Shimizu Tatsuo Memorandum

きのうの話      
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2004.12.30
 きょうはこの冬いちばんという寒い日になった。ベランダの手すりに垂れ下がっているつららが、日中もまったく溶けなかった。これで4日真冬日がつづいており、この寒波は新年まで持ち越されそうだ。
 おととい、やっと年賀状を出し終えた。毎年ぎりぎりになるまでやらないから、最後は例によって小生お得意の一夜漬けになってしまう。今回も完全な徹夜になってしまい、終わったときは朝の6時半になっていた。毎年のことだから、もう反省すらしない。母親が死ぬまで「おまえはずぼらだー、ずぼらだー」と嘆いていたが、結局なにも変わらなかったということだ。小学生のころ、夏休みの絵日記をいつも8月31日に40日分まとめて描いていた。それでちゃんと描けたのだ。まさかこういうのを才能とは言わないだろうが、万事この調子、帳尻だけ合わせながらこの60年やってきた。来年から年賀状なんか出すのやめよう。
 きょうは部屋の整理と片づけをし、夕方までになんとかすませた。あすから知床へ出かけます。2泊3日の超激安温泉ツアー。なに、温泉に入りに行くんだと割り切っている。
 みなさん、よいお年を。

2004.12.26
 いやー、この1週間じつによく降った。おかげで除雪のほうが追いつかず、家の周りの道路脇に背丈ほどある雪の壁ができている。前の川原の造りつけのベンチも腰掛まで埋まった。残っている背もたれ部分も間もなく消えてしまうだろう。春になってそいつが雪のなかから出てくると、おっ、やっと春がきたな、と実感させてくれるバロメーターになっているのだ。
 冬の必需品であるスパイクつきシューズが、3年履いたためだいぶ効きが悪くなった。それでことし買い換えたのだが、滑り止めの質もよくなったからとスパイクなしにしたところ、全然だめだった。凍った車道を横断すると、ずるっと滑って怖いのである。それであわててスパイクを買ってきた。靴底に打ちつける専用の釘だ。ところがこれが使いものにならない。道具がないと打ち込めないのである。だいたい靴底がゴムなので釘そのものが打てない。靴とスパイク、無駄な買い物をしたかと一旦はあきらめた。しかし考えてみると悔しい。それで壊れてもともととばかり、錐で穴を開けてそこに釘をねじ込んでみた。すると何とか形になった。耐久力のほうは保障できないが、今年の冬くらいはなんとか持ってくれそうだ。
 今週は新しいインターネットセキュリティも入れた。この3年ノートンを使っていたのだが、あまりに自己主張をするから嫌気がさし、今回ウイルスバスターに変えた。その間何日かガードなしの裸で使ってみたけど異常なし。ほんとのところはひそかに期待していたのだ。もしウイルスに侵されたら「やられた!」とかなんとか言ってマシンを買い換える口実にするつもりだった。こういうときに限って世の中は平和なのである。かくしておんぼろの98(Windows98)はこれから6年目に入ろうとしている。

2004.12.22
 温泉のはずが風邪を引いたためだめになり、あきらめて今週は家で仕事をしている。その気になれば家でも仕事ができるんだよね。じゃあわたしにとって、温泉とはいったい何だったんだろうということになるが、酒は飲まない、タバコも吸わない、ゴルフもやらない、食事だって1日1700キロカロリーで十分という身だから、せめて温泉くらい行ったっていいじゃないかと、今夜もある人に言ったことだった。
 気分がよくなってきたから、今日はジムに行って来た。ほんとは昨日行きたかったのだが、気温が低かったのでやめにしたのだ。そしたら今日は最高気温がマイナス6度、ことしいちばんという寒波になってしまった。だがこれくらい寒いと、降った雪が溶けないからかえって安全なのだ。いくら交通量の多い道路でも、ここまで気温が低いと雪は溶けない。茶色になって隅のほうへ寄せられるだけである。もちろん足元はこちんこちんだが、新雪が降っているから、気をつけさえすればずるっといくようなことはない。ピッと引き締まった空気がむしろ快い。軽い運動をやり、サウナでたっぷり汗を流し、久しぶりにさっぱりした気分を取りもどしてきた。
 明日は1度の予報。むしろこういう日のほうが怖い。雪が溶けて、それが夕方から凍りはじめるからである。したがって出かけても、3時までに帰ってくるほうが無難。この間から警告を発しつづけてきたセキュリティソフトのノートンが、今日とうとう真っ赤になって期限切れになったことを通告してきた。メールに写真ひとつ添付するのにもなんのかんの干渉してくるから、もう使ってやる気がしなくなっているのだ。つぎはウイルスバスターにしてみようと思っている。

2004.12.18
 風邪を引いた。今週に入って喉が妙にいがらっぽくなっていたから用心し、外出したら必ずうがいをしていた。それでも引いてしまった。そういえば体力も落ちていたみたいで、今週はからだの節々がばかに痛かった。関節が錆びついたような感覚がずっとつきまとっていた。それで思い出すのは、先週温泉に行った帰りのバスでのこと。後の席にいた女の子が風邪を引いていて、いやな感じの咳をずっとしていた。約2時間そのウイルスを浴びせられたわけで、絶対あの子からうつされたと思っている。
 ふだんは薬など飲まないのだが、今回はかみさんが病院でもらってきた風邪薬があったからそれを飲んでいる。しかし咳も出れば微熱もありという具合で、この2日間ぼーっとして仕事にならない。ただし、ひとつ妙なことに気がついた。微熱で体温が上がっているせいか、肩の関節炎の痛みをそれほど感じないのだ。適度な運動をして肩が温まっている状態といえばいいか、ウオーミングアップをしたあとみたいに肩や首が楽に動かせるのである。といって風邪の不快感と差し引いたら引いてないほうがはるかにいいが。
 順調だったら来週も仕事と称し、素泊まり専門の正しい温泉に行ってお籠もりをするつもりだった。この分だと多分行けないだろうなあ。第一言い出しにくい。温泉へ行かなきゃ仕事ができないなんて、やっぱりうしろめたい屁理屈なのである。

2004.12.12
 かなり前からのことだが、首が痛くてろくに回らなくなっていた。筋肉痛である。理由はわかっている。ストレッチのやりすぎだ。年のことも考えず手や首を思い切りぶん回していたら炎症を起こしたみたいなのである。首を左右へ曲げるのがとくにつらく、道路を横切るときはよっこらしょとばかり躰ごと右へ向いたり左へ向いたりしなければ左右を見ることができなくなった。不本意なことはなはだしい。
 なにが腹立つといって、まだ30代のつもりなのに、躰のほうが断りもなく勝手に年取ってしまうことほど癪に障るものはない。このわたしが、こともあろうにあと1週間で68歳になるのだ。数え年で言えば古希である。病気らしい病気はしたことがなく、人間ドックにも入ったことのない、このわたしがだ。一昨年医者から糖尿病だと言われたが、あれは絶対誤診だと確信している。つまり健康なことこの上なく、三十代の肉体をいまでも維持しているはずなのだ。だからジムで思いっきり躰を曲げたり伸ばしたりするくらいのことは当然やっていた。そしたらいつの間にか、痛くて首が曲がらなくなった。首が動かせないくらいだから、手も思うように動かせなくなった。背中に回した手を肩のほうから伸ばした手で触るくらいのことは軽くできていたのが、いまでは痛くてとてもそこまで回らないのである。
 ところがこの痛み、サウナに入ったり湯に浸かっていたりすると、嘘みたいに消えてしまうことを先日発見した。つまり躰を温めてやると痛くないし、手や肩も自由に動かせるのである。これは大発見。さあ、それじゃすぐにでも湯治に出かけて躰を治してこなくちゃならない。ということで今週はずっと温泉に行っていた。さよう、この長たらしい文章、温泉へ行かなければならなかった言い訳、つまり全部枕なのであります。
 今回行ってきた温泉、ぼこっぼこっと湧いてくる湯が浴槽からこぼれっぱなしの、じつに正しい、最上級クラスの温泉だった。しかし宿のほうには少々問題があった。観光客は来ない町の銭湯のような温泉なのである。したがって日帰り入浴客を受け入れる午後11時までは、カラオケの歌声など聞こえてくるのは致し方ない。ところが部屋のほうは、午後11時半をすぎてから俄然にぎやかになってくるのである。野っ原で酒を酌み交わしているみたいな大声が飛びかいはじめるのだ。一応ホテルと名のついた宿なのだが、そういう施設の夜中だという意識など毛頭なさそうなのである。最初の夜、午前二時まで我慢したがいっこうおさまらないから、たまりかねて文句を言いに行った。相手は4人いたが、人を見てなんだ、こいつは、みたいな顔をしていた。抗議されるなんて考えてみたこともないらしいのだ。
 2日目の夜はもっとひどかった。その日、食堂で夕飯を食ったのはわたしひとり。ほかに宿泊客がいなかったわけではなく、5、6室はふさがっていたのではないかと思う。そして11時半になると、状態は前夜とまったく変わらなくなった。いったいどういう客が来ているのか知らないが、町の飲み足りなかった連中や、話し足りなかった連中の二次会の場になっているみたいなのだ。それでもう抗議する気にもなれず、放っておいたらなんと声高な会話は朝の6時までつづいた。わたしのほうがあきらめて、耳に栓をして寝たから以後のことを知らないだけの話。昼に目がさめたときはもちろんいなくなっていた。
 3日目の夜は3時半まで。おかげで昼間必死になって仕事をした。だからそれなりにはかどったことはたしか。4日目は土曜日だったから、多分この日がいちばんひどくなるだろうと覚悟していたら、意外にもこの夜がいちばん静かでなにごとも起こらなかった。
 いやー、おどろいた。しかし温泉はよかったんだよなあ。首? いまのところ動いてます。動かなくなったら、また行くしかないでしょう。

2004.12.3
 平均気温17、8度の本州から真冬日の北海道へいきなり帰ってきたため、からだが馴染まなくてこの1週間くしゃみばかりしている。風邪も引いていないのに花粉症みたいな鼻水が出るのだ。もっともこれは油断のせいもある。なにげなく買物に出て、指先がちぎれそうなほど冷たいのにびっくり、あわてて押入れを掻きまわし、外出の際の3点セット、すなわちニットの帽子、手袋、マフラーを取りだしたことなどそのひとつ。いまのところお天気が不安定で、20センチも雪が積もったかと思えば昨日今日は小雨、暖かくはないにしても帽子や手袋までは必要のない気温になっている。雪もあらかた融けてしまったが、明日からはまた降るとの予報。融け残った雪はこのまま根雪となって春へ持ち越しそうである。
 東京では思うように仕事ができなかったため、帰ったらみっちり働くつもりだった。それがいっこうにはかどっていない。今度リニューアルする「背いて故郷」文庫版のゲラが出たためだ。20年くらい前の初期の作品である。それをいま読んでみると、なんともたどたどしくて、下手くそで、自己満足の見本みたいな文章ばっかり。恥ずかしくて、げんなりしてしまった。見逃すわけにもいかないから手を入れていたら、ページによっては赤字で真っ赤になった。
 この前の「裂けて海峡」ではラストを改変したためだいぶ物議をかもしてしまい、あとで弁解しなければならなかったのはごぞんじの通り。じつは東京でも作家連中から同じようなことを言われた。一旦確立した作品をいまさらいじるのはよくないというのである。しかし本人にしてみたら未熟な作品を知らん顔して通用させるわけにはいかないし、つねにいまのレベルで最良の作品を提供するのが作者の務めだと思うから、直さざるを得ないのだ。
 ということでだいぶ手を入れたけれども、前回で懲りたからそれとわかるほどの改変はしていない。冗長なところを削って読みやすくした程度。あらためて読んでみる必要はありません。しかしおかげでこの1週間、精神状態が全然よくなかった。

2004.11.26
 ほぼ1か月ぶりに北海道へ帰ってきた。午後3時に札幌へ着いたところ、曇っていたとはいえ、暗いのであらためてびっくりした。この3日間岡山にいたのだ。岡山の午後5時が、札幌の午後3時と同じ明るさなのだ。4時半をすぎると、真っ暗になってしまうのが冬の北海道なのである。
 岡山は小春日和つづき。日中は上着を取って歩いたくらい暖かかった。しかし今回は鉄道で行ったため、時間のロスにうんざりさせられた。幹線から一歩なかへ入ってしまうと、たちまち不便になってしまうのだ。駅にロッカーがないため、9時半に観光案内所が開くまで、1時間半も荷物を預けられなかったことなどそのひとつ。観光案内所があるほどの駅でありながら、何の施設もなかった。乗って行った列車は高校生だけ。彼らが散ってしまうと、わたしひとり取り残された。集客施設のはずの駅が、地方ではそういう機能を果たさなくなっているのである。
 帰ってきてみると、南千歳駅のそばに建設中だった大規模アウトレットショッピング施設が完成間近になりかけていた。この分だと年内に開業するのかもしれない。これまで閑散としていたこの辺りが、これから大勢の人で賑わいだすのかもしれないが、こんなの、単純に喜んでいいことか。じつは多摩の自宅の近くにも、そうした施設がひとつある。これまでのぞいてみたこともなかったが、岡山へ行く直前、シャツを買おうと思ってはじめて行ってみた。
 パソコン持参で旅行すると、どうしても衣類を減らさなければならなくなる。今回も着たきり雀同然だったから、この際あたらしいシャツをと思って行ってみたのだが、おびただしい店があるにしては中味が偏り、それもほとんど若い人向け、わたしが着られるようなシャツはまったくなかった。なんだ、これは、在庫処分をもっともらしく見せかけているだけじゃないかと、腹を立てながらレストランに入ったら、これまた気取っているにしてはプラスチックコップで水を出したりして、まるで形を成していない。こんなところで金を使うやつの気がしれない、とぷりぷりしながら帰ってきた。見せかけの演出にこうも簡単にのせられてしまうほど、人間が他愛なくなってしまっていいのだろうか。そういうことが、結局はオレオレ詐欺でだまされる下地になっているような気がするのだが。

2004.11.20
 いくらか寒くなってきたが、それでも東京はつくづく暖かいと思う。北海道の刺してくるような冬の外気に慣れたしまったせいか、寒がりのわたしが東京にいるとまったく寒さを感じない。昨夜はパーティがあって出かけていたのだが、雨が降っていたせいもあるにせよ、出席者のほとんどがコート類を着込み、寒い寒いと言っているからびっくりした。わたしのほうはコートなしの上着一枚、下にはシャツと半袖の肌着しかつけていなかったのである。
 その一方で多摩の自宅に帰ってくるとうすら寒くて仕方がない。家にいるときはエアコンの温度を25度に設定して24時間つけっ放しにしている。それでも暖かいという気がしないから困ったものだ。夜はこれにガスのファンヒーターまで併用している。7、8年まえに家を改築したとき、寒冷地仕様にして断熱対策を徹底的にやっておくべきだった、といまさらのように後悔しているがむろんあとの祭り。上になにか着ればいいのだが、真冬でもシャツ一枚という札幌の生活に慣れてしまうと、いまさらセーターのようなうざったいものを着る気になれないのである。
 長かった今回の東京暮らしも来週でひとまず終える。おとといは一足早くかみさんが引き上げた。わたしが残ったのは、週明けに岡山方面へ取材に出かけるからだ。札幌へはそちらから直行便で帰る予定をしている。たまに帰ってくるからしようがないといえばしようがないのだが、こちらにいると連日のように出かける用があり、するとその日は使いものにならなくなって仕事ができない。新宿へ出るだけで、電車の乗り換えも含め小1時間かかる。それに要するエネルギーがばかにならないのである。札幌では市の真ん中に住んでいるからその点出かけても散歩のような気軽さですむ。年をとってくるとこれがなんともありがたい。しかしおかげでますます札幌に比重が移ってしまいそうで、これで果たして東京へ帰ってこられるだろうか、ますます自信がなくなってきつつある。

2004.11.12
 きょう新刊「約束の地」の見本刷りが送られてきた。筆者の手元に届いたくらいだから、都内の大きな書店にはもう並んでいるのではないかと思う。この本、こんなに早く出せるとは思っていなかった。というのも一部気に入らないところがあったため、再校が出たとき3章分ほど書き直し、あらたな原稿も20数枚追加した。当然ページ数も狂ってきたわけで、これでは発行も大幅に遅れるだろうと思っていた。ところが版元が必死になって印刷屋や製本屋を鞭打ったらしく、予定通り本ができあがったからびっくりした。昨今は出版社より印刷会社や製本会社の現場の力のほうが強いから、いくら出版社がやいのやいの言ったってなかなか思うように動いてくれない。それがちゃんと本になったということは、それだけ皺寄せを受けてこき使われた人がいるわけで、まさか自分がこのような下請けいじめに一役買ってしまうとは思いもしないことだった。
 おかげで正真正銘の30冊目、先にすませた100冊記念パーティの100冊目が、なんとか日の目を見たことになる。今回は本文2段組で400ページあまり、原稿枚数にして1000枚を超える、わたしの書いたものでは最長の本となった。昨今はみんなが長尺ものを書くから1000枚というのはさほど目立つ長さではないが、雑誌連載時は1500枚を超えていた。単行本にするにあたってほぼ全面的に書き改めたのである。
 わたしのいちばんの欠点は、いくら綿密な構成を立てたつもりでも、連載途中でいろいろな雑念が入ってきてゆがんでしまい、結果として単行本は、雑誌に連載したものと似ても似つかないものになってしまうことだ。雑誌に書いたものがそのまま本になったことは一度もない。だったら連載などしなければいいのだが、連載というのは月々の定期収入を得る貴重な手段だからなかなか思い切れないのである。今回も3年間連載している間に、自分は連載向きの作家ではないとつくずく思い知らされた。それでもう連載の仕事はやめようと、いま誓いをあらたにしている。これからは書き下ろし一本にする。わたしの誓いだからあんまり当てにはならないが、とにかくいまのところ、しばらく書き下ろし専門で行くつもりだ。したがっていま取りかかっているつぎの仕事が本になるのは、早くても来年の夏。その間1年近く発表できる本がないことになる。申しわけないが、しばらくお待ちいただきたいと、あらためてお願いする次第だ。

2004.11.4
 11月2日に記念すべき祝賀会が開かれた。今回はそれに出席するための帰京だったのである。その名を「3人100冊刊行・古希記念祝賀会」という。つまり逢坂剛、船戸与一、志水辰夫、3人の作家の小説刊行本が合わせて100冊になったから盛大にお祝いしようではないか、という不敵なパーティである。さすがにその程度の口実ではあまりみっともいいとはいえないから、この際もうひとり評論家井家上隆幸を巻き込んでその古希の祝いも兼ねたらどうだ、ともっともらしい名目までつけた。
 言い出しっぺはもちろん前記3人。ただし例によって本人は言ってみただけのこと。実際の雑務は全部編集者に押しつけ、なんにもしないが吹聴はする、口は出すが金は出さない、文句は言うが感謝はしない、といつもながらのお殿様気取り。にもかかわらずこういう会がめでたく実現したということである。ひとりだったら恐ろしくてとてもそんなことなどできないのであるが、4人もそろうと衆を頼んでいくらでも強くなれるのである。編集者にしてみたらふだんの仕事の上に余分なただ働きをさせられ、本当はやりたくないのだけれど、これからのことを考えたら泣き泣き言われた通りにせざるを得なかったのである。
 内輪の会だから、招待者はごく控え目にしぼって500人。実際の出席者は本人たちの人徳のなさがもろに反映されてやっと50人。それも編集者がほとんど。作家はだれも出てくれなかったから、年の若い作家のなかからとくに指名して北○謙○、大○在○のふたりを招き、敬意と憧憬に満ちた祝辞を強要した。宴の果てたあとは銀座で二次会、三次会を強行、お土産の記念品までいただいて、本人たちは意気揚々、ご機嫌で引き上げてきた。
 しかし当日、わたしの著作である「虹物語」はその前に出した「いつか浦島」を改題しただけの、つまり同一著作だったにもかかわらず2冊にカウントして水増ししていたという姑息な事実まで判明した。つまり100冊のはずが実際は99冊だったのである。したがって今月18日に出る「約束の地」が本当の100冊目ということになる。

2004.10.29
 初雪が降った、と思ったら一晩で8センチも積もった。なんとも極端である。むろん翌日はとけてしまったが、いきなりの積雪にはドライバーも戸惑ったみたいで、その夜ばかりは車がおそるおそる走っていた。まだ冬タイヤに替えていないからである。こうして冬がだんだん近づいて来る。
 わたしのほうは明日、東京へ帰る。先月帰ったばかりなのにまた同じことをしなければならないわけで、余計な手間と出費がかかるのだが、前々からの約束だったから致し方ない。じつはパーティに出席するための帰京なのだ。そもそもそういうパーティをやろうと言いだした張本人のひとりであり、当日の主役のひとりだから、出ないわけにいかないのである。その顛末は次回にご報告する。
 今回はフェリーでの帰京になった。冬の北海道で車を乗り回す腕や自信はないから、毎年この時期に車を持って帰っている。いつもだといちばん近い新潟まで直行するのだが、今回は中越地震でごった返しているようなので、秋田で下りて東北道を帰ることにした。フェリーは仙台や大洗にも通じているのだが、船の大きさといい設備といい、東日本では新日本海フェリーがベストである。料金も安いのだ。
 前回の東京滞在中、なんたることか台風で雨が漏った。屋根からではなく、横の壁から入ってきて、部屋へ2メートルも入った天井からぽたぽたと落ちてきた。そのとき食卓でパソコンをひろげていたのだが、近くで妙な音がするのにしばらく気がつかなかった。びちゃびちゃという水音になってようやくはっと気がついてみると、テーブルの上に置いてあった郵便物類が水浸しになっていた。あわてて鍋を当てたが、このとき鍋に溜まった水量だけで500ミリリットルからあった。
 そういえば前にも一度漏ったのだった。通常の、上から落ちてくる雨だと漏らない。台風のような横なぐりの雨、それも北から吹きつけてくるときだけ漏る。しばらく台風が来なかったから、それをすっかり忘れていた。それにしても改築というのは考えものだ。なまじ改築したために雨が漏りはじめたという例は、わたしの聞いているだけでも数件に及ぶ。業者の質がそれくらい落ちているのだろう。天気のいいとき調べたってわからないのである。
 北海道へ帰ってくるとき、もういいだろうと思ったからその鍋を片づけてきた。そしたら二度あることは三度ある。このまえ、またしても台風がやってきた。今回はコースからいっても北風にはならないだろう、と思ったものの心配は心配だ。それで都内にいる子どもにわざわざ鍋を当てに行ってもらった。しかし天井に印がついているわけではないから、正確な場所がわからなかったらしい。適当に鍋を並べて帰ってきたというから、その結果が今度帰ったらわかることになる。

2004.10.23
 きのう、きょうと日中の最高気温が10度を切り、冷たい風が吹きはじめた。冬の到来が近いことをうかがわせて何となくあわただしくなったが、なぜかいまひとつぴんとこない。これまでが暖かすぎたからである。その証拠に街路樹の葉はまだ青々としているし、ナナカマドだって例年の半分も色づいていない。妙にアンバランスなのだ。
 きのうまでは春霞みたいなもやが立ち込めていた。空はからりとした秋晴れなのに、地上には濃いもやがかかってろくに見通しが利かない。いちばんひどいときはわが家から4キロしか離れていない藻岩山がまったく見えなかった。シベリアで大規模な森林火災が発生し、その煙が北海道の北部、稚内辺りまで流れてきている、という報道はあったが、それ以後の追加報道はなかった。
「このもやも、ひょっとしたらシベリアからの煙じゃないか?」
 と言っていたのだが、地図を見ても、風の流れを見ても、そこまではなかなか信じられなかった。しかし煙いというほどではないにしても、そういえばなんとなくこげくさいような臭いがする。おかしいなあといっていたら数日後、あれもシベリアからの煙だったとやっと報じてくれた。
 煙というのははじめてだったが、中国からの黄砂はもう例年のことになっている。日本という国が地球規模の環境のただなかにいることをいやおうなしに痛感させられるのはこんなときだ。ことし10回も上陸した台風なども、そういった目でとらえなおす必要があるのではないか。今後上陸回数が増えこそすれ、減ることはないだろうと思われるからだ。
 そして毎度のことながら、事前にわかっていながらなぜこれほど大きな被害を出してしまうのか。雨や風が強すぎたということはあるにせよ、あえて言わせてもらうなら、人間のほうが鈍感になりすぎているのではないかという気がしてならない。わたし自身は少年時代に一度床下浸水を経験している。そのときの家はその後床上浸水にも遭い、母はそのときゴムボートで救出されている。わたしたちの年代は、かなりの人が多かれ少なかれそういう経験をしている。平野の真ん中の農家の納屋に、洪水に備えた舟が吊り下げられているのはごく当たり前の光景だったのだ。それが生活環境が整備されるにつれ忘れられてしまい、安全が危険と隣り合わせだったことすら人々の頭から消えてしまった。
 地すべりや山崩れ現場からのテレビ中継で、年寄りが「70数年生きているけどこんなのは初めて」としゃべっているのを見ると、わたしなど「ほんとかよ」と突っ込みを入れたくなる。日本の農村や山村が、それほど安全なところだったとはとうてい思えないからである。山を削り、崖をコンクリート漬けにして、むかしは絶対に人が住もうとしなかったところまで家を建て暮らしはじめたのはだれなのだ。それはせいぜいこの2、30年のことにすぎないのである。安全が当たり前になって、危険という感覚をなくしてしまったとしか思えないのだ。
 と、ここまで書いてきた矢先、今度は新潟で地震が発生した。テレビではまたまた「こんなの、初めて」のオンパレードである。40年前に新潟市を中心に起こった地震のことは完全に忘れられているようだ。たまたまあのとき、わたしは東京から取材に駆けつけたからよくおぼえている。そのころの東京・新潟間の国道17号線はいたるところ未舗装区間が残っていた。当時はその程度の国力だったのだ。その国土を造り替え、自然を一変させてきたのがその後の日本の歴史である。必ずしも安全まで造ってきたのでないことぐらい、肝に銘じておくべきだと思うのだ。

2004.10.17
 北海道の屋根旭岳にようやく雪が降った。例年より3週間遅れ、観測史上もっとも遅い初冠雪だという。いつも同じことを書いているみたいだが、気象が明らかにおかしい。北海道で暮らしはじめた5年前は、10月18日に札幌市内で大きなぼたん雪が降っている。それがふつうだったのである。
 昨日は紅葉を見に郊外へ出かけていた。あきれたことに積丹半島ではいたるところ新緑が芽吹いていた。先の台風で葉を吹き飛ばされた木が、その後の温暖な気温で春がきたと勘違いして、新芽をつけたらしいのだ。それも1本や2本ではなかった。ところによっては同一木種からなるかなりの群落が、そっくり新芽の林になっていた。この新緑、これからどうなってしまうんだろうと他人事ながら気になる。寒くなってきたらもう1回出かけていって、見届けたい気がするのである。
 おかげで今年の紅葉は、こと北海道に関する限りさっぱりだった。赤くも黄色くもならないまま、枯れて落ちはじめている。高度1,000メートルまで上がると、もう完全な初冬の色だ。季節のメリハリがないというのは、どうもすっきりしない。長い冬が来る前の、最後の瞬間をぱっと燃え上がらせるのが紅葉のいいところだったのだが。しかしおかげで、今年の秋はもう終わったとあきらめもついたことになる。
 じつは来月刊行予定の本の校正に追われていたところだ。この間東京へ出かけていた間にゲラが送られてきて、帰ってきた日から仕事に引き戻されていた。雑誌に3年間連載したもので、原稿枚数にして1,000枚を越える。べつに原稿が多いほどいい本になるわけでもないのだが、長い分直すにも時間がかかる。週末の紅葉見物は、その仕事をとりあえずストップしての憂さ晴らしだった。これで2日ほど遅れた計算になり、しかもいつ終わるかは未定。出版社のほうは来月刊行ということで発行日も決めていたようだが、筆者がこれでは多分何日か遅れるだろう。したがって詳細はまだ公表しないでおきます。

2004.10.8
 疾風怒濤、あれよあれよという間に1時間が終わってしまった。本日の、筆者はじめてのサイン会の感想です。
 それほどあがっていたとは思わないが、かといって落ち着いていたとはお世辞にもいえず、初めから最後まで無我夢中、気がついたら終わっていたというのが真相だ。しかし台風が接近して終わったころは時化模様というお天気だったにもかかわらず、よくぞこれほどの方にお出でいただいた。総計112名、旧著をお持ちになった人がかなりいたため、サインした回数は200を軽く超えていただろう。ありがとうございました。こころよりお礼を申しあげます。
 一度にこれほど多くの方とお会いしたのははじめて。まさに物書き冥利につきる一日でした。かといってこれで病みつきになった、というようなことは毛頭なく、できたらつぎはもうやりたくない。いま思い返してみても、冷汗と、自責の念しかわいてこないのである。当初の心積もりでは、ひとりひとり、短時間でもいいから必ずお話ししようと思っていた。しかしつぎからつぎへと差し出される本にサインするのが精一杯、そういうことがまったくできなかった。お顔すらろくに拝見しなかったのだ。あの雨のなか、わざわざ駆けつけ、列に並んで待ち、やっと自分の番が来たと思ったらサインしてはいお終い、その間たった10数秒では、もの足りない思いをした人が多かったのではないだろうか。すべてはわたしがいたらなかったこと、ごめんなさいとお詫びするしかない。
 こうなると、これからも期待を裏切らない作品を書くことしかないわけで、きょう得たものを今後の励みと戒めにしてさらに精進しようと覚悟をあらたにしている。その力をみなさんからいただいた。
 再度お礼を申します。本日はどうもありがとうございました。

2004.10.4
 かみさんが風邪を引いていたため、2週間ばかりどこへも出かけなかった。しかも今週はわたしが東京へ帰ってしまう。それで、ということもないが久しぶりに外出し、日帰りで大雪山の麓まで紅葉を見に出かけてきた。
 あきれたことに山麓ではまだ紅葉がはじまっていなかった。1ヶ月ほど前の9月8日に大雪の縦走をしているが、そのとき頂上部はもう紅葉の盛りだったのである。また昨年は9月20日に逆コースで縦走し、このときは吹雪にもあった。ことしは初冠雪が先週。昨年より1ヶ月遅かった。それだけ暖かいということだ。ということは、今年の紅葉は例年ほど期待できないということでもある。紅葉の条件である最低気温が10度以下になりはじめたのは、つい先週からなのだ。
 わたしのほうは紅葉がだめなら温泉があるさ、とばかり即座に目的を切り替え、まえから入りたいと思っていた温泉に入ってきた。露天風呂がじつによかった。山奥にしては高い700円の入浴料もこうなると安い。そのあと大雪山の湧水を4つのポリタンクに汲み、機嫌よく帰ってきた。なおかつまだ時間があったから、欲張って十勝岳の麓にも足を伸ばしてきた。
 ここにも有名な露天風呂がある。むかしの湯治場の跡だそうだが、戦前に廃湯となり、その後はほとんど忘れられていた。それが昨今の秘湯ブームで息を吹き返し、おまけに十勝岳の噴火で水温まで上がってきたとか。おどろいたことに、間もなく暗くなる夕方の5時で10数台もの車が止まっていた。みなこの露天風呂へ入りに来た人である。行ってみると2つの湯船が10数人の人であふれていた。女性も4、5人。水着を着たりバスタオルをまとったりして、おおらかなものである。しばらく見ていたら4、5人引き上げたから、空いているほうの湯船にちょこっと入ってきた。熱くて気持ちのいい湯だった。しかし、その間にもあとからあとから人がやって来る。ひたすら驚いて帰ってきた。知床の有名なカムイワッカの湯の滝など、ことしは現場まで人の列が絶えなかったそうだ。
 週末はいよいよサイン会。それでお断りしておきたいことがある。はじめに書店別室へ呼ばれ、そこで何10冊かの本にサインし、そのあと会場へ出て行くことになるみたいなのだ。しかも終わったら、今度はご苦労さまということでまたなにかあるらしい。ということは、会場へ来ていただいても個人的にお話ししたり歓談したりする時間はないということだ。とても心苦しいのだが、どうかお許し願いたいと思う。

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