Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2012年9月までの「きのうの話」へ





 

2012.9.29
 やっと涼しくなったと思ったら、この3日、また30度以上の気温がつづいている。
 今週ようやく、部屋の冷房を止めた。これまでつけっ放しだったのだ。

 朝夕しのぎやすくなった一方で、裏の建設工事の音がうるさくなった。
 松坂屋本店の跡地がホテルになるのだが、文化財級の立派な町屋建築が無造作に取り壊され、春から更地になっていた。

 すぐ建設工事がはじまらなかったのは、埋蔵文化財の調査が行われていたからだ。
 昨日六角堂の前を通ったら、その真ん前でもマンションの建設工事がはじまっていた。同じように埋蔵文化財の調査中という掲示が出ていたのだ。

 どうやらマンションの建設には、工事の前に、埋蔵文化財の調査が義務づけられているようだ。
 いま住んでいるマンションがそう。玄関ロビーの隅にガラスケースが置いてあり、建設時に出てきた瓦、磁器、土師器などが展示してある。

 それによると当マンションは、かつての南蛮寺の跡だったとか。
 キリシタン時代の寺だから、絵が1枚残っているほか、なんの痕跡も残っていない。発掘品が状況証拠になるだけである。
 とはいえ、発掘によって新たな発見があったから、遺構を残すとか、現場を保存する、とかいった話は聞いたことがない。

 京都に住みはじめて4年。この間おびただしい町屋が取り壊され、マンションになった。
 マンションの住人は、分譲住宅の住人は町民資格を得るが、賃貸の住人はちがう。わたしは賃貸なので、町民に入れてもらえないのである。

 この町の誇りは祇園祭の山鉾を持っていることだ。ところが最近は、古くからの住民だけでは、鉾の組立ても、巡行もままならなくなってきた。
 それで今年辺りから、希望する人はどなたでもご参加くださいと風向きが変わってきた。

 祇園祭が町民とは縁もゆかりもない人の手による、ただの観光イベントになってしまう日も遠くないような気がする。


2012.9.22
 奈良の正倉院へ行って来た。

 昨年から屋根の葺替え工事が行われており、その第2回特別公開を見に行ったもの。
 正倉院は桂離宮などと同じ宮内庁の管轄だから、見学は事前に申請しなければならない。
 京都だと御所のなかに宮内庁があるから、そこへ申し込むと、後日見学日と、時刻を指定したはがきがくる。
 とはいえ手続きしてくれたのはかみさん。わたしはのこのこ出かけただけだ。

 竣工するまであと2年かかる大工事なので、建物はいま巨大な素屋根で被われている。
 見学者はそこに設けられたデッキを上がり、屋根瓦の外されたところまで行って、建物の構造から瓦の実物まで、子細に観察することができる。
 いちばん最近の解体修理は大正時代だったというから、約100年まえだ。建物自体はほぼ建設当時のままらしいから、こちらは1200年以上むかしになる。

 歴史や建築に興味のある人なら、わくわくするような催しで、事実今回も1時間あまりがあっという間に過ぎた。
 このあと工事の進捗状況に応じ、まだ何回か公開されるそうだから、完成したとき、もう一度行ってみたい。

 正倉院展には何回か行っているし、正倉院のそばも、何度か通っている。
 はじめて通りかかったのは、忘れもしない、18のときだった。もう60年近いむかしのことだ。
 友人とふたりで奈良へ遊びに行き、東大寺をはじめ、あっちこっちうろついた。
 するといきなり、なにかで見覚えがある倉の前に出た。
「おい、これ、正倉院じゃないか」
 と、はじめは半信半疑だった。

 正倉院の名前くらい知っていたが、詳しい歴史など知らない。ガイドブックも、観光情報もなかった時代だから、実体は知らないに等しかった。
 それがいきなり、目の前にぬーっと現れたから、びっくりしたのだ。
 はじめて実物を見たときの感想はというと、素朴きわまりなくて、古臭くて、埃っぽくて(周囲の道が舗装されてなかったように思う)、その上拍子抜けするぐらい小さかった。
 へー、正倉院てこんなものだったの、と半分がっかりしたのだ。

 今回場内でガイドをしてくれていた係官の話によると、高床の下に人が住みついていた時代もあったとかで、そのときの焚き火の焦げ跡がいまでも柱に残っているとか。
 わたしが行ったころは、さすがに人は住んでいなかったが、柵もなければ、塀もなく、丸裸の建物が、道路ぶちにぽつんと立っているだけだった。
 守衛ひとりいなかったのである。
 だから高床の下へ自由に入り、柱に触ったり、床の天井まで手を延ばしてみたりすることができた。
 おおらかというか、無神経というか、そんな無防備な状態で、よく今日まで無事生き延びてきたものだと感心する。

 そのときも正倉院のあと、最後は転害門という汚らしい門に出て、そこから帰った。
 転害門が数々の兵火にも遭わず、唯一生き残っている奈良時代の遺構として、国宝に指定されていることを知ったのは、だいぶあとになってからだ。

 今回も寄ってきたが、いまでは柵で囲われ、門を潜ることも、建物に触れることもできなくなっていた。当時は見捨てられたような、みすぼらしい門だったのだ。
 そういう意味で、60年近い歳月というのは、けっこう大変な時間なんだなという気がする。価値観から歴史観まで、一変させることだって可能な時間なのだ。

 人間が物見高くなってくるにつれ、治安は悪くなる。歴史遺産を末代まで残そうとすれば、より高い塀が必要になる。時代がいくら進歩しても、人間の進歩がそれに伴うことは期待できそうもないようだ。


2012.9.15
 このところ寝不足がつづいている。それが高じて、いまや不眠症気味だ。

 最大の原因はこの暑さだろう。9月も半ばだというのに、京都はいまだに34度前後の気温がつづいている。
 これではなかなか安眠できない。
 こないだ会ったある知り合いは、冷房をぎんぎん効かせた上、掛け布団をかぶって寝ていると言った。

 これは体力があるからできること。
 冷房風邪を引いて以来、冷風に対する抵抗力がなくなったみたいで、このごろは冷たい風がじかに当たるのを躰がいやがるようになった。

 冷房の温度も室温の1度下、だいたい28度に設定している。
 これくらいの温度だと、快適な涼しさとはいえなくなる。
 蒸し暑い夜だと、躰を動かさなくても汗ばんでくる。背中にあせもができ、いまや孫の手が手放せないありさまだ。

 部屋に籠もっているときは、安楽椅子に腰かけ、パソコンを膝の上に載せている。
 仕事をするのも、ネットをするのも、すべてこの格好。つまり1日の大半をこの姿勢で過ごしている。
 だからパソコンに向かったまま、寝入っていることがよくある。
 ところが、じゃあ寝ようと思って横になると、もう頭のスイッチが切り替わって眠れないのだ。

 1日に何回も小刻みに寝ているから、合わせたら3時間くらいは寝ていると思うが、熟睡感がないから頭は重く、ときには目眩がして、とても仕事にならない。
 限界になると、睡眠薬を半錠飲む。すると朝までぐっすり眠れるが、薬が残るため、朝めしを食ったあともう1回寝直さなければならない。

 つまり翌日も午後にならないと頭が使えないわけで、この時間ロスがばかにならない。
 仕事をしているときは寝ていても、頭のなかに意識が残り、いい意味でテンションを持続させてくれている。
 それを睡眠薬で10数時間途切れさせてしまうと、元へもどすのに苦労するのだ。

 じつは来月、海外ツアーに出かけようと思っている。
 かみさんが体力的につらくなり、もうわたしは断念すると言いはじめたから、これからはひとりで行く。
 とはいえわたしも、ハードな海外ツアーができるのはあと数回だと思う。だから今回は多少無理をしても、その時間をつくり出そうとやりくりしているところなのだ。
 しかし前後も入れて1ヶ月空白ができてしまうわけだから、ある程度いまの仕事の目処は、つけておかなければならない。

 ということで、いまはのんびり寝ている余裕がないのだ。
 とにかくもうすこし涼しくなってくれないと、仕事がはかどらないのである。


2012.9.8
 ジムで首の筋を違えた。

 躰の調子がよくなってきたから、有酸素運動を増やそうと、心がけはじめた矢先のことだった。
 とはいえ、無理なことはしていない。
 はじめに20分かけてストレッチをやり、そのあとマシンを使った筋トレを20分、それからウォーキングを30分というのが、だいたいの日課だ。
 調子が上がってきたから、前回よりウォーキングの時間を40分に増やしていた。
 10パーセントくらい傾斜をつけるが、速度は3・5キロ。けっして息が切れるような設定ではない。

 ところがその前の筋トレのとき、すこし力みすぎたようだ。
 首筋にぎくっときたから、あわてて止めたが遅かった。
 以後動かすのも、曲げるのも不自由になって、しかも痛みを伴う。

 いまは気をつけながら、こわごわ動かしているが、元の状態にはほど遠い。回復には思いのほか時間がかかりそうだ。

 軽率だったと言われても仕方がない。何度も言うことだが、後期高齢者だという自覚がいまだにないのである。
 自覚したら、ジムなど行けなくなるかもしれない。なにもしないでいるほうが、平穏無事に過ごすいちばんのこつ、ということになってしまうからだ。

 ものを食うたびにこぼしはじめたのも、最近の情けない変調のひとつ。
 かみさんにたびたび指摘されるが、口の回りに、食いものがいっぱいつきはじめた。
 そういうかみさんだって似たようなもので、しょちゅうこぼしている。しかもこれまで、噛んだことのない口の中を噛みはじめたと嘆きはじめた。

 だがいちばん情けないことは、ものを食っているとき、いきなりむせ込んで、そこらじゅうに口のなかのものを噴き出してしまうことだ。
 気管に食いものが引っかかって起こることだが、前触れなしのいきなりだから、防ぎようがない。
 そのうちどこかで、みっともない大失敗をやるのではないかと、人前に出るのが、だんだんいやになってきた。
 公式の場へ出ることは、もう遠慮しますという宣言を、そろそろすべきなのかもしれない。

 人と接するのは、文章だけにしておいたほうが、まだぼろを出さずにすませられるのである。


2012.9.1
 やっと風邪を治した。抜けきるまで1週間。いつもよりだいぶ早かった。

 今回は必死になって食ったから、それがよかったのだろう。肉食中心にしたのだ。
 豚バラ肉など、最近あまり食わないのだが、今回はそれをむりやり食った。この際脂っぽいもののほうが、咽を通りやすかったからだ。

 寝るときは冷房なし。窓を開け放し、長袖シャツを着て、汗だくになって寝た。
 ほぼふだんと逆のことをしたわけで、ひたむきだった。それがよかったのだろうと、勝手に思い込んでいる。

 今週は糖尿病の定期検診にも行ってきた。前回の6月、いまだない最悪の数値が出たから、こっちも気合いを入れて食事の改善をした。
 パンをはじめとする、糖質の摂取を極力減らし、朝はシリアルと、生野菜、動物性タンパクというメニューにして、ばりばり食った。
 おかげで数値がだいぶよくなった。

 ただし糖尿病の目安となるHbA1cの表記方法が今年から変わったとかで、しばらくは従来の数値と併記される。新表記のほうが厳しいのである。
 だからよくなったといっても、1年前のレベルにもどった程度。大幅な改善とまではいかなかった。
 とりあえず2ヶ月後の次回検診まで、いまの食事療法をつづけるつもりだ。

 ジムにも行きはじめた。
 お盆が過ぎたから人がもどってくるだろうと思っていたところ、まだがらがら。
 この暑さのせいだろうか。わざわざ躰を苛めてまで、汗をかきたくないのだ。
 ジムばかりではない。デパート、盛り場、どこもがらがらである。

 京都は本日も36度。最高気温が30度以下になる日が、ただただ待ち遠しい。


2012.8.25
 風邪を引いた。冷房風邪である。
 京都に帰ってからというもの、暑すぎるのに閉口していた。連日35度前後の気温がつづき、体力、気力とも参ってしまったのだ。
 多摩のほうがよほどしのぎよかった。
 京都の夏がつらいのは、朝になっても気温が下がらないことだ。

 窓を開け放しておいても、室内気温が30度以下になることがない。
 当然冷房はつけっぱなし。
 日曜日にそうやって、朝8時まで仕事していた。ずいぶん頑張っているみたいだが、事実は逆。
 暑すぎて寝つけないまま、気がついたら朝を迎えていたということ。

 用心して、快適にほど遠い温度設定で我慢しているから、だらだら仕事をして、だらだら朝を迎えただけである。
 朝めしを食って寝て、目が覚めたときは15時になっていた。24時間近く、クーラーの風を受けつづけていたことになる。

 気がついたときは躰がだるく、節々が痛くなって、寒気がしはじめた。典型的な風邪の症状だ。
 いつものことだが、一旦風邪を引くと、軽く治まることがない。
 どどどっと悪くなって、瀕死の病人みたいなところまで行かないと、快方に向かわないのである。
 その間ろくに食えなくなって、仕事もできなくなる。

 今回はなんとしても早く治したかったから、夕食にステーキを注文してむりやり食ってみたが、半分くらいしか食えなかった。
 素麺とか冷奴とか、そういうものしか、胃が受けつけなくなるのである。

 今日で5日。この間仕事はほとんど進行していない。
 じつはこの秋、海外ツアーに行きたくて、その予定のもとに仕事をすすめていたから、このロスは痛い、痛い。

 とにかく日本の夏は、老人にとって苛酷すぎる季節になってしまった。
 躰をこの気候に合わせようと思ったら、夏に対する常識から改めなければならなくなったような気がする。


2012.8.18
 オリンピックが終わって、ほっとしている。今回もテレビはまったく見なかった。

 テレビのない生活に慣れてしまうと、音声と画像の出る装置が、いつも間近にある暮しのほうが異常に思え、ますますテレビ嫌いになってしまった。
 かみさんに強制するのは悪いから、家ではあまり言わない。テレビを見ているときは、自分の部屋に逃げ込んでしまう。
 しかしテレビがついていると、ついつい不機嫌になってしまうことは否めず、このごろはかみさんも遠慮して、一緒のときはスイッチを切るようになった。悪いなあと思う一方、ほっとしている部分もある。
 画像はともかく、アナウンスが嫌いなのである。

 とくにスポーツ実況は、アナウンサーのなかで、できの悪いのばかり集めているかと思えるくらい、レベルが低い。
 それを本人はわかっていないし、テンションを上げさえすれば、視聴者がよろこんでくれるとばかり、やたらと声を張り上げるから始末が悪い。

 画像のほうはまだ、見ないという意志表示による選択の余地がある。
 ところが音声は、いやでも耳に入ってくるから、逃げようがない。
 いちばんいらいらするのは、エンドレスのアナウンスだろう。

 駅、公共施設、商業施設等、いまやあらゆるところにはびこっている。いまのマンションのエレベーターにも、この装置が取りつけられているのだ。
 乗るたびにいちいち、上へまいりますだの、扉が閉まりますだの、知らせてくれる。
 おおきなお世話である。それくらいのことは、自己責任の範囲だからだ。
 現代社会は、こういう音声に対して、ますます鈍感になろうとしている。
 余計なアナウンスなどやめろ、と主張しようものなら、エゴだと決めつけられかねない状況になっているのだ。

 むかしどこかの団地で、子供が練習するピアノの音に耐えられず、大トラブルを起こした挙げ句、殺人まで犯した男がいた。
 犯人は孤独な中年男だったと覚えているが、死刑判決を受け、上告しないまま刑に服したと聞いている。
 本人にしてみたら、騒音に充ち満ちた世のなかを、これ以上我慢しなければならないくらいなら、死んだほうがましだということだったのではあるまいか。
 ことの是非は抜きにして、この男の絶望感だけはわかるような気がする。

 オリンピックは終わったが、まだ高校野球をやっている。


2012.8.11
 1ヶ月ぶりに京都へ帰ってきた。

 ところが躰の調子がおもわしくなく、帰って来た途端、寝込んでしまった。
 そんなに疲れていたとは思わなかったのだが、このところばたばたしていたから、疲労がたまっていたのだろう。

 帰ってくるときから、ちょっとようすがおかしかった。新宿行きの電車に乗ったまま眠りこけてしまい、新宿駅でだれも起こしてくれなかったため、そのまま折り返して2駅乗り過ごした。
 この間まったく記憶なし。寝ていたというより、一種の人事不省に陥っていたような気がする。

 その前日も新宿へ行ったおり、帰りの電車で眠ってしまい、目が覚めたら高幡不動だったからあわてて降りたら、特急で3つ手前の府中だった。真っ昼間のことである。

 熱中症にかかるほどのことはしていないのだが、昼も夜もない暮しをしていたから、躰のリズムが狂ったのだろう。
 人と会う約束をすると、出かける時間に合わせてリズムを変えなければならず、それがけっこうストレスになるのだ。

 それにしても暑い。

 京都へ帰ってきたら、午後7時前という時間だったのに、もわっとする熱気。風がないから、夜になってもまったく涼しくならない。
 多摩は夕方になると気温が落ち、ずいぶんしのぎやすかった。京都はコンクリートに囲まれた街の真ん中だから、涼しくなる要素がないのである。

 一方で朝起きてみたら、シャワシャワシャワシャワとものすごい蝉の鳴き声。
 木なんか1本もないのに、どこで鳴いてるんだと思ったら、マンション1階の庭付き住宅の木に集まっているのだった。
 それほど大きな木立でもないのに、こういうところで束の間の夏を謳歌しているのかと思うと、たくましいとも、気の毒とも言いようがなく、なんだか切なかった。

 せめてこの蝉の元気を、いくらかもらおう。2、3日もしたら立ち直ります。


2012.8.4
 また郷里へ帰っていた。

 危篤状態だった叔父がとうとう亡くなったからである。
 昏睡に入って45日。この間咽を切開して空気を通す施術までされ、むりやり生き延びさせられてきた。
 つぎは胃に穴を開けて栄養剤を送り込む胃瘻が待ち受けていたわけだが、それはわれわれが拒否した。結果として、それが死を早めたことになる。
 それでも最後は体中がむくみ、触っただけで水分がにじみ出るありさまで、死に顔ときたら見られたものでなかった。躰が硬直して、着せ替えもさせられなかったのだ。

 こういう医療行為が、日本中でごく当たり前に行われているのかと思うと、憤り以外のなにものも覚えない。
 日本の老人医療、とくに末期医療は、ヒューマニズムに名を借りた、経済行為そのものなのだ。老人医療が国を疲弊させているのである。

 叔父は躰も大きく、頑健で、内蔵にはどこも悪いところがなかった。収骨のとき、目をみはったぐらい骨格がしっかりしていた。
 この分だと、事故にさえ遭わなかったら、100まで十分に生きたろうと、みんなで話し合ったくらいだ。

 叔父には子がいなかったため、母方の実家は、これで絶えたことになる。
 田や畑、家などが残されたが、あとを引き継ぐものがいないのだ。
 叔母が以前から、そういう始末をきちんとしておくよう言っていたらしいが、あとはおまえたちで好きなようにしたらいいが、といった返事で、なにもしなかったらしい。

 財産争いが起きるようなものではないが、未処理の不動産があとに残されるのも、残されたものにしてみたら、迷惑以外のなにものでもない。
 家を取り壊すにしても、田舎では更地にして処分するより、解体料のほうが高くつくのである。
 一方、叔父の貯えが底を突きかけていたことも、死後になってはじめてわかった。

 叔父はこの10数年、私営の老人ホームで暮らしていた。車にも乗っていたし、旅行にもよく行っていたから、年間の経費は、300万ぐらいかかっていたのではないだろうか。

 きょうだいやわれわれが控えていたから、路頭に迷うことはなかっただろうが、もっと長生きしていたらどうなっただろうと、わが身に当てはめて、考え込まざるを得なかった。

 いまはもう、いかに長生きするかを論じる時代ではなくなっているのだ。
 もし長生きしてしまったら、どうやって暮して行くか、それがいちばんの脅威となっている時代なのである。


2012.7.28
 連日うだるような猛暑がつづいている。

 ところが京都はもっと暑いらしく、東京が34度だった今日は、37度を越えたとか。
 夜10時すぎの外気温が32度。昼間、汲んだ水道水があまりに温かいので、水温を測ってみたら30度あったそうだ。

 今日は都心で外食してきたせいか、夕方になっても腹が減らなかった。外食はだいたい高カロリーなのである。

 じつは病院が変わったのをいいことに、糖尿病検診をその後ずっとサボっていた。
 とくに前回の東京では、食いたいものを食い、気持ちがかなりゆるんでいた。
 さすがにまずいと思い、先月おそるおそる病院に行った。半年ぶりの検診である。
 案の定というか、それ見たことかというか、これまでなかった最悪の数値が出た。
 遅まきながら、猛反省した。

 それで今回の東京は、食事内容をがらりと変えた。炭水化物の摂取を抑え、野菜中心のローカロリー食に切り替えたのだ。
 あれほど好きだったパン食をぴたりとやめた。外食も週に1回と決め、ほぼそれを守った。
 朝食はパンに代え、牛乳入りのシリアルにした。調べてみたら、いろんなシリアルがあった。
 いま3種類のシリアルをそろえ、順に食い比べているところだが、手軽さということから言えば、パン以上だ。

 味覚で言えば日本のシリアルがいちばんうまい。だが食事用というより、子どものおやつ用としての性格が強く、砂糖がふんだんに使われている。
 一方外国産は、完全な食事用だ。砂糖不使用や、果実やナッツ類の配合率を変えたものなど、内容も多彩である。
 産地もアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、スイス、ドイツと、手近のスーパーやデパートを回っただけで、これだけのものが手に入る。

 雑穀米も最近は種類が増え、チンすればいいパック米だけで10種を越える。これもただいま試食中だ。
 炊飯する場合はコメ7に、国産15雑穀を3の割合で混ぜ、水をすこし多めにして炊くと、うまいめしができる。

 野菜の主役は、いまの時期だと枝豆。
 茹でたものを常時備えておき、毎回食事のはじめに食っている。食う全体量をそれだけ減らせるからだ。

 昼食や、小腹の減ったときは玄米餅。これを1、2個オーブントースターで焼き、きな粉で食う。
 複雑な味覚一切なし。手の込んだ調理さらになし。
 昨今の味覚からいえば、粗食ということになるかもしれない。
 しかし戦前戦後の食糧難を経験している世代としては、とびきり贅沢な食事だという気がする。いたく気に入っているのだ。

 これで来月の検診は乗り切れるはずだが、胃腸の具合がいいから、これからもつづけようと思っている。


2012.7.21
 このくそ暑いのに音頭取りをしてくれる暇な友人がいて、箱根に行って来た。恒例になっているかつての職場の同窓会である。

 集まったのはふた組の夫婦を入れて14人。60代がたったひとりしかいない超年寄り集団だ。
 体調が悪くて来られなかったものや、薬のお世話になっているものが年々増え、あと何回集まれるかなあという実感が、さらに切実さを増してきた。
 そういう未練もあって、翌日もあっさり帰って来る気になれず、アッシーくんがひとりいたのをさいわい、伊豆まで足を延ばして伊東でもう1泊してきた。

 来年で50年になろうかというつき合いだから、お互い気心は知れている。
 こういう友人を持てたことこそ、人生の最大の収穫ではなかったかと思うのだ。
 そしてわたしは、酒を酌み交わしながらみながだべっているところを、なんとなく聞いているのが、無上に好きである。
 仕事に対する意欲だとか、予想外のヒントだとかが生まれてくるのが、こういうときだからだ。

 一方で、温泉都市伊東の寂れかたには、胸が痛んだ。夜の7時過ぎにコーヒーを飲みに出かけたらとっくに閉まっているし、そぞろ歩きの温泉客など見かけもしない。
 それで下田とか、松崎とか、もっと遠いところが余計心配になってきて、折りがあったら一度見に行こうか、という話まで出た。

 20代の半ばから40代にかけて、釣りに熱中していたこともあって、伊豆くらい頻繁に出かけたところはなかった。
 行ってないところがないのである。今回地図を見ながら拾い上げてみたら、30くらいの地名がすぐ上げられた。
 宿泊した延べ日数だって、100泊なんてものではないだろう。

 よくそれだけ遊んだものだと感心する。金はなかったけど、暇だけはあったのである。
 それが自分たちの青春だったとするなら、風光明媚で、素朴な伊豆のいちばんいいところを、十二分に楽しませてもらった。

 帰りは、アッシーくんの住む相模大野で電車に乗り換えたが、伊豆からもどってくると、相模原が活気に満ちた大都会に見えた。

 息の根が絶えてしまった地方と、東京および首都圏との落差には、言うべきことばがない。


2012.7.14
 パソコンが直ってもどって来た。

 修理ではなく、新品に交換してくれたみたいだ。しかも保証期間中とあって無料。なんともありがたい。
 しかし考えてみると、サービスのよさを誉めるべきなのか、こんな製品を市場へ送り出したことを責めるべきなのか、ちょっと複雑な心境だ。

 ワープロからパソコンへ、合わせると30年以上のユーザーになる。パソコンだけで10社の製品を使ってきた。
 しかし液晶画面が不良になったのは、今回が初めて。これまで経験したトラブルのなかでも最大だ。

 しかしおかげで、せっかく役に立ちはじめたXPが、たった数日でお払い箱になった。
 いっそ東京用として、こちらへ置いておこうかと思わぬでもないが、軽量ノートにはディスクドライブがついていないから、手許に置いておかないと、なにかのとき困る。
 やはりまた持って帰ることになるだろう。

 先週京都へ遊びに来たかみさんの友だちは、3泊と4泊して帰ったとか。
 うちひとりが滞在中、かみさんのパソコンを使って、自分のメールのやり取りをした。
 帰るとき、その設定を元にもどしてくれたそうだが、かみさんがメールを使いはじめたところ、なにかの拍子に日本語表示が出なくなったといって、電話してきた。

 ちょっとしたキーの打ちまちがいが原因だろうが、基本的なことがわかっていないかみさんは、こうなると、たちまちお手上げなのである。
 こっちだって、目で見ていないからなんとも言えない。心当たりをあれこれやらせてみたけれど、電話では、靴の上から足を掻いているようなもので、うまくいかない。
 最後は業を煮やして、わたしが帰るまで待てということになった。

 かみさんはそれまで待ってられなかった。
 京都の友だちに相談。するとご主人が見てやろうと言って、ふたりで家まで来てくれ、直してくれたとか。

 なんだ。亭主なんて、いらないじゃないか。
 亭主の存在価値など、ますます希薄になるばかり。このまま帰らなくても、いいんじゃないかなあ。


2012.7.7
 月曜日に東京へ出てきた。

 当初の予定では10日以後にするはずだったが、かみさんの友だちが遊びに来るというから、これ幸いと前倒しして、逃げ出してきた。
 おかげで快適な独身生活を送っている。

 今回はパソコンをふたつ持ってきた。
 ディスプレイの染みはその後も順調に成長。長さが2センチを越えたから、東京で修理に出そうと、予備ノートも持ってきたのだ。

 染みのほうは、メーカーに電話して、向こうが指示する通りに操作してみたが、取れない。結局メーカーに送って、見てもらうことになった。
 注文したときの明細書や、品質保証書が、すべて取ってあった。それが今回役に立った。
 品質保証期間が3年。購入して2年。無償になるか、有償になるか、それはまだわからないが、とにかく修理してもらえることにはなった。

 おどろいたことに、電話した翌日、専門業者が、梱包ケース持参でパソコンを引き取りに来た。修理が終わったら持ってきますという。
 アフターサービスなんて、名ばかりだろうと思っていたから、びっくり。それもこれも、保証書や購入明細書があったからのこと。
 よくぞ残しておいた。というより、たまたま残っていた、ということだが。

 おかげで予備役だったXPが、いま張りきって、さくさくと仕事をこなしてくれている。
 考えてみると文書作成しかしないわたしのようなものには、あたらしいパソコンなんか必要なかったのだ。

 しかしそうなると、あらためて目の上のたんこぶになるのがADSL。じつに遅い。
 このまえある人が、ケーブルTVのインターネットが早いと教えてくれた。
 それで地元のケーブルTV会社に電話してみた。すぐ見に来てくれた。
 ところがやはり、線が引っ張れないのである。
 地域の共同受信組合のケーブルが入っているから、これが使えるかと思ったら、だめだった。

 これでわが家は、最新のITシステムから永遠に見放された。
 と思ったら、なんの、まだ救いの神がいた。
 WIMAXという無線方式によるインターネットシステムがあった。
 スマートフォンと同じ原理で、スマホが使えるところならどこでも使える。わざわざコードを引く必要もない。
 調べてみると、それに対応したパソコンもいくつか出ている。

 するとまた、あたらしいパソコンを買わなければならないのだろうか。悩みのほうが永遠に尽きないようだ。


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