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きのうの話 |
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2014.12.27 今日は病院通いで1日が終った。 午前中は内科の糖尿病、午後は眼科へ行き、とくに目は今年2回目の総合検診をしてもらった。 糖尿病の目安であるHbA1cの数値は今回6・9。毎回多少ばらつきはあるが、一応安全圏の7・0内におさまっている。 目は緑内障が若干進行しているものの、眼底血圧は正常、いますぐどうこうというレベルではない。つまりどちらも小康状態である。 ただし目は、実感として、このところますます悪くなった。ピントが合わないばかりか、二重につながって見えるのだ。oが∞になってしまう。 この二重像は、顔の傾きによって、左右に離れたり、上下に開いたりする。 調べてもらったら、もともとあった乱視の上に、斜視が加わっているとわかった。疲れてくるとひどくなるから、原因としては疲労によるものだろう。 それで処方箋をつくってもらった。 目は商売道具なので、年が明けたらあたらしい眼鏡をつくり、気分を一新しようと思っている。 パソコンも年明けに買い換える。 どこへ行っても無線LANが使えるよう、先月Wi・Fiを導入した。 ところがわたしのパソコンでは、使えなかったのである。多摩に持っていってあれこれやってみたが、どうしても接続できない。 最後は困り果て、プロの業者を呼んだ。ところがプロでも接続できなかったのだ。 家にある古いXPを持っていって試したら、問題なく使えたから、パソコンに欠陥があったということになる。 いまのノートパソコンは、2年まえに中古品を買ったものだが、最近あれこれ不具合が出はじめた。 ときどきカーソルが飛んでしまうし、何行かの文章がふっつり消えることも起こりはじめた。 まさか不具合品をつかまされたわけではあるまいが、このままでは安心して使えないので、これも年が変わったら一新しようと思っている。 携帯があり、Wi・Fiがありしたら、多摩の固定電話やADSLはいらないことになる。だからこれも、年が明けたら廃止する。 いつもながらのあわただしい年の暮れだ。 写真はわが部屋から見える入り日です。冬至を過ぎてだいぶ日が長くなりました。 よいお年をお迎えください。 |
2014.12.20 馬齢を重ねて78歳になった。 足腰はまだ達者なつもりだが、目はますます悪くなったし、耳もだんだん聞こえにくくなって、話しかけられても聞き返すことが多くなった。 いちばん情けないのが、ものを食っているとき、突然詰まらせて、口のなかのものをそこらへ吐き出してしまうことだ。 あっと思ったときは遅いのである。止めることも、口元を押さえる間もない。詰まった瞬間、むせて、吐き出してしまう。 おかげで最近は、人と一緒にものを食うのが怖くなった。自信がなくなったのだ。 今日は内輪の集まりがあって、夕方から都内へ出かけた。作家と編集者が8人集まり、1時過ぎまで歓談していたのだ。さいわい今夜は、なんともなかった。 編集者からは「骨は拾ってあげますから、仕事をしなさい」と発破をかけられた。 わたしが小説を書きはじめたころ、担当になった新入編集者が、いまや40代後半になろうとしている。 作家としてはもう終わったかな、という思いもあるのだが、こう言ってくれている間は、働かざるをえないだろう。 ----------------------------------------------------- 毎週歩いているダムの周辺も、この1週間で一挙に冬景色へ変わった。紅葉がもうすこし色づき、きれいになるかと思っていたのだが、ただの枯葉色になって散ってしまったのだった。 写真はダムのいちばん奥を望んだ風景。 先日、いつものようにここへ差しかかったところ、警察の車がきていた。 テープが渡してあって、迂回するか、通り抜けるのは、しばらく待ってくれと言う。人が死んでいたというのだ。 かみさんは林のなかに横たわった人影と、警官隊がブルーシートをかけるところを見ている。 50メートルほど手前にショートカットの道があるからそちらへ回ったが、その後なにも報道されなかったから、事件性はなかったようだ。 じつはこのコース、いつも午前中に歩いている。その日も朝のうちに出てこようとしたのだが、夜の間に、かなり雨が降った。 コース途中に雨が降ると水のあふれるところがあるから、それを思い出して、午後からにしたのだった。 だから朝のうちに出てきていたら、われわれが第一発見者になっていたかもしれない。 以来この道は、手前のショートカットの道を通り、奥まで行かなくなった。 |
2014.12.13 千葉で初の冬を迎えているが、これが予想外に寒い。 千葉が寒いわけではなく、一戸建ての家が寒いのだ。窓はサッシだし、壁にも断熱材が使われているはずだが、マンションに比べたら熱効率がわるそうなのだ。 おかげで寒くなるにつれ、部屋の気温は下がる一方、今朝など10度しかなかった。 京都では、電気ヒーターを弱の600ワットにして、あとはなにもいらなかった。それがこの家では、ほとんど役に立たない。 部屋が大きくなったせいだろう。団地サイズの六畳がまる八畳になり、しかも天井が高くなった。 高さが2・4メートルもあるのだ。部屋の容積を比べたら、倍くらい大きいのではあるまいか。 部屋の寒いのは、わたしのいちばんの泣きどころ。最低20度ないと、脳が凍りついて働かなくなると称している。 それで冬の暖房をどうするか、あれこれ検討してみたのだが、これという決め手になるものはなかった。 石油ストーブも、ファンヒーターも、いやなのである。 換気をしなければならないからで、ひと晩じゅう起きて仕事をしているだけに、気になって落ち着かないのだ。 それでいまのところエアコンを使い、これをつけたり消したりして、我慢している。 エアコンも風がくるからいやなのだが、これに代わるものがない以上、あとは我慢するしかない。 なお補助暖房具として、膝掛け用の電気毛布を買った。 安楽椅子にもたれ、パソコンを膝の上に置いて仕事をしているから、足元が寒くないのはありがたい。これでなんとか、今年の冬はしのげるだろう。 車で出かけようとしたら、狸が出てきて目の前でうずくまった。ご覧のようにひどく陰気な顔をしている。 動こうとしないから、怪我でもしているのかと思い、もっと近づいてようすを見ようとしたら、逃げて行った。 雉もしょっちゅう出くわすのだが、臆病な鳥なので、人の気配を察しただけで大あわてに逃げてしまう。 その点狸はなれなれしい。このたぬ公、このあと庭のなかまで入ってきたそうだから、そのうち、餌で釣らずに、手なずけてやろうと思っている。 |
2014.12.6 皇居の乾通りが一般公開されていたから、かみさんにお供して行ってきた。紅葉よりも、江戸城の内部を見てみたかったのだ。 皇居に行ったのは、じつを言うとはじめてである。 連日大変な人だと報道されていたから、覚悟はしていたが、想像を絶していた。 入場できる坂下門へ行くまで、和田倉門から祝田橋をぐるっと迂回させられ、それがすべて何重にもなった人波なのである。 宮内庁のホームページによると、本日の入場者は85730人だったそうだ。 2時間くらい並ばされるのを覚悟していたが、それほど滞ることなく、1時間後には入場できたから、交通整理の警視庁の手腕は誉めていい。 ただし、喧しい。 言わなくてもいいことを、とめどなく、マイクでばらばらにしゃべりつづけるから、うるさいのなんの。おとな、それも年配者が多いのだから、軽率な行動などするわけがない。もっと国民を信用しろ。 残念ながら季節が遅すぎ、紅葉のほうはそれほどでもなかった。 しかし古い建物が意外に多く残っているのにはおどろいた。こういう機会がないと、見られなかったのだ。 乾通りから濠を隔てたところにある東御苑は、一般公開され、ふだんでも入れる。1度天守台の跡を見てみたいと思いながら、つい延び延びになっていたから、今日駆け足で回ってきた。 天守台のある本丸より、大手門に近い二の丸が感激するぐらいよかった。 かつての武蔵野の雑木林が再現され、歩いて浮き浮きするくらい楽しかったのだ。3、40年まえの、多摩のわが家周辺が、まさにこういう林ばかりだった。 これからは、季節の変わり目ごとに来てやろう、と決意しながら帰ってきた。まさに穴場なのである。 写真@ これから入場する坂下門。 写真A 長屋類まですべて本瓦葺きだったとは、認識不足だった。 写真B 手前の濠は蓮池濠。こういう機会でないと、見られなかった光景。 写真C 本丸から見た天守台。本丸と隣接して大奥まであったが、それほどひろくないのが意外だった。 写真D まさに国木田独歩の世界。 |
2014.11.29 高知で創業百数十年という歴史を持っていた老舗の蒲鉾屋が、今月いっぱいで店を閉じる。 後継者難と、練りものへの嗜好が総体的に先細りとなってきたことから、思い切って廃業することにしたのだとか。 閉店することはネットで知っていたから、親戚の手をわずらわせ、今月は2回も品物を送ってもらった。 子どものころから馴染んできた味ということもあるが、さっぱりした塩味の高知の蒲鉾に慣れたら、よそのものは食えなくなる。 いまでも頑なに、砂糖を使っていないのである。 蒸し蒲鉾と、甘味全盛の時代となって、いまやどこの蒲鉾も大甘の、ぷちぷちした歯応えのものばかり。焼き蒲鉾はもう全滅状態だし、砂糖を使わない蒲鉾も、お隣の宇和島近辺や、長崎県くらいにしか残っていないようだ。 わが家では、年末になると、いつもこの店の蒲鉾を送ってもらっていた。正月のお雑煮は、高知の蒲鉾入りというのが定番になっていたのだ。 12月というと、正月用の需要で、蒲鉾屋にとってはいちばんのかきいれどきである。 それをこの店は、12月まで営業して客に迷惑をかけることがあってはいけないからと、あえて11月で閉店するのだという。 むろんほかにも蒲鉾屋はあるから、これで土佐の蒲鉾が食えなくなる、ということではない。 有楽町駅からほど近い外堀通りには、高知県のアンテナショップがある。八重洲のバス停から、徒歩で5分ほどのところだ。 それで東京駅経由で都心へ出たときは、帰りにいつもここへ寄り、竹輪と、牛蒡の入ったさつま揚げ、高知で言う「ごぼ天」を買って帰る。 わたしなど高知にそれほど執着していない人間だが、こういう食いものだけは、いまでも変えることができない。 また廃業といえば、高知でやはり100年以上の歴史を持っていた書店が、10月いっぱいで閉店した。 けっして大きな店ではなかったが、客同士の肘が当たるような狭い通路を掻き分けて本を選ぶのは、不自由ながらも高揚感があった。いい時代の、いい思い入れのある本屋だったのだ。 その本屋もなくなった。はりまや橋の、市内でも一等地にあった店だが、跡はいったいどういうことになってしまうのだろう。 そういえばはりまや橋には、高校時代の同級生がやっていた書店もあった。作家になってからも、かれにはずいぶん世話になったが、その本屋もとっくにない。 郷里と自分とをつないでいたものが、こうして、ひとつ欠け、ふたつ欠けしてなくなってしまうことくらい、淋しいものはない。 自分が郷里から切り離され、根無し草になってしまうことだからである。 今週もダムへは3回歩きに行ってきた。温暖な千葉といえど、さすが晩秋。野山がだいぶ色づいてきた。 |
2014.11.22 今週も都内へ帰っていた、運転免許証の更新に行ったのだ。 今回は意外にも優良免許証をもらえた。高齢者には適用されないのかと思っていたから、たとえ3年とはいえ、更新期間が1年延びたのはありがたい。 しかし6年乗っていなかったのに、なぜ優良なのだ。と思ったら、はがきを見てわけがわかった。 まえに犯した交通違反が、やっと帳消しになったのだ。 Uターン禁止区域で転回した、というので挙げられたことがたしかにあった。 交通標識を見落としたのではない。 いつも人がそこで転回していたから曲がった。そしたら昼間はよいが、夜間はだめ、というところだったのだ。 それが10年まえ。10年執念深く生きつづけ、ようやく失効したということだったのである。 75以上の高齢者は、教習所に行って講習を受けることが義務づけられている。 お定まりのビデオを見せられ、認知症テストみたいなものをやらされ、最後は教習所内のコースを走らされる。 午前中一杯かけてこれをやり、終了書をもらって府中へ行き、新免許証を手にしたのが午後3時。一日仕事だった。 しかも毎回、高齢者はできるだけ早く免許証を返納するよう、それとなくほのめかされる。そのたび、だれが返納するものかと思ってしまうのだ。 今回講習を受けた高齢者は12人。そのなかに女性がふたりいた。うちひとりは、どう見ても乗れそうにないご婦人だった。 前回はもっとすごいのがいた。娘に付き添ってもらい、やっと教習所へやってきたばあさんだった。 ほとんど歩けないのである。 だから最後の実習はパス。それでも罰則や減点はないから、講習さえ受ければ、免許証は更新してくれるのだ。 その女性はもう絶対運転は無理だったろう。それでもあたらしい免許証がもらえた。その執念たるや、たいしたものである。 わたしもあのばあさんに負けないよう、這ってでも更新には行くぞ、と決意を新たにして帰ってきたのだった。 運動不足になりがちだから、多摩へ帰ったときは、必ず一駅歩くようにしている。 わずか1キロくらいだが、川沿いの遊歩道があるのだ。 いまは落葉の季節。さまざまな落葉があって、これがなかなか面白い。 写真@ 紙くずが散乱したように見えるかもしれないが、ホウノキの落葉。葉が大きくて裏が白いため、やたら目立って、悪くいえば、汚らしい。 写真A こちらはキリの落葉。ご覧のような大きな葉が、青いまま、ぼたっと落ちるから、やはり風情は全然ない。 |
2014.11.15 旧友と箱根旅行に行ってきた。 例によって、いつもの宿、いつもの顔触れだ。 目的なんかない。温泉に入って、酒を飲んで、夜中までうだうだしゃべるだけ。それを飽かず繰り返している。 主力が東京駅を12時すぎのアクティに乗るというから、わたしも横浜から参加した。 アクアライン経由のバスは、横浜へも直行しているのだ。 しかもわずか55分、東京駅や品川駅より近いのである。 横浜へは長い間行ってなかったから、途中の眺めを楽しみにしていた。 ところが行けども行けども、見覚えのある風景が現れない。扇島の工業地帯を通り抜けていたのだった。 自動車輸送船らしい巨大船が三隻、埠頭に横着けしていたから茫然と見とれていると、目の前に本牧埠頭が現れたからぶったまげた。 本牧埠頭なら横浜に電車が走っていたころから、何度も行っている。 じつは山下公園も、大桟橋も見えないから、どこを通っているんだろうと、不審に思っていたのだ。 なんと、そのはるか外側を、ぐるっと半周して、本牧埠頭のほうから横浜駅に向かっていたのだった。 大晦日の夜のカウントダウンには、横浜港で停泊中の船がいっせいに汽笛を鳴らす、というから多摩よりわざわざ聞きに出かけたのは、いつのことだったろう。すべて夢のまた夢、遠い記憶でしかなくなった。 毎回箱根へ集まってくる友人にしても同じ。 われわれが同じ職場で、同じ仕事をしていたのは、わずか数年にすぎない。 短いものは3年、長くても7年くらいしか、その職場にいなかった。わたしに至っては社員ですらなかった。 そのときのつき合いが以後もつづき、いつの間にか50年を超えてしまった。 そのあとみな、ちがう会社に勤めたり、ちがう仕事についたりしているのだが、そちらでは、このようなつき合いは生まれなかったと、異口同音に言うのである。 まことに希有なひとときであり、珠玉のような時期だったと、いまになって思う。 一生のつき合いとなった友人がいるしあわせ、いい時代に生まれ合わせたと、心から思うのである。 市役所に行く用があったため、多摩で2泊した。帰りは中央線で新宿へ出たのだが、車窓から、雲ひとつない富士山がくっきり見えていることに気づいた。 あわててカメラを取りだしたが、昨今は中央線の沿線といえど高層ビルが建ち並び、なかなかシャッターチャンスがない。 新宿から木更津行きのバスも同じだ。夕焼け富士がときどき見えるが、バスは時速90キロでノンストップ走行している。 海ほたるをすぎ、海上を走りはじめたところで、やっと撮れたのがこの写真。 ところがところが、今日はさらに上天気。スーパーへ買物に行ったとき、夕焼け富士が見えていたからびっくりした。 あわてて大田山の展望台に上がった。さえぎるもののないところで、ようやく落ち着いて撮れたのが、この写真だ。 手前味噌かもしれないが、木更津から見える富士山が、いちばん形がよいのではないだろうか。 |
2014.11.8 今日もダム湖へ歩きに行った。 ダム周辺の草むらにはずいぶんトノサマバッタがいて、うっかりすると踏んづけそうになる。それも秋が深まるにつれ、だんだん数が減ってきた。 今日は2匹つがいになっているところをずいぶん見かけた。 上にのっている小さいほうが雄で、下の大きいほうが雌だ。 毎日歩いているわけではないから、断定的なことは言えないのだが、のべつ幕なし、こういう恰好をしているわけではないのである。 特定の日だけ。 そしてその日がくると、いっせいに同じ行動をする。 ただし先月の末にも、一度こういう日があった。 京都の鴨川で、鯉が産卵するところをたまたま見たことがあるが、浅瀬に寄ってきて、雌を巡って雄同士が争い、組んずほぐれつの大騒ぎ。ふだんの鯉からは想像もできない騒々しさだった。 翌日になると、なにごともなし。岸辺に寄って来もしないのだ。 それで忘れられないのは、北海道にいたときのこと。 檜山の今金町の高原で、赤トンボの大群が空を覆わんばかりに飛んでいて、それがことごとくつがいになっており、その壮観にしばし茫然と見とれたことだ。 1匹ぐらい雌にあぶれた雄はいないか、車を止めてしばらく見まわしていたが、とうとう見つけられなかった。 これもやはり、たった1日のことらしいのである。翌日になると、もうなにもなかったような顔をして、めいめいで飛んでいた。 陸棲の蟹が海へ産卵に行くのも、珊瑚がいっせいに産卵するのも、特定の日の満月の夜だそうだから、動物の生殖行動には、月の干満が大きく影響しているのかもしれない。 バッタまでそうなのかどうか。帰って調べてみたら、今夜が満月、大潮の日だった。 こちらはおまけ。 足に6キロ、腕に1キロの錘をつけて歩いているどこぞのじいさん。場所はダムの堰堤の上。 ただしこれは、家族がばかにして撮ってくれないから、自分撮りした宣伝用のスチール写真であります。 |
2014.11.1 家のすぐ近くに立派な栗林があった。その木が全部伐採され、ソーラー発電所になると聞いたときは唖然とした。 エコやクリーンが売りもののソーラー発電を、農地をつぶして施工するのはどういうものか。むしろ環境破壊ではないかと思うのだ。 わが家と隣接した山のなかにも、広大なソーラーパネルがひろがっている。 今回調べてみたところ、施設は2箇所に分れ、どちらにも○○発電所という名がついていた。 もとは砂利の採掘場だったところである。 その跡地をどうするかということになったたとき、ソーラー発電ブームが起こった。それでこれさいわいと転用したのだろう。 設備さえつくってしまえば、できた電力はすべて買い取ってくれるというのだから、これくらい楽な商売はない。営業努力がまったくいらないのだ。 房総の山々はゴルフ場だらけだが、もうひとつ多いのが山砂の採掘場だ。山そのものが砂でできているから、掘り崩しさえすればそのまま商品になる。 房総を車で横断したことがある人ならご存じだと思うが、いたるところに、この手の採掘場がある。 その跡地がいま、ぞくぞくとソーラー発電所になっているのだ。 森のなかで、○○発電所建設用地と書いた看板がいきなり現れたらぎょっとする。従来の発電所とは立地がちがうから、面食らうのである。 これほど安直に、つぎからつぎへと発電所をつくって、果たしてうまく行くのかと、じつのところ疑わしく思っていた。 案の定、電力会社がもう買い取らないとか、料金を引き下げるとか言い出して、大騒ぎになった。 だいたいソーラー電力の買い取りそのものが、東北大震災の原発事故から生まれた、経済より政治優先の場当たり的な思いつきだったのだ。 ソーラー発電など金儲けの対象にするようなものではないのである。 おかげで建設ブームには冷や水が浴びせられ、今後の開発計画にも急ブレーキがかけられたようだ。 栗林の跡地も、その後いっこう工事がはじまらないから、計画が頓挫したのかと思っていた。 しかしすでに発注してあったのか、一昨日から工事がはじまった。 今日見に行って、意外なものを発見した。 持ち込まれた資材の梱包に、中国の文字が躍っていたのだ。 ソーラーパネルのようなものは、すべて国産だろうと思っていたから、正直おどろいた。 房総の山のなかで、中国製の機材を使って、ソーラー発電所が組み立てられているというのが、なんとも複雑な気持ちなのである。 |
2014.10.25 二日雨がつづいたが、今日はよく晴れ、気温も上がった。それでかみさんを連れ、歩きに行ってきた。 行き先は、車で5分ほどのところにあるダム。緑がふんだんにあるのと、人がいないのとですっかり気に入り、いまでは週に2、3回は出かけている。 遊歩道が整備されているから、歩くには持ってこいなのだ。1周して1時間足らず。距離にして3・5キロくらいしかないのである。 ひとりのときは2周している。 かみさんと一緒のときは1周。腰痛持ちのかみさんに、むりはさせられないからだ。 わたしはここをスロージョギングと、ふつうのウォーキングとで歩く。 運動量としてはたいしたことないはずなのだが、それでもかなりの汗をかく。 というのも足に錘をつけ、躰に負荷をかけて歩いているからだ。 正しくはアンクル・ウエイトというらしいが、鉄粉の入ったベルトを足首に巻いて歩いているのである。 はじめのころは1キロの錘をつけ、2キロ増の体重にして歩いていた。しかしすぐ、それではもの足りなくなった。 以後だんだん錘を増やし、昨日までは片足1・5キロ、両足で3キロ増にして歩いていた。 それを今日から片足2キロ、両足で4キロに増やしたのである。 買い増した錘もいまでは3種類。2キロ、1キロ、0・5キロとそろったので、最大3・5キロ、両足で7キロ増の体重にして歩くことができるようになった。 いまや完全な健康おたく。 雨の日は家の中で、これをつけて高さ20センチのステップ台を30分、上がったり下りたりしている。 むしろやりすぎないよう、逸る心を抑えているところなのだ。 写真@ 駐車場のスタート地点から、ダムの堰堤を見上げたところ。コンクリの堰堤ではないから、公園と見まがうような眺めで、威圧感はまったくない。そもそもこの程度の川に、ダムが必要なのか、と言いたくなるような小川なのである。 写真A 堰堤の内側。この中は立ち入り禁止だが、ご覧のように草が刈り込まれ、維持費だってばかになるまい。 写真B 周囲を1周できる遊歩道と水面。これくらいの水を溜めておくのに、これほどのダムを造ったということのようだ。 しかもほとんど人が歩いていない。土日でちらほらという程度。わたしども夫婦が、贅沢な空間を堪能させてもらっているだけである。 |
2014.10.18 今週も台風がやってきた。しかし今回はコースがだいぶ外れたため、被害はまったくなかった。 夜が明けたときはすっかり晴れていた。台風一過の快晴である。 ただし吹き返しの風が強く、これは1日じゅうやむことなく吹き荒れた。 おかげでスモッグが吹き飛ばされ、視界良好、先週に引きつづき、わが家の2階から富士山が見えた。 市役所の調査によると、木更津市内から富士山の見える回数は年間49回だという。 意外と見えないものなのだ。しかもほとんど冬だろうから、いま見えるのはそれだけ珍しいということになる。 だったら高いところや、海岸まで行ったらもっとよく見えるだろうというので、かみさんを連れて富士見に出かけた。 しかし昼から出かけたのでは遅すぎた。そのときは雲に隠れ、まったく見えなくなっていたのである。 その代り対岸の東京や横浜は、これまでなかったほど鮮明に、くっきり見渡せた。 木更津から40キロ先にあるスカイツリーまで、肉眼ではっきり見分けられたのである。 写真@はわが家の2階から見た富士山。冬になれば、もっと鮮明な写真が撮れるだろう。 写真Aは市内の高台から見たアクアラインと東京。前にも同じ写真を掲載しているが、そのときはもやってなにも写らなかった。 ------------------------------------------------------------------- 15日は、あたらしくできたイオンのショッピングモールのオープンに行ってきた。駐車場が4000台分という超大型スーパーである。 すでに木更津には、三井アウトレットパークというショッピングモールもあるが、こちらはまだ行ったことがない。ブランド品にはもう用がないからだ。 イオンのほうはスーパーだし、今回は正式オープン前の、地元の人対象の開店だというから、のぞきに行ってみたのだ。 食堂街に京都北白川の魁力屋というラーメン屋が出店していた。背脂入りのこってりラーメンで、割合好きな味である。 シネコンもあったから、これからは映画のチェックを再開しよう。 本屋はだめ。専門店も、われわれの知っている店はそれほどなかった。 どれくらい足を運ぶようになるか、数ヶ月もすれば答えが出るだろう。 |
2014.10.11 台風18号に手ひどく痛めつけられた。 吹き荒れたのは2時間ぐらいだったが、昼間だったからすべてが目で見え、久しぶりに緊張させられた。 家がずしんずしんと揺るぐほど猛烈な風は、子どものころ以来のこと。それぐらい強力な風雨だった。 長い間マンションで暮していたから、台風の怖さを忘れていたのだ。 それが木更津へ来て、戸建てにもどった。 しかも低いとはいえ、山の尾根に位置している。せがれの話によると、冬の風も半端なものではないそうだ。 さいわい建物には被害がなかった、と思っていたところ、とんでもない。ハウスが1棟つぶれていた。 パイプを立てて自作したトンネル型のハウスである。 畑ではなく、トラクターや資材の置場として建てたもので、半分は苗代用の田にしてあった。これがものの見事につぶれた。 せがれが独りで何日もかけてこつこつつくりあげたものだが、つぶれるときはあっという間。写真も撮ったのだが、さすがに掲載するには忍びなかった。 館山周辺で同じタイプのハウスが何十棟もつぶれたそうだから、海に近い分、風が強かったということだろう。 唯一よかったのは、台風が去ったあとの夕焼けで、はじめて富士山が見えたこと。2階ベランダの端っこまで行くと、やっと見えることがわかった。 池袋にいたときは11階に住んでいたし、高層ビルがそれほどなかった時代だから、富士山はいつも真正面にあった。 高度成長期の空がいちばん汚れていた時代でも、風が強い日には見えた。 それが木更津へ来てからは一度も見えたことがない。海岸からも、アクアラインのバスからも、見えたことがないのである。 距離を測ってみたところ、池袋から富士山までは直線距離にして約90キロ。わが家からだと110キロ。木更津のほうが遠かったのである。 夕焼けの濃淡でかろうじてわかっただけだから、写真では判別できなかった。しかもすぐ見えなくなった。あとは冬、木々の葉が落ちてからを期待するしかないだろう。 写真@ 栗林にもかなりの被害が出た。いちばん大きな実をつける木がやられたから、この被害は甚大だ。 写真A 敷地の境界にあった銀杏の木。わが家の木ではないかもしれないのだが、直径15センチもある木がものの見事にへし折られていた。 写真B 林のなかで見つけた野生の柿の木。柿の木ならわが家にあるのに、成りものを見つけたら手を出さずにいられない情けない性。ひとつもいで囓ってみたところ、口がひん曲がるような渋柿だった。 今週はさらに強力な台風がやって来る。台風がくるたびにおろおろしなければならない習いを、いまになって取りもどすとは思ってもみなかった。 |
2014.10.4 今日は暑かった。10月にしては異例の31度。家の周りの草刈りをしたら汗だくになった。 午前中、糖尿病の定期健診に行ってきた。 薬はきちんと飲んでいるし、食生活も野菜中心。数値良好だから医者のお覚えいたってめでたかった。 今週も郵便物を受け取るため、多摩へ1日帰宅していた。 戸籍の上ではまだ都民なので、保険証を受け取るときは、いちいち旧宅へ帰らなければならないのである。 今回は道路の混む時間を避けようと、はじめて夜遅い時刻のバスに乗った。すると木更津から新宿駅西口まで、わずか1時間5分で着いた。 大型バスが90キロで突っ走れるほど、道路が空いていたのである。 多摩で移動するときは、よく1駅区間歩く。今回も帰りに隣駅まで歩いてみた。 うちの住区に隣接して大きな団地がある。久しぶりだからそのなかを通り抜けてみた。 すると団地の象徴的建物で、多摩の平地ならどこからでも見える14階建て高層住宅が、無人になって、フェンスで囲まれていた。 建て替えるのではなく、取り壊されるのだという。 ここの1階にはスーパーがあった。地域のショッピング網が整備されるまでは、いつもここで買物していた。 スーパーの前の広場は児童遊園になっていて、子供らの声で沸き返っていたものだ。それがいまや静まり返り、子供らの姿はまったくない。 小学校はだいぶまえに廃止された。 うちの子の幼かったころが、児童数のいちばん多かった時期だろう。 長男が小学校に入ったときは超過密校で、校庭に建て増したプレハブ教室に収容されたくらいである。 それであらたな小学校が建設され、わが子3人はそこへ通学した。 その小学校もいまやない。 生徒数が減ったため、団地の小学校と統合され、ふたつの旧校は廃止になったのである。 このまえ都内へ帰ったとき、たまたま夕方ラッシュ時の、中央線に乗る機会があった。車内の混み方が、ひところほどでないのにびっくりしたことである。 道路といい、電車といい、数十年で混雑度ががらっと変わってしまうほど、社会構造が変わったということだ。 いまでも次から次へと、あたらしい道路や鉄道がつくられているが、これらが完成したとき、世のなかはどうなっているのだろうか。 そういう時代まで読み取った施策だとは、どうにも思えない気がするのだが。 |
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