Shimizu Tatsuo Memorandum

きのうの話      
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2005.12.24
 日本中が雪で大変なことになってしまった。一方で札幌は、気温こそ低いもののこの一週間ほとんど雪が降らなかった。先週千歳空港が雪でダウンしたことなど嘘みたい。わが家の窓から見える雪の目安、つまり豊平川の河川敷にあるふたつのベンチが、そのときはもうすこしで隠れようかというくらい降ったのだが、それ以後はゼロに近い。おかげで雪がすっかり沈んでしまい、いまではベンチがまるまる地上に出てしまった。今日は久しぶりに朝から雪。それがなんだか珍しく思えるようなお天気なのである。

 真冬日が多くて路面が凍結しているから、できるだけ外には出ないようにしている。東京からもどってきて20日近くたつのに、この間地下鉄に乗ったのは1回。ジムに行ったのが2回。あとは手近での買い物ぐらい。平均すると1日1000歩ぐらいしか歩いてないんじゃないだろうか。

 車がない、歩けないのほか、行くところがないということもある。映画も10月だったかに『チャーリーとチョコレート工場』を見たほか行っていない。見たい映画がないのだ。『男たちの大和』の評判がいいようなので、見るかどうするか、いま迷っている。映画評が出てくるまでは、あんな映画、頼まれたって見るものかと思っていた。ポスターで見るあの俳優の顔の汚し方、あれを見ただけでお里が知れるというか、人間描写の浅薄さがわかってとうてい見る気になれなかったのだ。

 おかげでずっと家のなか。買い物も1日おきくらいしか行かないから、在庫整理と称して、冷蔵庫やもらい物の残りものばかり食わされている。米のめしは1日1回しか食わない。すると食える夕めしはあと数千回だ。10年生きたところで3600余回。それを考えたら、ちと粗食すぎるんじゃないの、とときには文句を言うのだが、じゃ何か買っておいでなさいと言われたって食いたいものがないのである。

 食うことに対する欲望が、かつての自分からは想像もできないくらい薄れてしまった。おかげでいたって金はかからない。病気はしていないから医療費を押し上げる働きはしていないが、これだけ金を使わずに年寄りがのさばっていては、世の中の景気はよくなるはずがない。なんだか生きているのが申し訳ないような境地になりつつある。


2005.12.17
 日本列島が震えあがるような寒波に襲われてしまった。先週北海道へ帰ってきたときは、雪がまったくなかったというのが嘘みたい。札幌もただいま積雪20センチ。しかも今日は一日降りつづけた。気温もぐんと下がり、一気に冬のまっただ中へ突入だ。

 情けないことに、もう転んだ。買い物をして帰ってくるときのことで、交差点の真ん中で転び、豆腐をぐちゃぐちゃにしてしまった。油断していたのではない。凍っているから気をつけて、そろそろ、そろそろと渡っていたのに転んだのだ。肉体の衰えを思い知らされたようでショックだった。

 さらに、あろうことか風邪まで引いてしまった。くしゃみと鼻水は東京からつづいていたから、アレルギーの延長ぐらいに考え、さほど気にも止めてなかった。先週本を探しに紀伊国屋まで行ったところ、水っぱながぽたぽた落ちてどうにも止まらなくなった。鼻水が出るからとティッシュを多めに持って行ったのだが、それをあっという間に使いつくした。

 こうなったら本探しどころではない。新しいティッシュをポケットいっぱい買い込み、ほうほうの体で逃げ帰ってきた。どうやら風邪らしいと気づいたのはそれから。うかつといえばうかつだった。
 あわてて着込む、暖房を強くする、部屋の加湿を強化する、といった手段に訴えて二日間外へ一歩も出なかった。おかげで本風邪になる前のところで食い止められたか、きょうは鼻水もくしゃみも出ていない。

 ただし今日は雪をついて昼に2時間ほど外出していた。出張で札幌へ来た甥が寄ってくれたからで、一緒に昼飯を食いに行ったのだ。さいわいいまのところ外出した影響は出ていないが、甥のほうはかわいそうに、わが家へ寄ったため千歳に行ったら全便欠航。また市内へ舞いもどってきたらしい。
 なんだかあわただしい一日になってしまった。じつは今日が六十代最後の誕生日なのである。いまやうれしくも何ともないが、自覚だけはうながされる日として、厳粛に受け止めおこう。


2005.12.10
 昨日札幌へ帰ってきた。今回は1ヶ月を超える長逗留となってしまい、出発時は秋の服装、冬支度はしてなかったから帰りは着たきり雀だった。この日東京の最高気温が10度、札幌は1度。飛行機から降りた途端、身が引き締まるほどの冷たさに襲われ、帰ってきた実感が湧いたものだ。

 ところがあきれたことに雪はまったく降っていなかった。どこを向いても雪のかけらもない。拍子抜けというよりだまされた感じ。だがゆうべ、夜中に起きて仕事をはじめていると、窓の外が妙に白い。雪が降っているみたいな気配なのだ。しかし風もないおだやかな夜だったからまさかと思い、のぞいて見もしなかった。

 今朝起きてびっくり。一面の銀世界になっている。一晩でがらっと変わってしまうところがいかにも北海道的だ。日中はあらかた溶けてしまったが、今夜さらに降るらしいから、これが根雪になりそうである。

 家の中が暖かくてほっとしている。多摩では24時間ファンヒーターをつけっぱなしにしていたが、それでも19度以上にはならなかった。一方下がるほうはいくらでも下がる。一度夜半の3時過ぎにもどってきたところ、室内気温は7度になっていた。多摩のほうが札幌よりはるかに寒いのである。

 市内までもどってきて地下鉄に乗った途端、やはり札幌のほうが薄着だなと思った。12月に入ると東京人の服装がにわかに着ぶくれ、7人掛けの電車のシートがぎゅうぎゅうになっていたからだ。それに引き比べ札幌人はあまり厚着をしない。ダウンのコートなど着ているのはたいてい観光客だ。

 街が狭いから出かけても30分、家の中が暖かいから大げさな防寒着を着る必要はないのである。着るとかえって困ることが多い。わたしも札幌へ来てセーターをほとんど着なくなった。タートルネックのセーターにいたっては、この6年間一度も手を通していない。そんなものを着て外出したら、先方へ着いたあと暑くて往生するからだ。

 その代わりということもないが、北海道の人はマフラーを愛用している。ざっと見たところ半数以上の人が首に巻いていた。ちょっとした防寒なら、たしかにこれくらい便利なものはない。わたしも貰ったり買ったりで、いつの間にか5本も持つようになった。ネクタイは1本しか持っていないのである。


2005.12.3
 東京にも源泉かけ流しの温泉があった。それも自宅から車で15分という近いところだ。去年できたばかりだそうだが、身近にこんないい温泉があったなんて、東京も捨てたものではなかった。

 2週間ばかり前のこと、パソコンを抱えて湯河原の温泉へ行った。初めてのところだったから用心して2泊しかしなかったが、お湯はなかなかよかった。ところが街にろくな食いもの屋がないのだ。ラーメン屋に一回入ったきりで、あとはコンビニ、何とも味気なかった。近場にあって、ひとり客OKで、素泊り可能、街にいいめし屋があること、などという注文そのものが虫がよすぎるのかもしれない。

 それでほかにもないか、インターネットで探してみた。そしたらおどろいたことに、東京に温泉が増えていること、増えていること。いくらブームとはいえ、まるで雨後の筍である。今回の温泉もそこで見つけた。

 しかし源泉かけ流し、というのが信じられなかった。というのも、多摩にある温泉ならほとんど知っているからだ。その限りでいえば、正真正銘の源泉かけ流しというのはなかった。たとえ本物の温泉を汲み上げているところでも、お湯は循環させていた。

 北海道で独り占め温泉に慣れてしまうと、東京の芋の子を洗うような大混雑温泉には入れなくなる。お湯がすべすべして肌がしっとりするなんて、あれはまちがいなく人間の脂のぬるぬる感だよ、と余計な一言もいいたくなる。しかも料金ときたらべらぼうに高い。サウナに入ったら床まで人が坐り込んで身動きひとつできず、あきれて出てきたこともある。

 それが本物のかけ流しだという。半信半疑ながら、とにかく出かけてみた。朝9時開業というから8時半に家を出て、10分前には玄関前でオープンを待つ客に加わっていた。10人くらいいただろうか。むしろ少ないのが意外だった。30分くらい前に行ったらもう100人くらい待っていた、なんて経験もあるのだ。平日だからこれくらいですんだのだろう。
 受付をすませるなり、浴室へ飛んで行った。内湯は残念ながら循環だったが、外にあるふたつの露天風呂はたしかに源泉かけ流しだ。あふれた湯が惜しげもなくこぼれている。その浴槽へ、いの一番に身を沈めた。ざーっと湯がこぼれる。この瞬間がこたえられない。まさに温泉の醍醐味、最大の贅沢なのである。
 1時間ほどかけてのんびり躰をほぐしてきた。この日が特別だったのかもしれないが、それほど混み合うこともなく、最後までゆっくりできた。これで料金700円は断然安い。多摩でもちょっと気取ったところになると2000円はするのである。

 朝風呂から家にもどってきたのが11時。それからもう一回寝直ししたら、お天道様に申し訳ないくらい心地よく眠れた。来週北海道へ帰るが、今度は車がないから、いい温泉にはおいそれと行けない。だったら多摩にいて、週に1、2回こっちの温泉に入っていたほうがましではないか、という考えも成り立つのだ。帰る前にもう一回行って、結論を出してこようと思っている。


2005.11.26
 免許証の更新に行ってきた。前回もそうだったが、65歳以上になると講習を受けるだけでは新しい免許証を交付してくれない。別室に通され、運転適性診断というシミュレーションゲームみたいなものをやらされる。画像を見ながらペダルを押したり離したり、ボタンを押したり離したりするのである。
 要するに反応動作の速さや確かさなどを計っているわけで、終わったあと、あなたの運転にはこういう欠点があるから気をつけましょう、といった診断書をくれる。いい点を取れなかったからといって、それで免許がどうこうという性格のものではないが、なんとなく厄介視されているみたいな気がして、あまり気分のいいものではない。

 しかも次回は70歳以上ということになり、今度は特別な講習を受けなければならないとか。高齢者に対する風当たりが年々強くなっているわけで、ある程度仕方がないと思うものの、更新日は気の重い日になりそうだ。わたしの友人の父親は、90を越してまだ車に乗っているが、免許証の更新に行くたび、もう返納したら、みたいなことを露骨に言われ、ずいぶん不愉快な思いをしているみたいだ。友人も本当はもう乗ってもらいたくないのだが、父親が聞き入れないのだといって困っている。
 これまで一方的に友人の身になってその話を聞いてきたが、いざ自分が70近い年になってみると、おやじさんの気持ちもわかってきて、人ごとではなくなってきた。いまの生活では、車を取り上げられたら暮らしの成り立たない部分がたしかにあるからだ。もうやめたほうがいい、と自分で思えるようになったらいさぎよくやめようとは思うものの、果たしてそのときになってすっぱりあきらめられるか、自信がないのである。せいぜい心していまを乗っているほかない。

 適性診断の結果は、5点満点で2点というスコアだった。ずいぶん低いが、これでも平均らしく、満点の5点を取る人はまずいないという。ところがとなりにいたおじさんは4点を取っていた。4点取れる人も少ないみたいで、逆に自信を持ちすぎないようにと言われていた。外見はどう見ても鋭そうな人に見えなかったから、ひょっとすると職業的に運転している人だったのかもしれない。
 この用紙は取っておき、3年後の再検査の数値と比べてみようと思っている。


2005.11.19
 長野にいるせがれのところへ一日出かけていた。田舎道を走っていたときのこと。横から軽自動車がいきなり出てきて一瞬ひやりとさせられた。見ると、運転していたのは髪の毛が白くなったばあさんだ。わたしよりだいぶ年上だったと思う。しかも姿勢がハンドルをがちがちに握って、顔がフロントグラスへくっつきそうになっている。どだい車を運転する姿勢ではないのだ。

 昨日は帰京後はじめて都心へ出かけた。新宿で銀行へ寄ったところ、わたしの前で現金支払機の操作していたばあさんの手つきがおかしかった。文字盤にタッチしている、という感じではまったくなく、硬くて動かない画面をまるでボタンを押すみたいに、力をこめてねじ込んでいる。表示が思い通りにならないのか、使い方がわからないのか、困った顔で回りをうかがいはじめた。
 そのとき係がほかの応対をしていたため、助けてやれるものがいなかった。それで仕方なくまたやり直しはじめた。相変わらず、指の先が痛くなるんじゃないかというくらいぎゅうぎゅう押している。
 ほかの台が空いたから、わたしはそちらで用をすませた。ばあさんはまだやっていた。とうとう「あのう、すみません」と困り果てた声をあげていた。

 ふつかつづけて、こういう年寄りに出っ喰わした。以来その姿が目に焼きついて離れないのである。笑いごとでなく、明日はわが身かもしれないからだ。
 生活が便利になり、より安楽に、快適になっている一方で、社会の変化が速すぎ、それについて行けないものが大量に出はじめている。その落伍者のほとんどは、老人である。いまの社会が追い求めている便利さや快適さは、金儲けをする側の便利さや快適さであって、弱者や老人のためのものではすこしもないからだ。

 すでに田舎では公共という観念が死滅し、バスも公衆電話も事実上なくなっている。バスが走っていても、1日2本程度ではもはや実用の域とは言えないだろう。家族制度が崩壊し、田舎に取り残された年寄りは、生きている限り自分で用を足すしかなくなっているのである。車が必需品というより、車に乗らざるを得ない暮らしの異常さが恐ろしいのだ。自分の身に当てはめて考えてみても、あと10年はともかく、それ以上日常的に車を乗り回せるかとなると、わたしは自信がない。

 それでなくともこのところ、体力以上に頭の衰えを感じはじめている。はっきりいうといまの札幌暮らしは、生活しているとは言えないかもしれないからだ。だいたい人とのつき合いがまったくない。かみさん以外の人と話すことはまずない。友人もいなければ遊びにも飲みにも行くことがない。まさにないないづくし。世の中とは、パソコンのインターネットとメールで、かろうじてつながっているだけなのである。こういう人間はまちがいなく呆けやすいのだ。

 東京はもういいやと思ったから札幌にきて、これまでそれを楽しんでいるつもりだった。しかしここにきて、その考えがぐらつきはじめた。年を取るほど田舎の暮らしはつらくなる、ということにやっと気がついた。いまの世の中そのものが、年取れば年取るほど住みにくくなる方向に動いていることも明白だ。世の中が進歩するということは、一方で大量の落伍者をつくりださずに置かないということである。わたしなど気分的にもうそちらへ入りかけているようだ。


2005.11.12
 久しぶりに東京へ帰ってきたが、うすら寒くてしようがない。だいたい八王子というところは、都心に比べると最低気温が5度くらい低いのである。そのお隣の街だから朝はかなり冷え込む。夏向きのすかすかの家に住んでいれば寒くて当然だ。夜は部屋を閉めきり、エアコンの温度を23度に設定して仕事をしているのだが、暖かくなったという実感がまるでない。家のなかでフリースのチョッキを着てすごすなど、札幌では考えられないことである。

 おまけにもうひとつ意外だったのは、くしゃみが出て止まらないことだ。春のスギ花粉が家のなかにまだ残っているんじゃないかと思えるくらい、ティッシュが手放せないのである。油断をしていると鼻水がぽろっと落ちてしまう。目がかゆくないだけで、あとは花粉症のときとまったく同じ。どうやらほかにもアレルギーを抱えているのではないかと思う。

 帰ってきて一週間。都心へはまだ一度も出かけていない。家のなかに閉じこもってとにかく毎日パソコンを叩いている。しかしそれほどはかどっているとは言えない。札幌に比べると生活上のロスが大きく、いまひとつ集中できないからだ。

 これまで2回買い物に出かけた。車で近くのスーパーへ行くだけのことだが、それでも片道10分から15分かかる。1回出かければまず2時間はかかってしまう。札幌だと徒歩、1時間ですむ。車に乗ったり下りたり、狭い道路を出たり入ったり、そのわずらわしさと緊張もばかにならない。東京ではできたら乗りたくないのである。

 冷蔵庫を空っぽにしてあるため、必要なものをそろえるだけにしてもむだが出る。今回は車で帰ってきたから米をはじめ残り野菜、調味料など、気のついたものはいくつか持ってきた。しかしそれだけでは足りない。かといってまた買ってしまうと、今度帰るとき宅配便で送り返さなければならなくなる。

 冷蔵庫に残っていた調味料のほとんどは賞味期限切れになっていた。醤油くらいはまだ使えるみたいだが、なかには気味が悪くて捨ててしまったものもある。乾物類にいたってはみな大幅な期限切れになっていた。乾燥わかめ2002年。パック入り鰹節2003年。味付け海苔2004年。試しに味付け海苔を食ってみたがまったくうまくなかった。こうなると処分せざるを得ない。

 庭は雑草だらけ。ときどき見回りにきてくれるせがれが持てあまし、必要がないならもう処分したら、と言う。うーん、とうなったものの、真剣に考えるべきときがきたかもしれない。この年になって家なき子になるのも、わたしにはかえってふさわしいかと思いはじめたのである。


2005.11.5
 今週はまったく仕事ができなかった。スランプである。1日に何時間か、むりやりパソコンに向かうことは向かっているのだ。しかし書きはじめたり、昨日のものを読み返したりした途端、こんなくだらないものを書いて何になるんだ、みたいなことを頭のなかに住んでいる悪魔がささやきはじめ、するとすぐに、んだ、んだ、ともうひとり巣くっている太鼓持ちが同調して、どうにもつづけられなくなってしまうのである。

 長いものを書いていると、途中で必ずこういう下降線の波が押し寄せてくる。そのときは頭を切り替え、しばらく忘れてしまうのがいちばんいいのだが、年が年だからもうあんまり時間がないという思いもあって、それが焦りにつながっているようだ。いま書いているものに迷いがあることもいけない。これはどう見ても失敗作だ、と思いはじめたのが先月のこと。それ以来、だめだ、だめだで、書きつづけようとする意欲が低下するばかりなのである。

 ひょっとすると、いまはやりの鬱に陥ったんじゃないだろうかと考えてみたりするのだが、なに、わたしに限ってそんなことはあり得ない。躁鬱とは、いちばん縁遠いところにいる人間だからだ。要するに飽きっぽくて気まぐれ、むらがはげしいというにすぎない。だから今回だって1、2週間もすると、たちまち気が変わってこれまでが嘘みたいにせっせとやりはじめるんじゃないか、という気がしないでもない。したがってこんなことを書いて読者を惑わせるべきではないのだが、こういうときもありますということで、あえて台所をさらけ出してみたようなわけです。
 本日夜のフェリーで東京へ帰ります。帰ってまた一から出直します。

<追伸> 昨夜不意に、この十日ほどの間に書いた七、八十枚を捨てる、というアイディアを思いついた。つまりそこまでもどって構成を立て直してみようということ。すると何とかつづけられそうな気がしてきた。やっぱり苦しんでみるものです。


2005.10.29
 支笏湖の裏側にオコタンペ湖という小さな湖がある。支笏湖の近くへ行ったときは足を延ばして寄ってくる。湖畔まで下りて行けず、上から見下ろすだけの湖だが、それも夏は木立に邪魔されてちらほらというくらいしか見えない。晩秋になって木々が葉を落とすと、はじめてすっきり見えるようになる。この日は気温が3度しかなく、雪もちらつくお天気だったが、その寒さに震えあがっても、神秘的な緑色をたたえて静まり返っている湖は美しかった。わたしの大好きなところのひとつである。

 この日は風も強かった。ふだんは鏡のように静かな支笏湖が荒れ狂い、大波が立っていた。大げさでなくサーフィンができるくらいのうねりが、つぎからつぎへと打ち寄せていたのだ。東岸の波打ち際を通る道路は波しぶきでびしょぬれになっており、とても湖と思えなかった。しかしそういえば、岸のところどころに海みたいな波消しブロックが設置されていた。ということは、風の強い日の支笏湖を、これまでわたしのほうが知らなかったということだったのだ。今度本州からの客を案内してきたとき風が吹いたら、これは支笏湾だと言ってからかってやろう。

 今週も温泉籠もりをしてきた。11月に車を東京へ持って帰るため、これが今年最後の温泉籠もりとなる。それで張り切って今回は4日間にした。そしたらやはり長すぎた。4日目になると疲れてしまい、仕事ができなくなってしまったのだ。それも単なる疲れではない。だんだん弱気になってきて意気がくじけてしまい、いままで書いてきたものまで懐疑的に思えてくるのである。あげくの果ては自信を喪失し、最後は落ち込んで暗い気分になって家へもどってきた。3日ぐらいというのがリズムとして限界のようだ。

 帰ってくると、つぎの本の装丁見本が上がっていた。いまあとがきを書いているところだが、これがあまりいい精神状態で書かなかったため、暗い内容になってしまい、否定的見解ばかり強いものになっている。こんなあとがきでいいのかなあ、とまた疑問にとらわれているところだ。意気軒昂とするかと思えば意気阻喪してしゅんとなる。何年やっていてもこの繰り返しは変わらない。


2005.10.22
 短い秋が終わって北海道は冬を迎えようとしている。今週もちょっと車で出かけていたが、先週まで紅葉の盛りだった山々がすっかり葉を落とし、晩秋というより初冬の風景になりかけていた。北海道では標高500メートルも上がればダケカンバが群生するようになるが、曲がりくねった白い幹が静かに冬を待っている風景は一種悲壮な美しさに満ちている。

 仕事にかかりきりなのでこのところ完全な運動不足になっていた。家にいるときはだらけた格好をしているので気がつかなかったが、先日人と会うため外出用のズボンをはいたところ妙に腹の辺りが苦しい。さてはと思って目方を量ってみると、案の定2キロばかり増えていた。50キロ台前半の人間にとって2キロは大きい。この1年つづけていた体重管理がこのところすっかりルーズになっていたのである。

 そういえば自主カンヅメを10日以上したものだから外食が増えていた。素泊まりで日に1回外食をするとなると、できるだけ腹にたまるものを食おうとする。いわゆるどか食いだ。この数年食ったことのないトンカツをたてつづけに数回食ったこともある。もともとそういうものが大好きなのだ。ホタテの掻き揚げ丼などといううまいものを見つけたのもまずかった。

 今週会った編集者がはからずも同病相憐れむ糖尿病だそうで、カロリー計算をしながら酒を飲んでいた。薬を飲まずに1日1600キロカロリーで押さえるか、薬を飲んで1日1800キロカロリーにするか、どっちかを選べと医者に言われて後者を選んだそうだ。わたしも節食中は1日1600キロカロリーを目標にしていた。医者に行けば同じことを言われるかもしれないが、そういうことを強制されるのは癪だから医者に行ってないだけの話である。もう元を取ったと思うから好きなものを好きなだけ食ってやろうかと思わぬでもないが、家族がいる以上いましばらくはおとなしくしていようと思い、今週からまた節食を開始した。

 昨日ジムとサウナでたっぷり汗を流し、さてどれくらい減ったかなと楽しみに体重計に上がってみたところ、たった400グラムしか減っていなかった。増えるのは簡単だが、減らすのはむずかしい。


2005.10.15
 このところ毎週アウトドアをやっている。紅葉が見頃だからだ。今週は登別温泉の近くにあるオロフレ山へ登ってきた。標高1200メートル余りだが、車で900メートルまで上がれるから、標高差は300メートルしかない。距離も短くて、散歩に毛の生えたくらいの手軽な山である。
 じつは前に一回登っている。しかしそのときは霧が濃くて何も見えなかった。そのうち晴れるかもしれない、と望みを託して登ったものの、結局最後まで何も見えずじまいだった。その点今回は快晴。紅葉真っ盛りの最良の季節。快適なハイキングになってくれたのだが、一方で思いのほか疲れた。けっこうアップダウンがあったからである。

 霧に巻かれて登ったときは状況がまるでわからなかったから、坂の勾配まで気が回らなかった。ところが今回は天気がよすぎ、これから登らなければならない坂が目の前にずっと見えていた。ひとつピークを越したらつぎ、まだその先がぜーんぶ見えるのだ。えっ、まだあんなにあるの、と見ただけでげんなりするのである。こうなると天気がよすぎるのも善し悪し。頂上まで1時間30分と、軽いハイキングのはずがへとへとに疲れてしまった。
 翌日になるとたちまち筋肉痛だ。ふくらはぎが張ってこちんこちんになっている。このまえの雌阿寒岳のときもそうだったが、一度山に登ったら足の疲れが1週間くらい取れなくなってきた。山登りもそろそろお終いにすべきときが来たのかもしれない。

 昨日はジムで自転車漕ぎをやってきた。筋力アップトレーニングはふだんからしているが、自転車漕ぎはしたことがなかった。これをやる人がいちばん多いからだ。しかもかなりの人が、横着なことに雑誌を見たり漫画を見たりしながら漕いでいる。そういう仲間には入りたくないから、自転車漕ぎだけはやらなかった。

 ところが先日テレビで、老後の転倒防止には自転車漕ぎが有効という番組をやった。それほど負荷をかけなくても、腿の筋力アップにはいちばん簡単で効果的だというのだ。このところ足が上がらなくなり、平らなところでつまずくことがある。筋力の鍛え方が足りないせいだと思っていたが、それが自転車漕ぎで簡単にクリアできるなら、飛びつかざるを得ないではないか。
 テレビを見たから早速自転車、ではあまりに見えすいて恥ずかしいのだが、こうなると恥も外聞もない。もうずっと以前からやっていたみたいな顔をしてやってきた。といっても軽めの負荷をかけて30分漕いだだけ。それでも近来にない汗をかき、自己満足にひたりながら帰ってきた。

 そしたら翌日から新しい筋肉痛だ。こちらはふくらはぎでなく、腿である。おかげで昨日今日、足をぎくしゃくさせながら歩いている。いつの間に足腰がこんなに弱ってしまったんだ。どう考えても納得がいかないのである。


2005.10.9
 紅葉を見に大雪山の麓まで行ってきた。大雪山はじめ十勝岳、トムラウシなど、高山はもう雪化粧して真っ白になっていた。今年は例年より暖かくて紅葉が遅れているのだが、それでも標高1000メートルくらいまで紅葉前線は下がっていた。来週あたりがいちばん見頃になるだろう。

 十勝岳の麓に望岳台というところがあり、ここの岩場にはナキウサギが生息している。それがこのところいつ行っても、姿を見ることも、鳴き声を聞くこともできなくなっている。人間が岩場の中に入り込みはじめたからだ。アマチュアカメラマンがカメラを据えて待ち受けはじめたのである。
 今回は平日だったし、観光客も女性がふたり、ベンチでお弁当をひろげているだけだった。それで今日は期待できるぞ、と思ったのだが、当の岩場に行くとちゃんと人間がいた。岩場の真ん中に腰を下ろしてナキウサギが出てくるのをじっと待っているのだ。そのつぎのところへ行ってみたら、そこにもいた。

 うんざりである。ナキウサギなど、運がよかったら見られるというものだと思うのだが、その生息域まで人間が入り込んで、出てくるのを待つというのはどう考えても行き過ぎだ。人間のほうに害意はなくとも、ナキウサギにしてみたら待ち伏せである。怖くて出て来られるわけがないと思うのだ。

 この日は入浴したY荘という温泉宿にも腹を立てて帰ってきた。大雪でもいちばん古い温泉宿で、以前一泊したことがあって、温泉には堪能した思い出がある。4つも5つもある浴槽の源泉がすべてちがい、それが惜しげもなく湯船からざーざーとこぼれているのだ。北海道でもベスト3に入ろうかといういい温泉宿だった。

 ところが数年前に経営者が変わって評判ががた落ちになった。温泉ブームを当て込んで、何の関係もなかった異業種から大手が参入してきたようなのだ。そのとたん、やらずぶったくりになってしまった。あまりに評判が悪くなったら、その後は行ってなかった。

 しかし温泉に罪はないわけだからと、今回久しぶりに行ってみたのだ。驚いたことに500円だった入浴料が1200円になっていた。それでいてティッシュぺーぺーひとつ置いてないのだ。
 浴室は改装され、こぎれいに、明るくなっていた。しかしかつては寝湯が、大きな丸太を枕にして横たわっていたのに、その丸太がなくなっている。野趣のかけらもないただの浅い風呂になっていた。それでも客はけっこう来ていたが。

 この手の温泉宿が北海道にも増えてきた。秘湯ブームが高まるにつれ、日本秘湯の会などに入っている温泉宿へは、放っておいても全国から客が押し寄せて来るようになった。地元の人を対象にしていた素朴な温泉宿が、リピーターを相手にしなくても、一見の客だけで左団扇の経営ができるようになったのである。

 その典型的な例が道東のK温泉というところだろう。ここも多彩な泉源を持ついい温泉だった。ところが最近は行った人でよく言う人のいた試しがない。わたしも3年前に行った段階で懲り懲りした。いまはもっと悪くなっているらしく、北海道のワーストランクというとダントツの1位になっている。ワースト2にはこのY荘が入るかもしれない。ワースト3も名前は挙げられるが、一度行ってみたものの、あまりにも雰囲気が悪かったから入浴もしないで帰ってきた。したがってこっちはコメントできない。

 帰途、ものすごく寂しいところにある農家の野菜無人売店でトマトを買ってきた。その先にゴルフ場がひとつあるから、そこへ来た客を当て込んで開いているのだろうが、それでも1日に100台の車が通るだろうか、という鄙びきったところである。真っ赤に売れたトマトを山盛り袋に入れてたったの200円。これで2回目だが、近かったら毎週通っているだろう。帰って計ってみたら2キロも入っていた。


2005.10.1
 秋が一気に深まってきた。夜になると風は寒いし、朝は朝でうすら寒い。今朝など雨が降ったこともあって一段と気温が低く、よほど暖房のスイッチを入れようかと思った。いくら何でもということで、フリースのベストとウールのソックスを出してきてしのいだが、もう時間の問題かもしれない。

 紅葉もだいぶすすみ、昨日は標高1898メートルの羊蹄山が、頂上から7合目くらいまで鮮やかに色変わりしていた。麓の公園では植木を守る雪吊り作業をしていたし、ニセコのスキー場は下草を刈り払っていつ雪が降ってもいい準備ができていた。北海道の秋は短くて、速いのである。

 温泉からの帰り、いつも通っている道筋に樹木園という公園があるのを見つけた。看板が地味だし、人の出入りしているようすがないから、これまで気がつかなかったものだ。

 並木の感じがよかったから中まで入ってみた。静かで落ち着いた、隠れ里みたいな公園だった。作業をしていた人に聞いてみると、もとは植林用の苗を育てる種苗園だったそうだ。その役割が終わったので、残っていた樹木を活用して公園にしたのだとか。30年くらいたつので木が大きくなり、いまが頃合いの林になっているのである。
 といっても木があるだけ。ベンチひとつない。当然だれも来ていない。それでこれ幸いと、自分とこの庭みたいな顔をして歩いてきた。これからは通りかかるたびに寄ろうと思っている。人には教えない。

 よけいなことだが、こういうところを歩きながら、もの思いにふけったり感傷にひたったりするのはまず男と決まっている。このときも少年時代の思い出を取りもどしていた。その少年が、気がついてみたらいつの間にかこんなに年取っていた。そこのところがどうにも合点がいかないのである。

 目の前を何かよぎったので、ひょいと見ると、左の肩になにやら止まっていた。首を動かさないようにして横目で見ると、赤とんぼである。そういえば赤とんぼがたくさん飛び回っていた。

 じつはその前の週も、露天風呂に入っていたらつがいのとんぼが飛んできて、湯の中へしきりに尻尾を突っ込みはじめた。水が温かいので勘違いしたのだろう。卵を産みはじめたのである。
「おいおい、おまえたち、ここはだめだよ。こんなとこに産み落としたって卵は孵らないよ」
 と言ってやったのだが、人間語は解さないらしく、いっこうやめなかった。
 それが今週は、お肩を拝借ときた。なんとおおらかで楽しいことか。止まるところは無数にあるはずなのに、わざわざわたしの肩を選んでくれたのである。うれしくて人がいたら大声で知らせてやるところだが、あいにく誰もいなかった。それでひとり悦に入ることにして、とんぼを驚かさないよう気をつけながら散歩をつづけた。

 これに似た経験がもうひとつある。30年以上前のことになるが、甲州の山の中の温泉に行き、翌朝、早起きして渓流沿いの道を散歩していた。そしたら目の前の岩にミソサザイが出てきて高らかにさえずりはじめた。
 ミソサザイはスズメより小さな地味な鳥だが、鳴き声はじつにきれいで、多彩である。このときもつぎからつぎへと節を変え、ほれぼれするような美声を聞かせてくれた。それが目の前、ほんの2メートルのところで演じられたのだ。
 あいにく早朝だったので気温が低かった。うっかりしてセーターを着ずに外へ出てきたため、寒くてやりきれなかった。それで散歩を切り上げて、帰ろうとしたところだった。そこへ出てきて、わたしひとりのために独唱会を開いてくれたのだ。これが聞かずにいられようか。動いたら逃げると思うから身動きひとつできない。がたがたふるえながら、ミソサザイが歌い終わって行ってしまうまで我慢していた。全身冷え凍ってしまったが、あんなうれしいことはなかったと、終生忘れられない思い出になっている。

 赤とんぼは5分ぐらい止まっていただろうか。そのあとありがとうも言わないで行ってしまったが、これはとんぼ語を解さないわたしがわからなかっただけだろうと思っている。

 帰り道でトチの実を拾った。色は栗そっくりだが、栗よりもっと丸くて固い。トチの実の実物にお目にかかったのははじめてだ。わたしの育ってきた生活圏には、トチという木がなかったからである。それで大きな実を二つ選んで持って帰った。かみさんも知らなかったからだ。
 それはいま玄関の下駄箱の上で、トドマツの松ぼっくりや日本ハムファイターズのメガフォンと並んで飾られている。


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