きのうの話 |
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2005.3.24 札幌へ帰ってきて5日になる。東京から持って帰った花粉症がいまだに完治していない。目のかゆみは治まったが、くしゃみ、鼻水はつづいたまま。日々よくなってはいるものの、あと数日はかかりそうだ。とにかくたった一日の油断で、これほどひどい目に遭わされようとは思いもしなかった。帰って来た日など最悪で、夜は熱を出したくらいである。まさに花粉症さま、わたしが悪うございました、二度とあなたをばかにしたり見くびったりしませんから、どうかお許しくださいという心境だ。 帰ってくる前日まで雪が降ったらしいが、以後は気温もプラスに転じ、だいぶ暖かくなってきた。とはいえ今年は雪が多いため、まだ歩道の雪すら溶けきっていない。半年分の汚れを堆積させた、見た目にも汚い雪だ。春先の北海道はまったく絵にならない。しかしあっという間に6回目の冬をすごしてしまった。日本の他のどこともちがう北海道の風土が好きである。ただし、惜しむらくは冬が長すぎる。雪が多すぎる。春や夏の快適さを差し引いても、こればかりは長すぎるとしか言いようがない。 今夜は桂米朝の落語を聞きに行ってきた。落語は好きなほうだが、それほど熱烈なファンというわけでもない。しかしこのところ惜しい人がつぎつぎに亡くなるから、いまのうちに聞いておかなければという気になってしまう。いまでも悔しくてならないのは、志ん朝を1回しか聞きに行っていないことである。この先いくらでも楽しめると思っていたのに、あっという間に逝かれてしまった。米朝も本人の口から今夜80だと聞かされてびっくりした。考えてみれば当たり前、当のわたしが70になろうとしている。回りの人だって年取るわけである。自分だけがいまでも40のつもり。うかうかしているのはわたしだけかもしれない。 |
2005.3.18 東京へ帰ってきて10日になる。その後の花粉症だが、いたって快調。家の中ではふつうに動いているし、外出するときもマスクさえしていたらまず平気、ご機嫌だった。日によってすこし目のかゆいときはあるが、これもぬるま湯で洗えば治まる程度。去年までの、目玉をほじくり出して洗いたくなるようなかゆみに比べたらものの数ではなかった。今年は目薬なしですませているのだ。完治とまではいかなくても、大幅に軽減したことはまちがいないのだった。 一昨日、病院へ行って最後の診察を受けた。「おかげさまでずいぶん楽になりました」と礼を言ったら「そういうお話を聞くと、ぼくたちもうれしいです」と医者も喜んでくれた。ところが、あきれたことに本人は大きなマスクをしている。医師の不養生、花粉症にかかったらしいのである。 それで、ということもないが小生のほうはつい調子に乗ってしまい、花粉症恐るに足らず、と高をくくってしまった。じつはあす北海道へ帰るのだ。だったらきょうあたり、マスクなしで外出したって大丈夫じゃないか、というので本日愚かにもそれを試してみる気になった。 昼めしを食いに行ったあと、車を定期検査に出した。それから電車に乗って新宿へ出かけた。今回帰ってきて、電車に乗ったのも都心へ出かけたのも、これがはじめてである。見回してみると、マスクをした人がいるわいるわ、あっちこっちからぐしゅんぐしゅんと鼻を鳴らしているのが聞こえる。一方わたしのほうはというと、マスクなしで2時間になろうかというのに、なんともないのである。くしゃみひとつ出ないのだ。 うれしいのなんの。これは完璧に治ったみたいだぞ、と思わずにんまりしてしまった。ところが新宿の人ごみに出てしばらくすると、鼻がむずむずしはじめ、くしゃみが出はじめた。あれれ? と思ったときはもう遅い。くしゃみは出る、鼻水は出る、なんのことはない、完全な元の木阿弥。あわててマスクをかけたが、こうなってからでは効果がないのである。そのときは鼻がもろに制御不能、くしゃみと鼻水がどうにも止まらなくなっていた。あわててUターン、新宿滞在わずか1時間半、本屋に行ったきりでお茶一杯飲まず自宅へ逃げもどってきた。 すぐ目と鼻を洗い、頭を洗い、家に閉じこもってひたすら謹慎しているのだが、つむじを曲げたか、花粉症さまはすこしも容赦してくれない。いまこの瞬間も鼻水が出っぱなしである。鼻をかみすぎて鼻が腫れてしまい、触るだけで痛くなった。まるで去年と同じだ。ひょっとするとぶり返してしまったんじゃないだろうか。 とにかく今夜一晩の我慢。あすは尻尾を巻いて北海道へ帰ろう。竜頭蛇尾、なさけない報告になってしまった。 |
2005.3.12 花粉症真っ盛りの東京へ帰ってきた。するとやっぱり症状が出た。くしゃみ、鼻水、目のかゆみ、3点セットの揃い踏みだ。きょうで5日たったところだが、何ともなかったのははじめの1日だけ。期待が大きかっただけに落胆も大きかった。 しかし鼻を手術した効果がなかったわけではない。昨年までに比べたら、はるかに楽なこともたしかである。外出のときマスクをすればまずくしゃみは出ないし、知らない間に鼻水がたらーっと垂れ落ちてくることもない。症状が出るようだったら飲め、と出してくれた薬も効果があり、閉め切った家のなかにいる限り自分が花粉症だということはあまり意識しないですむ。外へ出たとき、こんなんだったらマスクを外しても大丈夫なんじゃないかな、とつい思いたくなるくらいだ。それだけでも手術はひとまず成功した、といってやってもいいように思う。来週は診察を受けるから、そのときより具体的な対処法を聞いてこようと思っている。 というわけで喉もとすぎれば何とやら。このまま多摩にくすぶっていたんじゃもったいないとばかり、この2日間、早速温泉へ籠もりに行ってきた。今回は伊豆の真ん中あたりにある古い温泉。ところがこれがとんでもない大外れ。これまでいろんなつまらない温泉にも行ったが、今回はまちがいなくワースト1を争う代物だった。全館数寄屋造り、30年前の超一流政府登録国際観光旅館の成れの果てなのである。それがいまでは素泊まり専門の宿になってしまい、宿泊券まで玄関の自販機で買わされる。タオル、歯ブラシは持参せよと書いてあったが、湯のみひとつ、ティッシュ1枚すらないとは思わなかった。 きわめつけはふたつある露天風呂のひとつ。「導管の湯漏れが発見されたため、本日は使用できません」の張り紙があって使えないのだ。ところが翌日になると、同じ文面が日付だけ変えて同じように掲示してある。直す気なんかはじめからないんじゃないかと勘ぐりたくなった。前金で2泊分宿泊券を買ったから仕方なしいたが、おかげで士気にまで影響し、今回は仕事が予定したところまですすまなかった。こうなったら来週、リベンジでべつのところに行ってこないと気が治まらないのだが。 |
2005.3.6 今週は大阪と高知から来客がふたりあったため、その案内と称して一緒に遊び回っていた。出かけたのは北と南。はじめに、なにはともあれ、いまや全国区となった旭川の旭山動物園。11時に開園すると11時10分からペンギンの園内散歩がはじまる。これははじめて見たが、なかなか楽しい。しかし見回して見るとじいさん、ばあさんばっかりである。平日にもかかわらず、それに合わせた観光バスが10台くらい来ていた。これくらい子どもそっちのけになった動物園もほかにないのではないだろうか。 だがもうひとつ売り物のアザラシのほうはさっぱり動いてくれず、完全な期待はずれに終わった。というのも当日は、気温マイナス5度と低かったにもかかわらずからりと晴れ渡った快晴で、しかもまったく風がなかった。暖かくないのが信じられないくらいおだやかな日だったのだ。そのせいだろう、アザラシは気持ちよさそうに雪の上で寝そべり、昼寝をするばかりでいっこう水に入ろうとしないのである。金返せ、と言いたくなったが相手がアザラシでは文句をつけるわけにもいかない。人間のほうがあきらめてすごすご帰って来た。 翌日は温泉へ。これがものすごい雪だった。本来それほどたくさん降るところではないのだが、今年は宿の人が驚くほどの積雪で、露天風呂へ行くのに膝まである長靴をはいてやっとの思いでたどり着けた。西から来たふたりにとってはもちろんはじめての経験、いい思い出になったと大喜びだった。 とにかく今年は雪が多い。札幌も市内60箇所に設けてある雪捨て場が満杯だとかで、道路には片づけられない雪がうず高い雪山となって残っている。ところによっては塹壕の中を歩いているような気分にさせられるところまである。札幌で6度目の冬を送っているが、これほどの雪ははじめてだ。 その札幌から来週は東京へ帰る。花粉症に備えた鼻の手術の結果がいよいよ本格的に試される。期待と怖さが半ばした状態で支度をしているところである。 |
2005.2.27 このところ睡眠不足からくる頭痛に悩まされている。寝つきは悪くないのだが、眠りが浅くてすぐ目が覚める。いまやそれが慢性的になってしまった。 生活時間の不規則なのが原因だと、自分でもよくわかっている。しかし30年以上こういう生活をしてきた以上、変えようと思ってもなかなか変えられない。変わってくれないのだ。じつをいうといま、1日3回眠っている。午前中に1回、夕方ないし宵の内に1回、ただしこれはいずれも短時間、せいぜい1時間程度。そのあと夜っぴて起きて、明け方に眠る。この明け方の眠りがだんだんできなくなってきた。年のせいでからだの融通が利かなくなったというか、頭の切り替えができなくなって、1時間もしたら目が覚めてしまうのである。 できたら夜は早く寝て、朝起きて午前中仕事をする、という生活に入りたいのだが、その切り替えが容易ではない。ときには睡眠薬の力を借りて無理に眠ろうとするのだが、それでも1時間で目が覚めてしまい、以後どうにも眠れなくなる。じつをいうと今夜もそう。20分うつらうつらしたらもう目が覚めてしまった。こうなるともう眠れない。そのうち夜が明けてくるから仕方なく起きる。寝不足を持ち越して頭は重い。仕事の能率も上がらないという悪循環の繰り返しだ。 年を取るというのはいやなものだと、最近つくずくわかってきた。肉体的に衰えるということではなく、ものの考え方や周囲に対する柔軟性を失ってしまうように、何もかもが適応性をなくしてしまうということなのだ。情けないことに、実際に年取ってみないとわからないことである。 かといってこのまま泣き寝入りするわけにいかない。何か打開策を講じようと思っているが、しばらく苦闘がつづきそうだ。 |
2005.2.16 2回にわたってお助けマンに来てもらったおかげで、やっと快適なパソコンが使えるようになった。今回学んだ最大の教訓は、何もかも人任せにしてはじめからすべてお願いしてしまえということ。自分でやろうとするのがいちばんの間違い、馬鹿につける薬はないのをつくずく思い知らされた。 初めの日はパソコンそのものを立ち上げて、ADSLに接続してもらうところまでやってもらった。無線機は買ってあったのだが、いざ取りつけようとすると子機のカードの差込口がどこにもない。そんなばかな、と思って注文書を見ると「無線LANなし」になっている。自分がそう言っちゃったらしいのだから文句のつけようがない。注文したとき「あれはいりませんか、これはいりませんか」と10以上もの項目についてあれこれ聞かれた。すこしでも安く上げたかったから「あれもいらない、これもいらない」と、向こうが売りつけたがっているものは全部撥ねつけてやった。そのくせキーボードやマウスは、いらないといっても受けつけないのである。 おかげでUSBタイプのアダプタをもうひとつ買う羽目になった。これだけで5000円の出費増。しかしカードのほうはノートパソコンで使えたからむだにはならなかった。しかしあとになってはっと気がついた。これまでノートは原稿書き専門に使っていた。メールを出したり、原稿を送ったり、インターネットを見たりするのはすべてデスクトップ。これが廊下を挟んだ向かいの部屋なのである。したがってそのたびに部屋を移動し、原稿を送るときはUSBメモリーに移し換えてから添付していた。それが無線LANの完成でいちいち動かなくてよくなった。ノートからそのまま呼び出せるし、送れるようになったのだ。これは便利である。しかしよくよく考えてみると、じゃあ何も新しいデスクトップなんか買う必要なかったじゃないか、ということになった。いまのノートで全部用が足りるのだ。 ところで設定はしてもらったが、それを理解できたかどうかとなるとべつ。ノートで作成した原稿をブリーフケースに入れると、デスクトップのブリーフケース内にある原稿まで自動的に最新ものになってしまう、つまりわざわざバックアップを取る必要がなくなる、というありがたい設定までしてもらったのに、きのうやってみるともうできなかった。あれこれやってみたがだめ。そのうちだんだんわけのわからんファイルができはじめたから怖くなってやめた。いいんだ、いいんだ、USBメモリなら3個も遊んでいる。それにバックアップを取っておけば同じことである。 性能は落としたが、その代わりディスプレイとキーボードにはこだわった。どちらも仕事のしやすさに直結しているからである。それでディスプレイは20インチのワイド。その画面いっぱいに縦書き20字×20字、つまり原稿用紙1枚分を18ポの大きさで出すとまことに見やすい。視力が落ちていることを考えると、これはいい選択だったと思っている。 キーボードも今回新たに東プレというところの製品を買った。いまいちばん高価なキーボードだと思うが、ディップスイッチの切り換えひとつで英数キーとコントロールキー、全・半角キーとESCキーが入れ替わる。執筆にエディターを使っているから、使用頻度の多いコントロールキーが真横にあるのは何といってもありがたい。それに打鍵感も、いまのところどこの製品よりも優れているみたいだ。これで以前より仕事がはかどってくれるようだとうれしいのだが。 |
2005.2.12 パソコンを買い換えた。めでたい話なんだが、おかげでひどい目に遭っている。その元凶は、これを機会にいままでのISDNからADSLに切り換えようとしたこと。新しいパソコンにはより速いADSLがふさわしいと格好をつけたのである。回線の切り換え工事は9日にあり、その日からわが家の回線はフレッツになった。 ところがそのときはまだ新パソコンが届いていなかった。したがって現実には、インターネットもやれなければ、メールも出せないということになった。あわててルーターを買ってきてノートパソコンで設定しようとした。しかしどこが気に入らないのか、つながってくれない。NTTからルーターの製造元、プロダイバーまで電話をかけまくり、向こうの言う通り設定してみるのだがどうしてもだめ。くたびれ果てて最後は泣き寝入りをしてしまった。 11日、待望の新パソコンが到着。早速組み立てたのだが、真の責め苦はその後に待っていた。スイッチを入れたが画面になんにも映らないのである。本体、ディスプレイともスイッチは入っている。しかし連動していないのだ。キーボードも無効。いじくりまわしたり、1から設定をやり直したりしてもだめ。最後はメーカーのテクニカルセンターに頼ろうとしたが、これが3連休の初日という最悪の日、頑としてつながらない。2時間格闘したが徒労に終わり、とうとう精根尽きた。 こうなるともうお助けマンを呼ぶしかない。電話をすると、ありがたいことに休日だったが来てくれた。しかし仕事中、かみさんらしい女性からは何度も携帯電話がかかってきた。ところが肝心のパソコンのほうは、プロがやってもだめだったのである。さっきまでわたしがやっていたのと同じことをやってる。やっぱり動かない。最後は本体まで開けてリセットするところまでいった。1時間以上苦闘していたがだめ。日は暮れてくる、腹は減る。もうあきらめよう、とこちらから言い出しかけたときだ。 「ひょっとすると、ビデオカードがだめになってるかもしれない」 運送中に壊れることがままあるそうなのだ。そこでまた本体をばらし、ねじをはずし、ビデオカードなるものを取り外した。悪くなっているようには見えない。それでまた戻し、リセットして組み立て直した。その途端、ジャーンと音がして画面がぱっと映った。唖然とはこのこと。しかしそのときの色のきれいだったこと。どうやら運送中のショックで接触が悪くなっていたらしい。「よかった。わたしも画面を立ち上げられないまま、金をもらって帰るわけにいかなかったからね」 しかしこういう事故では、わたしのような素人にわかるわけがない。パソコンとは何と不完全な道具だろうと改めて腹が立った。じつはそれで完全に終わったわけではなく、まだつづきがあるのだが、自慢にもならない話だからそれはまたつぎの機会にしよう。 もうひとつADSLのほうも難なく開通した。白状すると、これはわたしの完全なケアレスミス。アドレスの@マークの後にドットが入っていたのだ。これではつながりませんわな。 |
2005.2.6 昨日の夕方、自宅近くまで帰ってきたときのことだ。お宮の木におびただしい数の鳥が止まって騒いでいた。しかもそれははじまったばかりで、20羽から30羽くらいの群れがつぎからつぎへと集まってくる。それこそあれよあれよという間のことで、大げさでなくヒチコックの『鳥』という映画を思い出した。一度にこれほど大量の鳥を見たのははじめてだったのである。 お宮はわが家から信号でふたつしか離れていない北海道神宮の屯宮。道内でもいちばん古いお宮のひとつだ。高さが20メートルくらいある大きな木が1本あり、ほかにも何本か裸木がある。鳥はその大木を中心に集まっていた。その鳴き声や騒がしさからいってもムクドリのようだが、高いところにいるからよくわからない。とにかく数は増えるばかり。その段階で軽く1000羽は越えたように思うのだ。 とにかく急いで家に帰り、双眼鏡を手に現場へ引き返した。あと100メートル、というところまで戻ってきたときだ。止まっていた鳥がいっせいに飛び立った。あいにく手前にビルがあったため半分くらいしか見えなかったが、それでも一瞬空が黒くなったかと思えるくらいの数だった。はじめは、だれかに脅かされたのかと思った。ところが群れの中から、はじかれたみたいにはみ出した鳥が1羽いる。カラスかと思ったが色がちがう。あわてて双眼鏡を向け、かろうじて姿をとらえることができた。タカのようなもの、つまり猛禽類だったのだ。 あいにく猛禽類に詳しくないため、なんだったか、あとで図鑑を見たがわからなかった。しかし猛禽類だったことはまちがいない。つまりムクドリの群れは、タカに襲われて逃げ出したのだった。その決定的瞬間を、ほんの数秒差で見逃したことになる。しかしそのとき見た限りでは、タカは狩りに成功していなかった。手ぶらで飛び去ったからである。 ムクドリはその後も数10羽ずつ群れになり、ビルの谷間を低空で狂ったみたいに飛び回っていた。ムクドリはムクドリでパニックを起こしているみたいだった。そのうち今度は1000羽を越すと思われる大集団がやってきた。そして同じように猛烈なスピードで旋回しはじめた。よく見るとそこにもタカがいた。つまり狩りはまだ終わっていなかったのである。 しかし見ていると、スピードでも身軽さでもタカは問題にならなかった。猛禽類は、獲物を狙って急降下に移ったときのトップスピードはなかなかのものだが、一度かわされたらあとがつづかないのだ。一度失敗したらもうお終いなのである。追いつ追われつにはけっしてならない。ムクドリのほうが小回りがきいて断然速いからだ。結局ここでもタカは失敗、空しく引き上げて行った。はじめのときと同じタカだったか、ほかのタカがまだいたのか、それすらわからなかった。 札幌も日が長くなり、最近は5時になってもまだ明るい。おかげで4時すぎから1時間、氷点下の寒いところに立ち尽くして空を見つづけていた。しかし3度目のタカの襲来はなかった。暗くなりはじめると、安心したかムクドリはさっきのお宮から100メートルぐらい離れたお寺の木に止まりはじめた。一旦集まりはじめるとさっきと同じ。あれよあれよという間に全部集まってきた。木だけでは足りなくなってしまい、交差している電線に止まって十文字になった。双眼鏡で見ると、やはりムクドリである。温かそうな冬毛をまとってむくむくしていた。わたしのほうは冷たくて冷たくて頭の芯まで痛くなってしまい、最後はほうほうの体で家に引き上げた。 明るいうちはわたしの部屋からも双眼鏡で見届けられた。しかしさすがに夜は見えない。それで8時すぎ、もう1回たしかめに行ってきた。全部の鳥が数本の木に集まり、鈴なりになっていた。葉の一枚もない木がまるで常緑樹みたいに真っ黒になっていた。夜になっても相変わらずやかましく騒ぎ立てていた。 きょうは出かけるとき、はじめからカメラと双眼鏡を持って出かけた。帰り、昨日と同じ時間に同じところを通りかかったが、ムクドリは一羽もいなかった。きのうはタカに襲われたから逃げてきたのか、たまたまタカがねぐらを見つけて襲ってきたのか、とうとうわからずじまいだ。しかし地面がどこにも露出していないいまの札幌で、あの鳥たちはどうやって餌を見つけているのだろう。ムクドリはもちろんタカにまで同情して今日を終えたのだった。 |
2005.1.28 パソコンがおかしい。いっそのことなにもかもおかしくなったら、あきらめもついて買い換えるのだが、使おうと思えば使えるからかえって始末に悪い。決断がつかないのだ。 このまえ東京へ帰った日のこと、突然インターネットに接続できなくなった。「リモートコンピュータに接続しました。ユーザー名とパスワードを確認中です」という表示が出るところまではオーケーなのだ。ところがそれからつながらない。長い時間がかかり、挙句の果ては「接続できませんでした」。いろいろやってみたがどうしてもだめ。仕方がないからプロバイダーに電話をかけ、やっとつながったあと、いろいろやってみた。 モデムを調べたり、設定をやり直したり、一部変更したり、先方の言うままありとあらゆることをやってみたが、それでもつながらない。この間1時間以上も電話を占有していた。最後は双方が匙を投げ、パソコンが原因だろうということでお終いにした。空港へ行く時間が迫ってきたからだ。以後デスクトップは使わずじまい。帰ってきてからも試してみたが同じだから、以後しばらくノートを使っていた。 何日かたってまた試してみた。すると、あきれたことに今度はつながったのだ。この間なんにもしていない。以後もいまのところつながっている。一方でマウスが動かなくなったり、画面の動きが遅くなったり、いらいらする現象も目立ちはじめた。やはり買い替えるべきかな、とは思うのだが、さてそうなると、今度はADSLに変えたい。だがいまの家はもう長くいないと思うし、つぎにどこへ行くか決まっていないし、と買い替えをためらう要素がまたぞろぞろと出てくるのだ。おかげでいまだに決断がつかないでいる。 下のせがれからもこのごろメールが来なくなった。聞いてみるとやっぱりパソコンの具合が悪いとのこと。これも5年目くらいなのである。人に見てもらったところ、もう替えたほうがいいんじゃないの、と言われたとか。「こんなもの、一生使えるんじゃないのか?」ラジオみたいなものを買ったつもりでいたらしい。親がアナログなら子も同じ、というお話。 |
2005.1.20 10日ぶりに北海道へ帰ってきた。雪のために飛行機の出発が遅れ、視界不良だったら千歳上空から引き返す、と条件つきのフライトだったが、まあなんとか着陸できた。東京はこのところ温暖そのもの。おかげでダウンのコートを持て余し、ずっと手に持ったまま、羽田ではセーターまで脱いでバッグにしまった。それが千歳に下りると一面の銀世界。新雪が10センチ以上降り積もり、なお粛々と降りつづけていた。ピリッと引き締まった外気、すみずみまで暖かい家、この対比はやはり北海道ならではのもの、帰ってくるたびにほっとする。 しかし花粉症を本当に解消したら、今年こそつぎの決断をしなければならなくなる。東京へ帰るか、新しい土地へ移るか、札幌で永住の覚悟を固めるか、このうちのひとつだ。わたし自身はつぎの土地へ行くというのにいちばん魅力を感じているが、かみさんのことを考えたらたじろがざるを得ない。やっとできた新しい友だちとの交流をぜろにしてしまい、また一からやり直さなければならなくなるからだ。 わたしのほうはしょっちゅう東京へ帰っているし、温泉へ行けさえしたら仕事もできるから、どこに住もうが関係ない。いまだって北海道という土地を借りて住んでいるだけ、地元にはまったく根を下ろしていない。5年住んでいながら友だちひとりできていないのである。そういう意味では、顔は完全に東京へ向いている。公平に考えたら、わたしのほうがはるかに分が悪い。これから頭をかかえることになりそうだ。 |
2005.1.15 この稿、じつは東京で書いている。花粉症の治療として、昨年受けた鼻の手術の経過を診てもらうために帰ってきたものだ。うれしいことに経過は順調とのこと。それは帰って来てからもなんとなく感じていた。花粉がいまどれくらい飛んでいるかよくわからないものの、もうかなりの人に症状が現れているという。それが帰ってきて3日たつのになんともないのである。くしゃみはもちろん、鼻水も出ない。これはじつにうれしい。 ただしまだ1月だから安心するのは早い。それに鼻がよくなったら目のかゆみまでなくなってしまうのかどうか。そういえばなんとなく、目がかゆいような感覚もないことはないのだ。つぎは3月に帰ってくる。スギ花粉真っ盛りのころ。そのときすべてが明らかになるはずだが、少なくともこれまでのようなひどいことにはならないだろう。というだけで、ことしは明るい気分で春を迎えているのである。 それにしても東京の寒いのには驚いた。日中の最高気温がいつも10度くらいあるから、札幌にいるときは暖かいなあと、天気予報のたびにうらやましく思ったものだ。しかし帰ってみるとぜんぜん実感がない。風は冷たくないけど全体に薄ら寒いのだ。毎度いうように家のなかが寒いからである。東京もふくめ本州の人は、ずいぶん寒い家に(我慢して)住んでいる。こればっかりは北海道がはるかに上だ。 それに多摩は都心よりだいぶ気温が低く、大晦日に降った雪がけっこう残っていた。わが家の裏庭など、北側で日の差さないこともあって地面の4分の1が雪におおわれたまま。それが溶けきっていないのに、今朝はまた降りはじめた。はじめは雨だったが6時ごろから雪に変わり、いまのぞいて見たら一面の雪景色だ。今年は暖冬といわれている割によく降る。そういえば札幌もことしは雪が多い。道路わきに積み上げられている雪山が、これまで見たことがないうず高い小山になっていたのである。 |
2005.1.8 パソコンが2日つづけてフリーズし、8時間の労力をふいにした。一昨日はデスクトップ。寄る年波で最近はしょっちゅうフリーズを起こすから、すっかり信用を失っていた。仕事用としては怖くて使う気になれず、メールとインターネットのときぐらいしか使っていない。あとはこのホームページ用の文章を書くとき使っているくらいだ。 外では手帳を使っている。それもダイアリータイプではなく、RHODIAというフランス製のメモ帳を20年使いつづけている。値段が安い、ページが多い、完全に開く、表紙が丈夫で型崩れしない、といいことづくめ。1冊でだいたい1年半ぐらい持つ。それが更新期を迎えていたのだが、古い手帳につぎつぎと書き込んできたパーソナルデータを、新しい手帳に書き写す作業にはいつもうんざりしていた。 それをすべて印刷物にし、新しい手帳に貼りつけたらどうだろうと考えたのがそもそものはじまり。極細字で隙間なく印刷すれば、わずか3、4ページに全部納まってしまうことがわかったからだ。それで一昨日、仕事を中断してパソコンに打ち込んだ。終わったとき、一旦終了して保存すればよかったのだ。それをつい、見本刷りを見てからにしょうと思ったのが運のつき。印刷画面に切り替えて様式の指定をしていたところ、途端に動かなくなってしまった。こうなるともう電源を落とすしかない。そして再起動してみたら、3時間かけて打ち込んできたデータが影も形もなくなっていたのである。 つづいてきのう。こちらはノートパソコンでXPが入っている。もとはMEだったが、数年前に中味がすべて消えてしまう事故を起こしたからXPに入れ換えてもらった。以後一度も事故を起こしたことはなく、安定して作動していた。だから昨夜も安心して仕事をしていた。明け方の6時すぎ、あと数行でその章を終える、というときになってなぜか、突然画面がウインドウの初期画面に戻ってしまった。文章を書いているだけだからおかしな操作をするわけはない。たまに誤タッチをすることはあるが、それでも画面がいきなりウインドウに戻るということはこれまでなかった。びっくりして元の画面を呼び戻してみると、その夜5時間かけて書いてきた文章がどこにもないではないか。泣くに泣けないとはこのこと。なぜそうなったのか、自分ではさっぱりわからないのである。 おかげできょうはがっくりして、まだノートを開いていない。考えてみると前のときも同じ時間帯だった。つまり朝の6時すぎ。疲労が相当たまっているときであり、早く終えたいというあせりもある。6時になったら危険ということで、これから肝に銘じるしかなさそうだ。しかしどうしてウインドウに戻ったか、いまもってさっぱりわからない。 |
2005.1.3 明けましておめでとうございます。 元日を知床で過ごしてきた。2泊3日のツアー旅行。とはいうものの31日と2日はまる1日バスに乗っていただけ。札幌知床間というと、片道430キロもあるのだ。これ、東名でいえば東京から彦根の先、東北道でいえば川口から一関の先までの距離に相当する。うち300キロが一般道なのである。このところ真冬日がつづいていたし、前日まで雪も降りつづいていたから、道路はすべて真っ白の圧雪状態。行きは路面のコンクリートやアスファルトがまったく見えなかった。その道を、昼食やトイレタイムも含めて9時間から10時間で走るのだから、運転手はさぞ大変だったろうと思う。交代の運転手はいないのである。 帰途、旭川の近くでときならぬ渋滞が起きた。満員の貸切バスに乗用車が衝突した事故だった。バスの乗客に怪我なかったようだが、乗用車は大破してぐちゃぐちゃになっていた。北海道の交通事故による死者が、13年間連続日本一になったという記事が報じられた当日の出来事だ。 息子からばかにされたくらいのツアーだから、ホテルの食事等についてはこの際口をつぐんでおく。元日の昼に餅つきが行われ、それを3個食ったおかげで、いい塩梅に夕めしは食わなくてすんだ。しかし温泉はよかった。とくに高台にある源泉掛け流しの露天風呂からの眺望はすばらしかった。合計7回入ってきた。あいにく知床は地形的に初日の出が望めないところだが、その代わりすばらしい初入日が見られるという。日没時間は15時53分。しかしこれも雲が多くて残念ながら見られなかった。しかしお天気はよかったし、風もなく、穏やかでいいお正月だった。総体的にいって新しい年の、いいスタートを切れたかと思う。しかしきょうは躰の節々が痛くてならない。また同じようなバスツアーをしてみますか、と言われたらもうイエスとは言わないだろうな。 本年もよろしくお願いします。 |
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