Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2006年までの「きのうの話」へ


2006.12.30
 今週はお天気がめちゃめちゃで、右往左往させられてしまった。つい先週、今年は雪が少ないと書いたばかり。するとその晩から降りはじめ、1日で50センチ降り積もった。ただしそれも束の間、今度は気温が7度にも上がり、ときならぬ冬の大雨がやってきた。

 いまの時期は雪より雨のほうが厄介なのだ。なぜかというと、道路際に積み上げてある雪が排水溝をふさいでいるから、ろくろく水が流れないのである。道路の両側に川のような流れができてしまい、渡るのにひと苦労する。きょうは病院へ行く日だったからたまらない。帰ってきたときは、靴の中まで湿ってじゅくじゅくになっていた。
 雨は1日降りつづき、やんだ翌日も気温が高かった。さしもの雪があらかた溶け、いたるところ地肌が露出、まるで春先の残雪みたいな風景になった。こんなことも札幌へ来てはじめてである。
 おかげでありがたいことに、雪なしの歩道を歩けるようになった。今日も買い物があって出かけていたのだが、すべて歩道を歩いて行った。ふつうの靴を履いて、地下鉄で2駅分歩いたのだった。

 今年も残るはあと2日。この分だと雪のない正月になるか、と思ったらそこまで甘くなかった。今夜になってまた降りはじめ、さっき年賀状を投函しに行ったところ、もう真っ白になっていた。それも凍った地面の上に新雪が載っている。滑りやすい、いちばんいやな路面だ。春と冬が日替わりで繰り返しているのである。
 年賀状を出し終えたことで、年内にすべきことはなんとかすませた。といって、これで気持ちよく正月を迎えられるとまではいかない。いつものことながら、仕事をかかえての年越しとなるからだ。

 2月に出る自著の再校ゲラと、1月末に選考会がある文学賞の候補作を読まなければならない。候補作は5本。昨年は重厚な作品が多く、おまけに上下本まであって、送られてきたものを箱から取り出したときは呪いの声を上げたものだが、今年はふつうの厚さでほっとしている。おかげで正月はどこへも行けそうにない。

 今週は手袋を片方なくした。今年最後のジムへ行ったのはいいが、ロッカーのキーを締め忘れ、キーをつけっぱなしにしたまま2時間以上運動していた。さいわい見かけた人がクロークへ届けてくれていたので、ロッカーの中に異常はなかった。
 ところが帰るとき、今度は腕時計を忘れた。だいぶ行ってから気がつき、あわてて取りにもどった。そしたらロッカーの下に落ちていた。落としたことにも気がつかなかったのだ。そして3度目が手袋。これは帰ってから気がついた。
 半日のうちにこれを全部やってしまった。だんだんこういう失策が多くなる。ほんとはもっとあるのだが、恥ずかしいから書いていないだけなのである。

 これで今年は終わりです。
 どうかよいお年を。


2006.12.23
 冬至にしては暖かい日がつづいている。この数日札幌の最高気温は5度を超え、雪もまったく降っていない。昨夜は用があって出かけていたが、帰りは10時をすぎていたにもかかわらず、道路が凍っていなかったのでなんともありがたかった。
 12月のはじめに比べたら積雪量まで明らかに減っている。地肌がのぞきはじめたところもあるのだ。苫小牧などはいまに至るも積雪ゼロ。こんなに少ないのは60年ぶりのことだという。明日からふたたび寒波が来て、24日はホワイトクリスマスになると言われているが……。

 今週は3日間東京へ出かけていた。70回目の誕生日は向こうで、ひとりで過ごした。嬉しくもなんともないから、なんにもしなかった。識者が言うには昨今の老人の実年齢は7掛けで考えるのが適当だそうだから、すると49歳になったことになる。まあこれくらいなら認めてもいいだろう。
 今回の上京は年金の受給手続きをしに行ったものだ。国民年金だから65歳からもらえたのだが、受け取れる年金額があまりに少なかったので、もらうのを70まで遅らせたのである。するとだいぶ割り増しがつく。もっと増額になるようだったらもっと遅らせてもよかったが、あいにく70までしか認められない。とにかくこれで、来年から年金生活者の仲間入りをすることになる。

 いまでこそ食えるようになっているが、若いときは食いかねた時代もあって、国民保険料を払うのに四苦八苦した思い出がある。老後の備えだと思うから必死になって掛けてきたが、いざもらえる年になってみると、二人合わせて10万そこそこにしかならないなんて夢にも思わなかった。国は明らかに幻想を振りまいてきたのである。
 しかも先行きの見通しとなると、悪くなりこそすれよくなる見込みは皆無だろう。若い人に保険料の未納者が増えているのも無理はないと思う。われわれはまだその恩恵にあずかれるが、あと30年先の人にまでその計算が成り立つとは、絶対に考えられないからである。

 今年はこれまで目をつぶってきた糖尿病がばれ、とうとう病院通いをする羽目になった。これまで数十年、医療費はほぼゼロで通してきた。社会資本を食いつぶす側に回らなかったという点では、わたしの唯一の自慢だったのである。
 しかしこれからはそうも行かなくなりそうだ。薬はいまのところ目薬しかもらっていないから、できたらこれからもそれくらいですませたいと思っている。これからはすべて自分の責任で生きると言うことである。


2006.12.16
 先週古稀の祝いとしてもらった万年筆が思いのほか使い勝手がよく、気に入っている。いまのところ日記を書くぐらいしか使い道がないのだが、今週はそのペンを使ってみたいばかりに手紙を2本も書いてしまった。

 万年筆を使わなくなってざっと40年になる。当時手に入れられた万年筆ならすべて使ってきたつもりだが、最後に落ちついたのはパーカーだった。それも安価で、ペン先が固いもの。原稿用紙の枡目を一字一字埋め込んでゆくには、いちばん使いやすかったからである。

 ただいつも力一杯ペンを握る癖がついていたため、長時間使っていると指先がしびれて痛くなった。それをすこしでもやわらげようと、ペン軸にティッシュを巻きつけて握っていた。そういう煩わしさが重荷だったから、ワープロが登場してきたときは真っ先に飛びついた。キーを叩いて原稿を書くのは長年の夢だったのである。したがってワープロ時代に入ってからは、二度とペンにもどろうと思わなかった。

 それがいまになって、ペンで書くのも捨てがたいなあと見直している。イタリー製のはじめて聞くブランドなのだが、ペン先はやわらかめ。力を入れなくてもすらすらと、流れるように書くことができる。書く速さからいえばパソコンのブラインドタッチよりまだ早いのである。

 それであらためて気がついたのは、ペン書きのほうがパソコンを打つより手の動きが少なく、小さくてすむことだ。手首から先だけを動かせば用が足りるから、キーボードを叩くよりはるかに楽なのである。年取ってきてすこしでも楽をしたい肉体になってみると、これは大きな魅力だ。

 いっそこれを機会にペン書きにもどってしまおうか、と思ってみないでもない。しかし流れるように書くということは、ペン先を紙から放さず、ずるずると引きずって書くということである。枡目を一字一字律儀に埋めてゆく作業には向いていない。

 早くいえばミミズののたくったような字になってしまいやすいわけで、いい加減字の下手くそな人間が我流のくずし方でずらずら書いていったら、これはもう目もあてられない悲惨な原稿ができあがることになる。その字を読み慣れているものでないと読めないからだ。

 大きな声では言えないが、超売れっ子で多産型の作家には、しばしば(けっして全部ではありません)この手の悪筆で鳴る先生方がいらっしゃる。その先生の原稿となると、その先生専門の人を呼んできて解読してもらわないと読めない。解読が間に合わなくて雑誌の連載が落ちてしまった、といった話はむかしならざらにあったものだ。

 わたしなど下手くそだが読みやすい、読みまちがう恐れのない字を書くほうである。それもこれも読みにくい原稿には、ライターや編集者をやっていた時代に泣かされてきたからだ。迷惑はかけられないと自己規制が働くのである。

 だからこそ逆に判読不能な原稿を書いて、編集者を困らせてみたい気がするのだが、わたし程度の作家がそういうことをやると、まずまちがいなく仕事は来なくなる。それでもやってみたいんだよなあ。


2006.12.9
 一昨日の夜、札幌へ帰ってきた。駅から外へ出てみると、降り積もった雪が凍ってこちんこちんになっていた。ふつうの靴を履いていたから、タクシー乗り場までの数歩がおっかなびっくりだった。

 このところ連日降っていたとかで、大通りまで圧雪状態。その雪に埋もれた街の中を帰ってきたのだが、なぜか帰ってきたという気持ちをつよく感じた。札幌により愛着をおぼえはじめたということではない。羽田を出発して2時間後には雪の中へ放り出されているという、非日常じみた世界が自分には合っているということだ。異郷の空のほうが落ち着けるのである。

 それでなくとも東京へは、このところますます、行くという意識のほうが強くなっている。変わり方があまりにはげしいので、感覚がついて行けないのだ。40年慣れ親しんだ地元の駅までが、今度帰ってみたら地上3階建ての橋上駅に変わっていた。
 駅前は高層マンションがひしめき、息苦しいほどの狭さ。ほんのこの間まで、通りをひとつ抜けたらまだ田んぼが残っていたところなのだ。年を取るつらさというのは、必ずしも新しい環境に順応できないことから生まれるものではない。むかしのことをおぼえすぎているから、そのギャップに苦しむということなのである。

 帰ってくる2日前には、荻窪在住の某作家のところへ行き、ワニとカンガルーとダチョウの肉を馳走になってきた。ほんとはわたしの古稀の祝いをやろうということだったが、そんな面映ゆいことは嫌だと言ったら、肉を食う会に変わったのだ。
 それでのこのこ出かけたところ、編集者が6人も集まってくれ、わたしに記念品をくれた。古稀の祝いが生きていて、わざわざそのために来てくれたのだ。もっと仕事をするようにという励ましの意が込められていると受け止め、ありがたくいただいてきた。

 目的の肉は、今回はプロの料理人が腕をふるってくれたせいもあり、どの肉もびっくりするほど美味だった。
 まずワニの竜田揚げ。癖がなくてやわらかく、知らなかったら鶏肉かと思う味。カンガルーの肉はシチューで出された。これは牛スジ肉の食感。プロがいちばん苦労した素材だそうだが、2日煮込んだというだけあって料理としては一番だったように思う。最後がダチョウのカツレツ。しっかりした歯ごたえがあり、肉のうまみは一番だったかも。

 記念品にいただいたのはイタリー製の万年筆とボールペンだった。とりあえず日記をその万年筆で書きはじめている。


2006.12.2
 友人たちと1泊、箱根に出かけていた。総勢9名、うち女性1名。20代のとき、同じ職場で知り合った仲間である。古いやつとはもう40年以上のつき合い。いちばん若いやつでも60をだいぶ過ぎている。まるで学生時代の同窓会のようなもの。何が楽しいといって、こういう気のおけない連中と酒を酌み交わしながらばか話に興じるときほど解放感にひたれるものはない。

 会社の元の同僚とはいうものの、定年まで勤め上げたものはこのうち1名しかいないのだ。あとはみんな途中で飛び出して、思い思いの方向へ進んだものばかり。つまり似たもの同士だから、気が合うのも当然。事実40年たったいまでも、言うことから性格まで全然変わっていないのだ。まるでこの間の時間などあってないようなもの。顔を見るとじいさん、ばあさんになっているのが信じられないのだった。
 しかしもちろん無事にすんでいるわけはなく、食事が終わると、あっちでもこっちでも薬を飲みはじめるから、なに、おぬしもか、ということになる。糖尿持ちがわたしを含めて3人。むしろこれまでだれも欠けなかったのが嘘みたいな話で、今回も何人か知り合いの訃報を聞いた。それがなぜか定年まで勤め上げたものばかりだったのは偶然だろうか。そういえばたしかに、ストレスに押しひしがれたようなやつは、われわれのなかにひとりもいないのだった。

 旅行の幹事は友人にやってもらったが、7人まではメールのやり取りで用が足りた、というのはやはりご時世というものか。それとも電話かファックスでないと連絡できなかったものがまだ2名いたところに、われわれの年代の限界があるのだろうか。

 一方で東京暮らしのほうは、一昨日かみさんが札幌へ帰ったため待望のひとり暮らしがはじまった。毎日が解放感いっぱい、さて何を食ってやろうかと張り切っているのだが、それもわずか1週間。来週はもう帰らなければならない。病院の定期検診が3科目、目白押しに控えているからだ。
 そのくせ10日後にはまた東京へ出て来る。年金の申請を仕直さなければならなくなったためで、当初は帰るのを2週間遅らせようかと思った。しかし帰りの切符はもう買ってあったし、病院の受診日だって11月の予定を12月に延ばしてもらったものだ。

 再度延期してもらうとなるとつぎは1月になるだろうが、1月は1月で、先年引き受けた文学賞の選考会でまた出てこなければならない。けっこう忙しいのである。
 ただこのつぎの上京にはバースデー割引が使える。年末の小忙しい時期に誕生日があるため、これまで1度もその恩恵に浴したことがなかった。束の間ながら、これで数日命の洗濯ができそうだ。


2006.11.25
 膝がよくなってきたかと思うと、今度はノートパソコンの具合がおかしくなった。Sのキーがばかになってしまい、字が出にくくなってきたのである。ローマ字入力をしているからこれは困る。「さしすせそ」が「あいうえお」になってしまうのだ。

 強く押せば何とか出るが、しょっちゅう押し直しをしなければならないは、余分な力を入れなければならないは、使用頻度の高い文字だけにリズムが狂ってすごく使いづらい。
 このノートはIBM製で、札幌へ行ったとき買い替えた。したがってまる8年使ったことになる。当初はWindows Meが入っていたのだけど、これがとんでもない代物で、文章がそっくり消えてしまう事故を起こしてひどい目にあった。しかしXPにアップグレードしてからは安定し、キータッチが軽快なこともあってけっこう気に入っていた。仕事の9割以上はこのノートで行っていたのである。

 文章を打つだけという単純作業ながら、量からいえば一応ヘビーユーザーだろうと思う。おかげでキーボードの文字がだんだん薄れてしまい、いまではNの文字が完全に消えてしまった。ほかにもAKMが半分くらい消え、知らなかったら読めないかたちになっている。ブラインドタッチで打っているからそれほど困らないものの、そろそろ寿命かなとは思っていた。
 しかしできたらあと1年使いたかった。新しいWindows Vistaが登場してくるからである。しかしはじめのうちは必ず不具合が出てくるものだから、1年ぐらいたってから買い替えるのがベターだろう。それでせめてあと1年というわけだが、いまの状態だとそれまで保ちそうにない。Vistaが登場してきたらすぐ買い替えるか、それとも機種だけいま買い替えてしばらくXPで我慢し、折りを見てアップグレードをはかるのが得策か、しばらく迷いそうだ。

 今日文春文庫の『男坂』の見本が上がってきた。扉に一工夫凝らした洒落た本になっている。発売は12月8日。定価は税込みで600円。解説を大矢博子さんという方が書いてくださっている。小生はまだお目にかかっていない方だが、女性ははじめてです。


2006.11.18
 膝の具合が悪い。日光へ寄ったとき、奥の院まで上がって行ったのがよくなかった。奥の院には家康の墓がある。それを見に行ったのだが、そんな山の上にあると知っていたら行かなかった。急な石段を見たとき「あ、こりゃまずいな」とは思ったものの、高い入場料を払っていたせいもあって、思いとどまれなかったのである。

 その前日は福島県の吾妻小富士へ足を延ばしていた。そのときも一度は外輪山を登りかけ、途中でやめて下りてきた。下り坂に自信がなかったからだ。それに比べたら、日光の登りの距離はたいしたことなかった。しかし石段のひとつひとつが大きくて、段差がはげしかった。ほんとはやめたかったが、1600円だか払った金が惜しくて、やめるにやめられなかったのである。貧乏人はこれだから情けない。
 案の定、登りはまだしも、下りが恐る恐るという足取りになった。段差があるから一歩ごとに、ずしんずしんと膝へ響いてくるのである。帰ってきた日から鈍い痛みが出はじめ、翌日になると2階への上がり下りもままならなくなった。だいぶ回復していたのが元の木阿弥にもどってしまったのである。

 お陰で今週はずっと家に籠もっていた。来春出る本のゲラの直しにかかりっきり。それでだいぶよくなったようなので、今日はじめて、近くの駅まで2キロの道をそろそろ歩いて買い物に行ってきた。平らな道ならどうやら歩ける。しかし膝の頼りないこと。歩くたびにばくばくする感じだ。おまけにしょっちゅうつまずく。足がまるで上がらないのだ。ここ何ヶ月かの努力が水泡と化し、何もかもがたがたになった感じである。

 昨日は結婚するとき仲人をしてもらった人の訃報を受け取った。この夏に亡くなられていたのだが、年賀欠礼のはがきをいただくまでまったく知らなかった。享年90。ここ20年ばかりお会いしていなかったのだが、迂闊にもそれほどのお年だったとは思わなかったのである。

 そのわたしが来月は満70歳にある。うかうか生きてきたからすこしも実感がない。「おれたちもそのうちやっぱり死ぬんだろうか」今夜もかみさんとそう話したばかりだ。往生際が悪いのか、いまだにぜんぜん信じられないのである。


2006.11.11
 昨夜遅く東京へ帰ってきた。半年ぶりの帰京である。今回はフェリーで仙台へ上陸したのだが、いつものことながら本州は暖かいとつくづく思った。気温の差はそれほどなくとも、空気の肌触りがまったくちがう。高い山々に雪の降っているのがむしろ意外だった。札幌ではまだ初雪すら降っていなかったからである。

 ただ紅葉には遅すぎ、どこも初冬の風景になっていた。それでひとつ気がついたのは、農村に柿の木が少なくなっていることだ。北海道には柿の木がないから、赤い実が鈴なりになっている風景を見るたび、ああ、帰ってきたなあと本州の秋を再確認していたのだが、その柿の木が近年おどろくほど減ってしまった。食用としての用途がなくなってきたからだろうが、これは何としても淋しい。落ち葉が邪魔になるかもしれないが、どうか木は切らないでいただきたいとお願いしたいものだ。

 今回は日光へ寄り道したため、一般道をかなり走った。そして本州の道路の狭さ、カーブの多さに閉口した。こういうことは案外わかってもらえないかもしれないが、北海道の道路があまりによすぎるのだ。逆にいうと北海道の人間には、本州の農村や山村の道路のひどさは実感できない。
 信号のないふつうの道路を多くの車が連なって走っているときの速度は、本州ではよくて時速55キロくらい。北海道ではこれが70キロを超える。ほんとはもっと出せるのだが、80キロを超すと捕まるから、それ以下で押さえているのが実情だ。70キロ台だったら国道はまずフリーパスなのである。
 関越道と中央道を結ぶ圏央道が八王子まで延びてきたため、最近はいつもこれを使っている。ところが現在の終点から八王子市内へ向かう滝山街道が、これが都内の道路かと思えるくらい狭いのだ。ゆったりとした北海道を出発し、最後にこの滝山街道へたどり着くたび、まるで地の涯へ来たみたいな気分に襲われる。これで首都などとよく威張っていられるなと毒づきたくなるのだ。

 先日佐呂間で竜巻があり、工事関係者が大勢亡くなる事件があったばかりだが、そのニュースを聞いたとき、いちばん先に思ったのは「えっ、あんなところにそんなトンネルを掘る必要があったのか」という素朴な疑問だった。あの界隈へは何回も出かけているから、地理も道路もよく知っている。その限りでは、大きな現場事務所が設置されるようなトンネル工事が必要なところとはとても思えなかった。
 すると国道のつけ替え工事で、道路トンネルでは日本で何番目とかいう大工事なのだという。それを聞いたときは唖然とした。言っては悪いが北海道もずっと外れで、交通量などたかがしれているところなのだ。いまある国道だって本州の1級国道並だし、現にそれでだれも困っていない。そんなところへ日本有数の長大トンネルを掘って、10分やそこら時間を節約しなければならない必要はまったくないはずなのである。

 そういう工事がだれも知らない間にはじまってしまうのがいまの日本なのだろう。差し迫った必要のあるところには何の手も打たれず、だれも困っていないところへ莫大な金が投下されるのがいまの日本なのである。


2006.11.4
 何ということか、膝を痛めてしまった。ウォーキングをしていたときのことで、なにも特別なことをしていたわけではない。平坦なところを、ふつうに歩いていただけだ。それで、いきなりガクッときた。思わず「あ、痛ッ!」とそこへうずくまってしまう痛さだった。膝が割れたような感じといえばいいだろうか。以後数回同じ痛さが走り、家へやっとのことで逃げ帰った。

 以来恐れをなしてウォーキングは中断したままだ。痛みのほうは数日で出なくなったが、何よりも自信がなくなってしまった。思い切って歩けないのだ。とくに階段となると腰が引けてしまう。自己診断の結果では「変形性膝関節症」と出たが、数週間ようすを見て、医者へ行くかどうか決めようと思っている。

 強いていうなら年齢からきた蓄積疲労だろう。この4ヶ月、1日14キロ歩いていた。朝8キロ、夜6キロのコースができあがっていたのだ。天気のよいとき、調子のよいときは、これがさらに数キロ増えた。
 1日20キロ歩いた日もある。さすがにそのときは疲れが残り、やはり年なんだなと反省した。追々寒くなってくることもあり、これからは無理をせず、1日10キロぐらいにしようとしていた矢先のことだった。いずれにせよ、年寄りの冷や水だったことはたしか。口惜しいが身体のほうは、確実に老いぼれていたということらしい。

 で、がっくりとおとなしくしていた一方、足をかばいながらアキグミ採りにはなお2回出かけてきた。ほかに採るものがいないからと油断していたところ、この前見てみると、ゴルフ場の外周にあるグミ林が丸裸になっていたのだ。だれかやってきて、根こそぎ採りつくして行ったのである。
 さいわい川原へ自生している木には気がつかなかったか、こっちはまったくの手つかずだった。背丈より高く草が生い茂っているところだから、藪漕ぎしなければならないのだ。しかも木は点々と散らばっている。欲に目のくらんだじいさんでもないかぎり、おいそれとは入って行けないところなのだ。

 はじめの日は2時間ほどかけてビニール袋ふたつを一杯にしてきた。量ってみると2・9キロあった。欲深じいさんは大喜び。しかも木によっては、実りの時期がさらに遅れているものもある。まだ当分楽しめると思っていたところ、その前に冬がやってきた。朝の最低気温が1度まで下がってきたのだ。そうなると実がシバレてしまう。みずみずしさが失われてしまうのである。
 それで昨日、本年最後の採集に出かけ、1・9キロ採ってきた。これで合計6キロのアキグミが、わが家のジャムやソースになってくれたことになる。おかげで夏にせっせと働いたアリの心境、今年の冬は心豊かに過ごせそうである。


2006.10.28
 いやー、日本ハムが見事に勝っちゃった。まさに予想通りの結果となったのだからこたえられない。わたしもかみさんも、日ハムが勝つとすれば4勝1敗、つまり6、7戦までもつれこむようだと、日ハムに勝機はないと見ていた。札幌ドームで4万人以上の観客を集めたときの圧倒的な強さを知っていたから、2、3、4戦は勝てるだろう。ただそのためには、最初の2連戦のうち1つは、何が何でも取っておかなければならないと思っていた。
 予想というより願望である。そしたらその通りの展開になったのだから、これくらい痛快なことはなかった。おかげで昨夜は2時までテレビを見つづけていたし、今朝は今朝でスポーツ新聞まで買いに行った。そればかりか日中はインターネットのブログをのぞきつづけ、とうとう仕事にならなかった。中日ドラゴンズの公式ブログに寄せられた500ものコメントまで全部読んだのだ。

 今回の日本シリーズ、新庄の台詞ではないが「出来過ぎ」だったことはたしかである。恐らく100年に1度という出来事になるかもしれない。選手と観客が一体となって創り上げた新たな伝説の誕生だ。それをたまたま北海道にいたおかげで、あたかも身内の出来事みたいな近さで立ち合えたことを素直に喜びたいのである。
 これまで球場に出かけていた野球ファンというと、プロのファンみたいなのが圧倒的に多かった。応援の仕方も体育会系の乗りが大半で、素人ファンにはややもすると近寄りがたい雰囲気があった。そういう悪しき伝統みたいなものが、できたばかりの札幌ドームの観客にはなかった。これまで野球見物には縁のなかった素人ファンが集まってきたのだ。

 今回もテレビで見ていたら、セとパの違いもわからないようなおばちゃんたちが嬉々として球場へ詰めかけていた。おかげでこちらには切符が回ってこなくなったのだが、そういう人達がベースボールを心から楽しんでいたことは、正直に認めてやらなければならないと思う。中日ファンのコメントを見ても、札幌ドームの観客が自分たちとちがっていることを指摘した人が何人もいた。選手と観客のあり方、ゲームの楽しみ方というものに、今回のシリーズは一石を投じたと思うのである。

 ただそれが来年もつづいてくれるかどうか。新庄ブームで終わりかねない疑問は残る。北海道というところは、新しいものにはぱっと飛びつくが、醒めるのも早いところがあるからだ。まして来年は新庄が去り、ヒルマンが去り、小笠原が去り、岡島が去りすると、戦力の大幅ダウンは避けられない。正直な話、これでまた40年ぐらいは優勝できないかもしれないのだ。
 しかしそれでもよいではないか。強いという気はしないのだけれど、負けないで、負けないで、とうとう日本一になってしまった今年の日本ハムの強さは、野球というスポーツがある限り、これからも長く語り継がれてゆくだろうと思うからだ。願わくばこれがただの徒花となってしまわないよう、選手と観客が一体となった「楽しいベースボール」を維持する努力だけは欠かさないでもらいたいと思う。そういう意味でいちばんの問題は、つぎにくる監督かもしれない。頭の固い、古臭い野球人は願い下げにしたいものである。


2006.10.21
 昨日から日本シリーズの切符が欲しくてあれこれやってみたが、どれもうまくいかなかった。だいたいこれまで、そんな苦労をして切符を手に入れたことがないのだ。だから買い方からしてわからないのである。

 チケットぴあで買えるくらいのことは知っていた。しかし、では電話をかけようとすると、発信者番号がなんとかかんとか書いてある。さあ、発信者番号というのがもうわからない。とにかく電話してみようというので、受付開始と同時に電話をはじめたが、おいそれとかかるものか。1時間もやったら面倒くさくなってあきらめてしまった。
 ローソンチケットもあるというから、近くのローソンへ行ってみた。ものすごい競争率ですから一般の方はまずだめでしょうと言われ、簡単に納得して引き下がってきた。こうなったらテレビで見るほかないだろう。しかし口惜しいなあ。ファンクラブの会員だったら別枠があったらしいのだ。

 日本シリーズのおかげで、秋の紅葉がどうでもよくなってしまった。1度日帰りでニセコへ行ってきたものの、今年の紅葉はいまいち。例年と比べ色の鮮やかさに欠けた。今年の紅葉はもう終わりかもしれない。

 このまえ見つけたアキグミ。ジャムをつくろうと思っていろいろ調べてみた。するとアキグミは典型的な陽樹、つまり日当たりを好む木だということがわかった。大雨が出たあとの荒れ地などへ、真っ先に生えてくる木らしいのだ。荒れ地を緑化するとき最初に植えられることも多いらしい。
 アキグミが群落をつくり、土壌が安定してくるとほかの木が入ってくる。するとアキグミは日陰に追いやられ、枯れてしまうとか。シラカバと同じパイオニアの木なのである。わたしの見つけたアキグミも、いまではほかの木に負けて日陰の身となっていた。先は長くないということか。無数の実を鈴生りにつけているのは、すこしでも子孫を残そうという最後の努力かもしれない。
 しかし生態がわかってみると、ほかにもまだあるのではないかと思いはじめた。つまり日当たりがよくて、ほかの木がまだ来ていないところを探せばよいのだ。それで気をつけて歩きはじめたところ、たちまち群落を見つけた。パークゴルフ場の外周に10本ばかり垣をつくっていたのだ。これは恐らく植えられた木のようだったが、近くの川原には明らかに自生した木も何本かあった。スズメが実をついばんでいたから、それが種を運んで行ったものだろう。

 真っ赤な実がどの木にも鈴生りだ。それでビニール袋を持って行き、ウォーキングの帰りに摘んできた。ものの30分でビニール袋が一杯になった。帰って量ってみると1キロ以上あった。これをジャムにしたのである。
 水を入れずに煮はじめると、すぐとろりとした液体になる。それを裏ごしして煮つめるのだが、裏ごしまではかみさんにやってもらい、あとは自分でやった。しかし時間をかけてジャムにしなくとも、ソースで十分だとわかったから途中でやめた。ヨーグルト用のアキグミソースにしたのである。

 ユズを添えて食すとまことに美味。色は鮮紅色、瓶詰めにしたときの色はトマトケチャップそっくりである。生食だとしぶいのが、ソースにするとまったく渋味がなくなり、ほどよい甘酸っぱさとなる。まさかこれほどうまいとは思いもよらず、近来にない大収穫となった。川原にはまだたくさん実があるから、このあともう1回採ってきて大量につくり、冷凍保存して来年まで楽しもうと思っている。


2006.10.14
 日ハムの優勝で札幌は昨日からお祭り騒ぎだ。こちらもそれに便乗したいのだが、球場へ行くのは夢のまた夢となってしまったため、めでたさも中ぐらいの気分である。切符を買うことができないのだ。この分だと日本シリーズの入場券を手に入れるのはさらにむずかしくなるだろう。
 それにしてもこのブーム、いままで球場へ足を運んだことのない主婦層が半分くらい盛り上げている。それはそれでけっこうなことだが、新庄がいなくなる来年もつづいてくれるかどうか、心配なところもないではない。今年のロッテがだめになったのは、明らかに去年の反動のせいだと思うからだ。

 今週はお天気がさんざんだった。週末にやってきた低気圧が荒れ狂い、いまでもまだ一部地域には洪水注意報が出たままだ。今週は知床の紅葉を見に行くつもりで、歯医者の予約まで変えてもらった。それがこの風雨で中止。来週ではもう遅いのである。知床辺りの紅葉はきわめて短く、見頃はたった5日ぐらいしかつづかないからだ。

 数日後、今度は日帰りで朱鞠内湖というところへ行こうとした。ところがまた突然の時化模様。雷鳴ばかりか突風が吹き荒れ、函館ではダウンバーストの被害まで出る始末。結局今週は1日も外出できなかった。1夜明けた今日はよく晴れ渡ったが、朱鞠内湖の紅葉は1日で全部散ってしまったとか。北海道の秋はまことに短い。

 おかげでウォーキングのほうも雨にたたられっぱなし。出ては降られ、出ては降られで、朝夕2回とも橋の下で雨宿りするひどい目に遭った。
 それで思いつき、雨の日にマンションの階段を上がり下りしてみた。1階から14階まで歩いて登ると216の階段がある。これが「く」の字状のジグザグの階段だったらとても息がつづかないのだが、古いタイプのマンションなので階段は「Z」字状に設置されている。つまり1フロア上がるたび、10歩くらい後へもどってつぎの階段にかかる。それが息継ぎになるから、まあ何とか休みなしに上がることができる。5回往復したら汗だくになった。合計1080段。雪で外が歩けなくなったらこっちに切り替えよう。

 夜の気温が10度以下となり、今週からとうとう暖房のスイッチを入れております。


2006.10.6
 2ヶ月ぶりの定期検診を受けてきた。すると糖尿病の目安であるヘモグロビンなんとかの数値が、4ヶ月前の入院当時に逆戻りしていた。この2ヶ月間は、安全圏といえるところまで下がっていたのである。どうしたんでしょうねえ、と医者が首を傾げるから、どうしたんでしょうねえ、とこちらも空とぼけてごまかしてきたが、どうやら油断しすぎたせいらしい。

 ちゃんと歩いているし、体重は増えていないしで、このところチェックがだいぶ甘くなっていた。これくらいならいいだろう、これくらいなら運動で消化できるだろうというので、だんだん食う量が増えていたのだ。身体は正直というか、融通が利かないというか、その結果がてきめんに跳ね返ってきたのだった。しようがない。来週からまた出直しをすることにしよう。

 このところだいぶ寒くなって、今日は18度しか気温が上がらなかった。明日は14度という予報が出ている。先週まで半袖のTシャツで平気だったのに、今日からとうとう長袖に変えた。夕方になるとそれでも寒く、あわてて冬物を取り出し、フリースのベストを羽織るような始末。来週はおそらく暖房を入れるようになるだろう。

 河原の木々もめっきり黄色くなってきた。毎日歩いているコースの道ばたに、数日前、赤い実がたくさん成っている木を見つけた。これまで何十回も通っていながら気がつかなかった木だ。近寄って見ると、なんとグミである。小豆粒ぐらいの丸い実が真っ赤に熟れている。いくつかつまんでみたが、グミの味はするものの、渋味が強くて食用にはどうもという代物だった。
 あとで調べてみるとアキグミだとわかった。食用になるが、渋いので果実酒向きと書いてある。それでまあ納得はしたが、それにしてもこんなきびしいところへ、よくまあ1本だけ生えてきたものだと感心した。河川敷というより、そのまだ下段の、大水が出たら浸かってしまう川原のなかに生えているのだ。

 ふつうこういうところにはヤナギ類しか生えないものである。事実大半はそういう木ばかりで、ほかにポプラやニセアカシアが混じる程度。木の種類もほかのところよりはるかに少ない。あと下生えにイタドリがびっしりと生えるくらいで、やって来る鳥の種類だって少ないのである。
 このグミも、この間まではイタドリのなかに埋もれていた。北海道のイタドリは人間の背丈よりはるかに高くなるから、灌木類はみな呑み込まれてしまうのだ。ただイタドリは、秋になるといち早く枯れて落ちてしまう。それでいままで隠れていたグミの木が目につくようになったというわけだった。

 おおかた実を食った小鳥によって種がここまで運ばれてきたのだろうが、その偶然性や、これまでにかかった時間を考えると、なんだかおろそかにはできないような気がしてきた。で、こちらも一念発起。以後横を通りかかるたび、小鳥にならっていくつかつまんでは口に入れ、その種を近くの川原へせっせと投げている。この種がいつか芽を出し、ここら一帯に思わぬグミの林ができてしまうかもしれない、と想像するだけで楽しいではないか。






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