Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2007年6月までの「きのうの話」へ


2007.6.23
 『行きずりの街』の累積発行部数が、今週ついに50万部へ達したという知らせを受け取った。

 文庫の週間ベストセラーにずっと顔を出していたことはこれまで何度か触れてきたが、部数については数字をあまり上げないようにしていた。何十万部といったって半分以上は書店で山積になっているのだし、売れた売れたと有頂天になるのも恥ずかしいからと、あえて無関心を装っていた。
 しかしとにもかくにも50万部刷ってもらえたというのは、尋常なことではない。この商売に入って20数年、数にして30冊あまり作品を書いているが、総計で10万部を超えた作品はほんの数点しかない。

 自分では絶対少数派の(つまり売れない)作家だとばかり思っていたし、いまでもその考えは基本的に変わっていない。そういう人間にとって50万部というのは、天文学的な数字なのである。しかもそれが自分の身の上に起こったのだから、信じられないとしても当然だろう。
 もうひとつ素直に喜べないのは、この数字に作者はなにひとつ協力していないことだ。本は書いたがそれっきり。なんの努力もしていなければ、一銭の経費もかけていない。まさに濡れ手で粟、こんなことでいいのだろうかと、ついついうしろめたさを感じてしまうのだ。

 とにかくこれは、本を売ってくださった書店や営業の方々のおかげにほかならない。そして実際に本を買ってくださった読者のみなさんのおかげだ。本を書いて生きている人間にとってこれほどうれしいことはないわけで、まさに作者冥利に尽きる。
 ありがとうございましたと心よりお礼を申し上げます。

 ただその分つぎの作品へのプレッシャーが強くなり、次回書き下ろしが遅々として進まない原因のひとつになっている。しかも今週はただの1字も書きすすめることができなかった。

 秋に文庫が出る『ラストドリーム』のゲラがでたからだ。あすから旅行へ行くのでそれまでに直しておかなければならず、いざやりはじめたところきりがなくなってしまい、この1週間まるまる悪戦苦闘していた。ぎりぎり今朝までかけてなんとか終えたが、あたらしい読者がこの本を手にしてくださることもあるかと思うと、その期待にこたえられたかどうか不安が残る。
 というわけでまことにすみませんが、2週間お休みをいただきます。


2007.6.16
 今週は暑かった。それも東京並みの蒸し暑さだったからかなわない。かみさんの友だちが高知から来ていたそうだが「北海道はさぞ涼しいだろうと思ったのに……」と電話で恨めしそうに訴えたという。
 ところが翌日になると久しぶりの雨が降り、一転して今度は肌寒くなった。なんともめまぐるしい。そういえば東京からもどってきた当座も夜はうすら寒く、コートのインナーを着込んで仕事をしたくらいだ。

 4月18日に郷里へ旅立ったときには、豊平川の雪捨て場にまだ山のような雪塊が残っていた。雪解けをすこしでも早めようと、ブルドーザーが毎日その雪を掻き回していた。
 いまその跡地は生い茂った夏草で隙間なく覆いつくされている。丈の高いものはもうわたしを追い越さん勢い。夏の短い北海道の雑草はなんともたくましいのだ。半年の間に芽を出し、花を咲かせ、実をつけ、地上に種をばら蒔いて、子孫を残す準備をしなければならないからだ。
 それに比べたら人間は、なんと自覚の乏しい、性懲りもない生きものだろうか。残り時間が少なくなっているわたしですら、明日があると信じ切ってだらだらと生きている。限りある生だという切迫感がまったくないのである。

 さて、買ったばかりのビデオカメラ。よさこいソーランという格好の被写体があったおかげで、なんとか使いこなせるようになった。ところがパソコンに取り込もうとすると、これができない。専用ソフトをインストールして、画面で映して見ることはできるのだが、それ以上はだめ。DVDにバックアップする以前の問題だ。
 それでひと晩仕事を放りだし、マニュアルと取り組んで、じっくりいじってみた。すると完全マスターどころか、画面に映すことまでできなくなった。例によってつつき壊してしまったらしいのである。
 こうなったらお手上げ。結局最後はお助けマンに来てもらう羽目となった。こんなことなら最初から頼んで設定してもらえばよかったのだ。毎回毎回同じことを繰り返している。

 昨日は目の定期検診があった。その帰り、北大の構内を歩いていると、頭上からふわふわと綿毛が降ってきた。年に一度、ポプラの綿毛が飛ぶ季節にさしかかっていたのだ。こういう体験は何度してもうれしい。それで調子に乗ってそこらを歩き回ってきた。帰って万歩計を見ると1万歩を越えていた。

 そのときのこと。外が暑かったのでなんの気なしに地下道へ入った。気がつくと、紀伊国屋の前へさしかかっていた。「行きずり……」のワゴンが置いてある店である。作者が札幌市在住という札まで立ったというから恐れをなし、以後近づいていなかった。今回帰ってからはじめて通った。
 一目見て息がつまった。ワゴンが、前よりもっと大きくなったような気がしたからだ。本もさらに増え、10数冊の高さにそろえられた平たい山が、南極から流れ出した氷山さながら、店頭にどっかと居座って客を威嚇していた。ひょっとすると1000冊くらいあったんじゃなかろうか。
 とてもじゃないが恥ずかしくて、横目でにらんだまま、そそくさと通りすぎた。おかげで札幌在住……云々のPOPもほとんど読めなかった。

 当分この店には行けそうもないなあ。


2007.6.9
 札幌へ帰ってきた。約2ヶ月ぶり。とっくに春が終わっていた。アカシアの花もライラックも散り、かろうじて芝桜が残っているくらい。朝夕は上着がないと寒いものの、日中は半袖で十分だ。

 帰ってきた翌朝のこと。何気なく窓の外に目をやると、100人近い人間が河川敷に集まって何かやっていた。そのうち、そろいの衣装を着はじめたからわかった。
 その日から「よさこいソーラン」がはじまったのである。これは明らかに夏の祭りだ。うるわしい春の北海道を、今年はついに見損ねた。
 雪解け水を集めて川は増水している。ただお天気がいまいち。毎日濃い霞がかかり、視界がまったく利かない。くっきり晴れたら残雪をいただいた山々が見えるはずなのに、そんな日がまだ1度もないのである。気のせいか空が黄色い。黄砂ではないかと疑っているくらいだ。

 仕事もウオーキングも再開し、いつものペースを取りもどしつつある一方、そわそわしているというか、いまひとつ落ち着かない。
 というのも今月の末から、かみさんのお供をしてアメリカへ行くことになっているからだ。はっきり言って物見遊山。ただし名目は、長い間縁の下の力持ちをやってくれたかみさんへのご褒美、わたしはその付き添いということになっている。
 事実アメリカという国にはさして興味がない。行かなくてもかまわない国のひとつだと言っていいだろう。それがなぜ行く気になったかというと、バスで大陸を横断するツアーがあったからだ。
 なんにもないところを、バスでひたすら走りつづける旅というのが、なぜかふたりとも大好きなのである。トルコへ行ったときがそうだった。周りの客が疲れて眠りこけているさなかにも、われわれ夫婦だけは目をかぱっと見開き、飽きもせず外をながめていた。けちなのか、欲張りなのか、二度と見ることはない景色だと思うと、もったいなくて眠ってなんかいられないのだった。

 そのとき、だだっぴろいところへ携行するには、カメラよりビデオカメラのほうがよいことを思い知らされた。それで本も売れていることだし、今回はわが家もとくに奮発しようということになった。
 するとタイミングよく、某カメラが期日限定のポイント特別サービスというのをはじめた。だいぶお得、というのできょう早速買いに行ったのである。
 小さくて、軽くて、よけいな機能がついてない、いちばんシンプルなもの、と注文をつけてとにかく1台買ってきた。しかし使い方の説明を聞いているうち、果たして使いこなせるかどうか、だんだん心配になってきた。
 ふたりともメカ音痴、携帯すら持っていない。あんなものはいらん、とうそぶいているものの、なに、ほんとは使いこなせないのだ。そんな人間がビデオカメラだったら使えるとは思えない。
 テレビで画像を楽しめます、と言われたって、わが家のテレビはBSすらついていない10数インチのアナログなのだ。テレビを買うのが先だったかなあ、と言いながらビデオカメラを買ったのだった。

 果たして家に帰り、ガイドブックを懸命に読んだが、さっぱりわからない。写すことと、再生するところまではなんとかできたが、パソコンにはどうやっても取り込むことができなかった。DVDの書き込みだって1回もやったことがないのである。

 前にスイスへ行ったとき、大きな鳩時計を買ってきた。わが家の壁に吊し、刻がくるごとに、鳩や人形の奏でる音楽で時刻を知らせてもらおうという腹づもりだった。ところが持ち帰ってよくよく調べてみると、わが家には鳩時計を止める釘が打てるような壁がどこにもなかった。おかげでそれはいまでも箱のなかで埃をかぶっている。

 ビデオカメラだって同じ運命をたどることになるのだろうか。


2007.6.2
 編集者との顔合せやもろもろの雑用がひと通り片づき、今週はじめて、人にも会わなければ出かけもしない時間が持てた。まるまる1週間、自分ひとりの気ままな時間が使えた。

 はじめはいい機会だから、どこか温泉に籠もろうかと考えていた。しかし仕事のすすみ具合を見ると、自主缶詰までして書かなければならない以前の段階であることがわかった。
 ほんの先週まで、下書きの下書きみたいなものをああでもない、こうでもないといじくり回していたのだ。200枚書いてようやくアウトラインがつかめ、それではというので1へもどり、第1章から書き直しはじめたのが今週のはじめである。
 おそらくこれがほんとの下書きとなるはずだ。今度こそ最後まで書きすすめられるだろう。それで今回はあえて自分をむち打ち、自宅でおとなしく仕事をしたのである。おかげで予定以上にはかどり、今夜中にも100枚を超えそうな勢いだ。

 すっかり頭に入っているところをなぞったからとはいえ、なかなかの快ペース。この調子で書いたら3ヶ月で1本は仕上がる計算になる。しかしこういうハイな状態は、10日とつづかないんだよなあ。
 だいたい1回に集中して仕事ができるのは、2時間が限度。そのあとは寝たり起きたりTVを見たりして、気分転換と体力の回復をはからなければならない。温泉へ行くとそれが入浴となり、1日に3サイクルぐらい繰り返すことができるのである。

 ところで、いまだに鼻水が止まらない。外出するときはティッシュとハンカチが必需品。マスクをしている人をまだ見かけるが、あの人たちも花粉症なのだろうか。
 なにしろ、あ、いかんと思ったときはもう水っぱながぽたりと落ちている。若い娘でもそういう格好は見られたものじゃないが、じじいとなるとなおさら、ただ汚ならしいだけである。

 来週は札幌へ帰る予定。
 これもはじめは車で、温泉巡りをしながらのんびり帰るつもりだった。ところがせがれから猛烈な横やりを入れられ、断念せざるを得なかった。
 長距離の運転はだめだというのだ。70になったのだから、もう免許を返上しろとまで言われている。そのうち親子で大げんかをやらかすことになりそうだ。
 とにかく今回は航空機で帰る。せがれに負けたわけではない。今月中にもまた東京へ出てくる用がありそうだからである。


2007.5.26
 山形へ行き、TVの収録をし、今週はいちばん苦手な人前でのおしゃべりを2回もやらされた。やっと終わってほっとしているはずなのに、それにしては後味が悪い。軽い自己嫌悪にさえ陥っている。いつもそうだ。いまも改めて、こういうことは2度とやるまいと誓い直している。

 小説講座なら、西武のカルチャーセンターで2回やったから、何とかなると思ったのがまちがいのもとだった。西武のときは生徒が10数名。若い人が多かったから気楽に話すことができた。
 ところが山形では30名を超える受講者が待ち受けていた。けっこう年配の人もいて、それがにこりともせず、食い入るような目で聞いているのだ。
 おまけにゲストがすごかった。翌日仙台で開かれるトークショウに出席するため、なぜか山形へやって来た逢坂剛。さらに出版社の編集者が4名。いずれも特別ゲストとしてひな壇に並ぶという大げさな会になってしまったのだ。

 言うまでもなく、これらの人たちは小説のプロである。批評家であり、うるさ方だ。そういう人の前でしゃべらされたのだから、えらい迷惑。いま思い返してみても冷や汗しか出ない。なにをしゃべったか、よくおぼえていないのである。

 一応事前にあれこれ考え、こういうことは伝えたい、と思ったことをメモにして持って行った。その順番通りにしゃべったのだが、それこそあっという間に終わっていた。おそらく聞いていたほうは、前後のつながりがよく飲み込めなくて、なにがなんだかわからなかったのではあるまいか。

 TVのほうも同じだ。これまでブックレビューには3回出演しているが、前回がもう4、5年くらい前になる。そのとき懲りて、以後2度と出まいと誓ったのに、また同じことを繰り返してしまった。
 それもこれも「行きずりの街」が売れたからである。こっちはなんにもしてないのに、ひとさまが骨折ってせっせと売ってくれている以上、それくらいの協力はしなければならないだろうと節を曲げたのだ。
 今回は「青に候」を取り上げてくれたものだが、途中で「行きずりの街」にも触れてくれた。
 これも前の日にあれこれ考え、理路整然としたことをしゃべろうと思ったのだが、いざはじまってみるとしどろもどろだった。
 これではせっかく読んでくれた人を、失望させただけではなかったかと思う。少なくとも未読の人には、おもしろそうだから読んでみようという気は起こさせなかっただろう。
 しゃべるというのは、文章を書くこととはちがう能力が要求される。自分にはそういう才能がないと、出るたびに思う。文章を書く方がよっぽど楽である。

 放映は明日。ただしわたしは見ない。これまで一度も見たことがないのだ。
 ありがたいことにかみさんも見ない。札幌のTVではBSが視聴できないからだ。
 しかしそれより、今夜はもっとショッキングなニュースを聞かされた。
 札幌地下街にある紀伊国屋の店頭に「行きずりの街」がワゴンで積み上げてある。そこに立ててあったPOP広告が変わっていたというのだ。
 それになんと「作者は札幌市に在住」と書いてあったとか。だから読みましょう、みたいな文が書いてあったそうだが、かみさんも恥ずかしくなってとても最後まで読めなかったという。

 ヒエーッ!(悲鳴)
 札幌に住んでいることは隠してないし、このページでも書いていることだから、公表されても仕方がないとはいえ、これでますます本屋へ行けなくなったではないか。

 来週は札幌へ帰るつもりだったが、やめようかなあ。
 だれにも知られていない国民年金暮らしのおじいさん、という居心地のよさが札幌の最大の魅力だったのに。


2007.5.19
 自分の顔というのが、どうにも嫌いである。だから極力顔は出さないようにしている。写真お断り、を原則にしているのもそのためだ。

 できたら自分の写真など、どこにも載せたくない。しかし雑誌が勝手に掲載してしまうことはよくある。それが、自分ところにある手持ちの写真を使うせいか、このごろはみな、20年以上も前じゃないかと思われる古いものばかりになってきた。これはこれで閉口する。いまの顔とあまりにもかけ離れているからだ。
 どうやらそういう足下を見られたらしい。そろそろあたらしい写真を撮りませんか、と出版社が言ってきた。「行きずりの街」をこんなに売ってくれている以上、だんだん無愛想にできなくなってきた。写真を借りたいという申し出もときどきあるんです、と言われたらもう観念するほかなかった。
 それで昨日、出版社まで出向き、何カットかあたらしい写真を撮ってもらった。これからはこの写真が出回ることになるのだろう。だがその顔が全然気に入らないのだ。現にこういう顔をしている以上、文句が言えないだけである。

 しかしだれが言ったか知らないが「顔はその人の履歴書だ」なんて、いやなことばではないか。自信があるやつなんて、ほんとにいるのだろうか。

 明日から2泊で山形へ出かける。
 同地で開かれている「小説家(ライター)になろう講座」というのに招かれ、講師としてしゃべることになったのだ。発足して10年くらいになる会だそうだが、プロデビューを果たした人も何人かいる、かなり知られた自主講座らしい。
 これまでの講師の顔触れを見ても、現役の作家、編集者、批評家が多数参加している。逢坂剛、大沢在昌といった旧知の作家まで名を連ねていた。

 一方わたしが引き受けた動機はというと、いたって不純、かつ身勝手なものだ。それを口実に、温泉へ行こうと思っただけなのである。山形には魅力的な温泉がいくつもある。しかも新緑の候、野天風呂へ入るにはこれ以上ない季節なのだ。

 講座そのものは、日曜日に2時間つとめれば終わる。それでまず19日に出かけ、当日は蔵王温泉で前泊することにした。20日は山形泊まり。これは先方が取ってくれたシティホテルである。
 同じことなら、どこか近くの温泉にしてもらいたかった、と思ったがさすがにそこまでは言えない。その代わり翌日、帰りにもう1ヶ所、どこかちがうところへ寄ってくることにした。

 パソコンを持って行くかどうするか、これにはまだ迷っている。作家としてえらそうなことをしゃべってくる手前、使いはしないとわかっていても、いちおうは持参して、旅先でも仕事をしているくらいの素振りはしなければならないだろう、というわけだ。

 ということで今週は1日早くこの原稿を入れ、明日から行ってきまーす。


2007.5.12
 パソコンの具合がおかしくなった。東京へ来たときから変だったのだ。まずインターネットへ接続できなくなった。NTTへ問い合わせて調べてもらったところ、前回入力してあった初期設定の数値がそっくり消えていた。電話で教えてもらいながら再度入れ直し、どうやら使えるようになったが、なぜそうなったかはわからずじまいだった。

 その後使っていたところ、動きがだんだん重くなってきた。そして気がついたら、画面の終了ができなくなっていた。終了を指示した段階で画面が凍りついてしまい、どうにも動かなくなるのだ。再起動、スタンバイすべてだめ。結局スイッチを強制的に切るしか方法がなくなった。
 作業が終わるたびにスイッチを切り、はじめるたびにスイッチを入れ直すということである。しかもいつの間にか、1回に1つの作業しかできなくなった。1作業を終えてつぎの画面へ移ろうとしても、その切り替えができなくなったのである。
 そこでまたスイッチを切り、はじめからやり直す。その時間のかかること。スイッチを入れて動かせるようになるまで3分かかる。パソコンのサービス会社に電話して向こうの指示通りに操作してみたが、それでも直らない。この上はリカバリーデスクで修復するしかないという。
 そんなものはすべて北海道に置いてきた。あらたに買おうとしたらウインドウズのリカバリーデスクだけで5000円するという。それで仕方なく、いちいちスイッチを入れ直す方法で当面をしのいでいる。
 この文章もそうやって書いている。書き終わったら強制終了をし、スイッチを入れ直して、今度はメール画面を呼び出して送るわけだ。使えることは使えるんだから、まだよしとしなければなるまい、と慰めているのだが、それにしても不便な道具だ。

 今週はかみさんが札幌へ帰ってくれてほっとしている。暑がりなものだから、すぐ窓を開けてしまうのである。一方こちらは寒いし、鼻水は出るしで、外気が大敵。見つけ次第閉めて回るという、いたちごっこを繰り返していた。まるっきり合わないのである。
 いなくなってくれたおかげで、やっと部屋を閉め切り、暖房を入れて暮らせるようになった。鼻水はいまでも出っぱなし。1日にティッシュを50枚以上使ってるんじゃないかと思うくらい鼻をかんでいる。

 都心とちがい、多摩が割合ひんやりしているせいか、とにかく寒いのである。ただし花粉症の名残りも多分にあるのではないかと思う。なぜなら外へ出かけ、冷房がぎんぎんに効いた部屋に入っても、そっちは全然寒くないのだ。自然の外気に弱くなったということか。よくわからないが、妙な体になったものだと思う。


2007.5.5
 今年のゴールデンウイークは好天に恵まれ、行楽地は大変な人出のようだ。わたしの地元多摩動物公園も例外ではなく、連日黒山の人である。近年ではもっとも多いような気がする。旭川の旭山動物園の成功に刺激され、各地の動物園が元気を取りもどしてきたのではないだろうか。

 わたしのほうも元気を取りもどし、胃袋は快調、食欲も旺盛になった。ただ、やたら鼻水が出るのには閉口している。ティッシュが欠かせないのだ。これは花粉症のせいというより、環境が変わったせいではないかと思う。気温や住居の変化に対する適応性が意外に低いのである。
 情けないことに夜はいまでも暖房をつけている。寒いからだ。ウールの靴下をはかなくなったのが数日前。体の感覚が急激な変化についていけないみたいなのだ。

 生活のほうはいたって平凡。どこへも出かけることなく、毎日パソコンに向かっている。ときどきウオーキングに出かけるのが唯一の外出。今日は多摩丘陵を拾って聖蹟桜ヶ丘まで5キロ歩いてきた。
 多摩へ越してきて40年。周囲の緑はずいぶん減ったが、それでもまだ雑木林を縫って丘陵を歩くことができる。むかしは野猿街道といわれたところなのだ。猿が出没してきたこともあった。

 3日は子どもらが集まってくれ、にぎやかな1日をすごした。4人いる孫のうち、3人が小学生になったのだからにぎやかなのも当然。この時期の子どもは成長が早いから、来るたびに目を見張らされる。この分ではあと数年もしたらわたしより大きくなってしまうことだろう。
 この日はわたしの古稀記念ということで、子どもらが夕食を馳走してくれ、八王子まで出かけた。わたしども夫婦に3人の子ども、2人の連れ合い、4人の孫で合わせて11人。それに取り囲まれた幸福な老夫婦を満喫してきた。
 一方で感慨うたたというか、複雑な心境になったこともたしか。ほんのこの間まで、母を囲んで自分が同じことをしてきたからだ。母には子が5人、孫が11人いた。全員そろうと22人になった。

 人生は短い。当たり前すぎる感想ながら、老境になるとそれを実感する機会ばかり増えてくる。


2007.4.28
 火曜日に東京へ帰ってきた。しつこかった下痢が、ようやく治まったのがその日から。1日大事を取り、水曜日にようやく外へ食事に行った。

 そのとき駅で3駅分、距離にして5キロあまりを歩いて行った。車の通らない川沿いの遊歩道や、多摩川の土手の上を歩けるのだ。
 ただ交通量の多い道を2カ所横切るから、けっこう時間はかかる。このところろくに食っていないせいもあって、最後の2キロはスタミナが切れてしまい、ほうほうの体でたどり着いた。
 このとき食ったのが、ハンバーグ。少々物足りない量と食感だったが、胃袋のためにはまだ柔らかいもののほうが無難だろうと自己規制した。

 とにかくこんなに長い間下痢がつづいたのははじめて。体力が落ち、回復にも時間がかかりはじめたということのようだ。何よりも自信をなくした。

 その後家に籠もっていたが、今日は都心へ出かけて行った。来月のテレビ出演のための打ち合わせをしたのだ。久しぶりによく晴れて日差しも強かったから、薄いジャンパー1枚で出かけたところ、思いの外気温が低く、ずっと肌寒かった。

 この時期の気温差には、いつもきりきり舞いさせられる。かみさんはいま大阪にいるが、今日電話してきた声を聞いたところ、完全な鼻声になっていた。寒くて風邪を引いたという。年寄りの適応性のなさが、こんなところにも表れている。

 かといって、歩くとすぐに汗ばんでくるのだ。それも不愉快な蒸し暑さである。体力のせいばかりではない。湿気が高いのだ。それでまた、空気の乾いている北海道のよさを見直してしまった。


2007.4.21
 母の13回忌をするため郷里の高知へ帰ってきた。国を出て44年、考えてみると半端な歳月ではない。こっちも老いてしまったが郷里も変わり果ててしまった。
 街を歩いて見知っている顔に会うことはなく、かつて人があふれていた通りに人影はまばら。若き日の思い出とともにあった建物や店の多くもいまはない。
 それでもここがまぎれもない自分の故郷なのだ。この街で育ち、いまの自分がつくられた。絶対に取り替えの利かない唯一無二の地なのである。

 病院に見舞った叔母は別人かと見まがうほど頭髪が白くなっており、体ときたら両手で抱え上げられそうなくらい小さくなっていた。一方で88歳になる叔父は、走行距離30万キロになるというジープを自分で運転して寺までやって来た。
 法要のあとの食事会には20人が顔をそろえた。赤んぼうもひとり。つぎはいつ会えるか、同じ顔触れがまた見られるか、感傷はつきない。

 肉体的には、今週はさんざんだった。
 月曜日に食あたりを起こし、腹を下して以後絶食つづきだったのだ。火、水と夕食に粥を一膳食っただけ。木曜日は食パン1枚をかじって家を出た。その日のうちに航空機、バスを乗り継いで高知へ帰ってきたからだ。

 無理やり体を動かしたせいか、体調は悪くなるばかり。ホテルへたどり着いたころは最悪だった。一晩で10回はトイレに行った。
 たまりかねて今朝、とうとう病院へ行った。症状を話して診察してもらい、下痢は体内に入ってきた毒素を体が排出しようとしているのだから無理に止めなくてよい、と素人目にも納得できる説明をしてもらった。
 食事はしたほうがよいと言われ、昼にようやく素うどんを食った。30時間ぶりにありついた食い物だった。

 下痢止めと整腸剤をもらって安心したか、それとも毒素の排出が終わって回復期に向かいはじめたのか、以後は小康状態を保っている。夕食も消化のよさそうなものを選んで少量食った。

 来週はまた東京へもどります。


2007.4.14
 寒波が逆もどりしてきて、今朝は一面の雪景色となった。今週はこれで2回目。だから北国の春は油断がならない。

 昨夜ウォーキングに出かけたところ、風が強かったこともあってふるえあがるほど寒かった。よっぽど途中でやめて帰ろうかと思ったくらいだ。ウールの帽子で耳を隠し、手袋、マフラーの3点セットでなんとか1時間歩いてきたが、すっかり冷え凍ってしまった。
 豊平川もこのところ雪融けで増水がつづき、2週間で20センチは水位が上昇していた。それが昨夜見たところ4、5センチも水嵩が減っている。おかしいなと思い、それからはたと気がついた。夜になると気温が下がるので雪が融けなくなってしまうのだ。
 スイスへ行ったとき、町のなかを流れている小さな川が、朝と夕方とで水量が激変するのに驚いたことを思い出した。夕方になると鉄砲水のような奔流となるのに、朝はせせらぎ程度のゆるやかな流れとなるのだ。氷河の融け方が1日のうちでこんなにもちがうとは、南で育った人間には想像もできないことだった。
 程度こそちがえ、北海道でも同じことが起こっているのだ。山が呼吸している。改めて自然の営みを知ったのだった。

 今日は東京から編集者がお祝いにやって来てくれた。
「行きずりの街」が累計で30万部に達したお祝いである。10数年かけて12万部だったのが、今年に入って軽く倍以上になってしまった。
 ただしこれは売れたという実数ではない。売れると思って刷っているだけの話だ。
 と、これまで売れた経験のない作家としては、まだ信じられないのである。
 そんなに刷って大丈夫か、あんまり無理するなよ、と言いたくなるのだが、版元は絶対売れますと強気一点張り。とにかく30万部というのはひとつの区切りなので、祝杯を上げましょうということになったものだ。
 ところが出発直前、羽田から電話がかかってきた。千歳が吹雪で遅れが出ている。場合によっては着陸できず、引き返してくるかもしれませんという条件つきで飛ぶそうだ。東京の気温が25度。初の夏日を記録した日のことだから驚いたとしても当然だろう。

 さいわい無事着陸できたから予定通り祝杯を上げられたが、作家のほうは喜ぶことにまだ戸惑いを隠せないでいる。だって買ってくれた人を一度も見たことがないのだ。


2007.4.7
 札幌に積雪ゼロ宣言が出た。いったいなにを基準にしているのかと思ったら、測候所の庭に立ててある積雪計で測っていたようだ。テレビで映したからわかった。平年より7日早く、雪が少なかったおかげで、今年は除雪費が20億円も余ったそうだ。

 今週は気温上昇がものすごかった。分厚く降り積もっていた雪が、1日に10数センチ単位で溶けてしまったのではないかと思う。月曜日に河川敷を歩いたときは、まだ除雪されたところしか歩けなかったのだ。
 それが木曜日になると、雪の消えた芝生を迂回すればたいていのところへ行けるようになっていた。土曜日は、南側の河川敷に限っていえば95パーセントまで雪が消えた。北側もふくめ来週中には、平地の雪はほとんど消えてしまうだろう。

 今日は柄にもないクラシック音楽を聴きに行ってきた。古稀のお祝いと称して、せがれがコンサートのチケットを送ってくれたからである。
 それはいいとして、いったいどういうコンサートなのか、予備知識がなかったからさっぱりわからなかった。新聞やテレビは一言も報じていなかったからだ。
 楽団の名前も、どういう曲をやるのかも知らない。もちろんチケットには記入してあるのだが、それがまったく聞いたことのない名前なのだ。クラシックらしいということがわかる程度。だから途中で眠ってしまうかもしれないと、半ば覚悟して出かけた。
 そしたらウイーンフィルと、ウイーン国立歌劇場から30人選ばれて来日した特別編成の室内楽団だった。トヨタの名が冠されていたところをみると、スポンサーつきということだったのか。そういえば内容に比較すると料金が格安らしく、席はすべて埋まっていた。

 30人も楽士がいながら、指揮者のいない音楽会というのははじめて経験した。見慣れない光景だからはじめは不安で、これでちゃんと合うのかと心配したが、どうやら大きなお世話だったようだ。2時間半、交響曲を2曲と協奏曲を1曲、たっぷり聴かされて帰ってきた。
 全然眠くならなかった。




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