Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2010年9月までの「きのうの話」へ





 

2010.9.25
 3連休が終わる最後の日に、ようやく京都へ帰ってきた。京都の気温が東京よりずっと高かったからで、帰ってくる気がしなかったのだ。
 ほかの用があったから仕方なく帰ってきたが、たちまち後悔した。京都の暑さは東京より悪質だ。はるかに蒸し暑いのである。

 昨日から雨が降り、今日など最高気温は27度と一気に下がった。しかし外へ出ると、すぐ蒸し蒸ししてくる。不快指数は下がっていないのである。
 明日からまた気温が上がるらしいが、紀州へ取材に行かなければならない。着替え類をどうしようかといま困っている。今回は初対面の人を訪ねるので、デイパック姿でのこのこというわけにいきそうもないのだ。

 スイスへ行った際、不要なカードをまとめて仕舞い、それがわからなくなって、デパートで買い物ができなくなったと書いた。そのときは多摩の家に、忘れてきたとばかり思いこんでいた。
 それでこのまえ、多摩へ帰るなりすぐさま探した。ところがいくら探しても見つからないのだ。それこそありとあらゆるところをひっくり返してみたが、どこにもない。
 考えられることはたったひとつ。2週間以上もの留守をするから、泥棒が入ってきても見つけられないようにと、浅はかにもいつもとちがうところへ隠したか、仕舞ったかしたにちがいないのだ。
 それがどうしても見つからない。おしまいには、隠したと言い切れる自信までなくなった。
 隠したはずだが、ひょっとするとそれは、東京へ来てからのことではなく、京都の家だったかもしれないと、迷いだしたらきりがないのである。

 要するにふだんとちがうことは、絶対してはならないとわかっていながら、浅はかにもまた同じことをしてしまったということ。わが性懲りのなさにはつくずく愛想が尽きる。
 というわけで、京都へ帰ってくると、またすぐさま家探しだ。しかしやはり出てこなかった。

 こうなると万事休す。しようがないからデパートのカードだけは3枚、再発行してもらう手続きをしに行った。
 いつ、どこで、どのようになくしたか、あるデパートでは根掘り葉掘り尋ねられたが、家のどこかにあると思う、としか答えようがないのだ。盗難ではないと思うが、それすら自信がなくなってきた。

 いまのところまだ、クレジットで買い物をされたという事実は上がっていないそうだが、ほかになくなったカードがあるかどうかも思い出せない。当分おっかなびっくりで暮らす羽目になりそうだ。


2010.9.18
 まだ東京にいる。京都があまりに暑いので、帰りたくなくて居残っているようなもの。日中の最高気温を比較すると、だいぶちがうのである。
 それにしても東京は、あっという間に涼しくなった。昨日は終日雨だったせいもあるが、この地区の最高気温は21度。夜など寒くて、あわてて長袖に着替えたくらいだ。

 今日からまた平年並みの気温にもどったが、庭の草を引きに外へ出てみると、空気が乾いて、気配は完全な秋だ。
 夜になると、虫の声がかまびすしいこと。京都は街中に住んでいるため、これほど虫の音は聞けないのである。

 しかし何回も繰り返したくなるが、今年の夏は暑かった。最早完全な亜熱帯。年寄りが熱中症にかかるのも無理はない。心身とも環境に適応できにくくなるのが、年寄りの特権だからだ。

 京都へ帰れない理由がもうひとつあった。買い溜めてあった食いものが残っていて、それを始末しないと冷蔵庫が悲惨なことになってしまうからだ。
 暑すぎて外出どころではなかったから、食いものを買いそろえて家に閉じこもっていた。今回くらい外食しなかったことも珍しい。ほとんど自炊していたのである。
 といったって料理といえるようなことはしていない。タジン鍋に野菜と肉を入れ、蒸したり煮たりするだけ。この鍋を買ってからというもの、ほかの料理はまったくしなくなった。
 とにかく楽なのだ。材料に下味をつけ、あれこれぶっ込んで火にかけるか、チンするだけ。味はともかく、食いもののバランスだけは取れる。

 まことにタジン鍋くらい、ものぐさにありがたい道具はない。この鍋がきてからというもの、わたしの食生活は大幅に退化した。
 なにしろ毎日、同じものばかり食っている。たとえばジャガイモ。1回に1個食うとして、1袋全部消化するのに、5日も6日もかかるのである。
 肉は牛豚鶏と毎日取り替えられるが、野菜は同じ。茸、タマネギ、人参、かぼちゃ、蒸したり焼いたりできるものというと、どうしても限られる。量が多すぎるものは、使い切れないから買えないのだ。

 それに今回は冷凍食品をかなり買った。成城石井で特売のハンバーグを3個(値段は言えない)買ってきたから、これを食いつくすのもひと苦労だった。
 この4日間一歩も外へ出なかったのは、ただただ冷蔵庫の残飯整理をしていたからだ。
 明らかに買いすぎていたのだが、子どものころのひもじさが一生のトラウマとなっている世代だから、食いものはつねに有り余っていないと不安で、情緒不安定になってしまうのだ。

 おかげであらかた冷蔵庫も片づき、この週末には京都へ帰れるかな、というところまでこぎつけた。
 ただしまだひとつ大物が残っている。スイカみたいに大きなメロンだ。
 北海道産だったし、安かったから(これまた値段は言わない)飛びついて買ったものの、1週間たってもいっこう食べごろの柔らかさにならない。とうとう最後まで残ってしまった。
 これから二日かけて、これを平らげなければならない。ちなみに明日の食いものとして、いま手許に残っているのはお握り1個と食パンだけ。あとはメロン腹でごまかさなければならないのである。

 あと4、5日もしたら、京都で、やっぱりかみさんの手料理がいちばんおいしいと、ぬけぬけと言っていることだろう。


2010.9.11
 暑くてなんにもする気にならない日がつづいていたが、雨台風の襲来で一変、いくらか風向きが変わってきた。

 多摩の雨はそれほどたいしたことはなかった。しかし夜になるとぐんと涼しくなり、北からの風が吹きつのって、家のなかにたまっていた熱気を一掃してくれた。
 翌朝になっても風はやまず、風を受けていると涼しいどころか、肌寒さを覚えるくらいだった。おかげで日中一杯クーラーがいらなかった。

 昨日はせがれに頼まれ、子守に出かけていた。共働き家庭なので、運悪く会社の会議が重なったりすると、ふたりとも帰りが8時以降になる。ところが今回は運よく、おじいさんが近くにいてくれたというわけだ。
 6時に行くと、孫ふたりがもう待っていた。早速晩めしということになるのだが、このじいさんは手料理などする気はなく、外めしをふるまってやるだけ。だから孫は大歓迎なのである。
 和食の店に連れて行き、希望するセットメニューを一品ずつ取ってやった。これに茶碗蒸しと食後のデザートをつけ、さらに前菜として3人でピザ1枚。
 孫は大喜び。じいさんもなんだか善根を施した気分になり、そのあと孫娘も抱いて、大満足して帰ってきた。

 下のせがれに言われていたGOPAN(ゴパン)も、実物を確かめに行ってきた。表参道の喫茶店を借り切ってデモンストレーションをしているもので、お茶を頼んだとき、希望すればゴパンでつくったパンを出してくれる。
 ときどき米を変えているそうだが、今回ははえぬきとあきたこまちだった。これに毎回変わり種のジャムがつく。
 感想は、なんとも言いようがない。というのも出てくるパンが小さすぎ、ほんの一口。ちがいをたしかめようがないくらい、あっけなく腹へおさまってしまったからだ。
 1日160食しか用意できないので、それがなくなったらお終いだとか。そのためひとり分はこんな量になってしまうのだろうが、前評判が高いせいか、試食を希望する客はかなり来ていた。

 ただし発売は11月、当初よりさらに遅れている。これはパンをつくるときの添加物として必要な、グルテンの供給体制ができていないからだ。ふつうのスーパーでは売っていないのである。
 通信販売か、販売店で売るらしいが、小麦粉からつくったグルテンの代わりに、米の粉、つまり上新粉でもいいそうだ。この場合は100パーセント米パンになる。
 べつにメーカーの宣伝をするつもりはないが、せがれの米をすこしでも減らすため、出たら買わなければなるまいと思っている。
 しかしうまいパンが手に入るなら、自家製パンの出る幕がどれくらいあるか。物珍しいうちだけ、ということにならなければいいがと懸念している。

 京都には知る人ぞ知る有名なパン屋があり、ときどき買いに行く。地下鉄に3駅乗り、さらに15分歩かなければならない不便なところにあるのだが、それでいて、週末の金土日しか営業していない。
 ヨーロッパ系のパンなので、京都在住の欧米人に人気があり、たいていの人がまとめ買いしている。
 その店がようやく2号店を出し、地下鉄で2駅とすこし近くなった。

 ところがこのまえネットを見ていたら、東京でいま評判のパン屋というのを特集していて、その店の名が出ていたからびっくり。つまり3号店が東京にできていたのだった。
 店は新宿丸井の1Fにある。さすがにこちらは毎日フル営業だ。
 今回は新宿へ出るたび、そこのパンを買っている。すでに2回買った。冷えても味が落ちないパンである。


2010.9.4
 昨日から東京にいる。

 来るまえは、すこし期待していた。毎日の天気予報を見る限り、東京のほうが京都よりいくらか気温が低いからだ。
 いざ来てみると、変わるもんか。まったく同じだった。

 7月の段階では、わが家周辺はさすが多摩というか、日が落ちるとめっきり涼しくなった。緑がそこそこ残っているからだろうと、独り合点していた。
 ところがこの暑さ、緑でどうにかできるレベルではない。地上すべてが一枚の鉄板同然、どこへ行ったって同じなのである。

 おりもおり、むかしの仕事仲間が亡くなったという知らせをもらった。
 じつは前夜、かつての友人十数人と箱根に集まって、一晩歓談したところだった。
 同じ職場にいた四十年来の友だちばかりだから、その後の消息話が出ると、かなりの友人が亡くなっていた。
「さいわいなことに、おれたちのなかからは、まだだれも死んでないなあ」
 という話をしたところだったのだ。

 今回亡くなったのはそれ以後に知り合った仲間だが、それでも20年からのつき合いになる。奥さんも知っていて、その奥さんが電話をかけてきた。
 そのとき寝ぼけていたせいもあって、はじめはまちがい電話ではないかと思った。
 というのも本人はまだ六十代。仲間内でいちばん若く、死ぬなんてことがもっとも考えられない男だったからだ。
 それが、たった一晩で亡くなったというから、ショックだった。

 入院はしていたらしいのだが、前夜までなにごともなく、奥さんも「じゃあね」といって帰った翌日のことだという。
 同じようなことが、自分たちの身に起こったとしたら、これは明らかにあり得ることだから、だれもおどろかない。

 死は突然にやってくる。
 それも年や病気とは関わりがない。
 ところがわたしは、そういう覚悟がまったくできていない。もしそうなってしまったら、周囲に迷惑をかけること必定だ。
 せめて残されたものが、まごついたり困ったりすることがないよう、最低のことはしておくべきだと思うのだが、自分の性格からすると、なにもしないだろうなあとしか言いようがない。

 きょうがお通夜である。


2010.8.28
 信州で百姓をやっているせがれが、11月に発売される「GOPAN(ゴパン)」なる製パン器を、いますぐ予約して買うようにといってきた。

 ネットでそういうものが出ることは知っていたが、かみさんのほうははじめて。名前を聞いただけでは、なんのことやらわからなかったらしく、しばらくとんちんかんな問答を繰り返していた。
 正式名称はライスブレッドクッカー。米を原料とする自動製パン器である。触れ込み通りなら、米を容器に入れてスイッチをONにするだけで、何時間かのちにはほかほかの米パンができあがる。

 せがれは米を作っている。ひとりでつくっているから量はたいしたことないのだが、親兄弟はもちろん、友人にも頼んで買ってもらわなければならないくらいはできる。
 わたしのところには、注文もしないのに、ときどき30キロ単位の玄米をどかんと送ってくる。完全無農薬のコシヒカリである。
 それにしてはあんまりうまくない。
 植えたあとの手入れをろくろくしてない、手抜き米だからにほかならない。しかしこちらは親の悲しさ、もっとうまい米を食いたくても我慢して、この米ばかり食っている。
 ところが年寄りふたりの所帯だから、1日1合しかいらない。朝はパンだし、昼はあり合わせのものでごまかすから、めしは夕食のとき食うだけだ。

 従って消費量たるや微々たるもの、いつでも持て余している。それがこのたび、米から簡単にパンがつくれる、画期的な製パン器が開発されたというのだから、せがれが張り切ったわけである。
 というより全国の農業関係者が、米の消費量拡大の切り札になるか、というので目の色を変えているとか。
 当初は7月に発売する予定だったが、反響が大きすぎて販売体制が追いつかない恐れが出てきたため、あわてて発売をずらせたらしいのだ。
 いまのところ東京の表参道にショールームがあり、そこへ行くとコーヒーつきでそのパンが試食できるとか。せがれはわざわざそこまで行き、コシヒカリとはえぬき、2種類の米パンを食ってきたという。

 で、この商品は絶対当たる。なおかつわが家の必需品になるはずだから、いますぐ予約せよと、わざわざ注進してきたのだった。
 わたしどもも米のパンは好きだ。口当たりが柔らかくて、味も悪くない。どこのパン屋にもあるわけではないが、売っている店へ行ったときは必ず買ってくる。
 もしその製パン器でうまい米パンがつくれるなら、せがれの在庫減らしにもなることだし、協力するのにやぶさかではない。

 というので昨日、散髪をしに行ったついでに量販店まで足を運んできた。
 ところが炊飯器売り場のどこを見ても、品物はおろか、ビラひとつ見当たらない。仕方がないから店員に聞いた。
「パンゴ? ゴパンじゃありませんか」
 年寄りを惑わせるようなまぎらわしい名前なんか、つけるなよ。
 要するに店のほうにも、いまのところ現物はおろか、パンフレットひとつないのだとか。話題先行の商品だったのである。

 というわけで、かげもかたちもないものを買うわけにいかないから、予約しないで帰ってきた。
 来週、所用で数日東京へ帰る。この際表参道へも行ってみるつもりだ。


2010.8.21
 月曜日に大文字焼きが行われた。じつはまったく忘れていて、TVの中継があったからはじめて気がついた始末だ。

 それでもまだ「なぜ月曜日なんかにやるんだ?」と間抜けなことをほざいていた。
 放送がはじまってようやく、これが送り火にほかならないことを知って「あ、そうか。今日はお盆だったんだ」と認識したのだから情けない。暑さぼけに加え、お盆という行事そのものが、いまやまったく頭からなくなっていたのだった。
 それでひょっとと思いつき、窓から外を透かし見てみると、ふだんとはちがう光が東の山で輝いている。
 あわてて双眼鏡を取り出してみると、まさに当の送り火ではないか。大文字のわずか一辺だったとはいえ、わが家から見えるとは知らなかった。

 急いで家を飛び出し、鴨川へ向かった。家から五分のところにある松原橋まで行くと、人垣ができていた。むろん送り火を見に来た人たちだ。
 真横に近い角度となるため、大の字の左方が欠けてしまうのだが、それでも障害なしできれいに見届けることができた。これまで見えないと思っていたものが見えたわけだから、なんだか得をしたような気分になって帰ってきた。
 これほどビルが林立していなかったら、わが家からでも大の字はもちろん、妙の字も、法の字も見えていたかもしれないのだ。
 つまりむかしの京都なら、市内のほぼ全域から、漆黒の夜空に浮かぶ束の間の送り火が見えたはずで、さぞかし敬虔な気持ちで眺めることができただろうと、あらためて感じ入ったのだった。
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 話は変わるが最近高野山を訪ねる外国人観光客が、すごくふえているというニュースを見聞するようになった。
 とくに増えているのがフランス人だそうで、宿坊に泊まって精進料理をいただくツアーが大人気なのだとか。アングロサクソン系の英米人はそれほどでもないというのが、面白い。
 つまりラテン系の人に人気があるということだ。真言密教とカソリックといえば、なるほどとうなずかれる人も多いのではないだろうか。

 空海の眠る奥の院の御廟へいまでも毎日食事が届けられていることや、素材からは想像もできない精進料理の妙に、多大の驚嘆や賛辞が寄せられているというから、なんだかうれしい。
 今年はじめて訪ねたのだから偉そうなことはいえないのだが、橋本から高野山へ向かう登山電車の沿線風景など、深山への分け入り方のものすごさに圧倒される。これほどすぐれた観光路線が、気の毒なくらいがらがらということにも、べつの意味でおどろかされるのだ。

 もし高野山が関東近辺にあったら、連日黒山の人が押しかけてくることはまちがいない。いまいちばんの人気だという高尾山など、比べものにならないからだ。

 それでひとつ疑問に思うのは、町への車の乗り入れを、どうして禁止しないのだろうかということだ。今回スイスへ行ってさらにそう思った。
 山の上にある孤立した町だから、その気になれば、部外からの車はいっさいシャットアウトできるはずなのだ。
 山上の交通をすべて電気自動車にするくらいのことは、もうしてもよいのではないか。枯れ死の目立ちはじめた老杉の寿命も、それでいくらかは引き延ばせるのではないかと、素人目には思えてならない。

 誇るべき観光地というものは、いまや行きやすさを競う時代でなくなっている。安易には行けない制限のあるほうが、ステータスとなる時代に入っているのだ。
 自動車の乗り入れ禁止は、高野山の値打ちをさらに高めると思うのだが、そういう声はまだ聞いたことがないように思う。


2010.8.14
 かみさんが信州にいる友だちのところへ遊びに行ったから、その間のんびり、仕合わせな時間をすごした。だが束の間、もう帰ってきた。

 留守の間、正しくない食生活をして、豚バラ肉のブロックと茄子のどろどろ煮、みたいなものばかり食っていた。
 暑くて買い出しに行くのが億劫だから、材料を継ぎ足して毎日煮詰めていると、最後はコレステロールの見本みたいな、だがうまくてほっぺたの落ちそうな食いものになってしまったのだ。

 かみさんが帰ってきたらたちまち一変、朝のサラダにベーコンが一切れしか出てこなくなった。
 正しい食生活と正しくない食生活、交互にそれを繰り返して、トータルすればそれなりにバランスが取れている、なんてことはないか。
 自分では、わが健康はそのお陰で維持されていると、半分信じているのだが。

 ここ数日、今回の旅で撮ってきたビデオの編集をしていた。9月のはじめに友だちと顔を合わせるから、そのとき披露することになったのだ。
 だがそれで、はからずも自分には、映像的才能がまったくないことが明らかになった。
 しょせん活字畑の人間。断じて映像畑の人間ではない。だがこれほどセンスがないとは思わなかった。
 10時間以上も撮影していながら、ろくな映像がないのである。
 さわりの部分だけ抜き出し、10分か15分のダイジェストをつくろうと思っているだけなのに、人様にお見せできる映像はまったく撮れていなかった。
 これでもその都度、見る人にわかりやすいよう、最大の配慮を払いながら撮影したつもりなのだ。
 それがいざパソコン画面に取り込んでみると、部分部分は詳細でも、全体像はさっぱりというものが多かった。
 ひとつ場面を延々と撮っていながら、それがどのような状況で起こっている場面なのか、皆目わからないのだ。
 カメラは専門外だから当然といえば当然だが、それでも映像でものを伝える才能が、これほどなかったとは……。自分の凡庸さを思い知らされ、いささかショックである。

 このごろは記憶力に信頼が置けなくなり、そちらの自信は完全に失った。そのときせめて一枚の映像があれば、まだしも思い出す手がかりになると思ってカメラを持参しているのだが、なんの意味もなかったのだ。

 懲りたから、つぎからは旅に出るとき、カメラを持って行くのをやめるつもりだ。カメラを使用することで、自分の目で見る能力をますます低下させていると思うからだ。


2010.8.7
 暑くてどこへも行く気になれない。熱中症を心配しなければならない年だから、できるだけ出歩かないようにしている。

 水曜日に定期検診で病院へ行った。血液検査の数値をよくするため、出かける前に1時間半鴨川河畔を歩いた。
 朝のうちだったが、それでも30度にはなっていただろう。京都へ帰ってきて以来、ずっと猛暑日がつづいているのだ。

 かんかん照りの下を歩いたにしては、汗をそんなにかかなかった。家に帰ってきたとき、あれ? という怪しい感覚があった。立ちくらみのような、浮遊感のようなものだ。
 シャワーを浴びたらなにごともなく納まったが、あと何十分か欲張って歩いていたら、ほんとにまずいことになっていたかもしれない
 例によって、検査前のウオーキングは威力絶大。今回も良好な数値が出て、気をよくして帰ってきた。

 その翌日から、独身生活になった。かみさんが友だちのところへ出かけたからで、盆の前まで気まま暮らしがつづく。
 いつもだとしめたとばかり、この間外食して食いたいものを食うのだが、今回ばかりはその気にもならない。
 このふつか、冷蔵庫や冷凍庫の残りものばかり食っていた。昨日は冷凍うどんに卵や鶏肉や鰹の生節など、残りものをありったけぶっ込んで。
 今日は昼そうめん、夜はチンめしにレトルトカレー。おかげで冷蔵庫がすっかり片づいてしまい、明日はいやでも外へ食いものの調達に出かけなければならなくなった。
 だがこの分だと、数日分の食いものを買ってきて、また引き籠もり、ということになるのではないだろうか。

 外出しなくなった理由がもうひとつある。デパートをはじめほとんどのカードを、東京へ忘れてきてしまったのだ。
 旅立つとき、不必要なものは全部残して行った。そのとき、不用心なところへカードを置いておくわけにもいかないということで、まとめてどこか、目につきにくいところへ隠したみたいなのだ。
 帰ってきたときはすっかり忘れていた。カードは京都へ置いてきた、とばかり思い込んでいたところ、いくら探しても家にはない。
 それではじめて、東京へ置いてきたらしいことに気づいた。ただしこれも、自信はない。おそらく東京にあるはずだ、というくらいである。

 年を取ってくると、ふだんとちがうことは絶対してはならない。
 ついうっかり、いつもとちがうところにものを置いたり、隠したりすると、あとで見つけ出すのに苦労をする。必ず忘れてしまうからである。


2010.7.31
 スイスの列車事故にはおどろいた。帰ってきた当日の出来事だったからだ。心配した人からかなりメールをもらったが、今回参加したツアーにあのコースは組み込まれていなかった。

 前回来たときは通った。というのも氷河特急は、はじめてスイスへやって来た人が必ず乗る定番中の定番だからだ。
 それにしても亡くなられた方や怪我をされた方が、お年寄りだったことは象徴的だった。いまの日本で海外旅行をいちばんエンジョイしているのが、お年寄りだからである。

 われわれが参加したツアーも、全員お年寄り。この春定年になったという60歳の女性ふたりが、最年少だった。
 若い人、働き盛りの人は、2週間もの休みは、取りたくても取れない。かといってこの人たちがリタイアし、さあこれから海外旅行を楽しもう、となったときはどうなっているだろうか。
 いまの年金制度が崩壊し、海外旅行どころではなくなっている可能性が高い。そう考えると、有名観光地にあふれている日本のお年寄りを見るのは、自分もその一員だけに、複雑な気持ちにならざるを得なかった。

 帰ってきて1週間。やっと暮らしのペースがもどってきたところだが、じつをいうとまだ東京にいる。いろいろ雑用があったからで、かみさんだけ先に京都へ帰ってもらった。
 この間推理作家協会のパーティに出席し、遅くなったため帰るのが面倒くさくなり、銀座のホテルに泊まって朝帰りする、ということもあった。

 したがって時間が有り余り、せっせと仕事をしているはずにしては、あまり身が入っていない。
 さらに一昨日、突然インターネットがつながらなくなった。たちまち、仕事どころではなくなったのだ。
 当方の知識が不足しているため、こういうとき、自分の力では解決できないことを悟るまで何時間もかかる。

 悪戦苦闘したあげく、力尽きてだめだと投げ出したときは、疲れ果てているのだ。
 今回もそう。NTTに電話し、ADSLがつながらなくなったと留守録にしゃべって、受話器を置いたのが夜中のこと。翌日中には返事がもらえるだろう、というくらいの期待しかしていなかった。
 ところが朝の5時に電話がかかってきた。それでようすを述べ、向こうの聞くことにいくつか答えると、モデムの故障ですねということになった。

 口惜しいことに、ランプがついたり消えたりしているが、どういう状態だったら故障なのか、こちらにはわからなかったのである。
 翌朝10時には、もう機器の取り替えに来てくれた。この迅速さ、至便性には驚嘆した。

 今回スイスのホテルで、夕方部屋にもどってみると、掃除やタオルの交換はおろか、なかへ立ち入った形跡すらない、という不愉快な経験を何回かした。
 同じことはほかの人にもあり、枕銭だけなくなって、掃除はしていないケースまであった。4つ星ホテルでこの程度なのである。
 そういう対応に比べると、銀座で泊まったホテルの、コンパクトではあったがなんと快適だったことか。あらためて日本社会の成熟性、完成度に感心したのだった。

 それはそうとモデムのことだ。機器を取り替えた以上、あらたに設定し直さなければならない。
 ところがプロバイダのIDとか、パスワードとか、そういったデータが書き込んであるノートを、今回は持ってきていなかった。
 それでやり方だけ教えてもらい、設定は自分でやりますと答えて引き取ってもらった。これがまちがいの元。京都からノートをFAXしてもらい、その通り入力してみたのだが、どうしてもつながらないのだ。
 ここでもまた、匙を投げるまで数時間。結局精根尽き、最後はお助けマンを呼んだ。
 3時間後に来て見てくれたら、たった5分で直った。要するにユーザーIDを入力する際、IDの後へドメイン名を入れなければならなかったのだ。
 わかってみればアホみたいな話。無知はみすみす余計な出費を強いられるのである。

 というわけで、今回の原稿も東京で書いている。明日京都へ帰ります。


2010.7.24
 2週間の旅を終え、元気に帰ってきました。

 帰ってくると、東京は39度という猛暑。迎えに来てくれたせがれの車で成田から日野へ帰ったのだが、平日の午前中とあって3時間もかかり、東京のきびしい現実をたちまちにして思い知らされた。
 じつはスイスでも、連日30度を超す暑さに悩まされ通しだった。夕方5時すぎの街角で、41度という気温表示を見たときは、これがスイスかと目を疑ったものだ。

 とにかく毎日毎日いやになるくらい暑かった。
 なにしろ高度1800メートルのサンモリッツやサースフェーで、日中は30度を越していたのだからお話にならない。湿気が少ないから日本ほど蒸し暑くはないものの、冷房完備のところは少なかったから、夜は暑くて寝苦しかった。

 17日の間好天がつづき、雨は移動のときすこし降ったくらい。雨天で行動が妨げられたことは一度もなかった。
 3000メートルを越える高山へもいくつか上がったし、数時間のトレッキングもしたから、風雨や低温に備えての装備もして行ったのだが、実際にはウインドブレーカーを1回着用しただけ。あとはすべてTシャツで通すことができた。

 ただし、これ以上ないくらい顔や腕が日焼けして、真っ黒になった。お終いになってあわててかみさんから日焼け止めを分けてもらい、懸命に塗りたくったがすでに手遅れ。メガネザルみたいな顔になって帰ってきた。

 この間新聞はもちろん、TVも意識して見なかった。ワールドカップの結果も、人が話しているのを耳にして知ったほど。そんなことを知りたいという気にもならなかった。
 ただ頭を空っぽにして、ぼけっと山を眺めていた。静まりかえっている氷河や、大きな山を前にしているだけで、なにもいらない気になる。
 夢想無念、というような理屈も、姿勢もいらない。ぼんやりと、そこにいるだけの快適さ、居心地よさが、なにものにも代え難いのである。

 こういう気持ちになれるところが、スイスのいちばんの魅力ではないかと思う。そういう意味では、有名観光地に行く必要はすこしもない。むしろ観光客の訪れない、小さな谷間の村のほうが向いている。
 今回何カ所かそういうところを訪れたおかげで、まだまだ地方ごとに、異なる魅力が秘められていることに気づいた。
 年に一回ぐらい、頭の洗濯を目的としたこういう旅行ができたらいいな、と思いながら帰ってきたところだ。

 というわけで、明日から現実にもどります。


2010.7.3
 やっと終わった。というより時間切れで終わらせた。月曜日の朝入稿が、水曜日の夕方になった。

 最後の2日間は不眠不休。案の定、ワールドカップどころではありませんでした。
 気が散るから「知らせに来ないでくれ」と断っていたのに、夜半トイレに立ったとき「これからPK戦だ」と教えてくれた。うるせえ、それどころじゃねえ! と怒鳴りたかったほど、追い詰められていた。

 とにかく終わり、1夜明けたらもう7月。それでまた忙しくなった。6日は東京でゲラ読み、7日は出発だから、日時にすこしも余裕がない。

 こんなことだったら、秋に延ばしたほうがよかった、と内心後悔しながら、散髪に行き、郵便局に不在届けを出しに行き、新聞を止め、たまっていた返事やメールを出しと、追われていることに変わりはないのである。
 旅行用品を調べてみると、あれもない、これもないの連続。ないわけではない。どこかにまぎれこんいる。かと思うと機内用スリッパが2足も出てきたり。
 ヴィデオカメラを取り出してみたら、使い方を忘れていた。3年前にアメリカへ行ったとき買ったものだが、以後ほとんど使っていなかった。

 というのも撮ってはみたものの、整理もしなきゃ、編集もしない、ただの撮りっぱなし。意味がないのだ。
 そのとき一緒だった人にマニアがいて「ぼくのをもらってください」と、自分で編集したものをわざわざ送ってきてくれた。
 見るとちゃんとタイトルが入り、日付や場所のテロップが入りと、完全な記録ムービーになっている。
「あ、これがあればうちのはいらないや」
 ということになって、以来お蔵になってしまったのだ。ヴィデオカメラなんてものは、こういう人が持つべきもので、わたしのような人間が持ってはいけなかったのである。

 しかしせっかくだから持って行こうということで、なかをチェックしてみたら、その後撮したものがいくつか入っていた。
 どこかへ行ったとき撮影したものらしいが、いくら見ても、いつ、どこへ行ったときのものか、ふたりとも思い出せない。

 何十年もまえのものではない。ここ三年のものだ。それが思い出せない。
 だったら無理して外国まで行ったって意味ないんじゃないか、というのが、今回ふたりで出した結論だった。

 しかし今回はもう行くことにしてあるから、とにかく出かけるほかないだろう、ということで、これからしばらくお暇をいただきます。




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