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きのうの話 |
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2009.9.26 今週はシルバーウィークで日本中が盛りあがっていたから、当方もそれにあやかって、おおいに遊ばせてもらった。 というより歩きに歩いていた。木曜日をのぞいて連日出歩いていたのだ。少ない日で1万歩、多い日で1万8000歩、6日間の合計が8万8000歩になった。 多く歩きゃいいってものではないと思うが、それだけ肉体が回復してきた証拠にはちがいないから、自己満足しているのである。 それにしても連休中の人出はすごかった。この間東山へ2回出かけたが、清水寺へ向かう道、帰る道が車で身動きできなくなっていた。それもタクシーが何台か混じっているほかは、すべて県外ナンバーなのだ。 今回はかみさんを連れ、はじめて西山にも登った。京都トレイルと名づけられているトレッキングコースの西の起点が、苔寺の裏山からはじまるのである。 住宅街の細い道を通り抜けて苔寺に向かっていると、突然涌いたように人が現れた。ときならぬ長い行列ができている。これがすべて鈴虫寺へ入る順番待ちの人だった。 当方は鈴虫寺に行ったことがないのだが、かみさんが言うにはきわめて小さな寺だとか。それで入場制限をしていたのかもしれないが、行列は寺の石段から下の道路へおり、ずっと先の駐車場まで200メートル近くつづいていた。 一方で西山に一歩入ると、まったく人がいなくなる。標高200メートルばかりの、京都市内の眺望を楽しみながら、2時間で嵐山へおりられるハイキングコースである。 この日出会った人は10組に満たなかった。これが東京近郊だったらどれくらいの人出になるだろうかと思うと、ものすごい贅沢をさせてもらっている気持になるのだ。 最後の極めつけが本日。室生寺と長谷寺へ行ってきたのである。電車やバスを乗り継いで、けっして行きやすいところではないのだが、それだけの値打ちはあった。 なんといっても閑静である。室生寺など1時間に1本のバスが、20人ぐらいの客を運んでいるだけなのだ。 白状すると、わたしは寺というものがあまり好きじゃない。大きな寺や有名な寺ほど仰々しくて、威圧的で、これ見よがしだから、生来のひねくれ根性が頭を持ち上げてきて、ふんだ、という気持にしかなれないのだ。 ところが室生寺にはそう反発させるものがなかった。さりげなくて、おだやかで、控え目。やさしいのだ。 わたしみたいな信仰心のないものがずかずか入りこんで、勝手にうろつき回っても、すこしも咎められている気がしないのである。 こういう感想を持てた寺ははじめてだった。今度季節をあらためて、また行って来ようと思っている。いい寺に行き当たったとよろこんでいるのである。 奥の院まで行ったから、石段を700余段上がって汗だくになった。長谷寺でも400余段上がったので、総歩数が18000。帰りはさすがにくたびれた。 とはいえ存分に遊んだから、明日から心を入れ替えて仕事をします。 |
2009.9.19 足がやっと正常にもどった。足運びがふつうになったし、膝の痛みもなくなった。怪我の後遺症でまだ正座はできないが、あぐらならかくことができる。90パーセントは元にもどったといっていいだろう。 その時を待っていたみたいに、注文してあったスローステップ用の踏み台が届いた。これでわざわざ外へ出かけなくとも、家のなかで足腰が鍛えられるようになった。 踏み台は高さが3段階に調節できる。とはいえ、その日の気分によって変えるようなものではないから、いちばん高い20センチに設定。音楽CDがついていたから、これもパソコンにインストールした。 あとは説明するまでもない。音楽に合わせて、上がったり下りたりするだけである。運動の強弱は音楽に刻まれているピッチの速さで加減。1回が10分で、何分か休んでまたつぎの回。このときピッチの速さを変える。 いまははじめたばかりなので、1日に30分から40分やっている。最初の10分ではからだが温まってくる程度だが、つぎの10分ではじっとり汗ばんでくる。3回目は途中でタオルが必要になるし、4回目はだらだらと流れはじめる。 ところがひとつ、予想もしなかった不満が持ち上がった。プラスチックの台がチープで、使用感がよくないのだ。ちゃちなのである。体重100キロまでOKということになっているが、55キロのわたしが乗り降りしても、ぺこんぺこんという使用感なのである。 ずっと使うものだから、そのうち我慢できなくなるのではないかという気がしてしようがない。ジム仕様の、本格的なものだってあったのだ。それがつい貧乏人の習性、いちばん安いものに手を出してしまった、という悔いを今回も繰りかえしそうなのである。 しかし暑さもだいぶやわらいできたし、秋晴れの空も澄んできたしで、家のなかにばかりいるのはつまらない。というので今週は2回、外へも歩きに行ってきた。 1回目は平安神宮から黒谷、吉田山まで足を延ばしての往復。2回目は伏見稲荷の奥の院を1周して、東福寺へと降りてきた。歩数は19000と16000。2回目のときはかみさんが同行した。 今回は紅葉で有名な真如堂、東洋と桜の名所東福寺を通り抜けてきた。わたしははじめて。シーズン外れのいまはひっそりして、ともにいい感じだった。 シーズンにしか行ったことがないかみさんは逆にびっくり。そのときはここに臨時の切符売りができて、この通りが人で埋まって……といった話を聞くと、そんな時期にわざわざ行く人の気がしれないと思ったのでありました。 |
2009.9.12 なんと、久しぶりに立ち見で映画を見た。『ディア・ドクター』を見に行ったのだが、はじめての映画館だったので、そこがミニ・シアターだったとは知らなかったのである。 「席があとひとつしかありませんけど、お一人様は立ち見でよろしいでしょうか」 窓口で言われてびっくり。また来るのも面倒くさいし、かみさんを立たせるわけにはいかないしで、いいよと答えるしかなかった。そのときは通路の階段にでも腰をおろせばいいや、と思ったのだ。 なかへ入ってさらにびっくり。座席が60ぐらいしかない。最後の切符を手にしたかみさんの席は、当然のことながらいちばん前である。 通路があるのは片側だけ。勾配は設けられているものの、段差がないから腰をおろすところもない。壁に寄りかかるしかないのだ。しかも入れ替え制だから途中で席を立つ人もなし。結局2時間あまり立ちんぼで見る羽目になった。 わたしと同じように高をくくって入ってきたのか、立ち見でもいいと覚悟して入ってきたのか、全部で5人もの立ち見客がいた。 しかしこの年になって2時間も立ちっぱなしというのはさすがにつらい。映画はおもしろかったが、お終いのほうはくたびれて、早く終わってくれないものかとそればかり願っていた。 翌日は一大決心のもとに2万歩歩いた。というのも糖尿病の定期検診を受ける前日だったからだ。このところ仕事づけだったから躰はなまっているし、体重も増え気味。ここはなんとしても血糖値を下げておきたかったのである。 歩くと血糖値が下がるのか、と聞かれたら答えようがない。いままでの経験から、このふたつには濃密な関連性があると、本人が信じているだけである。 自宅を出ると、5分で鴨川に着く。あとは河畔をひたすら北上、とりあえず上賀茂神社まで行った。京都にしては風の強い日で、しかも向かい風、ものすごく歩きにくかった。ここまでが1万歩ちょっとである。 そのあと大田神社というところへ行き、大田の小道と名づけられた山のなかをうろつき、深泥池、宝ヶ池を経由して、地下鉄始発駅の国際会館へ。駅に着いたときがちょうど2万歩だった。地下鉄の営業キロでいえば9・3キロ区間である。 翌日が検診日。このときも採血の1時間半前に家を出て、ひたすら歩いた。当初の予定では豊国廟へ行くつもりだったが、ここを上り下りしたぐらいでは時間が余ってしまう。 それで急遽予定を変更。清水寺から例の東山へ分け入り、森のなかを時間いっぱい歩きまわった。朝の9時半から10時という時間帯だったが、この間珍しく単独行で歩いている人間にふたり出会った。 いずれもじいさんで、男。じいさんのひとり歩きは危ないんだけどなあ、と余計な心配をしながら病院へ。1時間半歩いたにしては山のなかだったせいか歩数が少なく、たった8000歩しか歩いていなかった。 血液検査の結果はお医者さまのお覚えもめでたいまあまあの数値。信じるものは救われる。泥縄ハードウォーキングが血糖値を下げてくれたものと強く確信して、意気揚々と帰ってきた。 |
2009.9.5 今週は書くことがない。この1週間仕事に追われていたから、どこへも出かけていないのだ。ようやく今朝6時半、なんとか脱稿することができ、ただいまほっとしているところである。 とはいえ時間帯がめちゃめちゃになったから、終わったからといって躰はすぐもとにもどらない。朝めしを食って寝ようとしたが、疲れているのに眠れない。仕方がないから10時にあきらめ、風呂に入った。 午後になっても眠くならない。それで河原町の本屋まで出かけた。外を歩くのは十数日ぶり。家を出た途端いつもの欲が出て、鴨川河畔を御池通まで歩いた。 今日も30度という気温だったが、それでも空の色や、河畔の植物に、秋の気配が現れはじめていた。桜の並木の下には、毛虫の糞が黒ごまをまき散らしたみたいに落ちていた。 本屋に用があったわけではない。長年の癖で、間があくと落ちつかなくなるから行っているようなものだ。 それでなくとも最近、ますます本が読めなくなった。60代と70代とはまったく別物ですよと、これまでいろんな人から言われてきたことを、だんだん深刻に思い知らされているのだ。 昨夜はとうとう、パソコンの文字がゆがんで見えはじめた。こんなことははじめてだ。 原稿の最終チェックをしたから、冒頭より読みすすめながら直していった。はじめたのが夜中の12時半。それから今朝の6時半まで、休みなしにパソコンの画面を見つづけていた。 すると5時ぐらいから目が妙になってきた。文字がゆがんで読みづらくなってきたのだ。顔を画面から離しても、視覚の一部が傷ついたみたいにゆがんでいる。 パソコンは10・5インチの横長画面。これを縦書き表示にして20字×23行、原稿用紙とほぼ同じにして使っている。文字の大きさは16ドット。行間を3分の1行取り、すごく読みやすい画面になっているのだが、それが読めなくなってきた。 あとわずかだったから休み休みやってなんとか終えたが、あまりいい気分ではなかった。この調子だと何年かのちには、目がだめになって書けなくなっている恐れも十分あり得るからだ。 裸眼でなに不自由なく本を読めるのが自慢だった。それが一生つづくものとばかり思っていた。その自信がぐらついてきた。まことに年を取ると、予測もしなかったことが起こるものである。 それになんちゅう足か。久しぶりだったとはいえ、たった3キロ歩いただけで帰りはよれよれだったのだ。 |
2009.8.29 今週は雑誌の仕事にかかりきりだった。先週刊行された蓬莱屋シリーズの、第5話を書いている。今月末が締切。数日は食いこむかもしれないが、なんとか間に合わせられそうなところへさしかかっている。 いつもそうだが、この時期になると非常事態、仕事以外なにもしなくなる。部屋から出るのはめしとトイレに立つときぐらい。一種の自己カンヅメで、かみさんと一緒にめしを食うのも夕だけとなる。 当然からだは動かさない。根が生えたみたいに、仕事用安楽椅子へ釘づけとなる。1日に数百歩しか歩かないだろう。わたし自身は、これがいちばんいやなのである。 というのもこんな生活を1週間もつづけると、それこそがくっというほど足腰が弱ってくるからだ。立つとき、起きあがるとき、不用意に立つと、途端によろめいて、ものにぶつかったり、転んだりする。 だからそれを防ごうと思えば、まずはじめに、よし、これから立つぞ、と自分に言い聞かせ、ひと呼吸置いて、腹に力を入れてからそろそろと立たなければならない。 情けないが、それが事故を防ぐいちばん確実で、大切な、手続きとなっているのだ。 とくに昨年の怪我以来、びっくりするぐらい体力が落ちている。しかもこの勢いは、これから加速することはあっても鈍ることは考えられない。 坐ったきりという商売がいけないのだ。まことに作家業くらい、足腰の老化や衰弱化に貢献する商売はないのである。 テレビでスロージョギングなる運動を知ってからは、これはよさそうだという感触を得て、よろこんでやっていた。それもこのまえ、東京で転んで足を痛めてからは中断したままだ。 そしたら1ヶ月ほどまえ『試してガッテン』が同じテーマで続編をやっていた。すなわちスロージョギングに劣らない運動効果を、もっと手軽に、家のなかで取れる方法があるというのだ。 それは高さ20センチくらいの台を、ゆっくり上がったり下りたりするスローステップという運動だった。台さえあれば家のなかでできるし、いつやってもよい。長時間やらなくても、何回かに分けた小間切れでも、同じ効果が得られるといいことずくめである。 これはいいことを教えてもらった、と早速つぎの日、踏み台なるものを買いに出かけた。軽佻浮薄がモットーだから、思いついたらすぐやってみないと気がおさまらないのだ。 適当な高さがあって、坐りのしっかりしたものならなんでもいいわけだが、いざ探してみると、なかなかぴったりというものがない。デパートから家具屋、リサイクルショップまで足を運んだ。 最後は割高だろうけど仕方がないと思い、ジムまで尋ねた。しかし器具の販売や斡旋はやっていないという。 やっと思いついてネットで探してみた。すると簡単に見つかった。しかも『ためしてガッテン』の番組中で使用された台だと高らかにうたわれている。 よろこんで注文しました。 そしたら現在品切れ。つぎの入荷予定の9月までお待ちくださいという返事がきた。世のなかにはわたしと同じような、軽佻浮薄な人がけっこういるもんだと、あらためて感心したのだった。 というわけで、ただいまステップの入荷待ちという状態。今月の自主カンヅメには間に合いませんでした。 |
2009.8.22 東京とちがい、地方は圧倒的なサラリーマン社会である。作家なんて商売はあってないようなもの、人々の視野にまず入れてもらえない存在だ。 それだけ人目を気にしなくてすむわけで、慣れるとこれが、ものすごく楽。いつもゆるふんですごしているみたいな脱力感は、なにものにも代えがたい。 京都に来てできるだけ目立たないように暮らしているのも、人の目に止まるようなことをして、窮屈な思いをしたくないからだ。商売柄いろいろなお誘いは受けるが、小説は書きますけどそれ以外のことは、もう半分引退している身ですからといって断っている。 とはいえこれは原則であるから、当然のこととして例外はある。文章を書かなくてもお金がもらえるとか、こういう媒体には出たほうが得だとかいうときは、原則なんかそっちのけ、節操もなく引き受けてしまう。 というわけで今週は、節操のなさをまる出しにした本業以外の仕事をふたつもやってしまった。 ひとつは雑誌のグラビア。週刊新潮の巻末に『わたしの京都』というページがある。 いろいろな人が自分の好きな京都を紹介するもので、4回、1ヶ月にわたって掲載される。このページのモデルとして出演したのである。 お寺にも行かなければ観光行事にも足を運ばない人間が「わたしの京都」なんておこがましいんじゃないか、とかみさんはあきれたが、作家に常識は通用しないのだ。自分の好きなところを選んでくださいというから、唯々諾々と引き受けたのだった。 2日間で4回分の撮影をした。どちらも35度という猛烈に暑い日。 わたしが選んだくらいだから、だれもが行くようなところではない。汗だくになって登ったり降りたりしなければならないところばかりで、いちばん高いところは標高236メートル。仕事とはいえつき合ってくれたカメラマンや、撮影助手をつとめてくれた編集者はさぞ大変だったろうと思う。 着たきり雀というわけにいかないから、今回は4回とも衣装を取り替えた。この際ということで何点かはあたらしく買い求めた。コーディネーターは自分である。 京都のどういうところが登場するか、興味があるようでしたら雑誌をのぞいてみてください。9月の第2週号から掲載されるそうです。 もうひとつは日刊紙のエッセイ。これも京都便りみたいなもの。とくに目新しいものではないから、新聞名は申しません。 日曜日の文化欄に載るそうだが、いつ掲載されるかも聞いてないのです。 |
2009.8.15 今年はマクワウリをよく見かける。どんどん甘くなるメロンに押されてひところは完全に姿を消していたが、また人気が復活してきたのだろうか。 というので今週はマクワウリを3個も買った。とにかく安いから、消夏法のひとつとしては、それだけで及第点がやれる。 で、食ってみたところ、むかしながらの瓜の味にすぎなかった。同じ瓜科のほかのメロンの進化度に比べると、周回遅れどころか、10周も20周も遅れ、しかもその差はますます大きくなっていた。 子どものころは、これがこよなく甘美な味覚に思えたんだよなあ。としみじみ感慨にふけりながら、ひとりで全部食った。 要するにこんなマクワウリでさえ、ご馳走だった時代があったということなのだ。それが少年期であったことに、わたしの永遠のトラウマがあるのである。 小学生のころ、一度ナツメを食ったことがある。どこかの農家に行ったとき、庭先に成っていたものをご馳走になったのだが、ほのかな甘みと独特の食感とが忘れられなくて、以来頭のなかにしっかりこびりついていた。 むかしの小学校唱歌に『水師営の歌』というのがある。さすがにわたしのころは教科書から消えていたみたいだが、歌そのものはよくうたわれていた。 そのなかに「庭に一本(ひともと)ナツメの木……」というフレーズがある。 歌が先だったかナツメを食ったのが先だったかわからないが、要するにこのふたつは以後わたしの頭のなかで分かちがたく結びつき、ナツメという果実として成長しつづけるのである。 干したナツメなら何回も食ったが、生のナツメを食う機会はなかった。それがやっと実現したのは、五十数年後。東北へ行ったとき、たまたま立ち寄った道の駅で売っているのを見つけたからだ。 早速買い求め、その夜威儀を正して食ってみた。 五十年間あたためてきた夢とイメージは一瞬にしてくずれた。すかすかして全然味がないのだ。甘味のないサトウキビ(これもいまの人にはわからないだろうが)みたいな食感があるだけ。食わなきゃよかったと、あのときくらい思ったことはない。 きのう散髪に行ったとき、成行でそういう話をしていたところ、店のおばさんが「わたしも家の庭にあったユスラウメが大好きで……」と言いはじめた。 うわーっとこれまた声が出そうになった。子どものころ、母の実家の庭にもユスラウメがあったのだ。花はともかく、宝石みたいにきれいな実は、甘酸っぱくて忘れられない味となっていた。 東京で曲がりなりにも自分の家を持ったとき、真っ先に植えた木のひとつがユスラウメだった。じつをいうといまでもある。 しかし手入れをしないし土地も合わなかったか、いまだに痩せこけたままだ。実は成るがだんだん小さくなって、いまでは小豆大のおおきさにもならない。味にいたってはなにおかいわんや。 現実の果実と記憶の果実とは、まったくちがうものだということを肝に銘じておくべきでした。 |
2009.8.8 ハマさんがお寄せくださった便りを読んでいると、リュウキュウの話が出てきた。リュウキュウという文字を目にした途端、口のなかに猛然と唾がわいてきた。矢も楯もたまらないくらい食いたくなってきたのである。 リュウキュウは土佐でしか食わない野菜である。沖縄原産のハスイモが大元らしいが、同じように茎を食うズイキとはべつもの。ズイキは八頭の茎などだから茎と芋、両方が食える。リュウキュウは芋が食えない。つまり茎だけを食うハスイモだ。ズイキが紫色なのに対し、こちらはグリーンである。 食卓の主役になるような野菜ではないが、しゃきしゃきとした歯ごたえが独特で、土佐の人間には夏の味覚として、子どものころからからだに刷り込まれている。年を取ってくるとなおさらで、味覚というより郷愁そのものなのだ。 札幌にいたころ、デパートの野菜売り場に、このリュウキュウが一度登場したことがある。名前がリュウキュウだったかどうかまではおぼえていないが、料理のレシピを添えて、当時としてはスマートな登場の仕方だった。 早速よろこんで買ったものの、これは売れないだろうなと思った。北海道にはずいきを食う料理文化がなかったように思うからだ。 案の定惨敗としかいいようがない売れ行きだった。いつ行ってもそのまま残っていた。そのうち引っこめられ、以後二度と姿を見せることはなかった。 馴染みのない食いものをどうやって暮らしに根づかせるか、トマトやジャガイモを例に取るまでもなく、その大変なことはいくつもエピソードが残っていることからもわかる。 ゴーヤだって認知されるまで何年もかかっているのだが、高知はそういう点まことにあきらめがよく、根気よく努力をつづける、という能力が決定的に欠けているところなのである。 だがここは食文化の中心都市京都だ。ひょっとすると売っているかもしれないと思ったから、翌日外出したとき、目につくかぎり野菜売り場をのぞいて歩いてみた。 大丸には京都ズイキしかなかった。ところが高島屋に行くと、ただいま入荷しましたと言わんばかりに、大量のリュウキュウが並んでいた。 もっともリュウキュウの名はどこにもなかった。高知白ズイキとネーミングされている。脇のほうに小さくハスイモ。錦市場の八百屋でも見かけたが、こちらはシャキット芋と名づけられていた。レシピが添えてあるのはどちらも同じ。 ちょうど魚売り場に鰯の刺身があったから、早速両方を買い求め、勇躍家に帰った。拙宅の食卓にも、今夜はリュウキュウの鰯なますをのせようと思ったのである。 ふだんはなにもやらないくせに、こういうときは、いそいそと働くのだ。ちなみにかみさんはリュウキュウを苦手にしていて、いまでも自分からすすんではつくろうとしない。手がかゆくなるばかりか、食うと喉がかゆくなるというのだ。 かゆいのはわたしもいやだから、ポリエチレンの袋を手にかぶせ、皮を剥いだり揉んだりした。素手でやったところもあるから、すこしはかゆくなるかもしれないと覚悟していたところ、まったく平気だった。 レシピにも手がかゆくなりますという注意書きはなかったところを見ると、かゆくならない改良種になっているのかもしれない。もしそうなら、なにもかも改良種になってしまうのも困った風潮だと言いたい。本来の風味が犠牲になっているからである。 こうしてその夜の食卓には、リュウキュウの鰯なますがめでたく登場したわけだが、意気込んだ割には、味がいまいちだった。なにかが足りないのである。 格好をつけて調味酢を火にかけたのが原因ではないかと思っている。生酢の鋭さが失われ、眠たい味になってしまったのだ。材料が出回っている間に、もう一度挑戦してみるつもりである。 |
2009.8.1 前回お騒がせなことを書いたので、いろんな方からお見舞いの電話やメールをもらった。 その後順調に回復している。足首もだいぶ動くようになって、いまでは5割方回復したのではないだろうか。 痛みはまったくないのである。足首が動かないだけ。歩くとばったんこ、ばったんこといった足取りになる。両足がそろわないのだ。とはいえ外に出なければ気がつかない程度の障害。大騒ぎすることはなかった。 だが動くようになったとはいえ、以前のレベルまでもどるかどうか、不安がないではない。足首に力が入らなくなっているのだ。蹲踞の姿勢をすると、足が砕けてすぐ横倒しになる。ぐしゃっといった砕け方をするから気味が悪いのだ。 あれこれもっと動かして調べてみたら、どこがどうなったかはっきりすると思うが、いまは怖くてできない。これ以上さらに傷めて、取り返しのつかないことになったら困るからだ。 とにかく人間の躰がこんなに微妙で、バランスがちょっと狂っただけで支障が出るとは思いもしなかった。足首が動かないと靴下を履くのにもひと苦労するなんて、経験してみないと絶対わからないことだ。 今週は御所のなかにある京都迎賓館なるものを見学してきた。 最近できた施設だが、年に1回一般公開をするとかで、申し込みをしてあったところ当たったのだ。それで夫婦そろって指定された時間に出向き、うやうやしく拝見してきた。 結論から先に言うと、期待したほどではなかった。京都の伝統工芸・美術の一大展示場を見せられたようなものだった。 惜しげもない金と時間がかけられ、個々のできばえとしては文句のつけようがなかった。だが入れ物、つまり建物がつまらなかった。住宅展示場のモデルハウスも同然だったからだ。 われわれの住んでいる家と大差なかったのである。 いまどき柾目のそろった天井板とか、節ひとつない長い長い通し柱とか見せられたって、だれもおどろきはしない。幅が2尺からある一枚板の扉なんて、わが家にだってある。 むろんわが家のは印刷した紙を合板に貼りつけたまがいものだが、最近はこの手のまがいものがあふれているから、本物を見せられたってちがいがわからないのである。 そういう意味では、本物を本物らしく見せる工夫が、もっとされてしかるべきだった。 あとで調べてみたら、どこかの建築事務所の設計とあった。ディレクターの名が出ていない。お役所仕事の典型か。あっちの顔を立て、こっちの言い分を聞き、最終的にはのっぺらぼーの個性のない建物になってしまったのである。 こういう建物こそ、個人の才能にすべてをゆだねるべきではなかったろうか。 ひとりの棟梁が存分に腕を振るってつくりたいように建てるとか、自分の趣味や嗜好にこだわった施主が徹底的な我を通してつくらせるとかしたほうが、よりユニークで、人に感銘を与える建物ができたと思うのだ。 いま日本に残っている名建築の多くが、個人の、それも若いときの作品であることを考えると、そういう度量が欲しかったと痛切に思う。 時代がすすむにつれ個人の領域が狭くなる一方では、未来はますます小さくなるばかりではないか。 |
2009.7.25 年を取ると、予想もしなかったことが起きるものだ。怪我をしたわけではないが、歩行障害を起こしてしまった。 今朝生ゴミ出そうとして、玄関先で転んだ。あわてる必要もないのに生来そそっかしいものだから、ささっとサンダルを突っかけようとして、履き損ねたのである。 膝をついただけだったが、からだが潰れたみたいないやな転び方だった。それにしては痛くなかった。起きあがって調べてみたが、なんともなっていない。 それですんだと思っていた。その後半日家のなかにいたが、動きが小さかったせいか、なにも気がつかなかった。 午後所用があって外出した。 外に出てはじめて、ふつうの歩き方ができないことに気づいた。右足はちゃんと前へ出るのだが、左足がうまく出ないのだ。 ふつうだと、歩くとき前に出した足は踵から着地し、体重移動をして、指先を最後に地から離れる。左足はそれができないのである。踵から下ろそうとするのに、地へつけることができないのだ。 あわててたしかめてみると、足首がまったく動かなくなっていた。足首を曲げることも、指先を持ち上げることもできない。鉄人28号の足みたいに、どすんと着地するだけなのである。 そういえばわずかなしびれがあった。しかし痛くもなんともない。ふつうにも、速歩でも歩ける。だが右と左の動きはばらばら、どう合わせようとしてもだめ。ばっこんばっこんといった歩き方しかできないのである。 それではじめて、どこか傷めたらしいと気がついた。明日は京都へ帰るつもりだったのに、それどころではなくなった。あわてて病院へ駆けこんだ。 診てもらったところ、骨には異常がなかった。足首を動かしたり指を動かしたりする神経が傷んだらしい。これ以上悪化する怖れは少ないものの、速効のある治療方法もないという。 明日もう一回治療を受けてみるが、経過次第では、京都に帰ってからも病院へ行くようになるかもしれない。 最終的には自分で足首や指を動かして、感覚を取りもどすしかないというのだ。リハビリである。右手の感覚がまだもどっていないのに、余分なリハビリをもうひとつ増やしてしまった。 もちろんウォーキングやスロージョギングも当分だめ。日常の動きに障害があるわけではないからまだいいとはいえ、つま先が上がらないからすぐつまずく。これが怖い。この日だけでも真っ平らなところを歩いてながら、何回もつんのめった。 若いときは少々つまずいても、反射的に対応できるからよろめきもしない。年を取ってくるとそれができない。そのたびにつんのめり、転倒寸前というところまでゆく。老廃の身をこれくらい痛感させてくれる現象もないわけで、精神の受けるダメージがもっと大きいのである。 今回は孫娘にも対面でき、気持ちよく京都へ帰るつもりだったが、そのめでたさまで吹っ飛んでしまった。 |
2009.7.18 お祭りが嫌いである。京都にいながら、祇園祭にも行ったことがない。去年もたしかどこかへ逃げだした。 祭りには食傷しているのだ。似たお祭りなら天下にごまんとある。 土地ごとに自慢の鉾や山車があり、豪華絢爛を売りものにしている。しかしはっきりいうと、あれはすべて祇園祭の鉾や山のコピーにすぎない。 祇園祭が日本の祭りの頂点に立つことはまちがいない。だからこそ都の雅を、いじましいくらいなぞろうとした田舎の人間の心性がつらいのである。 ところが今回その祇園祭を、恥ずかしいことに4日もかけて見て回った。鉾建てから宵々山に至るまでの一連の過程を、日によっては昼夜走り回って見たことになる。 2週間もつづく祭りだなんて知らなかったのだ。鉾の組み立てがはじまったというから、野次馬根性で、一度見てみようと思っただけである。 無知をさらけ出してなお白状すると、これまで祇園祭の鉾も山も、出来合いのものがあるのだとばかり思っていた。お祭りのたびに埃をはらい、倉庫から引っぱり出してくるのだろうと。地方のコピーはすべてそうなっているからだ。 ところがさすがは本家、見事にちがった。完全に解体して、ただの材木にして保存していた。祭りのつどそれを組み立て、終わったらまたばらして翌年に備える。それを何百年もつづけてきたのである。 組み立てには釘を使わない。縄と木槌、せいぜい楔が使われるくらい。その縄目が芸術の域に達しているくらいきれいなのだ。 だがもっとおどろいたのは、やぐらの組み立てを京都いちばんの繁華街、四条通りの真ん中でやっていたことだ。2車線のうちの1車線を占有して、いくつものやぐらが悠々と組み立てられていた。 狭い町屋の通りに入ると、道路はやぐらで完全に占拠されていた。祭りの期間中車はいっさい入れなくなるのである。 鉾を固定したり起こしたりするときの支柱を立てる穴が、道路に空けられていたこともはじめて知った。ふだんは鉄の蓋がしてあるから水道の施設くらいに思って、まったく気がつかなかった。というより見えていなかったといってよい。 同じ穴はどこの組み立て場にも空けられていたようだし、やぐらを立てる位置を示す礎石が埋めこまれているのも見た。道路が恒常的な祭りの場となっていたのである。 順序としては、やぐらを縄で組みあげたあと、鉾の本体である長い柱を取りつけて90度引き起こす。つまり立てる。 この鉾建てのときがいちばんの見物で、通りは黒山の人で埋まる。うまく鉾が立ちあがったときは拍手が起こる。 大通りではこの鉾建てに大型クレーンを使っていたが、狭い通りではワイヤーをジャッキで引いて、すこしずつ起こして行く。 ジャッキもクレーンもなかった時代の鉾建ては、さぞ大変だったろうと思う。たまたまそういうトラブルのひとつを実際に見ることができた。 引き方がわるかったのか、重心がずれてしまったのか、鉾が持ち上がりはじめたところでゆがんでしまい、反動で民家の屋根を直撃しそうになった。立てたらビルの7、8階まで達する高い鉾だから、やぐらがすこしずれただけでも先端は大きな振幅になる。ロープで何人もの男が必死になって引っぱらないと制御できないのだった。 このときはやぐらの縄組までずれたとかで、全面的な作りなおしになってしまった。おそらく以前ならざらにあったトラブルではなかろうか。 祇園祭といえば鉾山の巡行にばかり目が行くが、そこに至るまでの準備や作業こそが祭りの本体なのだということに、やっと気がついた。 町内の人が力を合わせ、ひとつのかたちをつくりあげていく。祇園祭は町衆の祭りだといわれているが、そういう意味ではまさしくおらが町内の祭りなのだった。 鉾ができあがると、つづいて曳き初めが行われる。本番さながらの飾り立てをし、町内を100メートルくらい曳き歩く。このときは地元の小学生が招待されるほか、見物人にも曳かせてくれる。 つぎは飾りを見に行かなければならない。夜は夜でお囃子がはじまる。踊りを披露する鉾もある。 あきれたことに、このとき飾ってあるタペストリーや段通は、中飾りといって本番のとき使われるものではなかった。本番用は当日まで座敷に飾られていて、これも別途に見せてくれる。 ふだんはひっそりとしている裏町が、このときとばかり蘇生してしまったのには軽い感動すらおぼえた。扇子屋、呉服屋、小物屋など、いつもは人影のない商店街が祭り提灯をともして大勢の客で賑わっている。わが家伝来の屏風を見てもらおうと、玄関先を開放して展示している家もある。 結局4日間通いつめてしまい、おかげで仕事が全然できなかった。 仕上げは15日の宵々山だ。市の中心部がすべて歩行者天国となり、ものすごい人出。その人混みを泳ぐようにして、全部で32ある鉾と山のほとんどを見て回った。それでも見残したものが3つあった。 16日が宵山で、祭りはこれからクライマックスになるところだが、わたしが報告できるのはここまでである。 その日、わが家へは東京からかみさんの友だちがお祭り見物にやってきた。 わたしのほうは入れ違いに東京へ。 京都の喧噪をよそに、おだやかな独身生活にもどったところである。 |
2009.7.11 デパートの果物売り場でヤマモモを見つけたから即刻買い求めた。1パック499円。アメリカンチェリー並でけっして安いとはいえない。 今年も先月、高知の妹から大量に送ってもらい、すべてヨーグルト用ソースに加工した。来月いっぱいくらいまで、朝夕楽しめる量を確保している。 ただ生の果実は、以後目にする機会がなく、今年はもうお終いだろうと思っていた。 しかしそこは京都、ちゃんと売っていた。だからうれしくなって後先も見ず手を出したのだが、残念ながら産地は愛媛県だった。しかも色があまりよくない。完熟している暗紫色にほど遠く、どちらかといえば茶色がかっている。 しかしヤマモモは日持ちしないから、多少早めに収穫するのもやむを得ないか、とそこは好意的に解釈して持ち帰った。 いくつか選ぶと塩もみして洗い、試食した。そしたら全然うまくなかった。 かみさんは一粒口にしただけでもういらないと言うし、洗った以上仕方なくわたしも4つ5つ食ったものの、それ以上は口に入れる気がしなかった。完全な未熟だったのである。 結局今回も煮詰めてヨーグルトソースにするしかなかった。 これも味はいまいち。種がやたら大きくて、果実が外側にかろうじてくっついている上げ底みたいな実なのだ。はっきりいって、市場に出せるような代物ではなかった。 これでは二度と買ってくれる客はいないだろうと、ヤマモモファンとしては少なからず残念なのである。 じつは今年高知から送ってもらったヤマモモにも、かなり不満があった。 実は大きいし、種も小さい。すべてが暗紫色に熟し、そのまま口にほうばってもびっくりするぐらい甘かった。まったく酸味がないのである。 どうも果実用に品種改良されたものではなかったかと思う。そのかぎりでは成功していた。これまで食ってきたヤマモモのなかでは、まちがいなくいちばんうまかった。 反面酸味とか、味のばらつきとか、野性味のかった、準果物みたいな果実の爽やかさがきれいになくなっていた。それはフルーツソースにしても変わらなかった。たしかにうまいのだけど、なにか物足りないのである。 食うたびに、なくしたものを思い出してしまう味覚、と言ったらすこし酷にすぎるだろうか。 総合的にいえば、改良したもののほうが万人受けしてひろく食べられると思うのだが、個人的にはヤマモモくらい、いつまでも山の木の実であってもらいたいのだ。ヤマモモの味覚とは、なによりも郷愁の味にほかならないからである。 夏になると山のなかに駆け入り、木によじ登ってほうばった、金を出して食うことなど考えられもしなかったガキのなれの果てには、飼いならされたヤマモモはやはり無念なのである。 |
2009.7.4 今週もゲラが出た。 このまえ直したゲラの再校である。本来なら再校ゲラは疑問箇所に目を通すくらいしか見ないのだが、今回は大幅に手を入れたので、もう一回読まなければ不安なのだ。身から出た錆とはいえ、前よりよくなっているんだから、と思って励むしかない。 このところ毎晩走っている。 まだ膝が完全ではないのだが、運動不足の解消と、次回の糖尿病検診までに、なんとか血糖値を下げておかなければならない事情があって踏み切った。 きっかけはテレビでスロージョギングなるものをやっていたから。要するにゆっくりした速さで走るジョギング。ウォーキングよりよいというのである。 ウォーキングならこれまでずっとやってきた。というよりかたくなにジョギングはやらなかった。あれはからだに悪いと、固く信じている。ジョギングの提唱者だったアメリカ人の本家本元は、ジョギング中に心臓麻痺を起こして急死しているのだ。 スロージョギングはからだに大きな負担をかけない。自分のできる範囲内でゆっくり走る。それでもウォーキングとは、使う足の筋肉がちがうというのだ。 なんでもそうだが、運動はからだが慣れてしまうと、なかなか効果が上がらなくなる。ウォーキングもそうで、より負荷をかけようとすると、もっと速く歩くか、もっと長く歩くかしかない。これはなかなか事情が許さないことである。 スロージョギングなることばははじめて聞いたが、足の筋肉には速筋と遅筋とがあって、運動の大半は速筋を鍛えようとしている。それに反してこれは遅筋を鍛える運動なのだという。そこまで言われたら、ふーんとうなずくしかないではないか。で、軽率にも早速はじめてみたのである。 とくに目新しいものはない。要は何時間でもつづけられる速さで、ゆっくり走るだけ。現在鴨川河畔を走っているが、いまのところ時速5キロくらい。ウォーキングよりはるかに遅い。足踏みしながら、すこしずつ進んでいるようなものである。 それでもジョギングにはちがいなく、走ったあとの足の疲れ方は、明らかにウォーキングとちがう。まだ2週間だから目に見えた効果は出ていないけれども、次回の血液検査には顕著な効果があらわれてくれそうで、ただいま張りきっているのである。 |