Shimizu Tatsuo Memorandum

きのうの話      
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2005.6.28
 ダルビッシュと松坂の投げ合いを見たくて札幌ドームへ行ってきた。わたしが望んだのではない。かみさんがミーハーなものだから、つれ合いとしてはつき合わざるを得ないのである。結果はごぞんじの通り。ピッチャーとしては格のちがいを見せつけた松坂のほうが負けちゃったんだから、世のなかはままならないものだ。

 新聞報道を見るとダルビッシュが互角に渡り合ったような印象を与えるが、現場で見た限りはまるっきりちがっていた。ストライクが入らなくてアップアップしていたのだ。早めにバッターを追い込み、ボール球を振らせていた松坂とはえらいちがい。制球力に雲泥の差があった。それこそ西武のバッターが何もせず、ボックスに突っ立っていたら四球で自滅していたと思う。それをむりやり打ちに行ったんだから西武打線もひどい。7回で3併殺はお粗末としか言いようがなかった。松坂も上位打線は完璧に抑えながら、下位打線で取りこぼした。とくに決勝の2点は満塁後の四球とデッドボールだからこれも明らかな自滅。しかし運も実力のうち。ダルビッシュというのは類まれな強運の持ち主なのかもしれない。

 今年はもうひとつ波に乗れないファイターズだが、おかげで3万人詰めかけたファンは大喜び、久々の鬱憤を晴らしていた。それにしても贔屓選手の名前や、背番号つきTシャツを着たファンがなんと多かったことか。いまや完全な地元チームとなっている。そういう意味では、日ハムや楽天が札幌や仙台へ進出したのは大正解だったと思う。北海道はこれまで95パーセントまで巨人ファンという土地柄だったが、それが1年で70パーセントまで日ハムファンに鞍替えしてしまったとか。テレビでしかゲームを見られない地方では、巨人ファンになるしかなかったということである。おらがチームができたら当然そこのファンになる。外野席で熱狂している人たちを見ると、そういう一体感を共有していることがじつによくわかる。このつぎは外野席へ行ってみようかしら。


2005.6.23
 急に暑くなって、今日はとうとう真夏日になってしまった。6月に30度を超すのは異例。しかもかなり蒸し暑かった。街や道路がそれほど熱せられてないからまだいいものの、クーラーなしではこれから先が思いやられる。この夏が猛暑になるようだと、暮らし方そのものを考え直さなければならなくなるだろう。

 日曜日に東京からかみさんの友人3人が遊びに来て、昨日帰ったところである。女子中高校の同窓生だからもう50年の友だち。結婚後は家族ぐるみのつき合いをしてきたから、わたしとも40年来の知り合い。それで今回は運転手役を買って出て、1日十勝のほうへ行ってきた。それぞれ北海道へは何回も来ているが、観光バスでは見られない、見わたす限り一面の樹海という風景など堪能してもらった。本州から来た人に、こういう光景はすばらしいごちそうなのである。旧炭鉱町なども案内すると必ず感激されるのだが、このごろはその面影を探すのがむずかしくなっている。炭鉱をマイナスのイメージと考えるのか、地元の自治体は、そういう遺物を抹消して小ぎれいな街にしようと必死なのだ。それを勘違いだと教えるのはもう遅すぎるかもしれない。

 体調もようやく元にもどり、きょうはジムにも行ってきた。トルコで筋力の衰えを痛切に感じたから、これから重点的に足の筋力アップをはかろうと思っている。来週からは仕事も再開する。7、8、9と、3ヶ月間徹底的にもがいてみるつもり。ここでひと踏ん張りしないと、今年は本が1冊も出ないことになってしまうからだ。

 と思っていたら、このホームページが装いを一新、なんだか面映いものになってしまった。あらためて見直してみると、よくまあこれほど、行き当たりばったりに窓口をひろげたものだ。あげくが中断したものばかり。恥ずかしくて正視できそうもないから、当分のぞかないようにしよう。


2005.6.16
「よさこい」が終わったかと思うと、今度は「札幌まつり」だ。夏が短いせいもあって毎週のようにイヴェントが開かれている。札幌まつりというのは札幌でいちばん大きな北海道神宮のお祭り。といっても明治になって招聘したお宮だから、歴史はせいぜい百数十年。現在は円山公園にあるが、本宮が完成するまで仮安在所となっていた屯宮はわが家の近くにある。

 このお祭りがはじまるとたちどころにわかる。山車がにぎやかに練り歩いてくるからだ。これがなかなか乗りのいいお囃子で、この音楽を聞くと、あ、夏が来たなと実感する。山車はいま8台。市内各地にあって、祀られる祭神も囃されるお囃子も1台ごとにちがう。最盛期は12台あったそうだから、札幌が人口数万程度だったころは、町を挙げてのお祭りだったことだろう。

 じつはこれが北海道らしからぬというか、京の雅をそのまま引き写したような祭りで、まことにのどか、かつアナクロ、現在の札幌にはどう見てもミスマッチとしか思えないのがかえって面白いのである。そろいの着物と袴、頭に手拭いをのせた男衆が山車の引き綱をにぎり、山車の上では着飾った稚児や芸者が舞う、という図そのものが祇園祭のコピーだろう。クライマックスの16日には本宮から屯宮まで4キロの道のりを山車を連ねた行列が練り歩くのだが、これがまた鳳輦みたいなものを担ぎ、勤皇隊と称する官軍の鉄砲隊がピーヒャララと行進してくるのだからその珍なること、一見に値する。

 それではからずもトルコで聴いた音楽を思い出した。イスタンブールへ戻ってくる前の夜、ディヤルバクルという東南部の街で泊まった。これが土曜日。土曜日の夜というのは特別なのか、前の週、イズミールで泊まったときも12時まで音楽が鳴り響いて眠れなかった。ディヤルバクルも同じ。日が暮れるとたちまちはじまった。部屋の真下にあるプールサイドで、地元の人とおぼしき一団のパーティが開かれていた。その賑やかなこと。音楽に合わせて掛け声や奇声が飛び交い、手をつないで休みなく踊り狂っている。まるで盆踊である。

 このとき流れていた音楽がすべて4拍子だった。テンポこそちがうが日本の祭囃子そっくりなのだ。わたしは音楽を皆目解さない人間だが、4拍子が基本的に農耕民のリズムであることは知っている。遊牧民や狩猟民は3拍子だ。ところがトルコ人は、もと遊牧民であるにもかかわらず4拍子なのである。

 これはトルコの代表的な音楽である軍楽隊の演奏を思い出してもらうとわかる。チャンチャララン・タカタッタというリズムの繰りかえしだ。ディヤルバクルで演奏されていたのもこれと同じ。踊りのほうは、リズムに合わせて1・2・3・4と斜め前方へステップを踏み、つぎの1・2・3・4で後方に下がる。これを繰り返しながら右へ右へと進んで行くのである。音楽だけ聞いていると日本の祭囃子と錯覚しかねない。それこそ「はぁ、どぅした、どぅした!」と合いの手を入れてもぴったり合うのである。リズムが同じだったら当たり前じゃないかといわれるかもしれないが、日本から1万キロ離れた異国で聞く祭り囃子だからよけい面白かった。あのトルコ人を連れてきて、札幌まつりの囃子を聞かせたらどんな反応をするだろうか、とついそんなことを考えてしまうのだった。


2005.6.12
 風邪を引いた。フェリーで苫小牧に上陸したところ、濃霧だったせいか気温が11度しかなかったのだ。新潟県内を走っているときブヨの大群と遭遇したため、フロントグラスにびっしり虫の痕がついた。拭き取らないと夕暮れの道内は走れない。それでとりあえずフェリー埠頭で車を止め、濡れ雑巾を使いはじめた。そしたら寒いのなんの、頭の芯が痛くなってしまうような冷たさだ。東京から帰ってきたのだからこちらはポロシャツ1枚、文字通りふるえあがった。その日の札幌が25度。60キロしか離れていない苫小牧がこの気温。本州では考えられない気温差である。

 走り出してから気がついた。辺りの緑がまだ若いのだ。そうか、北海道はまだ新緑の季節だった。そういえば先月の13日に北海道を離れた。桜がようやく咲きそろったところで、木々も芽吹きはじめたばかりだった。霧が多く、この時期の気温が上がらない苫小牧から日高にかけては、まだ早春がつづいていたのである。

 しかしいまどき車の暖房を入れ、温もりに慰められながら帰って来ようとは思いもしなかった。帰りついたときの札幌は18度だったが、暖房は入れっぱなし。夜半になってから微熱が出た。躰の節々も痛い。旅の疲れも手伝ったのだろう。トルコ旅行ではシリア国境へ15キロというところまで南下し、砂漠の猛暑も体験した。躰がびっくりしたにちがいなかった。

 帰ってみると、札幌では恒例の「よさこいソーラン祭り」がはじまっていた。今年で14回目。全国から4万を超える踊り子が繰り込んできたというが、気のせいかいまひとつ盛り上がりに欠けている。例年だと1ヶ月前から週末になると前の河原で踊りの練習がはじまる。間近になると3チームぐらいの練習風景が同時に見られ、それでいよいよ近づいてきたな、という覚悟をうながされるのだが、今年はそれがなかったためこちらも醒めているのである。

 今日外出したときちらと見た感じでは、その勘が当たっているように思った。この手のイヴェントの最盛期は意外と短いのかもしれない。雪祭りも来年から縮小されるが、はっきりいって完全なマンネリに陥っている。広告とテレビばかりがのさばった寒々としたイヴェントに成り下がっているのだ。金を出すところが口まで出しはじめたらこうなる、といういい見本である。多分それほど勇気はないだろうが、もう役目は終えたとして、やめてもいい時期になっているのではないか。

 帰ってくる前日だったか、わが家のお膝元の多摩動物公園でオランウータンのスカイウオーク施設が完成したというニュースを聞いた。これは旭川の旭山動物園の完全なぱくりである。旭山のスカイウオークがほんのひとまたぎでしかないのに対し、こちらは10数億の費用をかけ、距離も180メートルとスケールがちがう。旭川と東京の差といえばそれまでだが、旭山動物園に気の毒な気がするのはわたしだけだろうか。人を集めることが無上の命題となっている地方自治体にとって旭山動物園の成功はまたとないヒントを提供したわけで、これからアザラシが泳ぎ回ったりペンギンが飛び回ったりする大水槽が全国に続々と登場してくるだろう。小さな動物園が必死になって試行錯誤してつくりあげた独創性というものを、金にあかせて苦もなく抜き去ってしまうやり方には釈然としないものをおぼえる。


2005.6.6
 帰ってきたら帰ってきたで、たちまち以前と同じ暮らしになってしまった。とにかく毎日のように出かけ、家にはほとんどいないのである。時差ぼけや疲れはなかった、とはいうもののそれとて程度問題、昼間でも眠くてたまらないのは、まだ心身のバランスがくずれている証拠だろう。

 留守中に来たメールが84通もたまっていた。といってもそのほとんどは開封する必要すらない広告の類。こういうものを、いっぺんに削除してしまう方法というのはないのかしら。あいにくそういうことを知らないから、ひとつひとつ処理せざるを得なかったが。2日は成田から送った荷物が届いたのでその整理。

 3日からは連日お出かけ、帰りはたちまち午前様になった。31日に満州から帰ってきたばかりの某作家と新宿で会い、編集者もまじえて1時半までしゃべったあと、荻窪の作家宅まで押しかけて行ってそこに朝の4時ごろまでいた。新宿で飲んでいたときは眠くて眠くて居眠りばかりしていたのに、荻窪に着いてサッカーの対バーレーン戦を見はじめた途端、目がぱかっと開いてしまったから現金なものだ。帰ってくる途中、4時すぎに夜が白みはじめたが、トルコ帰りにはそれが新鮮に感じられた。トルコでは夜の9時ごろまで暗くならないのに、朝は明けるのがけっこう遅かったからである。

 4日も夕方から新宿で友人と会っていた。頼まれていたトルコの本を数冊買ってきたからだ。とはいえ小生はトルコ語を一語も解さない。本屋の棚に並べられている今週の、だか今月の、だかベストセラー本らしいリストを見て、そこから数冊選んできたにすぎない。トルコでは、重版を重ねている本の表紙にはたいてい「BASKI」という文字が印刷されているから、それも本を選ぶときの目安になる。BASKI・65という本を1冊買ってきたが、65刷りという意味である。かなり売れたらしいが、その部数がどれくらいになるかは書いてなかった。

 5日は以前からの用で、友人のかみさんと銀座で会って打ち合わせをした。そのあと神田へ回ったところ、お上りさんになってしまった悲しさ、地下鉄を乗りまちがえ、一回乗り換えればすむところを2回もやり、しかもはるかに遠回りしてしまった。東京のめまぐるしさに混乱して、頭がついて行けなくなった例である。なお4日には、待ち合わせ場所として指定した喫茶店がなくなっていたのにもびっくり。業界人御用達の店としてひろく知られ、3月に上京したときも使った店だ。30年以上にはなると思うそういう店が、いきなりなくなってしまうのである。多摩では代表的なディスカウントストアとして知られていた店が閉鎖していたし、一方では見たこともない「多摩バス」などという路線バスが走っていた。おそらく社名が変わっただけだろうと思うが、それにしてもこれまで青い車体のバスなど多摩では見たことがないのである。

 本当はきょうも編集者と会う予定だったが、それが流れたから出て行かなくてすんだ。明日はもう北海道へ帰る。今回は車を持って帰るから、フェリーでの旅となる。そういえばワイパーの具合が悪くなったので3日にディラーへ持って行ったところ「今朝の新聞をごらんになりましたか」という。いや、見てないと答えると、じつはリコールになりまして、ということで2時間余計に待ち、部品を取り替えてもらった。なんともあわただしい1週間だった。こうなったら一刻も早く札幌に帰ってのんびりしたいと願うばかりである。


2005.6.1
 きょうトルコから帰ってきた。18日という長丁場の旅には多少の不安もないではなかったが、すべて杞憂に終わり、ふたりとも元気に帰ってこられたのがなによりだった。むしろわたしなど出かける前より体調がよくなったくらいだ。それまで躰の節々があっちこっち痛く、毎朝入念なストレッチをしなければ一日の活動に入れなかったのだが、途中から痛みをまったく感じなくなっていた。文字通り元気溌剌となって帰ってきたのだった。

 要は自分がいかに楽観的な人間か、ということだったのだろう。どんな条件を与えられようが、3日もすれば馴れてしまうらしいのだ。とはいえこれは、仕事なしというのがなんといってもよかったからにほかならない。はじめのうちは夜になると、帰国してからの仕事の段取りがつぎつぎと頭に浮かび、むしろ悶々として眠れなかった。それがだんだん考えられなくなり、おしまいのころは思い出しもしなくなっていた。完全に解放されてしまったのである。

 ただしこれは思考の放棄にもほかならなかった。ツアー客の本質がそうなのだが、業者の設定してくれたお膳立てに乗っかってただ単純に歩き、食い、眠っていただけである。考えるという必要がまったくない。そのためふだんでは考えられないミスも犯した。その最たるものが、5日目までのデジカメの中味を全部消去してしまったことだろう。シャッターを押すたびにフラッシュがともりはじめたから、それを消そうとしていたら中味まで消してしまった。自分ではそれにまったく気がつかなかった。気がついてみたら撮りためていた数百枚の画像がゼロになっていた。おかげでペルガマとか、エフェソスとか、前半の主な遺跡の写真は一枚もなしということになってしまった。

 さらに、予想以上に足が動かなくなっていたことに愕然とさせられた。遺跡の上り下りをするたびに足がもつれ、ときにはつんのめることすらあったのだ。ジムには通っているし、足の筋力アップも欠かさずやっている。だから足にはそこそこ自信を持っていたところ、今回それがみごとに粉砕された。ツアーで一緒だった3歳年上の男性が「宿に着いたらもう出かける気がしなくなりました」と嘆いていたが、自分もその域に近づきつつあるということだった。意識のほうはともかく、足は年齢相応、確実に衰えている。老いとはこういうことか、悔しいが認識せざるを得なかったのである。

 とはいえ、気持ちのほうはまだそれに負ける気など毛頭ない。肉体的な衰えはたしかに認めるとしても、そのすべてを容認するわけではないのだ。だからこれからも動ける間は精力的に動き回ってみるつもりだし、それを証明するためにも、従来にも増して出かける機会をふやしてやろうと思っている。そういう意欲がなくなったら、書く気力もなくなってしまうような気がするのである。

 旅の報告は後日ということにして、きょうはとりあえず帰ってきたことだけ報告しておきます。


2005.5.15
 きのう東京へ帰ってきた。羽田へ着いて寒いのにびっくりした。これでは札幌と変わらないぞ、と新聞を見ると、きのうの最高気温は東京のほうが低いではないか。5月半ばで東京がこんな気温になるのは珍しい。気象庁の予想ではしばらく低温がつづくそうだが、トルコでの天候が心配になってきた。前回もほぼ同じ季節だったのに、寒くてふるえあがった記憶があるからだ。天候不順などいまや世界的現象、旅人の印象を誤らせかねないレベルになっている。

 おととしスイスへ行ったとき、国中いたるところでスプリンクラーが水を撒いているのを見て、さすがだなあと感心したものだった。環境保全に力を尽くしているのだと思ったのだ。ところが大ちがい。2ヶ月もまったく雨が降っていなかったのである。高原のお花畑が枯野になっているし、トレッキングすると土埃が立つ始末。4日目だかに夕立が降ったところ、地元のばあさんが拍手して喜んでいた。それではじめて事情を知ったようなわけで、知らずにいたらとんちんかんな早呑み込みでスイス全体を計ってしまうところだった。旅の印象記などこの手のものが多いから信用できないのである。

 きょうは新宿まで行ってイスタンブールの地図を買ってきた。札幌では手に入らなかったからだ。古いものは持っている。しかしその後新しい地下鉄が開通してだいぶようすが変わってきた。ガイドブックを見ても、かなり気になる変わり方をしている。必ずしもよくなっているといえないところがつらいところだ。
 昼間都心へ出かけていたせいか、夕方になってくしゃみが止まらなくなってきた。花粉症がぶり返してきたみたいだ。明日から逃げ出すんだからまあいいかとは思っているが。
 というわけでしばらくお休みをいただきます。


2005.5.8
 春が来た。先週ツツジとレンギョウが満開になった。今週になって梅とコブシ、つづいて桜が咲きはじめた。地面ではチューリップと水仙、タンポポがそろって咲いている。百花繚乱、北海道の春はまことににぎやかである。その一方で昨日は雪が降った。さすがに市内は雨だったが、郊外や峠では15センチも積もったとか。何でもあるのが春の北海道なのである。

 今週はプロ野球のセ・パ両リーグ交流戦があった。札幌でも日本ハム、阪神戦が行われたから、1日くらいは見に行こうと言っていたのに、とうとうその時間が取れなかった。4日後には東京へ帰っているし、来週のいまごろはトルコへ旅立っているからである。ひとりだと荷づくりも簡単にすむが、かみさんが一緒となるとなかなかそうはいかない。成田へ送り出す荷物を明日中にまとめなければならないのだ。

 トルコへ行くのは2回目。前回は『約束の地』の取材で出かけた。調べてみるともう8年前のことだった。2週間かけてアナトリアを中心に歩き回ったが、時間がなくてトルコ観光の目玉ともいえる地中海沿岸にはまったく足を踏み入れなかった。今回はそちらを歴訪するツアーへの参加。純然たる観光旅行である。
 風光明媚なところも悪くはないが、わたしは遺跡巡りのほうがもっと好きだ。いまとなっては人間の愚かさの象徴としか思えない廃墟くらい、想像力を喚起させてくれるものはないからである。そういう意味では、いろんな時代の遺跡がごろごろ投げ出されているトルコくらい魅力的な土地も少ない。草木の一本すらない荒涼としたアナトリアの大地にしても、もとからそうだったわけではないのだ。かつては鬱蒼とした森林や沃野に恵まれていたのである。それを人間が完膚なきまでに破壊し、回復不能にしてしまったのがいまの風景だ。至るところ残っている名もなき遺跡にしても、それをつくったときはそうしなければならない必然があったからこそ築かれた。すべてが人間の空しさの果てなのである。このところ頭の働きが鈍っているだけに、ここらで強烈な刺激をいただいてこようかと思っている。


2005.4.29
 気がついてみるとゴールデンウイークに入っていた。3日ぶりにジムへ行くと閑古鳥が鳴いている。どうしたんだろうと、はじめのうちは気がつかなかった。客同士の会話が耳に入ってきて、ようやく納得。勤めている人にとっては年に1度の行楽シーズンだったのである。

 例年だと、わたしたちもこの時期は東京へ帰っている。子供らがサラリーマンなので、この期間でないと孫を連れて遊びに来られないからだ。そのあと車に乗って北海道へ帰ってくる。それを今年はこちらの都合でなしにしてもらった。5月の中旬から旅行に出かけるからだ。帰国は6月1日になる。

 そのため札幌ではまだ車なしの生活を送っている。市内に住んでいるから不便は感じないものの、行動範囲はどうしても狭くなる。このところ地下鉄で2駅以上遠いところへは行ったことがない。平凡きわまりない毎日。ジム、書店、食料品の買い出し、この3つにすべてが収まってしまうのである。
 それで困りはしないものの、作家としては、こういうのんびりした環境に慣れすぎるのもどういうものか、と最近思いはじめた。ぼけが進行中とまではいわないが、一歩手前みたいなことはしょっちゅう起きはじめている。人中でもまれたり、ストレスにさらされたりすることがまったくない。これはまことにありがたい反面、刺激がなさすぎて頭の働かせようがないことにもつながっている。もともとわたしみたいな人間は、四六時中何かに追いまくられ、時間の取れないことや、がさつな環境を呪いながら、歯を食いしばって生きているほうがまだしも似合っているように思うのである。

 いっそ東京へ帰ろうか、最近おりにつけそう思いはじめた。花粉症でさえ反発の材料になるではないか。と思っていたら、いきなり33度を超える気温が報道された。札幌もこの3日間15度を超し、やっと春らしくなってきたところだ。風が吹いても冷たさを感じなくなり、市内の雪も99パーセントまで消えた。それが本州ではもう軒並み30度なのである。4月からそんな気温に達するところが、果たして人間にとって住むに値する環境といえるか。あの、むしっ、とする不快さを思い返しただけで、それならまだしも札幌がいいんじゃないかなあ、などと迷いに迷ってしまうのである。


2005.4.24
 パソコンの具合が急に悪くなった。インターネットにつながらなくなったのである。おかげで四苦八苦、いまのところまだ回復していない。思い当たることはなにひとつないのだ。これまで支障なく動いていたものが、突然つながらなくなった。

 まさかこんなことが起こるとは思いもしなかったから、マニュアルを探し出すのに一苦労した。どこを探してもないのである。そのはず、ごみ袋の中に放り込んであった。マニュアルからナビゲーター用CDまで、全部ごみ扱いにしていた。よくぞ捨てていなかった。セットアップが終わったらもういらないとでも考えていたらしい。

 しかしそれからがもっと大変だった。マニュアルをもとに回復を試みたのだが、できないのだ。見たところモデム類は正常に働いている。しかしパソコンがそれを認識しない。あるいは逆。モデムが正常に機能していないからパソコンが認識しないのかもしれないが、わたしにはそれがわからない。無線抜きにしてADSLモデムとパソコンを直結させてみたが、それでもだめ。すぐお助けマンを呼べばよかったのに、万策尽きて電話しようとしたときは、もう営業時間まで終わっていた。来週まで待たなければならないということだ。

 こうなったら仕事などできるわけがない。パソコンは使えるのだから、あきらめて仕事をすればよさそうなのに、一旦乱されてずたずたになった精神はもう集中できないのである。むりにはじめても上の空、頭の芯にずっと残りつづけているから、あ、こうすればよかった、というアイディアが突如浮かびあがり、すぐそれを試してみる、やっぱりだめ、という繰り返しになってしまう。

 すっかり落ち込んでしまった。年を取っていちばん情けないと思うことは、突発的な事件が起こったとき、とっさの対応ができないことだ。原稿を書くだけという単純きわまりない仕事なのに、ペースを乱されたとたん、頭がショートしてなにもかも蒸発してしまい、ふだんできることまでできなくなってしまうのである。

 今回もパソコンと電話線を直結し、ダイヤル回線にすればひとまず使える、というところへもどるまでまる1日以上かかってしまった。何もあわてふためく必要はなかったのだ。この間までそうやっていたし、旅行に出たり東京へ帰ったりしたときはいまでもそうやっている。それをすぐに思い出せなかったところがなんとしても腹立たしい。老いとは、肉体が老化することばかりではないのだ。それ以上に頭の柔軟性がなくなることなのである。


2005.4.16
 雪がずいぶん少なくなり、やっと春が実感できるところまで漕ぎつけてきた。来週は冬物衣類をクリーニングに出せそうである。今週も日曜日まではみぞれが降っていたから、マフラーもコートも出すに出せなかったのだ。春物衣類を引っ張り出すのはもうすこし先のことになるだろう。

 きょうは先週オープンしたばかりの紀伊国屋書店に行ってきた。札幌駅と直結した大丸の隣に新店舗ができたもので、これで駅周辺に旭屋、三省堂、紀伊国屋と、市内でも最大級の書店が3軒並立したことになる。三越と今井を中心に形成されていた市の繁華街が、大通りから札幌駅周辺へ移りつつある象徴的なできごとだともいえよう。

 旭屋は以前狸小路にあったし、紀伊国屋も基幹店は大通りにあった。その基幹店を閉鎖しての移転だ。また紀伊国屋は家から徒歩10分足らずの札幌ファクトリーというショッピングセンターにもあった。シネコンやジムがあるからわたしはよくここへ行くのだが、一般市民はほとんど足を運ばないところである。市の中心部から離れている上交通機関がないから不便なのだ。それでいつ行ってもがらがら。テナントもほとんど逃げ出してしまい、いまでは中身がすっかり入れ替わって、ヤングや子ども向けの施設として何とか生きながらえている。

 ここの3階に紀伊国屋があった。それも紀伊国屋の看板が泣きそうなくらい中身の薄い本屋で、ろくな本がないから最近はのぞいて見たこともなかった。おそらく紀伊国屋としても持て余していたのだろう。今回の新店舗を機に引き上げてしまった。ところがそのあとへちがう本屋が入ってきた。それが八王子のくまざわ書店だったからびっくり。近年盛んに全国展開をしているみたいだが、もともとは八王子駅前の本屋である。聖蹟桜ヶ丘にもあるから、多摩にいるときはもっとも利用している本屋だ。それがまたどうしてこんな、どう考えても採算の取れそうもないところへ店を出したものか。新店舗を出すからにはそれなりの市場調査をやっていると思うのだが、いったいどういう計算をしたらこういう結論が出てくるのか、どう考えても腑に落ちない。

 新紀伊国屋は書棚を低くしてあるせいで見通しがよく、店内も明るくて気持ちがよかった。ビルの1、2階にあるから入りやすい。しかし棚が低い分本は少なくなるわけで、それほど中身は濃くなかった。だがいまのところ札幌で最上の書店であることはまちがいない。何冊か買って宅配便で送ってもらったが、札幌で一度にこれほど本を買ったのははじめてのことだった。


2005.4.10
 あっという間に雪が減ってきた。気温10度を越える日が2日もつづいたおかげだ。雪の減ってきた目安になっている河川敷のベンチが、一昨日、ついに雪の中から顔をのぞかせた。と思ったらその日のうちに10センチも露出してしまった。雪解け水が増えるにつれ豊平川の水嵩も増してきた。北海道には融雪洪水という言葉がある。雪解け水が増えて氾濫することを言うが、これはふつうに積もった雪ではない。河川敷へ捨てた雪山が解けて起こる洪水のことである。したがって河川敷へ雪を捨てることはきびしく規制されている。雪捨て場の多くが、河川敷ではなく平地に設けられているのもそのためだ。

 今週はかみさんがいなかったので、その留守を狙って東京から友だちが遊びにきた。40年来の友人でかみさんよりもっと古い付き合いになる。東京へ出てきた直後に知り合い、同じ職場で、同じような不満や苦労を分かち合ってきたかつての戦友だ。いわばいちばん気心の知れた相手だが、そうなると距離が近すぎてろくなことにならない。終日ぐだぐだ言って過ごしてしまうだけなのだ。この男が来たら、大方こんなことになるんじゃないかと思っていたらその通りになってしまった。1日温泉へ出かけたほかはろくに外出もせず、家でのらくらしていた。はるばる北海道まで来て街ひとつ歩かないのである。進歩がないといえばこれくらい進歩のない男も少ない。しかしそれを言えばわたしだって似たようなもの。日ごろの不平不満をこぼして機嫌よく鬱憤晴らしをしたのだからなんとも他愛がなかった。

 家のすぐ近くに酒蔵がある。昨年そこの駐車場に妙な建物を建てはじめたから何をつくっているんだろうと思っていると、酒の博物館なるものができあがった。とはいえわたしは日本酒をまったく飲まない。それでのぞいてみようとしたこともなかった。ところが友人のほうは大の日本酒党。気になるというので冷やかしがてら行ってみると、試飲コーナーがあって、そこで生産している酒がすべて飲めるようになっている。1升1万円もする吟醸酒はさすがにただというわけにいかなくてグラス一杯200円だったそうだが、これはうまいといって随喜の涙をこぼさんばかりのうれしがりようだ。北海道にこんないい酒があるとは知らなかった、といってとくに気に入った瓶を2本わざわざ東京まで持って帰った。

 わたしのほうは、地下から汲み上げて流れっぱなしになっている水がもっと魅力的だった。仕込水だそうで、癖のないいい水である。汲みに来ていいか、と言ったらどうぞという返事だったが、一回ならともかく、何にも買わずにボトルだけ持って水を汲みに行くのもなあと、まだ二の足を踏んでいる。


2005.4.1
 うかうかしていたら、あっという間に4月である。それなのに仕事が予定の半分も進んでいない。昨年の秋からつぎの長編に取りかかっていたのだが、半分書き上げたところで頓挫している。意気込んで書きはじめた割りに、いっこう新鮮味がないのである。それに気がついた途端、あとをつづけることができなくなってしまったのだ。

 これが連載だと、締切りがあるからいやでも先をつづけなければならない。結果として書いてしまうのだが、それがろくでもない仕事をしてしまう原因にもなっている。したがって今回は締切りなし、気に入らなかったら何度でも書き直す、という覚悟ではじめたのだが、その筆がどうにも進まなくなってしまった。書く以上中途半端なものは書きたくない。しかし読み直してみると、なにもかも中途半端。これでは書く意味がないじゃないか、ということになってしまったのだ。

 一種のスランプだとわかっている。いつもそういう自己嫌悪に襲われながらなんとか作品を仕上げているのだが、今回も例外ではなかった。仕方がないから頭を切り換えようと、その作品を棚上げしてつぎの作品に取りかかってみたところ、これもはじめの2章でたちまち行き詰まってしまった。こっちは熟成不足が原因。いつまでたっても同じことを繰り返している。いかに進歩がないか、と自分で自分に愛想をつかしているところである。

 くしゃみ、鼻水がまだ止まっていない。帰ってきて2週間。すこしずつやわらいではいるが、まだ毎日30回や40回は鼻をかんでいる。今年の花粉症のしつこいこと。逃げ出すこともできず、本州で我慢している人たちにつくずく同情申し上げたい。

 東京ではやっと桜が咲いたようだが、札幌はこの1週間毎日のように雪が降っている。この2日間で20センチ以上積もった。4月1日現在で市内の積雪量が84センチ、これは観測史上2番目に多いそうだ。去年のいまごろは積雪ゼロ宣言が出ていたのである。おかげで地肌がのぞきはじめていた豊平川の土手も、ふたたび真っ白にもどってしまった。来週の天気予報にもまだ雪のマークがついている。

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