Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2013年1月から3月までの「きのうの話」へ





 

2013.3.30
 今週月曜日のこと。現金が必要になって、銀行へ払い出しに行った。
 自分の番がきて、カードを入れ、暗証番号を打とうとして、突然、頭のスイッチが切り替わってしまった。
「え? どうしたんだ」
 暗証番号を、思い出せなくなってしまったのである。

 これまで何百回、何千回と利用してきたが、こんなことは一度もなかった。
 単なる度忘れだとは思ったものの、四条烏丸支店だから、後に人が並んで、順番がくるのを待っている。
 ついつい焦ってしまい、これだと思う番号を入力したところ、金は出てこず、カードがもどって来た。
 それで一旦機械を離れ、行列の後に並んで、また順番を待った。その間に思い出そうとしたのである。
 そしたら、またカードが突っ返された。

 こうなると、頭が混乱してしまい、記憶に自信がなくなった。
 それで会場整理のおじさんに、度忘れしたと、正直に申し出た。そしたら窓口へ行ってごらんなさいと言われた。
 なかに入って、また同じことを申告した。
 それではじめて知ったのだが、3回失敗すると、カードにロックがかかり、以後使えなくなるのだという。
 あたらしく申請し直し、カードをつくり直さなければならない。2回失敗したところで、申し出てよかったのだ。
 それで所定の手続きを取り、順番が来るのを待った。
 そして呼ばれ、窓口に行って、あらためて度忘れの申告をした。
 それでは調べてみましょうということになり、窓口嬢がなにやらはじめた途端、頭のスイッチが切り替わった。
 いきなり、思い出したのである。
「思い出しました」
 ということでカードを読み取り気にかけてもらい、思い出した暗証番号を入力した。
 そしたら、合ってます、と言われた。

 それでまた行列に並び、めでたく現金を手にすることができた。
 要するにそれだけの話だが、こういうことが、これからたびたび起こるんじゃないかと、その日は鬱々として楽しまなかった。

 つぎは、今日である。
 鴨川へ歩きに出かけ、そのとき、近くの食堂で昼めしを食った。
 コーヒーを飲み、金を払おうとしたところ、ポケットに、なにも入ってないではないか。現金はおろか、カード一枚持っていない。
 出てくるとき、スマホ、双眼鏡、カメラは、しっかりチェックして、ポケットに入れた。だがふたつの財布には、まったく思い及ばなかった。
 家から歩いて7、8分のところだったから、わけを話し、取りにもどった。だからことなきは得たものの、恥ずかしいといったらなかった。

 こんなことで小説が書けるのだろうか。だんだん自信がなくなってきた。



 写真は3条大橋から下流を望んだ風景。
 上は21日のもの。下は今日。季節感がだいぶちがいます。


2013.3.23
 気温が毎日のようにめまぐるしく変化し、春と冬が日替わりで訪れている。
 昨日などは前日より10度近くも下がり、風が強くて、寒かった。
 しかしすっきり晴れ渡り、視界もよかったから、家にいるのはもったいないと、冬のコートを着込んで、かみさんと歩きに行ってきた。

 東京はもう桜が満開というのに、京都はまだまだ。
 それでも市内でいちばん早い鴨川河畔、それも五条から七条までなら、もう咲いているだろうと、そちらへ出かけた。
 するとやはり、ここだけは別格。しだれ桜が、4分から6分咲きくらいになっていた。
 ほかにも雪柳が満開。柳が芽吹き、レンギョウやサンシュユが咲いて、まことにいろどり豊かだ。

 鴨川の水も、ひところに比べたらずいぶん温んできた。流れひとつを見ても、明らかに光の色がちがう。
 一方で、鴨やユリカモメは北へ帰ったため、川面の鳥はすこし淋しくなった。
 そのあと、建仁寺から祇園へ足を延ばしたが、観光客もずいぶん増えてきた。
 今回はこちらも観光客になりきり、行列のできる店に行って、めしを食って来ようとしたところ、あいにく木曜日というのは、なぜか休む店が多いのである。
 お目当ての店にふたつも振られ、結局平凡に、蕎麦を食って帰ってきた。

 写真は21日の北白川の流れ。
 柳が芽吹きはじめたばかりだが、これはこれで、季節感がより鮮明。いかにも春が来た、という感じがするとは思いませんか。
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 それはいいとして、今週も眠りがめちゃめちゃ。一睡もできない夜が、2日もあった。

 パソコンに向かっていると、そのまま眠りこんでいることは、しょっちゅうなのだ。
 それではというので明かりを消し、布団に潜りこむと、途端に目が醒めてくる。
 あきらめてまた起きる。
 12時を過ぎると、もう眠れない。
 まことに困ったことで、翌朝のめしを食って、それから寝られるかというと、これもなかなか思うようにならない。
 1時間くらいはまどろむが、すぐ目が覚める。眠気というものが、まったくなくなってしまい、夜になってもけろっとしている。

 ただし、頭はなんとなく重いから、仕事にはならない。一応はするのだが、翌日読み返してみると、内容がすかすかで、使いものにならないのである。
 いまでは半分あきらめ、苦にしないことにしている。それにしても、いつまでつづくのだろうか。


2013.3.16
 家へもどってきて4日。まだ時差ぼけみたいな、時間のずれに苦しんでいる。

 なにしろ40日間、気の向くまま、どこからも邪魔されない、自分本位の暮しをしていた。
 寝たいときに寝、起きたいときに起きる。閉め切った部屋に籠り、テレビなし、新聞なし、固定電話には出ない。

 外界とのつながりは、ネットと携帯だけ。その携帯も、連絡はすべてメールで受けていた。
 ことばというものが、まったくない暮しをしていた。

 それが家へもどると、根底から変わってしまう。
 それまで孤だったものが、1対1の関係になってしまうのだ。
 つまり相手がいる。
 その相手に向かって、しゃべらなければならなくなるし、ふたりで構成している時間帯に、合わせなければならなくなる。

 これが容易なことではない。
 結果として、慢性的な睡眠不足に陥ってしまうのである。
 どんなに眠くても、夜中の12時を過ぎると、朝の6時か7時までは、まず眠れなくなってしまう。体内時計が目覚めてしまうのである。
 ジムに行ったり、散歩に出たり、忘れていた生活習慣を取りもどしながら、すこしずつ身体を慣らして行くほかない。まだだいぶ時間がかかりそうなのである。


 写真は本日散歩がてら通り抜けてきた府立植物園のクスノキ並木。鬱蒼とした常緑樹の並木が約200メートルつづく。いちばん好きな場所である。


2013.3.9
 東京住まいも、丸40日。仕事もやっと一段落したので、来週は京都へ帰れそうだ。

 それで今週は、帰る前の身辺整理をしていた。いちばん多かったのが、人と会うこと。
 春一番の吹いた日に花粉症が爆発。以後心配だったのだが、こちらは小康状態がつづいている。
 去年から飲みはじめた薬が利いているみたいなのだ。外出のときは、鼻の周りへ軟膏を塗る。さらにマスク。
 この3点セットのおかげで、ずいぶん楽に過ごしている。外出しても、くしゃみひとつ出ないのである。
 ただし、油断は禁物。今日は大失敗をした。

 所用があって、朝から千葉県へ出かけていた。
 ところがものすごい風。先日の春一番に負けない強風が、終日吹きつのった。
 それでも帰ってくるまでは、なんともなかった。帰りのバスが渋滞に巻き込まれ、予想外に時間がかかった。

 新宿へ帰り着いたときは夕方だったが、そのころからくしゃみと、鼻水が出はじめた。今朝飲んだ薬の、薬効時間が切れたのだと思う。
 予備を携帯してなかったから、あとは鼻水のだだ漏れ。家へ帰り着くまでの長かったこと。
 帰ってすぐシャワーを浴び、薬を飲んだら治まった。

 明日は40日分の洗濯と、掃除、雑草引き、持ってきた資料や新しく買った本を送り返す荷物づくり、など雑用が待っている。

 それと、気になることがひとつ起きた。
 パソコンを1回テーブルから落とした。
 以後画面の左のほうに、赤い線と青い線が現れるようになった。1ミリの数分の1という間隔を開けて、縦に2本。
 まだ使用に差し支えるほどではないが、この先どうなるか心配だ。


2013.3.2
 今日はじめて都心へ出かけた。
 さすがに1ヶ月も東京にいると、あれこれ用ができてくる。それをまとめて、すませてきたのだ。

 夜は大藪賞の授賞式に出た。
 選考委員は2年前に辞めたから、もう出る機会はないと思っていた。
 ところが今回の受賞者が、知らない人ではなかったことがわかり、びっくり。それなら、というので出かけたもの。

 5、6年まえになると思うが、山形市で開かれている小説講座みたいなところへ呼ばれ、1時間ばかり話をしたことがある。
 そのとき受講者の書いた短い作品を何点か読み、講評みたいなことをやった。
 今回の受賞者は、そのとき講評した人のひとりだったのである。

 わたしのほうは、講評したことは覚えていたが、どの人に、どういう評価をしたかは、すっかり忘れていた。
 なんでもその人には、この人は書ける、と言って誉めたらしい。
 誉められたほうは、そのことばをしっかり覚えてくれていた。
 以後そのことばに励まされ、精進した結果、2008年に『このミステリーがすごい』大賞を受賞してデビュー。今回は大藪賞単独受賞という快挙を成し遂げたのだった。
 名を柚月裕子さんという。

 受賞作品『検事の本懐』(宝島社刊)は、選考委員の全員一致で、文句なしに決まったそうだ。
 わたしも6年選考委員をやったからよくわかるが、全員一致というのは、なかなかないものなのだ。
 授賞式のパーティでは、ご本人からあらためてお礼をいわれ、面映ゆかったと同時に、わがことのようにうれしかった。

 こういうことがあると、その人のいいところを引き出してあげるような評価がいかに大切か、あらためて思う。こちらもいい勉強になったのである。
 おかげで今日一日、楽しかった。
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 それはいいが、今日は春一番が吹いた。そしたら途端に、花粉症が爆発した。
 昨日までは、なんともなかったのである。ひょっとしたら、治ったかなとまで楽観していた。
 とんでもない。目はかゆくなる、鼻水とくしゃみが出るは出るは、帰るときは這々の体だった。

 明日からがつらくなりそうだなあ。


2013.2.23
 日野へ籠って、3週間になる。

 今回は都心へ、ほとんど出ていない。
 新宿へ1回行ったが、買物に出かけたもの。お茶1杯飲まずに帰ってきた。
 ほかには、立川へ1回、八王子へ1回出かけた。これも、食糧の買出し。
 ふだんの食品は、桜ヶ丘か、高幡の近場ですませる。

 めしは、おおむね食っているが、時間的にはめちゃくちゃ。
 家に籠りきりだから、それほど腹は減らない。平均1日2食くらいだろう。
 暇なとき、仕事が思わしくないときは、気晴らしに、サラダなど、けっこうつくる。
 しかし追い込まれてくると、悠長にめしの支度など、してられない。
 手っ取り早く、食えるものに限る。

 というので、この10日間、シチューを食っていた。
 最初は、トマトピューレも買ってきて、レシピ通りのシチューをつくる。
 鍋いっぱいつくると、4、5回分はできる。
 2、3回食ったら、つぎの野菜を足していく。
 あり合わせの野菜、残りもの野菜、和洋なんか問わない。なんでも、かんでもぶっ込み、ことこと煮込む。
 要するに、ごった煮である。
 肉も足す。牛に、豚が加わり、鶏が加わる。ゆで卵も入れる。
 だから3、4日目くらいから、味としては、当初より、はるかにうまいシチューになる。
 それをおかずにして、冷凍おにぎりを1個、あるいはパックご飯を半分食う。
 これが1日1回の、正餐である。

 ほかは適当。シリアル、冷凍ピザ、冷凍たこ焼き、冷凍ラーメン、ときには冷凍鯛焼きが加わることもある。
 補助食品としては、チーズ、カスピ海ヨーグルト、果物を欠かさない。
 今回のシチューは、最後の3日間、カレーになった。

 1週間つづくと、さすがに飽きるから、すると、つぎの料理に切り替える。
 今回も、本日から、豚汁に変わった。
 これまた、日々内容を変えながら、1週間つづくのである。
 悲惨な食事、と思う人があるかもしれないが、本人はいたって、気に入っている。
 体調もGOOD。栄養学的にも、それほど外れた食事では、ないと思っている。
 野菜だけで、毎回、延べ、15種類以上、入っているのだ。
 先週は古い友人(人妻です)が、わざわざ手作りの健康総菜を、差し入れてくれた。
 こういうものは、ありがたくいただく。

 男のやもめ暮らしを、苦にする人が多いようだが、わたしには、理解できないなあ。


2013.2.16
 今回東京へ出て来るとき、かみさんから絶対に携帯を手放さないよう、くどいほど念を押された。
 風呂へ入るときも、必ず手の届く範囲に、携帯を置いておくようにと。

 知人の旦那が、風呂で溺れ死んだとかで、すっかり過敏になってしまった。その旦那は、酔っ払って風呂に入り、寝込んでしまったらしいのだ。
 それでということもないが、自分でも今回から、いくつかの行動をあらためることにした。

 いま3日に1回ぐらいしか外出していない。それ以外の日は、家でパソコンに向かったきり、の暮しになっている。
 1日数百歩しか歩いてないわけで、脚力が恐ろしいほど落ちているのを、外に出るたび実感する。よたよたして、まともに足が前へ出ないのだ。

 朝起きるときも、すんなり立てることはまれ。よろめいたり、尻餅をついたりしはじめた。
 それでいまは、目を覚ましたときも、すぐは立ち上がらず、必ずひと呼吸置くようにしている。
 自分で自分に、さあ、立つぞ、と言い聞かせてから立つのである。

 これまでは、コンロになにか掛けたまま、用足しをしたり、トイレに立ったり、平気でしていた。
 それも今回から、やめた。
 コンロの前を離れるときは、必ず火を止める。
 そういうことを自分に課しておかないと、どんなまちがいを犯すか、しれたものではないのだ。

 先週、スマホを使おうとしていたとき、かみさんから電話がかかってきた。
 話をしながら、ふと気がついてみると、手許にあったはずのスマホがなくなっている。
 台所に置き忘れたかな、と思って行ってみたがない。
 そこら中を探しはじめたが、ない。
 かみさんが、なにをしているのと聞くから、ケータイがないんだと言うんだが、それをちっとも理解しない。
「なんのことを言ってるのよ」
 と、とんちんかんなことばかり言う。とうとう業を煮やして「ケータイがなくなったんだ」と怒鳴った。
「ないって、いま話してるのがケータイじゃないの」
 と言われてはじめて気がついた。
 ああ、こいつを使って、話してたんだ。
 恥ずかしい話だが、ほんとのことである。

 なにもかも後期高齢者モードにしておかないと、なにをしでかすか、自信がなくなってきたのである。


2013.2.9
 あっという間の1週間だった。
 3日に1回ぐらい買物に行くほか、室内に閉じ籠もりきりだから、書くことがなんにもない。

 月曜日の買い出しに行ったとき、珍しくきれいな虹が出た。半円の隅々まで鮮明に、色も濃く、鮮やかだった。
 多摩でこれほどきれいな虹を見たのは、思い出しても記憶がないくらいだ。

 それで早速、スマホで何枚か写真を撮った。このページに載せよう、という腹があったことはたしか。
 ところがこれまで、携帯で撮った写真を送ったことがなかった。
 若いときはそうでもなかったが、50ぐらいの年から、写真というものに対する嗜好をすべて捨てた。
 取材にカメラは持って行くが、あくまでもメモ用だ。

 偉そうなことを言うつもりはないが、カメラに頼りはじめると、目のほうがおろそかになる。見て、感じた、感銘や記憶が、それだけうすれてしまうような気がして、双眼鏡に切り替えたのだ。
 だから携帯で写真を撮ることはあっても、撮ったら撮ったきり。パソコンに移したこともない。

 今回はじめて、転送してみようと思った。
 まず試しに、かみさんのパソコンへ送ってみた。
 転送そのものは簡単にできた。
 ところが表示が大きすぎ、画面に全部入らないとかで、言われてみるまで、なんの写真を送ってきたのか、わからなかったという。
 そういえば転送するとき、パケット料金がなんとか、という表示が出た。転送時間もずいぶんかかった。

 写真を小さくして送ればいいことは知っている。
 しかしわたしのスマホには、そういうソフトが入ってなかった。使うつもりがないから、買うときに外してもらったかもしれない。
 そこで一念発起、取り説をみながら、写真縮小ソフトをダウンロードしてみた。
 これが手に余ったのである。
 面倒くさいのなんの。
 やれIDだ、やれパスワードだ、やたら細かいことをやらされる。
 それでなくとも、スマホのような小さな画面の文字盤を、大の苦手にしている。何回やっても、打ち損じる。
 わたしなどの指は、こういう機器に縁がないまま育ってきたから、感覚が鈍い。バットを使って、キーを打っているようなものなのだ。

 このときも四苦八苦した挙げ句、先にこちらの忍耐力が切れた。
 えーい、こんなもの、できなくてもかまわんわい!
 と、投げ出した。
 それでお終い。

 だから今回も写真なしであります。


2013.2.2
 火曜日から東京にいる。

 当初は週末に来るつもりだった。ところが雪と大寒波の予報が出たため、恐れをなして延期した。
 さいわい今回の雪はたいしたことなかった。東京に着いたときはすっかり消えていた。

 ところがわが家周辺には、まだかなり残っていた。
 駅でひとつ手前の高幡不動までは、ゼロだったのだ。
 そこから1キロほど、丘陵の間を分け入るだけ。標高でいえば70から100まで、わずか30メートル上がるだけなのである。
 しかもわが家の真ん前には、どかっというほどの雪塊が残っていた。
 よく見ると、前日降った雪ではなかった。先週の、大雪のとき降った残骸だったのだ。
 そのとき除雪して積み上げられたものが、残っていたということだろう。その後だいぶ溶けたものの、今日の段階では、まだしっかり残っている。

 ここへ越してきて、40数年になる。それこそ半世紀近くたってしまった。
 当時はいまよりもっと雪が降り、1回に20センチ積もることは珍しくなかった。ひとたび降ると、北の日陰は1ヶ月ぐらい消えなかった。
 今年の札幌は寒いよと、北海道の友人が言ってきたくらいだから、この冬は例年より厳しいということだろう。

 今回は、仕事で籠もるためにやって来た。だからどうしても外に出る機会は少なくなる。
 2日に1回、買い出しに行くのが唯一の外出。そのときは極力歩くようにし、先日も聖蹟桜ヶ丘まで歩いた。

 距離にしておよそ5キロ。途中多摩川の土手に、河口から36キロという標石がある。標高がその辺りで50メートル。5キロで50メートルの高低差だから、ほぼ平坦といってよい。
 道のほとんどは、遊歩道化された川の土手。春には八重桜のトンネルになるところもある。
 ところがそういう道の割に、歩いて楽しくない。
 けっこう疲れる。ずいぶん歩いたなあと思って、歩数は8000止まりだ。
 同じ川縁でも鴨川のほうは、目先の風景がつぎつぎに変わるから、興趣が尽きない。どこまでも行きたくなる。

 多摩川は逆。だだっ広すぎ、目に見えるものすべてが、遠すぎる。
 流れだってほとんど見えないし、鳥は少ない。空っ風ばかり吹きつのってくる。
 だから気温の割に寒い。
 それやこれやで、歩いて気持ちが引き立たない。無力感にとらわれてしまう。
 要するに体力維持が目的の歩きなのだ。義務感みたいな労役。これでは楽しむ境地にほど遠くなって当たり前だ。

 というわけで、多摩川べりをどうすれば楽しく歩けるようになるか、これからしばらく、試行錯誤しなければならなくなった。


2013.1.26
 法事で高知へ帰っていた。

 かみさんの母親の27回忌だった。
 もう27年たったのかと、時間の早さにあらためておどろく。
 しかし6人の子が、ひとりも欠けることなく顔を合わせられたのは、なによりの大きなしあわせだった。
 みんな年老いたが、それぞれいい顔になった。
 わたしも5人きょうだいで、こちらも全員元気だ。
 みんなが顔を合わせる機会はだんだん減っているが、きょうだいがたくさんいてよかったと、顔を合わせるたびに思う。

 今回は88歳を迎えた上の叔母にも会ってきた。
 米寿のお祝いをしよう、という話が持ち上がったところ、本人がそんなこといやだと言うから、それならというので、わたしが代表して会いに行ったもの。
 甥姪は二十数人いるが、わたしがいちばん年長なのである。

 いつものように、わずか1泊のあわただしい旅行だったが、今回は個人的に、ことさら思い入れ深い帰省になった。
 なにもかも振り捨て、やみくも東京に出て行ったのが、26歳のとき。心理的には家出か、棄民のような上京だった。
 それから満50年になるのだ。
 当時は50年先のことなど、考えられもしなかった。
 20代の若者にとって、半世紀という時間は、想像の埒外。途方もなく先のこととしか思えなかった。
 過ぎてしまえば、まことにあっという間。いま振り返ってみても、なにかやり遂げたという達成感は全然ない。

 なんにも変わりはしなかった。
 肉体のほうは、よぼよぼになった。しかし頭のほうは、すこしの進歩も、深化もしていない。
 どういう環境を与えられようが、人間は、けっして変わるものでないと、いまでは断言してよいと思う。
 周囲の変わりようが、人智や想像力を超えるほどはげしくなっているから、そう思うのかも知れない。
 郷里だからとくにそう。記憶の居場所がなくなりつつある。

 叔母のところから高知へ帰るとき、第三セクターの列車に乗った。
 途中で母の生家の近くを通るのだが、景観が変わり果て、なんの痕跡も見つけられなかった。感傷の湧く間すらなかったのだ。

 帰ってきた翌日、伊丹と高知を結ぶ1日9往復の航空便が、3月から6便に減らされることを知った。
 なんだかなあ、ということばしか出てこなかった。
 それでもわが郷里に変わりはない。おりにつけ、これからも帰るだろう。

 たかがふるさと。されどふるさと。
 記憶だけは、いつまでたっても老いることがないのである。


2013.1.19
 今週も寒かった。
 毎日のように雪がちらつき、今日などは時雨れっぱなしで、周囲の山々がまったく見えなかった。
 水曜日に鴨川を歩いたときは、比叡山の6合目から上が雪化粧をしていた。
 先日の雪が消えてなかったわけで、それくらい低温がつづいていたことになる。
 だから河畔も寒く、冷たくて、とてもゆっくり歩いてられない。鼻水は出る、顔はこわばるで、冬景色を愛でる気分どころではなかった。
 丸太町辺りまではなんとか我慢したものの、そこで気分が萎え、それ以上歩く気がしなくなった。
 こんなに早く尻尾を巻いたのははじめて。夕方から軽く咳が出はじめたから、体調がよくなかったのかもしれない。
 御苑に入り、斜めに縦断して、最短距離で家に向かった。
 林のなかに、縄で囲った一郭があった。
 縄には札がぶら下がっていて「これ以上近寄らず、温かい目で見守ってやってください」といったことが書いてある。
 見ると中央の木に、巣箱が取りつけてあった。写真も掲示してあったが、写っていたのはフクロウのアオバズクだ。
 御苑にフクロウがいるとは聞いていたが、これほど衆人環視の、丸見えのところで子育てをしていたとは思わなかった。
 むろんいまは空っぽ。
 いまでもいたら、この回りはアマチュアカメラマンだらけになって、毎日怒声が飛び交っていることだろう。
 こうなったら春先にアオバズクが帰ってくるかどうか、ぜひ見届けに行かなくてはなるまい。

 そのあと、松の枝打ちをしたところへ差しかかった。落とされた枝に、松ぼっくりがいっぱいついていた。
 それで形がいいのをふたつ選び、持って帰った。
 おどろいたのは翌日だ。
 持って帰ったときは固く閉じていた松毬が、暖かい部屋に置いてあったせいか、たった一日で見事に開いてしまったのだ。
 未熟な実だから、種は持っていない。それが暖かいものだから、種を撒くときがきたと勘違いして、毬を開いたのだろうか。

 ついでにもうひとつ、ちがう松ぼっくりをお目にかけよう。
 こちらの松毬はイラン土産。
 テヘランにあるパフラヴィ王家の夏の離宮から拾ってきた。
 庭師が剪定して、切り落とされていた枝からもぎ取ってきたものだ。
 だから持ち帰ったときは、かみさんがプラスチックの模型だと思ったくらい、青々していた。
 それがいまではこのような色になってしまったが、毬のほうは開いていない。
 イランとは気候風土がちがいすぎ、種を撒くときがきたと、松ぼっくりが勘違いできないでいるのだろうか。


2013.1.12
 京都文化博物館で開かれていた『八瀬童子』展に行ってきた。
 特別講演会があり、赦免地踊りが公開されるというから、見に行ったもの。講演会が、目から鱗の内容だった。

 八瀬は比叡山の麓にあり、大原へ行くとき必ず通るから、たいていの方がごぞんじだろう。
 炭と薪、柴ぐらいしか産しない寒村だ。
 一時はかま風呂を売りものにしていたこともあり、最盛期には16ものかま風呂があった。
 わたしがはじめて京都へ行ったのは、中学校の修学旅行のとき。そのおり、八瀬からケーブルカーで比叡山に登った。
 18歳のときは、かま風呂にも入った。
 炭焼き窯風の和風サウナだが、いまでは廃れ、保存用の窯がひとつ残されているだけだという。

 八瀬童子とは、この八瀬の地で暮らしてきた人たちのことである。
 古くから朝廷や、比叡山と密接な係わりをもってきたことが、ほかの地区と大きくちがう。
 後醍醐天皇が足利尊氏に追われ、比叡山に逃げ込んだとき、八瀬の人が、道案内をしたといわれている。
 八瀬はその功として、永代諸税免除の特典をもらった。
 特典は以後連綿と引き継がれ、昭和20年までつづいたのだ。
 明治以後は公務員として宮内庁に出仕し、雑務に従事した人もいた。天皇の大礼や大喪のとき、輿を担いだのである。

 ただ詳しい歴史は、これまであまり知られていなかった。
 資料が秘蔵され、一度も公開されたことがなかったからだ。
 学術調査がはじまり、全資料が公開されたのは、近々平成5年のことにすぎない。
 そして平成22年、そのうちの741点が、国の重要文化財に指定された。今回はそれを記念しての展示会だった。

 庶民しかいない山間の小さな村落に、後醍醐天皇から明治天皇まで、天皇の公文書である綸旨が、15枚も発行されているのだからおどろきだ。
 大正天皇の大喪や、昭和天皇の大礼のとき、輿を担いだ人たちが身につけた装束も、今回はじめて公開された。
 まさにタイムカプセル。よくぞこれほどの資料が、大切に保存されてきたと感服する。
 しかし昭和天皇の大喪のときは、輿を皇宮警察の警察官が担いだ。なぜ八瀬の人たちに担がせなかったか、おおいに憤慨したものだが、事実はちがっていた。
 あの輿がじつは大変な重量で、現在128世帯の会員しかいない八瀬の人にとっては、負担が大きすぎ、その責を果たせなかったということだった。
 頑強な警察官の体力をもってしても、閉口する重さだったらしいのだ。

 赦免地踊りは、江戸時代のはじまり。
 比叡山の入会権を巡って延暦寺と争いが起こったとき、幕府が周辺のほかの山を、赦免地の代償として差し出したことを記念して生まれた踊りだ。
 灯籠をかぶって踊る、灯籠踊りの一種である。
 灯籠には精巧な切り絵が飾りつけられ、かぶるのは、女装した10代の少年。
 ただし、飛んだり跳ねたりするような踊りではない。恐ろしくテンポのろい唄や囃子に合わせ、そろそろと練り歩くだけ。
 灯籠の重さが5キロあるというから、身軽には動けないのだ。
 足下も見えないそうだから、大人がひとりずつ介添えにつき、灯籠を抱え持ちながら一緒に歩く。
 いまのテンポには合わないが、真っ暗な森のなかで、蝋燭の明かりに照らされた灯籠が、ゆらめきながらぼうっと浮かび上がってくる姿は、想像するだに幽玄である。

 残念ながら写真撮影は許されなかった。終ったあとの、灯籠のアップだけお見せする。


2013.1.5
 明けましておめでとうございます。
 よい新年を迎えられましたか。
 わたしどもも、ふたりきりの、静かで、落ち着いた正月を過ごしました。

 初詣は上賀茂神社に行ってきた。
 北山まで地下鉄。そこから30分ほど歩くコースをたどったのだが、出てくるときは上天気だったにもかかわらず、一天にわかにかき曇り、一時は激しい雨になった。
 ふたりとも傘を持っていなかったから、びしょ濡れ。だが周囲の人の8割方は傘を持っている。これでは、持たないで出かけたほうが迂闊、ということになるだろう。

 しかし雨は30分ほどで止み、あとはくっきりと青空になった。
 境内で焚かれていた大焚き火で躰を温め、服を乾かした。
 下賀茂神社でも初詣の日には大焚き火が燃やされていたが、こういうサービス、ほかのところでもやっているのだろうか。

 帰りも同じコースをもどってきた。
 というのも、駅の近くにある有名な菓子屋の本店で、お茶とケーキをいただいてこようという腹づもりをしていたからだ。
 ところが繁華街から遠く離れた地にもかかわらず、店の前には行列が。
 喫茶の待ち客はそれほどでもないというから、しばらく待ってみたが、いっこうに席が空かない。とうとうしびれを切らして帰って来た。
 おかげで電車代と、お賽銭以外は出費ゼロ。財布はありがたかったかもしれないが、腹の虫のほうは治まらない。

 それで今日、かみさん推薦の、銀閣寺近くにある甘味処へ、雑煮と豆かんを食いに行ってきた。
 雑煮は京風の白味噌仕立て。
 はっきりいってわたしの好みではなかったが、先入観はうれしいほうに覆された。餅と生麩しか入っていないシンプルな雑煮で、豆かんはそのおまけだ。

 住宅街の中の小さな店なのに、引っきりなしに客が来る。われわれも5分くらい外で待たされた。
 ただし今日は雪がちらつく、この冬一番の寒い日。
 家を出てきたときは快晴だった。それが途中からがらっと変わり、以後はずっと降り止まず。今年の運勢を暗示するみたいな天気になった。
 哲学の道の近くだったから、帰りはすこし歩いた。
 それで気になったのが、東山の山中に、点々と赤い木が見えることだ。それも真紅の赤なのである。
 東山というのは、カシやシイの照葉樹林が多い。だから冬でも山は青黒い。
 半端な赤だったら埋没してしまうのだが、大きく枝を広げ、ものすごく目立つ。それくらい背の高い、鮮やかな紅葉なのだ。
 双眼鏡で観察してみると、葉っぱではなかった。木の実のようだが、いまの季節、こんな実をつける木なんて知らない。

 そのあと吉田山に寄り、麓にある吉田神社でお参りをした。すると神社の境内に、同じ木が1本あった。
 社務所で聞いたところ、タマミズキだと教えてくれた。
 帰ってネットで調べてみると、高さが20メートルにもなる、モチノキ科の落葉樹とある。
 いま見えているのは、葉を落とし、実だけになった木だ。南天のような実が、鈴成りに、びっしりついているのである。
 東山にこんな木があるなんて知らなかった。
 社務所の人の話によると、今年はとくに実をたくさんつけているという。例年は、それほどでもないらしいのだ。

 この木、静岡と福井以西でしか自生しない。関東では見られないのである。
 画像が小さいのでわかりにくいかもしれないが、写真を1枚添付しておきます。

 本年もよろしくお願いいたします。



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