばらしかった。 落葉樹の少ない暖帯林だが、寺創設以来伐採が禁じられてきたとあって、鬱蒼とした森はまさに深山幽谷、標高が100メートルに満たないとは信じられないほどだ。 ただし寺も、森も、じっくり見たり、写真に収めたりすることはできない。敷地が狭すぎるのである。 近くに展望台があるというから行ってみたが、木立の上にかろうじて首を出している程度、眺めはほとんどなかった。 ただしこれは、展望台をつくって以後、木のほうがより成長して、大きくなったせいではないかという気もする。 写真@ 下から上がって行く道。けっこうきつい石段を、50メートルくらい登らなければならない。これで女坂だという。 写真A 本堂を正面から見上げたところ。ほかに撮影場所がないから、写真としてはこれが精一杯である。国の重要文化財。 写真B 同じく横から見上げたところ。ほかのアングルでは撮りようがないのだが、大きな岩の上に、本堂が載っかっているのはだいたいわかると思う。 しかし岩を保護するためだろうが、全面コンクリ吹きつけになっているのは、なんとも安っぽくていただけない。まるではりぼてだ。 山の上にあり、しかもこういう構造、よくぞ台風に飛ばされなかったと思うが、そういう記録はないようである。 写真C 一度折れ曲がって上がって行く階段。ものすごい急段を、75段上がる。 写真D 中は撮影禁止というから、外の回廊より撮ったもの。ご本尊の観音様がちょっと見える。頭上の綱は観音様の右手につながっており、参拝者が白い布に願い事を書いて奉納したものが、ごらんのような太い綱になった。 |
2015.5.9 このところ歩いてなかったので、今日はウォーキングを兼ねて近隣探索に行ってきた。 まえに自宅の横を通る道が、かつては街道だったらしいという話をしたが、このまえ東京へ出たとき、国土地理院に寄って古い地図を見てたしかめてきた。 この道、明治44年に作成された5万分の1地図では「小径」より上の「中程度」の道として記載されていた。いまでは木更津寄りの部分は通れなくなっている。 この道をたどって行った先にあるのが、板東30番札所の高蔵寺。ということは、どうやら巡礼の道だったようなのだ。 木更津は江戸時代から、江戸より船で行けるもっとも交通至便の地だった。 その船を下りると、あとは一本道、標高7、80メートルの尾根筋を真っ直ぐ行くと、高蔵寺にたどりついたのである。 むかしの道は、いまの道路とかなり性格がちがう。 田や畑を生計の手段とする百姓はたいてい里に住んだ。したがって道づけは、日常の利便を第一に考えてつけられた。 これに対して尾根筋の道は、河川や湖沼に妨げられない、雨や雪の影響を受けない、もっとも安定した、目的地まで早く行ける道として整備された。山伏や巡礼が好んで往来したのはそのためである。 近代の道路整備と車の普及は、道のそういった性格を激変させた。必要性というものが変わってしまったのだ。 なにもかも車で用を足せるようになったため、尾根筋の道とか、谷地から尾根を越えて向かいの里へ出る道とかが、いらなくなってしまった。 峠ということばが死語になったのだ。 写真@ 自宅から1キロぐらいのところにある産業道路。かずさアカデミアパークという工業団地ができたときつくられた道で、人通りは全然ないにもかかわらず、両側に歩道が設けられている。 上に見える陸橋が、わが家から通じている旧街道。 つまりこの道路は山をぶった切ってつくったもので、もとからあった旧道は、陸橋でつないで残したというわけである。 写真A その陸橋へ通じる道。前方に見える白いガードレール部分が陸橋。もともと人家の少ないところなので、いまでは事実上だれもこの橋を必要としていない。 近くにグラウンドがあるから、休日に野球をしにくるものがいるくらいで、まだ通っている人を見たことがない。 写真B 前記と場所はちがうが、近くにある、だれも通らない道路のひとつ。車の通れる舗装道路なのだが、いまでは歩いて通るのがやっと。あとひと月もしたら、茨におおわれて歩くことさえできなくなるだろう。 こういう廃道がじつに多いのである。 |
2015.5.2 50年来の友人たちと、今年も箱根旅行をしてきた。 今回は13人集まった。これまでひとりも欠けていないのが自慢だったが、昨年とうとう脱落者が出た。 今回も直前に取りやめたものが出たし、耳が遠くなったり、補聴器の世話になりはじめたものが出たりして、みなそれぞれに老いてきた。 2日目、今回は春の箱根を歩いてみようということで、大涌谷までケーブルカーやロープウエーで上がり、芦ノ湖まで下りてもう1泊してきた。 覚悟はしていたが、いまの箱根は中国人だらけである。比率から言ったら、3対1くらいの割合で中国人のほうが多かっただろう。大袈裟でなく、国外旅行をしているような気分だった。 ただ家族旅行者が多かったせいか、目障りな光景はなかった。宿で露天風呂の位置がわからずうろうろしていた女性たちに教えてやったところ「ども、ありががとございます」と日本語で礼を言われた。 それより日本側の、やらずぶったくりのほうがはるかに気分わるかった。 大涌谷へ行くと、熱湯に浸けて茹でた卵を黒卵として売っている。1個100円はまだしも、それを5個単位でしか売らないのである。 湖畔のレストランに行ったら「本日は団体客の貸し切りです」と受けつけない。こちらは中国の団体客専用だったが、なんとも横着な商売をしている。 大涌谷から下へおりる遊歩道は、探すのにひと苦労した。ろくに表示が出ていないのだ。 歩く観光客というものを、想定していないのである。車でわーっと来て、わーっと帰ってくれるのが客。だから駐車場と、ものを売りつける施設しかない。 遊歩道そのものは整備されていたが、眺めはまったくなく、藪に囲まれた道がどんどこ、どんどこ下っているだけ。 しかも一段一段の段差が大きすぎ、一歩一歩がもろに膝へ響く。1時間あまりで膝ががくがくになってしまった。この間、出会ったのはたったひとり。歩いてすこしも楽しくなかった。 いま、日本は空前の外国人観光ブームで沸いているそうだが、その正体を見届けた気がして情けなかった。 日本はまだ観光未開国である。 写真@ 宿の窓から見た箱根の新緑。下の川は早川。吊り橋になにかぶらさがっているが、ほんとはこの写真、窓ガラスに止まっていたカゲロウを写したもの。 写真A 大涌谷の噴煙。ここを訪れたのは30年ぶりだった。 写真B 大涌谷から芦ノ湖へ下りる道。まことに愛想のない道で、これほどがっかりさせられた道も珍しい。 |
2015.4.25 船戸与一が亡くなった。 ガンで6年間闘病生活を送っていた。口止めされていたわけではないが、ウェブではあえて言わなかった。 余命1年と宣告されたあと、6年生きた。 胸腺ガンという肺がんの一種だったそうだが、判明したときは、ライフワークとなった『満州国演義』の執筆をはじめていた。 その作品が去年秋、完結した。10年がかり、全9巻、7500枚という長編だ。 暮れに何人かで、お祝いをやった。当日は荻窪から新宿まで出てきてくれ、しゃべりたりないから、もう一軒行こうやということになって、午前1時半までつきあってくれた。 だから2月になって、容態が急変したと聞いたときはびっくりした。 そのときは光文社が主催している日本ミステリー文学大賞の今年度受賞者に、船戸が決まっていた。 授賞式は3月18日だった。船戸は入院中で、授賞式に出てこられるかどうかわからない、状態だった。 さいわいというか、無理をおしてか、病院から車椅子に乗ってやって来た。 痩せて、すっかり小さくなっていた。 作家連中は船戸のガンを知っていたから、当日はみんな出てきた。 同窓会じゃないか、という声が出たくらい大勢が顔を見せ、何年ぶりかで会ったものが少なくなかった。 本人は途中で退席して、病院へ帰った。それを下まで、みながぞろぞろ見送りに行った。 そのときの船戸が見納めになった。 先月聞いたところでは、その後退院して、自宅でリハビリをはじめた、というからひとまず安心していたのだ。 歩いてきた道はちがったが、同じころ出てきて、互いに意識しながらやってきた仲間だった。朋輩であり、畏友であった。 船戸与一、逢坂剛、志水辰夫の『3人で100冊刊行記念祝賀会』なるお遊びをやったのが2004年、もう10年以上まえのことになる。 われわれの時代が終わった。 これ以上長生きする意味があるか、以来そんなことばかり考えている。 満州へ取材に行くとき、一緒に行かないかと誘われたのだが、都合がつかなくて同行できなかった。いまとなっては残念でならない。 『満州国演義』文庫本第2巻の解説は、わたしが書く。 |
2015.4.18 新緑が目にしみる鮮やかな季節になった。 今日はせがれの運転で、大多喜まで行ってきた。 当家の車にはカーナビがついていないから、自分ではなかなか遠出する気になれない。 房総の内陸部は道路が狭く、曲がりくねっているから、地理不案内なものには、かなりきついのである。 新緑を見るのが目的だから、行き先はどこでもよかった。 山のなかは、山桜、八重桜が満開。深山幽谷のようなところばかり通ったが、帰って調べてみたら、里の標高は意外に低いのでおどろいた。 写真1 久留里線の終点上総亀山駅。4、5年まえ、蓬莱屋シリーズを書いていたとき、某大名家の陣屋跡を尋ねて取材に来たことがある。 そのときから比べても、ずいぶん寂れた。列車が朝8時台をすぎたら、あとは17時まで1本しかないのである。 以前福島県の喜多方から熱塩というところまで、日中線という路線があった。ここが朝夕しか列車が走らず「日中は走らない日中線」と揶揄されたものだが、首都圏でもそういう時代になってしまった。 写真2 上総亀山の背後にひろがっている亀山湖。木更津から30数キロ入っているが、標高はやっと100メートル。このダムの水は、木更津市の水道用水になっている。 写真3 養老渓谷の粟又の滝。地元の人が観光客を案内していたが、雨が降ってもこれ以上の水量にはならないそうだ。 写真4 もとJR、いまはいすみ鉄道の大多喜駅。ホームの雰囲気が昭和そのまま、なかなかよい。 写真5 大多喜城の復興天守。なかは博物館になっている。 城の縄張りを見ると、夷隅川を濠にした山城風のつくりだが、標高はせいぜい100メートル。下の大多喜の町は20メートル台しかなかった。 今日はキジと、ヘビと、サルを見かけた。帰りに大多喜名物という筍を買ってきた。 |
2015.4.11 今週も都内へ出てきた。 古くからの作家仲間が、ある賞を受賞したから、お祝いに駆けつけたのだ。出版社主催のパーティである。 受付に行くと「招待状はお持ちですか」と言われた。 招待状は必ずもらうが、生意気にも、そういうものは出したことがないのである。 持ってこなかったと言うと「ではご名刺を」と言う。これも出さない。あってもないと言うのだ。 つぎは「お名前は」ときたから志水と答えた。 すると「○○さんとはどういうご関係ですか」。 仕方がないから友人だと言った。 受付嬢は彼が個人的に招待した友人名簿を当たりはじめた。もちろんそんなところに、わたしの名があるわけはない。 「同業者だ」 と言えばいいのに、こうなったら底意地わるく、わざと言わないのである。 年配の男性がひとりいて、なにか感じ取ったのだろう。 「いいです。どうぞお入りください」 と言ってくれたから、まあなかに入れたのだが、こういう応対をされたのは、これで二度目だ。 受付に20代の若い社員が並ぶと、このようなやり取りになることはよくある。わたしよりはるかに名も、顔も知られている作家でも、これをやられる。 それを防ぐため、出版社側は必ずベテラン社員も配置するらしいのだが、このごろはそれより、受付業務そのものを、外の会社に委託することが多くなってきた。今夜のケースも、多分そうだったのではないかと思っている。 べつに不愉快だったわけではない。意地悪じいさんとしては、むしろ面白がっているのだ。しかし委託がもっと一般的になり、毎回それをやられたら、やはり面白くないだろうなあ。 |
2015.4.4 かみさんのいちばんの親友が急死し、われわれ夫婦も大変なショックを受けている。 女子中・高時代の同級生だから、もう60年近いつき合いになる。 先週、新宿御苑に同窓生9人が集まり、10代にもどってにぎやかなひとときを過ごしたばかり。むろん彼女も来ており、そのときはなんの異常もなく、元気いっぱいだったという。 わたしもたまたま、早くから彼女を知っていた。 はじめて顔を合わせたのは、彼女が大学の1年か2年のときの夏休みで、高知に帰っていたとき、デパートの屋上で同席した。 大学では山岳部に入っていたとかで、色が真っ黒だったのをよく覚えている。 ただし色の黒い子、というのを本人に言ってしまったらしく、彼女はその後もしっかり覚えていて、なにかあるたびに思い出させられ、反省したものだった。 結婚後も家族ぐるみのつき合いをつづけていたが、家が多摩と千葉に分かれてからは、まえほど頻繁に行き来できなくなった。札幌や京都へも、遊びに来てくれている。 とにかく病気などしたことがない丈夫なひとで、絶対長生きするだろうと、かみさんなどは信じ切っていた。 自分の最期は彼女に看取ってもらうと、すっかり当てにしていたのだ。昨年千葉へ越してきて、行き来しやすくなったのを、なによりもよろこんでいた。 前向きで、こまめで、骨惜しみをしない人だった。 引っ越してきて半年ぐらいの間に、泊まりがけで3回も手伝いに来てくれた。家にある10数枚の障子は、すべて彼女が張り替えてくれたものである。 最後に来たのは晩秋だったが、つぎは房総を一周しようとか、ドイツ村へ行こうとか、いくつか約束をしていった。 それが春になり、そろそろどこかへ、と思いはじめていた矢先のことだった。 かみさんは桜キ○ガイと言っていいくらい桜大好き人間なのだが、木更津には見るべき桜がなくて、つまらん、というのがこれまでのわれわれの認識だった。 唯一ウォーキングに行くダムのそばに桜公園があり、そこに何10本か桜が植えられている。 今週日曜日に行ったときは、咲きはじめていたものの、まだ早かった。多分今週末が見頃だろうと、そのときは思ったのだ。 ところがそれから天候が激変し、一気に気温が上がって、桜の開花が速まった。 なによりおどろいたのは、わが家の栗林のそばの雑木林に、桜の大木が何本もあったことだ。 背の高いほかの木に負けまいと、一生懸命背伸びしたらしく、上へ上へと延びて、高さが10メートルからある。 したがって花はてっぺんにしかついてなく、満開になるまで、こんなところに桜があることすら気づかなかった。花を間近に眺められないのは残念だが、よくよく見ると見事な桜である。 それであわててかみさんを連れ、水曜日に、近隣の桜のようすを見に行った。 すっかり満開になっているではないか。 そればかりか、これまでなにもないとばかり思っていた近隣の山々が、むせかえるほどの桜に彩られているのを発見して大喜びしたのだった。 自生木ばかりだから華やかさには欠けるが、その代わり得も言われぬやさしい風景がひろがり、風情満点、ため息をつくくらい美しい。 「こんなことなら、彼女を呼んであげたらよかったわねえ」 とかみさんが何度も言って残念がったものである。 悲報が飛び込んできたのはその直後のことだった。 われわれが何度か彼女のことを言っていたとき、自宅マンションで倒れているところを発見され、生死の境をさまよっていたのである。 懸命な人工呼吸が行われたが、残念ながら蘇生はかなわなかった。 毎年巡ってくる桜の開花が、これからは悲しい思い出と一体になってしまいそうだ。 思い出すことが多すぎる。 悔いと、無念と。 今回ばかりは、死が身近なものとなってきたことを痛感した。 |
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