きのうの話 |
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2006.3.31 今朝起きてみたら一面の銀世界だった。札幌へ帰ってきてはじめての積雪である。とはいえそこは春の雪、お昼にはもうあらかた解けてしまった。数日前、札幌の積雪は12センチと発表されていたが、どこで測っているのだろう。たしかに河川敷などはまだ真っ白だが、それもところどころ地肌が現れはじめた。 花粉症を引きずっていたから3日間引き籠もっていた。鼻のぐずつきはまだ治らないものの、目のかゆみは2日でおさまった。はじめて外出したのは昨日。気温3度。風があったので手袋が欲しいくらい冷たかった。しかしそれでも真冬の3度とは明らかにちがう。河川敷の柳も梢がだいぶ赤くなってきた。 今回は帰ってくる日時がずるずる延びてしまったため、航空機の割引切符を買うことができなかった。それでもシルバー割引があるからと高をくくっていた。当日窓口で買えるのである。ところがその日は日曜日。窓口へ行ってびっくり。全便満員の表示が出ている。 あとは当日券を買うしかない。それでいやな気がした。その前の週、岡山から帰ってくるとき、札幌便と同じシルバー割引があるものとばかり思い、なんの手当もせず空港へ出かけた。そしたら当日券しか制度がなく、27000円と言われた。 新幹線ののぞみより10000円高い。よっぽど駅まで引き返して新幹線に乗り換えようかと思った。国際線ならいざ知らず、国内線でこんな高い金を払ったことはない。東京駅と新宿駅の乗り換えがわずらわしい、というだけの理由で飛行機にしたのだ。羽田からだと、リムジンで寝ながら帰ることができるからである。 千歳羽田間の当日券はもっと高かった。30800円。シルバーのほぼ倍だ。泣き泣き払ったが、今回は航空券でずいぶんむだな出費をさせられた。気をつけていたら出さなくてよかった金だから、ものすごく口惜しいのである。 明日から羽田千歳線にスカイマークが参入する。それで価格競争がはじまり、最安9600円という便まで出てきた。大いにけっこうとよろこんでいたら、どうやら当座だけのことだとか。何のことはない。6月に入ったらいまの値段にもどってしまうらしいのだ。 今回は東京でマンションの抽選に2回も外れた。こうなったら本気で札幌へ腰を据えようか、と思わぬでもないのだ。しかしこの足代の高さを考えると、二の足を踏む。日本の航空会社はどうしてこれほど運行コストが高いのか、JALの騒動を見ていると、関係者の目の付けどころが根底のところでちがっているような気がしてならない。 |
2006.3.25 まだ東京でうろうろしている。間もなく1ヶ月になる。さすがにうんざりしてきたが、だらだらと雑用が絶えないのだ。冬支度で来たのにいまや春、着るものがなくなってしまった。 今週のはじめには帰るつもりだった。ところが突然車がエンストを起こしてしまった。駐車場へ入ろうとしてブレーキを踏んだら、エンジンが止まったのである。バッテリーとオイルの赤ランプがともり、再始動できない。人に押してもらって脇へ寄せた。 そのあとまた試したら今度はエンジンがかかった。以後支障なく動いたものの、これでは不安だ。とくに北海道では安心して乗れない。田舎道で動けなくなったらアウトだからだ。なにしろ携帯電話を持っていないのである。 まえに日光の戦場ヶ原へ行ったとき、エンジンがかからなくなったことがある。そのときは公衆電話のあるところまで30分歩いて助けを求めに行った。携帯電話の必要を痛感するのはこんなときで、そのときは帰ったらすぐにも買おうと思ったものだ。 しかし家に帰ったら、喉もとすぎればで、まあいいやと思い直していた。携帯電話ができて何年になるか知らないが、ほんとうに必要だと感じたのは、このときをふくめ2回しかない。それくらいなら、我慢すればいいと思うわけである。 多分この先もしぶとく持つことはないだろう。必要か必要でないかという問題ではない。こういう利便性を拒否したいのである。ほんとは使えないんだろう、と言われたらぐっと返事に困るのだが。 車は1日で直った。それで、さて今度こそ帰ろうとすると、税務署から消費税の申告がすんでいないというはがきがきた。3月いっぱいに申告して納めないと、延滞金が何とかかんとか、えらく高圧的な内容だ。 確定申告はすませている。わたしクラスの作家になると、申告すればまだ税金がもどってくるからだ。そのもどりで地方税を払っているのである。 消費税の申告書なるものが送られてきたのは知っていた。しかし説明書を読んでも読んでも何をどうせよというのかさっぱりわからない。日本語の読解能力は一通りあるつもりだが、いくら精神を集中させてもわからないのである。わかるよう説明する努力や姿勢を完璧なまで欠いた文章といえばいいか。それで腹を立て、無視して申告しなかった。 仕方なく申告書を取り出し、もう一度読み直してみた。気が狂いそうになるほどわからない。それをある編集者に話したら心配してくれ、税理士を紹介してくれた。こんなことで人の手を借りるのは趣旨に反するが、時間もない。この際助力を頼むことにした。 確定申告をしはじめて40数年。これまでずっと白色申告で通してきた。収入といえば原稿料のみ。じつにシンプルな商売だから、自分で計算して申告することができた。それがとうとう通用しなくなったということだ。この40数年の税制を振り返ってみると、ますます瑣末に、煩雑になってきている。国民にこのようなむだなエネルギーを使わせて、いったいだれが得をするというのだろう。 |
2006.3.18 花粉症に苦しみながらまだ東京で暮らしている。鼻のほうは外出時にマスクをするからまだそれほどでもないが、目は防ぎようがない。かゆくて閉口している。帰ってきて一度も戸を開けていないのである。 なぜ帰らないかというと、けっこう用が途切れないからだ。ほんとは今日、18日に帰るつもりをしていた。そしたら数日前、昨年亡くなったM紙Y記者をしのぶ会という案内が入ってきた。親しくしていた人だし、作家も何人か出るというから、そうなると出ないわけにいかない。小生も出ます、ということになって、また来週へずれこんでしまった。 今日は多摩境にある温泉へ行ってきた。上がったあと、体重を量ってみたら53.3キロしかなかった。少なすぎるから計り直してみたが、同じことだ。 このところ55キロ台がつづいていたから、一気に2キロ以上減ったことになる。といって、べつに誉めるほどのことでもない。早くいえば栄養不良、ろくなものを食っていない結果だからである。 先月、盛岡在住で花粉症仲間でもある某作家から「絶食療法」なる体質改善法を紹介された。要するに現代人は食い過ぎなので、1日2食にせよ。そうすれば体質も変わり、花粉など受けつけなくなるという健康法だ。朝食を抜き、朝は水だけというのがみそである。 だいたいが昼めし抜きか、それに近い食生活をしていたから、これなら時間をずらせるだけで簡単にできる。それで先月末から、意識的な1日2食に切り替えていた。朝は水だけ、昼にはじめて食いものを取る。 大量のカロリーを消費する仕事ではないので、はじめてみるとこっちのほうが身に合っているように感じた。ただはじめて間がなかったから、花粉症にまで効果があったかどうかは疑わしい。いまでもそれをつづけているというだけだ。 しかし東京にいるときはひとりなので、ろくなものを食っていない。炊事が嫌いなわけではないが、いまは仕事優先だからまったくやらない。昼は買い置きのパンをかじり、夕食だけ外へ食べに行く。花粉怖さに外出も1回ですませているのだ。家で食うのは果物とヨーグルトくらい。当然栄養不良、食事の内容も偏るわけである。 出来合いのおかずをあれこれ買ってきたほうがバランスはよくなるのだが、器がすべてごみになってしまうからいやなのだ。それくらいなら外食ですまそう。たとえ一時的な栄養失調となったにせよ、せいぜい2週間、北海道へ帰ったらすぐ取りもどせる。 ということで格別苦にもしていないのだが、滞在が20日にもなってくると、体重の減少となってはっきり目に見えてきたわけである。鏡に映ったおのが顔は頬がこけてなんとも貧相だった。 |
2006.3.10 とうとう花粉症が出はじめた。目がかゆくなってきたし、くしゃみも出はじめた。しかし昨年ほどひどくはない。おかげで鼻水が前触れもなく垂れる醜態はまださらさなくてすんでいる。今年の花粉がそれほど多くないのか、本格的に飛びはじめて間がないのか、いずれにせよ今週末までにはもっとはっきりしてくるだろう。 いまのところ予防として、日に数回、鼻孔に軟膏を塗り、外出時にはマスクをし、昨年飲み残した錠剤まで飲んでいる。それで効果があったとするとありがたいのだが、何がよかったのか、それを検証する方法がないから困るのである。 今週は取材で中国地方へ出かけていた。岡山県から島根県へ足を延ばし、安来、松江、出雲大社、石見銀山と回ってきた。島根県は小学校5年から高校1年まで過ごした思い出深い土地だ。ただし西の石見地方にいたから、今回訪れた出雲とはほとんど縁がなかった。 小学校6年のとき、修学旅行ではじめて松江へ行った。まだ米持参で旅行をしていた時代である。宍道湖畔にあった旅館はとうになくなっていたが、嫁ヶ島の光景は変わっていない。これほど世のなかの移り変わりがはげしくなってくると、変わっていない風景に出会うとほっとする。 修学旅行のときは出雲大社でも一泊した。そのときの旅館と思われるものはまだ残っているが、場所がちがう。移転したのか、こちらの記憶ちがいか、門前に連なる旅館のひとつだったことはたしかなのだが。 その後出雲大社には3回くらい足を運んでいる。今回はざっと15、6年ぶりくらいになるだろうか。すっかりさびれてしまった門前町を見たときは、来なければよかったとさえ思った。わずかに残っている記憶を温めているほうが、まだしもよかったと思うのである。 国鉄時代の豪壮な大社駅はそのまま残されている。待合室に入ると、廃止当時の時刻表が掲示してある。それを見ると単なるローカル線の、それも全長8キロ足らずの盲腸線として、すでに死に体だったことがよくわかる。最盛期には寝台列車や、東京・大阪行きの急行列車まで発着していた駅なのだ。 いまではほぼ100パーセントの人が車で来ているだろう。車でさっと来て、さっと帰るのである。かくいうわたしも今回はそう。車で来たのははじめてだった。 駐車場がかなり奥深いところへ設けられているため、降りたら、いきなり拝殿の前へ出られる。門から入って、松並木の間を抜けて神前へ、という過程ゼロ。便利にはちがいないが、味気ないことおびただしい。せっかくだから往復してみたが、歩いている人はちらほらとしかいなかった。たった2軒しか出ていない露店のばあさんが「さびしゅうなりました」と言って嘆いていた。 ちなみに今回同行した同い年の友人は、出雲大社にいちばん感動したそうだ。はじめてだったせいもあるだろうが、これまで接してきた光景と明らかに異質だったことに打たれたというのである。 |
2006.3.4 先月選考委員を務めた文学賞の授賞式があり、東京へ帰ってきた。昨夜がその当日だった。選考経過発表は委員のひとり逢坂剛がやってくれるというから、当方は用事なし。いればいいだけ。なんとも気が楽である。それでパーティ会場へ入ると、水割りなどちびちびなめながら顔見知りの編集者と話をしていた。 すると授賞式がはじまった。人垣越しになにげなく前方を見ると、正面の壇上横に今回の受賞者が並んでいる。そしてもう片方には、選考委員がかしこまった顔をして腰を下ろしているではないか。その真ん中の席がひとつ空いている。つまりわたしの席なのである。客みたいな顔をして水割りなど飲んでるどころじゃない。そこへ坐ってなきゃならなかったのだ。 あわててのこのこ出て行ったが、何ともぶざまだった。選考委員なんだから授賞式に立ち会うのは当たり前でしょう、とあとで言われた。ごもっとも。わたしが重々悪うございました。 北海道に引っ込み、半分もぐらもちみたいな暮らしをしていると、常識とか、世間とかいったものと関わりを持たなくてすんでしまう。それはそれでいいのだが、それが常態化して当たり前となってしまうと、こういうとき気がつかない、自覚が足りない、という情けない人間ができあがってしまうわけだ。これではわがままで自己中心的、厚顔かつ鈍感、そこらへんの困ったじいさんと変わりないではないか。 最近ますますこういうことが増えてきた。同じ話を何度も繰り返すなんてことは序の口。指摘される機会もなく、気づかないまま見逃してもらっていることはもっとたくさんあるだろう。人前に出たあとで、後悔しなかったり自己嫌悪に陥ったりしなかったことがないのである。人前へ出て行くのがますますいやになってきた。 そろそろ杉花粉が飛びはじめているらしい。昨年油断してひどい目にあったから、今年は外出の際必ずマスクをし、帽子をかぶり、帰ってきたらシャワーを浴びて身体を洗い流すよう心がけている。もちろん窓は閉め切ったまま、まだ一度も開けていない。 それでも今回は20日近く逗留するし、週明けには岡山へ出かける用事もある。それがどういう結果をもたらすか、半分は戦々恐々としているのである。 |
2006.2.25 今週はちょっと恥ずかしい私事をご披露する。自宅近くの地下道で、前を歩いていたかみさんに気がつかず、追い抜いてしまったのだ。声をかけられてはじめて気がついた。なんともばつの悪いことだった。 その30分前まで一緒にいたのである。それぞれ買い物があったから途中で別れた。わたしのほうは本屋に寄っていたから、かみさんはとっくに帰ったものとばかり思っていた。最後にかみさんが行ったところからだと、まっすぐ帰ってもそれほどの道のりではなかったからだ。 ところがかみさんのほうは、雪解けでずたずたになっている歩道を歩きたくなかったとか。それで遠回りながら地下道のほうへ迂回してきた。4角形の3辺を回るようなコースだが、それでもまだ楽だという。 こちらはそんなことなど思いもしない。とっくに帰っていると思うから、周囲はまったく目に入らなかった。べつに目移りするような地下道ではないのである。ただの通路が1本、真っ直ぐに延びているだけ。先のほうへ行くと人通りも少なくなり、ときによってはだれも歩いていないときすらある。 そのときもほぼそれに近かった。つまりだれも歩いていないに等しい状態。したがってわたしの目には何も見えなかった。いや、前のほうで何か動いていたみたいだが、それが人間だという認識すらなかった。ものが動いていたという感じ。だから黙って追い抜いて行ったら、思いがけない声で呼び止められ、ぎょっとしたわけだ。 かみさんのむくれまいことか。まずかったことはたしかで、亭主としては取り繕いようがなかった。この先ことあるごとに蒸し返されそうである。 だいぶまえのこと、知床5湖を1周したことがある。知床5湖という名の通り、5つの湖があって1巡りすると1時間以上かかる。観光客の大半は1湖か2湖見ただけで引き返してしまうから、奥のほうへ行くとほとんど人がいなくなる。ヒグマが出没するというので、夕方5時になるとコースまで閉鎖されてしまうのだ。そういうところへ、のこのこ入って行った。 人影がひとり減りふたり減り、気がついたら自分たちしかいなくなっていた。それでつい足が速くなってしまったのだが、そのときかみさんより前に出たみたいなのだ。自分では覚えていない。しかしかみさんには「この人はクマが出たら、わたしを放り出して逃げて行くにちがいない」という印象をしっかり与えたらしい。本性見たりとばかり、以来ことあるごとにそのときの恨みつらみを言われる。それに今度、また新たな材料を加えてしまったというわけだ。 しかしだれも通っていないところで、すぐ脇を追い抜いて、全然気がつかなかったのだから言い訳のしようがない。もしこれが若い娘だったら、後姿で一目でわかるから、顔くらいのぞき込んで行ったと思うのだが。なお悪いか。 |
2006.2.18 このところ気温の乱高下がはなはだしい。雪祭りまで連日氷点下の日々がつづき、この冬がひときわ寒いのを実感させた。ところがそのあと一挙に暖かくなってしまい、テラスの手すりに積もっていた雪が1日で消えた。消えたのは今年はじめてのことである。そしたら一昨日からまた寒波。テラスはまた雪まみれとなり、つららまで垂れ下がった。しかしそれも明日まで、また暖かくなるという。この急激な気温変化こそ、春の兆候のひとつなのかもしれない。 今週は珍しい体験をした。来客が東京へ帰る前日、4人で山のなかの温泉へ行った。北海道のほぼ中央、冬は道路もそこで行き止まりになってしまう湖畔の温泉である。部屋の窓から凍結した湖が見下ろせる。湖面は向かいへ1キロ余り延び、それから山。それほど険しい山ではないが、標高が800以上あるところだからみな1000メートルは越える。人工的な施設は一切なし。見渡す限り明かりひとつない秘境である。 満月の日だったから期待していた。しかし着いたときは吹雪で何も見えなかった。夜になってようやく雪がやみ、向かいの山が見えてくるようになった。しかし風が強く、雲が飛ぶような速さで動いていた。9時を過ぎたあたりから雲が切れ、月がときどき顔をのぞかせはじめた。しかし出たかと思うとすぐ隠れる。隠れたかと思うとまた出る。それこそ一瞬の休みもなく、まことにめまぐるしかった。 それでも月明かりにぼうっと照らされている氷原は見飽きることがなかった。何の動きもない静止した画像なのだが、明暗だけを見ていてすこしも飽きないのだ。部屋の明かりを消し、窓辺の椅子に腰を下ろして12時ごろまで見入っていた。 そのうちこれまで見たことのないものが見えてきた。満月を隠したり出したりしている雲の影が、真っ白に凍っている湖面を目をみはる速さで移動しているのである。月が出たときは白い影になる。隠れたときは黒ずんだ影になる。あるいはその逆なのかもしれないが、雪に覆われた湖面を影が走って行くのである。それもつぎからつぎへと、一瞬も止むことなく走りつづける。 潮が寄せているような、大波が走っているような、津波がひたひたと押し寄せているような、なんとも形容のしようがない、幻想的で、不思議な光景だった。同じ風景がまったくないのである。まさに千変万化。偶然の産物だったとはいえ、得がたいものを見せてもらったと心底思った。凍結した湖、凍てついて静まり返っている自然、満月、吹雪が止んだ直後の速い雲、どれひとつ欠けてもつくりだせなかった光景ではないかと思うのだ。 文筆家としては、こういう光景を文章で人に伝えられるだろうかと思わざるを得なかった。できそうもない自分の非力に絶望した。それでもいつか、機会があったら挑戦してみたいと思った。そのときが、いつか巡って来るといいのだが。 |
2006.2.12 今週は40年来のつき合いになる友人夫婦が神奈川からに遊びに来た。それで風邪も治ったことだし、これ幸いと一緒になって遊び回っている。昨日は歩くスキーを楽しんできた。4人とも高知の生まれ、神奈川の夫婦はスキーそのものがはじめてである。 はじめは藻岩山へ登るつもりをしていた。しかし朝からの雪で視界が悪かった。べつに道を見失うような山ではないが、札幌市街を見下ろせないようでは楽しさも半減する。それで歩くスキーに切り替えた。 市街地の真ん中に中島公園がある。今年は例年以上の雪と寒さで、いつもは鴨が越冬している池も凍結してゼロというありさま。園内にある大きな音楽ホールも、昨日は公演がなかったこともあって、人影はまばら、観光客にいたってはまず見かけなかった。おかげで音楽ホール付属の喫茶室は4人で貸し切り状態。降りしきる雪を、暖かい室内から窓越しにながめる贅沢さを存分に味わった。 そのあとスキーをやったのである。公園内に1キロの周回コースがあって、好きなだけ滑ることができる。平坦なコースだからうまい人にはものたりないかもしれないが、ビギナーの入門用としては最適。しかも靴からストックからスキーまで、無料で貸してくれるのである。 雪祭り開催中であったにもかかわらず、平日だったせいかちらほらしか滑っていなかった。おかげでいくらもたもたしようが、転んでコースを穴だらけにしようが、後から来る人を気にする必要なし。いい年をした年寄り4人が子どもみたいな声をあげてたっぷり1時間楽しんできた。われわれが1周した間にうまい人は4周くらいしていたようだ。 そして今日は快晴。絶好の登山日和となったから念願の藻岩山へ登ってきた。標高530メートル余、ゆっくり登って2時間弱のコースである。藻岩山のいいところは、登山者が多いので冬でも雪がほどよく踏み固められ、アイゼンさえつけたら楽に登れることだ。登山同好会みたいなものがあって、頂上のレストハウスに名札が掛けられているが、1000回2000回登っている人が何十人もいる。そういう人たちが登山道をせっせと整備してくれているのである。 おかげでじつに快適な、気持ちのいい山登りになった。原生林の中を登って行くから視界に変化があり、眼下にはいつも札幌市街がのぞめて、何とも晴れやかな気分にさせてくれる。これでは何100回登っても飽きないだろうなと思わせる魅力にあふれているのである。 ただ一昨年の台風で受けた被害が莫大なものであったことには改めておどろいた。樹齢何100年という木がいたるところ倒れている。とくに尾根筋はひときわ強い風が吹き荒れたらしく、薙ぎ倒されたりへし折られたりした木が一面にひろがり、見るも無惨な状態になっていた。 それでも藻岩山は自然のままにしておくことを趣旨としている山なので、倒木はそのまま放置されている。これらの木が腐り、そこへ新しい芽が生えてきてもとの森となるには、まだ100年以上かかることだろう。自然というものはそういう長い目で見る必要があるということをわからせてくれる点でも、藻岩山は貴重な山なのである。それにしてもいちばん手近な山の木を、斧ひとつ入れず原生林のまま残してくれた明治の人はつくづく偉いと思う。 |
2006.2.3 風邪を引いた。一昨日の夜、札幌へ帰ってきたところである。そして「北海道へ来たおかげで風邪を引かなくなった」とかみさんに言ったばかりだった。宵のうちに寝たとき、部屋の気温が17度とやや低めだった。東京ではこれくらいだったから、寒いなとは思ったが蒲団をかぶるわけだからとそのまま寝てしまった。2時間ほどして起きてみると、寒くてたまらない。あわててベストを着たりジャンパーを着たりしたが、寒気はとまらず、昨夜はとうとう仕事にならなかった。 今朝起きてみると、体がだるい、微熱がある、節々が痛いと、典型的な風邪の症状だ。仕方がないからめしを食ってすぐ寝た。すると眠れること眠れること。午前10時から午後6時までひたすら寝てしまった。この間まったく飲まず食わず。それでも食欲はなく、夕食はかみさんが買ってきた恵方巻きの寿司を一切れつまんだだけ。めしのあとまた寝たらさらに3時間眠れた。おかげでさすがに今夜は起きっぱなし。何のことはない。昼と夜を逆にしただけだった。 小さいときから体が弱く、病気ばかりしていた。風邪を引くと熱を出すのが特徴で、寝汗をべったりかいて蒲団もパジャマもぐしょぐしょにしてしまうのだ。それが北海道へ来て一度もそうならなかった。部屋のなかが暖かいせいかもしれないし、北海道の空気が合っているのかもしれない。今回も大事を取って早めに寝たから、恐らく明日はけろっとしているのではないかと期待している。 東京を発つ前日、出版社気付で送ってこられた読者の手紙を2通いただいた。今回の短編集の感想文である。それがこともあろうに女性からの手紙なのだ。女性からのファンレターなんて、いただいたのは何年ぶりのことだろう。ただしわたしの本の読者だから、おふたりともお年はだいぶ召していらっしゃった。しかしありがたいことに変わりはなく、本欄のメールプラザに寄せてくださるみなさんのことばともども、物書き冥利に尽きることを心から感謝している。 その手紙のなかで、おふたりともあとがきに「この手の作品はこれが最後になります」と書いたのをひどく気にしておられた。また今回東京で会ったいろんな人からも、それは言われた。本人はそれほど人騒がせになるなんて思いもしなかったことで、その反響におどろいている。それでこの場を借り、弁明させていただく。 べつに筆を折るというほどの意味ではありません。この先どこへ向かうにしても、ひとつところに留まっていたくないという決意を込めただけのことで、いわば自戒であり、新たな出発への宣言にすぎません。これからも書きつづけることに変わりはないつもりです。文を書いて世渡りしている以上、生きている間に自分の持っているものをすべてさらけ出し、最後は何もなくなってぼろぼろの抜け殻となって死んで行くのが本来の姿だろうなと、やっと腹が据わったというか、得心がいって日々を過ごせるようになったところです。これからを期待してくださいということで、とりあえず風邪を治します。 |
2006.1.29 文学賞の選考会が無事に終わった。受賞者の名前は新聞で発表されたと思うが、今回から小生が加わったのは大藪春彦賞である。比較的新しい賞で、今年がたしか8回目。選考委員は4人、任期も4年。従ってあと3回やらなければならないことになる。 個人的にいえば人の作品に優劣をつけ、そのなかから1編を選ぶというのは好きでない。以前義務としての選考委員を1期2年やったことがあるが、小説観の違うもの同士が妥協し合ってひとつを選ぶというのは、性に合わないとつくづく思った。そういうことを承知で、札幌に潜り込んでいるあいつを引っ張り出せよ、という声があったとかで、そのお鉢がむりやり回ってきたのである。 それでじつは多少緊張もしていた。ところがいざはじまってみると満場一致ですんなり決まってしまい、むしろ拍子抜けした。ただしこれほど順調に経過したのは珍しいそうで、ときには数時間もやり合ったことさえあるそうだ。作品については多少言いたいこともあるのだが、本来の講評は雑誌に発表されるし、それが活字になるのは来月のことなので、ここで先走ったことを言うのはやめておく。 大役が終わってほっとしたせいか、今週は1週間がばかに短かった。それに雪こそ降ったが、東京の日中はなんといっても暖かい。なんだか避寒に来ているような気分で、来週は北海道へ帰らなければならないのをむしろ残念に思っている。 もうひとつうれしかったのは、ことしは花粉症の症状がほとんで出ていないこと。というよりしばらくの間その自覚がなかった。ときどきマスクをしている人を見かけたが、風邪が流行っているというからそのせいだろうとばかり思っていた。そしたら冗談じゃありません、もうはじまってますよ、とのこと。くしゃみは出るし、目はうるうるだし、と言われてびっくりしたのだ。 それが帰ってきて4日目のことだった。けしからんことにその夜からくしゃみが出はじめた。ときどきは鼻水も出る。完全な自己暗示である。昨夜はめしを食いに行ってくると、目がすこしかゆかった。しかしそれでも例年に比べたらはるかに軽い。去年受けた手術が有効だったのかもしれないし、秋から飲みはじめた体質改善のサプリメントがきいているのかもしれない。このつぎは3月に帰ってくるが、問題はそのときだ。花粉症真っ盛りの時期をこの程度で乗り切れるようだと、東京へも安心して帰ってこられるのだが。 |
2006.1.21 いやー、おどろいた。東京へ帰ってきた途端、これほどの雪に降り込められるなんて。昨夜遅く帰って来たから、明日は東京でも雪が降るという天気予報は知っていたのだ。しかしいつものことで、ちらつく程度だろうと高をくくっていた。それより千歳空港まで、転ばないように行くことのほうがはるかに大問題だった。ふだん用の靴をはいて帰ったからである。 羽田へ着いたときは、今年いちばんの寒気といったって、やっぱりこんなものか、と拍子抜けした。真冬日がつづいている札幌に比べたら、東京の寒風なんてそよ風みたいなもの、これでは雪になるわけがない、と思いながら家へ帰ってきたのである。 朝起きてみると、何となく外が静かだ。戸を開けてびっくり、思わずうそー、と叫んでしまった。これ、自然の贈り物だったのだろうか、いたずらだったのだろうか。正直にいうと、市街地の真ん中で見る札幌の雪よりも、雑木林の残っている多摩の雪のほうがはるかに美しいのである。 湿気があって雪が重いせいだろうか、小枝の先端まで樹氷みたいに真っ白になっている。それほど長続きする風景ではないが、まるで山水画を見ているみたいで、このときばかりは多摩ならではの雪と、自画自賛したくなってしまう。 こういう日は外へ出ず、一日雪見としゃれていたいのだが、そうは問屋が卸してくれなかった。出かけなければならない用があったのだ。用そのものは、明日に延ばせば延ばせないこともなかったが、そうはいかない事情がもうひとつあった。家のなかに、食うものがなにもなかったのである。冷蔵庫はもちろん冷凍庫のなかまで空っぽ。それこそ水しかないのだ。 ほんとは昨夜、スーパーで買い物をして帰ってくる予定だったのだ。ところが、前回札幌へ帰るときもそうだったが、最近のJALは、わたしが乗るときに限ってまっとうに飛んだことがない。今回も到着機が遅れ、千歳で1時間待たされた。羽田到着後は走りに走り、最終ひとつ前のリムジンにやっと間に合った。 空腹には勝てないから、JALに八つ当たりしながら出かけて行った。坂のあるところだから、駅までの道のりが大変なのである。ガードレールにしがみついて、ようやく通り抜ける始末。帰ってきたときも同じ。雪は出かけたときよりさらに増えていた。 あきれたことに庭の車が雪に埋もれていた。フロントグラス全面、屋根にもうず高く積もっている。まさに札幌並みだ。測ってみたら十四センチあった。夜になって、だいぶ沈み込んでから測ったものだから、昼間だともっとあったかもしれない。 うれしいことに木々の枝まで真っ白という風景はそのまま残っていた。一日休みなく降りつづいたからで、こういうことは珍しい。食いものを数日分買い込んできたから、ほんとは明日降ってくれたらもっとうれしかったのだが。 |
2006.1.14 大雪が一段落、全国いっせいに春の陽気を迎えたみたいだが、北海道だけはどうやら例外だった。札幌も予報ではプラスの3度と出ていたのだが、雪が多すぎるのか、実際の気温はマイナス1度までしか上がらなかった。今週もかなり降り、雪の量は以前よりもっと増えた。 この大雪で輸送が遅れ、雑誌の発売まで遅れた。定期購読している雑誌の広告が新聞に出たから買いに行ったところ、どこにもないのである。代わってお詫びのビラがはりだされていた。たしか前にも同じことがあったから、札幌に来て2度目の経験である。 今日は久しぶりにふたりで外出し、新築マンションを見てきた。北海道はもう十分住んだと思っている反面、ではこれからどこに住むか、という終の棲家の問題になってくると、あれこれ迷いが多く、心がなかなか定まらないのである。 東京の多摩にあるわが家は、駅から遠くないが日常生活にはやや不便で、買い物ひとつするにしても電車で出かけなければならない。しかも坂があるから、これ以上年を取ってくるとだんだんつらくなってきそうなのだ。 それで老後はいまの家を売り払い、もっと便利なところでマンション生活をしようと前から決めていた。ところが東京では、このマンションを買うということが、なかなか容易なことではないのである。 なぜかというとこちらがいいと思う物件は、ほかの人にとっても便利だったり手頃だったりするわけで、当然希望者が殺到、かなりの競争率となってしまうからだ。この抽選というものに、はなはだ弱いのである。これまで10数回応募しているが、ただの一度も当たったことがない。 くじ運が悪い、というよりくじ運を使い果たしてしまったらしいのだ。というのも独身時代に、623倍という宝くじみたいな競争率に勝ち抜いて夢のような勝者になったことがある。30数年住んだ池袋の市街地公団住宅がそれ。当たるはずがないと思って応募していたところ、見事に当たったからかえって泡を食ってしまった。というのも家賃がべらぼうに高く、当時のわたしには身分不相応すぎたからだ。たしか月額17200円だったと思うが、いまから40年前のことだから、いまの相場でいえば17万円よりはるかに上だったような気がするのである。 そのときがわが人生最大のつき。以後あらゆるくじに当たったことがない。2倍でも外れる。運をすっかり使い果たしてしまった。じつは今回も、東京へ帰ったら申し込みをしようと思っているマンションがある。月末の抽選をたしかめてから札幌へもどるつもりだが、今回もどうせだめだろうなと、いまの段階から半分あきらめているのだ。 ところが札幌では、発売されたマンションが即日完売になることはまずあり得ない。完成後1年たっても、売れ残っている部屋がいくつもある。したがって選ぶ方は選りどり見どり、その気になって買いたたけば、信じられない値段で買える。それでときどき、よさそうな物件があると冷やかしがてら見に行っているのである。 本日見てきたところも前に大きな緑地帯があり、高層階よりむしろ低層階のほうが感じはよかった。都心への買い物もいまよりもっと近くなる。それで、ほんとに雪さえ降らなかったら札幌も悪くないんだよなあ、とぶつぶつ言いながら帰ってきた。今週も一回転び、これでこの冬はもう3回転んだ。 |
2006.1.8 日本各地が大雪で大変のようだが、札幌も例外ではない。昨日今日と降りずくめで、市街地でも3、40センチは積もった。北海道は気温が低いからこの雪が溶けない。今年に入ってプラスの気温を記録したのは一日だけ、ずっと真冬日がつづいている。おかげでこのところ道路のコンクリートの地肌を見たことがない。 それに今年はダンプカーの数が減っているとかで、除雪の回数が大幅に減っている。道路脇には掻き寄せられた雪がうずたかく積もり、塹壕の中を歩いているような気分にさせられるところもある。公共事業が減少したので採算が取れなくなり、ダンプカーが減っているらしいのだ。それが除雪にまで響いてくるとは思わなかった。 そういえば今年は小樽のメーカーが募集したおせち料理が、正月を過ぎても届かなかったという事件もあった。注文を取りすぎたのとこの雪とで、配達が予定通りすすまず、2000軒も間に合わなかったという。 このメーカー「うまくなかったらお代はいらない」というキャッチフレーズで、去年いきなり躍り出てきた地場メーカーである。2万円で北海道の海産物をこれでもかこれでもかというくらい盛り合わせたおせち料理をつくった。それで、ちょっと変わっているからいいかと思い、去年ふたりの子どもたちのところへ送ってやった。その評判がよかったから、今年は自分の家でも買ってみようかと思ったのである。 ところがインターネットで注文しようとすると、募集期間内であったにもかかわらず、もう締め切られていた。予想以上に好評だったため、予定の1・5倍だかの注文を受けて締め切ったらしいのだ。それでも道外の発送は早めに手当てしたから年内に届いたらしい。問題は道内。注文の取りすぎや、この雪と発送体制の不備から遅れに遅れ、とうとう間に合わなかったらしいのである。何が幸いするかわかったものではない。注文していたら、ことしのわが家はおせちなしの正月になっていたかもしれなかった。 この一週間は家に籠もってひたすら本を読んでいた。例の候補作を読んでいたもの。昨日やっと全作を読み終えた。このまえ東京で某作家から「正月は地獄だぞ」と脅されていたのだが、案外それほどでもなかった。 というのも今回はSF、経済小説、シミュレーション小説といろんなジャンルの作品がそろい、なかなか変化に富んでいたからだ。ふだんだとまず絶対読まないものを読まされたわけで、それなりに目新しくて面白かった。選考会が楽しみである。 |
2006.1.1 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 今年は例年になく雪が深いうえ、気温も低い。それでどこへも出かけないまま正月を迎えた。すでにもう2回転んでいる。出歩くのがだんだん怖くなってきたのだ。 12月は30日まで仕事をしていた。おかげで年賀状を一枚も書けなかった。いまの仕事があとすこしで終わりそうだったからそっちを優先させたのだが、とうとう年内に終えられなかった。あと100枚というところから、なかなか先へ進まないのだ。その100枚を書いてみると、まだあと100枚は必要だなということになり、ずるずると長くなるばかりなのである。 しかも年が明けたら明けたで、つぎの仕事が控えている。ある文学賞の選考委員になったから、これから候補作を読まなければならないのだ。本のほうは12月に入ってすぐ、出版社からどかっと送られてきた。その大きさを見ただけで恐れをなし、以来部屋の隅へ転がしてあった。昨日、覚悟してその包みを開けたところだ。いま目の前にその本が積み上げてある。2段組で活字がぎっしりという本もあれば、上下2巻になったものもある。5作品全6冊。それをこれから読まなければならない。 前に推理作家協会賞の選考委員をやらされたことがあり、そのときで懲り懲りだと思った。意見のちがうもの同士が折れ合ってひとつの作品を推す、というシステムがどうにも気に入らないのだ。以来この手の話はお断りしていたのだが、今回はむりやり口説かれてというか押しつけられ、しぶしぶ引き受けた。引き受けた以上は責任を持って読まなければならない。ことしは年賀状が出せないかもしれないな。 年の初めだから、年頭の誓いをひとつ。 今年は長編を2冊出します。といっても昨年の予定がずれ込んだだけのことだが、まあ今年は何とか約束が果たせるでしょう。いずれも書き下ろしです。 |
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