Shimizu Tatsuo Memorandum

トップページへ                 著作・新刊案内
きのうの話      

Archive 2002年から2010年3月までの「きのうの話」へ





 

2010.3.27
 火曜日に京都へ帰ってきた。今回は20日間の東京滞在となった。

 こんなに長くいるつもりはなかったが、思わぬ出来事がいくつも重なり、帰ってくるのが遅れに遅れたのである。
 その極めつけが、20日だった。ご承知のように低気圧が吹き荒れ、東京でも風速35メートルを記録した日だ。

 強風で、門扉が吹き倒されてしまったのである。
 経年劣化ということになるのか、全体にがたがきて、門柱の鍵穴にはめ込まなければならない鈎が、ぴったり合わなくなっていた。軽く引っかけたくらいで、なんとか門を閉めていたのだ。
 それが台風並の強風にあおられて鍵穴から外れ、延びきった門扉がずるずると前の道路へ出て行って、あげくの果てはなぎ倒されていた。気がついたときは完全な横倒しになっていたのである。

 夜中に何度も見に行ったのだ。4時ごろまではなんとか持ちこたえていた。このまま持ってくれるかな、と期待したのが油断。つぎに行ってみたらもう倒れていた。
 あわてて引き起こし、もとへもどそうとしたが、閉まらない。取りつけ部の金具が、ものの見事にねじ切られていた。上下2箇所で止めてあった接合部の下部のほうだ。
 仮にもスチールである。一杯に延ばすと3、4メートルの長さになる蛇腹式で、重量だって相当ある。それが紙みたいに吹き流され、もろくもねじ切れたのだ。

 以後どうにも門が閉まらなくなった。蛇腹はなんとか開閉できるのだが、それっきり。止めることができないから、延び切った状態で、ただ突っ立っているだけ。そよ風が吹いても倒れるだろうという情けなさだ。

 仕方なく、応急措置として紐で門柱にくくりつけた。取りつけ部と開閉部の2箇所。
 スチールの門扉が、紐でくくりつけられて、なんとか閉まっているわけで、かっこうわるいと言ったらない。
 出入りするたび、紐をほどいたり結んだりして、自分が通る隙間をつくらなければならないのである。
 直すとすればリフォーム屋を呼び、見積もりをさせ、それから工事となれば、1週間や10日はかかるだろう。いま雑誌の原稿にかかりきりだから、とてもそんな暇はない。

 結局ほったらかしにして帰ってきたのだ。
 翌日が病院の定期検診日で、久しぶりに鴨川河畔を歩いた。すっかり春景色に変わっていた。

 五条大橋から下流ではしだれ桜が満開。レンギョウ、ユキヤナギも見ごろだし、しだれ柳も黄色の新芽をつけ、まことに愛らしい。
 川面には白鷺、アオサギ、川鵜、鴨、ユリカモメらが出そろい、こちらも壮観。餌取りに余念がないから、この時期の鳥はそれほど逃げない。バードウォッチングには最適の時節なのである。

 一方で我慢ならなかったのがごみ。川岸、中洲、水草のあるところ、いたるところビニールゴミが引っかかり、じつに汚い。京都の行政のいちばん無能な部分が、こういうところに現れている。せっかくの気分を台無しにされて帰ってきた。

 とはいえ、外へ出たのはその日だけ。以後家から一歩も外へ出ず、仕事に専念している。花粉症の薬をもらいに行く間もないのである。


2010.3.20
 まだ東京にいる。いろんな雑用があり、家を空けることができないのだ。今回ばかりは温泉へも行かず、多摩の家に閉じこもっている。

 今年はいつもの年より花粉症がひどい。滞在が長びいているため、京都でもらってきた薬を飲み尽くしてしまった。ますます出て行けなくなったのだ。
 先週千葉へ行ったのが最悪だった。それまでなんとか薬で抑えていたのが、千葉産の杉花粉で吹っ飛んでしまったのである。

 数年前鼻腔を薬品で焼く手術をしてもらったときの、その後しばらくは効いていたのと同じ状況だ。
 あのときもそれでつい油断してしまい、マスクもなにもせず出かけていたら、ある日爆発的に症状がぶり返した。以後まったくだめ。せっかくの手術を台無しにしてしまった。
 今回も同じ。薬でなんとか抑えていたのが千葉で刀折れ矢尽きてしまい、かえって悪くしたみたいなのだ。
 なにしろ顔まで炎症を起こしてかぶれ、一時はかゆくてたまらなかった。一昨日あたりからやっとかぶれが消え、かゆみも取れてきた。しかし顔のむくみはまだ消えていない。

 今週は車を廃車にした。まる9年、述べ9万キロ乗ってきた愛車だが、手首を骨折して以後は乗っていなかった。握力が回復していないから自信がなくなり、乗らなくなってしまったのだ。
 それで息子に使わせていたのだが、今月車検に出したところ、オイル漏れが見つかった。パッキングを取り替えるくらいの故障ではないとかで、そっくり取り替えなければならないという。
 タイヤの交換もしなければならないし、全部入れたら50万円くらいかかるというから考えこんでしまった。

 手首が完全で車の運転ができるようであれば、しめたとばかりあたらしい車に買い換えていただろう。しかししばらくは無理なようだし、子どもらは全員、もう免許証を返納しろ、と口をそろえてうるさい。
 あれやこれや考えると、ここはとりあえず廃車にするしかない、という結論になったのだった。
 この車で北海道はくまなく走り回ったし、東京との往復も4、5回はフルコースを走り通している。けっこうお気に入りで愛着も深かったのだが、乗れなくなった以上手放すしかない。
 月曜日に廃車手続きに行ったところ、車はちがう駐車場に置いてあるとかで、最後の対面もかなわなかった。なんだか車にすまないような気がして帰ってきたのだった。

 先日大沢在昌に会ったところ、佐々木譲のときのブログを読んだとかで「ずいぶん感傷的なことを書いていたじゃない」と言われた。自分ではそれほど意識しなかったが、だんだん涙もろくなってきたのかな。
 じつは今週まで東京に残っていた理由というのが、火曜日に北方謙三の日本ミステリー文学大賞受賞パーティがあったからだ。
 京都にいたら遠隔地を口実に義理を欠いてしまうのだが、あいにく東京にいたうえ、前回の佐々木譲のパーティのとき「16日は志水さんも来てくれるんでしょうね」と、あのぎょろ目をひん剥いて念押し(脅迫の言い換え語)されたから仕方なく居残っていたのである。
 大沢との会話はそのとき出たもの。そうそう、譲のパーティで同じことを書いていたもうひとりの作家が、大沢だったのだ。

 とにかく火曜日ですべての用が終わったから、水曜日には京都へ帰るつもりだった。ところが今度は洗面所の水が止まらなくなった。水道屋を呼んだところ、経年劣化だからまるごと取り替えないとだめだという。
 空き家にして全然使ってないのにどうして劣化するんだ、と言ったって本人のせいじゃないから文句の言いようがない。
 それでまた滞在が延び、あらたに取りよせてもらったカランを取りつけて、本日やっと修理が終わったところである。
 で、明日は帰れるかというと、今度は受け取らなければならない郵便物が出てきた。明日中には届くと思うが、なにしろ週末だから、下手をすると月曜日まで持ち越してしまうかもしれない。

 いつになったら帰れるのか、いまもってわからないのである。


2010.3.13
 房総へ取材に行っていた。わたしのことだから歩いてきたのは、例によって山のなか。

 いまどきの田舎では当たり前のことだが、人にはまったく出会えず、話が聞けたのはタクシーの運転手だけだった。
 梅と椿と辛夷と水仙が咲いていた。桜も染井吉野こそまだだったが、山桜は咲き、河津桜は葉桜になっていた。
 山は荒れ放題になっていた。

 いたるところで「ヤマヒルに注意」という警告板を見かけた。ハイカーの被害が増えているそうなのだ。
 タクシーの運転手によると、むかしはヤマヒルなどいなかったという。増えてきた鹿が持ち込んできたものだという。
 猪の被害もひどいとかで、捕獲用の檻が仕掛けられているのを見かけた。畑にけものの侵入を防ぐための電線が張られているのは、ごく当たり前の光景になっている。

 ものすごい山のなかというわけではないのだ。列車を降りてすこし歩いた程度。完全な人里なのである。
 猿も見かけたが、ボス猿らしいのは人を恐れる気配もなく、墓地のなかを悠々と歩きまわっていた。後の藪に群れがいたものの、こちらのほうは出てこなかった。
 そのなかで、盛んにくしゃみをしている猿がいた。これは群れの音が聞こえている間中つづいていた。どうやら花粉症にかかっている猿がいたみたいなのだ。

 それに誘発されたわけでもないだろうが、帰途、今度はわたしの花粉症が爆発、ひどい目にあった。
 花粉情報が下から2番目の低レベルだったから、マスクもせずに出かけたのだ。第一マスクをしてアウトドアなどできるものではない。

 午後になって気温が上がってくるとともに、飛散量が急激に増えたのだろう。
 帰りの電車の中でくしゃみと鼻水が出はじめ、どうにも止まらなくなった。発作は最後まで止まらず、家に帰るまでポケットティッシュ4袋を使い切った。
 千葉駅でティッシュの補充ができたからよかったものの、それがなかったら悲惨なことになっていた。最後はよれよれの半病人。電車まで乗り過ごし、ほうほうの体で帰ってきた。

 JRの駅はホームにゴミ箱があるからまだよい。怪しからんのは京王電鉄だ。
 ふだんいちばん使っている電車だし、この会社は以前近代化が一段落したとき運賃の引き下げをしたから好意を持っているのだが、サリン事件のとき警戒のためと称してゴミ箱をすべて撤去。以来復活させていないのである。
 ポケット一杯になった鼻紙を捨てることもできない。やむを得ず自販機のボトル回収ボックスに放りこんできたが、こういうマナーを反省する気はさらさらないぞ。

 帰って目を洗い、薬を飲んで、さっきまで寝ていた。おかげですこし楽になり、鼻水も減った。しかし咽がひどい炎症を起こして、かゆくてたまらない。

 明日から当分家のなかに閉じこもりだ。


2010.3.6
 水曜日に東京へ出てきた。大藪賞の授賞式に出てきたもので、なんにもしゃべりはしないけれど、選考委員だから一応ひな壇に並ばなければならないのだ。

 それはいいとして、困ったのが天気。先週の京都がそうだったように、東京も毎日気温が激変。昨日は20度というばか陽気になった。
 そういうこともあるかと思い、今回は暖かい日、寒い日に備えてコートを2着用意し、ひとつは宅配便で送ったのだ。
 しかしジャケットまでは考えがおよばなかった。冬用の分厚いものしか持ってこなかったのだ。というよりほかに持ってないのである。おかげで暑かったのなんの。
 パーティのときはまだよかったが、2次会3次会になるとクラブやバーなど会場が狭くなる。そこへ大勢の人間が詰めかけるものだから、人いきれでむんむん。つまみに出されていたチョコレートが溶けて生チョコになっていた。

 しかしなにが幸いするかわからない。暑さに気をとられすぎたせいで、花粉症のほうはほとんど意識しなくてすんだ。
 東京へ着いた途端、ものすごく目がかゆくなり、恐れをなして、翌日は家から一歩も出なかった。だから昨日は上着からズボンまで、ポケットをティッシュで一杯にして出かけた。それがほとんど使わなくてすんだのだ。
 しかしせっかくの陽気もたった1日。きょうは13度と並の気温にもどり、冷たい雨になっている。これもほんとはありがたい。雨が降ると花粉の飛散量がてきめんに減るからだ。

 しかしこのところ頻繁に京都と東京を往復していたせいで、すっかり気がゆるんだらしく、今回は必要なものをいくつも持ってこなかった。
 まずカード類。買い物から乗物まで、昨今はカードなしでは用が足りなくなっている。出てくるときはいつも、財布に常備するカードを入れ替えるのだが、今回はそれを忘れたのだ。
 たとえば東京では「PASMO」カードが手放せない。京都へ帰るとそれが「するっと関西」カードに変わる。京都のデパートのカードは、東京ではまず用がないのである。

 もうひとつ困ったのは仕事の資料をそっくり忘れてきたこと。自分の作成した年表や人名帳など、時代物を書くときの必需品だ。それが今回持ってきた品の中にまったく入っていなかった。
 荷物を送るとき、高知から送られてきた文旦などは忘れず3つも入れたくせに、肝心の資料は思い浮かばなかった。作家にあるまじき失態といっていい。おかげで一手間も二手間もよけいな時間がかかっている。

 前々回佐々木譲の直木賞授賞式に集まった仲間のことをすこし書いたが、昨夜のパーティで編集者から、3人の作家が自分のブログで同じようなことを書いていると教えられた。
 まず佐々木譲本人。興味のある方はのぞいてみてください。

 あとひとりはだれだったか、じつをいうとその名が思い出せない。最近は酔っぱらうと、脳細胞が吹っ飛んで記憶力がゼロになってしまう。そのうちみっともないミスを犯すんじゃないかと冷や冷やしているのだ。


 
2010.2.27
 気温16度の東京から京都へもどって来ると、なんと22度。翌日が20度。これが2月の気温か。こうなるともう、異常を当たり前と思うほかなくなってくる。

 なか1日置いて今日、かみさんが東京へ出かけて行った。来週はわたしもまた行かなければならない。
 そのまま留まっていたほうがはるかに効率的なのだが、雑用がいくつかあったから帰って来ざるを得なかった。
 しかしこれで、年が明けて3度目の東京行きだ。旅行は大好きだが、京都と東京を往復しているだけなんてのは旅行じゃない。ばたばたして落ちつかないだけである。

 じつをいうと3月に、不定期連載の時代物シリーズ第7話を書かなければならない。今度こそじっくり構想を練って、と考えているのだが、果たしてどうなることか。1ヶ月後にまた同じような言い訳をしてしまう公算がつよそうだなあ。

 一方で花粉症がはじまった。
 今年はステロイド注射でやり過ごそうと思っていたのだが、医者へ行く時間がなかったのと、最近はいい薬ができているともっぱら評判なので、もう一回だまされてみようという気になって、アレルギー専門医の問診を受けて薬をもらった。
 飲みはじめたときは花粉の飛散量が少なかったせいか、効果のほどはよくわからなかった。東京はかなり飛びはじめているというから、おそるおそる出かけたのだ。
 ところがなんともなかった。たった5日間だったとはいえ、症状らしい兆候はほとんどぜろ。それで、これは薬が効いているのだと思った。今年こそマスクなしで過ごせそうだと。

 ところが京都へ帰って来ると、一瞬にして激変した。このばか陽気で、スギ花粉の飛散量が一気に増えたらしいのである。
 帰ってきた夜からくしゃみが出はじめ、翌日になると鼻水たらたらの垂れ流し状態。がっかりもいいところだ。なんだよ、全然効いてないじゃないか。
 というわけで、いまは外へも出て行きたくない。

 それにこのごろは外出するたび、おびただしい爺婆が目について、いっそう楽しくなくなる。
 このまえ東京のデパートへ昼めしを食いに行ったところ、どこもかしこも爺さん婆さんで満員。いやになって、大衆食堂のラーメンですませたことだった。
 ウォーキングも休日に出かけるものじゃない。日曜日の鴨川河畔となると、年寄り連中がうじゃうじゃというくらい歩いていて、それこそ気持ちがわるくなる。
 自分がそういう年寄りのひとりだから、みっともいいとはいえないその格好を見ると、情けなくなって気が滅入ってくるのである。

 今回帰ってくるとき、新宿駅から東京行きの中央線に乗ったところ、シルバーシートに座っていた若い女性が「どうぞ」と席をゆずってくれた。
 キャリーバッグを引いていたからだろうか。かなりの年寄りに見られたことはたしかだ。
 びっくりして「いえ、平気ですから」と愛想よく断ったものの、家に帰ってかみさんに報告したら叱られた。
「そういうときは坐らせてもらうのよ。でないとゆずった人が気まずいでしょうが」

 なるほど。そういうことも言えるのか。年寄りというのは存在すること自体が悲しいものだなあ。


2010.2.21
 昨日の夕方東京へ出てきた。旧友の佐々木譲が直木賞を受賞したため、そのパーティに駆けつけたものだ。
 今回は八重洲の駅前にホテルを取った。こういう夜はいつも帰りが遅くなるから、多摩まで帰るより泊まったほうが楽だからだ。
 事実昨夜も大いに盛りあがり、お開きになったときは午前2時をすぎていた。

 ふだん業界のことはあまり書かないようにしているのだが、今回は特別だと思うから、披露しておく。
 まず、昨夜の二次会以降に顔を出した作家の顔触れだ。
 佐々木譲、船戸与一、北方謙三、大沢在昌、西木正明、逢坂剛、藤田宜永、森詠、宮部みゆき、それにわたし。
 ほとんどのものが、30年以上のつき合いになるのだ。いちばんあとから加わってきた宮部みゆきでもう20余年になる。
 お互いまだ、右のものとも左のものともわからなかったひよこの時代から、遠慮会釈なく悪口を言い合ってきた戦友である。期せずしてその同窓会となったのだ。
 あの北方を評して大沢が「だれだれさん(某作家)はものになると思うけど、北方はそのうち消えるでしょう」と公言した……といったエピソードがふんだんにある仲間なのだ。

 もちろん会場にはほかの作家も大勢来ていた。だが二次会以降に集まったのはこの顔触れとなったわけで、これは当のわれわれも予測しなかったことだった。
「これだけの顔触れのそろうことが、この先もまだあるだろうか」
 ということばが何回も出たが、たしかにもうないかもしれない、と思わせる希有のひとときになったことはたしか。かつての仲間が一堂に会すること自体、きわめてむずかしい時代になっている。
 ましてわれわれ以降の世代の作家になると、こういう集まりはおろか、つき合いすらないらしいのである。

 それにしてもなんという時間の早さだろう。かつての青臭いガキどもがいまや長老。若いものから煙たがられる存在になりかけている。
 それでもまだ、われわれは幸運だったとつくづく思う。本というものが暮らしのなかで大きな比重を占めていた時代に生まれ合わせていたため、その恩恵をたっぷり受けることができたからだ。
 活字離れ、紙メディアの衰退など、これから先のことを考えると、若い作家の行く手はすこしも明るくない。それを引き受ける覚悟のあるものしか、この世界に参入してはいけないよと、あえて忠告しておきたいのである。

 久しぶりに楽しい一夜だったが、少々感傷にも満ちた夜となったのだった。


2010.2.13
 今週もめまぐるしい天気だった。2日つづけて雪が積もったのだ。京都へ来てはじめてのことである。あまりに珍しかったから雪見に行ってきた。

 出かけた先は法然院。こじんまりとした、いい寺だ。じつはここ、昨年の秋、かみさんが転んで足を骨折したところである。
 それがどんなところだったかというと、ほぼ平坦なただの通路。転ぶはずのない地形だったからあきれた。
 年を取ると、どこに行ってもそういうことが起こるといういい例だろう。そういう意味ではよい教訓になった。

 あいにく雪景色のほうは、淡雪程度だったら着いたときはほとんど消えていた。カメラをかかえた人間が、ぞろぞろ押しかけてきてるんじゃないかと思ったが、ちらほらしかいなかった。
 それにしても京都の雪は短命だ。朝早く出かけ、8時には現地へ着いているくらいでないと、風流は味わえない。
 予備知識が全然なかったから、境内の墓地をすこし歩いていたら、河上肇、内藤湖南、九鬼周造といった著名京大教授の墓がぞろぞろあったのにびっくりした。
 谷崎潤一郎の墓もあったと知って口惜しがったが、これはあとの祭り。横なぐりの吹雪にさらされる猛烈に寒い日だったから、長居しなかったのだ。機会を変えてまた出かけてみよう。

 寒波が去ると、今度はいきなり14度という陽気になった。それがすぎたら2日つづけて雨だ。ふつかも同じ天気がつづくというのは、京都ではきわめて珍しいことである。
 その間も大阪まで出かけ、タジン鍋を探していた。見て歩いたデパートが合計6つ。
 京都から大阪というとすごく遠出しているみたいだが、家を出て1時間で梅田に着く。多摩から新宿へ出るのとすこしもちがわないのである。
 一度手に取ってみたい鍋があったから尋ね歩いたのだが、実物を置いているところはなかった。それでセラミックの、簀の子つきの鍋を買った。

 早速その日のうちに使ってみた。魚を蒸してみたのだ。ほんとは塩焼きにするつもりで買っていた太刀魚だった。これを野菜と一緒に蒸したのである。
 下にキャベツや人参、茸などの野菜を並べ、上に魚と水菜を載せ、蓋をしてチンしただけ。この間7分。
 ポン酢で食ってみたがなかなかうまかった。かみさんは大喜び。ガスコンロの魚焼き器を使うといちいち洗わなければならないが、そういう手間がいっさいかからないからだ。

 たしかにこれくらい手抜き料理に最適な器具はない。かみさんいらずの鍋と名づけたほうが、もっと売れるんではないだろうか。


2010.2.6
 京都へ帰ってきた。東京に雪の降った日のことで、わが家の近辺では5センチぐらい積もった。
 予報では15センチと言われていたから、それなりの覚悟はしていた。電車も一晩中走っていたみたいだ。雪が降るとポイントの凍結する恐れがあるから、夜中でも試運転を繰り返すのである。

 だが雪は5時前に止んだ。このときは気温も高く、最後のころは半分みぞれになっていた。
 ところが朝を迎え、生ゴミを出しに行こうとしておどろいた。庭の木が樹氷になっている。電線も凍りつき、まるで白いロープ。物干し竿からはつらら。門扉まで凍りついて開閉不能だ。

 朝になって気温が下がったのである。それでゴミは、門扉越しに放り出すしかなかった。
 生ゴミが回収されたのを確認したら、家を出るつもりだった。ところがいつもだと8時半に来る車が、10時になっても11時になってもやって来ない。
 出したゴミをそのままにして出てくるわけにいかない。カラスがやって来て袋を食い破るからだ。近所でも容器に入れたりネットをかぶせたりして、それぞれカラス対策を取っている。

 あとでわかったのだが、道路が凍結したため、午前中はゴミの収集をやらなかったらしいのだ。とくにうちの地区は、はじめが急坂になっている。朝のうちは車の通行が全面的にストップしていたのだった。
 ようやくやって来たのが午後の2時。6時間近く待たされた。朝のうちに出るつもりだったから、食いものはすべて片づけ、冷蔵庫も空。腹ぺこだった。
 新宿で遅い昼めしにありつけたのが3時半。それから東京駅へ向かったから、京都へ着いたときは夜の8時前になっていた。

 そしたら京都も、東京以上に寒くなっていた。以来ずっと寒波つづき。雪がちらついた日もあったし、今朝は鴨川の一部が凍ったという。
 おかげでウォーキングも、いまは家のなかのステップだけ。なにしろスロージョギングだから、汗をかくほどからだをはげしく動かさない。冷たくてやりきれないのである。

 で、いま熱心に探しているのが、鍋。
 多摩で蒸し料理のうまさに目覚めたから、京都に帰ったらちゃんとした鍋を買おうと思っていた。それで何かないかと思ってデパートへ行ったら、あるは、あるは、蒸し料理がブームだということをはじめて知った。
 それ専用のタジン鍋というものがあることも、今回はじめて知ったのだった。
 スーパーで売るスライス野菜に景品の蒸し器をつけるくらいだから、世間さまではとっくに常識となっていたのである。

 それであわててタジン鍋なるものをインターネットで調べはじめたところ、今度は何を選ぶか、買うものをしぼりきれなくなった。
 本来のタジン鍋は、材料をなにもかも鍋にぶっ込んで蒸したり煮込んだりする。蓋には空気穴が開いていないし、底にはなにも敷かない。
 しかし日本でつくられた同じタイプの鍋になると、空気穴を開けたり、簀の子を敷いたりしたものがある。景品についていたのは簀の子つきの蒸し器だった。
 これで鶏肉を蒸すと、余分な脂肪がすべて落ち、肉本来のうまさが凝縮されて、目から鱗みたいな蒸し肉になる。だからこの方式も捨てがたいのである。

 かみさんは無水鍋なら家にもありますという。しかし大きすぎて電子レンジに入らない。一度買えば以後それを使うしかないから、まだ何を買うか、決めかねているのである。


2010.1.30
 女優のジーン・シモンズが亡くなった。きわめて思い入れのある女優のひとりだった。だがとうのむかしに亡くなっていたものと思っていた。

 それが80歳。わたしといくらもちがわないばかりか、日本では『ハウルの動く城』のヒロインの声を演じた人、と報じられていたからびっくりした。そちらは全然知らなかったからである。
 スクリーンでの彼女をはじめて見たのは『ハムレット』である。サー・ローレンス・オリビエがハムレット、オフィリアを彼女が演じた。

 この映画、48年の製作とあるから、このときまだ小学5年生だ。学校から団体で見に行ったおぼえがあるから、中学生になった直後のことではなかったろうか。
 山陰の小さな町にいたから、いい映画はなかなか回ってこなかった。来ると学校指定になり、生徒全員で見に行った。
 したがってこの映画が、はじめて見た本格的洋画だったことになる。学校が推薦するくらいだから、あまりおもしろい映画はなかった。当時見た映画のなかで、ほかにおぼえているのは『赤い靴』くらいだ。
 好きな映画のベストワンになる『荒野の決闘』もこの前後に公開されているのだが、こちらは機会がなくて、見るのがだいぶ遅れた。

 とはいえハムレットに出てきた彼女を見初めたほど、ませていたわけではない。オフィリアが花に取り囲まれて入水自殺した場面が、頭に焼きついているだけである。

 好きになったということでは『荒野の決闘』のクレメンタイン、ことキャシー・ダウンズのほうがはるかに上だった。
 残念なことに彼女はこの映画1本で消えてしまったが「愛しのクレメンタイン」の主題歌とともに、忘れられないスクリーンの恋人となっている。オードリー・ヘップバーンが『ローマの休日』で颯爽と登場してくるのはだいぶあと、高校3年のときである。

 ジーン・シモンズの出た映画は、その後も縁があってかなり見ている。主役をはるタイプではなかったから、そこがよかったのかもしれない。
 彼女の好ましさがいちばんよくあらわれていたのは『大いなる西部』の女教師ジュリー役だったろう。
 今回年譜で調べてみたら、なんとこのときまだ20代だった。わたしが勝手に思いこんで、年上のお姉さん視していたにすぎない。最後に見た『スパルタカス』で、まだ30歳である。

 なぜか、以後の映画は見ていなかった。しかし老いた彼女を見なくてすんだのは、まだしもよかったと思っている。
 若いとき美貌でならした女優が70をすぎてスクリーンに出てくるのは、つや消しもいいところ。あまり見たいものではない。

 数日前、今度はサリンジャーの訃報を聞いた。こちらは91歳。
 年齢が開いているから自分の人生と重なるものはなかったが、それでも『ライ麦畑でつかまえて』は白水社の「あたらしい世界の文学」シリーズでリアルタイムに読んだ。
 当時20代の後半。文学青年だったせいで、このシリーズはほとんど読んでいる。しかしいまでもおぼえている作品、作家となると、ないに等しい。
 だからこの作品が、以後延々と今日まで読み継がれてきたことが、むしろ信じられなかった。そういう意味では、わたしを通過していった一冊ということになるだろうか。

 とにかくこうつぎからつぎへと訃報に接し、いやでもむかしを振り返らされてしまうと、自分たちの時代は終わったんだなと思わざるを得ない。いつまでも現役気取りでいることがいいとは、けっして思えなくなってくる。

 どういう幕を引くか、それがいちばん大事だと、最近そういうことばかり考えている。


2010.1.23
 在東京。今週は気温の高低差がはなはだしく、月曜日に来たときの家のなかの気温は4度しかなかった。その後暖かくなり、また寒冷な日々にもどった。ただいま部屋の気温19度。24時間暖めつづけてもこれ以上高くならない。

 20日の選考会は無事に終わった。しかしこれから選評を書かなければならないし、そのうえ書評をふたつも頼まれ、頭を抱えている。
 東京へ出てくると、こんな風にろくなことがない。都落ちしていたほうが、おいそれと思い出してもらえなくて、こういうときは都合がよいのである。

 ところで、すぎ花粉は飛びはじめたのだろうか。まだ報道されていないようだが、わたしの鼻のセンサーは東京へ来て以来むずむずしっぱなしだ。
 警告にはちがいないと思うから、怖くて家を開放できない。雨戸を閉め切って、もぐらのような暮らしをしている。

 自炊はしてないから1日に1回外へめしを食いに行っていたところ、きのうスーパーで蒸し器つき野菜セットというのを見つけた。スライスした野菜をこの容器に入れ、電子レンジでチンすれば即食えるという。
 あ、こういう手があったのか、というので早速買ってきて、今日それを試してみた。
 チンといったってわずか3分程度。蒸しあがった野菜に軽く塩を振ったり、レモン汁をかけたりしてそのまま食う。これが思いのほかいける。なによりも簡単きわまりないのがよい。

 わたしは根菜を食わないと躰のバランスがわるくなる人間なので、これから東京にいる間、毎日こいつで芋や人参をチンして食おうと早速決めた。
 するとなにも温泉まで行く必要はなくなったわけで、今回は温泉もパス。雨戸を閉ざした暗い家のなかで、ひたすら仕事をすることにした。

 問題は運動不足をどうするかだったが、これもウオークマンを手にしたおかげで、家のなかですませることができるようになった。階段を使えばステップ運動ができることに気づいたのである。
 階段の1段目を上がったり下りたりするだけだが、なにしろ一軒家にひとりだから、時間かまわず、気の向いたとき、遠慮気兼ねなく、どたどたできる。
 ところがいざはじめてみると、いまひとつ物足りない。階段の高さが20センチしかないので、負荷がなさすぎ、ろくに汗をかかないのだ。

 それで昨日、なにかないかと、スーパーの素材売り場へ探しに行った。そして厚さ3センチの一枚板を見つけた。
 幅が70数センチと、わが家の階段にぴったり。板だから、階段に載せるだけでよい。これで高さ23センチ、京都の台と同じ高さになった。
 しかもその板が、たったの210円と、信じられない値段だった。真ん中に大きな節があって、これじゃだれも買わないだろうという代物だった。どうやら売れ残りの、見切り品だったようなのだ。
 こちらは踏むだけだから、節なんか関係ない。よろこんで買ってきて、昨夜からせっせと使っている。昨夜は幕開けだったから張りきって80分、今夜は60分、みっちり汗を流して快いシャワーを浴びた。

 これで部屋の温度が、あと2度上がってくれたら申し分ないのだが。


2010.1.16
 京都暮らしをはじめて以来という寒波がやってきた。各地とも大雪が降りつづいているようだが、その割りに京都市内は降っていない。
 ローカルニュースを見ると、福知山など北部では大雪が降っているのだ。同じ県内でもこんなにちがうのかと、よそから来たものには奇異な感じがする。京都から80キロくらいしか離れていないのである。

 今週は持ち越していた候補作の宿題をすべて読み終え、とりあえずノルマから解放されて、ほっとしている。2週間ぶりにウォーキングも再開した。
 一方で昨年から中断していたつぎの長編に、もう取りかかった。ここで一息入れてしまうと怠け癖が目を覚まし、元の木阿弥にもどると思うから、鉄は熱いうちに打て、躰が仕事慣れしているいまの状態を、このまま維持していこうとけなげに働いているのだ。

 昨日は2ヶ月ぶりの糖尿病の定期検診日。例によって出かけるまえに、家でステップ運動を80分汗だくになるまでやり、それから採血に行った。
 当然それ見たことかという数値が出たわけで、医師のお覚えもめでたければ、こちらもしてやったりとにんまり。昼めしには牛タン塩焼きにシチューという取り合わせを平らげ、口を拭ってにこにこしながら帰ってきた。

 運動せずに採血していたら、もっと悪い数値が出ていたことはまちがいないと思う。糖尿病進行の基本的な目安といわれているヘモグロビン何とかCの値は、すこしずつではあるが年々悪くなっているのだ。かかったが最後、もとにはもどらない病気なのである。
 今回も医者からは、糖尿病患者のための特別講習会を行うから出るようにと熱心に勧められた。はい、はいと従順な返事をし、申込用紙をもらい、むろん提出なんかしないで、そのまま持って帰った。

 べつに横着に構えているわけではない。多少の自覚や知識は持っているつもりだし、それなりの節制もしている。自分の躰を見きわめながら生きているつもりなのだ。
 要はあとどれくらい寿命があるかということ。その間薬を飲んだりインシュリン注射を打ったりしなくてすむ状態を、なんとか維持できたらそれでいいじゃないかということである。
 これ以上はやばいぞ、となったぎりぎりのところで、はい、さようなら、となったら申し分ないのだ。

 同じことで今年からは花粉症も、ステロイド注射でやりすごそうと思っている。ステロイドは驚異的な効力を持つ薬だが、一方で危険や副作用もあり、できたら一生使わずにすませたい薬のひとつだといわれている。
 しかしこれも程度の問題。残り時間をにらみながら、花粉期を楽に過ごすか、苦しみながら逃げ回るか、それを天秤にかけたら、もうそろそろ使ってもいいんじゃないか、ということになったのだ。

 70をだいぶ過ぎて、一段と横着になってきたのかもしれない。


2010.1.9
 明けましておめでとうございます。

 あたらしい年をどのように迎えられましたか。
 わたしのほうはこれまでに類のない、最悪の正月を過ごしてしまった。はい、仕事漬け。
 ぎりぎりまでエンジンのかからなかった報い受け、年末はおろか3が日もまったく休めなかった。
 外出はもちろん、テレビも、最愛のウォーキングもなし。年賀状も、ただの1枚も書けなかった。

 この際だから舞台裏をぶちまけると、20日から書きはじめて、28日で下書きが100枚になった。
 ここまで書いて、ようやく全150枚の全容が見えてきたというか、これで何とかいけるという感触が得られた。
 それでまたはじめにもどり、本原稿を書きはじめたのが28日の夜から。
 ところが調べものがけっこうあって、その後が思いのほかはかどらず、31日の夜中、仕事納めをしたときは78枚しかできていなかった。

 物理的にも遅れの限界である。それを取りもどそうとしたら、もう正月もくそもない。3が日をぶっつづけで仕事して、なんとか書き終えたのが4日の未明。
 それを6日の夜ぎりぎりまで推敲、手直ししながら2回読み直し、タイムリミット寸前に入稿したというわけ。

 最後の3日間はほとんど眠れなかった。1日2、3回、1時間くらい横になった程度。頭が作品から離れられなくなっているから、疲れているのに高ぶって眠れないのである。
 できあがった完成原稿は、予定をややオーバーして162枚。自分で言うのも何だが、今回は最後まで集中力が途切れなかったから、一応水準のものはクリアできたと思っている。

 だが躰はぼろぼろ。頭や頬に手をやっただけで、ふけや顔の皮が際限なく散ちてきた。
 その夜遅く、風呂に入ってようやく躰を洗ったが、じつはそれが今年はじめて入った風呂だった。そのまえ入ったのは年末のいつだったか、それもおぼえていない。

 6日になると、めしを食いに居間へ行っただけで、かみさんが「わっ、臭っ!」と悲鳴をあげた。部屋に入っただけで、ぱっとわかるほど躰が臭くなっていたらしい。

 7日からはつぎの仕事だ。昨夜、文学賞候補作の第1冊目を読んだところである。
 そして今日は、6日の夜入稿した原稿がゲラになってFAXで送られてきた。これもすぐ目を通して送り返し、夕方には責了。今回の雑誌の仕事が、これで完全に終わった。

 明日から残りの候補作4冊を読み、再来週は東京で選考会。なんともめまぐるしい。というより自分の残り時間が、こんなことで費やされていいのかと、焦りしかおぼえないのである。
 かといって、そんなものがなかったら、だらだらと無為に過ごすに決まっているから、お話にならない。

 それでも今年の正月のような過ごし方は、今度こそ、懲りたぞー。

 来年こそ、来年こそ、なんとかするぞ、とまたお題目を唱えることになってしまったが、来年こそは、いまの仕事を店仕舞いすることまで視野に入れ、じっくり考えてみようと思っている。






志水辰夫公式ホームページ