Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2007年12月までの「きのうの話」へ



2007.12.29
 10年連用日記を買いに大坂まで行ってきた。京都から大阪までというといかにも遠出したみたいだが、電車賃にしたら往復800円。八王子・新宿ほどの距離でしかないのだった。
 口惜しいことに京都では見つからなかった博文館の連用日記が、大阪ではたやすく手に入った。京都の人口は147万人、札幌より2割ぐらい少ない。商圏もそれだけ小さいということだろうか。思わぬものに不自由することがある。

 とにかくずっしり重い日記をリュックに入れたら、それでお終い。あとはめしを食った程度。在阪時間は2時間で終わった。ほんとはほかにも行きたいところがあったのだが、どこへもたどり着けそうにないから逃げ帰ってきたのだ。

 これでも大阪では2年近く暮らしている。自転車に乗って隅から隅まで走り回っていたから、地理は完璧に頭へ入っていた。それがいまではまったく役に立たないのである。
 なにしろ50年以上昔のことなのだ。地名とか駅名とかはしっかり頭に残っているが、街がすっかり変わり果てたから、何の役にも立たない。むしろ記憶はかえって邪魔になるのである。
 できたら「行きずりの街」を日本でいちばん売ってくれたという梅田地下街の紀伊国屋をのぞいてみたかった。しかしそこへ行きつくことすらできなかった。結局阪神デパートの地下で、この2ヶ月間に巡り合ったなかでは、いちばんいいパン屋ではなかろうかと思われる店のパンを買っただけだった。

 まだそれほど使っていないプリンターのインクがもうなくなってきた。警告マークが出はじめたから、あわてて補充インクを買いに行った。6色入りのカートリッジだが、個々のインクのなくなり加減は色によってかなりちがう。
 この際ブラックインクを多めに仕入れるつもりだった。わたしの場合カラー印刷はときたまで、ほとんどは文章をプリントアウトするときに使っているからだ。
 ところが黒だけのインクカートリッジというのは売ってなかったのだ。つまりカートリッジはあくまでも6色入りしかなく、なくなった色をそのつど単独で補充するしか方法がないということである。
 もちろんこの6色をすべて黒にして使うことはできなし、どれかひとつの色でも、それがなくなったら、その段階で印刷はストップしてしまう。
 なおけしからんことに黒で印刷しても、ブラックばかりか、ほかの色まですこしずつ減ってしまうのだ。このカートリッジがひとつ5000円あまりするのである。

 知らなかったなあ。ざら紙にプリントアウトしたメモ代わりの自分の文章が、6色のインクを駆使した玄妙なブラックで表現され、おかげでコストはこれまでの何倍にもついていたなんて、最新のプリンターがこれほど不合理な金食い虫だったとは夢にも思わなかった。
 その点以前使っていたプリンターは、3色刷だったが黒で印刷するときはブラックインクだけを使っていた。シンプル、かつローコスト。おかげでプリンターはいまでもすべてそういう方式だとばかり思っていた。

 ちなみに前のプリンターはHP。これまでHPのプリンターは2回使っているが、どちらも丈夫だったなあ。最後の最後まで印刷機能は故障ひとつしなかったのだから。
 こともあろうにそのプリンターを、スペアのカラー、ブラックインクまでつけてくず屋に進呈してきた。おそらくそのまま棄てられたのじゃなかろうかと思うのだが、もったいないことをした。紙送り機構が摩滅したため使いづらくはなっていたが、印刷自体には何の問題もなかった。あれを持ってくるべきだった。

 性能のよい道具というものは、コストもそれだけ高くつくということなのだ。そういう経済原則を忘れて、あたらしいものに飛びついたわたくしが愚かでした。


2007.12.22
 今夜は久しぶりにほっとしている。京都にきて以来、もっともくつろいだ夜をすごしているかもしれない。この2ヶ月間かかりっきりだった仕事がやっと終わり、きょう原稿を渡したところなのである。

 しかしそれも今夜だけ。それほどのんびりしている間はない。気がついてみると、今年もあと10日しかないではないか。仕事優先でなにもかも後回しにしてきたため、身の回りのことでしなければならないことが山ほどたまっている。今年はもうこのまま失礼するつもりだけど、年賀状もとうとう書かなかったのである。

 部屋の中も、脱いだもの、着たもの、すべてそこらへ投げだしてる。衣類の整理をするためにあたらしい衣装ケースが必要なのだが、それを買いに行く時間がなかったので、段ボール箱に突っこんで部屋の中へ放りだしてあるのだ。

 困ったことにこういう日常小物のそろう大手スーパーというのが、京都にはないのである。食料品なら小さなスーパーがいくつかあるが、品揃えとなると不十分。あとは一足飛びにデパ地下となってしまって、その中間のショップがない。暮らしに密着した細々したものは、意外と手に入りにくいのである。
 車で行けるスーパーなら、中心部からだいぶ外れたところに2軒ある。これまで1回ずつ足を運んでみたが、距離がありすぎて、ふだんの買い物に使えるほど便利とはいえなかった。それに京都には車をもってきていないのである。
 来た当初はどこかに駐車場を借りるつもりであれこれ調べていたのだが、そのうち面倒くさくなってもういいや、ということになってしまった。日常のほとんどの用は歩いて足せる。たまに郊外へ行くか、月に1、2度の買い物のために、わざわざ車を持つ必要もないのだった。
 かといって東京へ置きっぱなしにしておくと、またバッテリーが上がってしまう。それで信州のせがれに、乗っていいよと言ってやった。やるとまでは言わなかったが、子どもにしたらもらったつもりだろう。この前来たときはもうそれに乗ってきた。おかげでこれからは東京へ帰っても車がないことになってしまった。

 これで生活用品の買い物も、電車で行ける駅前のスーパーを探さなければならなくなった。街が特殊なだけに、こういう不便さもあるのである。
 いま困って探しているのが日記。10年連用日記を使っていたが、それがこの暮れで一杯になる。つぎもあと10年。そんなに生きられるかどうかわからないが、使い慣れたものだからできたら同じものにしたいのだ。それがこの間から探しているのに、見つからないのである。
 ちがう書店が出したものならある。しかしこれまでずっと博文館のものを使ってきた。そうなると、たぶんこれが最後の購入になるだろうから、たかが日記とはいえ、ここで変えるのはいやなのである。あすから書店巡りをして探すつもりだ。


2007.12.15
 今週はかみさんが不在なのでひとり。おかげで好きなものが食えると張りきっていたが、そうたびたび外出するわけにもいかず、いまのところ1日1回の外食で終わっている。

 昼めしを食いに行ったついでに晩のおかず、ないし弁当を買ってくるというパターンが多い。弁当やパック入りの総菜を買うとゴミが出るのできらいなのだが、このゴミ出しがいまのマンションは楽なのである。
 1階にゴミ入れがあり、ここに放り込んで置きさえすれば、業者が回収にきて持って行ってくれる。それも毎日。分別する必要すらないのだ。
 市のゴミ出しだと曜日が決まり、分別もしなければならないはずだが、それとは関係のない民間の業者なのだ。マンションと業者とが個別契約を結んでいるのである。
 京都にはそういう業者がいくつもあるらしく、ときどき回収して廻っている収集車を見かける。回収したゴミがどう処理されるのか気になるものの、便利なことは便利。ただしいまのご時世を考えたら、こういう収集方法がいつまで許されるのだろうか。長くつづかないような気はするが。

 今週はうまいラーメンを食いたくて試してみた。インターネットで口コミを調べ、人気の高い店というのに2回も行ったのだが、結果はみごとな外れ。能書きばかりたれるにしては、ぬるいラーメンを平気で出すのだ。若者に人気がある店というのは、どうもこういう外れが多い。

 京都の食いもので失望したのはパン。菓子パンではなくて、フランスパンやブールのことだ。これが思いのほかうまくないのである。かりっとしていない。べちゃっとしている。これはわたしだけでなく、かみさんも同じことを言っている。
 デパートが3つあるし、ひとつの店に2軒以上のパン屋が入っているから、品物はふんだんにある。一通りすべて食ってみたが、ことごとくダメ。札幌三越はジョアンのパンに遠く及ばないのである。
 ジョアンのパンは、東京の三越(といっても本店は知らないが)よりうまいと前々から思っていた。つくりかたや原料がちがうわけはないから、気候、とくに湿度が影響しているのではないかと思う。毎日食うものだけに、この齟齬は大きかった。

 いま住んでいる近くには、食いもの屋が何軒かある。こんなことを言っては失礼かもしれないが名もなき和菓子屋、漬物屋、蕎麦屋、煎餅屋など。まだ自分の中でランクづけできるほど行ってないが、蕎麦屋のラーメンなど和風だしのきいた懐かしい味で、今週食った能書きラーメンよりはるかにましだった。
 あきれたことに無人売店まであるのだ。実家か親戚、といったところから持ってきているのだろうと思うが、売っているのは蜜柑と柿だけ。小ぶりの蜜柑が10個ぐらい入って100円。柿は2個で100円。
 ふつうの家なのだ。品物も商売用としてつくっているのではない素朴なかたち。安心できる味覚でもある。ときどき買っているが、ぜんぶ売れても1000円ぐらいの商い、シーズンが終わったら何を売るのだろうか。かみさんの話だと漬け物を売っていたこともあるという。
 さらに、焼き芋屋まであるぞ。どう見ても店頭にあるのはラムネと焼き芋、ほかのものは売ってないのである。ばあさんをときどき見かけるが、客の姿はまだ見たことがない。
 焼き芋は大好きだし、家でもしょっちゅう焼いているから、一度買ってみたい気はする。しかしまだ手を出していない。気に入らなかったらもう買わないだろうし、するとつぎから前を通りにくくなるからである。

 同じ理屈でいま散髪屋を探している。デパートにあれば一応信用できると思うが、京都にはない。たぶん街の散髪屋が健在だからだろう。
 家のすぐ近くにも1軒ある。100年ぐらい歴史がありそうな構えで、雰囲気も悪くない。しかしやはり行きにくいのである。行って気に入らなかったら、つぎから前を通りにくくなる。こういうものはある程度離れたところで探したほうが無難だろう。


2007.12.8
 仕事の中休みということにして、徹夜明けではあったが、かみさんと散歩がてら、下賀茂神社まで行ってきた。名所旧跡を訪ねたのは、これがはじめてである。

 下鴨神社の糺の森は好きなところで、これまで何度か足を運んでいる。
 境内を流れている小川がいい。文字通りせせらぎで、護岸めいたものがまったくなく、足許をさらさらと流れてゆく。この小川のほとりを歩くだけで、いつも来てよかったと思うのである。
 ところが今回は勝手がちがった。以前は自由に歩けた境内が、柵をしてあってそこから出られないようになっている。もちろん小川の縁へ出られないことはないのだが、それは決められたところだけである。
 ずいぶん無粋なことをするなあと、はじめは腹立たしく思った。しかし樹木保護のためという制札が立っているのを見て、納得した。昨今の観光客の多さをみれば、こうでもしないと環境を保持できないだろうと思うのだ。

 わたしまで移って来たくらいだから推して知るべしだが、ことしの秋の京都の人出はものすごかった。
 わたしはそういうところへ行ってないにもかかわらず、かかっていた病院が清水寺の方角だったため、ふだんは5分で行けるタクシーが十数分かかる経験を何度かした。タクシーの運転手が、観光シーズンなのに稼げないとぼやくのである。
 先週の日曜日も午後遅く、約束があったので出かけた。タクシーで5分のところだからそのつもりで家を出たところ、大通りへ出てびっくり。大渋滞でまったく動かなくなっていた。

 かみさんはこの秋、何ヶ所か紅葉見物に出かけている。だから人出のものすごさを身をもって知っているのだが、大半が中高年層だったそうだ。秋の京都へ毎年来ているという夫婦の口から、ことしの人出はとくにすごいという声も聞いたとか。
 これくらい観光客が増えてくると、目にあまる人もそれだけ増えくる。殺到する観光客の害からどうやって施設なり環境なりを守るかということは、とくに京都など、これからますます問題になってこざるを得ないだろう。いかに観光客を呼ぶかという時代から、いかに観光客を閉め出すかという時代に入ってきたような気がするのである。

 ほんの2時間ばかり歩いただけなのに、最後はげっそりするぐらい疲れた。このところまったく歩いていなかったせいだ。万歩計の歩数は9000歩台。それでもこの10日間に歩いた全歩数より、多かったのではないかと思う。

 それくらい家から出ない日がつづいている。しかも年内いっぱいつづく。年が明けたら、体力維持や老衰防止のためなにか考えなければなるまいと思っているが、このぶんだとできるだろうか。以前より忙しくなっているのである。


2007.12.1
 やっと治った。今度こそ治った。99パーセント回復した感触がようやく得られた。それにしても長かった。1日に越してきてまるひと月、なんとも最低の1ヶ月だった。おまけに最後は、とびきり痛い関節炎のおまけまでついた。

 金曜日の夜から左足が急に痛くなり、おかしいな、おかしいな、といっている間にどんどん進行、夜中になると痛くて痛くて、歩くことすらできなくなっていた。足をつくことはもちろん、持ちあげることも、動かすこともできない激痛なのだ。
 つらかったのがトイレ。ひーひー言いながら這って行った。朝を待ちわびて病院へ。土曜日だったが、運のいいことに内科の検診を受ける日になっていた。

 ただしマンションの4階から、1階へおりるのにひと苦労である。手すりにつかまり「こんな家、引っ越してやるー、引っ越してやるー」と毒づきながらやっとの思いでおりた。
 タクシーで病院へ行き、着いたら即車椅子。いつの日か、こんな格好になってしまうのだろうか、と思うと情けなくて、情けなくて。
 痛風か、骨折かもしれない、というので検査してもらったところ、その疑いはなしと出た。おおかた急性の関節炎だろうということで、落ちついたのである。ひと安心だった。

 じつは30代に一度、肘の急性関節炎をやっている。週刊誌のアンカーをやっていたころのことで、このときも仕事先の編集部で、仕事中に症状が出た。
 左腕が痛くて痛くて、仕事どころではないのである。かといって夜中だし、仕事先でのことだから、我慢するしかないのだ。それこそ泣きながら仕事してようやく終え、朝タクシーで病院へ駆けこんだ。そのときは左腕が丸太みたいに腫れあがり、シャツを自分で脱ぐことすらできなかった。
 このときも急性の関節炎だったから、痛み止めが劇的に効いた。あとは湿布をしただけなのだ。ただその痕跡はいまでも残っており、冬に腕が冷えすぎると、しくっ、しくっとうずいて人を脅かせてくれる。

 今回も痛み止めをもらい、家に帰って3時間寝たら、もうなんとか動けるくらい治まっていた。1晩寝ると、杖をついて外へめしを食いに行くことができた。ただ腫れが残っていたので、湿布は今朝までつづけたところである。

 病院通いも今週で終わりだ。あれほど悪かった血液検査の数値も、医師がびっくりしたぐらい下がり、ほぼ正常値を回復した。
 要は体力が落ちているところへむりをしたため、そのつけがどっとまわってきた、ということだったのだろう。大元の原因が、今回の引越にあったことはまちがいない。

 今年80になる先輩から、70をすぎて引越しするなど酔狂にもほどがある、といって叱られたが、まさにその通りでした。いや、つくづく懲りました。
 というわけで、やっと躰はもとにもどったが、仕事が遅れているので、12月いっぱいは部屋に閉じこもる生活がつづきそうだ。
 外に出るのはめしと、トイレに行くときぐらい。それこそ1日数100歩しか歩かない毎日になる。京都へ越してきて、買い物以外ではまだ街を歩いたことすらないのである。

 かみさんの話によると、京都の紅葉はそろそろお終いだそうである。


2007.11.24
 今度はジンマシンが出た。もう踏んだり蹴ったりである。微熱がつづいて気分は悪いし、夜も全然眠れない。それでしかたなく睡眠薬を飲んだ。もともとはかみさんがもらっている薬である。
 これまで何回もお世話になっているが、まる1錠を2日間つづけて服用したのははじめてだった。おかげで6時間ずつ、ぐっすり眠れた。ところが2日目は、からだの具合がおかしいので目が覚めた。妙にかゆいのである。あわてて調べてみたら、下半身にべったり赤い斑点が出ていた。

 指の怪我が治ったばかりなのに、また病院通いである。しかもはじめて行った病院だから、待合室でふーふーいっているのに、あれこれ検査するだけ。
 しかも結果がよくなかった。胃が炎症を起こしている。白血球が異常に多い。血糖値が高い等々。それで明日、CTスキャンを撮ってみましょうということになった。
 じつは指の怪我をしたときも血液検査をされている。そのときの結果は、尿素窒素がやや高いものの、ほかはすべて基準値内。立派なものです、とお誉めのことばをいただいた。
 それから2週間しかたっていない。そう大きく変わっているはずはないのだ。ただ今回は風邪を引いて、引っ越してきた直後なので体力が落ちている、と説明したのだが、医者がそんなことばを聞くわけはないのである。

 ただしこれは医者が正しいのだそうで、患者の言うことに耳を傾けるのは禁物なのだそうだ。患者が申し立ててくる病名を信じるのは、誤診の元だからである。
 おかげでしんどいのに翌日も病院へ行き、今度は胴体の輪切り写真を撮られた。ただしこの日はきちんと説明してくれた。胸部に20代のとき患った結核の跡が残っているが、これがまだ治りきってなくて、それがぶり返したのではないかと疑ったのだそうだ。

 おかげでそちらの疑いは晴れ、ただの風邪ということになった。それで安静にするよう命じられ、この3日間、1歩も外へ出なかった。食欲がなくてろくに食えない。いちばん喉を通りやすかったのが、なにも入っていない白粥だった。
 明日もう一度行って、血液の再検査をしてもらう。気分も今日からだいぶよくなり、やっとふつうのめしが食えるようになった。ジンマシンは、その後睡眠薬を飲んでいないせいもあって、出ていない。斑点もいまでは消えかかっている。

 おとといは光ファイバーの工事に来て、これでわが家も光通信になった。ところがまるっきり、速くなった実感がないのである。それまでのADSLが札幌と比較にならないくらい敏捷だったから、考えてみたらなにひとつ不足はなかった。素人考えで、これより何倍もよくなる、と思いこんでいたこちらが浅はかだった。


2007.11.17
 おととい抜糸してもらい、きのうはついに包帯もとれた。ただしまだ皮膚がうすいから、しばらく気をつけるようにといわれ、大事をとって救急絆で保護している。おかげで見た目の悪さはそのままだ。
 それはいいとしてからだの具合がおもわしくない。最低の毎日を送っているのだ。体力がこれほど落ちていたとは思わなかったということである。

 注文してあった組立本棚が土曜日に届き、それを組み立てたのが思惑ちがいのもと。重いは、きちんと噛み合わないは、ふたつの棚を組み終えたときは疲労困憊、夕飯を食う気力すらなくしていた。
 夜中になると突然腹具合がおかしくなった。下痢がはじまったのだ。これが数日つづき、やっとおさまったと思ったら、今度は寒気がしはじめた。
 どうやら風邪まで引いたみたいなのである。わたしの風邪は、ひどい寒気がしてぶるぶるふるえていたかと思うと、汗がだらだら出はじめ、着ているものすべてがぐしょぐしょになってしまう。
 それがおさまったときはすっきりして「あ、治った」という気分になるのだが、しばらくするともとのもくあみ。この繰り返しだ。
 わたし特有のこの風邪の症状を、久しぶりに思い出した。札幌で経験しなかったのは、暑すぎるほどの暖房がよほど身に合っていたからだろう。

 あれやこれや、いろいろ考えてみると、想像以上に体力が落ちていた、としか思えないのである。
 札幌へ引っ越したのは1999年のことだった。60代の前半だったし、気持ちとしては50代のつづき、壮年といってまちがいではなかった。
 しかしそれから8年、来月わたしは満71歳になる。50代から60代へかけての8年と、60代から70代へかけての8年では、体力がまったくちがうみたいなのである。わたしがその自覚を欠いていたということだったのだ。

 だいたい京都へ越すことにしたのもほんの思いつきである。ある日いきなり「そうだ、京都へ行こう!」となって、後先のことも考えず来てしまった。
 いまの家だって、エレベーターのない4階というのはたしかにハンデだったが、4階くらいなら運動不足解消になっていいだろう、程度にしか思わなかった。実際に住みはじめてみると、足の弱っているかみさんには最後の1フロアがけっこうつらいらしいのだ。これはまずかったなあ、となんとも忸怩とした気持ちなのである。

 郵便受けの小さかったのも予想外だった。小説雑誌なら1冊か2冊でぎちぎちになってしまう。あいにく家を見に来たときはまだ工事中で、郵便受けなどどこにもなかったのである。
 完成後にやって来て、玄関先でこの郵便受けを見ていたら、その段階でここには入居していなかったと思う。
 余分なスペースはないから、入らない郵便物は、そのつど4階まで持ってきてもらわなければならない。それもオートロックだから、こちらが不在だったら持ち帰るしかないわけだ。
 数日前ようやく各社の担当編集者にメールで転居通知を出したのだが、そのとき申し訳ないけど、当分雑誌、本の送付はお断りしたいとお願いをした。

 今週は『約束の地』の文庫の見本刷りがあがってきた。著者は10冊もらえるのだが、これも事情を話して2冊にしてもらった。
 数日後、1冊ずつ分冊して送られてきた本が郵便受けに入っていた。600ページ以上ある分厚い本だ。2冊入っただけで、郵便受けはいっぱいになっていた。
 考えてみると、ふつうの人の暮らしには、これくらいのポストで十分ということなのだろう。そういうところへ、わたしが勝手に割り込んできたということだ。イスカの嘴のくいちがいみたいなことは、これからもまだ起こりそうである。


2007.11.10
 あっという間に10日たってしまった。
 当初のつもりでは1週間もあれば片づいて、新居で張り切って仕事をはじめているはずだった。結果は思惑ちがいもいいところ。いまだにむき出しの本や小物に囲まれ、小さくなって寝ている。

 指の怪我をしたのがいちばんいけなかった。鋭利な鋏で指先の皮膚がなくなるくらい切ってしまったのだ。それで縫って皮膚を寄せた。以来毎日医者通い。まだ抜糸するところまでいっていない。
 指を使うな、と医者は言うのだが、親指の先だから使わないわけにいかないのだ。使うからますます回復が遅れる。そのいたちごっこで、この不注意は高くついた。

 おととい、荷ほどきして出てきた大量の段ボール箱を引き取ってもらい、それでだいぶすっきりしてきた。以後は片づけのペースも上がってきた。
 夜になると寒気がじわじわはい上がってきて、わたしをおびえさせていた暖房問題も、遠赤外線パネルヒーターを購入したからなんとか解消できそうだ。
 ただし真冬になってもこれひとつでまかなえるほど暖かいのかどうか、疑問は残っている。それに24時間つけっぱなしで使うわけだから、電気代がどれくらいになるか。これはこの際目をつむるしかないだろう。

 きのうはあたらしいプリンターが届き、きょうはあたらしいテレビがやってきた。わが家待望の、はじめてのデジタルテレビである。
 あしたは書棚、あさっては仕事用の椅子と、まだ全部届いていないものもあるから、部屋の環境が最終的に整うまであと1週間はかかるだろう。
 物はできるだけ増やさないようにということでやってきたが、なにもない新築の家だからそれだと片がつかない。これが最大の誤算だった。

 だいたいいまどきの家だから和室がないのである。むろん承知で入ったのだけれど、その分もの入れが少ない。押し入れ代わりのウオークインクローゼットはあるが、布団の置き場はないのだ。棚類にいたってはゼロ。
 なにもかも後手後手となってその対応に追われ、デイパックを背負って毎日買い物に出歩いている始末である。
 おかげで買い物以外の用件ではまだ街を歩いたことがない。バスには数回、地下鉄には1回乗ったが、いずれもスーパーや電気屋を求めて買い出しに行ったもの。街の真ん中すぎて、間に合わせの物を買うのはけっこう不便なところだった。

 11月はじめを目標にむりやり越してきたのも、じつをいうと京都の紅葉に間に合わせようという魂胆があったからだ。このぶんだとそれどころではなさそうである。


2007.11.3
 引っ越してきた。
 それはいいが荷ほどきのさい指を怪我してしまい、以来作業は半分ストップ。片づけまで遅々としてはかどらなくなった。夜は段ボール箱を四方へ寄せ、その間に布団を敷いて寝ている始末である。
 切ったのが親指の先。血が止まらないからやむなく医者へ行き、縫合してもらった。きょう診てもらった段階では、まだ出血が止まっていなかった。しばらくかかるだろうといわれているが、ときがときだけに不便である。

 あたらしい街については、まだ越してきたばかりだからなんともいえないが、自分で考えて選んだもの。心身を一新し、あたらしい日々を迎えようとしているあらわれだと思っていただこう。

 住まいは一応街の中心部にある。地下鉄の駅、2つのデパート、錦市場という通りまで歩いて10分。鴨川まで5分。これでも当初の目標はすべて5分以内だった。
 住み心地、とくに暑さ寒さとなると、体験してみないとわからないが、だいぶ手こずりそうな予感がする。エアコンが1個ついているだけで、ほかはなんにもついてないのである。
 いまや標準装備の感がある床暖房はもちろん、シャワートイレもなかった。新築だから当然トイレくらいはと思っていたから、迂闊にも入ってみるまで気がつかなかったのだ。
 仕方ないから居間はガス暖房にしたが、これとてガス栓が台所にあるだけ。そこからガスホースを床へ下ろし、居間まで引っ張って行かなければならないのである。

 仕事部屋の暖房はこれから考える。なんせ寒がりで、生存適正温度域が20度から25度、一部爬虫類みたいに狭いのだ。室内気温が常時24度あった北海道の冬こそは、なにものにも代え難かったとつくずく思うのである。

 とにかく早く部屋を片づけたいが、いまのところ目鼻が立っていない。それに捨てなければならないものが山ほどでてきた。なんせ98平米の部屋にあったものを77平米のところへ持ってきたのだから、これははみ出しますわな。ちと考えがあまかった。

 昨日からはじまったばかりなのに、いきなり親指を怪我してのドジなスタート。あたらしいペースができるまで、まだ10日はかかるだろう。


2007.10.28
 あわただしい1週間だった。変な言い方になるが、しなければならないことがありすぎて、なにもできなかった。引っ越しというものが、莫大なエネルギーを要するものであることをつくずく思い知らされた。片づけても片づけても片づかないのである。

 かといって、じゃあ懲り懲りかというと、そうでもないから人間というものは厄介である。これまでの自分をリセットして、環境のちがうところで1から出直すチャンスとばかり、けっこう張り切って精を出しているのだ。3年に1回ぐらいは引っ越したほうがいいかもしれない。作家としては断然そう思うのである。
 ただ雑用が多すぎて日常生活のリズムはずたずたになった。ウォーキングも今月は行かずじまい。ジムは数回、これも風呂とサウナに行っただけである。

 引っ越し先でも病院通いをしなければならないから、昨日は紹介状を書いてもらった。帰途いつものように北大の構内を通ると、銀杏並木のトンネルがみごとに色づき、一部では降りそそぐみたいに散っていた。この光景も来年は見られないのかと思うと、少々残念な気がしないでもなかった。
 夕方になると、目の前を粉雪のようなものが舞いはじめた。あれ、雪虫かな、と思ったがそれにしては季節が早すぎる。そのまま帰ったところ、夜のニュースでやはり雪虫だったと知らされた。だったらもっとよく見ておくんだった、と例によってあとの祭りである。

 リセットついでに事務機器も大方を処分した。廃品回収業者にきてもらい、古いパソコン、ワープロ、スキャナ、プリンターなど、一切合切持って行ってもらったところだ。
 いずれも使おうと思えば使えるのだが、仕事の性格上まだ使う機会があるとは思えないものばかり。それを考えると処分するほかなかった。
 なかでもプリンターは現役のぱりぱりだった。10年近く使っているのにどこも故障しない頑丈きわまりない代物で、使っているほうがいやになって、早くこわれないかとそればかり願っていたが、とうとうこわれてくれなかった。
 どこもわるくないにしては、しょっちゅう紙づまりを起こすのだ。今回も最後のご奉公で100ページあまり印刷したところ、倍近い紙を消費させられた。
 カラー印刷も、タイプが古いからいちばんよく使うL判サイズの設定がない。はがき大か、その上のA6判になってしまう。こわれないことが、これほど頭痛の種になるとは思わなかった。

 きょうで捨てるものの処分がほぼ終わり、あとは持って行くものばかりとなった。
 ただいま座敷中段ボール箱だらけ。そのほとんどが本である。あれほど処分したのにまだ山ほどある。見渡してはため息をついている。

 来週引っ越します。


2007.10.20
 風邪が一進一退、喉の痛みと、咳が止まらないので苦しんでいる。風邪を口実にするわけではないが、仕事に身が入らない。精神集中ができないし、つづかないのである。

 引越しに備えて先週から部屋の整理をはじめた。最大の難関は本である。片づけても片づけてもいっこう減らない。この際仕事に必要なものだけを残して処分する気だが、仕分けするだけで大仕事なのだ。
 ここ数年やっと欲しい本が買えるようになり、おかげで札幌へ来てからの蔵書が急激に増えていた。一方で押入れの中には、東京から持ってきたまま、開いてもいない本満載の段ボール箱が山積みとなっていた。

 なにしろ東京では住めない98平方メートルの部屋を借りている。ものをしまうスペースがふんだんにある。そのうち整理する気で突っ込んでおいたところ、いつの間にか8年たってしまったというわけだ。
 すべて東京から持ってきた本である。30数年住んだ池袋の仕事部屋を引き払うとき、必要な参考書のみを厳選して持ってきた。それが現実にはガムテープをはがすことなく、押入れのごみにしていた。
 そればかりではない。物置台として使っていた段ボール箱がほかに4つあった。こんなに長く住むつもりはなかったから、家具をできるだけ買わないことにして、テレビ台だとか、電話台だとかは、本の入った段ボール箱で間に合わせていた。カバーをかけたらそれらしい台になった。結局これも8年間そのままだった。

 今回はじめてすべての箱を開いた。当然のことながら「あ、こんなところにあったか」という本が何冊も出てきた。見つからないから仕方なく、また買ったものも何冊かある。
 自分がしまっておいて、こんなところにあったかもないものだが、全部ひっくり返して探すくらいなら、新しく買ったほうがいいということだったのだ。今回はそれもチェック。またまた必要なものだけを選別して持って行くことにした。

 その結果大量の本がはみ出すことになった。これから時代小説に専念するつもりだから、現代ものの参考書は必要なくなったのである。
 この本をどうするかが頭痛の種。つぎの住まいは北海道に比べると2割以上狭く、とても持って行けないのだ。かといって、人にやるのは迷惑というもの。本というのはその人間の分身みたいなものだから、他人にとっては何の値打ちもないものなのである。

 すると40数年来の友だちが名乗りをあげ「読むよ」と言ってくれた。年がひとつちがい。読書傾向から人生経験まで共通したものが無数にあって、いちいち口で説明しなくても話の通じるいちばん気の置けない友人である。
 自分がこれまで読んできた本を、人にも読んでもらえるということは、自分の小説を読んでもらえる以上にうれしいことなのだ。もちろん人の好みはそれぞれだから、自分が面白かったからといって他人まで面白いとは限らない。しかし似通ったものを多く持っている分、なかには快哉を叫んでもらえる本が必ずあるはずなのだ。
 後日なにかの拍子にそれが話題となり「ああ、あれは面白かった」といったことで話がはずむなら、それは本好きにとって無上の喜び、これにまさるものはないのである。

 それで勇躍「読み終わったら遠慮なく捨ててくれ」ということにして、この間からせっせと本を送りつけている。今週でほぼ終ったが、数えてみると段ボール箱で10個になっていた。
 奥さんこそ大迷惑よ、とかみさんは言うが、そんなこと知ったことか。この年になると夫婦仲より大事なものはいっぱいあるぞ。


2007.10.13
 風邪を引いて札幌へ帰ってきた。ただの鼻風邪だが、鼻水とくしゃみが止まらない。あまりに鼻をかむものだから、ただいま赤鼻になっている。

 体質だと思うが、子どものころから洟垂れ小僧だった。からだの変調や気候の急激な変動に出っくわすと、たちまち鼻水が洪水のように出てくる。
 いいように考えると、異物を体内へ入れまいとする安全弁的な役割を果たしてくれているのだろう。それにしても1時間半の飛行時間中に、ポケットティッシュを3袋も消化した。
 帰ってきて2日間、まじめに薬を飲んで安静にしている。おかげでこれ以上は悪くならずにすみそうだ。
 帰る日のこと。昼めしを食いに入った洋食屋でオニオンスープを注文した。背筋がぞくぞくして寒かったから、温まりたかったのである。
 それでウエイトレスに「風邪気味だから熱々にして持ってきてくれ」と注文をつけた。
 ところが出てきたスープの蓋を取ってみると、湯気が立ちのぼっていないのだ。れんげを入れて一口すすると、すーっと喉を通る。
「ぬるいよー」
 思わず声を荒げてしまった。オニオンスープが好きなのでときどき注文するのだが、最近ろくに熱くないのである。そういう前提があるからこそわざわざ注文をつけたのに、このていたらく。むろんこのときは温め直させた。

 最近どこへ行ってもぬるい汁が平気で出てくる。これくらい腹立たしいことはないのだ。
 昨日は病院へ行った帰りにそば屋へ入った。「風邪を引いているから熱いのをくれ」とそのときも注文をつけた。それなのに、出てきたそばはやっぱりぬるかった。
 本来熱くして出すべき食いものを、ぬるぬるで出すとは、いったいどういう了見だろう。いまやそういうことを言うほうが、時代遅れといわんばかりなのだ。

 われわれにとってうどんやそばというものは、なによりもホットな食いものだった。寒いから熱々のうどん(そば)で温まろうというので食うことが多かった。熱いのが最大のご馳走。舌を焼きそうな熱い麺を、ふーふーさましながらすするのがうどん(そば)の醍醐味だったのだ。
 つまり熱くなければうどん(そば)ではない。だからぬるいうどん(そば)を出されると、それだけでかっとなってしまい、理性や抑制が吹っ飛んでしまうのだ。
 しかしそういう常識ないし思い込みが、最近通用しなくなりかけている。いろいろ理由はあるだろうが、昨今の食いものをつくっている連中が、そこまで熱くして食う必然性を経験していない世代だからではないかと思う。
 そこそこ熱ければそれでいいじゃないか。むしろ熱すぎるものを出したら、火傷しただの、舌を焼いただの、文句をつけられるのが落ち、ということになるのかもしれない。一度、つくっている側の声を聞いてみたいものである。

 結局きのうのそば屋では文句を言わず、ぬるいそばを黙って食って帰ってきた。注文をつけたとき、ウエイトレスがへらへら笑っていたから、いやな予感がしたのだ。そしたら案の定、それなりのそばが出てきたというわけ。
 今後その店には行かないだけである。しかしそれをやっていると、行くところがだんだんなくなってくるのが昨今のご時勢なのだ。

 出かけたときは夏の盛りだったのに、帰ってきたらすっかり秋になっていた。紅葉がはじまり、ナナカマドの実が赤くなった。朝の気温は1桁台まで下がり、今夜は平地でも雪の降るところがあるという。
 きのうから暖房を入れている。


2007.10.6
 今週は20通を超えるメールが飛び込んできて応対に追われた。知人、出版社などへ、とうとう引っ越すというメールを送りつけたからだ。
 みんなをおどろかせようと思ってしたことではないが、こういうことは早いほうがよいと思い、ひとまず家を見つけた段階で、とり急ぎ知らせたのだ。それが9月30日だったのである。

 ほんの1、2年のつもりで移り住んだ札幌暮らしが、いつの間にか8年を超えた。この数年は毎年のように、今年は引っ越すよ、と会う人ごとに予告していたものの、終わってみればまた嘘。いまではだれも信じてくれなくなって、鼻の先でせせら笑われていた。
 札幌が住みにくいならともかく、一生住んでもいいくらい気に入っているのだから、それを断ち切ってよその土地へ行き、また1からはじめるのも大変なことなのだ。とにかく札幌に罪はないのである。
 それでなくとも年を取ってくると、新しいことに挑戦するのは気が重くなる。楽なほうへ、楽なほうへ進んだほうが快適だし、まちがいも少ない。だがこれでは、作家としての精神は衰退するばかりである。
 気の重いことをあえてやり、知らない街で、あらたな体験をしてみる。それができるとしたら、肉体的にも、精神的にも、いましかないのだ。という悲壮な決意のもとに、ここはどうしても引っ越そうと決めたのだった。

 といえば少々かっこよすぎるが、なに、そんな理屈などあとからくっつけただけのこと。要はわたしの身勝手、かみさんこそいい迷惑である。
 正式な契約をしていないので、つぎはどこへ越すか、まだ公表はできない。手続きがけっこう面倒くさいのだ。

 今回あらためて思い知らされたのは、老人の転居が、思ったほど簡単ではないということだった。老人夫婦というだけで、入居を拒否されたこともあるのだ。
 身分を明かして、これこれこういうものだと言ってしまえば、まだ信用してもらえるかもしれない。しかしそれはしたくないから、年金暮らしの、ただの老人ということにして家を探した。そしたら信用のないこと、ないこと。不動産業界がこれほど露骨だとは知らなかった。
 70をすぎた年寄りが入居して、いつその身体に異変が起きたり、事故を起こしたりして、困った事態が発生するとも限らない。できたら貸したくないというのが本音のようなのだ。
 今回も入居するわたしより、連帯保証人になってもらうせがれの勤め先、収入ばかりが重視され、わたしのほうは実印さえ要求されなかった。おかげでせがれに頭が上がらなくなった。

 週はじめの冷たい雨の降った日、クーラーの効かない車を駆って群馬の山奥へ、パソコンを抱えて籠りに行った。
 車の暖房は効くのだ。ところが行くほどに気温は下がり、山の中へ入ったときは13度。宿ではどれくらいまで下がったことか。もちろん温泉つきだが、明治時代にできた古い建物で、情緒は満点、空調設備はゼロ。
 寒いのなんの。もちろん覚悟して行ったからセーターなどは用意していったが、夜半はそれでもつらかった。火の気のないじとっとした冷たさが、しんしんと骨身にしみてくるのだ。仕事はしたものの、こんなことなら家でしたほうがもっと能率は上がっていた。

 そのクーラー、きょう工場から電話があって、コンプレッサーがだめになっているから取り替えなければならないという。20万円ぐらいかかるらしい。高くついたなあ。






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