Shimizu Tatsuo Memorandum

きのうの話      
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2004.9.29
 秋本格、というのは本州のこれからの話、北海道はもう冬を予感させる季節になりつつある。ずいぶん日が短くなった。5時になるとあっという間に暗くなる。日中はまだTシャツ1枚ですごせるが、夕方から急に風が冷たくなる。夜は10度前後まで気温が下がってきた。それで今週は日曜日から暖房のスイッチを入れて仕事をしている。
 これまでのガス暖房機が老朽化したため、夏に新しいタイプと交換してもらった。おかげで抜群に効率がよくなった。しかし使い勝手はいまいち、むしろマイナスのほうが大きくなった。これまではパネルヒーターだった。部屋の窓側をほぼ占領していたが、反面暖まり方は自然でおだやかだった。それが今度は温風式ヒーターに変わった。大きさも3分の1。見かけは華奢で頼りない感じがするくらい。ところが強力な力で温風を吹き出し、あっという間に暖かくなる。その風が強すぎるのだ。坐っている真正面から吹きつけてくるから、なんだか焙られているような気分になる。落ち着かないし、第一不愉快である。それでヒーターの前に風をさえぎるものを置いて、とりあえず間に合わせている。おかげで見た目はかえって悪くなった。
 本屋に新刊の『ラストドリーム』が並びはじめた。思ったとおり、装丁が地味でまったく目立たない。探そうとしてもどこにあるのか見つけにくい。しかしわたしは今回の装丁をけっこう気に入っている。目立たなきゃ損だとばかり、どぎつい装丁の本ばかり並んでいるいまどき、こういう地味な本があってもいいと思うのである。
 10月8日が近づいてきて、憂鬱さが増してきた。

2004.9.21
 わたしはプロ野球ファンとは言えない人間だが、今回のストライキは、雨降って地固まる、プロ野球について考える機会を与え、選手とファンとの親密感を深めさせたということでは画期的な出来事になったのではないかと評価している。そう思わないと、スト明け後の20日のゲームで、各地とも異様に盛り上がったことが理解できないのではないか。
 なかでもすごかったのは札幌ドームでの日本ハムだ。横綱のダイエー相手に序盤は苦戦、8対2と大量リードされたときはもうだめだと思った。かみさんはラジオを聞いていたがわたしはさっさと見切りをつけ、仕事場に引っ込んでしまった。ところがそれからがシーソーゲーム、最後は3点差を一気に引っくり返してものの見事にサヨナラ勝ちを収めたのである。
 かみさんも12対9となったときはさすがにあきらめ、以後は聞くのをやめていた。もつれにもつれた試合だから、9回裏にまだなにか起こるかもしれない、というので再スイッチを入れたのはわたしだ。だからあの新庄の幻のホームランはライブで聞いていた。まさにおどろきモモの木、こういうドラマは書こうとしたって書けるものではない。なぜ球場でダイレクトに見届けなかったか、地団太踏んで口惜しがったものである。
 北海道のローカル局で『朝までファイターズ』という番組をやっている。札幌ドームでゲームがあったときの試合経過を録画で全部見せてくれる。ただしはじまりは夜半から。文字通り、試合が終わったときは朝になっている。したがってこれまで見たことはなかった。昨夜もはじまったのは午前2時50分から。とても見られる時間帯ではない。しかしかみさんは「起きられたら起きて見る」と言いながら就寝した。まさかと思っていたら3時過ぎ、本当に起きてきた。9回のサヨナラの場面は5時過ぎだったが、おかげで仕事をしていたわたしもそのシーンはしっかり見てしまった。
 ことしも北海道にはあまりいいニュースがなかった。そのなかで、日ハムが札幌に来たことと、旭川の旭山動物園の入場者数が2ヶ月連続して日本一になったことだけは、特筆していいうれしいニュースだった。巨人ファンしかいなかった北海道でこれほど日ハムが歓迎されようとは、正直言って予想していなかった。そのブームを巻き起こしたうえで新庄の果たした役割は大きい。新庄本人も進境著しく、単なる「人寄せパンダ」ではない好成績を残している。これまで引っ張るだけだったのがライトへも打てるようになり、それにつれて打率も上がってきた。新庄にとっても日ハムへの移籍は大吉だったのだ。
 その日ハムのことし最後の札幌ドーム戦が今夜行われた。昨夜のこともあるから、にわか日ハムファンとなって行ってきた。ゲームも昨夜と同じような展開、序盤は和田の調子がよくて手も足も出ず、3回まではパーフェクト、その間にあっさり3点を取られ、なんとも重苦しい雰囲気だった。それが4回、2本のホームランで一気にひっくり返したのだからこたえられない。しかも昨夜のヒーロー新庄が、今夜はライトスタンドへ打ち込んだのだから狂喜乱舞である。見せ場でちゃんと期待に応えてくれるあたり、従来の新庄のイメージは完全に変えてやる必要がある。
 平日だから観客もそれほど多くないだろうと見ていたところ、これも入場者数の新記録といううれしい誤算。北海道の野球ファンを完全に見直してしまった。新庄を変身させたのもこの札幌のファンなのである。おかげで今夜は大満足、もう10年も日ハムファンをやってるような顔をして帰ってきた。野球はこれまで何回も見てきたが、これほどゲームに引き込まれたのははじめてだ。そして、はたと気づいた。プロ野球というのは新興宗教みたいなものである。はまってしまえばこれほど心地よく酔えるものもほかにないのだった。

2004.9.16
 きのう、きょうと、雲ひとつない快晴がつづき、北海道は秋たけなわ、一年でいちばん気持ちのいい季節を迎えた。じつは台風のやってくる前々日、かみさんと大雪山の縦走をしてきたが、山頂部は紅葉がはじまって見ごろになっていた。いま行けばもっと麓まで紅葉が下りてきて、またちがった景観が楽しめると思うのだが、あいにくその暇がなくなってしまった。気がつくと今年もあとわずか、冗談でなくぼやぼやしてられなくなったのだ。
 一方で街のほうは、先週来た台風の痛手からまだ立ち直っていない。その後の調査がすすむに連れ、被害はむしろ拡大している。とくに街路樹の受けたダメージが大きく、倒れたり折れたりした木が札幌市だけで5,700本に達しているという。北大病院へ行くたびに散歩していた北大の構内も、9,500本の樹木のうち2割までが何らかの被害を受けてしまったとか。名物のポプラ並木も51本中19本まで倒れてしまった。また石狩平野の原生林の面影をよく残していた北大植物園も、3,000本の樹木のうち512本が被害を受け、内部を歩くことすらままならない状態で、再開の目途はいまのところたっていないという。交通の障害や生活の邪魔になるものこそ取り除いたが、数が多すぎてほかはまだ手がつけられていないのが現状だ。都心へ行くたびに通過する創成川のヤナギ並木も、川のほうへ倒れたものはまだそのまま打っちゃられている。
 きょう『ラストドリーム』の見本があがってきて受け取った。小説に限っていうとこれが30冊目の本である。デビューして23年になるから、それで30冊なら多いとはいえないほうだが、いつの間にかこれだけの冊数に達してしまったのには感慨もひとしおだ。いまは全部で40冊くらい書けるんじゃないかと思いはじめている。だからこそぼやぼやしてられないのだ。
 サイン会の件を公表しておきます。10月8日金曜日、午後6時から、場所は東京神田、三省堂書店本店。閑古鳥が鳴いて誰も来てくれないんじゃないか、という怖れも強い反面、かといって顔見知りばかり来られても格好悪いしなあと、複雑な心境だ。生涯一度と思って真面目につとめてきます。

2004.9.9
 台風18号がやっと通りすぎた。今回の台風、北海道はじまって以来という強風が吹き荒れた。台風には慣れっこのわたしが、はじめて経験することばかりだった。まさか札幌でこんな体験をしようとは思わなかった。
 雨はほとんど降らなかったのだ。夜の間にすこし降った程度。風のいちばん強かった午前ちゅうは、からりと晴れわたっていたくらいである。だが春の黄砂みたいに視界が黄色く染まっていた。まさか砂埃ではなかったと思うが、ありとあらゆるごみが舞っていたことはたしかである。
 いまのマンションは東と西に窓がある。東側には豊平川が流れていて、一条大橋という片側3車線の橋が架かっている。見ていると、ふだんより交通量は少なかったものの、それでもけっこう車が走っていた。この強風のなか、無謀すぎるのではないかという気がした。突風にあおられて、下手をすると車がひっくり返ることだってあるだろうと思ったのだ。しばらくして、ひょいと見てみると、なんと、ほんとうに大型トラックが横転しているではないか。あまりにもあっけらかんとした光景だったので、びっくりしたというより思わず笑ってしまった。見たところ窓ガラス1枚割れていなかったし、乗務員も怪我ひとつしていなかった。しかしいったいどういう風にして倒れたのか、その瞬間を見逃したことが悔しくてならない。
 今回被害が大きかったのは、北海道の人が台風のほんとうの恐ろしさを知らなかったことも原因していると思う。1週間前には16号が上陸したのだが、そのときの被害は比較的少なかった。それが油断につながったのかもしれない。夕方のテレビのニュースでは、ひっくり返った車やトラックの映像が10件ぐらい放映されていた。とすると、道内でこの日横転した車の数は、20を下らなかったのではないかと思われるのだ。
 西側の窓から見下ろした風景はもっと面白く、刺激的だった。空き缶が10数個、まるで鉄砲玉みたいに飛んでゆくのを目の当たりにしたし、鉄製のゴミ箱が紙くずみたいに飛んでゆくところも見た。そしてマンション玄関前の街路樹が、ぼっきり折れて道路の向かいまで吹っ飛び、駐車していた車にもろにぶつかったところも見た。直径15センチくらいもあるニセアカシアの幹の部分が、そっくり飛んでいったのである。それから今度は向かいにある街路樹が倒れた。瞬間的に倒れたのではなく、強い力で押し倒されるみたいにゆっくり横転していった。それが数分後には、風向きが変わって路上に横たわったまま90度向きを変えてしまった。これまた直径が20センチはあろうかというニセアカシアの木。根の一部は残っていたから、なみの力ではとうてい動かせなかったはずだ。とにかくこういう光景を現実に見たのははじめてである。
 3時になると風が衰えてきたので、さっそく市内へ惨状見物に出かけた。子どものころから台風が大好きで、風がやむとすぐさま家を飛び出し、変わり果てた周りの風景を見て歩いたものである。その野次馬根性は50年たったいまも全然変わっていなかった。
 歩きはじめてすぐ、被害が予想以上に大きいことがすぐにわかった。とくに被害の大きかったのは街路樹で、いたるところ裂けたり倒れたりして道路をふさぎ、交通渋滞の原因になっていた。大通り公園では直径が50センチくらいあるイチョウの大木が根こそぎ倒れていた。また屋根はおろか二階から上がそっくり剥がれてしまった民家も見た。創成川の河畔のヤナギの大木も無惨なくらいずたずた。一見堂々とした古木が、これほどおびただしく倒れていようとは思いもしなかったことだ。おそらく無傷だった街路樹は一本もなかったのではないかと思う。
 自然環境のきびしい北海道で生きているくらいだから、風雨に強いものとばかり思っていたのは錯覚だったようだ。たしかに冬の北海道は、風も雪も半端なものではない。しかし考えてみるとその時期の木はみな葉を落としている。葉のいちばん多い時期に、これほどの風にさらされたことはなかったようなのである。
 同じことは建物の構造にもいえる。北海道の家の窓には雨戸がない。凍結したら開け閉めできなくなるからだろうが、それだけ飛んでくるものには無力ということになる。さいわい飛んでくるもので、いちばん怖い屋根瓦も北海道にはない。その代わりトタン屋根はめくれやすく、剥がれやすいという欠点がある。今回はそれがもろに露呈してしまった。また人的被害も多かった。その点いつもさすがだなと思うことは、台風の常襲地帯である沖縄ではめったに死者が出ないことだ。今回の台風でも死者は一人も出ていない。未知のものに対しては、人間いかにもろいものか、いくら警戒しろといわれても、体験に裏づけられていない知識は役に立たないということを証明したようにも思うのだ。
 なお橋の上で横転したトラックは1時間あまりのち、クレーン車が来て簡単に引き起こした。立ち直ったトラックは、どうもすみませんとばかり、走り去ってしまうのかと見ていると、さすがにそうはならなかった。自力走行ができなくなっていたか、そのままクレーン車に牽引されていった。しかしなんだか照れくさくて、怪我をしたふりをして引かれていったような気もしないではなかった。
 夕方になると、倒れた街路樹はもう取り払われ、街は何事もなかったような静けさを取りもどしていた。しかし見慣れた風景でありながら、なんだか殺風景になったような気がしたこともたしか。札幌がもとの緑を取り残すには、この先10年はかかるのではないだろうか。北大のポプラ並木のように、修復不能となったものも数多いはずなのである。

2004.8.29
 外出した帰り、いつものように丸善へ立ち寄った。文庫の棚のところでなにげなく顔を上げると、目の前に自分の本が置いてある。新潮文庫から新版で出されたばかりの『裂けて海峡』だった。数日前に贈呈本が送られてきたから、近いうちに発売されるのだな、とは思ったがまさかもう書棚に並んでいようとは。いつ発売されるのか、聞いていたかもしれないがおぼえていなかったのである。自分のホームページを持っていながら、お知らせひとつ満足にできないとはなんとも恥ずかしい。
 言い訳になるが、今週は年末に出る本の初校校閲に追われ、ほかのことをしている間がなかった。原稿にして1000枚を越える、これまででいちばん分厚い本である。そのため直すのにけっこう時間がかかった。昨日ようやくそれを送り返したところで、ほっとしている。おかげでことしは長編が2冊出ることになる。専業作家になって20年、これもはじめてのこと。けっこう勤勉になったものだと自画自賛している。
 といったところで、そろそろ残り時間を見据えなければならなくなったから、書けるときに書いておかないと、ということである。この年になってこんなことをいうのもみっともない話だが、心構えとしては来年も2冊は書こうと思っている。その分意識的にほかのもの、つまりエッセイの類はお断りすることが多くなった。本業以外のことに時間を費やすのが、もったいなくなってきたからである。
 ついでだから書いておこう。つぎは来月25日に、毎日新聞で連載した『ラストドリーム』が出ます。それでじつはある書店から、サイン会をやってくれといわれて困っている。モグラではないけど、日の当たるところに出るのは大の苦手。これまでサイン会など一度もやったことがない。しかし本を売ってくれる人たちがこういう骨を折ってくださる以上、むげに断るのも悪いしなあと、困り抜いているのである。できたらやりたくない。その場にいる自分の姿を想像しただけで、冷や汗が出てくる。
 字が下手なのだ。人に見せられた字ではない。しかしそれをいうと、昨今は字のうまい作家などまずいない。よくまあこんな字で作家という看板を掲げられるな、といいたくなるようなのばっかりだ。ところがサインとなると、みなけっこう能筆なのである。芸能人顔負けの筆跡で、さらさらっとサインするのを見ていると複雑な心境になる。毒づきたくなる一方で、うらやましくてしようがないのだ。とにかく自分にはそういう真似ができない。だったら恥をさらして生きていくほかない。下手くそな字でどこが悪い、と開き直るだけだ。しかし考えれば考えるほど、サイン会はやりたくない。しかももし本決まりになったら、このページで公表しないわけにいかないだろうしなあ。ああいやだ、いやだ。
 それはそうと、オリンピックでの日本男子野球チームほどぶざまなものはなかった。ノーアウトランナー1、2塁で巨人の4番バッターがバントしたり、中村がバントでランナーを進塁させて大はしゃぎしたり、1点ビハインドされた9回無ランナーという場面で城島がバントを試みたり、いったいだれがこんな格好を見たかったかというのだ。それだったら駒大苫小牧を出場させたほうが、はるかにはつらつとしたゲームを見せてくれていただろう。はからずも日本のプロスポーツのせこさを見せつけられてしまった。

2004.8.22
 いやー、驚いたのなんの。まさか、まさかの大連続。高校野球で駒大苫小牧がものの見事に優勝してしまった。それこそあれよあれよといってる間の出来事で、3戦目あたりからひょっとするとひょっとするかもしれないぞ、とは思ったもののこの勢いが最後までつづこうとは考えもしなかった。きょうの決勝戦にしても、善戦はするだろうが勝つのはむずかしいだろうと思っていた。これまでの戦いぶりを見た限りでは、済美の実力が傑出しているように思えたからだ。案の定序盤でぽんぽんと大量点を取られたから、あとは見る気がしなくなって仕事をしていた。秋に刊行予定の本の校正刷りが出ていたからだ。
 それでも気にはなったからときどきのぞいていた。5対1から一旦逆転し、再逆転されてまた9対9と追いついたときも、まだ中盤戦だからと半信半疑だった。それからしばらくして、つぎにのぞいてみると13対10になっているではないか。しかもすでに8回の裏だ。あわてたのなんの。これはえらいことになった。開闢以来の出来事になるかもしれないぞと、急いで家を飛び出した。大通りの地下街に設置してある大型テレビの前に行き、大勢の群衆に混じってこの歴史的瞬間を見届けたいと思ったのだ。駒大苫小牧には縁もゆかりもないが、北海道の庇を借りて住んでいる以上、こういうときはちゃっかり北海道人になってしまうのである。
 家から大通りまでは歩いて15分かかる。地下鉄を使うと1駅、歩く時間を入れて5分くらい。きょうは時間がないからタクシーにしようと思った。ところが驚いたことに前の道路を車が1台も走っていなかった。三越前に通じる片側2車線の、幹線道路のひとつなのにだ。そのつぎが大通り公園と直結している道。ここも車の通行量はぜろ。まるで元日の朝のような光景だったのである。
 それでやむを得ず地下鉄の駅に向かった。あるマンションの前を通りすぎていると、突然どよめきとも雄叫びともつかぬ異様な声が聞こえてきた。それこそマンションがふるえたみたいな音響だった。あっ、ゲームセットになったな、とそれで察しがついた。自宅マンションにいるときからも、叫び声とか拍手とか、ふだんは聞いたことのない音がときどきこだましていたからだ。どうやらそのころ、北海道中がかたずを飲んでテレビにかじりついていたものと思われる。このときの道内のテレビ視聴率を調べてみたら、ものすごい数字が出てくるのではないだろうか。
 残念ながら予感は当たっていた。大型テレビの前に着いたときはもう試合が終わっていた。もちろん大群衆は残っていて、選手のインタビューに盛んに拍手を送っていた。優勝を疑った報い、その瞬間に立ち合うことができなかったのである。こうなったら仕方がない。せめて号外でももらって帰ろうと、近くにある北海道新聞に押しかけていった。するといま制作中だからあと30分待ってくれという。それでまた大通りまで引き返し、ドトールで時間をつぶしたり公園で若者がやっているパフォーマンスを見たりして時間をつぶした。
 その号外がなかなかできてこなかった。やっと1時間後、最初の号外が配られた。夏の高校野球の主催者である朝日の号外で、全8ページの堂々たるものだ。つぎに30分遅れて日刊スポーツ。地元紙で、いちばん小回りがききそうな道新はなんと2時間後、どん尻というていたらくだった。道新のためあえて弁解してやるとすれば、勝った瞬間の写真を掲載していたのは同紙だけ。ただしまだほかにも号外を出したところはあるかもしれない。わたしのほうは待ちくたびれ、3紙の号外を手に入れたことで満足して引きあげた。
 きょうの札幌は雲ひとつない快晴、24度、からりとした空気の、まことに気持ちのいい日だった。それにもまして、道民には忘れられない祝福すべき日となった。駒大苫小牧の選手はみな道産子なのである。本州から野球留学でやってきた選手はひとりもいない。

2004.8.15
 なんとまあ、急に涼しくなってきた。夜寝るときは窓を閉めないと寒くなった。これが本来の北海道の気候だとは思うが、それにしても極端すぎるんだよなあ。
 13日に帯広まで花火を見に行ってきた。札幌でも毎年花火大会はやるが、180万都市にしてはお粗末としかいいようのないしょぼくれた花火で、村祭りレベルといっていい。これは主催する3つの新聞社が日をちがえてばらばらにやるからで、各社合わせて1回にやろうという声はいまだに出ていないらしい。ところが帯広の花火は地元のローカル新聞社主催にもかかわらず、札幌の3つの花火大会を合わせた分の倍の規模、北海道1という評判なのである。
 それならまあ一回くらいは見てみようか、というので3、4年前に1度出かけたことがある。ところが夕方宿について、会場はどこだとフロントで聞いてみると、きょうの花火は中止になりましたという。夕方から雨になるという予報だったので、はやばやと中止にしてしまったらしいのだ。泊りがけでわざわざやってきた当方こそいい面の皮である。しかもその日は雨など一滴も降らなかった。
 そういう前歴のあるいわば恨みの花火大会。それでもう1回出かけてみたのである。それが13日のこと、おりしも盆休みの真っ最中だ。ふだんならこんなときは絶対に出かけないのだが、花火とあればこちらがあわせるより仕方がない。それではるばる出かけました。
 札幌から帯広までは距離にしておよそ210キロある。標高1000メートルの日勝峠を越える国道コースが最短で、道内で最も交通量の多いところだ。トラックが多いからあまり楽しい道ではないが、これまで少なくとも渋滞を起こしたことはなかった。よほどの重量物を積んだトラックでない限り時速70キロでは流れているからだ。ところがそれが、いくらも行かない夕張の手前で、もう数珠つなぎになって動かなくなってしまった。お盆のせいでたしかにふだんより車が多かったとはいえ、渋滞までは考えられない。平野がつきて山間にさしかかったばかり、川と鉄道と道路が平行して走っている一本道で、いつもだとなんの支障もなく90キロで走り抜けているところなのである。
 はじめは工事でも行われていて、一方通行規制が行われているのかと思った。ところがいつまでたっても工事現場らしいところへさしかからない。かといって、事故でもないらしい。止まったきりではなく、すこしではあるがのろのろと動く。一時は引き返して、並行して走っている高速道路に乗り換えようかとも思った。とにかく山のなかで、情報がまったくないから皆目わからないのである。
 そのうち、ひょっとするとこれは自然渋滞ではないかと気がついた。それですごくいやな気分になった。なぜなら自然渋滞だとすると、そういう原因を起こしそうなところはひとつしかなかったからだ。夕張市内へと向かう三叉路の分岐が途中にある。あるいはそれかもしれないと思ったのだ。しかしまさか。そこはまだ15キロも先だったのだ。東京近辺の話ならいざ知らず、ここは北海道である。こんなところで渋滞が起こったという話など聞いたことがない。
 ところが不幸にもその予感は的中した。まさにその通り、その信号ひとつのために、延々15キロを超える大渋滞が起こっていたのである。なんとそこを通りすぎるだけで、まるまる1時間30分を費やしてしまった。この分岐、通行車の9割くらいまでは直進する。つまり帯広方面へ向かう車が圧倒的に多い。札幌から夕張へ向かうにはもっと近い道があるからだ。したがって信号を操作するなり手信号に切り替えるなりして直進車を優先的に流してやったら、たちどころに渋滞など解消するところなのである。ところがさすがは道警、まったくの無為無策、現場には警官ひとりいなかった。こういう渋滞など予想もできなかったからだろうとは思うが、現場に即した対応が取れない以上無能といわれても仕方がない。
 この日はもう一ヶ所、その先の日高町というところでも第2の渋滞が起きた。ふたつの国道が十文字に交差しているからで、山のなかの小さな町にもかかわらず、信号がいくつかある。そのためののろのろ運転。このときの渋滞は5キロ、通り抜けるのに30分かかった。結局いつもなら4時間あまりで行ける道を6時間40分かかった。花火は見たが、そんな印象などこの渋滞で吹っ飛んでしまった。
 それに懲りてというわけでもないが、翌日は襟裳岬寄りの日高の山のなかを通るルートを選び、遠回りして帰ってきた。道中の大半が茫漠とした樹林や原野や牧場。1時間走りに走ってコンビニ一軒すらない道がほとんどである。行きのほぼ倍、380キロ走った計算になるが、これでいくらか溜飲が下がったことはたしか。しかし北海道でこれほどの渋滞に巻き込まれるとはなあ。

2004.8.10
 6日つづいた真夏日からやっと解放された。ありがたいことに空気まで乾燥してきた。きのうまでとは打って変わった快適な暑さである。北海道の夏はやはりこうでなくっちゃ、と思ったら大通り名物のビヤガーデンはもうきょうで店じまいだとか。北海道の夏は短いのである。
 やがてくる冬に備え、きょうはかねてから懸案だった給湯暖房用熱源機の取替え工事をしてもらった。大型のガス湯沸し機のことである。これひとつで台所と浴室、洗濯機の給湯、4つの部屋の暖房すべてをまかなっている。冷房はなくとも暖房装置は強力なものがついているのだ。
 ところが築後20年というマンションの悲しさ、設備が老朽化してこのところだいぶ具合が悪くなっていた。シャワーを使っていると途中から水になったり、なかなか湯が出てこなかったりと、ものすごく使いづらくなってきた。一方でわたしが使っている部屋のパネルヒーターは断熱が不完全。台所や浴室で湯を使っているとその余熱がもろに伝わってきて、夏といえども暖房状態になってしまうのだ。それで新しいタイプのものに取り替えてもらったのである。
 工事がまる1日かかるというからずいぶん大げさだなと思った。ところが給湯機だけ取り替えればいいというものではなかったのだ。4つの部屋のパネルヒーターまですべて取り替えた。これまでのヒーターは長さが2メートルからあり、窓側の空間をほぼ30センチ幅で占有していた。これが一変して家庭用空気清浄機か除湿機くらいの大きさになった。
 ただそのためには新しいパイプを床下に通さなければならない。畳を剥ぐというから全部かと思ってぎょっとしたが、2箇所でよかった。そこの床板を一部切り取り、そこからパイプを差し込み、引っ張り出してつぎへ送ってゆくのである。
 マンションの床がどういうふうになっているのか、今回はじめて見たのだが、音を遮断するためだろう、床板がコンクリートの床から6、7センチ浮かしてあった。その下に旧設備のパイプが通っていたのだが、それはそのままで直径5センチくらいのプラスチックパイプあらたに通した。さらにこのパイプの中にもう1本パイプを差し込んでいった。このパイプには穴が2本開いていて、そのなかを熱源機で沸かした湯が循環するのだとか。部屋にはその熱をファンで送り出す装置とスイッチさえあればいいわけで、これが小型化の最大の要因となっていた。ただこれでは大がかりな工事になるはず。見ていてむしろよくぞ1日ですんだものだと感心した。
 9時からはじまって5時には終わった。目障りなパネルヒーターが消えてどの部屋も確実にひろくなった。ただ熱源機のほうは完全にブラックボックス化してしまい、こちらが操作したりのぞいたりする必要はなくなった。それを格納した部屋は開かずの間となり、スイッチまで年中入れっぱなしのままだ。長期間留守にするときも、転居するときも、このスイッチは入れたまま。冬になると凍結防止のための熱量まで自動的に発生させるそうで、それはそれで評価できるのだが、使わないときも電気やガスを使いっぱなしというのはどういうものかと、古いタイプの人間としては多少引っかかりをおぼえなくもない。とにかく快適に湯が使えるようになって、さあこれでいつ寒くなってもいい備えはできたことになる。

2004.8.1
 暑い暑い。毎回同じことを繰り返しているようで気が引けるが、とにかくぼやかずにいられないくらい暑い。きのうきょうと気温が32度を越し、これでことしの真夏日がもう7回になった。冷房のない生活だと、やはりこたえる。おまけにひどく蒸し暑いのだ。気のせいでなく、ことしは例年になく不快指数が高いと新聞が報じたばかりである。
 日中の気温がこれくらい高くなると、街路が熱せられて、夜になってもそれほど気温が下がらなくなる。風が通るようマンションの廊下から前後の窓まで開け放しているのだが、今夜はその風もまったく吹かなかった。暑苦しくて寝る気にもなれない。それでにわかに思い立ち、夜の11時すぎから映画に行ってきた。
 外に出ても空気が生暖かく、あまり涼しい感じはしない。帰るときは1時半をすぎていたが、同じ、まあなんとかすごせるという程度である。人気の絶えた街のなかをとぼとぼ歩いているうち、はからずもむかし、冷房というものがなかったころの夏を思い出した。あのころもやっぱり夏は暑く、夜になってもなかなか気温が下がらなかった。しかし夏はこんなものだと思っていたから、それほど苦にはしなかったように思う。冷房のあるのが当たり前という生活に慣れすぎてしまい、躰が環境に適応できなくなりつつあるようだ。ということは、生きものとしての退化現象ではないかという気もするのである。
 それはともかく、年とともに躰が変調をきたしてくるのは避けられないみたいで、しばらく前から、目の中に糸くずみたいな紋様が漂うようになった。右のほうから目の真ん中まで出てきて、それからまた引っ込む。こんなのははじめてだ。かみさんにいうと、それ、飛蚊症でしょう、だれにでもあるわよ、と一蹴されてしまった。ヒブンショウとはよく言ったもの、まさに蚊が飛んでくる感じなのだ。しかしそんな名がついているなんてまったく知らなかった。
 一時的な現象だとは思うが、なにぶん目のことだからなにかの前兆だったら困る。というので病院へ行ってきた。するとやはりただの飛蚊症だといわれた。要するにこれまで目の隅で飛んでいたものが、真ん中まで出てくるようになったから気になりだしたにすぎない。目に異常はないというから安心して帰ってきた。そしたら今週から、これまで右目だけだったものが、左目にまで出てくるようになった。あわせて2匹の蚊がうろつきはじめたのである。じつは医師から「いまのところ異常ありませんから、しばらくようすを見てみましょう。左目にまで出てくるようになったらまた来てください」といわれて戻ってきたのだ。なんとなく釈然としないまま、以来2匹の蚊とつき合っている。
 なお今夜見てきた映画はタイのムエタイ映画「マッハ」でした。ジャッキー・チェンとはちがった面白さ。理屈ぬきの、消夏法としてはおすすめの映画です。

2004.7.25
 暑い暑い。湿度が高いから吹いてくる風まで熱風だ。一昨日31・9度、昨日32・9度、きょうも30度を越える予報。東京の39・5度を笑っていたら、足元に火がついてしまった。昨年は30度を越えた日が1日もなかったのだから、これがいかに異常な高温かおわかりいただけるだろう。しかもまだ7月なのである。8月が思いやられる。
 なにしろクーラーがないのだ。5年前に越してきた年が異様な猛暑で、30度を越えた日が8月に14日もあった。あのときの再来になるのではないかといまから戦々恐々としている。
 きのうはかみさんにつきあい、ヘルシーウォークというのに参加して室蘭まで行ってきた。JRが主催しているイヴェントで、週1回各地にコースを設定、参加した回数に応じて賞品がもらえる。わたしは今回はじめて参加した。室蘭そのものは2回目。市の外周を形成している海岸線が風光明媚なので、それでつきあう気になったものだ。海沿いの丘陵を中心に13キロばかり歩いてきた。最高部は標高が100メートルからあって、登りではたっぷり汗をかかされた。しかも海はべたなぎ、断崖に出ても風がまったく吹いてくれなかった。
 しかし思いもよらない収穫もあった。山中のいたるところに桑の木が自生していて、桑の実が黒く熟していたのである。小ぶりな実だが味は上等。たらふくとまではいかなかったが、指の先が赤くなってしまうくらいもいで食った。桑の実を食ったことなど何年ぶりになるだろう。かつては田舎の子のいいおやつだった。食うと舌が黒く染まってしまう強烈な鮮紅色をしている。それで思いついたのが、これでジャムをつくったら極上のヨーグルトソースになるのではないかということ。
 前に書いたが年に1回田舎からヤマモモを送ってもらい、ジャムにしてヨーグルトソースとして楽しんでいる。それがことしもあとすこしで終わりかけているのだ。桑の実の鮮やかな紅色は、ヤマモモのそれにけっして負けるものではない。ブラックベリーみたいに実がざらつかないからジャムにしたら口当たりだっていいだろう。容器があったらウォークラリーそっちのけで摘んでいたのだが、あいにくなにも持っていなかった。それで後髪を引かれながら帰ってきた。いまもって残念である。北海道にも桑があるとは知らなかったのだ。
 それともうひとつ、新しい発見をした。グミがみのっていたのである。グミまで自生していようとは思ってもみなかった。グミの木はよく海っぺりで自生しているように、だいたいが暖地系の植物だろうと思っていたのだ。帰って調べてみると、北海道にも1、2種類は分布しているようなのである。今回見つけたのはトウグミ。それほどうまいグミではなく、高いところにあったから実も3粒しか取れなかったが、なんとも懐かしい味がした。多摩に小さな家を構えたとき、庭へ真っ先に植えたのが柿の木とグミの木だった。庭の面積に比べて木が大きくなりすぎ、どちらも伐らざるを得なかったのがいまもって悔しい。
 クルミもいっぱい実をつけていたし、ヤマブドウも無数に自生していた。秋になったらまた行きたい。なりもののみのる秋の山くらい好きなものはないのである。

2004.7.17
 20日ぶりにクソ暑い東京を脱出、やっと涼しい北海道へ帰ってきた、と思ったらそうは問屋が卸さなかった。翌日から一気に30度まで気温が上がり、しかもけっこう蒸し暑いのだ。なんで北海道へ帰ってきてまでこんな目に遭わなきゃならないんだ、と怒りまくったが、翌日はもう日帰り温泉にでかけて行き、それなりにしっかり憂さは晴らしてきた。
 そしたらきょうも暑いのなんの。と思ったら昼に珍しく雷雨があり、1時間くらい気持ちよく降った。ところがあとがいけない。それで本来なら涼しくなるはずが、風がなくなってかえって蒸し暑くなってしまった。気候がだんだん本州に近づいてきつつあるみたいで、なんだかひじょーに気に入らない。
 そうそう、鼻の手術の結果は良好でした。これでしばらく経過を見ましょう、といわれたから早速その翌日帰ってきたのである。
 しかし日本に限らないが、これほど温暖化して気温が上がってくると、将来はどうなってしまうんだろうと強く懸念せずにいられない。日野に帰っていたときつくずく思い出したのだが、わたしが多摩へ越した30年前というと、あの辺りは夏でも扇風機がいらないくらい涼しかった。その代わり冬は寒くて雪がよく降り、一度降るとなん十日も消えなかった。年末になると決まってうっすら雪化粧をし、ああ、これでことしも根雪が降ったなどといったものだ。いまはむろん、ほとんど降らない。降っても翌日に持ち越すことはまれになった。
 ことしは梅雨前線が東北に居座って大雨を降らせつづけているが、その前線が年々北上しているような気がしてならない。函館をはじめとする道南地方は、いまにも梅雨の気候圏に組み入れられてしまいそうなのだ。そういえばことしの6月は、梅雨じゃないかといいたくなるくらい長雨が降った。北海道には梅雨がないという神話も、あと10年くらいでくずれてしまいそうな気がする。
 もう日本は亜熱帯に入ってしまった、という認識がそろそろ必要なのではないか。日中の気温が35度にもなると、戸外のビル街は照り返しで40度をはるかに越えてしまうはずだ。そういう炎天下をサラリーマンが背広にネクタイ姿で右往左往しているのは、どう見ても正気の沙汰とは思えない。この時期にこんな服装を要求されるとしたら、まるで奴隷ではないか。そういう服装コードは、運転手つきの車で戸外を移動している階層が実施すればいいのだ。服装をもっとゆるやかに、ふつうのサラリーマンは上着やネクタイなどいらない。と主張したいのだが、わたしなんかがこんなことをいったところで、まず共感は得られないでしょうなあ。

2004.7.10
 それにしてもなんというクソ暑さだ。東京で30年暮らしているから慣れているはずなのに、いまはどうしても北海道と比較してしまう。きょうの最高気温が東京35度、札幌21度、だが湿度が全然ちがうとなると、この差はべらぼーに大きい。東京の夏というのは、わたしに言わせたらノーミソが溶けて流れ出さないのが不思議という暑さである。
 その東京になんでいまごろいなきゃならないか。それもこれも花粉症撲滅のためで、あと1週間はこの我慢がつづく。さいわいその後の鼻の経過は順調で、いまではふつうの状態にほぼもどった。当初3種類もらった薬も、はじめの二日くらいはまじめに飲んでいた。しかしよくなったらたちまちいい加減になり、以後まったく飲まなくなった。きのう、もう捨てようと思って袋から取り出してみると、ひとつの薬だけばかにたくさんある。袋を見てみると2週間分とある。するとこの薬は毎日3回、毎食後飲まなきゃいけない薬だったのか、とはじめて気がついた。じつは何といわれてもらったのかまったくおぼえていないのだ。しようがないから捨てるのはやめ、また1日に1回くらい飲みはじめた。薬をきちんと飲むなんてことは30年以上やったことがないのである。
 暑いので外には出ず、殻を閉ざしたサザエみたいに閉じこもっている。熱風が入ってくるから戸も閉めたきりだ。この10日間で、人と会うため都心に出かけたのが2回。で、家で何をしているかというと、おとなしく仕事をしている。これが思いのほか快適なのである。なんせ24時間をどう使おうが、なんの制約も受けない、まったく自由なフリータイムなのだ。寝たいとき寝る、起きたいとき起きる、腹が減れば食い、疲れたらごろんと横になって本を読む。まさに晴耕雨読。しているのが仕事、というのがちょっと癪だが、なんとも理想的な日々ではないか。ということで毎日がまことに楽しい。あとはひたすら、このもの静かで充実きわまりない時間がすこしでも長くつづいてくれるよう祈るばかりである。
 となんだか夢のような生活なのだが、泣きどころがないわけじゃない。めしである。腹がへったら食わなきゃならないのは人間の道理。それがひとりだと食えないのだ。冷蔵庫が空っぽだし、近くには店がない。おまけに出かける足、つまり今回は車もない。そば一杯食おうとしても電車に乗って出かけなければならない。日中はこの暑さだから買い置きのパンやバナナやヨーグルトを食ってしのいでいるが、それでは身が持たない。1日1回はきちんとしためしを食わないとエネルギーがわいてこない。それで日が落ちて、やや涼しくなったころを見計らって外めしを食いに出かける。
 食事制限をしなきゃならない身だから本来なら野菜や魚中心の和食にすべきだろう。だがさいわい、いまはそういううるさいことをいう人間がそばにいない。たとえ1食で1000キロカロリーをオーバーしようが、あとの食い物さえ減らしゃいいだろうと、これまた勝手な基準を設けて食いたいものを食っている。早く言えば肉中心だ。先日は出版社との打ち合わせがあり、そのあと食事を馳走になった。先方は和食を考えていたようだが「どんなものがいいですか?」と聞かれたからためらわず「ニクー!」と叫んでしまった。おかげで何年ぶりかのイタメシにありついた。
 今夜食ってきたもの。信州豚のしょうが焼き丼。さあ、あしたはなにを食おう。

2004.7.2
 東京へ帰ってきている。2年越しの念願だった花粉症治療をうけるために帰ってきたもので、30日にその手術を受けた。鼻の簡単な手術で、入院する必要もないといわれていたからかなり安直に、しかもこちらの都合のいいように考えていたところ、実際はそんなに甘いものではなかった。手術の同意書を書かされたり、何回か通院が必要だったり、個人差が強いから必ずしも万全というわけではないという説明をうけたりして、ああ、そうか、これは病気の治療だったんだ、とはじめて実感したんだから、わたしのほうがなんともいい加減だったわけである。
 手術そのものは鼻の穴に麻酔をかけて薬品でなかを焼くだけ。麻酔が効いてくるまでの時間を除けば5分くらいですんだ。ところがそのあとが思いのほか大変だったのだ。鼻というものは脳と直結しているだけに、頭がどろんとしてなんとも気分がよろしくないのである。おかげでその日は何もできず、帰ってからもいちんちじゅう寝ていた。眠ってしまうにかぎるのである。なぜかというと、目が覚めたらたちまちハナミズが出てくるからだ。それもずるずるととめどなく出てくる。しかも最初の日は鼻をかんだらいけないと言われていた。ティッシュで拭き取るだけにせよというのだ。
 拭き取るぐらいじゃとてもおっつかないのである。ハナミズというより鼻の穴から水滴が垂れ落ちてくるといったほうが早く、それこそぼたぼたと際限もなく落ちてくる。業を煮やしてティッシュをまるめて押し込み、鼻の穴をふさいでしまうことまでやってみた。ところが10分もすると、それもじゅくじゅくになってあたらしいティッシュが必要になってくるのである。とてもじゃないが見られたざまではなかった。
 ふつかめ以降は鼻をかんでもよいということで、まだしもしのぎやすくなったが、気分がよくないことと、ハナミズが垂れ落ちる現象とは、3日目になるきょうも基本的に変わっていない。よくよく考えてみたら、季節遅れの花粉症にかかってしまったも同然、まったく同じ症状を呈している。これでほんとに来年から、この悩みから解放されるんでしょうね、と念を押したい気分である。

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