Shimizu Tatsuo Memorandum

トップページへ                 著作・新刊案内
きのうの話      

Archive 2002年から2014年6月までの「きのうの話」目次へ




 

2014.6.28
 車やバイクにだいぶ慣れてきたので、いくらかずつ行動半径をひろげている。
 千葉の病院へ行くかみさんを、駅まで送り迎えできるようになった。

 それで気がついたことは、木更津の街はけっこう坂が多いことだ。住宅街が丘陵を切り開き、街の後へ後へとひろがっているのである。
 標高にすると40メートル前後の起伏だから、徒歩で暮らしたらかなりきついはずだ。それがいまは車なので、スペースや道路に余裕のある山の手のほうが、かえって暮らしよくなっている。

 わたしの家は標高80メートル。
 高度から言えばもっと高級住宅地ということになるはずだが、それにしては埃っぽいんだよなあ。
 丘陵の尾根筋に位置しているから、風が強いのである。
 ちょっと吹いたら、すぐ土埃が舞い上がる。冬の惨めさがいまから思いやられるのである。
 また標高の高い割に、視界もない。

 いちばんがっかりしたのは、富士山が見えないことだった。
 いまのところ視界の果ては、真西15キロほどのところにある富津の火力発電所の煙突2本。
 富士山が見えるとすればその右なのだが、すこし曇ったり靄ったりすると、この煙突まで見えなくなる。空気は案外よくないのかもしれない。

 一方で気温は平地より2度くらい高いとか。だからここは蜜柑ができるんです、と農協の人が言ったそうで、事実まえの人の残してくれた甘夏は、毎年よく実をつけている。
 土佐文旦と小夏を植えたのも、そういうことを聞いたからなのだ。


写真@は市内の中心にある太田山公園の展望台から、海の方を見下ろしたところ。


写真A 目を右に転じると、アクアラインも一望のもと。海側の街はすべて標高2、3メートルしかありません。


写真B 竹林があるところを通り抜けたら、道端に筍がにょきにょき出ていた。バイクを止めて拾い集めると、数分でこれだけの収穫に。もちろんおいしくいただきました。ただしせがれからは、人に見られたらみっともないからやめろと言われた。


2014.6.21
 木更津に来てはじめての行楽に出かけた。
 行き先は佐原と潮来。せがれがかみさんをあやめ見物に連れ出したから、それに便乗したもの。
 同じ県内だから、簡単に行けるだろうと思ったところ、どうしてどうして。高速を車で1時間以上走ってもまだ着かない。
 千葉県がこんなに広いとは知らなかった。面積を調べてみたら、東京都の倍以上あった。全国で28番目。京都府より広いのである。

 潮来、佐原、香取神宮を駆け足で見て回り、最後に訪ねたのが、現在の旭市にある大原幽学記念館。まえから一度訪れたかったところなのだ。
 大原幽学は幕末の農政学者で、先祖株組合という世界初の農協のような組織をつくり、農民の自立や意識向上に大きな功績を挙げた。
 しかし門弟が増え、農民運動が村を越えてひろがりそうになると、それを恐れた幕府によって難癖をつけられ、むりやり押し潰された。
 足かけ5年もの取調べの挙げ句、下された判決が押込め100日というのだから、いかに冤罪であったか、これだけでもわかろうというものだ。

 現地に行ってみるとわかるが、この辺り、海抜数メートルしかない田園地帯と、標高五十メートル前後の丘陵とが、入江のように入り組んでいる。
 かつては「椿の海」と呼ばれた大きな池があったところで、この界隈の田畑は、その干拓によってつくりだされたものなのである。
 いわば新開地。当然風紀は誉められたものではなかったらしい。
 天保水滸伝の舞台になったのがこの近くといえば、詳しい方ならははんとおわかりいただけるはず。
 笹川繁蔵、飯岡助五郎という2大博徒の親分が、対立、抗争を繰り返していたところ。幕府の手が届かない無法地帯。というよりガス抜きとして治安が放置されていたところなのである。
 そういう土地で、こういう農民運動が生まれたところに大きな意義があったのだが、それが弾圧されたのは返す返すも残念。
 その後どういう発展をしたか、もうすこし見届けたかったと思う。


写真@ 佐原市内の小野川を行く遊覧船。据え船の左先に伊能忠敬の生家がある。


写真A 香取神宮の本殿。夏の大祓である茅の輪くぐりが行われていた。


写真B 大原幽学の自宅。もとの屋根は茅葺きだった。


写真C 自宅下にある田。形も、広さも、所有者もまちまちだった田を、このように1反ずつ、均等に区画整理した。これはいまでもそのまま生かされている。


2014.6.14
 今日をのぞき、この1週間雨がつづいた。
 おかげで外へ出かけることもできず、ほとんど家のなかで過ごした。
 千葉に越してきて、大きく変わったことに、歩かなくなったことが上げられる。
 今週など車で2回スーパーに行っただけ。全部合わせても、1万歩に達していないだろう。

 歩くところがないのである。
 里まで下りて行くと、気持ちのよい田園風景がひろがり、ウオーキングには絶好なのだが、そこへ行くのに、徒歩で15分くらいかかる。
 そこまでが、歩きにくいのである。
 地区の家、全部合わせても20戸くらいのところだから、ウォーキングなんかやっていたら、奇異の目で見られること必定。
 越しては来たが、近所への挨拶すらしていないのだ。
 転入届も出していない。京都のときと同じ、潜り市民なのだ。
 そういう後暗い身だから、目立ったら、せがれに迷惑をかけそうで、大きな面をして出歩くわけにいかないのである。

 そもそもこの界隈は、道路というものが、人間の歩くためのものではない。
 車が走るためのものである。
 ときどき自転車に乗って学校から帰って来る中学生(近所の子らしい)を見かけることはあるが、子供や、小学生を、路上で見かけたことは一度もない。
 車で数分行くと、公園化したダムがあって、休日になるとウォーキングをしにくる人がいるというが、そこまではみな、車でやって来る。
 そういうところだから、できるだけ目立たないよう、ひっそりと住まわせてもらうほかないのである。

 ジムにもまだ行っていない。
 越してきたら、いちばん先に探すつもりだったが、事情がわかってくるにつれ、面倒くさくなり、いまやどうでもよくなっている。
 ジムまで徒歩3分だった京都とちがい、ここだと車かバイクで、15分から30分かかる。
 隣の市まで入れて、行けそうなところに、一応3箇所のジムがある。
 だが距離が遠すぎる。
 ひとつ近いところもあるが、そこはプールやジャグジーはあるものの、銭湯型の風呂がない。
 わたしの場合、ジム行きのいちばんの目的は、サウナなのである。サウナで汗を流し、浴室で躰を洗って、さっぱりした気分で帰ってくる。
 距離がありすぎると、冬は帰ってくるころ冷え切ってしまいそうで、もうひとつ気がのらない。まだ見学にも行ってないのだ。

 というわけで、今週も写真はありません。


2014.6.7
 高知の妹が枇杷を送ってきてくれたので、ありがたくいただいている。
 庭の木だから、それほど実は大きくないのだが、味は上等。果物に目がないわたしにとって、毎年、なによりの贈りものになっている。
 かみさんの姉のところからも、毎年土佐文旦を送ってくる。もとは栽培していたのだが、姉も高齢になって畑へ出ることができなくなったため、近年はまったくほったらかしだという。
 おかげで味はいいのに、年々実が小さくなった。

 房総のいまの家には、そこそこ土地がある。
 まだ余裕があるから、植えようと思えば、なんでも植えられる。
 住みはじめるとすぐ、果樹の苗木のカタログを取り寄せ、果物が頭上で実っているイメージを思い浮かべながら楽しんでいた。
 花にはなんの興味もないのである。
 庭であろうが、畑であろうが、食いもんがなる木しか植えたくない。
 果実が枝もたわわに実っている光景くらい、豊かで、満ち足りた思いをさせてくれるものはないと思い込んでいる。

 なかでも柑橘類。黄色い実こそ、まさに黄金色なのである。
 ということで、いくつか苗を選んで取り寄せ、すぐ植えた。
 なにを植えたかというと、まず土佐文旦と、小夏を2本ずつ。
 このふたつ、房総で栽培できるかどうかわからないのだが、なんとか実らせたいと思い、実験として植えてみることにした。
 文旦は自家受粉をしないから、同類の小夏が必要なのである。
 つぎは枇杷。なんと3本も植えた。
 つづいてやまもも。これはいまの庭に、実のならない雄の木があったから、雌を植えた。
 さらに金柑。
 苗木だが、もう実が成っている。ほかの木が実をつけるまで、相当かかりそうだから、それまでのつなぎである。
 あともう2種類注文したのだが、あいにく売り切れで、手に入らなかった。
 都合9本。

 じつはこれ、かみさんにも、せがれにも、相談もしなければ、承諾もなし。
 勝手に注文して、勝手に植えたから、あとで知ったふたりは大むくれ。
 かみさんは、なにがなんでも桜を植えたかったらしいし、紅葉も欲しいと言っている。その土地まで横取りしたわけだから、そりゃむくれるわ。
 それで、こちらもすこし反省。
 一等地に植えてあった金柑を泣く泣く三等地に移した。
 枇杷を3本も植えて、いったいどうするんだと、せがれはあきれ顔だが、なに、全部わいが食うわい。
 こうなったら、実がなってくれるまで、石にかじりついても、長生きしなければならない。


 写真@は小夏。左のほうに文旦、小夏とあるのだが、見えるだろうか。奥に見えているのは、もとからある甘夏。これらの木が、甘夏ほどの大きさになるまで何年かかるのだろう。


 写真Aは枇杷。向こうにも2本あるのだけど、見えない。うーむ、小さいなあ。


 写真Bはおまけ。里の田園風景。余計な色彩がなにもない、むかしながらの農村の風景がひろがっております。


2014.5.31
 スマホをガラケーにもどした。
 はじめのころは面白がっていろいろやっていたが、よく考えてみたら、必要のないものばかりだった。
 そのうち、なにをやっても面白くなくなった。時間がもったいないのである。
 昨今は家族への電話と、メールくらいしか使っていない。ほかはまったくやる気がしなくなった。
 電話とメール用としたら、スマホはけっして使いよい道具とは言えない。
 わたしの指など、スマホのキー向きではないのである。
 それに、バッテリーの持ちの悪さ。
 結局不必要な道具ということになって、千葉へ行ったら変えようと思っていた。
 ひとつこだわったのは、万歩計。
 これは便利だったから、いいのが入っていると薦められたものを選んだ。
 ところがこの万歩計がひどい代物だった。不正確きわまりないのだ。
 スマホの万歩計が思いのほか正確だったから、見劣りすることはなはだしい。
 そのくせデータ表だとか、健康ウオーキングだとか、いらないものがいっぱいくっついている。
 歩数だけカウントし、それを表示してくれたら、あとはなんにもいらないのである。
 ほかの機種も、もっと調べるべきだった。つまらないガラケーを手に入れたものだ。

 今週は多摩で原稿を書いている。
 千葉へ引っ越してきて、はじめて帰ってきたもの。
 ところがカメラを忘れてきた。そのため写真はなし。
 ガラケーでも写真は撮れるし、それをパソコンに移すこともできるはずだが、やり方がわからない。
 というより、そういうことをわかって、やってみようとする気がない。
 余計なことは、ますますやろうとしなくなっているのである。
 これこそ老化の、顕著な兆候なんだろうなあ。


2014.5.24
 ようやく車の練習をはじめた。教官役のせがれが、助手席に乗っての路上教習である。
 京都滞在中の6年間は一度も乗らなかった。
 とくに東山で転落事故を起こし、右手首を骨折してからは、握力がなかなかもどらなかったこともあって、これでもう車は無理だろうと、一度は断念した。
 身分証代わりに、運転免許証の書き換えはしていたが。
 車の運転は、水泳と同じようなもの。躰でおぼえたことだから、そうたやすく忘れるものではない。
 だから再運転をはじめても、前へすすむだけなら、不安は覚えなかった。
 交差点、後続の車、自転車、左右の通行人といったものへの目配りが、感覚として、まだもどっていない気がする。
 二度と乗らないつもりだったから、車を運転する人間の目で、周囲を見ていなかったのである。
 今日はじめてスーパーまで行き、駐車場に入って、実際に車を止めてきた。
 田舎だから敷地がゆったりして、1台当りのスペースが広いから、まあなんとかこなせた。
 たとえ乗るようになっても、日用品の買い出しにしか使わないつもりである。

 庭仕事は、ただいまおやすみ。
 草引きを熱心にやりすぎ、左手親指の先を切り、右手人差し指は2箇所も皮がむけてしまったのだ。
 指が節くれだち、親指と人差し指に絆創膏、爪には泥が染みこんで、とても作家の手とは思えないありさまになっている。

 今週は写真がなかったから、京都にいたときの、名残の写真をお目にかける。
 引越屋が来る前日まで、未練がましく歩き回っていたのだ。

 写真は最後に訪ねた大津、逢坂の関の近くの寺に残されている牛塔。「うしとう」と読む。
 地震で倒壊した寺が再建されたとき、使役されて死んだ牛の追善供養して建てられたもの。鎌倉時代の建立で重文。
 いまは訪れる人とてない小さな寺に、ひっそりとたたずんでいる。
 もう1枚は山科区の隅っこで見つけた藁製の大蛇。おろちの名がついた淵や、ほかの飾り物も残されていた。

 瀟洒な住宅地の片隅に、こういう土俗的な習俗が生き残っていることに、感心したのだった。


2014.5.17
 引っ越して1ヶ月近くになるが、落ち着いたような、落ち着かないような、中途半端な日がつづいている。

 生活のペースが、まだできあがっていないのだ。
 引越のときできた家具の不具合が、業者が来てくれ、やっと直ったのが昨日。
 部屋のカーテンは既製のものを買ったけど、数が足りなくて取り寄せになった。
 食卓の椅子は、ただいまひとつ注文中。
 ネットのプロバイダは、いままでのものを引き継ぐと、今週決めた。
 と、いろんな後遺症が残っているから、なかなかすっきりしないのである。
 おかげでまだ、引越通知も出していない。
 目がますます悪くなり、きちんとした老眼鏡をつくらないと本が読めなくなったのだが、つくりに行く間がない。
 都内に一度も出ていないのである。

 もっと気を削がれることがある。
 かたちの上では、百姓をやっているせがれのところへ、親が転がり込んだことになる。
 これが独りもの。
 百姓仕事で手一杯。家の細かいところまでは手が回らないから、多少は手伝ってやらざるを得ないのだ。


 写真@ へっぴり腰のじいさんが、目をゴーグルで保護しながら、
草刈り鎌を使っておりますが、これがわたくし。

 なんでおれがこんなことせんならんのや、とぼやきながら、草刈りとか、庭木の剪定とか、やりはじめたのです。
 もちろん、なにもかも初体験。
 1日1時間くらいの勤労奉仕は、仕方あるまいとあきらめた。
 それにしても日本の雑草のたくましいこと。強いこと。
 畑に生えてくる雑草が、日に日に青々してくるのを見るのは、戦慄ですらある。


 写真Aは、雑草をやっと刈り終えた栗林。すると数日後には、
ワラビが生えてきた。もちろん食いました。


 この栗林も長らく放置されていたため、延び放題の、荒れ放題。秋には、徹底的な刈り込みをしなければなるまい。
 しかし、チェーンソーまで使うようになるとは思わなかったなあ。


 写真B わが家の畑に毎日出てくる雉のつがい。
 コジュケイも声は聞くが、まだ姿は見ていない。



2014.5.10
 風邪を引いた。
 房総だから温かいのかと思っていたら、予想外に寒いのだ。朝夕は冷涼ですらある。
 部屋の温度が19度以下になって、あわててヒーターを引っ張り出した。

 咳が出るので、今週は外出も控えた。
 車は軽と、軽トラがあるのだけど、せがれが乗せてくれないのである。
 京都の6年間、怪我をしたこともあって、この間一度も運転しなかった。
 だから自信がなくなっていることはたしかだが、スーパーくらいなら行ける。それをまだ、危ないからと許してくれないのだ。

 先週やっと、バイクの許可が出た。
 最寄りスーパーまで5キロ。いい道を走ったら10分で行けるが、その代わり車が多い。
 一方旧村時代の曲がりくねった道があって、いまは車がほとんど通らない。しかも沿線はむかしながらの純正農村風景。
 ここを時速30キロで、てれんこ、てれんこ走って行くと、まことに気持ちがよい。ただし片道17、8分かかる。

 月曜日の早朝は地震で叩き起こされた。
 千代田区が5弱の揺れだったそうだが、ここも、それくらい揺れた。
 せがれがいつも、発表された震度以上に揺れる、と言っていたのはほんとうだったのだ。地盤が弱いのかも知れない。

 今日は朝から強風が吹いた。
 土埃がひどいから窓という窓を閉めていたところ、なんだかきな臭い。しかも黒い燃えかすみたいなものが、どんどん飛んでくる。
 さらにぱかん、ぱかんと、竹の割れる音。ひょっとしたら火事じゃないか、と思ったらやはり火事だった。
黒こげになった竹の葉がどんどん飛んできた。


ソーラー基地越しに見た山火事)
 この強風下で、なにか燃やしていた人がいたらしいのだ。その火が近くの林に燃え移った。
 30分ほどで鎮火したが、しばらくすると、またぱかん、ぱかんと竹の割れる音がしはじめた。
 しかも今度は、すぐ向かい。正面の風上にあたるところ。
 はじめの火事が、飛び火したのだ。
 さいわいこれも大事にいたらず消し止められたが、一時は燃えかすが高く舞い上がり、気が気でなかった。


(モトクロス場まで燃えてきた火。延焼の危険がないせいか、消火活動に当って
いる消防団員ものんびりしたもの)

 中間にあった森がソーラー基地になり、モトクロス場になって、一種の防火帯になっていたおかげで、こちらまで燃え移ってくるのが防げたのだった

 そんな、こんなで、いまのところ退屈する暇がありません。


2014.5.3
 木更津暮し1週間。元通りとまではいかないものの、だいぶ落ち着いてきた。
 来たときはどこから手をつけたらよいか、途方に暮れて溜息しか出なかったものだ。
 29日にせがれ夫婦が手伝いにきてくれ、見ちがえるほどきれいになった。

 今週は千葉に住んでいるかみさんの中学時代からの友だちが、3日間泊まり込みで働きにきてくれた。
 障子貼り、掃き掃除から雑巾がけ、棚や押入れの整理整頓と、かゆいところへ手が届くほどなにもかもやってくれ、家中が新居みたいに磨き立てられた。
 持つべきものはよき友。つくづくありがたいことだった。

 テレビは光フレッツテレビにすると、アンテナを取りつけなくとも見ることができるというから、早速申し込んだところ、残念ながら圏外だった。
 市街地は圏内なのである。わたしの住む地区が、それくらい田舎だということ。
 アンテナの取付け工事をしてもらったから、テレビも見られるようになったし、光フレッツのほうは引いてあったから、パソコンのネットは支障なく使える。

 先週のブログをご覧になった方が、4駆が必要でしょうと心配してくださったが、舗装道路は家まで通じておるのです。
 それでも最寄りバス停まで2キロ。最寄り街灯まで200メートル。お隣まで東が50メートル、西が100メートルと、人里離れた山の中であることに変わりなし。
 北は鬱蒼とした林で、南は林とソーラー発電の基地。
 ソーラーの外周はモトクロスのコースになっていて、土日、休日になると、バイクが走り回ってくれます。

 今度の家は2階建て。2階の8畳洋間と6畳和室を、わたしがひとりで使っている。
 生まれてこのかた、これほど贅沢な空間をもらったことはありません。
 そればかりか、中2階には8畳大の物置まであって、書庫として使える。


写真@ がらーんとしたマイルーム。気取って言えば書斎。広さは十分なのだが、四方が開口部になっているから、かえって使いにくい。



写真A 参考までに京都時代のマイルーム。6畳大。これに書棚、ロッキングチェア、衣類、万年床と、なにもかも押し込んであった。
 窮屈ではあったが、その代わり坐ったきりで、たいていのことは用が足りた。


写真B 窓から見た書斎。がらがらのうえ、作家の書斎にしては執筆デスクらしいものがどこにもない。
 ロッキングチェアの上にパソコンの載ったベニヤ板が渡してあるが、これが執筆デスクであります。
 向こうにちらと見えているのが隣の和室。こちらもはじめは律儀に布団を上げていたが、いまでは万年床。
 いままでが嘘みたいな、贅沢きわまりない暮しになりました。
 中2階の物置は、すべての本を平積みにして、壁沿いにずらりと並べるつもりだった。ところがいざ並べてみると、壁の一面どころか、3分の1くらいの高さにしょぼしょぼと並んだだけ。
 作家の書庫としては貧弱きわまりなく、さすがに写真は恥ずかしくて見せられない。
 池袋時代の30数年、札幌から京都への14年、全部合わせたら相当の量になっていたと思うが、引っ越すたびに処分したのでほとんど残ってないのです。


写真C 書斎の南側の眺め。手前の屋根はわが家のハウス。これも広すぎて、ただいまのところすかすか。
 奥の林の間にモトクロス場の一部がわずかに見えている。
 これが夜になると、明かりひとつない真の闇と化すわけです。


2014.4.26
 木更津へ越してきた。

 昨日荷物が届き、今日梱包を開けにきてくれた。
 おまかせパックとはいえ、つきっきりになってないと用が足りないから、こちらも1日せっせと働いた。
 おかげで午後にはなんとか恰好がついた。
 ただし外側だけ。中味はこれから何日かかけ、じっくりやらなければならない。

 それにしても、たった1日でなんというちがい。
 一昨日までは、1本の木も見えないところに住んでいたのだ。
 今日はみどりしかない家の住人になっている。
 夜になると、明かりひとつ見えないのである。街灯1本すらない。
 木更津駅から7キロ入ったところだが、すげー田舎というのが実感。

 久しぶりに北斗七星を見た。


2014.4.19
 引っ越す前の手続きのひとつとして、糖尿病健診に行ってきた。
 1年4ヶ月ぶりである。
 引っ越したら落ち着くまで、当分医者には行きそうもないから、この際いまの数値を確認しておこうと思ったのだ。
 結果は、惨憺たるもの。
 多少悪くなっているかなあ、とは思っていたが、とてもそんな程度ではなかった。
 いつでも節制できるし、その結果出る数値もほぼ予測できていたから、慢心していたことはたしか。
 それが横着になって、このごろは食いたいものを食っていた。
 かみさんがいないと、喜び勇んで外食。
 それもこってりした、パワーのあるものばかり。もともとそういうものが好きなのである。
 だから多少悪くなっているかな、という予感はあったが、まさかこれほどとは思わなかった。
 一番の基準であるHbA1cが7・0から8・7へ大幅に悪化していた。
 そのほかにも悪玉コレステロール、脂肪肝、糖の排泄など、基準値をかなり上回っていた。
 これまでHbA1cの値こそ悪かったが、ほかはどこも悪くないと言われていたのである。
 こんな数値が出たのでは、もう言い訳できない。
 いまや立派すぎる糖尿病。
 とりあえず薬を飲み、今後のようすを見てみよう、ということになって、とうとう薬の処方箋をいただく身になったのだ。
 その帰り、贔屓の定食屋へ寄り、これが食い納めかなあと、大好きなポークジンジャーをしみじみ食ってきた。
 薬は朝食後に服用。ということになっているが、相変わらず朝はめちゃめちゃ。めしも食ったり食わなかったりだから、いまのところまだ一服も飲んでいない。
 引っ越したら、やり直そう。

 心残りだった奈良の三輪山へ登ってきた。
 日本最古の神社といわれる大神神社のご神体である。
 標高467メートルの山すべてがご神体。参拝者には入山させてくれるが、聖域なので写真は撮せない。
 頂上に神の磐座と呼ばれる石がごろごろ転がっているものの、要はそれだけ。視界もまったくない。
 ひたすら登って、同じコースを下りてくる。往復2時間。
 それでも入山者は引きも切らず。
 若い人が多いのと、裸足で登っている人が多いのにびっくりした。
 登山口には、お湯の出る足洗い場が備えられている。


写真@ 山の辺の道を通って行く途中にあった石仏。重文。
棺の蓋だったのではないかといわれている。


写真A 大神神社。正面にあるのは拝殿。ここから後の山を拝む。


写真B 登山道入口。御幣でお払いをしてから入る。


写真C 登山口の狭井神社にあるご神水。
三輪山の湧水が汲めるところ。冷たくてうまい水だった。


写真D 近くの見晴台から眺めた大和平野。
大神神社の一の鳥居と耳成山が見えている。


写真E 帰途立ち寄った郡山城址の天守台。
なかなかいい城址だが、ただいま石垣を修復中。


2014.4.12
 歯の治療がようやく終った。
 抜いた奥歯2本を、これまでなんにもしないから、どうするのだろうと思っていた。
 それがやっとできてきたところ、ただの入歯だった。
 ほかの歯にかぶせる着脱式の入歯だったのである。
 はめると、金具が上の口蓋にべったり張りつく。
 舌の先にいつもなにか触っているわけで、不快なことこの上ない。ものを食っても、食った気がしないのだ。
 しかも食事するごとに外して洗い、夜寝るときは水に漬けておけという。
 いままで歯を抜いたことが一回もなかったから、どういう処理をされるのか、まったく想像できなかった。
 入歯を知っている人なら当たり前のことかもしれないが、そういうイメージがなかったから、唖然、茫然としたのだった。
 こんなことなら、抜くんじゃなかった。
 ぐらついていたのは、たった1本だったのである。
 それが治療してもらったら4本も抜かれ、入歯をはめられ、不便、不快きわまりない口腔になってしまった。
 しかもこの先、入歯が悪くなるたび、歯医者へ行かなければならない。
 自分がオーケーしてやってもらったことだから、文句は言えない。迂闊だったなあと、それこそ涙がこぼれそうになるくらい、自分の軽率さを悔やんでいる。
 こんなことなら、なにもせず、悪くなった歯をいたわりながら、できるだけ長く使ってやったほうが、はるかにましだった。
 歯の悪い人がいたら、心から忠告します。
 歯医者には行きなさんな。
 いまの状態を、これ以上悪化させないよう、最大限の努力を傾け、本来の身に備わっている機能を、一日でも長く使うよう心がけなさい。
 どんな名医が手当てしてくれた義歯より、はるかにましなはずです。

 先週は、まえから気になっていた醍醐寺の裏山、上醍醐へ上ってきた。桜の名所醍醐寺の、本家本元である。


写真@ ご覧のように、下からこういう道を、450メートルの高さまで上って行く。
ほかに道はないから、自分の足で上るしかない。行程1時間となっているが、
年寄りには少々きつく、1時間半はかかった。


写真A 上がりきったところに、忽然と現れる大伽藍。


写真B いきなり、さりげなく出てきたお堂。国宝。


写真C 同じく、ぽつんとたたずんでいたお堂。国宝。
山上にある遺構としては日本最古。平安時代の建物。



写真DE 豊臣秀頼が再建したという建物ふたつ。
いずれも重文。

 とにかく山裾から、えっちらおっちら上がって行かなければならない山上に、このような大寺院を建てた先人の熱意には恐れ入るしかない。
 気になることは、これらの建物は、いまや遺棄されたみたいに残っているだけ。寺院として機能しているとは思えないことだ。僧侶の姿を、ひとりも見なかったのである。
 というのも、車で行く道がないのだ。途中まではゴルフ場へ行く道があるが、それとて最寄りのところから、山道を20分くらい歩かなければならない。いまの感覚で言えば、人間の暮らせるところではないのである。
 したがってこれらの建物は、火事が出たらなす術がない。
 事実最近では、平成8年に、再建したお堂が落雷で焼けている。
 昭和時代には、ふたつの国宝が、火事で失われているのだ。


2014.4.5
 今週は東京から孫がやってきた。
 中学生になると、お祝いとして、春休みに呼んでやっていた。今回が最後の4人目である。
 ただしまだ小学校4年生。だから資格はないのだが、こちらが京都を引き上げてしまうと、もう来る機会がないことになる。
 それでは公平を欠くから、ひとりで来られるならおいで、と声をかけたところ、ふたつ返事でやって来た。
 滞在中のおおかたは、かみさんが面倒を見てくれたが、わたしも大阪の海遊館へ行ったときだけついて行った。

 水族館はどうでもよかった。海遊館のある天保山というところが、いまどうなっているか、見てみたかったのである。

 かつて天保山といえば、四国や九州へ向かう船のほとんどが、ここから出航していた。高知航路しかり。わたしは船に弱いので、いつもおっかなびっくりだったが、それでも四、五回は利用している。
 船の出航というと、汽笛の音と、色とりどりのテープとがセットになっていたようなもので、その気分を味わいたくて、わざわざ船にしたこともある。
 ただしそのころでも天保山は、港外れの、電車の終点で、けっして華やかでも、気分の引き立つところでもなかった。

 いまの天保山に、そういううらぶれた面影はまったくない。モダンできれいな公園になり、桜が咲き、家族連れがお弁当を広げて、ひたすら明るい行楽地になっていた。
 60年まえの記憶や、感傷の出番はかけらもなかったのである。
 孫にせがまれ、あべのハルカスを見せてやろうとしたが、大阪市内からは、じっくり見えないことに気づいた。
 京都タワーの上からだと、肉眼でもはっきり見えたそうだ。
 ところが市内は、高層ビルの隙間から、一瞬ちらっと顔をのぞかせる程度。大阪は地形も、けっこう変化に富んでいるのである。

 写真は車窓からの1枚。

 孫は翌日、修復なった宇治平等院を見て帰った。

 かみさんがよかったというので、わたしも急に行きたくなり、今日ひとりで行ってきた。
 これまで2回行っているが、色がすっかりくすみ、あまりにみすぼらしくなっているので、そのたびにがっかりしていた。

 写真は桜の花に埋もれている平等院を、宇治川を挟んだ対岸から撮ったもの。

 ズームでのぞくと、ご覧のように、修復なった黄金色の鳳凰がはっきり見える。
 境内からの写真は、夕暮れの逆光とあって、きれいに撮ることができなかった。


 最後の写真は大阪城のお花見風景。
 ここにいる花見客は、すべてバーベキューをやっていた。
 じつは北海道へ行ったとき、いちばん憤慨したのが、花見というと、みなバーベキューをやっていたことだ。
 桜見物に、あの甘ったるいバーベキューの匂いはないでしょうと、いつも鼻白んでいたものだ。
 大阪でもそうなのか。と思ったら、そこのゾーンが、バーベキュー指定区域となっていた。

 年寄りは黙るほかないみたいである。



2002年から2014年6月までの「きのうの話」目次へ



志水辰夫公式ホームページ